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カテゴリ:<古墳>手光は宮地嶽へ( 32 )

湯の隈装飾古墳・被葬者は宮地嶽神社を守っているのか


湯の隈装飾古墳

朝倉市宮野湯ノ隈1326-2
被葬者は宮地嶽神社を守っているのか

さて、朝倉の装飾古墳の続きです。



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前回の狐塚古墳という線刻画の装飾古墳を後にすると、視野に入って来たのは面白い山。
気になる形!
ラグビーの松島幸太朗選手のヘアースタイルとそっくり♪


この山は宮地嶽(みやじだけ)と言います。


宮地岳(嶽)は福津や阿志岐などを紹介していますが、ここは朝倉。朝倉にも宮地嶽があったんです。同じ名前の山は他に糸島にも。

「宮地の星」と言ったら北極星のことです。すると、その南に山と星を見る地点があるはずなので、神社や祠が残っているのではと予測しています。

ちなみに、阿志岐の宮地岳の場合は高良山から見て真北になります。高良山から北極星を見ると、その真下に宮地岳があるという訳です。



話を戻しましょう。
朝倉の宮地嶽には中腹に湯ノ隈装飾古墳がありました。




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6世紀後半の円墳です。築造時直径は20メートル、高さ4メートル。



6世紀後半という時代は、磐井の孫が活躍する時代になります。葛子の子の勝村・勝頼が福津の宮地嶽神社を拠点として活躍。

同じく葛子の子の鞍橋(くらじ)の君は百済に進軍して王子余昌と共闘。

それから8年後に伽耶諸国は滅亡。589年には隋が興っています。こんな時代を生きた人がここには葬られています。





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入り口は施錠されています。
筑後国造さんが、役所から鍵を借りて来てくれていました!!!!

入ります!





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狭い。低い。
匍匐前進です。
これは複式の横穴式古墳で、前室、玄室から構成されています。


中に入ると高いですが、奥壁全体の様子は取り忘れ!





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でも、装飾画はバッチリです。特殊なライトのお蔭で上手く撮れています。
赤と青?の同心円がよく見えます。右の壁にも色が見えていますね。




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画像を小さくして、シャープに加工すると、くっきりとしてきました。




説明板には
「玄室の奥壁および玄門の左右に赤色をおびた同心円がかすかに残っており、筑後川の以北に存在する数少ない装飾古墳のひとつである。」と書いてあります。




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これは、どこの画像か記憶になし。縦か横かも不明です(^_^;)
でも、四角の文様が見えます。右下には円。




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画像を小さくしました。









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そしてシャープに加工。上には縦筋が何本もあるのが浮き出て来ました。
かなりゴージャスなデザインだったようです。





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天井からは水が。ブレてますねえ。

この水を見て、この古墳はかなりの土砂が堆積しているのに気付きました。




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そう、福津市の宮地嶽古墳もまた、開口した時、90センチほどの土砂が堆積していたのですが、その話をここでリアルに体験したのでした。



今観察している画は上部の画であり、土砂を除けばまだ装飾画が残っている可能性があります。そして、副葬品もまだ残っているかも知れません。

(福津の宮地嶽古墳は、土を掻き出したら3mを超す金メッキの大刀が出て来たのです)

こう考えると、大変貴重な古墳だということが分かります。

この古墳の装飾画の復元は蕨手さんが試みているので、ご興味のある方は以下のリンク先へ。



http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51425257.html


一つの古墳の壁画の復元だけでも、相当の時間と労力が必要だったのが、よく分かりました。筑後国造さんと蕨手さんの研究は日本にとって、大変貴重なものです!




さて、これほど貴重な古墳も普通に開口していますが、開口したのは江戸時代のことです。この時代に、福津の宮地嶽古墳や、櫻井神社の古墳など、次々に開口しているのも面白いですね。



そして、るな的な謎解きは神社の縁起からのアプローチとなるのですが、すぐ東に湯隈神社があります。しかし、『福岡県神社誌』には掲載されておらず、祭神は不明。この神社は古墳と深い関わりがあるはずなので、情報があれば教えてください。



地名の「湯の隈」の「湯」とは温泉というより、「鉄が溶けている状態」を指し、「隈」とは天文観測用語でもあることから、この神名備山は古代の製鉄や天文観測の重要な山だったのではないか、とも思われます。


そして、山名が宮地嶽ということからは、安曇族との関連を予想するのですが、山頂には宮地嶽神社があり、祭神は「神功皇后、勝村、勝頼」ということで、福津と全く同じ祭神となっています。

「勝村・勝頼」は「阿倍姓」や「藤姓」、各地でどちらでも書かれています。

そして、この湯の隈古墳の被葬者の生きた時代は「勝村・勝頼」の時代なので、山頂の二柱は、神功皇后以外は被葬者の時代に初めて祀られたということになります。


誰もが「勝村・勝頼」を祀れるわけではないので、この山を安曇族が支配していたのは間違いないでしょう。

湯の隈古墳の被葬者は山頂を守るために中腹に眠っているのかもしれません。そうすると、被葬者は安曇族?

古賀市の船原古墳より少し前の人となります。

このあと、この地域に安曇、阿倍の痕跡を次々と見出すことになりました。これはその序章かな。
次回は頂上の「宮地嶽神社」へ!もちろん、ここは朝倉市です。



湯の隈装飾古墳





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by lunabura | 2015-10-05 21:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

狐塚古墳(2)昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


狐塚古墳(2)

昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


手元に『埋もれていた 朝倉文化』(福岡県立朝倉高等学校史学部)という本があります。ふと、本棚から出したのですが、そこに狐塚古墳の記事がありました。

この本は、朝倉で整地、開墾が次々と行われるなか、高校生が調査して書き遺したものを一冊にまとめたものです。

そして狐塚古墳については、当時天井石を失ってはいたものの、おびたただい出土品があり、多量の武器、馬具、須恵器、はては北宋銭や石鍋、石硯などが記録されています。

土器には弥生土器も混じり、平安土器、北宋の白磁、南宋の青磁などが含まれています。北宋銭は真書の天聖元宝(1023年)が二枚です。

天井がないことから、違う時代のものが混入したのか、あるいは400年後も扉が開けられて奉納されたのか、全く不明ですが、この地が中国と交流を持っていたことを物語っています。

筑後川を下って大川の風浪宮に着けば、その近くに榎津という国際港があるので、珍しいものが直接入って来ている可能性があります。

出土品には釘が多数出ていることから、木棺だと分かっています。その分布からはやはり複数の木棺が置かれたもようです。

そして、本には奥壁の鏡石に書かれている船の詳細な絵図が掲載されていました。
それは、前回紹介した看板の画とは全く違っていました。



衝撃の壁画です。







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これは渡来人でしょうか、二人は明らかに別の人種と思われます。
左の人物はタッチが違うので、後世に書き加えた可能性が大きいです。
人物は船から降りています。屋形がある大きな船で、左下の小船と比べるとその差がよく分かります。有明海から入ってきたのでしょう。船の右手にびっしりと彫られた格子は、現代でもまだ目視できました。が、人物の部分は船のラインがわずかに見えるだけです。



次は同じ部分の看板のイラストです。


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何故、あれがこのような壁画とされたのか、理由は不明ですが、詳細は昭和29年3月「福岡県文化財調査報告」第17輯に載っているそうです。



狐塚古墳は出土品が多いので、専門家によって、もっと時代が描きさせるのではないでしょうか。
周囲の古墳が赤や青で描かれているのに対し、これは特殊なもののようですが、専門家なら円石室の分布とともに、明らかにできるものではないでしょうか。

この古墳はもっともっと評価されるべきものと思われました。





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by lunabura | 2015-09-25 22:34 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

狐塚古墳(1)・線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


狐塚古墳(1)

朝倉市入地2741?
線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


前回まで、うきは市(浮羽)の神社と古墳について書きました。

八咫烏の発祥の賀茂神社があり、的物部などのような古代豪族たちと、絢爛豪華な装飾古墳群が特徴の地域でした。

これは筑後川の左岸に展開した遺跡群ですが、今回はその対岸にある朝倉の古墳の話です。

狐塚古墳と言います。リンクしている筑後国造さんの案内で実際に石室を見学することができました。
役場との調整によって石室を見ることが出来るとはいえ、その準備や手間を思うと、感謝に堪えません。

浮羽の古墳群を書いたあとなので、朝倉と浮羽の違いがよく分かります。

印象を先に述べると、浮羽の石室は長方形のプランで、色彩は赤や青の力強くて華やかなカラーの装飾です。個人的には、佐賀の太田田代古墳や飯塚の王塚古墳と共通するものを感じます。

ところが、この狐塚古墳の石室は円構造で、装飾画は線刻です。別の文化圏ではないかと思わせるほど、差があります。

それでは写真を見ながら紹介しましょう。



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この古墳は石室がすっぽりと建屋で覆われています。









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ドアを開けるとこのような光景が目に飛び込んできます。無残にも天井石などが抜かれて(?)しまっていますが、全体構造がよく分かります。奥が玄室、手前が前室、右手が羨道となっています。

とても広いので、一目見て、テンションが上がりました。





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これが平面図です。玄室が丸いです。前室も、上から見たら丸く見えました。石の重力をどうバランスするかが石工の腕の見せどころでしょうが、かなり広い玄室の天井をどうやって組んだのか、もう知ることはできません。






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前室から玄室を撮りましたが、壁が整然としていないのが特徴です。正面の茶色の丸い形の石が奥壁の鏡石で、ここに船の線刻画がありました。







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舳先(へさき)と艫(とも)が二股になっています。底が平たいので、川船です。櫂(かい)も描かれています。朝倉舟と言っていたのがこのタイプかもしれません。

これを見ると、対岸の浮羽の豪族たちとは全く別の豪族だということが分かります。





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他に馬や不思議な線刻などがあります。






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これは羨道の方を撮ったもの。丸石で重ねた所は多分、現代の加工。上方の白い部分は建物の壁です。
床のまな板のような石にはホゾがあります。





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これは初めからあったものです。
つまり、ドアがあったということになります。穴は片方だけなので、片開きのドアです。

宮地嶽古墳にも扉があったのですが、それは枠が造られていました。

追葬したり、祭祀したり、横穴石室は、一族の祭事の中心だったと考えられます。


時代は1400年前、すなわち600年頃だそうです。出土品にはベルトのバックルや馬具などがあり、甘木歴史資料館の資料には7世紀初め頃のものと書かれています。出土品が何処で見られるのかは書いてありません。


大体600年~610年頃と仮定しましょう。筑紫では何が起こっているでしょうか。

600年に倭王阿毎多利思北孤が遣隋使を派遣しています。
607年には阿毎多利思北孤の送った国書には有名な「日出處天子」とあります。これを学校では聖徳太子だと習いましたが、どうなってるのでしょうか?

倭王阿毎多利思北孤と聖徳太子では身分が違うし、天皇は女帝・推古天皇なので、性が違います。
こんなところで、日本の正しい歴史が何なのか、つまづくとは (´・ω・`)
倭王朝と日本王朝という二元の王朝の併存をありのままに捉える事が必要のようですね。

話が逸れないように、戻りましょう。


さて、602年には来目皇子が新羅と戦うために筑紫に来て、翌年糸島で亡くなっています。
この時、佐賀の綾部では盛んに武器を造りましたね。

この狐塚古墳の被葬者は来目皇子と同じ頃に亡くなったことになります。
そして、あの埋納坑のあった古賀市の船原古墳もこの時代になります。

この狐塚古墳の遺族は古墳に船と馬の画を描かせました。死者に捧げる画です。
まさに、筑後川での営みそのものです。

この巨大な円墳に埋葬された人は、ここ、「入地」の支配者なのでしょうか?

「入地」といえば、私には思い入れがあります。
『神功皇后伝承を歩く下巻』を書く時、朝倉市に問い合わせてまで、調べたかった事があったのです。

「入地」は、神功皇后が羽白熊鷲を滅ぼして山を下って来た所にあります。

皇后は兵士たちに武器を研がせ、漆で錆止めをさせています。
その場所が徳次(とくつぎ)、塗器(ぬるげ)という地名で残っているのです。

その地名が何処にあるのか、検証しておかなければならなかったので、市に問い合わせました。そして、分かった場所を下巻の9ページに書いています。

朝倉市からの報告を見て私は驚きました。
二つの地名は太刀八幡宮(52番)と福成神社(53番)の間にあったのです。
この二つの宮はどちらも祭神が三女神なのです。

ここ筑後川流域は水沼三女神です。これに加えて軍事訓練の伝承があることから、「入地」は水沼水軍の軍事訓練所だったと推定しました。この狐塚古墳は上記の二つの宮を直径とした円内に入るのです。

神功皇后から400年経ってはいますが、水沼水軍が他に滅ぼされない限り、この狐塚古墳の被葬者は水沼族に関係のある豪族だと推定できます。

この古墳が出来て60年ほど経った661年。
斉明天皇がすぐ近くの朝倉橘広庭宮で崩御しています。

斉明天皇は朝倉に到着すると、ただちに朝倉の宮地嶽神社と福成神社に参拝しています。視点を変えれば、天皇の御幸の手配をしたのは地元の豪族のはずです。





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これは古墳の正中線の先に見える風景です。
見える範囲に朝倉橘広庭宮は存在し、殯(もがり)の宮もあります。
この古墳の「被葬者の末裔」は広庭宮の造営を見ていたかもしれませんね。


追記
この記事を書いた翌日、昭和29年の実測図が見つかったので、次に紹介しています。
このため、少しこの記事を書き換えています。



狐塚古墳 


地元の方、位置がずれていたら、教えてくださいませ。





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by lunabura | 2015-09-23 23:59 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

珍敷塚古墳・天鳥船の壁画だけど外観のみ


珍敷塚古墳
めずらしづかこふん
 外観のみ


前回の浅田古墳群から西、久留米方面へ約6キロの所に、珍敷塚古墳があります。6キロという距離は氏族も別になるでしょうが、例の天鳥船があるので、現地を確認しに行きました。

前回、資料がないとボヤキましたが、うきは市の観光協会から戴いた資料の中に、「うきはの装飾古墳」という優れ物が入っていました♪

発行は、うきは市教育委員会です。重定古墳の壁画は、ユギがずらりと整列している様子が飯塚の王塚古墳に似てたり、行けなかった楠名(くすみょう)古墳の入り口が福津市の手光古墳と似てたりしていて、ワクワクしてます。

で、本題の珍敷塚古墳ですが、石室は見られなくても、福岡県大阪観光協会の発行したリーフレットに載っていた、あの天鳥船の現場ということで、行ってきました。
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あれ?
あれれれれ?
あれじゃない?
行きすぎました!

古民家カフェのような瀟洒な看板があって、通り過ぎながら「珍敷塚古墳」の字を確認。
車をバックさせて、現地に立ちました。

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ここは屋形古墳群と言って、四つの古墳があるということです。

壁画を観察すると、珍敷塚古墳と原古墳、鳥船塚古墳の三つが「ミサキ鳥」を舳先(へさき)と艫(とも)に一羽ずつ乗せて、帆柱などが描かれています。

エジプトのラ―の船と共通する画があるのはここです。
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(福岡県大阪事務所発行 無料で送ってくれますよ)


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この古墳は小さな家屋で墳丘もなく、古墳には見えないので調べて行くと、破壊されていて、奥壁だけが残されたもようです。

当地はフルーツ観光で有名ですが、造園業も盛んなので、古墳を壊して畑に造成し、石は庭石に使われていったのではないかと思います。


小郡市では、家の塀代わりにおびたたしい数の石室っぽい石が山積みされているのを見ました。

ここも、石を持ち去ろうとした時、この画の躍動感にただならぬものを感じた人が残してくれたのでしょうか。

この天鳥船のモチーフを描いた古墳が三つ並んでいる点では、一族の墓が次々と造られたんだろうなと、想像させてくれます。




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少し離れて写しました。裏手に三つの古墳が並んでいるはずです。少し坂になっていました。もう暑くて断念。

冊子からは、珍敷塚古墳の次の世代の人は力不足で、モチーフを描くのがやっとという印象を受けます。逆の意見を持つ人もいるかも。
四つ目の古畑古墳の絵は日岡古墳と似たタイプだと指摘されています。

時代については記述がないので、想像することが出来ません。








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これは反対側の風景です。

果樹園の先に立つと、筑後平野が見渡せます。筑後川は一夜川というほど、流れが変わる川で、いつも氾濫しました。

正面の山並みは朝倉です。3世紀の初頭まで羽白熊鷲が活躍し、神功皇后に滅ぼされました。それから400年以上経って、斉明天皇が神功皇后の足跡で祈り、朝倉橘広庭宮を造りました。

この珍敷塚古墳の被葬者はその間の人です。
周辺の神社は鷹取宮、天満宮、熊野神社、宮地嶽神社。

何か手掛かりはないか。
やっぱり歩かないと駄目ですね。



珍敷塚古墳







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by lunabura | 2015-09-19 23:03 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(10)

重定古墳と塚花塚古墳・同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


重定古墳と塚花塚古墳

うきは市浮羽町朝田
同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


前回の高御魂神社から新川を下り、賀茂神社前を通って西に1キロ進むと、有名な装飾古墳群に出ます。

今回はその内、重定古墳塚花塚古墳を見つけることが出来ました。
どちらも道路沿いにあったのですが、初めてだと、見つけ出すのが大変なのが古墳巡りです(^_^;)

でも、古墳の被葬者は神社にお参りしていたはずなので、歩ける範囲に古墳があるなら要マークです。しかも、装飾古墳♪

まず、重定古墳を見つけました。

重定古墳
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で、右手にあった石段を上ると何故か現代のお墓。



これ以上は進めず、訳分からず降りました。
ネットで見ると、もっと広い石段があり、頂上に出ることができそう(/・ω・)/
――先達は あらまほしきなり。

これは前方後円墳だったのが削られて、後円部が残っているそうです。
時代は6世紀後半。
磐井の乱の傷も癒え、宮地嶽の勝村・勝頼が活躍している時代。
阿毎多利思北孤や聖徳太子がそろそろ活躍しようとしている頃かな?


装飾古墳の絵柄も分からないですが、石室の写真を「うきは市の文化財」から。




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迫力がありますね。
天井石は一枚石だそうです。








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看板を見ると、双六のように、塚花塚古墳への道が。三歩進め、てか?



塚花塚古墳
つかはなづか

すぐ近くにありました。



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古墳の全景です。円墳だそうです。

ここには看板がありました。





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馴染みの絵図がありますが、全体のデザインが分かりません。


佐賀の田代太田古墳などのように、壁画や石室などの画像つきの看板に進化してほしいですね。

こちらも手元の資料によると6世紀後半ということなので、さっきの重定古墳と同時期になります。
でも、石室の設計は全く違います。



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こちらは小さい石を積んでいます。


同時期で近所なのに、前方後円墳と円墳という形の違いもさることながら、石室の設計が全く違うということは、興味深いです。
二種の石工がいたということになります。

壁画のアイテムの共通項はあるようですが、現地では何も分かりませんでした。
比較したら面白そうですね。

あらためて、装飾古墳の本を探さないと分からないのでしょうか。
浮羽の装飾古墳が一挙に掲載されている本とか、あるのかなあ。




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これは古墳の西側の山を撮りました。鷹取山でしょうか?









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こちらは新川方面。一番左の木立が賀茂神社かな?
右手の山裾に三次神社があるのではないかなと思いますが、あくまで推測です。


とても良い環境ですね!




地図







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by lunabura | 2015-09-17 23:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(6)

装飾古墳の船・これは双胴船なのかな?


装飾古墳の船

これは双胴船なのかな?

明日は快晴の予報♪
北九州市で「神功皇后伝承の歩く」の上巻の話の日です。

明日のために画像を沢山用意していると以前書きましたが、装飾古墳の壁画も二枚出すのですが、立て続けに見た時、二つの壁画の「船」がそっくりだと気付きました。二枚の壁画とは中間市の瀬戸横穴墓第14号と宮若市の竹原古墳です。


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これは中間市歴史資料館内のレプリカ。本物は破壊。


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右の船が弓型で、舳先と艫が同じ形です。上部がフラットなのでどんな素材の舟かなとずっと考えていました。


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これは竹原古墳。パンフレットから取った画像です。船が赤色で、瀬戸横穴の船とそっくりなのが分かります。



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色処理をするとこんな感じ。同じ形ですね。そして、こちらの方は舳先(へさき)と艫(とも)がそれぞれ二股に分かれているのがくっきりと分かります。これはどういう意味でしょうか。


真鍋大覚の口伝を整理してみると、船の古代の呼称は「ダウ」型(タウ・タム・トホ・ドブ・ロブ)と「カウ」型(カウ・カラ・カラヌ)などがあります。
「ダウ」型は櫂(かい)で漕ぐ刳船(くりふね)。
「カウ」型は筏(いかだ)タイプだという所まで分かってきました。

一方、黄當時(こうとうじ)氏によると、ハワイ語でカウルアは双胴船だと書いてあります。(『悲劇の好字』より)「カウルア」は真鍋の伝える「カウ」と同じで、速く発音すると「カラ」と聞こえます。

黄氏の言う「双胴船」とは「連結した船」ということのようで、筏(いかだも)連結した船と考えれば、真鍋の伝える古代の日本語はハワイ語と同じものを指しているということが分かります。もちろんハワイ語は現代語。日本語は1000年以上も前の言葉です。

で、今日は何が言いたかったのかというと、遠賀川流域で二つの装飾古墳に描かれた船は、その形から双胴船で、「カウ」という船ではなかったかということです。

そして、それは葦舟だったのではと思ったのです。真鍋は葦舟について、「弓のごとくに舳と艫を中空に張り上げた形であった」と言います。のちに鯱鉾(しゃちほこ)の形になぞらえられたとも言います。そっくりですね。材料の葦は現地に山ほどありますし。

ということで、遠賀川流域で古墳時代に活躍した船は葦で造った双胴船で「カウ」「カラ」と言われたものだろうというのが結論です。

明日は船の話まで出来ませんので、備忘録として書いておくことにしました。

明日は、神功皇后の足跡を辿りながら、美しい福岡の山野や神社などを画像で紹介します。
では、明日、レトロな百三十銀行でお会いしましょう。
もちろん、飛び込みOKです♪


赤 中間市   青 宮若市



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by lunabura | 2015-02-13 19:54 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

鶴見塚古墳・葛子の墓を探しに行った


鶴見塚古墳

葛子の墓を探しに行った


今日は、葛子の墓を探しに行ってきました。
粕屋町原町に鶴見塚古墳があり、それが葛子の墓と言われているそうで、
撮影に行って来ました。

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前方後円墳ですが、形が分からなくなっていて、後円部と思われる所には昭和の墓が並んでいます。
墳丘を歩くとお墓だらけ。
撮影がはばかられました。

古墳から出ると、犬の散歩をされている殿方たちとバッタリ。
例の調子で尋ねてみると、ここが古墳とは聞いたことがなく、
ましてや葛子という名も聞いたことがないようでした。

図書館で尋ねても、葛子の名をご存じなかったです。
測量もされておらず、地元の史跡マップにも載っていません。

なんだか不思議な思いがしました。


古代の海に面する丘に作られています。
ヲホド王(継体天皇)に滅ぼされた磐井の君の子という立場を考えると
葛子が堂々と墓を営めたのだろうかと、立地的に疑問が残りました。

もし、葛子の墓だとすれば、寿墓(生前に作った墓)とでも考えないと、
あまりにも好適地。
葛子はここに埋葬できただろうか。

近くには志賀神社がありました。
安曇族の停泊する湊があると聞いていたのはこれでしょう。

再び会った散歩の方から「ここはスズメバチが沢山いますよ」
と最後に言われて、びっくり。 (@_@;)
冬でよかったです。

ここまで変形したなら、発掘して保存した方がいいのではと、
行く末が気になる古墳でした。
もし、未盗掘なら船原古墳並みの出土物があるはずですが…。

追記
江戸時代に一つは開口していたのが分かりました。


糟屋郡粕屋町原町





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by lunabura | 2014-02-21 23:08 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

破壊されているのは金武古墳群?


破壊されているのは金武古墳群?


福岡県の日向峠(ひなた)峠付近で破壊されている古墳群について、
ハコガメさんから「金武古墳群」ではないかというコメントをいただきました。

「金武古墳群」で検索すると、PDFが出ていました。
現地説明会が2013年7月27日にあったようです。今年の猛暑の中、大変だったでしょうね。

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/files/ExcavationNewsParagraph27fileja.pdf
で「金武古墳群現地説明会史料」が出て来ます。

簡単な内容ですが、カラーで分かりやすいです。
住所が書いてありませんが、福岡市早良区か西区と思われます。
場所から考えて、私が見たものは「金武古墳群」で間違いないようです。

以下、PDFから一部引用します。

金武古墳群は日向峠に沿って流れる日向川周辺の山の麓ふもとに位置しており、約150基の古墳からなりたっています。この古墳群には、市指定史跡となっている夫婦塚古墳や市内では珍しい装飾古墳も含まれています。また、朝鮮半島で焼かれた新羅土器が出土していることも注目されます。

装飾古墳もある!これは見たいです。

現在行なっている8次調査は、開発に伴う発掘調査で、吉武B、C、D群の内20基の古墳を対象に昨年7月から着手しています。古墳は標高100~140mと高く急な南側斜面に造られています。弥生時代からつづく重要な交通路であった日向峠を行き交う人々からのながめを意識して造られたのかもしれません。
(略)
主な出土遺物は、床の石のすきまに残っていた土器や鉄製品の破片、金張りの耳環じかん(耳飾)、メノウやヒスイ製の勾玉、水晶の切子玉、ガラス小玉などの装飾品のほか、鉄をつくる時にできる鉄滓も見つかりました。

これら20基の古墳が造られた時代は、海外の先進文化を積極的に取り入れようと遣隋使や第1次遣唐使が派遣された6世紀の末から7世紀の前半ごろです。

やはり開発の為の調査ですね。
早くから盗掘されていたそうですが、時代的に6世紀末から7世紀前半ということで、
今話題の船原古墳と同時期となります。

聖徳太子が602年に弟の来目皇子を征新羅大将として派遣し、皇子は糸島で亡くなっています。

この古墳群の被葬者たちは、この戦いにきっと関わったことでしょう。
これが失われるのは残念です。

しかも古墳の上の家に住んで幸せになるのは難しい。
開発業者は古墳の跡だと、きちんと説明してくれるでしょうか。





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by lunabura | 2013-12-08 22:57 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(8)

まさか、たくさんの古墳が破壊されている?


まさか、たくさんの古墳が破壊されている?

糸島市から日向峠を経由して福岡市に向かったのですが、途中で左の崖に巨石が見えました。

c0222861_0214771.jpg


「あれ?石がある」
「古墳よ」
「まさか、壊されている?」
「何も出なかったから壊すんだって」
「え?何も出なかった?古墳の石組があるじゃない!」

c0222861_022981.jpg


雨の中、一瞬だけ撮影が出来ました。
どうして古墳群が破壊されているの?
いったいここは何市?
日向峠を下っていたので、福岡市でしょうか。

c0222861_0223539.jpg

これほどの古墳群があと数日で消える?
ここは何と言う古墳群ですか?
いったい何族の古墳群ですか?

誰か教えて。

大阪か奈良ではゴルフ場が古墳を一基壊したと住民訴訟が行われたのに。

どうして、こんな事に。





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by lunabura | 2013-12-08 00:28 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)

百済と倭の奴国の前方後円墳の流れ


百済と倭の奴国の前方後円墳の流れ

日拝塚古墳のさきがけ
福岡県那珂川町

百済にある前方後円墳と北部九州との関わりについて、再開です。
ずっと前に石室が似ている春日市の日拝塚古墳を紹介し、
筑紫郡那珂川町ミリカローデンに行った所で中断していました。

石室の構造が百済の海南長鼓山古墳と春日市の日拝塚古墳が似ていたのですが、
一方、九州の前方後円墳の学会に出掛けて知ったのは、
京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町の番塚古墳の石室も似ているという事でした。

そうすると、この三つの古墳はこんな位置関係になります。
c0222861_2355136.jpg


番塚古墳については下記へ(九州大学文学部考古学研究室)
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~kouko/banduka.htm


これは前掲の二つの石室。
c0222861_23555996.jpg



そして那珂川町で聞いたのは、日拝塚古墳は那珂川町の大王たちの古墳群からつながる事でした。
それが下の地図です。

c0222861_23562589.jpg

安徳大塚古墳→老司古墳(福岡市)→貝徳寺古墳→日拝塚古墳(春日市)の順です。

さて、今回はこれらの大王たちの古墳を時代順に辿りましょう。

1 安徳大塚古墳
c0222861_23565324.jpg

一番古いとされる古墳で裂田神社の近くにあります。(気が付かなかった~)
全長64m。濠を含めると81m。4世紀の後半。
発掘調査は行われていないのですが、葺き石と埴輪が確認されているそうです。
前方部が細くてきれいな形をしていますね。(小郡市の古墳を思い出します)

2 老司古墳

それから老司古墳。これは福岡市老司にあります。5世紀初頭です。
竪穴系横口式石室で、初期の横穴式古墳だそうです。
c0222861_2357297.jpg

石の大きさが随分違いますね。

画像出典 福岡市の文化財より 詳しくは下記へ
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/property/detail.php?ID=101539
三角縁神獣鏡を含む10面の鏡などが出土したという事で、首長墓と呼べるものだそうです。

3 貝徳寺古墳

c0222861_2358469.jpg

あの貝徳寺君ハニワが出土した古墳です。(やっぱり山本太郎く~ん)
すでに墳丘が削り取られていたために、存在そのものが知られていなかったとか。
昭和56年に調査されて全長54mの前方後円墳だという事が分かりました。
5世紀後半。
いかにも前方後円墳と言えるバランスの良い形をしています。

4 日拝塚古墳

これは過去記事へどうぞ。
日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳 http://lunabura.exblog.jp/18056441/  
   (2)「ひはい」の由来 http://lunabura.exblog.jp/18063037/

町の話によると、那珂川町の古墳は磐井の乱以後小さくなって行き、
日拝塚古墳のあとは小さな前方後円墳が乱立するようになったそうです。

やはり、磐井の乱は福岡では大事件だったのですね。

さて、こんな話を聞いたら、そりゃあ現場に行きたい!
と、場所を尋ねると、一つは消滅し、一つは個人の所有地という事で見学は無理。

しかし食い下がって、なんとか見学できる古墳はないかと尋ねると、
丸ノ口古墳群を紹介されました。
これは、ブログでもどんどん紹介して下さいとのことです。
それは心強い。
という事で、レッツゴー。






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by lunabura | 2012-07-19 00:05 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(1)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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