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カテゴリ:<神功皇后伝承を追って>( 7 )

最澄と神功皇后



最澄と神功皇后


神功皇后関連で時々、最澄が出てくるので、
ちょっと整理しておきましょう。

楯崎神社(下巻70)楯崎寺 福津市
「桓武天皇の御世、最澄師、求法のために唐国に赴かんとして
ここに詣で、宿願を達せんことを祈り、
自ら薬師阿弥陀観音像を彫刻して安置し、楯崎寺という。」


最澄は遣唐使の直前に福津に滞在して、
薬師阿弥陀観音像を彫ったんですね。

巨大な磐座がある宮で、時々紹介していますが、
今も病気平癒祈願の宮として人々が祈っています。


綿津見神社(下巻75) 福岡市東区

神功皇后が海上で嵐に遭った時、綿津見神に祈って難を逃れました。
その時の苫が流れ着いた所に綿津見神を祀りました。

拝殿の右手に社があるのですが、
そこには唐から帰着した最澄が彫ったという
虚空蔵菩薩の木像が祀られています。


最澄が上陸した場所は古賀市の花鶴(かづる)浜です。
皇石神社(上巻25)の近くですね。

そこは仲哀天皇と神功皇后が軍事訓練を見守った宮で、
神功皇后はドルメン石でウケヒをしたと言われています。

そこには三山が並ぶ神名備山がありましたが、昭和になって削られて、
わずか鹿部山(ししぶ)だけが残っています。

ほんの数十年前までは、海から筑紫に上陸するとき、
立花山の三山を目指し、次にこの三山を目指せば、
安全に入港できる灯台代わりの聖山でした。

最澄はこの花鶴浜から投げた独鈷が落ちた所に
独鈷寺(とっこじ)を建てました。
新宮町です。延暦24年(805年)のことでした。

近くに千年家(横大路家)があり、最澄の法燈の火が伝わっています。
(伝えるのが難しくなってよそ(太宰府天満宮?)に預けられたといいます)



風治八幡宮(下巻89)田川
 暴風雨が起こったために、神功皇后が太刀を献上して
天神地祇と伊田大神に祈願したら風が治まったといいます。

伊田大神もまた綿津見神です。

弘仁五年(814)6月、大旱魃が起きた時、
郡司が最澄に伊田大神への祈願を依頼したところ、
潤雨があって五穀は豊かに実ったといいます。


若八幡神社(下巻60)田川 
慈光寺、竹林寺、恵光寺、当光寺、本台寺、安明寺

『田川郡誌』に、
「夏焼村は夏羽及び田油津姫の霊が祟りを成すので、
最澄が香春宮参籠の折、八幡大神二座及び若宮を創造して
神夏磯姫と合祀し奉り、

六ヶ寺(慈光寺、竹林寺、恵光寺、当光寺、本台寺、安明寺)を置き、
祭祀をさせたところ、怨霊が鎮まったと言うことである。」
とあります。

神功皇后軍に殺された夏羽と田油津姫の怨霊鎮めのために、
最澄は香春宮に参篭し、六ケ寺を建立しました。

最澄は神功皇后の各地の足跡で祈り、
また皇后の業も鎮めたようですね。


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         最澄



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by lunabura | 2017-06-07 19:52 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(6)

7月7日「神功皇后の足跡をたどる」




「神功皇后の足跡をたどる」







7月7日からの講座のパワーポイントのスタートページです。







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豊功(とよこと)神社から写した干珠満珠島の画像を選びました。

神功皇后が磯良からもらった干珠満珠を納めたことから
名前がついた島です。

本来、忌宮神社(豊浦宮)はこの海まで境内があったのが、
工業地帯が発展していくなかで、海と分断させられました。

それでも、今でもここでは舟を出して祭祀をしているそうです。

この海が龍宮と繋がっているというのも、
やはり干珠満珠と安曇磯良―海神豊玉彦という
安曇族の信仰があるからでしょう。

海神は「わだつみのかみ」と読みます。
「わだつみのかみ」豊玉彦です。


この宮の対岸の九州島にある和布刈神社では
安曇磯良が神功皇后に授けた干珠満珠を秘法として、
それを和布刈神事にして今尚、伝えています。



神功皇后が羽白熊鷲と戦うときも、この干珠満珠が使われたと
朝倉の宮では伝えます。

朝倉まで有明海の潮が上がっていたからです。

潮が引くということ。
そして潮が満ちるということ。
これを知ることは古代の船の戦いでは絶対条件だったのでしょうね。


新羅戦においては、津波が起こって
引き波の時に、敵軍が船から降りてしまったり、船がひっくり返ったりし、
寄せ波の時には、溺れてしまったといいます。

これが、干珠満珠が神秘の秘法となったゆえんです。


『日本書紀』が、新羅の国の半ばまで潮が上がったというのも、
あながち誇大表現ではなかったのかもしれません。

津波は新羅を洗い、返しては日本の海岸も洗ったことでしょう。


この時、神功皇后の船も危うくひっくり返ろうとしたのを、
船にびっしりとついたニナ貝が助けたということで、
一センチほどの小さなニナ貝が勝利のアイテムとして各地に伝わっています。

コメントで、
船に貝がつくことでバランスが取れるようになるという話をいただいたので、
観察されたことが今でも伝えられているのでしょう。



さて、この干珠満珠は豊玉彦(海神)の二人の姫神、
豊玉姫と玉依姫にもなぞらえられています。

海の長(おさ)は白と青の珠を捧げて祈ったといいます。

潮満珠と潮干珠を象徴する豊玉彦の二人の姫神。
それは北極星のない弥生時代のポラリスとツバーンにもなぞらえられました。

その二つの青と白の星の間の、漆黒の闇を天御中主ともいいました。
その天御中主は志賀島の沖津宮に祀られています。


7月7日は忌宮神社から香椎宮までの、遷宮のお話しです。




歴史と自然をまもる会

シリーズ「神功皇后の足跡をたどる」

福岡市早良市民センター3階
①7月7日(木)10時~or13時~
②8月2日(火)10時~or13時~
③以降は未定





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by lunabura | 2016-07-05 21:42 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(4)

謎の「15代神功天皇」


謎の「15代神功天皇」


神功(じんぐう)皇后の伝承の宮々を訪ねる中、
「15代神功皇后」「15代神功天皇」という表現があるのをいくつか見ました。

始めは、あまり気にしていなかったのですが、
中国の歴史書に神功皇后が天皇として書かれているのを見つけてびっくり。
(私が知らなかっただけ、なんだけど…)

歴代天皇の名前が列記されているなか、
神功皇后だけが特別扱いされているので、とても変な感じを受けました。
以前、このことをメモしただけだったので、今回は具体的に資料を書きたいと思います。

1 普通の系譜
14代 仲哀天皇(ちゅうあい)  神功皇后の夫君
15代 応神天皇(おうじん)   神功皇后の御子
となっています。


2 筑紫の伝承

高良玉垂宮 皇代15代神功皇后の時、イルヰは日本にハタル。(攻める)その時、皇后は筑前国四皇寺の峯に登り、虚空に向かって祈られた。(高良玉垂宮神秘書)

甲宗八幡宮 人皇15代神功皇后は先皇(仲哀天皇)の志を受けて橿日宮(香椎宮)より軍勢を発し、熊襲国を従え、羽白熊鷲を滅ぼし、土蜘蛛(田油津姫)を誅し、国の西が治まると神託に従って新羅に遠征した。(略)

思うに、神功皇后は女皇として偉くも武勲をたて、応神天皇はその胎中天皇としておのずと威徳を備えられた。(福岡県神社誌)

このように、久留米市の高良玉垂宮と北九州市の甲宗八幡宮では
神功皇后に「15代」を付けて天皇としていました。

「高良玉垂宮神秘書」に関してはかなり無理な系図があるので、
絶対的に信用するという訳にはいかないのですが、
それでも重要な情報が紛れ込んでいると考えている書物です。

文中に出て来る「イルヰ」とは新羅国あるいは新羅人を指すと思われますが、
この時、神功皇后は「15代」天皇として書かれています

次に甲宗八幡宮の伝承ですが、神功皇后を「15代」としたり、「女皇」としたりして、
やはり天皇として扱っています。
ただし伝承中に「56代清和天皇」と出て来ているので、清和天皇を調べてみると、現代でも「56代清和天皇」となっていました。
神功皇后を追加すると「57代」となるはずなので、
甲宗八幡宮の伝承には矛盾があることになります。

3 中国の歴史書
『新唐書』日本伝 (略)次は景行、次は成務、次は仲哀。仲哀が死んで、開化の曾孫女の神功を王とした。次は応神、次は仁徳。(略)

『宋史』日本国伝 (略)次は景行天皇、次は成務天皇である。次は仲哀天皇で、今は鎮国香椎大神と国の人は言う。次は神功天皇。開化天皇の曾孫女で息長足姫天皇ともいう。今は太奈良姫大神とすると国の人は言う。

次は応神天皇。甲辰の年、初めて百済より中国の文字を得た。今、八蕃菩薩という。大臣に紀の武内と言う者がいて、年は三〇七歳。次は仁徳天皇。(略)

『新唐書』は「倭国と日本」の併存が終わって「日本」だけとなった時代ですが、
「天皇」はまだ「王」という名称で呼ばれているようです。
この時、神功皇后も「王」として紹介されて、「開化の曾孫女」とわざわざ書かれています。

次に『宗史』。
「日本」の名称が「日本国」となり、倭国の存在が消えた時代に、
「王」は「天皇」という名称に変わり、
神功皇后は「神功天皇」「息長足姫天皇」と表現されています。
これもまた紹介文がわざわざ付けられています。

どちらも他の天皇は名前の羅列だけなのに神功皇后のことだけは詳しく書かれています。
これがとても不自然に思われるのです。

以上から、「倭国と日本」の併存時代から「日本国」だけになった頃、
「日本国」は「倭国のものだった神功皇后までの系譜」(倭国の系譜)を
自国(日本国)に取り入れたかったのでは、と考えるようになりました。
だから、わざわざ神功皇后の説明だけ詳しいんではないかってね。

それから、千数百年後。
神功天皇の存在が明治前後に再び抹消されたのですから、
これまた不思議ですね。


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by lunabura | 2013-05-23 20:21 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(7)

皇后の子


皇后の子


今、宇美八幡宮や筥崎宮、大分宮を見直しています。
神功皇后の皇子を『日本書紀』では何と書いているのか、
神功皇后紀をあらためて見てみると、
「誉田天皇を筑紫でお生みになった。」とあって、
他に何と書いてあるのか探すと、誉田別皇子というのが見つかりました。

応神天皇の名前がないなあ。

そこで応神天皇紀を見てみると、タイトルは「誉田天皇」となっている。
そして、後で付け加えたのか、小さな字で「応神天皇」と書かれている。
あれ?
どうなってる。
「誉田天皇  応神天皇」という書き方。

ざっと見ると、「応神天皇」の文字が他には見当たらない。

索引を持たないので、正しい事は分からないけど、
タイトルの「誉田天皇  応神天皇」という書き方は
「誉田天皇とは応神天皇の事だぞよ。分かっているな。」
そんなニュアンスが響いてくる。

こうなると、原典を見るしかないけど、
どうなってるの?

それに加えて、古事記と日本書紀では皇后の子供の数が違っている。

まだ変だなと思うのは、
皇后が皇太后となったあとに誉田別皇子が皇太子になっている。
順番がすごく変。

中国の史書には天皇のリストに神功皇后の名前が載っている。

いやあ、『日本書紀』と筑紫の神社伝承は皇后の出産までは対応しているけど、
その後はかなり違う。

年表を書いているけど、『日本書紀』自体の中も矛盾だらけ。
どうなってるんだろ。

今日も、メモです。

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宇美八幡宮 (糟屋郡)





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by lunabura | 2013-04-16 22:03 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(7)

百社・そして藤原紀香


百社完成!

ようやく神功皇后の伝承を伝える神社を百社、記事にしました。
いえ、既に少し超えてるんですがね。
まだまだ伝承の宮は他にも存在しますが、
ガイドブックに掲載する神社は100社に絞りました。

この百社を日本書紀に合わせて並べてみると、かなりの符合が見られます。
日本書紀はダイジェスト版という印象でした。
そして神社伝承にあって日本書紀にない部分、あるいは変更している所こそ、
編者の意図が読み取れる所です。

主に省略されていたのは戦いではない部分です。
特に北九州市へは下関市の豊浦宮時代から皇后は訪れていたけど記述がなく、
大分宮から北九州市へ戻って行った一年余りの旅路も省略されていました。

この北九州市や豊の国あたりが日本書紀に書かれていない件について、
書紀の編者に土地勘が無くて書かなかったのかなと始めは思っていたのですが、
今では天皇・皇后に随行した記録官が大分宮(解散地)で記録を止めたか、
あるいは書紀の編者が隋軍記の部分にしか興味がなくて他を省略したかと考えています。

私は神社の起源について、これまでは自然神を祀ったのだろうと思っていたのですが、
実際に歩いて見ると、福岡県では神功皇后の業績がよほど強烈だったのでしょう、
彼女が祀った所、休憩した所など、その足跡が多くの神社の由来となっていました。

どうやら、八幡信仰が広がる時期に皇后の足跡を伝える場所をきちんと祀るように
命ぜられた形跡があり(山口八幡宮)、それがこうして彼女のささやかな行動も
遺されるきっかけになったようです。

神功皇后伝承の魅力としては、日本書紀に出て来る熊鰐や大倉主、伊賀彦、五十迹手、
たちの伝承が地元に生き生きとして残っていた事です。もちろん竹内宿禰もですね。
末裔たちが神社を守り続けている所もあります。
運がよければ、そんな末裔の方々に会えて、1800年前の話を聞く事も出来ます。

神功皇后は実在していました。
実在していないという人は、実際にフィールドワークをすれば分かります。
不在論を立てた人は、机の前から飛び出して福岡の神社を歩いてみましょう!
きっとその伝承の厚みが真実への道に導いてくれるでしょう。
弥生時代の地形も各地に残っていて、そのまま歩ける所もたくさんあります。
きっと素敵な歴史巡礼になる事でしょう。

ガイドブックでは神功皇后が歩いた足跡を辿って歩けるように並べました。
特に羽白熊鷲や田油津姫を攻撃していくルートは圧巻です。
また玄海灘沿いにずらりと並ぶ神社は他国の敵から守る砦のようでもあり、
現在の国防などと重ね合わせてみる事ができます。

私は足跡を辿りながら、
誉田天皇と応神天皇は別人ではないかという思いがしだいに膨れて来ました。
(日本書紀では誉田天皇=応神天皇)
応神天皇を神功皇后の子供に捏造するために120年近い差を合体させて、
みんなが大変な長寿になっているのではないか。
そんな思いがずっと心を占めました。

北九州市で驚いたのは豊山宮を造営している事です。
仲哀天皇「豊浦宮」に対して、
神功皇后の「豊山宮」というように名前が対応しています。

船の修理にはかなりの時間を要したので滞在期間も長かったのでしょうが、
このエリアで神功皇后は活発に活動していました。
見知らぬ土地で縦横に動けたという事は
それを支えた物部氏などの存在があった事を見逃せません。

私の関心はそのような天皇家を支えた氏族たちの存在にあります。
これが後の時代の卑弥呼や磐井、斉明天皇たちにどうつながっていくのか。
筑紫の古代の歴史を地層のように捉えたいなと思っています。

福岡の歴史は魅力的ですね。
神功皇后の伝承のお蔭で、福岡県の隅々まで行く事が出来ました。
海や山。かつての古道。
観光ガイドブックでは決して知る事の出来ない福岡の魅力を沢山知りました。

早く本が出来て、みなさんの手元に届いたらと思ってますが、まだまだ先のようです。
本が出る時には、ブログでも本と対応して調べられるように一覧表にして
各神社の記事とリンクを張ります。

神功皇后の伝承はさらに大分県、佐賀県、長崎県と広がっています。
これほど北部九州を縦横に駆け巡った人物はいないかも知れませんね。
少なくとも私はまだ彼女ほど移動していない。

香椎宮から始まったこのブログですが、志式神社で冗談で言った
「神功皇后ブログでも書けそう」と言ったのが、現実になってしまいました。


ちなみに、神功皇后ってどんな顔をしていたのでしょうね。

私のイメージは藤原紀香さんでしたよ。
竹内宿禰は福山雅治。
仲哀天皇はオダギリジョー。
田油津姫は蒼井優。

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ちょっと意外かな。





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by lunabura | 2012-04-17 19:10 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(11)

神功皇后伝承を追って


神功皇后伝承を追って


最近は神功(じんぐう)皇后の足跡を追っています。

飯塚市(いいづかし)から京都郡(みやこぐん)にかけては
お乳を飲んでいた皇子が両足で立つまでのようすが伝わっていて、
母としての神功皇后を見ることが出来ました。

撃鼓神社 ⇒ 日若八幡神社 ⇒ 位登八幡神社 ⇒ 生立八幡神社 

今回からは時間を遡って、戦う神功皇后の姿を見て行きます。

ずっと前に小郡市の老松(おいまつ)神社まで行った時、知ったのは
皇后軍が羽白熊鷲を討ったあと、
ただちに田油津姫(たぶらつひめ)攻撃のための陣営をそこに置いた事でした。

その時私は、神功皇后は陣に残って戦況を見守っただろうと想像しました。
物部軍は仲哀天皇を亡くしたあと、
まさか危険な戦地に皇后を連れては行くまいと。

どうやら私は甘かった。

筑後川流域の神社を調べて行くと、神功皇后の名前があちこちに出て来ました。
まさか、船に乗ってそこまで行く?
本気で戦っている…?

彼女がそうまでする理由を探しに、田川郡に行って見ると若八幡神社
「田油津姫が皇后を暗殺しようとして失敗した」という伝承がありました。
暗殺実行場所は古賀市の小山田斎宮ここは仲哀天皇の死後、極秘に少人数で神掛かりをした所で、護衛も手薄。

そこで事件が起こったとすると、皇后が激昂するのはよく分かる。
若八幡神社の伝承では「ここで直ちに田油津姫は殺された」となっているけど、
山門で戦ったとなると、彼女は密かに脱出に成功したという事になる。


田油津姫は香春岳を中心とする遠賀川流域と
羽白熊鷲の秋月と
筑後川流域の山門郡(やまとぐん)を挟む山岳地帯で
緩やかに連合する広大な国グニの頂点に立った姫神だったのかもしれない
と思うようになりました。

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田油津姫は何故に神功皇后を殺そうとしたのか。

筑紫の頂点にたつ姫神が小山田斎宮に連れて来られている事自体が
その手掛かりになる。
一種の人質だ。田油津姫は忠心を装った。屈辱に耐えた。

そして仲哀天皇が死んだ。
皇后も死ねば、ふたたび自分の国に帰れる。
護衛が少ない今がチャンスだ。

そんな事でも考えたのだろうか。

しかし暗殺は失敗し、羽白熊鷲は討たれ、
皇后軍は田油津姫を追って山門に進軍してきた。

これが今のところ考えられるストーリー。
でも行って見ないと分からない。

という事で、次回か筑後地方の五社を廻ります。
これまで通り、一社ずつ見て行くので、
小説を読むように、このストーリーの続きがある訳ではありません。







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by lunabura | 2011-08-26 16:35 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(2)

新宮町の神功皇后伝説


新宮町の神功皇后伝説
福岡県粕屋郡新宮町

人丸古墳で紹介しきれなかったのですが、この新宮町には
旧石器から縄文や弥生、古墳時代の遺跡が沢山ありました。
海のすぐ近くなので砂鉄を採って鉄器を生産し、土器や石製品も製造していました。
弥生時代にはダムを作って、灌漑をしていました。

古墳時代になると武人たちを埋葬する時には、鏡や勾玉、金の耳環などとともに、
馬具や実用的な鉄の刀や剣を持たせました。
かれらの武器が青銅器でなく、鉄の真剣だった事から、また海のすぐ近くで、
港があることから、ここは軍事的に重要な所で、
船や馬に乗って戦う兵士たちがいた所ではないかと思いました。

倭国から百済や伽耶に行くのに、ここは一番便利な所で、
筑紫の兵士たちを調達出来る所なのです。

子供向けの町誌があり、その軍事的な背景が想像できる伝承が載っていました。
少し改変して紹介します。
「地名に残る神功皇后の足跡
的野(まとの)・夜臼(ゆうす)・上府(かみのふ)・下府(しものふ)

4世紀後半、南九州の熊襲が反抗しました。このため仲哀天皇とその皇后の神功皇后が九州に来られて、橿日(かしひ)の宮(現在の福岡市香椎)を拠点に平定に乗り出されました。

また神功皇后は仲哀天皇が橿日の宮で急死された後も、ここを基地に三韓(朝鮮半島)に出兵したと言われています。この時、二人はわたしたちの町にもたびたび足を延ばされたそうで、二人にまつわる地名が数多く残っています。

まず行政区名となっている的野(まとの)です。的野の「的」は弓矢の標的であり、「野」は野原のことで、ここで兵士が弓矢の訓練をしたので的野とつけられたと言われています。

同区の古賀市との境にある、永浦から古森にかけての高台に、馬挿場(うまさしば)と呼ばれている所があります。神功皇后の兵士がここで馬術の訓練や弓のけいこをした所と伝えられています。この一帯は戦に備えての、一大訓練の場だったと想像されます。

行政区の名前にもなっている夜臼(ゆうす)の起源もこの時のことです。二人がここに陣を構えた時、ここのひとたちは軍用米を差し出すため、夜通し米をつきました。天皇があちらこちらから聞こえてくる「コットン、コットン」という音をたまたま耳にされ、そばの者に「あれはなんの音だ」とたずねられました。

そばの者は「あれは私たちのために徹夜で米をついている音です。」と答えました。それからこの地区を「夜まで臼をつく」という意味で「ようす」と呼ぶようになりました。そして、月日がたつうちに「ゆうす」になまったといわれています。

また鉾田(ほこた)は、二人が野外で陣営を張られた所だそうです。臨時の陣営なので、より厳重な警備が必要だったのでしょう。矛や槍を持った兵士が、二重三重に陣営を取り囲んでいたということから、鉾田とよばれるようになったといわれています。

上府の神木(じんぎ)という所は熊襲平定の作戦会議、つまり神議(神様の会議)がたびたび開かれた所といわれています。この神議がいつの間にか神木になったのでしょう。

福岡市との境に近い下府に、飛山(とびやま)という小高い所があります。ある日、天皇が夜臼の東の山に登られ、四方の景色を眺めておられた時のことです。西の方にぼつんと立った小高い山が目にとまりました。天皇がこの山だけが他の山とかけ離れているので、「飛山だ」と言われ、以来それがこの山の名になったそうです。
う~ん。最後の飛山だけが、どこの話が分かりますね。
人丸神社と古墳があった所です。

(このあと、自分のブログを確認すると、なんと皇石神社(3)にも
全く同じ文を掲載してるのに気づいた…(;一_一)
忘れていたとは、ちとヤバイ。
同じ話ではないかと気づいた人も多いだろう…。
でも、この話の内容が昨年よりもかなり理解出来るようになったのだ…。
当時は屯倉の中に黄金を想像したが、今では武器庫だったのがよく分かる…。
私の中身は成長した。せっかく打ち込んだんだから、このまま出そう…。)

これを読むと、三韓征伐という言葉は知っていても、海を越えた戦いのために
どれだけの準備をしていたのか、何も想像出来ていなかった事に気づきました。

当然ながら、兵士たちは訓練をしなくてはなりません。
武器も沢山要ります。馬の訓練も必要だし。
新造船の訓練も必要です。船は48隻。宇佐で作らせました。

天皇と皇后も自ら夜臼での野営訓練に立ち会いました。
夜臼は弥生の環濠があり、登り窯などもあって、大変栄えていました。
米も豊富で兵糧があったので、ここを野営の陣にするのも納得です。
香椎宮もすぐ近くです。簡単に行き来できますね。
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日本書紀にこんな一行がありましたよ。
仲哀9年秋9月10日に諸国に命じて、船舶を集めて兵士たちを訓練する。

これは、仲哀天皇が亡くなったあと、
神功皇后が軍の指揮をする事になった時の話です。
夫について来ただけなのに、戦いを指揮しなくてはならなくなった女性。
自分がそうだったら、とても悩むだろう。
しかし、彼女は軍の指揮を取る決意をした…。

天皇が亡くなっても隠し続けて、軍勢を訓練した場所は新宮町なんですね~。
たった一行ですが、具体的な場所が分かったので、がぜん面白くなりました。
日本の歴史研究の人たちは、きっと誰も知らないんだろうな…。


平行して日本書紀の神功皇后を訳し始めています。
リアルタイムでどうぞ。


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by lunabura | 2011-02-16 18:51 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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