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カテゴリ:<遺跡・史跡>( 31 )

高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ 水沼のクニは巫女のクニ



高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ

水沼のクニは巫女のクニ



今朝のワクワク新聞記事。

しょっちゅう書いている水沼族の政治の地である高三潴から
連玉ビーズが出たそうですね。





c0222861_19451488.jpg

読み(水沼 みぬま 高三潴 たかみずま)

甕棺からだって。



時代がなんと弥生時代後期で、(1~2世紀)となってます。(西日本新聞)
毎日新聞では(約2000~1800年前)となっているので、
う~む。弥生時代って随分と遡ったんだね。

卑弥呼自死が248年なので、卑弥呼は古墳時代に昇格した?

(どうしてもあの奈良の某巨大前方後円墳を
卑弥呼の墓にしたい感みえみえ(´-ω-`))




ま、それは別として。



『日本書紀』説では神功皇后が1800年前なので、
連玉ビーズの時代に生きていたのは景行天皇やその子の国乳別皇子や
景行天皇を道案内した猿大海が含まれます。

昨日も、三潴は古代に栄えた所だと、飯塚でお話ししたばかりです。

水沼族の湊は大善寺玉垂宮の地で、中国からの文物がダイレクトに
どんどん流入して最先端の物が入って来ていた所です。
(下巻78大善寺玉垂宮)

ビーズどころではないものが沢山眠っているはずですよ。
発掘されていないだけ。


その水沼族の政治の地こそ、少し離れた「高三潴」なのです。
そこからビーズが出たのですね!





c0222861_1946948.jpg

そこには、国乳別皇子を祀る弓頭神社があります。
(下巻57弓頭神社)



田油津姫攻撃の前に神功皇后や武内宿禰が水沼水軍の船でやって来て、
武内宿禰と国乳別皇子が軍議をしているシーンが
大善寺玉垂宮の絵巻に描かれています。(下巻57)



水沼族の聖地は赤司八幡神社で、
道主貴(みちぬしのむち)=三女神が降臨したところと伝えています。

景行天皇はそこで天壇を構え、三女神を祀り、
自分の子供の国乳別皇子を天皇代行として残していきました。


水沼族の版図は広いですよ。
旧三潴郡だけではありません。



筑後平野での三女神信仰を基準に考えると朝倉も入ってきます。
福成神社は最初に景行天皇が祀り、神功皇后も祀り、
あとからは斉明天皇も祈願に来ています。(下巻53福成神社)



その北にある太刀八幡宮も三女神。

神功皇后が太刀「乙王丸」を奉納しました。
そこでは武器を手入れしています。
軍事訓練をするエリアです。
(下巻52太刀八幡宮)




新聞には「伊都国」と比較した記事がありますが、
その広さは比べ物になりません。

水沼のクニの方がはるかに広くて、
邪馬台国の7万戸も容易に賄える所ですよ。

伊都国の南に邪馬台国があるのですから、
当然ながら論争のターゲットになるべきクニです。

これまで話題にならなかったのが不・思・議。


ちなみに、「水沼」とは巫女を出す家系のことです。
ほら、邪馬台国の条件も揃ってますね。

赤司八幡神社の北部には弥生の環濠集落や漢鏡も出てます。


この水沼族の地には、三韓討伐の後、神功皇后を乗せた安曇磯良が入って来ます。

神功皇后が褒賞としてこの地を与えたのでしょう、
ついには安曇族の領地となります。
その祭神が「玉垂命」です。

ここはもともと女神を祀っていたのが、玉垂命に変わったのです。

玉垂とは「干珠満珠を垂れた」神という意味です。


神功皇后が亡くなってしまったのち、
磯良も年老いて死期を覚悟すると、ここに戻って来て、
神功皇后との思い出の船を焼かせます。


その時、竜骨だけは残しました。
それがご神体になったと書かれています。
(高良玉垂宮神秘書)

だから、山号が「御船山」なのです。


国乳別皇子の墓も安曇磯良の墓も高三潴にありますよ。
(下巻78大善寺玉垂宮)



だから、連玉ビーズが出ても当然の地なのです。



ガイドブックの下巻をお持ちの方は上記の番号を参考にしてください。
サイドバーからも各神社の記事が見られます。






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by lunabura | 2017-02-17 19:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(7)

「規矩県主・耳熊丸」と「企救の重留遺跡」の広形銅矛はどうなんだろう。



「規矩県主・耳熊丸」と「企救の重留遺跡」

の広形銅矛はどうなんだろう。



さて、先日「いのちのたび博物館」に出向いたのは
「企救の国の青銅器文化」展があっていたからだ。

北九州から巨大な銅矛が出土した。


c0222861_20594197.jpg

これはそのチラシ。
卑弥呼の時代だ。
この時代は銅矛がここまで大きくなっている。

約85センチだったと思う。
このサイズだと、もう女性では簡単に抱えられない。
持つとき、必ず刃の部分を支えないといけないので危険だ。

だからなのか、刃の研ぎ出しはしていないようだ。

北九州で出土した銅矛は出雲のそれとサイズも似ている印象だが、
出雲の剣身に見られた矢羽のような研ぎ出しは見当たらない。

これが住居の隅に一本だけ埋納されていたという。
何度か使用しては埋め戻していた痕跡があるそうだ。

この地域は「企救(きく)郡」があった所なので、
「企救国」が想定され始めている。



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「企救」で思い出すのは、ここに県主(あがたぬし)の名が
伝えられていることだ。

その名を「耳熊丸」という。





拙著『神功皇后伝承を歩く』下巻をお持ちの方は96番を見てほしい。





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神功皇后は京都郡(みやこぐん)の生立八幡神社(おいたつ)から
何処に向かったのか、
海上の行き先を探していたとき、次の伝承を知った。


「豊前国の葛城藤丸と規矩(きく)県主の耳熊丸は
神功皇后を筑豊の境に迎えに行った。」


寒風の吹く冬に船を仕立てて皇后たちを迎えにいった人たちの名が伝わっていた。

葛城藤丸。
規矩県主の耳熊丸。

この名は記紀には出てこないが、篠崎八幡神社に伝わっていた。
(小倉北区篠崎)

もともと高尾山の麓に鎮座していたのが、現在地に遷宮している。

この耳熊丸と同時代に生きていたのが

岡県主の祖の熊鰐であり、

伊都県主の祖の五十迹手(いとて)だ。


耳熊丸は紫川流域、
熊鰐は遠賀川流域と棲み分けていたのか。


「きく」は企救、規矩、菊とも表記される。
「企救国」が想定されるなら、この耳熊丸が治めていたと考えられる。

「きく」で思い起こすのは菊物部という名称だ。
耳熊丸が物部かどうかは分からない。

ただ、一緒に出て来た葛城藤丸は葛城氏だ。
篠崎八幡の葛城小藤丸は葛城襲津彦の末裔だという。

そして、時代は違うが、中大兄皇子の諱(実名)は葛城皇子だ。

こう連想すると、当地には物部氏、葛城氏のいずれかの
リーダーの存在が考えられる。


重留遺跡のすぐ北にある「城野遺跡」には
伊都国の平原遺跡と同様の「方形周溝墓」が発見されていた。


2基の石棺には水銀朱が塗られ、子供が埋葬されていたという。

規模は城野の方が大きいそうだ。

棺が平原遺跡は割竹木棺なので、こちらが石棺なのは興味深い。

しかも、水銀朱愛は同じ。

この城野遺跡は国有地だったのが、民間企業に売却されてしまったそうだ。
実に惜しい。
が、まだ間に合うはずだ。



この重留、城野遺跡と篠崎八幡神社の距離は2キロ未満だ。
その元宮と遺跡の関わりは深い。

これを探っていくことで、
企救国の古代が立体的に描き出せる予感はするのだが。

いちブロガーではどうにもならない。






「企救の国の青銅器文化」2016年11月6日(日)まで。
いのちのたび博物館
北九州市八幡東区東田2-4-1 スペースワールド駅下車






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by lunabura | 2016-10-28 21:03 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

磐瀬行宮あと



磐瀬行宮あと




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磐瀬行宮跡は福岡県中間市、JR中間駅のすぐ近くにある。


駐車場がないとの情報があったので、
車中で待ってくれるパートナーが休みの日を待って訪れた。


史料通り、駅のすぐそばだ。
JRが削ったというので、本来はまだ広い小山だったのだろう。

この山を御館山(みたてやま)という。
史跡案内板はない。



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立派な石段が付いていてほっとしたが、
すぐに草ぼうぼうとなり、女一人ではどうかと、考えた。

しかし、夏野菜が見え、男性が手入れをしている姿が見えたので、
安心して上った。





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一面、畑だ。


私は間違ったのだろうか。
ここは史跡ではないのか。



男性に尋ねると、
「だれか天皇がここに立ち寄られたという話は聞きましたよ」
ということだった。


「斉明天皇ですね。石碑とかないのでしょうか」
「向こうの方に、祠の跡と祠の一部がありますよ」



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と案内されて見たのがこれ。




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この石の台の上には祠があったという。


「のり面の所有者は市です。道路を作る時に削られました。
この場所自体は地番がないのです。
祠は神社の方に行ったと聞きます。


昔、ここは公園だったのですが、誰も来なくなって荒れて来たので、
一組の夫婦が桜を植えたり、いろいろ植えたりして、
畑を作るようになったのです。
それを受け継いでいます」


確かに、笹竹があちこちから出てきている。
もし、畑がなかったら、足を踏み入れることも出来なかっただろう。

一体どうなっているのだろうか。





c0222861_2244770.jpg

一つだけ、昭和13年の石碑があったが、
奉納した氏名だけが見えていて、内容が分からない。





ここが、『日本書紀』にも書かれた磐瀬行宮なのだ。

中間市に入ると岩瀬の字があちこちに見える。
また、長津の地名もある。

『日本書紀』では磐瀬行宮を長津宮と名称変更したとあり、
当地でも、明治時代になって、それにちなんで長津の地名も使うようになったらしい。


市に問い合わせると、史跡に指定する予定はなく、
説明版も立てる予定はないとこのことだった。


市の観光マップにも載っていない。
ここもいつか消失してしまうかもしれない。




磐瀬行宮 御館山 中間市





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by lunabura | 2016-05-10 22:05 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

志登支石墓群・倭は朝鮮半島まであったみたいだけど


志登支石墓群

倭は朝鮮半島まであったみたいだけど



志登神社の近くに志登支石墓があります。志登神社から歩いていったはずの豊玉姫の岩の近くに支石墓があったことを記憶していたので「志登支石墓」のことばに引かれていったのですが、結果的には違っていました。

せっかくですから、ご紹介。
近くで農作業している方から志登神社からは一キロほどと聞きました。その時点で探している所ではないと分かったんですが ^^

川の向こう岸にありました。




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全景です。田畑の間、少し盛り上がった地点が耕されずに残っていました。






c0222861_22252453.jpg

何を撮ったのかよく分からない画像(^_^;)
多分、探しているものではなかったので、ほどほどに撮ったみたい。







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で、志登神社の真裏から見える山をここでも発見。皆さんから今山だと教えていただきました。今山は遺跡もあるから、いつか行ってみたいですね。





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反対側は糸島富士、可也山が見えています。この日はpm2.5がひどくて、かすんでいます。最近の画像は晴れていても、こんなのしか撮れません(/・ω・)/




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説明板に出土品の写真がありました。分かりやすくていいですね!
で、気になるのが右下の石鏃です。

「柳葉形磨製石鏃」というそうです。かなり高度な磨き込みですが、説明板にはこうありました。


「柳葉形磨製石鏃」は朝鮮半島で出土するものと良く形が似ており、支石墓と一緒にこの地に伝来してきたことがわかります。志登支石墓群は、大陸・朝鮮半島からもたらされた弥生文化のはじまりを知るうえで重要な遺跡といえます。


で、何が気になるのかというと、「支石墓と一緒にこの地に伝来してきた」という部分です。

朝鮮半島には[倭]があったことが『三国志』に書いてあるんですね。

『三国志』といえば「魏志倭人伝」が載っている本ですが、邪馬台国ばかりが話題になりますが、「韓」を何気に読んでいると、こんなことが書いてあるんです。



韓は帯方郡の南にあって、東西は海まで続いている。南は倭と境を接している。

弁辰の国々は鉄を産出し、韓、濊(わい)、倭の人々はみなこの鉄を取っている。

弁辰の瀆盧(とくろ)国は倭と隣り合っている。

どこにどの国があるのかよく分からないのですが、韓と倭は隣あって接していると書いています。

これって、もともと倭国が日本列島と朝鮮半島の南の範囲にあったということを意味していませんか?

任那(みまな)をあれほど取り戻そうとしたのは、倭国の一部があったからではないかな?



また、出土品の何もかもが朝鮮半島から南下したのでしょうか。
文化は双方向で交流したのではないか、という発想はないのでしょうか。

ある考古学者は数が多い方が中心地だと言われましたが、そうでしょうか。

福岡では出土しながら葬られてしまった遺跡を山ほど見てきました。福岡にはカウントされない遺跡や古墳がどれほどあるのか。出土品はどれほど失われてきたことか。

先日も岡本遺跡の所から多紐鏡の鋳型が発見されて、文化南下説の見直しが迫られました。

支石墓も別の所では倭人が埋葬されていたものがあるといいます。

素人だから言います。
これまでの学会内の因習を乗り越えて、科学的な分析を国民に提供してください。

と、思いながら帰路に付いたのでした。



あ~あ、言っちゃった (´・ω・`)





糸島市志登





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by lunabura | 2015-07-07 22:36 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

沖ノ島・海底遺跡の過去記事



先日、NHKで沖ノ島が放送されました。いつ見ても素晴らしい島です。
そのあと、ブログの方は海底遺跡の記事のアクセスが多かったので、次のページに移動しました。

そちらでは第一発見者の森山氏からもコメントをいただいていますので、ご覧ください。再び調査に向かわれたそうですが、断念されています。

やはり沖ノ島は「お言わずの島」なのでしょう。

海底遺跡の研究者、フランクジョゼフに尋ねたところ、この緯度には古代遺跡がずらりと並んでいるとのことでした。

ちょっと懐かしい^^


画像の下の<遺跡・史跡>からもご覧になれます。






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by lunabura | 2015-07-05 07:26 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

宗像・沖ノ島海底遺跡・謎の海底神殿・巨大な四本の石柱―ラセン階段が付いていた


宗像・沖ノ島海底遺跡
福岡県宗像市沖ノ島
『海底神殿の遺跡の謎に迫る』から
海底の巨大な四本の石柱―ラセン階段が付いていた


1999年にFBS福岡放送局開局記念番組で、
福岡県の宗像大社の沖ノ島付近にある海底遺跡が放送されました。
しかし、この番組を見た人は少なく、あまり関心が持たれずに
埋没しそうなので、今日はその映像のシーンを紹介します。
タイトルは『海底神殿の遺跡の謎に迫る

レポーターは東京芸術大学助教授(当時)日比野克彦
第一発見者 ダイバー森山俊一郎
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沖ノ島のすぐ近くにその遺跡はあります。
日比野克彦氏の船の下がその現場です。
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地図で見ると、沖ノ島の北東部にあたります。
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今ダイバーが遺跡の柱にあるラセン階段を泳いで登っています。
石の階段は人間が歩いて行けるサイズです。
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切り立った崖と直角にある石段は人工のものだと分かります。
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さらに昇っていった所です。
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第一発見者森山俊一郎氏が説明をしています。
石柱らしき崖の横に階段が彫られていて、頂上にも何かあります。
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この遺跡は地元の漁民の人たちにはよく知られていて、それを聞き取り調査した結果、
このような四本の石柱の存在が分かりました。
ラセン階段が付いているのは一本だけです。
さっきの写真はこのラセン階段を昇って行った事が分かります。
c0222861_16532524.jpg

この写真は現場付近の一般的な海底のようす。
波によって、岩が丸く浸食されています。
比較するとこの石柱が特殊だという事が分かります。

この付近は流れが大変厳しく、一般のダイバーは潜れません。
さらなる調査報告があるのを待っていたのですが、
与那国島の海底遺跡のように専従で研究する人が出て来ないと、無理かな。

「あんな深い海が陸上の時代があったんだろうか、地質学的な資料が欲しいな」
とずっと思っていたら、NHKで旧石器時代の番組があっていて、
この辺りが陸上だったのが分かりました。
c0222861_16541646.jpg

この遺跡がいつの時代の物かはこれからの研究に委ねられるのですが、
誰もこの番組見ていないから、忘れ去られてしまいそう。
ルナは10年以上この遺跡の事を忘れないでいました。
今日の記事を見て、誰か研究してくれたらいいのにな。
みなさん、そう思いませんか?

地図 沖ノ島海底遺跡





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by lunabura | 2015-07-05 06:26 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(23)

新聞切り抜きー弥生時代


新聞切り抜きー弥生時代編―



『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』、とりあえず、脱稿しました。
この言葉、何度目でしょうか (^_^;)


さて、今日は頭脳労働から離れたいので肉体労働を、と真っ先にやったのが窓ふきです。
毎朝、最初に開ける窓をきれいにしました。
これで良い風が入りますように~ ^^


古代史からも離れてと思って、車の点検を待つ間の暇つぶしに、新聞の切り抜きの整理をしました。やっぱり、古代史が沢山 (*^^)v


新聞の切り抜きって、ジャンル分けしないと、いざ必要な時に全く訳に立ちませんよね。探す事って、必要以上にエネルギーをロスします。

ラベルが貼れるってことは、理解していることと同じだなとよく思います。未分類のときって、やはり無理解な状態ですもん。

で、考古学的なもので九州のものに絞ると、けっこう面白いものが出土していました。


今日は、弥生時代を紹介します^^ 四つだけですが。

1 紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半) 春日市 須玖タカウタ遺跡
多紐細文鏡の鋳型


鋳型ですぞ!!! 
鋳型片のサイズは5.1×2.5厚さ2.3センチ。重さ39グラム。滑石。

多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)といえば朝鮮半島製と言われますが、その根拠が示されず、専門家に尋ねると、出土数が半島の方が多いからと説明する方もあって、納得いかなかったけど、日本で鋳型の一部が見つかりました。

出土数うんぬんに関しては、未発掘の遺跡が沢山あるし、科学的根拠にならないと思います。

出土した場所は須玖岡本遺跡の西約200mだそうです。
ここは弥生のハイテクランド。
昨年はここから有柄式銅剣の石製鋳型や、銅戈の土製鋳型が出土しています。

タイトル、見直して下さい!その鋳型片は「紀元前」のものなんです!

銅の道がここから豊の国まで続いています。
この鋳型の時代から数百年後、神功皇后はこの道を通って周防灘に抜けました。
(『神功皇后伝承を歩く下巻』86番「綱分八幡宮」にちらりと書いてます)

どんだけ古い (/・ω・)/ .



2 紀元50~250年(弥生時代後期) 鳥栖市藤木町 藤木遺跡(ふじのき)
ボタンの鋳型


青銅製のボタン状の飾り金具とみられる「銅釦」(どうこう)の石製鋳型が出土しています。


弥生時代にボタンです!

ここは環濠集落で、銅釦1点、矢尻の銅鏃2点、腕輪の銅釧(どうくしろ)1点の鋳型も発掘されています。

鳥栖市ですから、田代のハイテクランドの近くかな。また地図で調べないと…。
弥生時代のファッションが貫頭衣だけではない根拠となりますね。





3 紀元1~3世紀頃(弥生時代後期)壱岐市 カラカミ遺跡
鉄の地上炉跡


炉の大きさは直径約80センチ。同様のものは朝鮮半島で見られるそうです。

半島などで使われなくなった鉄製品を輸入して炉で溶かして加工したとみられると書いてありますが、精錬炉跡の可能性もあるとも書かれています。

精錬炉が国内で始まったのは6世紀以降とするのが定説と書かれています。これが精錬炉と確認されると定説が覆ることになります。(熊本、無視されています)


カラカミ遺跡は「原の辻遺跡」から約6キロ北西。一支国を構成するエリアだそうです。

「使われなくなった鉄製品を輸入した」というのは如何でしょうか。
何か変。
古代って、鉄はすごく貴重品。古い鉄は輸出するより、地元で再利用しそうだけど。
鉄鋌(てってい)を輸入するなんて発想はないのかなあ。




4 弥生時代後期後半 のろし通信網 「東九州―北部九州通信ネットワーク」


九州大分自動車道に重なるように弥生時代後期後半の高地性集落が発掘されていて、そこで溝やのろし跡が見つかっています。

白岩遺跡(大分県玖珠町)、若杉遺跡(同湯布院町)、西ノ迫遺跡(福岡県杷木町)


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これって、ちょうど邪馬台国の時代。
井上悦文氏の唱える邪馬台国の配下の国々のエリアに重なってますね。

現代の高速道路のデザイナーと弥生時代の狼煙台のデザイナーの注目するラインが同じだというのは大変興味深いです。

弥生時代に存在した狼煙ネットワーク!

『日本書紀』に書かれた烽火の記事を「天智天皇が初めて烽火を作った」と解釈してはいけないと言う、るなの根拠がこれです。天智天皇は整備したに過ぎないと思います。

ノロシの情報量ですが、相島の江戸時代の話を過去記事で紹介しています。

台風のために相島で61名が遭難して大変な時、壱岐から朝鮮通信使の一行を乗せた船が「今から出港する」という狼煙を上げたのを見て、困ったという話です。

烽火はいろんな意味を伝えられて、すごい速さで伝わるんですね。


以上、新聞切り抜きの一部を感想を交えつつ紹介しました。

ようやく平常モードです。( ´艸`) 辛口~。




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by lunabura | 2015-05-29 22:04 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

朝倉橘広庭宮を探せ


朝倉橘広庭宮を探せ

朝倉橘広庭宮の所在地はまだ発見されていません。
最近、太宰府説も提出されましたが、朝倉においては次の3つの候補地が挙げられます。
1 須川
2 山田
3 杷木町志波(はき町しわ)

るな的手法は個々の神社の伝承を並べて全体像を浮き彫りにするというやり方です。
まだ、ブログでは紹介していない神社も含めて、これまでの伝承を並べてみます。

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴)
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ)
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊)
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


この中で、カギとなるのは「宮野~別所~朝闇」神社の東西の祭祀ライン。
とりわけ別所神社は「皇居の辺」にある。
また、福成神社の近くに宮殿橋がある。
天子の森は施政の地伝承あり。

次は太宰管内志から。
「○橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふ」

訳すと、「橘広庭宮は宮野村という説がある。その北の方に朝闇寺が須川の枝村にある」となりますので、
宮は宮野村にあると言われていたことが分かります。

これらをすべて含むとなると、条里が2キロほどの都を設定しないといけません。
この遷宮は天皇・皇太子・臣下・女官などの記載があるので、
百官百寮・軍隊も一緒で、相当規模の条里計画があったと想定できます。

もちろん、条里なんか未完成のものばかりでしょうが。

そこで、同時代の都のサイズを探してみました。

太宰府政庁 和銅年間(708-715)に造営が開始され霊亀年間(715-717)には完成していたのではないかと推定されている。またその広さは東西約111.6m、南北約211mであろう。(参考)藤原宮の広さ:東西約925m,南北約907m
鏡山猛氏の復元図によれば、太宰府は右の図のように、南北22条(2.4Km)、東西各12坊(2.6Km)のほぼ正方形の街区を持つ都市であった。
(参照 http://www9.plala.or.jp/kinomuku/dazaifu/dazaifu.html)

藤原宮 925×907m
太宰府 2400m×2600m

で、広庭宮の都を900×900に仮設定してみました。


さて、風水師ならどこを選ぶ?

東:青龍 … 豊かな川の流れがある
西:白虎 … 大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀 … 広大な平野や海があり視界が開けている
北:玄武 … 山や丘陵がある



c0222861_2154446.jpg

宮地嶽神社を軸とすると、一番左。

宮野神社を軸とすると中央。

天子の森(○印がずれているような)を軸とすると右。


こんな感じになりました。
実は、前から朝倉東小学校を狙っていたんですが、天子の森ラインなら乗って来そうですね。

まだまだ、フィールドワークが足りませんが、とりあえず仮説を立ててみました。

以上、るな風水師でした。

(つづく)

地図 朝倉市









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by lunabura | 2014-05-22 21:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

長安寺廃寺(2) 二つの「ちょうあんじ」


長安寺廃寺(2)

二つの「ちょうあんじ」

 
今回の朝倉の旅の目的は橘広庭宮の伝承調べだったのですが、
橘広庭宮石碑の麓に長安寺廃寺石碑があり、それにも足を突っ込み始めました。

朗報は寝て待て?
愛読者さんから、有力情報が。

どうやら「ちょうあんじ」が二種類ありそうで、こんがらがって来たので、
今回は整理することにしました。

『大宰管内志』朝倉(上座郡)にこんな記事があるそうです。
(番号は、るながつけました)

筑前国二十上座郡
朝鞍寺 安楽寺御領目録に上座郡朝鞍寺領(略)とあり、昔々この朝倉神社の社僧の坊に朝倉山長安寺とて天台宗の寺院此郡の山田村にありしと云、いつの比に亡びたるにやすべえさだかなる事はしりがたし。(1)

橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふその寺跡いまもいちしろし。(2)
これは明確に書いてありますね。

(1)朝鞍寺は朝倉山長安寺として山田村にあり、亡びた時期は分からない。

朝倉山は麻氐良山(まてら)のことだと言われていましたね。
山田村は麻氐良山の麓にあり、木の丸殿もあります。
木の丸殿とは斉明天皇の服喪のために中大兄皇子が殯(もがり)をした所。

長安寺廃寺跡にはこんな説明板がありました。

「筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。」

長安寺は恵蘇八幡宮の「社僧の寺」ですって。神宮寺みたいな感じでしょうか。
地図を見ると、山田村と恵蘇八幡宮は隣接していました。



c0222861_21425845.jpg

ネットの地図では分かりづらいので道路地図をコピーしました。
右の円が山田で、長安寺(朝鞍寺)が麻氐良山の麓にあるのが確認できますね。
「長安寺」とは「朝鞍寺」ということになります。



では、「朝闇寺」はどうでしょうか。

(2)朝闇寺は須川の枝村にあって、寺跡がはっきりしている。
その南、宮野村に橘広庭宮がある。

上と同じ地図ですが、左の円が須川で、朝闇神社がある所です。
瓦など鳥居の北辺りから出土したようですが、まだ特定には至っていません。

以上、『大宰管内志』に書かれている二つの「ちょうあんじ」の在り処を確認しました。
(著者は伊藤常足さんですよ~。鞍手の古物神社の神主さん。物部)


太宰管内志だけで結論を出せる訳ではありませんが、これって、すっきりしますよね。

前回、説明板を読んで理解できなかった点も、二つの「ちょうあんじ」を想定すれば、
整合性が取れそうです。

橘広庭宮の場所も宮野村とありますよ。いよいよかな~。るな探偵登場は…。

いや、るな風水師じゃ。
(つづく)





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by lunabura | 2014-05-20 21:48 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

長安寺廃寺跡 猿沢の池があった


長安寺廃寺跡

 猿沢の池があった

 別所神社で教えてもらった万徳寺横の川に出ると、神名備山が!

c0222861_2237766.jpg

低いけどきれいな円錐形。
これでは遠方からは気付かなかったはず。
都を造るなら目当ての山があるのではと思ったのですが、ちょっといいかも。

目の前の橋を渡ってさらに川沿いに進み、一軒家の先を右に曲がりました。
古い街並みの姿を留める細い道を抜けると鳥居が見えました。


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手前に駐車場が完備されていて驚きました。
(別に驚くようなことではない…が)


c0222861_22381531.jpg

そこからの眺め。意外にも高度を上げています。
向こうは耳納連山ですね。



c0222861_22383381.jpg

鳥居手前、右手に石碑が。
あれ?
長安寺と彫ってある。
長安寺と言えば、佐用姫伝説の時に出てこなかった?

ここにあったんだ。

神在神社・大伴狭手彦が祀った宮だった
http://lunabura.exblog.jp/17562963/


詳しくは上に書いていますが、その一部を書き抜きます。

欽明天皇23年(562年)8月に、天皇は大将軍大伴の連狭手彦(さでひこ)を派遣して、兵数万を率いて高句麗を討たせました。狭手彦は百済の計略を用いて、高句麗を打ち破りました。その王は垣を越えて逃げました。

狭手彦はついに勝って、宮殿に入り、珍しい宝物の数々と・七織物のカーテンと鉄屋(くろがねのいえー内容不明)を手に入れて帰還しました。(鉄屋は高句麗の西の高殿の上にあったもので、織物のカーテンは王の奥の部屋のものという)七織物のカーテンは天皇に献上しました。

甲二領、金細工の太刀二振り、彫刻を施した銅の鐘三つ、五色の幡二棹、美女姫(おみなひめ)に侍女の吾田子(あたこ)を付けて、蘇我の稲目の宿禰の大臣に送りました。大臣はその二人を召し入れて妻にして、軽の曲殿(まがりどの)に住まわせました。(鉄屋は長安寺にあるが、どこの国にあるのかは分からない。
最後の一行に書かれた「長安寺」です。
思いがけず、その現場に来ました!
(日本書紀には何処の国か分からないと書いていますが、取り敢えずここにもあります)

説明板です。
長安寺廃寺跡
福岡県朝倉町大字須川字鐘突1271~1308

 奈良~平安時代の古代寺院跡で、古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。また「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から、建物の礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。

出土瓦は、老司式と鴻臚館式のものであり、8世紀前半のものと推測されている。
現地の地名は朝倉ですが、朝鞍、朝闇と表記されているんですね。
朝鞍、朝闇と書けば「あさくら」と読めますが、
音読みでは「ちょうあん」となるので、「長安」ともなるわけです。

礎石が出ていますが、前回の別所神社では、
柱の礎石はここから持って来たのではないかという話でしたね。


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(別所神社の蓮の花の礎石)
出土物は何処に展示されているのだろう。
現物を見て、別所神社と見比べてみたいものですね。

出土物の時代が8世紀前半なら斉明天皇(~661)崩御後、半世紀。
説明板の続きでは、観世音寺と関連付けて説明がされています。

また筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。またこのことは続日本書紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから、長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。

うむ。
長安寺=橘広庭宮=筑紫尼寺か。
これはまだよく理解できない。
橘広庭宮→筑紫尼寺→長安寺 と変わったということかな。
そうすると、大伴狭手彦の時代の長安寺は何と呼ばれていたのだろう。
???
ま、いいか。



駐車場を出るとすぐに池がありました。


c0222861_22413389.jpg

「猿沢の池」と書かれていました。
もう、びっくり。
狭い。
奈良の猿沢の池を見た時もその狭さにショックを受けたことを思い出しました。

説明板です。

この池は、昔から常に満々と水をたたえ今まで枯れたことがない。かんばつの時には、この池で雨乞いがなされ、池の水を汲むと大雨が降るといわれていた。
また、昔は池底がとても深く、つり鐘が埋められているという伝説があり、廃寺となった長安寺と関係があるのではないかと考えられる。
なお、近くには「朝倉橘広庭宮跡」をはじめ、斉明天皇が橘広庭宮におられたとき、
御遊されたという「花園山」「降葉山」「桂川」等の旧跡がある。
おお、この近くには斉明天皇の足跡が沢山残っているんですね。
地図、地図がほしい。

地図を見ながらあれこれと妄想するのが楽しいんですけどね。
これは現地の人が描かないと分からないっす。

(つづく)





斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月11日 斉明帝、中大兄皇子 福成神社にて戦勝祈願。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮





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by lunabura | 2014-05-17 22:43 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(8)
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