ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:<地名・地形・伝承>( 15 )

御笠の森・神功皇后の笠が飛んだ


御笠の森
みかさのもり
福岡県大野城市山田2丁目 
神功皇后の笠が飛んだ

お待たせしました。
今回から羽白熊鷲との戦いのルートを歩いて行きます。

下関市の忌宮神社(いみのみや)に行って分かったのは
そこが仲哀天皇が宮室をたてた穴戸(あなと)の豊浦宮であって、
新羅の塵輪(じんりん)から都を襲撃されていた事でした。
すでに新羅との戦いは始まっていたのです。

実は仲哀天皇は塵輪に攻撃される前に
下関市から北九州市、豊前市、宇佐市にかけて、
木を切り出して、船を48隻も作らせているのも分かりました。
これらは日本書紀には書かれていない部分でした。

これらの事から分かった流れは、
仲哀天皇は船を48隻造らせて、新羅攻撃の準備に取り掛かっていた。
ところが新羅の塵輪と熊襲の連合軍が豊浦宮を先制攻撃。
かろうじて仲哀天皇が塵輪を射殺して勝利を収めたが、
護衛の阿部高麿、助麿の兄弟は戦死してしまう。

そのために天皇一行は防府市の佐波に避難していたが、
ついに香椎宮に遷宮して、本格的に戦闘の準備に取り掛かった。

軍事訓練をする中、会議で武人たちは先に新羅を攻撃する作戦を勧めたのに、
仲哀天皇は熊襲攻撃に執着した。
仲哀天皇の意向に従い、皇軍は御勢大霊石神社で布陣をして、
宝満川を挟んで羽白熊鷲に対峙したが、天皇が矢で討たれて崩御してしまった。

仲哀天皇の突然の崩御の理由を知るために、皇后が小山田斎宮で神託を聞くと、
神々は熊襲より新羅を討てと勧めた。
しかし神功皇后もまた神々の意見を聞かずに羽白熊鷲攻撃を決意する。
(田油津姫がこの場にいて、皇后を暗殺しようとして失敗している。)

そこで新たに立て直した作戦は陸路と水路の挟み打ちをする事だった。
神功皇后自ら本軍を率いて、陸路を進軍した。

その途中、皇后の笠が吹き飛んでしまう。
この笠が飛ぶ話は日本書紀に書かれているんですね。
仲哀9年2月6日。仲哀天皇は崩御。
3月17日に皇后は熊襲を討とうと思って、香椎宮(かしい)から松峡宮(まつお)に遷った。
その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛んだ。そこで人々はそこを御笠と呼ぶようになった。

それがこの森です。

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廻りは道路と住宅街ですが、見事に残されていました。
鳥居があればまるで神社のようです。

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古木がそのままに遺されていました。

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森の中に入る事が出来ます。森の中は異空間です。
この石は万葉歌碑。

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おもはぬを 思ふと言はば 大野なる 御笠の森ぞ 神し知らさむ

太宰大監 大伴宿禰百代作

読み方はこれでいいのかな…。
漢字は原典は万葉仮名だったので、適当でいいんですが、
ひらがなが上手く読めない…。意味もよう分からん…。
(hurutakaimasakiさんに読み方、教えていただきました。ありがとうございます。)

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何やら祠もありました。説明板があったので、書き写します。
笠が飛んだ話
武内の宿禰以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から大野に出られ、
宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、
荷持田村(のとりのたふれ)をめざして南に向かわれた神功皇后が、
筒井村の辺りまで進まれた時に、
いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。
そこで土地の人は笠がぬげたところに、「笠抜ぎ」という地名をつけました。
上筒井小字笠抜の地名は、こうして起こったということです。

空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、
北へ北へと飛んで行って、一キロメートルはなれた山田村の森の
大きな楠の梢(こずえ)にかかってしましました。

お供の人はこの笠を取ろうとしますが、高すぎてなかなか取れません。
事情を聞いた村長(むらおさ)は森の神様にお願いするほかはないと思い、
お供の人たちと相談しました。そして、森の前で神様に奉納する舞がはじまりました。

すると枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするととけて、
笠はひらひらと舞い降りてきました。
大変喜んだ村人達はそこを「舞田」(まいでん)と呼ぶようになりました。

赤司岩雄著『大野城市の伝説とその背景』より抜粋

さすが地元には地名と共に詳しい話が残っていました。
こうして伝えられるとありがたいですね。

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しかし。るな的にはどうも納得できない。
笠が一キロも飛ぶ?
しかも笠が飛んだことが、神様に舞を奉納する騒ぎにまで発展する?
そして、日本書紀にわざわざ書くほどの事件だった?

きっと誰しもがこう思う事でしょう。
何らかの暗喩なのでしょうが、残念ながら謎は解けませんでした。
地元の神への挨拶が出来てなかったという事なのかな…。






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by lunabura | 2011-10-29 14:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(19)

鹿家 こんな日でも波乗りする?


鹿家
しかか
こんな日でも波乗りする?


また来てしもうた。
この日の天気予報は雨のち雪。しかし長崎方面は曇りと雨。
もしかしたら雪になる前に帰れるかもしれないと、期待をして長崎方面へ。
だんだん雲が明るくなって来た。前回紹介したルートでやっぱり海岸線を走る。
今日の海は小さな三角波が沸騰したように沸き立ち、小刻みにぶつかりあって、
こりゃあ、荒れ模様。まさかサーフィンしてる人、いないよね。

そして、またまた鹿家の二丈パーキングエリアに来てしまいました。
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ここは鳴き砂の浜というではないですか。
それならと強風の中、浜辺に下りてみました。風は強いが、思ったより冷たくない。
でも写真のように砂は濡れていたので、鳴くはずもない。

サーファーが渚に座り込んでいました。
仲間に「今日は心が折れた。」と言っています。今日は命懸け。
波は立ってはすぐに崩れ落ちるから、乗れそうな波も2~3秒で消えている。

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それなら冬の荒波を撮ってみようと水際で撮ってみると大した波が撮れない。
それならこっちは。

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と、振って見たけど、やはり体感ほどの波は撮れない。
へぼカメラマンは、あきらめが早い。戻るとするか。

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あっ、こんな日でも、波を捉えたヤツがいた。すごいヤツだよ。
次の瞬間、さかさまになった彼の足だけが宙に見えた。

曇り空の冬の海なんて、暗くて載せてもねと思ったけど、
この海の透明感はやっぱり魅力的。

最近は古墳ばかり出していていたので、ここらへんで厄落とし。
訪問して下さってる方々に、きれいな海をプレゼントしよう。

鹿家の意味?  「シカ」は「=スカ=砂の処」、「カ」は「崖」
まさにここは崖と砂浜だけがある所です。古代の地名みたいですね。

鹿家 福岡県糸島市二丈鹿家 鹿家海水浴場




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by lunabura | 2011-02-18 10:52 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(2)

九州の「飛鳥」に行って来ました


九州の「飛鳥」に行って来ました
福岡県小郡市井上飛嶋


新聞に「九州にも飛鳥の地名があった」というタイトルで
太宰府地名研究会の案内が載っていたので、行って来ました。
古川清久氏による講義とフィールドワークがありました。
講義では地形図と現地写真、また郷土史や地誌の収集、聞き取り調査などが丹念になされていて、
福岡県の小郡市にあった「飛鳥」という地名について概要を知る事が出来ました。
今日はその報告です。

私は眞鍋氏の本に出会ってから「飛鳥」を探していました。
筑紫では水城の南に飛鳥、北に春日の地名があり、大和での北の添上春日、南の高市に明日香の古都が栄えた。   『儺の国の星・拾遺』

九州にも飛鳥があったなんて。いったい何処にあるんだろうと思っていたのです。
春日とは福岡県の春日市の事で、水城とは、この前紹介した
太宰府政庁跡のすぐ近くにある、巨大な堤防です。
県外の方のためにその位置を出しておきます。

春日市 水城 飛鳥(小郡市)
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小郡市に「飛鳥」という地名がある事自体、地元の人間にとっても驚きです。
しかし資料によると、明治15年の調査には、「御原郡 飛鳥」と書かれていて
「ヒチョウ」と送り仮名がふってありました。
現在の地名は福岡県小郡市井上字飛嶋(とびしま)です。
もともと飛鳥だったのが、都に同じ名があるのをはばかって飛嶋に変わったそうです。
(近くの徳川という川の名前は得川へ変更され、現在は宝満川へ。)

では、現地へ行きましょう。
小郡市は福岡県の中部、広い筑後平野にあります。
県道500号線から三井高校を目指すと、すぐそばに松崎天満宮があり、
数十メートルで、いきなり大木の森の中に入りました。
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平野の中に森があるなんて、初めての景観です。不思議な感じがしました。
そして、すぐに池に出ました。
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このような池が四つあります。
ここの地形図を見ると、首の長い鳥の頭から羽根にかけた姿に見えるそうです。
その地形が飛鳥という名の由来ではないかという事でした。
もともと三つの池だったのが、中央に道路が作られて、四つになっています。
中之島のように埋め立てが進んでいて、将来は地形が変わるかもしれません。
池の排水溝からは水が流れ出し、小川となっています。
それを辿ると10メートルほどで平野に出ました。
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正面には背振(せぶり)山が見えました。古代にはここも海でした。
近くの地名に「吹上」や「干潟」という名が残っています。
手前の田んぼは溜め池だったそうです。
この田んぼをぐるりと囲む土手沿いに、左の方に歩きました。
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振り返って見ると、この森の中にさっきの池があるのが分かりました。
森は古代には無かっただろうという事です。
このカーブは昔の土手の形がそのまま残っていると考えられるそうです。
こうして教えてもらうと、少しずつ地形の見方が分かって来ます。
ここの標高は20メートルほど。
あの70年に一度の津波の時には、ここも潮をかぶったのでしょうか。

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田圃の溝からは、すぐに土器の破片が二つ見つけられました。
粒子の荒い砂が入っていて、「ここの土で焼いたのかな」なんて、話し合いました。

この小郡市の「飛鳥」は九州古代王朝説の古田武彦氏が早くから調査をされていて、
「九州・小郡市にある“飛鳥と呼ばれていた地区”の形状が飛ぶ鳥に似ていること、
また近くの麻氐良布(まてらふ)神社の祭神が明日香皇子であることから、
書紀・万葉集にある“アスカ”は大和でなく筑後にあった」という説を出してあるそうです。

ルナは先入観を持たないために九州古代王朝説にはまだ触れていません。
でも、講師の古川氏が「古田史学の会」の会員という事で、
これはチャンスとばかりに尋ねました。
「私は、九州古代王朝説をよく知らないのですが、一言で言えば、どういう説ですか?」
「九州にはかつて年号を持つような王朝があったという説です。
それは白村江の時代までで、白鳳という年号も九州王朝で使われていた年号です。」
「では、その王朝はどこにあると考えてありますか?」
「私は太宰府政庁跡にあったと考えています。雑餉隈(ざっしょのくま)はその迎賓館です。」
なるほど、明快に教えて戴きました。

そうか、これが古代の地形の名残をとどめる「飛鳥」か。
「どうして私はこんな所にいる?」と何度も現地で口走ってしまったのですが、
家に帰ってからも、ずっと不思議な感覚でした。
この平凡な田んぼと池が古都「飛鳥」の跡なんだろうか。
すんなりと入ってこないのは私が無知なせいです。

ここの近辺には歴史的に重要な遺跡がいくつもあるのを教わりました。
かつては広大な境内(二町)を誇る井上廃寺があり、松崎城があり、
昔の役所である、御原郡衙(みはらぐんが)がありました。
三か所も移転しながら存続したそうです。
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(上岩田遺跡 7世紀から9世紀 リーフレットより)

またすぐ隣の松崎天満宮には、九州古代王朝説の人たちにだけ分かる、
王朝の存在を暗示するいろんなシンボルがありました。
( それについてはもう一度ここを訪ねて、報告できればと思っています。)

さて、これが冒頭の疑問、眞鍋氏の言う春日に対応する飛鳥かどうかは、
現時点では分かりません。因みに、眞鍋氏は
飛鳥とは太陽の黒点であった。「あすか」はその昔は「かすか」即ち一年の日が尽き果てる意であった。太陽の黒点は不死鳥フェニックスの焼け焦げた死骸の群とみていた。これを「いしむれ」と呼んだ。仏式では祖先の陵墓に参詣の度ごとに小石を積み上げる。神式では「かしは」をささげ、今の玉串奉納の素形である。

「かすか」とは火風の枯渇する季節であり、「あすか」とは地水の旱涸する季節の代名詞で、その起源は中東の砂漠地帯にあったらしい。

と言っています。
池が太陽の黒点のように飛び飛びになっているから、飛鳥なのだろうか。
砂漠の中にオアシスを見つけたように、この池を見つけた砂漠の民がアスカと付けたのだろうか。
まだ他にも飛鳥はあるのかも知れない…とも思いながら、その夜は3時まで眠れませんでした。

九州歴史資料館 移転開館記念 企画展
御原郡衙(みはらぐんが)
 
会場:小郡市埋蔵文化財調査センター(古代体験館おごおり)
期間:平成22年11月21日(日)~平成23年1月15日(土)
開館時間:午前9時~午後4時30分
休館日:第3日・月曜日、年末年始(12月28日~1月4日)
入館料:無料 0942-75-7555


さて、この記事をUPしようとした朝、古代史ファンのTさんから電話がありました。
「ああ、そこは巨勢氏の中心地。物部氏。畿内に行く前の場所。」とあっさりと。
え?ルナは何故だか巨勢川を八女市内だと思い込んでいた。
天照宮の物部氏の地図を描き変えないといけない。
でも、巨勢川を調べると、筑後川の支流と、佐賀にもう一つある?
よく分からない。どなたか教えてください。




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by lunabura | 2010-12-22 13:28 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(13)

鹿家(しかか)・サーフィンの季節がやって来た!

鹿家(しかか)
福岡県糸島市鹿家
サーフィンのシーズン到来!


さて、糸島の魅力を追って、海岸線に行きましょう。
福岡から唐津方面に行く時、都市高速で行けば、信号も少なくて気分爽快ですが、
時間があれば「上深江」あたりで、海岸線のルートに出ましょう。
ここは断崖と海の間に造られた道なので、くねくねと曲がるのですが、
海がいろんな角度から現れて、感動ものです。
海。海。海。
きれい!降りて見たい!そう思うあたりに無料のパーキング!

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なんて綺麗な海。ここは鹿家。「しかか」と読みます。
そう言えば、JRの駅にも鹿家があって、
夏には海水浴の人たちが気軽にサンダル履きで歩いてた。

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沖に見える島の名前は姫島
右手の岬は糸島半島。ずっと右の綺麗な形の山は可也山
あの山も登ったなあ。そんな話をしていると、

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あれ、立ってる人がいる。オールで漕ぐんだ。

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おお、二人のヴィーナスがボードを抱えて、荒波の中へ。
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お、こっちでは、波をつかまえた。

このパーキングには、観光案内所がありましたよ。
さっそく、観光マップを貰いに行きました。
ここは「二丈パーキングエリア」というんだ。
海岸には「姉子の浜の鳴き砂」って書いてある。きれいなはずだ。

なるほど、糸島市は前原と二丈と志摩が合併して出来ている。
このブログで紹介したのは、桜井神社、伊都国歴史博物館、平原遺跡
あれ、たったこれだけ?(反省)
それじゃあ、もう少し遊ぼう。さあてっと、どっちに行こう。

鹿家海水浴場 桜井神社 伊都国歴史博物館 平原遺跡




★「葛城襲津彦」の現代語訳始めました。ちくっと、渋いぜよ。
でも、この辺りから、朝鮮半島に渡ったはず。
(古事記の神々)



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by lunabura | 2010-11-24 17:16 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(2)

玄海灘・玄界灘の黒船騒ぎ

玄界灘の黒船騒ぎ

黒船は玄界灘で何をしていたのか。


現在放映中のNHKの「龍馬伝」に黒船が出て来ます。
玄海灘の伝承を調べていると、黒船が出没した記録が出て来ました。
彼らの行動が記録されているので、今日はそれを紹介したいと思います。

黒船が来た
幕末のある日、神湊(こうのみなと)の浜に黒船が来ました。玄海町沿岸の漁民の中には長崎警固の水主として、毎年勤務があったので、外国船を見た者もいたはずですが、初めて黒船が煙を吐いて沖を通る姿を見た漁民の驚きは想像されます。

ペリー来航は嘉永6年(1853年)であり、幕末に近い文久元年(1860年)にはロシアの船が対馬の一部を占領、文久3年には長州藩がイギリスの船を砲撃、翌元治元年(1864年)には英米仏蘭四国連合艦隊が下関を砲撃しています。

この頃の神湊町の話で、年代を確定する事が出来ていませんが、玄海町沿岸の語り継ぎとして記録しておきます。文政10年(1827年)生れの曽祖父が40歳、祖父が13歳頃の話の聞き伝えと思われます。

幕末に近いある日、地島沖から黒煙を吐きながら、一艘の黒船が現れ、地島前に出て来ました。これまでは沖を通り過ぎる事はあっても湊に入ることはなかったのですが、黒船は湊の沖まで入って来たから沿岸では大事件です。

漁方の知らせで、神湊浦庄屋は決断の結果、早飛脚を飛ばして、浦奉行(福岡)に知らせました。

しばらく見守るうち、黒船は静かに地の島沖に去った。また報告を要するので、早飛脚が出されました。見守るうち、地島を一周して測量などをしたのでしょうか。

若松では、西洋人が沿岸を測量した記録があります。また英国船が近海を測量した事があると福間でも言います。

黒船は停泊したように見えるから、また飛脚がとばされました。三人目です。やがて、黒田藩の侍が数騎、馬にて駈けつけて来ました。髯をぴんと生やした豪傑らしい侍が刀を手にかけて、沖の船を見廻している姿がそりゃもう、偉くそりくり返って見えた、と漁方は言います。
黒田藩の侍が駆けつけるまで相当永い期間、船は測量をしていたと考えられます。

『玄海町史話伝説』玄海町教育委員会 (一部省略しました。)

これを見ると、対馬が一部占領されたり、山口県が攻撃されたりと
すでに戦争の状態になっていたのが分かりました。
しかも、黒船といっても、国籍はいくつもあって、
イギリス、アメリカ、フランス、オランダ、ロシアと各国から来ています。

これに対して、筑前黒田藩はイギリスと長州藩の戦いのあとに、
福間、須崎、若松、黒崎、姪の浜に砲台を設置する工事をしています。
これは、藩としての対応であり、幕府の防衛作戦は見えて来ません。
無策ではなかったのでしょうが、どれほど危険な状態だったのか、先週の「龍馬伝」を見ていてびっくり。

「龍馬伝の」長崎の話(2010年7月18日放送)の一部です。
イギリス人の武器商人のトーマス・グラバー
わずか3年の滞在で巨万の富を手に入れます。
その商売敵のウィリアム・オールトがグラバーに
「かせぐだけ稼いだら、日本から逃げろ。この国は終わりだ。」
と警告します。
「幕府はフランスのあやつり人形だ。これをイギリスは許さない。」
と言って、日本征服のあらすじを明かします。

そのイギリス軍日本上陸作戦とはこうです。
摂津の海を封鎖して、兵庫に歩兵1万2千人他を上陸させて、
大阪を制圧したら京都へ向かう。そして、ミカドを拘束する。
一方、本隊1万5千人で江戸を攻撃する。こうして1日で日本を征服する。

なんとも、具体的な作戦です。

この放送を見て、彼らが玄界灘で盛んに測量した理由が分かりました。
日本を占領するための上陸地点を捜していたのですね。
オールトの話が本当なら、ざっと足し算しただけで2万7千人以上の兵が船に乗っています。
軍艦の数はいったい何艘だったのでしょうか。
これが日本の周囲をうろうろとして、上陸作戦を練っていた。

一気に上陸するためには、港の深さ、広さ、など、事前の調査が必要です。
玄界灘は長州藩のすぐそばなので、念入りに調査したかったのでしょう。
その長州藩の高杉晋作
「長州は黒船と戦って惨敗してからは、戦う相手を幕府に変更した。独立する。」
と龍馬に話すシーンがあります。
しかし、情勢はそれどころではなかった?

新宮町の相の島には、黒船が実際に上陸しています。
理由はなんと、
「船に乗っている婦人が気分が悪くなったから、しばらく島で休ませてほしい。」
との事。
希望は届けられて、婦人と男と二人を上陸させて、島内の案内もしています。
まっこて、恐ろしかことで。

さあ、これがどうやって未然に防がれたのか。
日曜日は「龍馬伝」を見逃せません。

地図 砲台 福間、須崎、若松、黒崎、姪の浜
黒船目撃 若松、地島、神湊、相の島




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by lunabura | 2010-07-25 15:45 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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