ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:<遺跡・史跡>( 36 )

弾琴台土城/韓国で出土していた40枚の鉄鋌

弾琴台土城
だんきんだいどじょう
忠清北道忠州市
韓国で出土していた40枚の鉄鋌
 
現在、日本書紀神功皇后の巻を現代語訳しています。
神功皇后の記事は日本書紀全体の五分の一近くを占める
とても長い記事ですが、それもあと一息です。
「神功皇后(12)」に百済の肖古王鉄の延べ板40枚
日本に献上するシーンが出て来ます。

40枚って中途半端な数字ですが、氏族によって聖数が違うので、
とても興味を持っていました。
そして韓国で実際に鉄鋌(延べ板)が40枚出土して、
それを調査しにいった記事が載っていました。
今回はその新聞の切り抜きを紹介します。
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韓国・弾琴台土城
鉄鋌40枚が導く古墳時代の鉄


去る2月25日、福岡大学考古学研究室の韓国研修旅行で、念願の弾琴台土城(だんきんだいどじょう・忠清北道忠州市)を訪れた。

ここは、加耶琴(かやこと)の名手で、加耶から新羅に亡命して国原(こくげん)に安置された于勒(ウロク)が、新羅の真興王12(551)年に召し出されて王の前で演奏したという伝承が残る場所である。

于勒がその時に演奏した12曲の曲名から大加耶連盟体の存在を推定する研究もあって興味深いが、見たかったのは立地と城内の貯水施設の場所、そして、場外の漆琴洞(しっきんどう)製鉄遺跡である。

話は、2008年2月23日に福岡大学で開催した、東アジア考古学会と韓国の中原文化財研究院との第2回研究交流会にさかのぼる。その席上で弾琴台土城の発掘成果が披露され、百済前期でも4世紀の鉄鋌が40枚出たと報告されたが、すぐには理解できなかった。

示された出土状態の図を見ると、それまで三国時代や日本の古墳時代の鉄素材として知られた厚さ0.2センチ前後で両端がひろがる薄い鉄鋌とは異なって、分厚く直線的だったから、「棒状鉄斧(てっぷ)ではないのですか」と質問したくらいである。

「一度来なさい」と中原文化財研究院の車勇杰(チャヨンゴル)院長から誘われて実際に見たのは、報告書が刊行された直後の2009年11月8日である。

ビックリした。細長方形で刃は付いておらず、確かに鉄素材で鉄鋌と呼ぶほかない。しかし、それまでの諸例に比べてあまりに分厚いから、弾琴台型としよう。

40枚の平均値は、長さ30・7㎝、幅4・13㌢、厚さ1・45㌢、重さ1.31キログラムである。表面には叩いて鍛えた痕跡があり、上面両側縁には隆起線が走る。

本来は2倍の長さを半分に折ったとみられる。これらは、貯水施設の下段部分から5枚一くくりがそれぞれ3列、2列、3列にまとめられ、一つの塊となって出た。

これまで鉄鋌は10枚で一単位だったが、5枚一単位もあったことになる。鉄鋌の多くは表面に木質が残るから、板をあてたか木箱に入れたとみられる。

一緒に出た土器は4世紀が多く5世紀初頭までである。また、弾琴台土城外の南東麓には4世紀後半の漆琴洞製鉄遺跡があり、ここで生産されたとの意見もある。

こうした時期と40枚という数字から想起されるのは、『日本書紀』の「神功皇后紀」46(366?)年条で、百済の肖古王が斯摩宿禰(しまのすくね)の従者である爾波移(にはや)に「鉄鋌40枚を与えた」とある。
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また、同52(372?)年9月丙午の条には、百済王が千熊長彦に会って七支刀を与え、谷那(こくな)鉄山での鉄生産を約束したとの記事もある。

弾琴台土城の鉄鋌は、4世紀の百済の鉄生産、ひいては日本の古墳時代の鉄素材問題を考える上できわめて重要な資料であり、日本とも関わる谷那鉄山の位置については諸説あるから、どれほど現地見学を切望していたかお分かりいただけよう。

弾琴台土城は、南漢江が最大支流の達川と合流して東北から西北に曲流する地点の西南側、当時の島の頂上にある。

規模は小さいが外城の中に内城を設けた可能性が高く、貯水施設は内城の中央付近にあった。部分的な調査だったが、城の中からは冶鉄(やてつ)関連の鉄滓なども出た。

南漢江側の絶壁と土城で重要施設を堅固に守とともに、原料の搬入や製品の搬出にも至便な立地であり、直下には製鉄施設を配することも今回の踏査でよく理解できたし、国立清州博物館で再会した40枚の集合展示も圧巻であった。

日本の古墳時代鉄器・鉄素材研究は、これらを踏まえて展開せねばならないのである。

考古学トピックス 武末純一=福岡大学教授
(西日本新聞 2011年3月24日 朝刊より)


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弾琴台土城がある忠清北道忠州市って、かつての馬韓(ばかん)だったそうです。
加耶琴が弾かれた時は新羅の国だったんですね。そうか、琴が弾かれた事から「弾琴台」というんだ。いい風情の名前ですね。
青い①は国立清州博物館のある所。忠清北道です。弾琴台土城もきっとこの近くにあるのでしょう。


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これは5世紀の三国時代の図です。
高句麗百済新羅の境にあるから、大変な土地だというのがよく分かります。新聞記事を読むと、川が合流する地点の島の上に城を作っています。絶壁と土城。城を建てるのに堅固な守りが伺えます。

魏志倭人伝によると倭人は鉄を求めて狂奔したとか。
日本には砂鉄が無尽蔵にあるのですが、製鉄の途中で一酸化炭素中毒で亡くなるような危険な作業だったそうです。それに技術によって出来上がりの質が全く違ってた。それで、良質の鉄を求めたのですね。

韓国の事はなかなか分からないけど、日本書紀を訳して行く上で、
この先ずっと出てくるので、少しずつ場所を覚えて行きたいと思っています。
今回の忠清北道って韓国の中央あたりなんだ…。




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by lunabura | 2011-04-26 21:07 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

山鹿貝塚/縄文の若き母と子ほか計18体が発掘されていた


山鹿貝塚
福岡県遠賀郡芦屋町山鹿
縄文の若き母と子ほか計18体が発掘されていた
芦屋歴史の里(歴史民俗資料館)


※今日は人骨のお話です。イヤな方はパスしてね!

いつ頃からだったでしょうか、縄文の彼女が気になり始めたのは。
各地の町誌を見ている内に、彼女の記事が何度か目に留まりました。
彼女は生まれたばかりの子供と一緒に埋葬されていたという。
傍にはもう一人の女性が。いったいどこに行ったら彼女に会えるのだろう。

山鹿貝塚という遺跡名から、芦屋町の図書館に行って見ました。
町誌を見ると、あった!やっぱりこの町に彼女はいた。
図書館で歴史資料館を訪ねると、町が合併したあと、
芦屋歴史の里」(歴史民俗資料館)にまとめられているとの事でした。
夕方になっていたけど、とにかく滑り込んで入館してみようと、車を走らせました。

彼女たちは二階にいました。レプリカがあったのです!
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私の探していた彼女は、向かって右側の女性です。2号人骨という名が付けられていました。第一印象は頭が小さくて小柄だなというものでした。
その胸には緑の大きなペンダントがありました。そして彼女の右腕には生れたばかりの赤ん坊が。その子は4号人骨と付けられていました。
それに寄り添うような左の女性は3号人骨と呼ばれています。

彼女たちが生きていたのは縄文時代。砂丘の上に埋葬されていたので、こうして良好な状態で発見されました。この遺跡全体で18体も発掘されています。




この2号と3号人骨の基礎資料をまとめてみます。(芦屋町誌より)

2号人骨は20才前後の女性。推定身長150.3センチ。おでこに輪をはめていた圧迫痕がある。二本のサメの歯で作ったイアリングをつけていた。腕輪はベンケイ貝製で、右に5個、左に14個つけている。
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これが胸の所にあった緑の石。穴の場所が偏っている。左右には切り込みがある。
長さは75ミリ、幅31ミリ、厚さ14ミリ。軟玉か蛇紋岩で、穴は紐ですり減っているので、いつも身につけていていたのが分かった。代々伝えられた可能性もある。
その他にも25センチの鹿の角を2本、穴を開けて胸にぶらさげている。

彼女は表面から1mの所の白い砂の中に埋葬されていたが、彼女の上半身の周りだけは砂が赤く染まっていた。朱をまいたのか、赤い上着を着ていたのかは分からない。

3号人骨は30才前後の女性。推定身長147.1センチ。鹿の骨で作ったかんざしを2本付けていた。腕輪は右に15個、左に11個。
子供を含めて、3人の血縁関係は分からない。また抜歯の風習はない。


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手前の3号人骨を見て下さい。首と腕の間の骨が全くありません。
奥の2号人骨も肋骨などが無くなっています。
それに比べて、赤ん坊の柔らかい骨は残っているという事から、
2,3号人骨は、埋葬されたのちに骨を抜かれているのが分かりました。

3号人骨の右側に不規則になった骨があります。骨はそこに集められているのですが、
これらを二人に戻しても、まだ骨が足りないのだそうです。

他の人骨には手が付けてられていないことから、
二人は特別な立場の人だと言われています。特に緑のペンダント
鹿の角2本を持っていたという事は彼女が特殊な立場だった事を教えています。

こんな想像をしました。
20歳頃の彼女は子供を生んだばかりなのでしょう。
30歳頃の人も同じ墓穴に埋められているので、姉か叔母あたりの血縁者ではないか
と想像しました。流行性の病気で一緒に亡くなったのかな…。

30歳の方が腕輪が多いので、もともと緑の石を持っていた人で、シャーマンか
メディスン・ウーマンか、女王(縄文では何て言うんだろ)だったのではないかな。
2号人骨にその立場とシンボルの緑の石を譲ったのに、く二人ともすぐに亡くなってしまった。
この緑の石を受け継ぐ立場の人がもういないので、石も一緒に埋葬されたが、
二人は慕われ続けて、後の人たちは彼女たちの骨をお守りとして貰って、漁や猟に出るようになった。
こんな空想をしました。

次の写真は他の人骨です。
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一人で埋葬された男性。並んで埋葬された夫婦らしき二人の男女。
さかさまに埋められていた男女、幼児を抱いた女性一人。などいろんな埋葬の形がありました。

この山鹿貝塚は原日本人を知る上で、かなり重要な遺跡のようです。
発見されたのが昭和28年、学術発掘が昭和40年という事です。
現代ならDNA鑑定も出来るし、死因もかなり調査出来るのではと思いました。

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ジオラマが一階にありました。この緑の丘の頂上部が発掘現場です。
細長い溝はトレンチの跡です。現在は更地になっていて、看板があるだけだそうです。
道と現場の状況は資料館で丁寧に教えていただきましたが、
小雪と日没で現地へ行くのはあきらめました。またいつか行ってみたいです。

芦屋歴史の里(歴史民俗資料館) 
開館時間:9:00~17:00
入館料:個人入館 大人200円、小人100円
    団体入館 大人100円、小人50円
    釜の里・歴史の里共通券 大人300円、小人150円
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)年末年始
福岡県遠賀郡芦屋町大字山鹿1200
TEL093(222)2555

この地は有名な芦屋釜を産出した所で、その遺物なども公開されています。

地図 山鹿貝塚 芦屋歴史の里



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by lunabura | 2011-02-03 16:04 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(9)

鴻盧館跡(1)奈良時代 トイレその後 何でふく?


鴻盧館跡(1)
こうろかん
福岡市中央区城内1
奈良時代 トイレその後 何でふく?
迎賓館のお話


「奈良時代、トイレの大の後、何でふいたと思います?」
とくるま座さん。
「え?トイレですか?紙は貴重品だし。何ですか?」
「それが木簡なんです。」
「え?木簡?木なんですか…。」 
「それが鴻盧館から出土していて、籌木(ちゅうぎ)というんです。」
「へえ、そうなんですか。」
「それでですね、炭素を調べたら、定説よりずっと古いのが出たんです。」
「へえ。」

奈良時代のトイレってどうなってるの?

と言う事で今日は奈良時代の迎賓館である鴻盧館に行きましょう。

この鴻盧館(こうろかん)跡がある場所は
かつての野球場・平和台と言えば分かる方も多いと思います。
その平和台球場のグラウンドの下は全部鴻盧館でした。
それが分かったのは1987(昭和62)年というのですから、結構新しいです。
野球場は移動してヤフードームになりましたが、
ヤフードームってもともとツインドームにする計画だったんですよね。
それがあいにく一つしか出来なかったんですが、この鴻盧館もツインだったんです。
北館と南館に分かれていました。その南館に資料館があります。

天神から地下鉄空港線「大濠公園駅」または「赤坂駅」で降りましょう。

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緑豊かな中に石垣とお堀があります。黒田藩の福岡城のお堀です。
この石橋を渡って行きます♪

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すぐに広大な遺跡がありますが、大きすぎて全容が分からないので、
まずはその資料館に行ってみます。お城に溶け込んだ外観ですね。
受付で記帳すればOK。写真撮影もOKが出ました。

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入るといきなり豪華な建物。復元したものです。
平安時代の宿坊だそうです。

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その左には遺跡そのものが。すごい。
この資料館は、現場をそのまま建物で覆ったものでした!

さて、今日は奈良時代のトイレ探しです。場所は上の写真の左の窓の外です。
出土物は右奥の壁に展示してありました。

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これがその現物。籌木(ちゅうぎ)です。
「大量の木簡と籌木、トイレ遺構から出土」と説明書き。

リユースした木簡は税の品物に付けた荷札です。文字が読めるものもあって、
「肥後国天草郡」(熊本県)「京都(みやこ)郡」(福岡県)
「庇羅(ひら)郷」(長崎県平戸市)「讃岐国三木郡」(香川県高松市)
などから、お米などが持ち込まれていました。

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復元模型の写真が福岡市埋蔵文化センターの方にありました。
これはよく分かりますね~。男女別だったろうという事です。

そこから出土した食べ物は
種はナツメ・ナス・ゴマ・サンショウ・チョウセンゴヨウ・
ヤマモモ・ツタ・ウリ。花粉はソバ・オオバコ・ワレモコウ・ミズアオイ
他に獣骨・魚骨・貝でした。

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使った器のほんの一部です。現代と同じですね!というか、すごい器です。
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深鉢は使い手がよさそうだし、水差しもおしゃれ。
北宋10世紀の頃の輸入品です。

この鴻盧館は7世紀から11世紀の400年間、
対外交渉の窓口だったという事ですから、
いろんな国の人びとが来て、ご馳走が並べられたんですね。
豊かな食材と一流のシェフと美女たちと飛び交う色んな国の言葉。
当時の人々の営みの痕跡がそのまま残っていました。
迎賓館は当時、京都と大阪にもあったのですが、
遺跡が確認されたのは今のところここだけです。
(つづく)

鴻盧館跡




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by lunabura | 2011-01-07 19:58 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

鴻盧館(2)空海も最澄もここに泊まって旅立った

鴻盧館(2)

空海も最澄もここに泊まって旅立った


鴻盧館の遺跡の周りは野球場の巨大なフェンスで囲まれていますが、
沢山のパネルが掛けられていて、歩きながら歴史を知る事が
出来るようになっています。今日はその説明板からです。

外国船がやって来た
鴻盧館は文献上には持統2年(688)、「筑紫館(つくしのむろつみ)」として初めて表れ、平安時代になって中国風の「鴻盧館」という名に変わっています。

鴻盧館は9世紀前半まで、唐や新羅の使節を接待・宿泊させる迎賓館であり、遣唐使や遣新羅使が旅支度を整える対外公館でした。

9世紀後半以降、鴻盧館を訪れる主役は唐(後には五代・北宋)や新羅の商人となり、中国・新羅との貿易の舞台となりました。

奈良時代までは、唐や新羅の使節が来ると、この鴻盧館に収容されて、
朝廷の許可が下りると、都へと向かったそうです。
この当時はすでに平城京と筑紫の間にはまっすぐの道が作られていて
駅家(うまや)が16キロごとに整備されていて、太宰府から都まで「4日」でした。
(2009年11月24日放送 NHK『謎の古代の道』より)
外国船が着くと、10日も待てば朝廷の許可を受ける事ができたんですね。

鴻盧館はツイン。北館と南館に分かれています。
外国人と日本人を分けて泊めたのではないかという事です。
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当時の想像図です。鴻盧館のすぐ下は崖になっていて、
現在の地下鉄あたりは海になっています。
左手前に見える島が西公園です。今はそのあたりまで陸地になっています。

遣唐使船もやって来た
遣唐使も難波から出発してここまで来たら、いよいよ日本とお別れです。
ここは最後の宴の場だったのでしょう。
空海、最澄、吉備真備、小野妹子、阿倍仲麻呂なども、
泊まっているはずですよね。

展示館には遣唐使の資料も沢山ありました。

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遣唐使は630(舒明2)年8月に犬上御田鍬(いぬがみおたすき)らを最初に、894(寛平6)年に菅原道真の建議で廃止されるまで20回計画され、うち15回が派遣された。

造船・航海術が未熟な当時は、東シナ海を横断することはきわめて危険で、8回の遭難記事がある。遭難覚悟の厳しい航海であった事を示す。はじめ2隻の航海であったものを4隻に増やし、出発日をそれぞれずらしたのも、遭難を避け、とにかく一隻でも中国に着きたいという配慮であった。(展示館パネル)

陸に添って行ける北路が絶たれたために、
直接東シナ海を通るので、大変になりました。
この遣唐使船に乗ったのは最澄・空海ら留学僧はもちろん、
ガラス、鍛冶、鋳物、木工、音楽の技術研究者たちもいました。
乗船メンバーの名前もきちんと記録が残っています。
そして朝貢船ですから、多くの貢物が乗せられていました。
銀や布織物、水晶、琥珀、めのう、他。
そんな具体的な話を次のブログで知りました。

遣唐使船の乗組員と持参した朝貢品
http://jumgon.exblog.jp/15231968/
「徒然なるままに、、、」


遣唐使の費用は、唐が認めたら、上陸後の分を負担してくれたそうです。
けっこう現代に近い経済感覚も見られて面白いです。

それまでの「倭国」という国名を「日本」と変えたい時も、
遣唐使が行って、唐に承認を求めるという手続きを取ったそうです。
認めてくれたのは則天武后だったとか。(と、TVで見たばかりのうんちく)

執念の発見者は中村平次郎氏だった
鴻盧館の場所はずっと分からなかったそうです。
明治4年生まれの中山平次郎氏は福岡医科大学(九大医学部の前身)の教授で、
考古学に関心があり、万葉集を紐解いて、この場所を見つけたそうです。
「筑紫館に至り、遥か本郷を望み いたみて作る歌 四首」から
「志賀島が見える場所」
「波の音が聞こえる場所」
「ひぐらしが鳴く場所」
などの条件に合う場所を捜し続け、「福岡城址の位置より他にはない」と特定しました。

ここからが凡人と違う所…。
当時の福岡城址陸軍歩兵二十四連隊営所で、一般人は立ち入り禁止でしたが、
招魂祭の日だけは立ち入りが許されました。中山博士はこの日を利用して営内に入り、かねてより目星をつけていた場所から奈良時代の瓦や陶器を掘り当て、自説に確信を持ちました。

ちなみに、その際には「営内でスコップを持った怪しい奴がいる」ということで憲兵隊に留置されるハプニングもあったとか。実兄である九州大学医学部教授の中山森彦氏が陸軍軍医少将だったため、直ちに釈放されたそうです。

戦後、昭和24年(1949年)に平和台野球場が建設されましたが、昭和62年(1987年)の外野席改修工事の際、ついに鴻盧館の遺跡が発見されました。中山博士の予見通り、ここに鴻盧館が存在したことが確定、現在も発掘調査が続いているのです。

鴻盧館の位置を予見し、板付遺跡や元寇防塁の発掘にも貢献するなど福岡の考古学を語る上で欠かせない中山博士は昭和31年(1956年)、85歳で亡くなりました。
(パネルより)

どんな遺跡も、先人の苦労と戦いのお蔭で、こうして残されるんですね。
それにしても万葉集から謎解きをしたなんて、面白い!
中山平次郎氏は、まるでシュリーマンのような存在だったんですね!

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中山平次郎氏

鴻盧館展示館
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日 12月29日~1月3日 
入館料 無料
電話 092-721-0282


中山平次郎氏の足跡をブログ内で辿る  ⇒ 板付遺跡
 
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by lunabura | 2011-01-06 17:40 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

板付遺跡(1)弥生人の足あと・縄文水田もあった


板付遺跡(1)弥生館
福岡県博多区板付三丁目21 
弥生人の足あと
縄文水田もあったって 


福岡空港の近くにその板付遺跡はあります。
弥生時代を代表する遺跡です。その特徴は
教科書を塗りかえた縄文水田の発見!
米作りは弥生時代からではなかった!
(弥生館・なぜなにノートより)

です。縄文水田か…。現在の教科書にはもう書いてあるのかな。
では、まずは弥生館へ行ってみましょう。
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駐車場はたっぶりとあるので、車でOKです。
写真の広場の奥に三角形の緑の屋根が見えますが、これが弥生館です。
まずはそこで、情報を仕入れましょう。
中に入って、右の方から廻ると、無数の土器が無造作に並べてありました。
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無造作過ぎるので、変だなと思って受付に戻って確認しました。
「この土器は本物の出土物ですか?」
「いいえ、これは現代で作ったものです。」
「本物はどこにあるのですか。」
「本物はガラスケースに入っています。」
との事でした。
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当時の農具の復元品です。現在の農具と基本構造は同じですね!
ここは弥生体験館という位置づけで、子供たちが触って実体験する施設でした。
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当時の繊維の復元ですが、
この繊維がここから出土したかどうかは分かりません。
左から順に素材は麻、リースは不明、葛、カラムシ(バッグ)
(カラムシは草の一種です。)
麻はちょうど、古事記の神々の天照大御神の天の岩戸の所に
出て来たので、興味しんしんです。


中央にはジオラマがありました。
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これが板付遺跡の全体のようすです。
中央部、奥の丸い溝に囲まれて、数棟の竪穴住居があります。
手前には川が流れていて、田んぼ があります。
毎朝、環濠の中から出て、稲の世話をしたのですね。

この遺跡の見どころについて
リーフレットから。
それは昭和25年1月のことです。一人の青年が板付の畑で二つの土器を発見して感激の声をあげました。青年は、縄文時代最後の土器弥生時代最初の土器が一緒に出る遺跡を長い間探していたのです。

昭和22年から始まった静岡県登呂遺跡の発掘で、はじめて水田の遺跡がみつかり、弥生時代に稲作が行われていたことが証明されました。

では、稲作は、いつどこから伝わり、日本のどこで始まったのかが次の問題でした。二つの土器の発見で板付遺跡こそ、その謎を解く重要な遺跡と期待され、さっそく発掘調査が始まりました。
(略)
これまでに深い溝に囲まれたムラや水田の跡が発掘され、日本で最初に稲作を始めた頃のようすがわかってきました。

なるほど、日本の弥生時代の稲作が分かって来たのは
昭和のはじめ頃だったんですね。思ったより最近の事でした。
登呂遺跡、板付遺跡、と次々に弥生時代の実態が分かって来た熱い時代の
雰囲気がよく伝わってきます。

その続きは館内の説明の紙から。
米作りは弥生時代からではなかった!
弥生時代から高度な米作りが行われていました。弥生人の足跡も無数に見つかり、裸足で米作りをしていたこともわかりました。
(略)
さらに事にその弥生水田の下に古い水田があることもわかったのです。同じ地層から出てくる土器は夜臼式(ゆうす)土器(縄文晩期)が多く、それに炭化した米粒や稲穂を摘み取っていた石包丁まで発見されたのです。このことから縄文時代晩期にはもう米作りが行われていたことになります。

それからの板付人は洪水との戦いの連続でしたが、決してあきらめませんでした。縄文・弥生時代の水田が重なっていたこと、そして弥生人の足跡がそれを物語ってくれます。その後、縄文水田は西日本を中心にどんどん発見されています。
(略)
また、縄文水田が多く見つかっていることから、弥生時代の始まりをさらに遡らせるべきだという考えも強まってきています。

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これが石包丁。二つの穴に紐を通して、指を入れて稲穂だけを刈り取ります。
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炭化した米も出てます。さざえの蓋とか魚の骨。右にはスプーンも。
(けっこうおいしそうな煮込み料理が食べられそう。)

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これが出土した板付式土器。弥生式土器ですね。
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これが夜臼(ゆうす)式土器。縄文時代の終わりのものです。
確かにあの派手な文様はついてません。
これらが出たので、弥生と縄文が一緒だという訳です

弥生時代が遡った
ちなみに弥生時代って、紀元前3世紀から紀元3世紀かなと思っていたのですが、
最新の考古学の本では紀元前10世紀から弥生時代に遡ると書いてありました。
すると、3000年前は弥生時代と縄文が混在なんだ。

3000年前から弥生時代だとすると神話の解釈も変わる?
神武天皇が2600年前と書いてあって、(縄文時代の話になるので、)
日本書紀は嘘を書いているという説があるのですが、
3000年前も弥生時代だとすると、その問題が無くなります。
最近は日本書紀などの年号をそのままに読もうという動きがあるのも、
こんな考古学の裏付けがあるのでしょうね。

ルナは、なにせ知識がないから、記紀はそのまま読むしかないです。
取り敢えず、まずは素直に読んでみたい。
それから、後で考えようというスタンスです。

そして振り向くと、何、これ?
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2300年前の水田に残された足跡でした!
え~。現代人と全然違う。
土踏まずがあまりなく、指の間がしっかりと開いている。
かかとと少し小さめ。
水田とか砂浜とか、難なく歩けそうなたくましさです。
寸法とか書いてない。これは足を乗せて比べられるようになってます。

これって、この弥生館のメインじゃない?
死角になる所に置いてある。うっかり見過ごす所でした。
ジオラマの前とかにあれば見逃さないのに…。

もしかしたら、ルナは反対廻りした?(・.・;)今頃、気づきました。
でも最後にこんな弥生人の足跡が見られて、けっこうテンションが上がりましたよ。

それじゃあ、次回は実際に水田と弥生のムラを見てみましょう。
                     (つづく)

板付遺跡弥生館
福岡市博多区板付3丁目21-1  電話 092-592-4936
(利用案内)
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)
休館日  年末年始(12月29日~翌年1月3日)
入館料  無料   
  

地図 福岡空港 板付遺跡




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by lunabura | 2010-11-09 20:26 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

板付遺跡(2)弥生水田と環濠ムラ

板付遺跡(2)
いたづけいせき
弥生水田と遺跡公園


弥生水田の跡 
弥生館を出て駐車場の端に行くと復元された水田があります。
c0222861_13462410.jpg

水が入りかけています。え?そうすると、この水田、使ってる?
後で調べると、この水田に実際に稲を植えて、石包丁で収穫して、
脱穀する「弥生ムラ祭り」をしているそうです。
田植えの前の苗作りから草取り、水の管理を考えると
本格的に専従者がいないと維持は出来ません。
日本人の根幹をなす稲作を始まりの地で体験させようという、
県の努力を知って嬉しくなりました。
多くの子供達に是非体験してほしいですね。
c0222861_13472258.jpg

水田の反対側から撮りました。用水路の跡でしょうか。
橋が作られていて、ついつい歩き回りたくなります。
説明板を読んでみましょう。
この水田は、昭和53年(1978年)に発掘された弥生時代前期(今から約2300年前ごろ)の水田を復元したものです。

ムラ人たちは、板付台地に沿って用水路を掘り、東西に広がる低地を畦(あぜ)で区画して水田に作り変えました。

用水路には、沢山の木杭や横木を組み合わせて井堰(いぜき)を作り、水位を上げ、水をたくみに調整して、水田に水を入れました。

この時代の遺跡からは、稲の穂お摘み取る石包丁や田を耕したり水路を掘る木製の(すき)や(くわ)などの農具が発見されています。弥生人たちが今とあまり変わらない方法で米作りをしていたことがわかります。
でも、ムラの水田の全面積や収穫量などは、まだよくわかっていません。

板付遺跡公園

さて、水田から道路を隔ててこんもりとした森が見えるので、
気になって尋ねると、そこが住居跡だそうです。行ってみなきゃ!
c0222861_13494032.jpg

おお、立派な門構えです。UFOのようなモニュメントは、モミ?
c0222861_13502989.jpg

それらしき雰囲気のある門を入ると、あった、あった。
竪穴住居だ。
c0222861_1351344.jpg

反対側にも、たくさん。広くて気持ちがいいなあ。
この広場で、さきほどのムラ祭りなどをするようです。
c0222861_13521045.jpg

竪穴住居のアップです。甕なんかがあって、生活感があります。
扉もついています。冬は寒そう…。隙間があります。
ちょっと中を覗きたいですね。
c0222861_13523733.jpg

デジカメは便利です。
隙間からカメラを入れてシャッターを押したら、上手く撮ってくれました。
竪穴」の名の通り、床が地面より少し下がっています。
雨の時はどうするんだろう。
キャンプの時はテントの周りに溝を掘ったりするけど、
そんな溝の跡は出て来なかったのかな。
c0222861_13533531.jpg

端っこに行くと、土手と環濠がありました。
橋も作ってあります。かなり幅が広いですね。
V字型にかなり大きく掘ってあります。
大雨の時なんか、結構これで助かってるなと思いました。
目的ははっきりと分かっていないそうですが、
これは、まずは排水施設の役目が一番じゃないかな。
(吉野ヶ里はこれに防御の杭なんかがある。)

戦前まで、大潮の時には、宇美神社の近くまで、
また二日市の酒屋さんの所まで水が上がっていたと、聞きました。
「水が上がる」というイメージがよく分からないのですが、
排水の悪い所は冠水したりすると言う事でしょうか。
向こうに見える家の高さを比較すると、ここは少し高いです。
それでも、大水が上がってこないようにするためには、
こんな大がかりな排水施設を造る必要があったと思ったのですが。

c0222861_1355935.jpg

説明板に、推測しながら文字を入れました。
(少しずれているかも)
共同墓地は何か所があり、銅矛・銅剣も出土しているそうです。

この遺跡はとても広々としていて、シンプルでさわやかな場所でした。
小学生などには是非見せて置きたい遺跡だなと思います。
大人だって弥生時代の稲作を知るのに、もってこいでした。

出土物はここ以外に、
福岡市博物館と福岡市埋蔵文化財センターに展示・収納されているそうです。



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by lunabura | 2010-11-08 14:05 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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