ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:<遺跡・史跡>( 36 )

宗像・沖ノ島海底遺跡・謎の海底神殿・巨大な四本の石柱―ラセン階段が付いていた


宗像・沖ノ島海底遺跡
福岡県宗像市沖ノ島
『海底神殿の遺跡の謎に迫る』から
海底の巨大な四本の石柱―ラセン階段が付いていた


1999年にFBS福岡放送局開局記念番組で、
福岡県の宗像大社の沖ノ島付近にある海底遺跡が放送されました。
しかし、この番組を見た人は少なく、あまり関心が持たれずに
埋没しそうなので、今日はその映像のシーンを紹介します。
タイトルは『海底神殿の遺跡の謎に迫る

レポーターは東京芸術大学助教授(当時)日比野克彦
第一発見者 ダイバー森山俊一郎
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沖ノ島のすぐ近くにその遺跡はあります。
日比野克彦氏の船の下がその現場です。
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地図で見ると、沖ノ島の北東部にあたります。
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今ダイバーが遺跡の柱にあるラセン階段を泳いで登っています。
石の階段は人間が歩いて行けるサイズです。
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切り立った崖と直角にある石段は人工のものだと分かります。
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さらに昇っていった所です。
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第一発見者森山俊一郎氏が説明をしています。
石柱らしき崖の横に階段が彫られていて、頂上にも何かあります。
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この遺跡は地元の漁民の人たちにはよく知られていて、それを聞き取り調査した結果、
このような四本の石柱の存在が分かりました。
ラセン階段が付いているのは一本だけです。
さっきの写真はこのラセン階段を昇って行った事が分かります。
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この写真は現場付近の一般的な海底のようす。
波によって、岩が丸く浸食されています。
比較するとこの石柱が特殊だという事が分かります。

この付近は流れが大変厳しく、一般のダイバーは潜れません。
さらなる調査報告があるのを待っていたのですが、
与那国島の海底遺跡のように専従で研究する人が出て来ないと、無理かな。

「あんな深い海が陸上の時代があったんだろうか、地質学的な資料が欲しいな」
とずっと思っていたら、NHKで旧石器時代の番組があっていて、
この辺りが陸上だったのが分かりました。
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この遺跡がいつの時代の物かはこれからの研究に委ねられるのですが、
誰もこの番組見ていないから、忘れ去られてしまいそう。
ルナは10年以上この遺跡の事を忘れないでいました。
今日の記事を見て、誰か研究してくれたらいいのにな。
みなさん、そう思いませんか?

地図 沖ノ島海底遺跡





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by lunabura | 2015-07-05 06:26 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(23)

新聞切り抜きー弥生時代


新聞切り抜きー弥生時代編―



『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』、とりあえず、脱稿しました。
この言葉、何度目でしょうか (^_^;)


さて、今日は頭脳労働から離れたいので肉体労働を、と真っ先にやったのが窓ふきです。
毎朝、最初に開ける窓をきれいにしました。
これで良い風が入りますように~ ^^


古代史からも離れてと思って、車の点検を待つ間の暇つぶしに、新聞の切り抜きの整理をしました。やっぱり、古代史が沢山 (*^^)v


新聞の切り抜きって、ジャンル分けしないと、いざ必要な時に全く訳に立ちませんよね。探す事って、必要以上にエネルギーをロスします。

ラベルが貼れるってことは、理解していることと同じだなとよく思います。未分類のときって、やはり無理解な状態ですもん。

で、考古学的なもので九州のものに絞ると、けっこう面白いものが出土していました。


今日は、弥生時代を紹介します^^ 四つだけですが。

1 紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半) 春日市 須玖タカウタ遺跡
多紐細文鏡の鋳型


鋳型ですぞ!!! 
鋳型片のサイズは5.1×2.5厚さ2.3センチ。重さ39グラム。滑石。

多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)といえば朝鮮半島製と言われますが、その根拠が示されず、専門家に尋ねると、出土数が半島の方が多いからと説明する方もあって、納得いかなかったけど、日本で鋳型の一部が見つかりました。

出土数うんぬんに関しては、未発掘の遺跡が沢山あるし、科学的根拠にならないと思います。

出土した場所は須玖岡本遺跡の西約200mだそうです。
ここは弥生のハイテクランド。
昨年はここから有柄式銅剣の石製鋳型や、銅戈の土製鋳型が出土しています。

タイトル、見直して下さい!その鋳型片は「紀元前」のものなんです!

銅の道がここから豊の国まで続いています。
この鋳型の時代から数百年後、神功皇后はこの道を通って周防灘に抜けました。
(『神功皇后伝承を歩く下巻』86番「綱分八幡宮」にちらりと書いてます)

どんだけ古い (/・ω・)/ .



2 紀元50~250年(弥生時代後期) 鳥栖市藤木町 藤木遺跡(ふじのき)
ボタンの鋳型


青銅製のボタン状の飾り金具とみられる「銅釦」(どうこう)の石製鋳型が出土しています。


弥生時代にボタンです!

ここは環濠集落で、銅釦1点、矢尻の銅鏃2点、腕輪の銅釧(どうくしろ)1点の鋳型も発掘されています。

鳥栖市ですから、田代のハイテクランドの近くかな。また地図で調べないと…。
弥生時代のファッションが貫頭衣だけではない根拠となりますね。





3 紀元1~3世紀頃(弥生時代後期)壱岐市 カラカミ遺跡
鉄の地上炉跡


炉の大きさは直径約80センチ。同様のものは朝鮮半島で見られるそうです。

半島などで使われなくなった鉄製品を輸入して炉で溶かして加工したとみられると書いてありますが、精錬炉跡の可能性もあるとも書かれています。

精錬炉が国内で始まったのは6世紀以降とするのが定説と書かれています。これが精錬炉と確認されると定説が覆ることになります。(熊本、無視されています)


カラカミ遺跡は「原の辻遺跡」から約6キロ北西。一支国を構成するエリアだそうです。

「使われなくなった鉄製品を輸入した」というのは如何でしょうか。
何か変。
古代って、鉄はすごく貴重品。古い鉄は輸出するより、地元で再利用しそうだけど。
鉄鋌(てってい)を輸入するなんて発想はないのかなあ。




4 弥生時代後期後半 のろし通信網 「東九州―北部九州通信ネットワーク」


九州大分自動車道に重なるように弥生時代後期後半の高地性集落が発掘されていて、そこで溝やのろし跡が見つかっています。

白岩遺跡(大分県玖珠町)、若杉遺跡(同湯布院町)、西ノ迫遺跡(福岡県杷木町)


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これって、ちょうど邪馬台国の時代。
井上悦文氏の唱える邪馬台国の配下の国々のエリアに重なってますね。

現代の高速道路のデザイナーと弥生時代の狼煙台のデザイナーの注目するラインが同じだというのは大変興味深いです。

弥生時代に存在した狼煙ネットワーク!

『日本書紀』に書かれた烽火の記事を「天智天皇が初めて烽火を作った」と解釈してはいけないと言う、るなの根拠がこれです。天智天皇は整備したに過ぎないと思います。

ノロシの情報量ですが、相島の江戸時代の話を過去記事で紹介しています。

台風のために相島で61名が遭難して大変な時、壱岐から朝鮮通信使の一行を乗せた船が「今から出港する」という狼煙を上げたのを見て、困ったという話です。

烽火はいろんな意味を伝えられて、すごい速さで伝わるんですね。


以上、新聞切り抜きの一部を感想を交えつつ紹介しました。

ようやく平常モードです。( ´艸`) 辛口~。




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by lunabura | 2015-05-29 22:04 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

朝倉橘広庭宮を探せ


朝倉橘広庭宮を探せ

朝倉橘広庭宮の所在地はまだ発見されていません。
最近、太宰府説も提出されましたが、朝倉においては次の3つの候補地が挙げられます。
1 須川
2 山田
3 杷木町志波(はき町しわ)

るな的手法は個々の神社の伝承を並べて全体像を浮き彫りにするというやり方です。
まだ、ブログでは紹介していない神社も含めて、これまでの伝承を並べてみます。

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴)
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ)
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊)
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


この中で、カギとなるのは「宮野~別所~朝闇」神社の東西の祭祀ライン。
とりわけ別所神社は「皇居の辺」にある。
また、福成神社の近くに宮殿橋がある。
天子の森は施政の地伝承あり。

次は太宰管内志から。
「○橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふ」

訳すと、「橘広庭宮は宮野村という説がある。その北の方に朝闇寺が須川の枝村にある」となりますので、
宮は宮野村にあると言われていたことが分かります。

これらをすべて含むとなると、条里が2キロほどの都を設定しないといけません。
この遷宮は天皇・皇太子・臣下・女官などの記載があるので、
百官百寮・軍隊も一緒で、相当規模の条里計画があったと想定できます。

もちろん、条里なんか未完成のものばかりでしょうが。

そこで、同時代の都のサイズを探してみました。

太宰府政庁 和銅年間(708-715)に造営が開始され霊亀年間(715-717)には完成していたのではないかと推定されている。またその広さは東西約111.6m、南北約211mであろう。(参考)藤原宮の広さ:東西約925m,南北約907m
鏡山猛氏の復元図によれば、太宰府は右の図のように、南北22条(2.4Km)、東西各12坊(2.6Km)のほぼ正方形の街区を持つ都市であった。
(参照 http://www9.plala.or.jp/kinomuku/dazaifu/dazaifu.html)

藤原宮 925×907m
太宰府 2400m×2600m

で、広庭宮の都を900×900に仮設定してみました。


さて、風水師ならどこを選ぶ?

東:青龍 … 豊かな川の流れがある
西:白虎 … 大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀 … 広大な平野や海があり視界が開けている
北:玄武 … 山や丘陵がある



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宮地嶽神社を軸とすると、一番左。

宮野神社を軸とすると中央。

天子の森(○印がずれているような)を軸とすると右。


こんな感じになりました。
実は、前から朝倉東小学校を狙っていたんですが、天子の森ラインなら乗って来そうですね。

まだまだ、フィールドワークが足りませんが、とりあえず仮説を立ててみました。

以上、るな風水師でした。

(つづく)

地図 朝倉市









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by lunabura | 2014-05-22 21:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

長安寺廃寺(2) 二つの「ちょうあんじ」


長安寺廃寺(2)

二つの「ちょうあんじ」

 
今回の朝倉の旅の目的は橘広庭宮の伝承調べだったのですが、
橘広庭宮石碑の麓に長安寺廃寺石碑があり、それにも足を突っ込み始めました。

朗報は寝て待て?
愛読者さんから、有力情報が。

どうやら「ちょうあんじ」が二種類ありそうで、こんがらがって来たので、
今回は整理することにしました。

『大宰管内志』朝倉(上座郡)にこんな記事があるそうです。
(番号は、るながつけました)

筑前国二十上座郡
朝鞍寺 安楽寺御領目録に上座郡朝鞍寺領(略)とあり、昔々この朝倉神社の社僧の坊に朝倉山長安寺とて天台宗の寺院此郡の山田村にありしと云、いつの比に亡びたるにやすべえさだかなる事はしりがたし。(1)

橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふその寺跡いまもいちしろし。(2)
これは明確に書いてありますね。

(1)朝鞍寺は朝倉山長安寺として山田村にあり、亡びた時期は分からない。

朝倉山は麻氐良山(まてら)のことだと言われていましたね。
山田村は麻氐良山の麓にあり、木の丸殿もあります。
木の丸殿とは斉明天皇の服喪のために中大兄皇子が殯(もがり)をした所。

長安寺廃寺跡にはこんな説明板がありました。

「筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。」

長安寺は恵蘇八幡宮の「社僧の寺」ですって。神宮寺みたいな感じでしょうか。
地図を見ると、山田村と恵蘇八幡宮は隣接していました。



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ネットの地図では分かりづらいので道路地図をコピーしました。
右の円が山田で、長安寺(朝鞍寺)が麻氐良山の麓にあるのが確認できますね。
「長安寺」とは「朝鞍寺」ということになります。



では、「朝闇寺」はどうでしょうか。

(2)朝闇寺は須川の枝村にあって、寺跡がはっきりしている。
その南、宮野村に橘広庭宮がある。

上と同じ地図ですが、左の円が須川で、朝闇神社がある所です。
瓦など鳥居の北辺りから出土したようですが、まだ特定には至っていません。

以上、『大宰管内志』に書かれている二つの「ちょうあんじ」の在り処を確認しました。
(著者は伊藤常足さんですよ~。鞍手の古物神社の神主さん。物部)


太宰管内志だけで結論を出せる訳ではありませんが、これって、すっきりしますよね。

前回、説明板を読んで理解できなかった点も、二つの「ちょうあんじ」を想定すれば、
整合性が取れそうです。

橘広庭宮の場所も宮野村とありますよ。いよいよかな~。るな探偵登場は…。

いや、るな風水師じゃ。
(つづく)





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by lunabura | 2014-05-20 21:48 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

長安寺廃寺跡 猿沢の池があった


長安寺廃寺跡

 猿沢の池があった

 別所神社で教えてもらった万徳寺横の川に出ると、神名備山が!

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低いけどきれいな円錐形。
これでは遠方からは気付かなかったはず。
都を造るなら目当ての山があるのではと思ったのですが、ちょっといいかも。

目の前の橋を渡ってさらに川沿いに進み、一軒家の先を右に曲がりました。
古い街並みの姿を留める細い道を抜けると鳥居が見えました。


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手前に駐車場が完備されていて驚きました。
(別に驚くようなことではない…が)


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そこからの眺め。意外にも高度を上げています。
向こうは耳納連山ですね。



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鳥居手前、右手に石碑が。
あれ?
長安寺と彫ってある。
長安寺と言えば、佐用姫伝説の時に出てこなかった?

ここにあったんだ。

神在神社・大伴狭手彦が祀った宮だった
http://lunabura.exblog.jp/17562963/


詳しくは上に書いていますが、その一部を書き抜きます。

欽明天皇23年(562年)8月に、天皇は大将軍大伴の連狭手彦(さでひこ)を派遣して、兵数万を率いて高句麗を討たせました。狭手彦は百済の計略を用いて、高句麗を打ち破りました。その王は垣を越えて逃げました。

狭手彦はついに勝って、宮殿に入り、珍しい宝物の数々と・七織物のカーテンと鉄屋(くろがねのいえー内容不明)を手に入れて帰還しました。(鉄屋は高句麗の西の高殿の上にあったもので、織物のカーテンは王の奥の部屋のものという)七織物のカーテンは天皇に献上しました。

甲二領、金細工の太刀二振り、彫刻を施した銅の鐘三つ、五色の幡二棹、美女姫(おみなひめ)に侍女の吾田子(あたこ)を付けて、蘇我の稲目の宿禰の大臣に送りました。大臣はその二人を召し入れて妻にして、軽の曲殿(まがりどの)に住まわせました。(鉄屋は長安寺にあるが、どこの国にあるのかは分からない。
最後の一行に書かれた「長安寺」です。
思いがけず、その現場に来ました!
(日本書紀には何処の国か分からないと書いていますが、取り敢えずここにもあります)

説明板です。
長安寺廃寺跡
福岡県朝倉町大字須川字鐘突1271~1308

 奈良~平安時代の古代寺院跡で、古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。また「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から、建物の礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。

出土瓦は、老司式と鴻臚館式のものであり、8世紀前半のものと推測されている。
現地の地名は朝倉ですが、朝鞍、朝闇と表記されているんですね。
朝鞍、朝闇と書けば「あさくら」と読めますが、
音読みでは「ちょうあん」となるので、「長安」ともなるわけです。

礎石が出ていますが、前回の別所神社では、
柱の礎石はここから持って来たのではないかという話でしたね。


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(別所神社の蓮の花の礎石)
出土物は何処に展示されているのだろう。
現物を見て、別所神社と見比べてみたいものですね。

出土物の時代が8世紀前半なら斉明天皇(~661)崩御後、半世紀。
説明板の続きでは、観世音寺と関連付けて説明がされています。

また筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。またこのことは続日本書紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから、長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。

うむ。
長安寺=橘広庭宮=筑紫尼寺か。
これはまだよく理解できない。
橘広庭宮→筑紫尼寺→長安寺 と変わったということかな。
そうすると、大伴狭手彦の時代の長安寺は何と呼ばれていたのだろう。
???
ま、いいか。



駐車場を出るとすぐに池がありました。


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「猿沢の池」と書かれていました。
もう、びっくり。
狭い。
奈良の猿沢の池を見た時もその狭さにショックを受けたことを思い出しました。

説明板です。

この池は、昔から常に満々と水をたたえ今まで枯れたことがない。かんばつの時には、この池で雨乞いがなされ、池の水を汲むと大雨が降るといわれていた。
また、昔は池底がとても深く、つり鐘が埋められているという伝説があり、廃寺となった長安寺と関係があるのではないかと考えられる。
なお、近くには「朝倉橘広庭宮跡」をはじめ、斉明天皇が橘広庭宮におられたとき、
御遊されたという「花園山」「降葉山」「桂川」等の旧跡がある。
おお、この近くには斉明天皇の足跡が沢山残っているんですね。
地図、地図がほしい。

地図を見ながらあれこれと妄想するのが楽しいんですけどね。
これは現地の人が描かないと分からないっす。

(つづく)





斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月11日 斉明帝、中大兄皇子 福成神社にて戦勝祈願。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮





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by lunabura | 2014-05-17 22:43 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(8)

トンカラリンはやっぱり不思議


トンカラリンはやっぱり不思議

前回の江田船山古墳と同じ丘陵にトンカラリン遺跡があります。
(古墳と遺跡の間に県道が通っているので、別の丘陵にみえますが)

県道から急坂を車で上り、「どこかな~」と言う頃に小さな案内板。
二股になって、「どっちかな~」と思うと左手に遠慮がちな案内板。

下って行くと説明板があったので、「ここに止めていいかな~」と言いながら
止めてみたら駐車場でした。

そこから、どこにあるのかキョロキョロすると、家の壁に手作りの「トンカラリン」の矢印。
「あった、あった。みなさん、こっちですよ~」

一緒に行った二人は二度目でしたが、それでも「どこかな~」と言いながら辿り着きました。
このブログ見て、見学に行く方、迷いそうでちょっと心配。

でも、現地はとても整備されていましたよ。  



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なにこれ?
いきなり怪しげなトンネル。とても狭くて覗き込むと石段。
な、なんでここに石段?


奥には光が見えています。
小学生向きのサイズ。
入るのは、ためらって、スルー。




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その先、こんな階段が幾つもあって、右手の方に遺跡がずっと続きます。
トンネルがあったり、露天になったり。

ガイドがいないと、どれが遺跡が分からなかったな。
  



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「あ、あれですか」
穴をめっけ。
「入りますか?」
「もちろん!」
トンネルを避けて歩くIさんに、厚かましく「護衛に一緒に入ってください」とお願い。

ネットで予習していたけど、
「汚れていい恰好で」と書かれていたのを忘れていた。
まさか、トンカラリンに行けるとは思っていなかったので、今日は珍しくヒール。


でも行く!
テンションは高め。迷いはない。汚れそうになったら戻ればいい。
立って歩けます。



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床はこんな感じ。





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天井は石の蓋!

懐中電灯がないと真っ暗です。
携帯のライトを点けたけど、光は足元までは届きません。
奥の方は岩がゴロゴロしていました。


トンネルはすぐに終わりましたが、またさらに大きなトンネル。






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出た所。


さらにトンネル。
しかし細すぎて、ついに体が通らない。
ここで断念。


「るなさん、どう思う」
「掘っていった感じがする。鉱脈を掘り進めて行った趾かな。
足元にキラキラする白い砂がありましたよ。香春岳と同じ真っ白な石」

これ以上はさすがのるな探偵もお手上げ。





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帰り道、民家の石積みが独特。長い石を横に並べている。
あとで、石切り場があるという情報も入って来ました。


「もういいですか」とIさん。時間が迫っています。
「はい。この手の泥んこ探査はくるま座さんに任せましょう」






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案内板を見ると、三分の一も見ていなかった。
イラストを見る限り、下の方はいかにも作業場っぽい。
でも、祈りの気配もある遺跡だった。

上の方には神社があり、磐座のある山も見える。
組み合わせて、総合で探査するべき遺跡だろう。

神社の神さまの名前がヒントになりそうだと思って調べると、
鶯原神社は菅原神社とも言い、道真公が祀ってあるという。

ああ、それなら、やはり鉱山に関係あるかな。

ネットは便利。
かむろ山を調べると登山記録も出てくる。
頂上には石祠があって「彦嶽社」の石碑。磐座は記録なし。


20分の訪問でしたが、とても楽しかった。

我こそはと思う方、懐中電灯と軍手、ズック必携 (・_・)

以上、謎のトンカラリンでした。^^









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by lunabura | 2014-05-07 19:00 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

江田船山古墳・ムリテら三人が眠る奥津城


江田船山古墳
ムリテら三人が眠る奥津城


ついに、熊本県和水町(なごみ)の江田船山古墳にやって来ました!
教科書に出てくるし、当ブログの百済の前方後円墳にも出て来て、
現地に立ってみたいとずっと思っていました。


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円墳と思いきや、

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前方後円墳でした。
手前のカーブの辺りは周溝で、とてもきれいな形をしています。

環境、スゴイ。
こんなに手入れされた環境の古墳、初めてです。



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前方部から後円部を取ったのですが、入口が斜め!しかもくびれ部から入る。
この向きに、ちょいと驚いた。


そして、この鉄の扉を自由に開けることが出来るのです!!!(^o^)/

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鉄の扉を開ければ家形石棺。
蛍光灯がいくつかあるので、竹原古墳のように怖くはなかったです。( ´艸`)
う~ん。デカイ。

横口式ですね。つまり追葬が出来ると言うこと。
調査では5世紀後半~6世紀前半の三人分の副葬品が出土した、となっています。
それにしても、石室はどうなってるんだろう。
部屋を見回すと、壁や天井は現代の加工なんです。
羨道も見当たらないし。

説明板にはその記述がないので、もしかしたら石室は無しかな?
石棺の上に直接土を重ねた?

この古墳は明治6年(1873)に夢のお告げで発掘されました。
未盗掘でした。
出土品は例の調子で地元にはありません。(´・ω・`)




ただ、現場に写真があり、レプリカが資料館にあるので、理解しやすいです。
この日は資料館に行く時間はありませんでした。
副葬品の写真はウィキぺディアなどに掲載されています。

副葬品の鉄剣に銀で象眼されていて、ムリテに与えたということが分かっています。(異説あり)

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で、副葬品には金の素敵なイヤリングもさることながら、三環鈴が出ています♪

外側には埴輪でなく、石人が置かれていました。


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これは横のの石人レプリカ公園。

で、何が知りたかったのかというと、この古墳の所在地、菊地川流域と百済の前方後円墳には縁があるので、現地を見たかったのです。

次の記事を自分でも読み直しました。
「百済の前方後円墳」
http://lunabura.exblog.jp/i189/



1 栄山江流域の前方後円墳の被葬者は副葬品から考えて「周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊地川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定」される。
「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)より
このように、菊池川下流域からも百済に向かった武人がいたわけです。

百済で見つかった前方後円墳群は倭人が造ったもので、
築造年代は5世紀後半から6世紀前半。
江田船山古墳は「5世紀後半、6世紀初頭、それに6世紀前半の3つの時期」(熊本HPより)。
ぴったり重なっています。

百済の被葬者はゴホウラ貝など倭国のものを持って埋葬され、
百済で手に入れた金銀の威身具は故郷に送る。
そんな推測がなされています。

その黄金の威身具に包まれて江田船山古墳に埋葬されたムリテは
「典曹人」という身分で、行政事務の役人と考えられています。

任那四県を百済に譲渡した事件、また継体天皇と磐井の戦いが起きた時代です。
ムリテは朝鮮半島の情勢、また筑紫君・磐井をおびやかすヲホド王(継体天皇)の状況を
どのような思いで見ていたのでしょうか。



c0222861_2205017.jpg

右手に円墳。中央奥が江田船山古墳。
夏には祭もあるそうです。
市民に愛されてます。^^




江田船山古墳 熊本県和水町(なごみまち)









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by lunabura | 2014-05-05 22:06 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

吉武高木遺跡(3)聖方位は北東か?夏至ラインか?


吉武高木遺跡(3)

聖方位は北東か?夏至ラインか?

ようやくすべてを出版社に委ねました。

中断していた記事、吉武高木遺跡(2)に戻ってみたら、
つづきにいったい何を書こうとしたのか、忘れてしまいました。

そこで、過去記事をジ~っと読み直し。
そうそう、埋葬の向きと夏至ラインが書きたかったのです。

聖方位―北東か?

Iさんから、メールが来ました。
「吉武高木遺跡(1)を拝見しました。
BC2世紀頃の甕棺墓群と大型建物跡があり、
三種の神器が副葬された最も古い時代の墓だそうですが、非常に興味をもっています。

甕棺の向きが全部北東方向ですので、地図で見ますと香椎宮の方向かなと思います。
香椎宮で正しいのであれば、奴国王の宮が香椎宮あたりかなと推測しますが、どうでしょうね。」

え?北東?

このメールのお蔭で、私は勘違いしていた事に気づきました。
説明板が北面していたので、南北を全く逆にイメージしていたのです。(・.・;)

るなには、何処にいても、自分の向いている方向が北だと考える癖があります。
これを方向音痴というのかも (´・ω・`)
で、改めて説明板を見直しました。

c0222861_2215115.jpg

ホント、軸線は北東―南西だ。あるいは、少し東に傾いている。
しかし、被葬者の頭はもしかしたら、南西かも知れないと思って
甕棺の蓋の描き方を見ると、やはり北東になっているようです。

調査報告書をきちんと見れば簡単に確認できるのでしょうが、
不精して、今回は北東で考えて行きたいと思います。
(南西だったら、すべて水の泡ですぞ。るな、それでいいのか)


これは吉武高木遺跡と香椎宮。

確かに香椎宮が延長線上に考えられます。


c0222861_22543299.jpg

これは遺跡から東の方向を撮ったものです。
地図と山を照らし合わせると、右の山裾は油山から流れたもの。
中央より左の二上山が立花山っぽい。さらに左奥にあるのが犬鳴連峰でしょうか。
(う~ん。地図と写真と上手く照合できません。分かる方、教えてください)
香椎宮は立花山の左の麓辺りにあります。

香椎宮が都となったのは仲哀天皇の時。
紀元200年頃です。
この遺跡は紀元前1~2世紀ですから、300年以上の隔たりがあります。

香椎宮は『日本書紀』では「儺県(なのあがた)」と書かれています。
「儺=奴=那」ですから、そこは奴国だったのでしょうが、
紀元前はどんなクニがあったのでしょうか。
古くは「倭奴国」と言ったかもしれませんね。
今の段階では何とも言えません。
名島に奴国の離宮があった話などを含めて、これからもっと調べる必要があります。


聖方位―夏至の日の出か?
Iさんが続きで「夏至の日の出方向」の可能性も指摘してありました。
遺跡の人たちは先程の地形から朝日が昇るのを毎日見ていたんですね!

角度的には夏至の日の出ラインの方が近いように思えますが、測った訳ではありません。

そういえば、当地はかつて「平群」という地名で、
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。(『儺の国の星・拾遺』p245)

とあったので、夏至ラインかどうか確認する必要がありますね。

吉野ヶ里遺跡が夏至ラインを持っていることについては、
プラネタリウムに出掛けて、学芸員の方に調べて貰って確認して結論付けました。
るな的には専門家に尋ねないと、判断できないのです。

なお、この吉武高木遺跡の近くには吉武樋渡遺跡があります。
それは紀元前1世紀ごろなので、次の時代の人たちです。
その墓群は南北に近い軸線を持っているので、聖方位が異なる人たちです。

近い所で、約100年後には聖方位が違う人たちがいたという点で、
この吉武高木遺跡の聖方位は注目すべきところです。
もし、この遺跡の人たちが東征して行ったとしたら、
その聖方位を持っていった可能性があるからです。

ちなみに、「聖方位」って今回思い付いた言葉です。

それぞれの氏族に信仰する神がいて、聖方位がある。
氏族たちは移動しながらも、自分たちの神々と地名と聖方位を保ち続ける。

彼らは朝な夕なの太陽を望み、夜にはさんざめく星の輝きを見て遥かなる故郷をしのぶ。
神と聖方位は氏族のアイデンティティでもあった。
そんな古代の人々の思いが偲ばれます。

私たち個人にもそれぞれ聖方位があるのではないでしょうか。
いつも心惹かれる方位。

毎日、南のオリオン座を見ながら「北」と思い込む るなは、「北」が聖方位なのかも。
(方向音痴も重症ですな)


このはなさくや姫の里 15
シリーズで読む方は下の「♯」からどうぞ。

さて、木花開耶姫については、ニニギノ命の出会いの地など、
まだまだ探す所は沢山あります。
ひとまず、ここまで。
このシリーズ、またいつか続きが書けますように。





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by lunabura | 2014-01-06 22:56 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(17)

吉武高木遺跡(2)ここは平群らしい・近東の月の民・ササン系・へぐり


吉武高木遺跡(2)
ここは平群らしい

近東の月の民・ササン系・へぐり

前回、ボロ地図を見直して見つけた「平群」の文字。
それは、この吉武高木遺跡の付近に鉛筆で書き込まれていました。
パズルが一つハマった。

かつて『古事記の神々』で葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を訳したのですが、
右も左も分からない頃でした。
また、真鍋大覚の本にこの遺跡付近の事が出ていたので、理解出来ぬまま書き写していました。

和名類聚抄に平群が書かれていて、現在の早良区羽根戸から金武付近、と推定されています。
そこで、作成した地図がこれです。
吉武高木遺跡がすっぽりと入ってしまいます。

c0222861_22345877.jpg


そこで改めて、葛城襲津彦を読み直してみました。
次の(8)は私になりに考察した部分です。
メモ代わりに書いておいたもので、同じものをコピぺします。

* * *

葛城襲津彦(8)
福岡県の葛城・平群・曽我

(今回は、福岡県の古代の地名の資料です。)

※簡単に朝鮮半島と往来していた
訳をしていて思ったのは、ソツビコたちに大変機動性がある事です。
軍はもちろん、弓月の君や王の妹なども日韓を簡単に往来しています。
ですから、この話の舞台は、福岡市の早良区や西区を中心とした話ではないかと
思うようになりました。
当時の朝鮮半島への航路は唐津経由か志賀島経由でした。

『和名類聚抄』によると、福岡市西部を中心に
平群や曾我、額田、田部などがあった事が書いてあります。
大和地方と似た構成です。
ですから、渡来人たちは福岡市にまず、拠点を置いて、それから大和地方に移動したと
考えるのがナチュラルです。そうすると、どちらにも平群などがある理由が分かります。


※『和名類聚抄』に早良郡に平群や曽我があった事が書いてあった。
「早良郡」ウィキペディアより (早良郡で検索すると出て来ます。)
『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。


※真鍋大覚氏による伝承

『儺の国の星・拾遺』
p244
筑紫で孝元帝(前214~158)から清寧帝(480~484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平群氏が百済人をここに租界させた。


p245
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。

皇極帝(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大江皇子の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。
「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して、「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。
所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。
賀茂の氏族は日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、むしろ百姓の鋤鍬の方を主としていた。北方系の胡人であった。


『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(さわらへぐり)は、かつての平群氏の故郷であった


p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏が竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。


香椎宮から太宰府の東の峰とは犬鳴連峰の事でしょうか。
水縄=耳納
なお、「賀茂」が野芥の北にあります。

大和にこれと重なる構成の地名があるのは教科書で学びます。
葛城襲津彦は筑紫の出身で、大和に移住したものと考えると、うまくいきそうです。
それに前後して、多くの氏族の移住もあったのでしょう。
父親の「竹内(つくしうち)の宿禰」は「筑紫の内の宿禰」と考えました。

※日本書紀中の的(いくは)臣について
ソツビコの子孫が的(いくは)臣です。阿藝那臣も子孫です。
藝の字は曇の写し間違いだと思いました。安曇那臣が正しいと思います。
的臣は福岡の筑後川流域・浮羽(うきは)で、阿曇那臣は福岡市です。

* * *
以上が、『古事記の神々』に記載した内容です。

う~ん。
今、読み直すと、
弓月の民が来たのと、百済の民が租界したのと、私はゴッチャにしてる?
読解するには、まだ知識が足りないな。
誰か教えてください。

真鍋の伝える平群氏についてまとめてみると、
  「月」を意味する「フェンガル」から変化したのが「へぐり」で、
  近東の月氏のササン系の子孫。
  平群氏は筑前国早良平群郷を故郷とし、百済人を疎開させた。
  平群氏は「かひ」族で、夏至を元日として、天文暦法の家系だった。
  平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していた。

となります。
ふと思い出したのですが、
糸島の宇美八幡宮の宮司家武内家平群のヅクの子孫だと言われました。
竹内宿禰の四男の家系だということです。
聞いたときには平群と糸島の繋がりが唐突に思われたのですが、
真鍋の話からは、平群がここを掌握していたということなので、辻妻があうことになります。

この平群氏と天孫族の関係は紀元前に深いものとなっていた?
しかも、平群のツクは竹内宿禰の子孫。
弓月の君って、秦氏じゃなかったっけ。
あ、織幡神社(宗像市)の近くの波津で宿禰は幡を作らせた。

複雑すぎ!

だれかすっきりと整理してくださいな!


c0222861_2240150.jpg

吉武高木遺跡 日向峠の方向を見る


(つづく)
このはなさくや姫の里 14 ( 下の ♯ から入るとずらりと見れます)






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by lunabura | 2013-12-30 22:42 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

吉武高木遺跡(1)魏志倭人伝から消えた王国


吉武高木遺跡(1)
魏志倭人伝から消えた王国


「ねえ、マーサ。吉武高木遺跡、行ったことある?」
「あるよ。行く?」
「簡単に行けるなら行きたいんだけど」
「帰り道よ。行きましょ」

ということで、伊都国歴史博物館を後にして日向峠を越えて福岡市に出ました。
その途中で見かけたのが、例の破壊中の金武古墳群です。

この日向峠は意外に急勾配で、道も折れ曲がっています。
峠を降りて、まもなくして左折、町中を走って右折すると
広い田園地帯のど真ん中に出ました。
「この辺なんだけど」と記憶を探るマーサ。

ナビをずっと見ていた私は
「あれ?ここ、もう遺跡のど真ん中にいるよ。確かに何もないわ」
と言いながら見まわしました。
教育委員会に尋ねた時の話通りだ。

「前ね、どうしてもここが分からなくて、思いあまって教育委員会に電話したの。
そうしたら、行っても何もないですよって言われたのよ。
でも、何もなくても地形が見たかったから、
で、出土物はどこで見られますかって聞いたら、福岡市の博物館にあるって。
でも、改装中なので今は見られませんって言われた」
その時は縁がなかったんですね。

(るなさん、平気であちこち電話しているようですが、実は何日も調べて、
どうにもならなくなったときに、電話してるんですよ)
一応、シャイなんです ( ´艸`)



で、現地で見えたのが衝撃的な山!

c0222861_22134848.jpg


ガガ~ン。今立っている所は、飯盛山の真東だったんです。
あれは、この遺跡の人たちには神の山です。
朝な夕なこの山を見て暮らしたはずです。
夕陽が毎日位置を変えながら沈み、やがては星々が輝き出すのを見た。

この山の向こうに糸島があります。
右の方に行くと海があり、周船寺に行く事ができます。
前回の神武天皇の家族たちが祀られている宮々はすぐ向こうなのです。

ここは消えた王国。
日本で最古の三種の神器がセットで出土したクニなのですが、
何故か、魏志倭人伝にはその名が出て来ないのです。

魏氏倭人伝では伊都国の隣は奴国。
その間にあって、これほど栄えていたのに名前が消失している。
遺跡もその時代のものは見つかっていない。

「伊都国から陸行1日」と書かれてもよいはずの弥生集落。
卑弥呼の時代には既に国が滅亡していた?
奴国に吸収されたという説もあります。

時代は2200年~2100年前と説明板に書かれていたので、紀元前1~2世紀。
弥生時代前期末から中期初頭だそうです。

現地説明板に写真がありました。

c0222861_22143537.jpg

出土品です。
剣も矛も銅製。これは実用品ですよね、
鏡は銅鏡でつまみが二つもある多鈕細文鏡。朝鮮半島でよく見られます。
勾玉は北陸産。

気をつけなければならない点は、これらが一つの墓から出たのではない事。

c0222861_2215115.jpg

一つだけ三種の神器のセットを持ったリーダー的な人物がいて、
他は一人に一本ずつ添えられていたという点です。
るなとしては、厳格な家父長的な、男性社会を想像してしまいました。
古代日本って母系制なんで、ちょっと雰囲気が違うように見えます。


c0222861_22152221.jpg

福岡市埋蔵文化センターで、撮っていた復元模型。
これが、この吉武高木遺跡のものだとは。ようやく繋がりましたよ。
こんな大型の建物があったんですね。(こんな高床式ではないと言う説もあるとか)
紀元前の話です。」

いったいどんな人たちが住んでいたのでしょうか。

思い出すのは、志賀島で聞いた鹿さんの言葉。
志賀島から見える糸島~福岡を指さして、

「天孫族は武器を持って来たといいます。
彼らは吉武高木遺跡で国を作り、それから東征して行ったと思います。
だから、空っぽになったんです」
そうか、そんな発想もあるのだ。

武器だらけの吉武高木遺跡。
ここに天孫族のクニがあったとすれば、山を越えて伊都国の姫たちと、
あるいは海人族の姫たちと結ばれたと考えることも可能だ。

ニニギの命は糸島の西に上陸して、こちらに拡大したのか。
あるいはここを拠点として西に拡大したのか。

なにしろ、周船寺の湊はどうしても手に入れたい湊だったろう。
戦って侵略しようとしたり、縁結びで平和に和合したり。
そんな事があったかもしれない。

そして、もう一つのアイデアがKさんからメールで。
  「伊都・伊親・伊蘇・五十・イソ・イト
  製鉄するための燃料
  この国に樹木を植えた者
  五十猛
  スサノウノの子
  日向峠
  飯盛神社
  早良の王
  いい流れですね。」
この暗号めいた文を並べて行くと、吉武高木遺跡には五十猛がからんでいる?

何か手掛かりに近くに神社はないか。
そこで、はたと、飯盛山の飯盛神社はどうだ?
とHPから祭神を調べました。

「天孫降臨の砌に天太玉命(アマノフトタマノミコト)が伊弉冉尊(イザナミノミコト)を奉齋するを起源とします。
上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し飯盛三所権現宮と称し
上・中・下宮・神宮寺を設けていました」

なるほど、中宮に五十猛尊が祀られているんだ。

面白いことになってきました。

ここは地図を見ると、室見川の中上流域にあたります。
そこにこれほどの平原があった。
思うのは、あの破壊されている金武古墳群。

真砂土を採取しているという話でしたが、
真砂土というのは樹木が茂っている間は地盤がしっかりしているのですが、
伐採してしまうと、簡単に地崩れを起こしてしまうそうです。

今は青々と茂る山々も、製鉄の為に伐採された時代があるとすると、
山津波が起こってここは洪水原になったはず。
そんな災害があって、消滅した可能性もあるのかもしれない。

山でさえ簡単に消失するのは、古賀市の三上山が二山消えたり、
田川市の香春岳の一の岳が消えたりと、信じられない光景を見て来ました。
福岡市西区からは今は見えない地点ですが、興味を持って監視するべき場所だと思います。


そして、ボロボロの地図を見ていた時、思いがけない書き込みが。
「平群」
へぐり。
そう、ここは和名抄を調べていて「へぐり」と想定した地だったのです。

(つづく)

<このはなさくや姫の里 13>
シリーズは下の「♯」からどうぞ。


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by lunabura | 2013-12-29 22:19 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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