ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:<遺跡・史跡>( 36 )

鹿毛馬神籠石(3)


鹿毛馬神籠石(3)


それでは、発掘現場の写真を紹介します。
(「あつまれ!!古代山城」古代山城サミット実行委員会より)

この神籠石は「神籠石系山城」というタイトルがついています。

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地形図です。
長い方の直径が約500m程度。外郭線の総延長は約2キロだそうです。
標高線を見てみると、フラットなのは石祠がある辺りほどで、
山に居館の存在を示す地形が見当たりません。

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A地点の発掘のようすです。暗渠(あんきょ)が2本あります。
第2暗渠は土塁の下を通っています。第1暗渠は土塁の切れた所。

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現地では「水門跡」と表示されています。

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これが暗渠のようす。きちんと蓋が造られています。
周囲は石コロが多いですね。意図的に集めれている印象です。


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土塁の中から出土した柱です。
柱を分析したら、土塁の建造の時代が分かるのでは?


以上、パンフレットからコピーしました。
桜もちさん、報告書に載っていたかもしれませんね。


ついでに、杷木神籠石(はきこうごいし)(朝倉市)について。
これは平地に水門が2か所あり、鹿毛馬神籠石のツイン版に見えます。
筑後川のすぐ横にあります!

筑後国造さんが、杷木神籠石の現場報告をしてあります。
「山歩き古墳巡り」杷木神籠石 ここにも被害が…
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-406.html

やはり同じように水が必要な施設だと思いますが…。

また、アラさんの話では、その対岸に石垣神籠石が発見されて、今は消滅しているとのことでした。
以上、推理のヒントにしてください ^^





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by lunabura | 2013-10-19 23:06 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(9)

鹿毛馬神籠石(2)


鹿毛馬神籠石(2)

かけのうまこうごいし

福岡を中心に分布する神籠石(こうごいし)。
日本ではあまり知られていないとか。

先日探訪した神籠石、忘れないうちに、記録しておくことにしました。
何せ、写真を見直してみると、いったい何処を撮ったのか分からなくなりそうなんです。
筑後国造さんが行かれるので、情報提供でもあります。

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勢田から川沿いに車を走らせると、対岸にこのような山が次々と現れます。
まもなく案内板があり、壊れそうな小さな橋を渡ると、この山に入って行きます。
この山の中腹位に列石がぐるりと巡らされています。

道は未舗装ですが、すぐに車が数台止められそうな駐車場に出ました。
説明板があり、そこから赤い矢印に従って山に入っていくと、こんな感じ。

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神籠石に取りつく石段が現れます。

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ここから赤い矢印は左右どちらにも行けるようになっていました。
写真の右上はマウンド状になっていて、石祠があります。
後で行こうと思って右に行ったので、前回述べたように、戻りませんでした。


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これが神籠石。神籠石は高良山神籠石の名称から付けられた名前ですが、
このような列石は本来「八葉の石畳」と呼ばれていました。

高良山と比較して雰囲気はそっくりですが、列石は少し低い印象です。

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土砂が上から流れ込んでいるので、低くく見えるのでしょうか。
ここら辺のは、かなり長い石です。


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しかも、薄いです。このように押し出された石を見るとよく分かりますね。
これは列石の上に土塁を作ったり、何かを支えたりするものではなく、
単に境界を作り出しているのではないかと思われます。

簡単に構築するために、薄くて長い石を選ぶ、合理性が感じられます。


この列石は左にカーブします。すると、道路が見えました。

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山そのものが80m程度なので、ここの位置の標高はかなり低いのが分かります。


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このあと、50m程度でしょうか、山から出て、開けたところに出てしまいました。


正面に崩れかけた同じような風景があり、土手が先の方で切れています。
そして、列石は正面の山の中にもあるそうです。
手前に囲いが見えます。この囲いが水門跡です。

前回、「へ、平地じゃん」と驚いた地点です。


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道路に出て写しました。
この山の地形は馬蹄形になっています。

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U字型になっていて、私は写真の左の山を廻ったことがわかりました。

この広場、見ての通り山城ではござんせん。
地形図を見る限りでは、居館を作るほどの平地も見当たりません。
作業場みたいだと前回書きましたが、この平地は発掘されていて、
右と左に水路があり、蓋がされているのが分かっています。(暗渠)



広い地形を見ると、古遠賀湾の近くなのが分かります。
るな的な推理は、
葦が生い茂る古遠賀湾から葦を刈り取って、船でこの遺跡に運び込み、
正面の土手の奥で燃やして、鉄と灰に分ける作業をしていた所ではないかと思いました。
だから水が必要なのでしょう。
近くには溜池があり、周囲にも水が沢山ある山でした。


その点で、同じ神籠石の名を持つ高良山神籠石とは目的が違うように思われました。
高良山の場合は「神が籠る石」と「列石による結界」が原義です。

ここの「結界」は「境界」という意識が感じられました。
そう言う点で、高良山より近代的な「合理性」が感じられたのです。
規模が小さい点でも、洗練された工房だというのが第一印象でした。

今、改めて地図を見直すと五分の一ほどしか歩いていませんでした。
大胆な推論ですが、備忘用にメモしておきます。
みなさんも推理してみてくださいね。

続きは筑後国造さんにバトンタッチで~す ^^





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by lunabura | 2013-10-16 21:45 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

ミリカローデン那珂川の前であれこれ考えた・倭国と日本国・仲遺跡・亀石


ミリカローデン那珂川の前であれこれ考えた

倭国と日本国・仲遺跡・亀石
 


ついに那珂川町に戻ってきました。
一年前だったでしょうか、裂田溝(さくたのうなで)を辿りながら
御中主神社、風早神社、伏見神社、裂田神社、現人神社などを逍遥しました。
(どれもサイドバーからどうぞ。)

人の営みと自然が調和した里で、日本書紀に書かれた水路を辿った古代散歩は
沢山残されていた伝承や祭りで豊かな色彩にいろどられていました。

そして今回は百済の前方後円墳の話から日拝塚古墳を経由して那珂川町へと
思いがけない歴史を辿ってやって来ました。

韓半島の南にある前方後円墳の被葬者は倭人で、九州の北部出身の人たちでした。
この時代についての中国側の記事を読むと、
倭国が毎年朝貢していたのに、その旅程を高句麗が邪魔するという状況でした。

そののち、いつの間にか日本国という存在が出現して、
これもまた中国に朝貢して来ました。
だから、一時期は倭国と日本国という二王朝が同時に存在しています。
その後、倭国の記述は消えて行きました。
韓半島の古墳もまたそれを裏付けるような状況でした。
その石室の構造が春日市の日拝塚古墳と似ているのを確かめに行ったのが
前々回の記事です。(サイドバー→日拝塚古墳)

百済と春日市と那珂川町。
この三つの地域が古墳でつながったのは偶然でした。
ある講座で百済と日拝塚古墳がつながるのを知り、
那珂川町の講座で日拝塚古墳と那珂川町の王墓級の古墳群がつながるのを知りました。

そこで、私の中で、那珂川町の古墳群→日拝塚古墳→百済の前方後円墳という
系譜があるのではないかという仮定が生まれました。
それは確かめないと分かりません。

時代は5~6世紀。磐井の乱は527年。
この磐井の乱は良い指標になります。
筑紫の君・磐井は筑紫の古代史ファンにとってはヒーロー。
(と、私だけが思ってる?いや、きっとみんなにとってもヒーロー。)
その子は葛子。他に鞍手の北磐津などがいるのが分かっています。
そして粕屋の屯倉。宮地嶽不動古墳。岩戸山古墳など。
筑前でも筑後でも、福岡の各地で彼らは深い歴史の奥から呼びかけて来ます。
そう、磐井の君の治めたエリアはとても広かったのです。

そのエリアは彼より300年前の人である神功皇后の移動したエリアにも
一部重なっていました。
皇后を支えた筑紫の古代人たちは、夏羽や羽白熊鷲、田油津姫たちという
旧勢力を滅ぼした後、新たな秩序を作り上げました。
それは連合国的なものだったように思われます。
これが倭国ではないかと思い始めました。

そして6世紀になって筑紫の君として記録に残ったのが磐井です。
彼はついに継体天皇と雌雄を決した。
それが倭国と日本国の戦いだったのではないでしょうか。
言いかえれば九州王朝VS近畿王朝という形なのでしょう。

「日本国は倭国の別種である。」
それは現代の「英国と米国」のような関係に近いと思います。
英国からの移民たちが独立して新国を作り、母国を凌駕して繁栄した。
伝統の国VS繁栄した新国。
それが「倭国と、東の方で繁栄した日本国」とそっくりだなと思うのです。

さて、日拝塚古墳が6世紀のものであり、
那珂川町の古墳群がそれより過去にまで遡れるらしいという事は
磐井と同時代に生きた人たちが埋葬されているという事になります。

那珂川町の古墳の分布は全国の10倍の密度だそうです。
乱開発から逃れ、系統だった古墳の変遷が見られる町です。
その古墳群の中に何が見つかるでしょうか。楽しみです。

今、私はミリカローデンという町の施設の玄関前にいます。
この真下にも古代の遺跡が眠っていました。
古代の人はどんな景色を眺めたのでしょうか。

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西の山々が見えます。片縄山や油山です。

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南には神奈備山がありました。城山というそうです。
ここに住む人々はこの山を神聖視したに違いありません。

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その人たちの遺した遺跡を仲遺跡(ちゅういせき)と呼びます。
縄文時代~古墳時代。
という事は仲遺跡の人たちは神功皇后や竹内宿禰を出迎えたかも知れません。
磐井の君とはどう関わったでしょうか。
ここもまた奴国(那の国)なのです。

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玄関口にぽつんと岩がありました。
どことなく怪しくて、ペトログリフでもないかと観察していたら、亀だ!

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自然石の一部だけを亀に見立てて彫っています。
どこから持って来たのだろう。
スタッフに尋ねたけど分かりませんでした。
亀は各地で神の使い、あるいは神そのものでした。

造成する時に現地から出たのでしょうか。それとも他所から持ち込んだ?
これは土器と同じように文化財としてどこから発掘されたか記録されるべきものです。
遺跡も石も神社も全部、ひっくるめて文化財だと思っています。

そして施設内には三角縁神獣鏡がありましたよ。
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そして例の山本太郎に似た貝徳寺くん。(と、古墳の名前からネーミング)
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さて、うまくつながるかな。さらに古代を歩いてみましょう。




ミリカローデン那珂川 福岡県筑紫郡那珂川町仲2丁目5-1
文化ホール 図書館 プールなどの総合施設






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by lunabura | 2012-06-09 18:29 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(3)

発見された遺跡は大宰府政庁の客館?


発見された遺跡は大宰府政庁の客館?
太宰府市朱雀2~3丁目


今日は地図を広げていたら、どうにも止まらない。
国土地理院の5万分の1の「太宰府」「甘木」「福岡」「背振山」を
糊で貼り付けると1m以上の大きな地図になります。

気になる地名に印をつけてお遊び。
道路地図帳なんかは周辺が山で終わるけど、つないでみると
山越えルートがとても近くでびっくりする場所がいくつもある。

そんな今日は西日本新聞に最近発見された大宰府の客館らしき遺跡についての
解説が載っていたので、いったい何処にあるんだろと
太宰府のあたりをずっと眺めていました。

これは今日の新聞記事。

c0222861_2101513.jpg

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それで客館をネットで検索すると、現地説明会用のPDF版を見つけたので、
印刷してお勉強する事にします。(^o^)/

大宰府条坊内の客館(8~9世紀)
http://www.city.dazaifu.lg.jp/data/open/cnt/3/5933/1/document_about_guest-house_in_ancient_Dazaifu.pdf

(リンクが効かない時は「大宰府条坊内の客館(8~9世紀)」で検索するとトップに出て来ます。)

下の西鉄操車場跡の部分が朱雀で遺跡の発掘現場です。
c0222861_2121423.jpg

(画像出典 上記PDFより)

これからも全国の遺跡の現地説明会の資料がこうして出されると有り難いですね!

九州王朝論とかよく聞くけど、都が見つかってないってホントですか?




地図 太宰府市朱雀




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by lunabura | 2012-03-23 21:11 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

良積遺跡・ペトログリフと銅鏡と甕棺・邪馬台国候補地


良積遺跡
よしづみ
福岡県久留米市北野町
ペトログリフと中国製の銅鏡と甕棺
邪馬台国久留米説はここ?
 
赤司八幡神社から北西500mの田園の中に良積遺跡があります。
弥生時代の環濠も出ているとの事で立ち寄ってみました。

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田を作るための整備中に発見された遺跡で、田んぼの一枚分が遺跡になっていました。

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近づくと、おお、石が…。弥生遺跡に石?何だろう。
と近寄ると、「おおおお、ペトログリフだ!」

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真ん中には、見事に丸い線刻。周囲にもいろいろを見えます。
う、裏は?

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こっちもすごい。上にも右にも左にも。
特に右下の線刻は、山口県の彦島のペトログリフと似てない?

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彦島のペトログリフはこれ。(ペトログラフ・ガイドブックより)

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これは現地にあった解釈。漢字に直していますが、ずいぶん無理してますね。
何せ、古代文字ですから。

この石について伝承が書かれていました。

良積石
元慶7年(882)筑後国司・都朝臣御酉(みやこあそんみとり)が暗殺されるという事件が起こります。この事態に朝廷は藤原良積を派遣、犯人逮捕の任務につかせました。伝承によると、その事件の舞台となったのがこの地であるということです。つまり、藤原良積の墓石ということで良積石と呼ばれるようになったようです。しかし、一説には事件の被害者、筑後国史都朝臣御酉の墓ともいわれています。(後略)
ここは国司の御酉の暗殺の舞台なんですか。
この石は良積の墓石、御酉の墓石、また供養石といろいろ説があるようですが、
ペトログリフ石として、古代の文字が書かれたものとして研究した方がよさそうですね。

さて、この敷地の下には縄文から鎌倉時代の遺跡があります。
良積遺跡の名前は良積石に由来します。県営圃場整備事業北野東部地区に先立ち実施された発掘調査は、1993年1月~1994年12月にわたる丸2年を費やして27,000㎡が調査されました。

調査の結果、縄文時代のおわり(約2500年前)~鎌倉時代(約800年前)の集落や墓地であることが分かりました。

住居跡160軒、井戸250基、甕棺墓40基などがみつかりました。弥生時代には集落のまわりを深い濠で囲んだ環濠集落であったこともわかっています。また、多くの石器や土器をはじめ、青銅器、鉄器、木器、陶磁器などが出土しました。

しかし、良積遺跡は全体のほんの一部を調査したにすぎず、未だ多くのものが多くの謎とともに眠っています。
住居跡が160軒とは多いですね。
甕棺墓があり、環濠集落だったというので、吉野ヶ里のような国があったと思われます。
ここに住んでいたのは誰か?
もちろん水沼(みぬま)の君です。
だって、赤司八幡宮から500mしか離れていないんですもん。
ここに住んでいた弥生人たちが三女神を祀り、景行天皇を迎え、神功皇后を迎えたはずです。
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甕棺墓
甕棺墓は北部九州にだけみられる特殊な埋葬方法ですが、それでも現在までに数千、数万という甕棺墓が発見されていて、筑後地方では特に珍しいことではありません。

それにもかかわらず、良積遺跡の甕棺墓は多くの謎を投げかけました。
良積遺跡の甕棺墓は弥生時代のおわり、倭国大乱のころ(約1800年前)です。
甕棺墓は倭国大乱以前に失われた埋葬方法です。

すでに失われたはずの古い風習が残っていたことがわかります。また多くの副葬品もみつかりました。青銅鏡、鉄製武器、管玉、勾玉など。大乱の後、各地に王が出現したといわれますが、良積の王の存在が想起されます。

しかし、なぜ王の墓が古い風習=甕棺墓なのでしょう? (説明板より)
それはですね。人間って先祖の墓制を簡単には変えられないからじゃないかな。
と、るなは思うのですが。
水沼の君はずっと甕棺だった…のかな。
それに対してここに景行天皇の形代として残った国乳別(くにちわけ)皇子は前方後円墳でしたね。
(⇒烏帽子塚古墳)
なんだか神社伝承と辻褄が合ってしまう。でも、専門家から見たら妄想と言われるかな。

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さて、出土した銅鏡は中国製だそうです。
斜縁式方格規矩鳥獣文というそうです。斜縁式は珍しいそうです。
断面は三角になっているそうですから、三角縁って何故言わないのかな?

製作年代は235年から265年の間と推定されています。
卑弥呼が魏に使者を派遣したのが239年。翌年銅鏡が100枚贈られています。
まさに、卑弥呼の時代と重なる銅鏡です。

有名な三角縁神獣鏡はすでに500枚を超えてしまったので、
邪馬台国を探す人は他の銅鏡にシフトしているのかなと思ったけど、まだまだ論は熱いようですね。

という事で、邪馬台国久留米説(御井郡)はここ、と言う事でよろしいでしょうか?
まだ他に久留米市内の候補地があったら教えてくださいませ。



地図 良積遺跡 






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by lunabura | 2012-01-17 21:19 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(6)

栗田遺跡・朱の祭祀土器のクニは熊鷲と対立していた?・邪馬台国朝倉説はここ


栗田遺跡
くりたいせき
福岡県筑前町栗田
朱の祭祀土器のクニは熊鷲と対立していた?
邪馬台国朝倉説はここ
 

松峡神社の参道からまっすぐ。農道を下って行くと看板がなにげに。おおっ。ここは遺跡だ。

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栗田遺跡(経田地区)
所在地 朝倉郡筑前町大字栗田字経田(きょうで)  (旧三輪町)

この遺跡は、昭和初期にすでに合わせ甕棺(かめかん)や赤色に彩られた高杯(たかづき)・壷(つぼ)類が出土することで知られており、昭和48(1973)年の調査で甕棺72基、祭祀(さいし)遺構8か所の遺構が検出されました。

特に祭祀土器は高杯や壺のほか椀(わん)・甕・大形筒形器台などがあり、精製された胎土で赤色に塗られ、表面の内外をていねいに磨いた丹塗磨研(にぬりまけん)土器が多量に出土し、墓地に伴う祭祀遺跡として有名です。

 これらの出土遺物は、平成6年28日に国の重要文化財の指定を受けました。
         平成12年3月31日   筑前町(旧三輪町)教育委員会

(胎土とは材料の粘土の事。)
おおお。こんな所で会えた。ここは栗田遺跡だ!
甕棺72基と祭祀遺構が八か所とは多いな。

看板にある写真は退色していますが、この遺跡の特徴は真赤な土器なのです。
甘木歴史資料館や小郡国立歴史資料館に行くと、並んだ土器の中でも
一際美しく朱色が輝き、その高杯の高さに目を引かれます。
その赤い土器の出土現場にたまたま出くわしたんだ。
国指定が平成6年とは意外に遅かったんですね。

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(甘木歴史資料館だより41号より)
これは弥生時代の中期だそうです。すると、神功皇后のちょっと前だ。

これについての出土状況の資料があったので、一部を書き換えながらまとめてみます。
すでに畑や水田となっているが、当遺跡は水田面より1.5mほど高い洪積台地上にある。この台地の南の部分が弥生時代の遺跡帯である。

この栗田遺跡は旧栗田小学校の敷地内にあって、今は水田となっているが、この東にはまだ台地が残っていて、同種の遺跡が多く残っているものとみられる。

高杯は全面をベンガラ染めにし、その口縁の平たく広い部分に櫛歯文を間隔を置いて描き、光沢を施している。磨研にはヘラを使っている。

昭和26年に畑地水田化の工事が進められたが、この時もすでに土取りの途中で既に遺物は排土中に投げ出されていたため、出土状況は分からない。しかし、10数基の須玖式の甕棺と共に大型丹塗磨研された器台が出土していた。
(『埋もれていた朝倉文化』朝倉高校史学部出版)

ここに立つと水田なので、土地が低いかと思ったのですが、
もともとは高台で弥生の墓地だったんですね。標高は40m~80mです。
遺跡の上に小学校が建って、畑になって、それから水田に変える時に、どんどん出土したんだ。
昭和26年は戦後間もないから、食糧作りが優先されて、
土器ががんがん出て来てもそこらに放置されたんですね。

それにしてもこの高杯は82センチ。フォルムの美しさといい、
朱色の光輝くようすといい、ほかに見られない美意識の高さです。
甕棺は須玖式というなら、那国とどう関係があるんだろ。
もうちょっと土器を真剣に勉強しながら見ておけばよかった…。
(こんな後悔の日が来るのは予想していたけどね…。)

そして辺りを見まわすと、もう一つ看板がある!
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行ってみるとちょうど稲刈りが一枚終わったところでした。
栗田遺跡(旭ノ下・ひのした地区) 所在地 朝倉郡筑前町栗田字旭ノ下

東に旭ノ下川が南流し、南西300mに多量の祭祀土器を出土し、国指定を受けた栗田遺跡経田地区があります。

昭和49(1974)の調査で弥生時代前期後半から中期の住居跡3軒と袋状貯蔵穴2基、
土壙(どこう)7基、溝跡一条、後期の住居跡1軒、終末期から古墳時代初頭の大溝一条が発掘されました。

またこの遺跡からは「石製把頭飾(はとうしょく)」という有柄(ゆうへい)銅剣の石製模造品が出土しています。
平成20年3月  筑前町教育委員会

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これが石製把頭飾です。弥生時代から古墳時代までの住居があったんですね。
この地域の人たちがここを住居や墓地とするなら、神は山の方。
そう。松峡神社を祀った人たちのはずですね!

しかも羽白熊鷲が太宰府まで遠征するならここを通るはず。
こんな美しい暮らしをしている人たちから略奪するのも無理ないなあ。

という事で、栗田遺跡の人たちは羽白熊鷲と対立して、
神功皇后軍を聖地の松峡神社に迎えた人たちだと思いました。

邪馬台国が朝倉にあるという人たちはここを邪馬台国と推定しています。
その場合の卑弥呼の墓と噂されているのがこれ。

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それでなくても、気になる塚です。

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ここに立って驚いたのは、みやま市の田油津姫との戦いの現場とどこか
雰囲気が似ている事でした。東の山との距離感です。
このクニの特徴は目の前に二神山がある事です。

太陽祭祀があったにちがいない。地名も「旭ノ下、久光」などがある。
ここからは神の山ー大己貴神社の御神体山が見えていました。
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その山の右の方を見ると、あれは仙道古墳の前の森だ。大己貴神社がその向こう。
皇后軍はこの山裾を通って大己貴神社まで進軍しました。

ここは巨大な祭祀遺構の只中だ。まずは観測ポイントをさがそう。
必ずそこに神社か石がある。探しに行こう。(^ ^)/

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地図 粟田遺跡

参考
栗田遺跡を詳しく知りたい方のために文化庁データベースから。
弥生時代の墳墓から出土した赤色塗彩磨研土器の一括で、壺形二十七箇、甕形六箇、鉢形二箇、高坏形十箇、器台形三箇、蓋形一箇で構成される。

 栗田遺跡は福岡県朝倉郡三輪町、朝倉山塊の南麓に形成された扇状地に立地し、圃場整備事業に先立つ昭和四十八年度の調査以来、昭和四十九年度、六十年度と三次にわたる発掘調査が実施された。

 本件は、そのうちのB区と称された四〇〇平方メートルの範囲で検出された、弥生時代中期から後期の甕棺墓・土壙墓群と、この墓地を区画すると考えられる溝から出土した一括である。土器は「丹塗磨研土器【にぬりまけんどき】」と称されるものが大半を占め、それに磨研土器が伴っている。これらは、甕棺埋葬に伴う墓前祭祀に用いられたものと考えられる。なかでも器台形土器は、高さ八二センチを測り、大型でその遺存状態もよい。

 丹塗磨研土器を祭祀に用いるのは、主に佐賀県や福岡県中南部など、北部九州を中心にした地域であるが、住居跡内から出土する例もあり、墓域以外でも日常の祭祀に用いられることがあった。
 本件の一括は、弥生時代最盛期の基本的な組み合わせである高坏、壺、甕、器台が質量共に豊富に揃い、弥生時代の葬制を具体的に示す恰好の資料として価値が高い。






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by lunabura | 2011-11-06 13:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

関見台公園・関門海峡を見晴らす串崎城あと


関見台公園
山口県下関市長府宮崎町
関門海峡を見晴らす串崎城あと

沖縄に停滞していた台風が北上を始め、山口県にも注意報が出ていたのですが、
行けるところまで行ってみようという事で、下関市に向かいました。
門司辺りに来ると、正面の空が少し明るくなって期待が出て来ました。
ま、写真が撮れなくても場所確認だけでもと関門トンネルに入りました。

毎回なんだけど、下関市はトンネルを出てからが道が難しい。
ナビに従うと高速道路にばかり導くし、帰りも一発でトンネルに戻ったためしがない。

今回はナビのお勧めに抵抗して地図を見ながら瀬戸内海側に向かいました。
最初の目的地は豊功神社なのですが、一歩早く曲がってしまい関見台公園へ。
せっかく入り込んだので、見学してみることにしました。
駐車場が整備されて、緩やかにカーブを描く遊歩道があってそのまま上って行きます。

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あれ?ここ、お城じゃない?石垣が見事です。

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道なりに進むと巨大なクジラのモニュメントがありました。
写真では左の方にしっぽが見えてます。
反対側に展望所があったので階段を上ると、下関の海が見えました。
対岸の九州もよく見えます。
ああ、これは軍事的に重要な所だな。ここを通る船がすべて把握出来る。

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礎石が残っていて、楼閣でも建てれば完全に海上を掌握だ…。
あとでネットで調べると、お城の天守台があった所でした。
敷地の角がきっちりと東西南北を取っているので、
羅針盤がなくても、方位が把握できる基礎です。

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方向を変えると火の山ロープウエイあたりが見えています。

串崎城というお城で、天慶3年(940)頃に
藤原純友の配下の稲村平六景家が築いたものという伝承があるほか、
大内氏の重臣内藤左衛門太夫隆春が築城したものとも言われています。

時代は違っても、このような地形は、
築城される前からず~っと重要拠点だった事でしょうね。

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天守台を降りて戻る道です。
桜がたくさんあって、春にはさぞかし華やかな姿が見られる事でしょう。

地形上、もしかしたら豊功神社まで歩いていけるかもと期待したのですが、
いったん9号線に戻らないと道がありませんでした。
でも、ネットで調べると、ここから豊功神社までが串崎城の敷地だったそうです。
今は途中に民家が建っています。

お城跡と知っていれば、写真の撮り方も違ったんですが、
ま、予定外だったし。
私の頭の中は五社分ぐらいしかメモリーの許容量もないし。

と言う事で、豊功神社へ行きましょう。

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地図 関見台公園





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by lunabura | 2011-10-04 14:45 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

鹿部田淵遺跡・「粕屋の屯倉」の候補地


鹿部田淵遺跡
ししぶ・たぶち・いせき
福岡県古賀市美明(みあけ)
「粕屋の屯倉」の候補地に行って来ました

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「粕屋の屯倉」の候補地の鹿部田淵遺跡が公園化されたと聞いて出掛けてみました。
名称は「みあけ史跡公園」となっていました。
大地に実物大の直径の柱が立っています。列柱のようすがよく分かります。
よけいな屋根などもなく、シンプルでエコで、分かりやすい復元ですね。
この写真は「建物3」をほぼ北から南に向かって撮りました。

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これは「建物2」を西から東に撮りました。「建物2と3」は直角になっています。

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現地の説明板です。緑で描かれた部分が、その建物の配置図です。

遺跡の特徴は建物群がL字型に配置されていて、機能的な事。
中央には広場がありますね。
中心的な建物は一番大きい「建物3」で、海に面する方向にはひさしがついています。作業をする所で、また政務が執り行われた建物だと考えられています。

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「建物3」の復元模型です。ひさしがあると、雨天でも大丈夫ですね~。

その他の柱跡は倉庫群と考えられています。
この建物群を挟んで東西に12.4m~16.68mの幅の2本の広い溝があります。
深さが1.32m~1.96mとなっているので、船が通れるようになってたのかなと想像しました。
川も海もすぐそこにあるんです!

出土物は何かな?
土や石で出来た網のおもり。
祭祀に使われた舟形の土製品や滑石製品(古代~古墳時代)。
大量の白磁や青磁(日宋貿易)。
その中かには五芒星☆が描かれた白磁が出土。
伏せられていて、中には7枚の宋銭が重ねて置かれていました。
移動式カマド。

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一番上のコシキを上からのぞくと、穴が。蒸し料理が出来る!
すぐそばで獲れる魚や貝を蒸せば超ごちそうですね。

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これは一番下のカマド。持ち運びできるなんて!
どこでも省エネで調理が出来たんだ。すごいな~。

粕屋(かすや)の屯倉(みやけ)の価値とは?
筑紫の君の葛子が命乞いのために継体天皇に差し出した倉庫が「粕屋の屯倉」です。
これで命が助かるのですから、かなりのものです。
日本書紀にその話が載っているので、一部だけ訳を書きます。
継体天皇21年の夏、6月3日に、近江の毛野(けな)の臣は6万の軍勢を率いて、任那(みまな)に行って、新羅に占領された南加羅(から)・トクコトンを取り返して任那に合併しようとしました。
この時、筑紫の国の造(みやつこ)磐井(いわい)は、密かに背く計画を立て、協力せずに、ぐずぐずして年月が経ちました。実行が難しいので、つねにチャンスを伺っていました。
新羅はこれを知って、密かにワイロを磐井のもとに送って、勧めました。
「毛野(けな)の臣の軍勢を防ぎ止めてほしい。」と。

そこで、磐井は火の国、豊の国、二つの国に勢力を張りながら、朝廷の職務を遂行しませんでした。外は海路を通って高麗(こま)・百済(くだら)・新羅・任那などの国からの、毎年の貢物(みつぎもの)を持ってくる船を自分の所に誘導し、内には任那に派遣した毛野臣の軍勢を遮って、無礼な言葉で、
「お前は、今は朝廷からの使者になっているが、昔は私の仲間として、肩を寄せ、肘をすり合わせて、同じ釜の飯を食ったではないか。どうして、急に使者になって、私にお前なんかに従えというのか。」
と言って、ついに戦って、受け入れませんでした。

(略)
22年の冬、11月11日に、大将軍、物部の大連・アラカヒは自ら、賊軍の磐井と筑紫の三井郡で交戦しました。軍旗や軍鼓が向き合い、軍兵のあげる砂ぼこりが入り乱れました。この戦いがすべてを決する事が分かっているので、両陣営は決死の戦いをしました。物部のアラカヒはついに、磐井を斬って、ついにその境を定めました。
12月に筑紫の君、葛子(くずこ)は、父の罪に連座して殺される事を恐れて、粕屋(かすや)の屯倉(みやけ)を献上して、死罪を逃れるように願い出ました

この528年の磐井の乱は筑紫の人間にとっては歴史上、大事件だったんだけど、
「粕屋の屯倉」だけに注目すると、青色の部分が該当します。
継体天皇側の言い分は難癖に聞こえるな~。磐井は治水工事で忙しかったのにね。

湊は何処にもあるんだろうけど、ここは特に安曇族の中心地的な湊で、
周囲では鉄器の生産もしていたので、この倉庫群は輸入品もさることながら、
武器が沢山備えてあったんだろうと思います。

負けた磐井の君の息子の葛子が倉庫群を差し出すと言う事は、
武装解除であり、制海権の放棄を意味していると思っています。
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この時代の武人はどのような姿をしていたのでしょうか。
すぐ近くから、これより200年ほど前の永浦古墳から、
鎧兜が出土して、こんな恰好をしていたのが分かっています。
(イラストは古賀歴史資料館にあります。)

200年経っても、ほぼ同じようなものでしょう。
古代って何だか戦いばかりで大変な時代なんですね。
少しずつ古代の人々の営みが見えて来て、面白いやら、哀しいやら。
なんとも微妙な気持ちです。


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これは屯倉の周囲の出来事マップ。ブログで紹介したのは
皇石神社 
永浦古墳の鎧兜(⇒古賀市立歴史資料館)  
新宮町の神功皇后伝説  です。

※上のリンクが切れていました。接続しなおしました。 

出土品は古賀市立歴史資料館に展示してあります。(マップをここで貰って行こう。)

地図 鹿部田渕遺跡 古賀市立歴史資料館 宮地嶽神社


 



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by lunabura | 2011-06-20 18:32 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(6)

金山たたら製錬所跡・江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入


金山たたら製錬所跡
福岡県福津市津屋崎町渡
江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入

渡半島を訪れるきっかけとなった「つやざき」町誌にはもう一つ気になる名前がありました。
「金山製錬所跡」
恋の浦の北端、楢の葉浜の南端、金山国有林内にあって、松林の中に精錬による鉱滓がうず高く積まれて、一つの丘陵をなしている。

丘になるほどの鉱滓とは…。
いったいどこ?

これも福津市の文化財課に尋ねて、場所が特定出来ました。
示された昔の地図を見てびっくり。
四つの池があり、かつては砂鉄を選別するための池だったというのです。
まさか、こんなものまで残っていたとは。
グーグルアースで確認すると、地図通りに、みごとに残っていました。
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現地の地形を肌で感じたかったので、その足で行こうと思ったのですが、
スズメバチ、ヘビ、はては落石の恐れありと聞いて、ちょっとビビりながらも
恋の浦のそばとあっては、是非現地へ行きたい。

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恋の浦です。
最近は中国からの飛来物質で福岡はこんなふうに霞んでいます。
だから美しい海の色は撮れませんでした。(涙)
この写真の左の方に現場はあります。
しかし道路が封鎖?されているようなので、航空写真で迫りましょう。

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先ほどの四つの溜め池が上の方に見えます。金山1号~4号池です。
現在は水田を潤します。鉄滓はその下の方で見つかりました。
その横のピンクで囲んだ所に炉があったと推定されています。

これについて、たたらの専門家の論文があって、江戸時代のものと分かりました。

「津屋崎町恋の浦の鉄滓『鉄の考古学』」 窪田蔵郎 (一部改変)
樹齢100~150年程度の松の根の下に鉄滓の集合体がある。これは操業中に生じた鉄滓の捨て場である。鉄滓のようすから、相当高温で精錬し、よく鉄分を抽出して、経済的な操業をしていたことが判る。

炉壁の破片から、原料は真砂土に近いものであり、練った土を長方形の大型レンガ程度のものに木ベラで荒く成形して積み上げるようにして築炉していたことが推定される。この方式は出雲の江戸中期以降のタタラ製鉄における築炉法で、出雲地方から技術導入があったことを裏書きできる。

付近には松の木が非常に多く、燃料に欠く事はない。また砂鉄は近傍の海砂鉄も採集できるが、古老の話では子供の時、(明治年間)に近くの川に砂鉄船があったというから、余り遠くない地点で採集し、小舟で運んでいたものであろう。

炉跡は背後の山が土地造成で切り崩されているので、すでに破壊されたものと思われる。

この鉄山は黒田候が上八(こうじょう)金山をみて、カゴで、勝浦の鉄山をみて帰城したと伝えられているから、北九州の真名子鉄山と同時代かそれより少し以前に操業されたものであろう。

黒田藩の御殿様がカゴで岡垣の金山と津屋崎の鉄山を視察したんですね。
すごい行列だった事でしょう。
藩の経営に金と鉄は重要だったのが推察されます。

タタラについて、この文から読み取れるのは、
鉄滓を観察すれば、タタラの操業状況が推測できること。
タタラの築炉法で、時代や技術を提供した地方が分かる事。
燃料が近くに必要である事。
ここでは近くの砂鉄を材料としたこと。
などです。

津屋崎の砂鉄
この津屋崎の砂鉄はとても良品だったそうです。
ここの砂鉄が船で遠賀川をさかのぼって真名子川に運ばれて、
そこから牛馬で鉄山へと輸送されていたとも書いてありました。
鍛冶が行われたのは嘉穂郡の犬鳴の里だったそうです。
(おお。犬鳴で鍛冶をしていた!思いがけない所から傍証を手に入れたョ。
「イヌナキーイナキは製鉄の工人の隠れ里」などについては天照神社で
少し書いています。)
天照神社1~3 http://lunabura.exblog.jp/15581560/

「筑前続風土記」にも
玄海灘(遠賀郡~奈多)の海辺の砂の中に鉄砂が出る。これを鋳て鉄にする。当国の鉄砂は大変良質である。この鉄砂を博多の職人が京・江戸の釜屋に持って行って見せると、大変称賛して、「このような鉄砂で鋳たのなら、古作の芦屋釜が素晴らしいのも納得だ」と言った。鉄砂は小刀や包丁を磨くのにも使う。 

とあります。(意訳)

金山池
池をどのように利用したのかについては、
「鉄穴流し」(かんなながし)には「採取」と「洗鉱」の二つの工程があるそうです。
ここは砂鉄なので「洗鉱」の作業だけが必要です。(選鉱の字もある)
大池、中池、乙池、洗樋と順に下流に移送して行く時、各池では足し水を加えてかき混ぜ、軽い土砂を比重の差で砂鉄と分け、バイパスで下流へ吐き出しながら砂鉄の純度を高めて、最終的には80%以上の砂鉄純度にした。(和鋼スポット解説より)

これを金山池に当てはめると4-3-1-2号と流して行ったのでしょう。
各池には栓があります。
2号池が「ショウケ堤」と呼ばれて水が漏れる池になっているのも、
砂鉄を集めやすい構造にしたのが伺えます。

この鉄穴流しの方法は多量の土砂が下流に流れ出すので、
農業に悪影響を与えるそうです。その点、ここは海に流れ込むので、
環境への配慮の点でも選び抜かれた地形だというのが分かります。
時代はこのあと現代的な製鉄へと移行していきます。
ここは最後のタタラ遺構の形をよく残しているのかもしれません。

地図 恋の浦


今回の資料は福津市の文化財課から提供していただきました。
ありがとうございました。




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by lunabura | 2011-06-10 14:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

渡の牧跡・神代に放ち給う馬の牧跡


渡の牧跡
わたりのまきあと
福岡県福津市津屋崎町渡
神代に放ち給う馬の牧跡

「つやざき」という津屋崎町の誌史に「神代に放ち給うた馬の牧跡」がある
という一文が忘れられずにいたのですが、どこから手をつけたらいいのか分からず、
文化財課を尋ねて、いろいろと教えていただきました。

現在は言い伝えが少しある程度でしたが、おおよその場所が分かりました。
福岡市と北九州の間の海岸部に位置する津屋崎町の最奥に行くと渡半島に渡る橋があります。

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入江にかかる橋を渡って右に曲がり、小山を廻り込むと
牧の入口と「牧口大明神」の祠があるはずなのですが、道が未舗装になります。
バックで戻るかもしれない…と思うと、さっさとあきらめました。
反対の海岸線を廻って見ましたが、やはり途中から未舗装。
ぶらぶらの精神にのっとり、あえなく敗退。

今回は航空写真を使ってアプローチしましょ。

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渡半島は現在は左の方に橋が出来ましたが、かつては「牧の入り口」が唯一の進入口でした。
「旧入り海」と書いているように、現在の田畑や市街地は海の中です。
昔はここが良港だったのがよく分かります。
馬を飼うのにはこのような島や半島が最適だったそうです。

なるほど、馬を走らせるには広い敷地が必要だし、
だからといって全部を柵では囲めないので、半島というのは最高の場所なのですね。
そう言えば、野生馬が現存する宮崎県の都井岬も「岬」です。

牧の入り口から入ると、その奥には牧の大明神の祠があります。
牧の規模などは全く不明ですが、地形を見ると、現在恋の浦ガーデンになっているあたりは
平地に近かった可能性があり、その部分を牧跡と想定しました。

地元の言い伝えをまとめると、
昔、大陸から京泊(牧の大明神ちかく)に馬を陸揚げして、渡の山に放牧して調教し、日本国内に積み出した。馬出、馬込という地名があった。
名馬・スルスミもこの牧の産。

毛利の家臣が朝鮮出兵途上に、渡・楯崎の馬牧を見物した。
福岡藩主・黒田忠之は大島に藩営の馬牧設営をするために、津屋崎に補助牧場設営を命じた。
柳川藩の馬術の名人たちが渡の牧で馬の修練をした。

俵瀬だけが出入り口だったので、馬の管理がしやすかった。
高風呂山はどの牧草は塩分を含んでいて、牛馬がよく育った。
(参考 福津郷土史会 Hp)

このように具体的なものが伝わっていました。

さて、「神代に放ち給うた馬の牧跡」の「神代」については、いったいいつの時代の話かは分かりません。
しかし仲哀天皇が新宮町で馬事訓練をしたので、
距離的に近いこの牧が当時から存在した可能性を秘めています。

平安から鎌倉にかけての渡の牧についての論文があるのを文化財課の方から教えていただきました。
これも面白かったので、紹介したいと思います。

「宗像大宮司と日宋貿易
―筑前国宗像唐坊・小呂島・高田牧―」 服部秀雄

この論文では日宋貿易の時代の文献を考証し、全体を見通してから
「高田牧」を見つけ出していく手法を取っていて、
「高田牧」とは福津から岡垣に至る各地の牧の総称であり、
この「渡の牧」はその中でも最大規模で中心地だという事を突き止めてありました。

その中からいくつか抜き出してみます。(一部改変)
高田牧は筑前国最重要の牧である。馬と牛を飼っていた。
牧司がいて、壱岐や対馬の国司を歴任した人物がなっていた。宗像姓が多い。
高田牧は太宰府の管轄下にあった。太宰府の根幹をなす軍事施設であった。

牧は軍事の根幹である。多数の軍馬確保が不可欠で、太宰府牧の側面が強い高田牧も、武門が掌握したであろう。

ここから宋からの薬品、豹の皮、青瑠璃瓶、壺、唐綾などの珍重品が京都に贈られた。
高田牧から京都に馬が運ばれる途上、京都周辺で最上の馬を専門に盗む「最上馬盗」という盗賊がいた。

馬の飼育は春に草山を焼くことに始まり、オオカミなどの天敵、あるいは盗賊から牛馬を守るため、堀や柵を作り維持しながら、頭数を減ずることなく子牛・子馬を育成していく仕事である。

牧子一人あたり50頭のほかに2歳以下の子馬がいた。成馬50頭というが、5歳まで飼育するとして、3,4,5歳で50頭なら、子馬を含め70頭以上の飼育である。高田牧全体では1300頭の成牛馬がいた。甲斐一国の牧よりも大きな規模であった。

現役軍馬を引退した種馬用荒馬を放し、交配による荒馬化、大型化をはかったものであろう。

天正20年(1592年)。毛利勢がわざわざ一日逗留して手光に陣を取り、つやざきの馬牧を見物した。

日宋貿易の頃、中国や朝鮮半島からもたらされる薬や珍品の人気が絶大だったのが分かります。
当時、船は直接この渡に入港して、そこから珍品は各地に持って行かれました。
(博多では焼打ち事件があって、中国人たちは博多を避けるようになっていた。)
この津屋崎には唐坊という、チャイナタウンが生まれ、豪族の間でも中国人と日本人の混血がありました。

重量拠点である、この牧を掌握することは国の大事で、
地元の豪族たちもずいぶん繁栄しただろうと思われます。
この最大級の渡の牧は何故か途中から歴史から消えます。

ふと思い出したのですが、各地の神社誌を見ていると
牛馬の混濁病が発生して、さかんにスサノオ命が祀られた記事があります。
最近の口蹄疫などを考えると、病気が発生して消滅した可能性も候補に挙げていいのかも知れません。



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(木曽馬 北九州市立総合農事センター 「西日本新聞」より)
さて、馬と言えばサラブレットを想像しますが、それはテレビや映画に洗脳されただけの事で、
馬の大きさはもちろん例の可愛いサイズの方です。在来種はこんなに小さくて性格がおだやかです。
武士がこれに乗るのはちょっと似合わないですね。それで、スルスミのような荒馬が望まれたのでしょう。

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(王塚古墳 装飾古墳館にて)
埴輪を見ても、やはり可愛らしいです。
こんな在来種が野山を駆け巡ったのですね。いつかこの美しい渡半島を歩いて散策したいです。

福津市の文化財課の方には大変お世話になりました。ありがとうございます。

地図 渡半島





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by lunabura | 2011-06-09 12:56 | <遺跡・史跡> | Trackback(1) | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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