ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:<地名・地形・伝承>( 12 )

地名を聞けば、港の大きさが分かるそうだ



地名を聞けば、港の大きさが分かるそうだ



「悲劇の好字」の著者の黄 當時(こう とうじ)氏は
中国語と日本の古代史を理解している方で、
日本で邪馬台国や倭奴国の読み方など、大きな課題となっていることに
驚かれたそうです。

「倭奴」の「奴」は中国語では「大きい」という意味で、
「大きい倭」となることを話されました。

「倭奴」は「倭大」と置き換えられるんですね。

これを聞いて、これが「倭大」=「和大」とすると、もしかしたら
修辞がひっくり返って「大和」となったのではと考えるようになりました。

「倭奴」の発音は現代では「ウェイヌ」という感じです。
「倭奴国」は「ウェイヌコウ」。

これを早く発音すると「わぬ」と聞こえたり「ゐぬ」と聞こえたと思います。
「わな」にも聞こえますね。

あくまでも、日本人でなく、中国の皇帝が読んだ発音を考えなくてはなりません。


前回「とお」は「船」だと真鍋の本から紹介しましたが、
「悲劇の好字」にも同様の事が書いてあります。

中国や台湾から船に乗って日本に来るとき、
湊の地名を聞けばどの大きさの船が入港できるか分かるそうです。

ためしに「叶ケ浜」(かのうがはま)という志賀島の地名を言うと、
「大きな船が停泊できる所」と言われました。

そう、そこは神功皇后の船が凱旋したとき、
「わが願いが叶ったり」と言われたことから付いたと言われる地名です。

もちろん、それは後付けでしょうが、皇后の外洋船が泊まった所ですから、
黄 當時氏の話と一致します。


「室見川」(むろみがわ)と聞けば、
「もろた」という双胴船が入る川と答えられました。

こうして、地名が入港できる船の大きさを知らせているということを知りました。

ポリネシアの船に関する言葉が、日本の古語にかなり残っていると、
驚いてありました。
 
さて、
思いがけず「遠野」という地名についてコメントが入りましたが、
「遠野」を「とお・ぬ」と考えると、「船大」となり、
大きな船が入れるところという意味かもしれません。

如何でしょうか、船運が盛んな所、ということで当たっているでしょうか。








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by lunabura | 2016-11-06 23:01 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(2)

針摺の瀬戸と水城・古代、玄界灘と有明海はつながっていた

針摺の瀬戸と水城
古代、玄界灘と有明海はつながっていた


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(大野城市で発行されているパンフレットです。
1.2キロの大堤が築かれていて、日本書紀にも書かれています。
その目的が分からないと言われていますが、眞鍋家ではその歴史が伝えられていました。)

昨日、初めて講演をしました。

このブログを始めて一年と四か月になりましすが、、ブログを通しての御縁で、講演を依頼されました。
・『儺の国の星』の存在と真鍋 大覚氏について。
・かつて古代において、有明海と博多湾は海峡で結ばれていたこと。
・ふたつの海の潮汐の差を調節するために初期の水城が築かれたこと。その他。

こんなお題なのですが、本を調べると、
古代の福岡の地形を抑える事が正しい歴史の把握に繋がると思い、
お引受けする事にしました。
あちこちに散らばっている話探し出して、構成しなおしました。
その結果、構成は
1 真鍋大覚 略歴 暦法家としての眞鍋家 星の観測法 
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
3 ありなれ川とハリチ 針摺(はりずり)
4 瀦水塘と水城(大水城 小水城 上津土塁)
5 ありなれ川と水城の歴史
6 ありなれ川の風景と地名 舟 遠の朝廷 国栖(くにす) 太陽暦 鎮西 やす 三並 古賀・通古賀 中大江 板付 三笠・三原・御井・三潴・三池 三井郡 三原の潟 あさつま 夜渡七十 有明

としました。

ありなれ川とは、銀河、天の川の事です。
これを地上に映して、滔々と流れる大河もありなれ川と呼んでいました。
古代の筑紫にもそんな大河が真ん中を流れていました。
洪水や土砂の堆積などとの戦いの連続でした。
この話を世に残して下さった真鍋大覚氏と、
治水工事に取り組んだ先人たちへの敬意をこめて、

2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
5 ありなれ川と水城の歴史

を紹介します。
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
昭和57年・60年出版 那珂川町 原本は『石位(せきい)資正』(星暦)
「高松宮宣仁親王殿下が昭和のはじめに、日本人の祖先が空に輝く星々に向かって懐(いだ)いていた心と、その呼び名について調べることを、香椎宮宮司木下祝夫博士に指示されたが」、当時、木下氏は古事記のドイツ語訳で忙しかったので、真鍋大覚氏に依頼された。

本の内容は、300程の星の和名とその由来や歳差運動の計算、地名の由来、各渡来人の風俗や聖数や暦などの背景、古代鉄(隕鉄、スズ鉄、砂鉄)、暦(金星暦、土星暦ほか多種。)神の名の由来などなど、星暦を以って天皇家を支え、星辰を祀った物部氏に伝わる伝承が書いてある。

天皇の遷宮の理由、太陽の観測、銅鏡の使用法など門外不出とされた内容も含まれる。また日本書紀を補う文化背景が豊富に書かれている。

失明されたので、口述筆記。昔の記憶を辿りながらなので、難解な文脈になっている。

地図 針摺 と ありなれ川(灰色の市街地がそれに近い姿です。)

☆地図は拡大して行くと見えるようになっています。

5 ありなれ川と水城の歴史
氷河期 2万3500年前。肥前三根で水と雪を堰き止める堤の工事跡から炭が出土。瀦水塘の痕跡。この時代から灌漑と耕作を始めていた。

前255年 高来山(2987m)が爆発して現在の雲仙岳(1360m)に山容を変えた。
147~167 倭国はその領有権をめぐって大乱となる。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路(しおじ)見山(みやま)、或いは四(し)明山(みょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

248年 卑弥呼死去。
________________________________________
473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我の稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我の稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂(さく)田(たの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。
________________________________________
628頃 網代跡が出土。早春に海の魚が上って来るのを捕える木組で、汀線にはどこでも出土。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

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恵蘇八幡の拝殿にある羅針盤

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恵蘇八幡 時の公園にある、水時計
恵蘇八幡宮は 斉明天皇のモガリの宮です。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させ た大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

(講演後、福岡の南部にある「広川」を「ありなれ川」と今でも言う事を教えていただきました!感激です。)

講演デビューという事で、
久留米地名研究会の皆さまたちには暖かく迎えていただいて、
なごやかな雰囲気の中で話させていただきました。
ありがとうございました。

本は完売してしまっていますが、アーカイブに取り組む提案もあったりして
どなたでも手に出来る可能性も出て来ました。
実現したら、またお知らせします。


この話に関連するお散歩コース
『ひもろぎ逍遥』
高天原(1)志賀島に高天原があった なぜ海の中に高天原がある?
              2000年前の博多の姿

恵蘇八幡宮と木の丸殿 (1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
                  中大兄皇子はここで喪に服した
          (2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
          「高市郡越知岡村」は牽牛子塚か?車木ケンノウか?
          (4)こんな所に大きな漏刻(水時計)があった

牽牛子塚古墳 八角形の古墳はまるでピラミッド 斉明天皇陵に確定か?

『古事記の神々』
筑紫の君・磐井
斉明天皇




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by lunabura | 2015-05-17 22:16 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(9)

「くまもと」とは観星台 


「くまもと」とは観星台 
京都の門の開閉時間の基準は熊本にあった


今日は「くまもと」という言葉が星の観測に関連ある言葉だという一文を
見つけたので、書き写します。
例の眞鍋大覺です。囲みの中はスルーして大丈夫です。

 
天官は終夜の観測と事としていた。全天を隈なく見わたすところから、察するに宣命暦が公布された清和帝貞観3(861)年あたりの古語かと思われるが、観星台のことを隈本とよんでいた。

 「くま」はただちに近東の神話に出てくる斗極の熊の物語を思い浮べるのであるが、祖先は宇宙空間を九間(くま)と書いていた。

「くまもと」とは「くまのむち」即ち、天文観測の長者達人を言い、又「くまのまる」即ち天文台観星台の略でもあったかと思われる。

 九間とは八方と玄天、即ち八方の中心なる北辰の座のことであった。
  韓愈(かんゆ)(786~824)の作詩の一節に
   一封朝(あした)に奏す 九重の天
   夕に潮陽に貶(へん)せらるる路八千
は、まさに九間の言葉をよく表現している。

天官は星座をすべて暗誦して星位のみならず、新星の発見と動向には細心の注意をおこたることがなかった。「歳月人を待たず」の諺そのもののごとく、一寸の光陰に時のたつを賭けて一生を果したのであった。
『儺の国の星拾遺』p173


全天は水平線から天頂までが九尺となり、これが唐代(618~975)の詩文に出る九重天(きゅうちょうてん)の由来となる。『儺の国の星拾遺』p70 58磯城星 ヘルクレス座α(64)ラス アルゲーチ

今回注目したい内容をまとめましょう。

天官は一晩中星の観測をしていたのですが、
全天を「隈」なく観測していたことから、観星台を「隈本」と呼びました。
その「くま」とは「九間」と書きます。
北極星を中心に八方を描き、北極星+八方=九間と捉えていました。

また「九重の天」とは全天を水平線から天頂までを九尺としたということです。
地球儀に緯度と経度のラインを引きますが、
宇宙空間の場合は、北極星を中心として縦と横のラインと、
天頂を中心としたラインを想定していたわけですね。

それが「九間」と「九重」という言葉の由来だということになります。
「くまもと」とは天文観測の長者達人を言い、
「くまのまる」とは天文観星台の略ではないかと真鍋は言います。
「まる」って星の意味ですもんね。

「くま」の語源は普通、道や川の曲がりくねって入り組んだ所としますが、
これと合致しない地形もあり、
新たに天文観測所のあった地形を考慮すると上手く地名が説明できるかもしれません。

それにしても、クマモトとか、九重とか、熊本の地名と重なりますよね。

そこで思い出したのが、2014年の久留米大学公開講座での福山裕夫氏の発表です。

メモしかないのですが、
京都の門の開閉時刻は日の出と日の入に合わせられているのですが、
実際の時刻を調べたところ、京都の日の出日の入の時刻とは合っていないそうです。

これは、他の所で観測した日の出日の入の時刻を採用しているということになります。

そこで、基準となる緯度経度を調べると、
「熊本の玉名」付近辺りの観測値が当てはまるというのです。

その地に天文観測官がいて、正確な観測をしていたということになります。
そして、そのデータを京都では利用していたのです。

熊本に「隈本」がいた ( ´艸`)

絞り込むと玉名にいた。
神社とか丹念に調べていくと、天文観測所が見つかるかも知れませんね。
地名とか、地形とかが手掛かりです。
この近辺には安曇が入植したという話があります。

志賀海神社の遥拝所とか、香椎宮の古宮を把握して
安曇族の膳部の観測基準が明確になれば、
玉名との比較も可能になりますね。

ということで、追跡調査はTatsuさんに期待したいと思います。^^
(あいかわらず注文の多いブログです)

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玉名大神宮
ここには景行天皇がやって来た





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by lunabura | 2015-01-09 23:08 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(4)

八艘帆が崎(2)百済王子 阿佐太子


百済王子 阿佐太子と王子阿佐

同一人物か別人か

杵島郡の八艘帆が崎の掲示板に書かれていた阿佐太子の渡来。

三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。

一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。
 
この記事を読んだ時、私は勘違いしました。
「阿佐太子」って「恵」のことかと。
今日はその前後の話をしましょう。

聖明王の子には余昌がいます。
熱田神社で書いたように、余昌は倭国から来ていた鞍橋君に助けられているんですね。

鞍橋君は「くらじのきみ」と読み、
鞍手の人で、当地に行くと、「くらじ」の字があちこちで見かけます。

鞍橋君は葛子の子。
言い換えれば磐井の君の孫にあたります。

その鞍橋君が余昌と共に新羅内に侵入して砦に籠城していたのです。
それを援けるために援軍の指揮を執った聖明王自身が戦死してしまう。

こののち、余昌が百済王に即位するのですが、
その前に倭国に使いを出しているんですね。
「聖明王は賊に討たれて殺された。」と。

その使者の名前が「恵」。
余昌の弟です。

この時の天皇は欽明天皇。欽明16年2月のことです。
天皇は「王子恵が着いた津」に許勢臣(こせのおみ)を送って、王子に
「ここに留まるか、本国に帰りたいか」と尋ねさせます。

すると、恵王子は「天皇の徳で、父王の敵討ちをしたい。
兵卒を賜って雪辱したいのが臣である私の願いです。
私の居留は勅命に従います」と答えます。

蘇我卿が恵王子を見舞って、聖明王の死を悼みます。
その間、百済では余昌が出家しようとして止められます。

翌年、欽明17年(556)1月、百済の王子恵は帰国しますが、
その時、兵や馬を授かります。
天皇は阿倍臣、佐伯連、播磨直を派遣して筑紫国の舟師に送らせます。

これとは別に筑紫火君(筑紫君の児、火中君の弟)を派遣して
ミテという地を守らせ、かつ湊々を守らせます。


結局、恵王子の日本滞在は11カ月だけだったのですが、
私はこの恵王子と八艘帆が崎の掲示板に出て来た阿佐太子とが
同一人物かと勘違いしたのです。
どちらも聖明王の子になるし、時期的に近かったからです。

「恵」と「阿佐」では名前が違うのですが、
武寧王が斯摩という名を持っていることから、
「恵=阿佐」かも、と考えてしまったのです。

「恵」と「阿佐」が別人なら、
聖明王の王子が二人、それぞれ日本に来たことになります。
このあたりのこと、稲佐神社の縁起に何か書いてあるかも知れませんね。



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もう一人の王子阿佐

調べると、推古天皇の所にも阿佐が出てきます。
「推古5年(597)百済王が王子阿佐を派遣して朝貢した。」

この時の百済王はぎりぎり威徳王(余昌)です。
倭国には阿毎多利思北孤や聖徳太子がいた時代です。
王子阿佐は聖徳太子と会ったと言う話もあります。

以上、整理すると、
威徳王の即位前に恵王子が来日。
その前後に阿佐太子が杵島郡八艘帆が崎に上陸。
42年後、威徳王の在位中に王子阿佐が来日。

となります。
同一人物かどうか、決定打がありませんね。

ただ、興味深いのは、阿佐太子が上陸した場所が杵島郡だという点です。
つまり、百済から長崎回りでやって来たのでしょうが、
火ノ君が世話をしているんですね。

時代的には筑紫君葛子の次の世代なんです。
跡取りは宮地嶽祭神の勝村・勝頼か、あるいは別の子供がなったのか。

また、筑紫君と火の君は別人がなったのか。

そのあたり、「筑紫火君(筑紫君の児、火中君の弟)」なんて名前まで出て来たから、
あとちょっとで系図が書けそうなのになあ、と残念です。







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by lunabura | 2014-10-16 20:49 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(0)

八艘帆が崎・五十猛、百済王子・阿佐太子、空海が上陸した


八艘帆が崎
はっすぼがさき
五十猛、百済王子・阿佐太子、空海が上陸した


「八艘帆が崎」。
船と岬が連想される地名ですが、平野にあります。


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ここは佐賀県杵島郡。


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ここにはかつては海が広がり、小山は島でした。
緑なす田を海原に変えるとイメージが湧きますね。

左手が八艘帆が崎で、正面に見える森が島でした。
その向こうに、武内宿禰の居館跡山惣があり、その近くの石崎に湊がありました。

山と山の間の低くなった峠を越えて唐津へ抜けることが出来るような場所です。


そして八艘帆が崎の説明板。
そこには百済王子の渡来が書かれていました。
その名は阿佐太子。

八艘帆が崎(はっすぼがさき)
 古代海中に浮ぶ杵島山の山麓東南に二大良港があり、
一は竜王崎、二は八艘帆が崎である。

一、口承によれば稲佐大明神着岸のところを焼天神と伝えている。

二、神代の時、素盞嗚尊の子、五十猛命は孤津、大屋津命と共に韓地より樹種を持ち帰り、この岬に着岸され全山に植林せられたと言われている。

三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。

一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。

四、平城天皇大同二年、空海上人(弘法大師)帰朝し、ここ八艘帆が崎に上陸、太子庵にて稲佐山開創の事務を執らる。
補、焼天神の 白は、八艘帆が崎と同じである。

平成四年四月吉日   御即位大嘗祭記念
稲佐文化財委員会

うむ。如何ですか。
どれもこれも重要な話です。


有明海沿岸という、干満の差が数メートルに及ぶような土地には、
外洋船が泊まれるような湊はいくつもは無いのですね。

その点、当地は水深があったため、外洋船が停泊し、
五十猛、阿佐太子、空海という人たちが次々に足跡を残しました。

「二」の五十猛は久し振りに出てきました。
樹の種を持って来た神ということで、古代史でもよく名の出てくる人ですが、
ここがスタート地点だとすると、また面白い展開が望めそうです。

巨石と絡まっているので、調査のターゲットに再び入ってきました。
全容が分かるといいですね。

「三」の阿佐太子。
聖明王の王子で、欽明朝に火ノ君を頼って妻子も連れての着岸です。
火ノ君は王子の為に二カ所の座所を設けています。

あいにく、この日は稲佐山全体を探査しておらず、郷土史も調べなかったので、
これ以上の事は分かりません。

説明板では「欽明朝」ですが、阿佐太子をネットで調べると、
「推古朝」に出てくるらしい。
聖徳太子の画像を描いたという伝承があって、韓流ドラマに出てくるらしい。

でも、「欽明朝」と「推古朝」。
これは違う人?同一人物?

欽明紀なら、磐井の孫、すなわち宮地嶽神社の勝村・勝頼や
熱田神社の鞍橋君の時代に当たるのです。


熱田神社(3)百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった
http://lunabura.exblog.jp/22277202/
鞍橋君の系図のお蔭で、磐井は新羅ではなく、
百済と関係が深かったことも分かったのです。

この辺りが、『宮地嶽神社と磐井の末裔たち』の論題の一つでもあります。

自分でも、もう一度読みなおそう。
資料がないけど、ちょいと調べてみます。





八艘帆が崎





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by lunabura | 2014-10-15 20:59 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(0)

月の浦・天体ショー・万葉歌「天の原~」は禁忌の歌?


月の浦

月の浦から見える天体ショーを発見
万葉歌「天の原 ふりさけみれば~」は禁忌の歌だったのか?
 

昨日、太宰府地名研究会でくるま座さんが急遽、研究発表。

その中に hurutakaimasakiさんからイラストの依頼があった万葉歌
「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」
に関わる発表があったので、途中経過を報告します。

まず、これまでの経緯です。(サイドバー<地名>→「御笠の森」)
Commented by hurutakaimasaki
添付の地図を見て改めて感じたことです。
宝満山の別名は三笠山ですよね。春日の真東。海抜は869m。
「天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山にいでし月かも」
唐へ渡った阿部仲麻呂の歌です。出立地は当然博多那の大津。
春日から見た三笠山から昇る月はさぞ美しかったんでしょうね。

luna様「宝満山と月」の写真、心当たりがあれば教えて下さい。
一方、奈良の御蓋山は見かけの高さ200mほど。若草山に登るかしなければ月の出のいい写真は撮れないようです。
ちなみに「三笠の杜」の歌の「大野」は春日から見て宝満山の手前の大野山(四王寺山)ですよね。
なお「三笠社之 神思知三」は「三笠の杜の 神し知らさむ」と訓読されているようです。
三笠山も三笠川も三笠杜も元はみんな福岡だと思っています。
(イラストの山に月があれば・・などど欲張りな願望を・・)

Commented by lunabura
この歌が福岡で詠んだ歌だという話は何人かから聞きましたが、具体的に確認した人を知らないのですよ。
糸島市の松尾氏が精力的に各地から見える日の出を撮ってあるのですが、御笠山があったかどうかは、確認しないと分かりません。
幣の浜の月の出などは拝見しました。

また、御笠山が宝満山のま南にある宮地岳(あしきの近く)を指していたという話を先日くるまざさんが突き止めました。
このあたりは私もよく分からないのですが、分かったらまた報告します。
(あと延々と続くので省略します。「御笠の森」のコメント欄を参照して下さいね)
御笠山の月の出が見えるビューポイント探しという事で、
太宰府の研究家くるま座さんに相談すると、
ちょうどくるま座さんは基山の山頂にある案内石におかしい表示があるのに気づいた所でした。
それは頂上から見える山の名を示す丸い石盤なのですが、
宝満山の隣に三笠山が書かれていたのです。(三笠山=御笠山)

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普通は「宝満山をかつては御笠山と言っていた」という事ですが、
石盤からは「宝満山と御笠山とは別山である。」という事になり、
教育委員会などに尋ねたけれど、分からなかったという事でした。

神社考古学家の百嶋由一郎氏に尋ねると、
隣の宮地岳を御笠山と呼んでいた事を証明する資料が届けられました。

フィールドワーク家でもあるくるま座さんは
満月に実際に観測しますと言われたのですが、あいにく二回とも曇り空。
その間に地名の調査を続けて、「月の浦」という不思議な地名を発見。

そして今月の満月の夜にそこから見ると、宝満山と宮地岳の間から月が出て、
宮地岳の山稜をなぞるように月が昇っていく天体現象を確認しました。

さらに「日の浦」という地名も発見された事から、
そこからは日の出の天体ショーが確認される事と思われます。

「天の原」は福岡の南北を貫流する「ありなれ川(中つ海)」が隔てた
左の島「左佐島」の別名です。
(⇒「高天原」や「赤司八幡神社」「針摺の瀬戸」を参照)
(赤司八幡神社に書いた「中つ海」の範囲を訂正しています)

「月の浦」は「天の原」にあり、「中つ海」を挟んで対岸に三笠山(宮地岳)を見る位置にあります。
これが課題の万葉歌の場所と特定出来た訳ではないのですが、
思いがけず、古代筑紫にあった「月の出の天体ショーが見られる月の浦」という
特別な名所を発見しました。


月の浦と宮地岳




くるま座さんは一方で、この歌について調査をし、
これが太宰府における禁忌を詠んだ歌だという記事を発見。
それが太宰府の「うそ替え」という祭事の暗号と、
菅原道真の遺言の謎を解くカギとなることまで発表されました。

また太宰府の南に二つの巨大な盤座があるのですが、
そこから福岡県内の9つの神籠石まで、
東西や夏至線などの祭祀線が引かれる事を発見。

古代筑紫の結界と思われる壮大な祭祀線像が浮かび上がりました。

以上が概要ですが、くるま座さん。論文でも書いてくれたらいいのにな~。

話が聞きたい方は直接「自然食のくるま座」に行けば、話してくれると思います。
くるま座の場所は「地震雲教室」の所に書いてます。

ということでhurutakaimasakiさん、あの歌は思いがけない展開となりました。
イラストはもうしばらくお待ちください。




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by lunabura | 2012-01-22 13:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(10)

皇后崎・神功皇后の上陸地点


皇后崎
こうがさき
北九州市八幡西区皇后崎町2丁目
神功皇后の上陸地点

一宮神社で地図を書いて頂いて、早速そのまま皇后崎に向かいました。
国道3号線に皇后崎(こうがさき)町という信号があります。
通るたびに、何と読むのだろうと思い、
「皇后」が神功皇后を指すとは想像もしていなかったのですが、
地元ではここが神功皇后の旧跡だというのは当たり前の話のようでした。

史跡へ曲がる信号は3号線の「皇后崎町」か「桜ケ丘町」で、海の方面に向かいます。
私は教えていただいた桜ケ丘信号、「びっくりドンキー」レストランから曲がりました。
緩やかに左に曲がって行きます。左は高台、右は低地に鉄道という道でした。

c0222861_0161581.jpg

すぐに着きました。これが皇后崎史跡です。
地図をしっかり見ていないと通り過ぎてしまいそうです。石碑のお蔭で分かりました。
「史跡 皇后崎 神功皇后御西征之時 …(後は不明)」
と書かれています。
まるで方墳のような形をしています。横に階段があり、よっこらしょと入り込みます。

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これが上からの眺めです。高速道路が走り、その下には鉄道が走っています。

c0222861_017393.jpg

目の前は洞海湾のはずですが、想像する事も出来ません。
しかし、道路の橋げたの隙間から海?川?水面が見えました。
やはり昔は海が広がっていたのです。

ここに神功皇后が上陸した様子が当時の人々にはよほど印象強かったのでしょうね。
地名になったほどですから。

本当は仲哀天皇も一緒だったと思うのですが。
英国の皇太子夫妻が来日した時も、ダイアナ妃の報道ばかりがあったように、
人々は美人の后に魅かれるのは昔も今も同じようですね。

史跡の横にはアパート群が建っていて、道が急な登りになって、
一宮神社まで岬が続いていたのが想像できます。

仲哀天皇と神功皇后は戦いの準備に当たって、まずは皇祖の祭祀の為に、
神武天皇の旧跡(一宮神社)に向かったのだと思いました。

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家が立ちこんで、地形も分かりませんが、点線あたりが岬だったのでしょうか。



地図 皇后崎





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by lunabura | 2012-01-21 00:21 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(7)

御笠の森・神功皇后の笠が飛んだ


御笠の森
みかさのもり
福岡県大野城市山田2丁目 
神功皇后の笠が飛んだ

お待たせしました。
今回から羽白熊鷲との戦いのルートを歩いて行きます。

下関市の忌宮神社(いみのみや)に行って分かったのは
そこが仲哀天皇が宮室をたてた穴戸(あなと)の豊浦宮であって、
新羅の塵輪(じんりん)から都を襲撃されていた事でした。
すでに新羅との戦いは始まっていたのです。

実は仲哀天皇は塵輪に攻撃される前に
下関市から北九州市、豊前市、宇佐市にかけて、
木を切り出して、船を48隻も作らせているのも分かりました。
これらは日本書紀には書かれていない部分でした。

これらの事から分かった流れは、
仲哀天皇は船を48隻造らせて、新羅攻撃の準備に取り掛かっていた。
ところが新羅の塵輪と熊襲の連合軍が豊浦宮を先制攻撃。
かろうじて仲哀天皇が塵輪を射殺して勝利を収めたが、
護衛の阿部高麿、助麿の兄弟は戦死してしまう。

そのために天皇一行は防府市の佐波に避難していたが、
ついに香椎宮に遷宮して、本格的に戦闘の準備に取り掛かった。

軍事訓練をする中、会議で武人たちは先に新羅を攻撃する作戦を勧めたのに、
仲哀天皇は熊襲攻撃に執着した。
仲哀天皇の意向に従い、皇軍は御勢大霊石神社で布陣をして、
宝満川を挟んで羽白熊鷲に対峙したが、天皇が矢で討たれて崩御してしまった。

仲哀天皇の突然の崩御の理由を知るために、皇后が小山田斎宮で神託を聞くと、
神々は熊襲より新羅を討てと勧めた。
しかし神功皇后もまた神々の意見を聞かずに羽白熊鷲攻撃を決意する。
(田油津姫がこの場にいて、皇后を暗殺しようとして失敗している。)

そこで新たに立て直した作戦は陸路と水路の挟み打ちをする事だった。
神功皇后自ら本軍を率いて、陸路を進軍した。

その途中、皇后の笠が吹き飛んでしまう。
この笠が飛ぶ話は日本書紀に書かれているんですね。
仲哀9年2月6日。仲哀天皇は崩御。
3月17日に皇后は熊襲を討とうと思って、香椎宮(かしい)から松峡宮(まつお)に遷った。
その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛んだ。そこで人々はそこを御笠と呼ぶようになった。

それがこの森です。

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廻りは道路と住宅街ですが、見事に残されていました。
鳥居があればまるで神社のようです。

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古木がそのままに遺されていました。

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森の中に入る事が出来ます。森の中は異空間です。
この石は万葉歌碑。

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おもはぬを 思ふと言はば 大野なる 御笠の森ぞ 神し知らさむ

太宰大監 大伴宿禰百代作

読み方はこれでいいのかな…。
漢字は原典は万葉仮名だったので、適当でいいんですが、
ひらがなが上手く読めない…。意味もよう分からん…。
(hurutakaimasakiさんに読み方、教えていただきました。ありがとうございます。)

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何やら祠もありました。説明板があったので、書き写します。
笠が飛んだ話
武内の宿禰以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から大野に出られ、
宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、
荷持田村(のとりのたふれ)をめざして南に向かわれた神功皇后が、
筒井村の辺りまで進まれた時に、
いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。
そこで土地の人は笠がぬげたところに、「笠抜ぎ」という地名をつけました。
上筒井小字笠抜の地名は、こうして起こったということです。

空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、
北へ北へと飛んで行って、一キロメートルはなれた山田村の森の
大きな楠の梢(こずえ)にかかってしましました。

お供の人はこの笠を取ろうとしますが、高すぎてなかなか取れません。
事情を聞いた村長(むらおさ)は森の神様にお願いするほかはないと思い、
お供の人たちと相談しました。そして、森の前で神様に奉納する舞がはじまりました。

すると枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするととけて、
笠はひらひらと舞い降りてきました。
大変喜んだ村人達はそこを「舞田」(まいでん)と呼ぶようになりました。

赤司岩雄著『大野城市の伝説とその背景』より抜粋

さすが地元には地名と共に詳しい話が残っていました。
こうして伝えられるとありがたいですね。

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しかし。るな的にはどうも納得できない。
笠が一キロも飛ぶ?
しかも笠が飛んだことが、神様に舞を奉納する騒ぎにまで発展する?
そして、日本書紀にわざわざ書くほどの事件だった?

きっと誰しもがこう思う事でしょう。
何らかの暗喩なのでしょうが、残念ながら謎は解けませんでした。
地元の神への挨拶が出来てなかったという事なのかな…。






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by lunabura | 2011-10-29 14:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(19)

鹿家 こんな日でも波乗りする?


鹿家
しかか
こんな日でも波乗りする?


また来てしもうた。
この日の天気予報は雨のち雪。しかし長崎方面は曇りと雨。
もしかしたら雪になる前に帰れるかもしれないと、期待をして長崎方面へ。
だんだん雲が明るくなって来た。前回紹介したルートでやっぱり海岸線を走る。
今日の海は小さな三角波が沸騰したように沸き立ち、小刻みにぶつかりあって、
こりゃあ、荒れ模様。まさかサーフィンしてる人、いないよね。

そして、またまた鹿家の二丈パーキングエリアに来てしまいました。
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ここは鳴き砂の浜というではないですか。
それならと強風の中、浜辺に下りてみました。風は強いが、思ったより冷たくない。
でも写真のように砂は濡れていたので、鳴くはずもない。

サーファーが渚に座り込んでいました。
仲間に「今日は心が折れた。」と言っています。今日は命懸け。
波は立ってはすぐに崩れ落ちるから、乗れそうな波も2~3秒で消えている。

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それなら冬の荒波を撮ってみようと水際で撮ってみると大した波が撮れない。
それならこっちは。

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と、振って見たけど、やはり体感ほどの波は撮れない。
へぼカメラマンは、あきらめが早い。戻るとするか。

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あっ、こんな日でも、波を捉えたヤツがいた。すごいヤツだよ。
次の瞬間、さかさまになった彼の足だけが宙に見えた。

曇り空の冬の海なんて、暗くて載せてもねと思ったけど、
この海の透明感はやっぱり魅力的。

最近は古墳ばかり出していていたので、ここらへんで厄落とし。
訪問して下さってる方々に、きれいな海をプレゼントしよう。

鹿家の意味?  「シカ」は「=スカ=砂の処」、「カ」は「崖」
まさにここは崖と砂浜だけがある所です。古代の地名みたいですね。

鹿家 福岡県糸島市二丈鹿家 鹿家海水浴場




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by lunabura | 2011-02-18 10:52 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(2)

九州の「飛鳥」に行って来ました


九州の「飛鳥」に行って来ました
福岡県小郡市井上飛嶋


新聞に「九州にも飛鳥の地名があった」というタイトルで
太宰府地名研究会の案内が載っていたので、行って来ました。
古川清久氏による講義とフィールドワークがありました。
講義では地形図と現地写真、また郷土史や地誌の収集、聞き取り調査などが丹念になされていて、
福岡県の小郡市にあった「飛鳥」という地名について概要を知る事が出来ました。
今日はその報告です。

私は眞鍋氏の本に出会ってから「飛鳥」を探していました。
筑紫では水城の南に飛鳥、北に春日の地名があり、大和での北の添上春日、南の高市に明日香の古都が栄えた。   『儺の国の星・拾遺』

九州にも飛鳥があったなんて。いったい何処にあるんだろうと思っていたのです。
春日とは福岡県の春日市の事で、水城とは、この前紹介した
太宰府政庁跡のすぐ近くにある、巨大な堤防です。
県外の方のためにその位置を出しておきます。

春日市 水城 飛鳥(小郡市)
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小郡市に「飛鳥」という地名がある事自体、地元の人間にとっても驚きです。
しかし資料によると、明治15年の調査には、「御原郡 飛鳥」と書かれていて
「ヒチョウ」と送り仮名がふってありました。
現在の地名は福岡県小郡市井上字飛嶋(とびしま)です。
もともと飛鳥だったのが、都に同じ名があるのをはばかって飛嶋に変わったそうです。
(近くの徳川という川の名前は得川へ変更され、現在は宝満川へ。)

では、現地へ行きましょう。
小郡市は福岡県の中部、広い筑後平野にあります。
県道500号線から三井高校を目指すと、すぐそばに松崎天満宮があり、
数十メートルで、いきなり大木の森の中に入りました。
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平野の中に森があるなんて、初めての景観です。不思議な感じがしました。
そして、すぐに池に出ました。
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このような池が四つあります。
ここの地形図を見ると、首の長い鳥の頭から羽根にかけた姿に見えるそうです。
その地形が飛鳥という名の由来ではないかという事でした。
もともと三つの池だったのが、中央に道路が作られて、四つになっています。
中之島のように埋め立てが進んでいて、将来は地形が変わるかもしれません。
池の排水溝からは水が流れ出し、小川となっています。
それを辿ると10メートルほどで平野に出ました。
c0222861_13132367.jpg

正面には背振(せぶり)山が見えました。古代にはここも海でした。
近くの地名に「吹上」や「干潟」という名が残っています。
手前の田んぼは溜め池だったそうです。
この田んぼをぐるりと囲む土手沿いに、左の方に歩きました。
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振り返って見ると、この森の中にさっきの池があるのが分かりました。
森は古代には無かっただろうという事です。
このカーブは昔の土手の形がそのまま残っていると考えられるそうです。
こうして教えてもらうと、少しずつ地形の見方が分かって来ます。
ここの標高は20メートルほど。
あの70年に一度の津波の時には、ここも潮をかぶったのでしょうか。

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田圃の溝からは、すぐに土器の破片が二つ見つけられました。
粒子の荒い砂が入っていて、「ここの土で焼いたのかな」なんて、話し合いました。

この小郡市の「飛鳥」は九州古代王朝説の古田武彦氏が早くから調査をされていて、
「九州・小郡市にある“飛鳥と呼ばれていた地区”の形状が飛ぶ鳥に似ていること、
また近くの麻氐良布(まてらふ)神社の祭神が明日香皇子であることから、
書紀・万葉集にある“アスカ”は大和でなく筑後にあった」という説を出してあるそうです。

ルナは先入観を持たないために九州古代王朝説にはまだ触れていません。
でも、講師の古川氏が「古田史学の会」の会員という事で、
これはチャンスとばかりに尋ねました。
「私は、九州古代王朝説をよく知らないのですが、一言で言えば、どういう説ですか?」
「九州にはかつて年号を持つような王朝があったという説です。
それは白村江の時代までで、白鳳という年号も九州王朝で使われていた年号です。」
「では、その王朝はどこにあると考えてありますか?」
「私は太宰府政庁跡にあったと考えています。雑餉隈(ざっしょのくま)はその迎賓館です。」
なるほど、明快に教えて戴きました。

そうか、これが古代の地形の名残をとどめる「飛鳥」か。
「どうして私はこんな所にいる?」と何度も現地で口走ってしまったのですが、
家に帰ってからも、ずっと不思議な感覚でした。
この平凡な田んぼと池が古都「飛鳥」の跡なんだろうか。
すんなりと入ってこないのは私が無知なせいです。

ここの近辺には歴史的に重要な遺跡がいくつもあるのを教わりました。
かつては広大な境内(二町)を誇る井上廃寺があり、松崎城があり、
昔の役所である、御原郡衙(みはらぐんが)がありました。
三か所も移転しながら存続したそうです。
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(上岩田遺跡 7世紀から9世紀 リーフレットより)

またすぐ隣の松崎天満宮には、九州古代王朝説の人たちにだけ分かる、
王朝の存在を暗示するいろんなシンボルがありました。
( それについてはもう一度ここを訪ねて、報告できればと思っています。)

さて、これが冒頭の疑問、眞鍋氏の言う春日に対応する飛鳥かどうかは、
現時点では分かりません。因みに、眞鍋氏は
飛鳥とは太陽の黒点であった。「あすか」はその昔は「かすか」即ち一年の日が尽き果てる意であった。太陽の黒点は不死鳥フェニックスの焼け焦げた死骸の群とみていた。これを「いしむれ」と呼んだ。仏式では祖先の陵墓に参詣の度ごとに小石を積み上げる。神式では「かしは」をささげ、今の玉串奉納の素形である。

「かすか」とは火風の枯渇する季節であり、「あすか」とは地水の旱涸する季節の代名詞で、その起源は中東の砂漠地帯にあったらしい。

と言っています。
池が太陽の黒点のように飛び飛びになっているから、飛鳥なのだろうか。
砂漠の中にオアシスを見つけたように、この池を見つけた砂漠の民がアスカと付けたのだろうか。
まだ他にも飛鳥はあるのかも知れない…とも思いながら、その夜は3時まで眠れませんでした。

九州歴史資料館 移転開館記念 企画展
御原郡衙(みはらぐんが)
 
会場:小郡市埋蔵文化財調査センター(古代体験館おごおり)
期間:平成22年11月21日(日)~平成23年1月15日(土)
開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:第3日・月曜日、年末年始(12月28日~1月4日)
入館料:無料 0942-75-7555


さて、この記事をUPしようとした朝、古代史ファンのTさんから電話がありました。
「ああ、そこは巨勢氏の中心地。物部氏。畿内に行く前の場所。」とあっさりと。
え?ルナは何故だか巨勢川を八女市内だと思い込んでいた。
天照宮の物部氏の地図を描き変えないといけない。
でも、巨勢川を調べると、筑後川の支流と、佐賀にもう一つある?
よく分からない。どなたか教えてください。




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by lunabura | 2010-12-22 13:28 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(13)
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