ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:風浪宮・ふうろう・大川市( 3 )

風浪宮(1)たらしーおきながたらし姫

風浪宮(1)
ふうろうぐう
福岡県大川市酒見726-1
たらし

日本三大暴れ川の一つである筑後川の下流にある風浪宮に行きました。

風浪宮のある大川市と言えば、古賀政男を生み出した町です。
♪ まぼろしの 影を慕いて 雨に日に 月にやるせぬ 我が想い …
♪ 一人酒場で 飲む酒は 別れ涙の味がする …

彼の奏でる三拍子のメロディーは日本人の心をあっという間に掴みました。

この三拍子のルーツは遠い中東にあり、
韓半島を経て住吉族が日本に伝えて来たものだそうです。

DNAに眠る遠い記憶が呼び覚まされて琴線を震わせるのでしょうか。
初めて聞いても懐かしい三拍子は古代の深い地層から蘇ったものでした。

そのリズムを「たらし」と言ったと、真鍋大覚氏は伝えています。

息長足姫(おきながたらし姫)。これは御存じ、神功皇后の名前です。
「たらし」には「足・垂」という字を当てますが、

♪ ま~ぼ ろ~し の~ か~げ~を し~たい~て 

のような嫋々としたリズムの三拍子を指すと言います。
「嫋々(じょうじょう)」とは音や声が細く長く続くさまを言います。

さてさて、前置きも「長ったらしい」ものになりましたが、
この古賀政男の記念館から二キロ程の所に風浪宮はあります。

この風浪宮の始まりは、
息長足姫(神功皇后)がここに上陸した時からだと伝えています。

では神社に参りましょう。

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これはおっきい。駐車場は長い参道の途中にありました。

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まっすぐに石畳みが続きます。

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これはまだ神門。

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ようやく拝殿に着きました。この拝殿は鎌倉時代のものです。
屋根のラインが直線を意識していて、力強いです。

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赤と緑の色彩が龍宮を思わせます。
正面の三座は少童命(わだつみのみこと)。表、中、底の海の神々です。

御由緒 称号 風浪宮
縁起
神功皇后の三韓御親征のみぎり、少童命の御神徳による開運と航海安全の御加護とを多として、皇后の勅命により時の海上指揮を仕え奉った阿曇磯良丸をして少童命を祀らしめ、承和年間に左右三神を配して、風浪大権現、風浪将軍、のちに風浪宮と称号す。
祭神 住吉大神 息長足姫命 少童命 高良玉垂命

神功皇后が三韓攻撃から戻る時に助けてくれた海神の少童命に感謝して、
ここで安曇の磯良に祀らせたのですね。

そののち、神功皇后なども一緒に祀られるようになりました。
承和年間とは834年~で、平安時代です。
 
(つづく)

「影を慕いて」を知らない世代があるかも…?
米良美一 の「影を慕いて」で一服どうぞ
http://www.youtube.com/watch?v=dGleWbHHiFU&feature=related


地図 風浪宮





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by lunabura | 2011-09-17 14:15 | 風浪宮・ふうろう・大川市 | Trackback | Comments(0)

風浪宮(2)あずみー阿曇磯良ー安曇目

風浪宮(2)

あずみー阿曇磯良ー安曇目

参拝を済ませて脇をみると、安曇の磯良がこんな所に!

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で、でかい。
これは2mはあろうかという巨大な木彫です。まさか、ここで再会するとは。

志式神社の神楽で出会った時は120万歳の翁の姿、
高良大社では絵巻物の中で亀に乗って魚を釣って、
志賀海神社では、白い布で顔を隠していた。
ここでは中国の王様のような服装だけど、
着物をよく見ると、ワカメや亀なんかがちゃんとくっついている。

やっぱり海の底に住んでたんですね~。
フジツボや海藻がくっついて人前に出るのが恥ずかしくなった神です。

さて、何故彼がここにいるのか、説明板がありました。(読みやすく改変)
 阿曇磯良丸の像
磯良丸少童(わだつみ)命を祖神とする海洋族の酋長で、神功皇后が三韓に御親征の時、志賀島に召されて軍船を整え、海上指揮を仕え奉りて、無事大任を果たした航海熟達の海士(あま)であります。

太平記に見る磯良丸は龍宮に住んでいたが、神功皇后のお召しに従って大海亀にまたがって香椎が浜に出現し、皇后の三韓御親征に干珠満珠を捧げて従軍し、御助成をしたと述べられています。

この像は磯良丸が多年海底の宮に住んでいたので、身体中海藻や魚貝類がとりついていたという魁偉なる風貌を彫ったものであります。
因みに、阿曇史久 現宮司は直系の67代目を数えます。

これはもうこのブログではすっかりお馴染みの話ですね。

安曇族エジプトあたりから船で来た海人族で、
外洋を通って倭国に渡る航海技術があったので、彼らを味方に付ける事は、
韓と倭国の間の制海権を手に入れるに等しい事だったと思われます。

安曇磯良は度重なる説得で、ついに
大型船を出して、諸船の水先案内をして倭国に勝利をもたらしました。

戦ってみると、三韓が無抵抗だった理由には、
この安曇族の存在は大きかったと思います。

凱旋して帰国する時に磯良の船は唐津ルートを採って、
長崎の方を廻って有明海に進入したと考えられます。

この時代は大善寺までが入り海だったので、
大型の海洋船でも、そのまま大善寺まで乗り付ける事ができました。
その時の話が大善寺玉垂宮のクスノキに船を係留したという話になっています。

この船には弓頭大将となった国乳別命も乗っていて、
送り届けるのも目的の一つだった事でしょう。

そして思い出すのは、志式神社に祀られた哀しい神々、稚武王十域別王
仲哀天皇の兄弟ということで、王位継承権を持つために排除されて、
それぞれ唐津や平戸に降ろされたと考えているのですが、
この磯良の船に乗っていたと想像しています。

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稚武(わかたけ)王は唐津で降ろされ、十域別(ときわけ)王は平戸で降ろされました。

そして神功皇后は?
この風浪宮に上陸したとなると、ヤバくない?
そろそろ宇美八幡宮あたりで出産する頃。
有明海を通廻りする余裕も時間もないはずなのに。

しかし、この宮には神功皇后の名前が残っている。
HPで縁起を見ると、風浪宮に11月29日となっている。
出産は日本書紀では12月14日。ぎりぎりセーフか。

ただ、日本書紀の妊娠期間の計算が間違ってるので、
当てにならないのは、どこかの神社で計算した通り。

とりあえず、ここも帰着地候補の一つとして、先々考える事にしましょう。

ここまで来て分かった事は、神功皇后の移動について伝承が二つ混じっている事。
田油津姫を攻撃するために南下した時と、
安曇の磯良の外洋船に乗って北上した時。
筑後地方にはこの二つの伝承が混在しているので、よく見分けるべし。

この風浪宮に来て分かったのは田油津姫攻撃のルートではなかったという事。
収穫は大きかった。

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安曇の磯良に戻ろう。
彼は国乳別命を送り届けることで、結果的に有明海の湊の支配権を手に入れた。

それを筑紫全体で見ると、彼は中央を流れていた「ありなれ川」(中つ川)の
北と南の河口の湊を押さえたことになる。

海を渡るための大型船は筑後川は通れない。
底の浅い小型舟を利用しないといけない。

大善寺玉垂宮に彼の船が置かれた事を考えると、
安曇の磯良たちは小型の船に乗り換えて、
そのまま北上して高良山に向かったと思われる。

小型舟を操縦するのは安曇族ではない。別の氏族だ。
干満の差が激しいので、太陽暦と陰暦を読み取れる船人たちだ。
遡上する時は満ち潮と帆を利用する。
小郡の端間(はたま)で、また船は小さくなる。

筑後川に特有の満ち引きに詳しい氏族がいた。
彼らを国栖(くにす)と言う。葛生(くず)とも書く。
日田では玖珠(くす)と言った。

安曇目(あずみめ)

イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして鋭い目に見えるのを見て、
変わってるなあと思って、歌にして、返事をしました。
 「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」
                              古事記より
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阿曇=安曇=吾瓫=アントン
磯良=磯羅=イソラ
                       (つづく)




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by lunabura | 2011-09-16 20:27 | 風浪宮・ふうろう・大川市 | Trackback | Comments(17)

風浪宮(3)タケー竹内宿禰―たけしうちーちくしうち


風浪宮(3)

タケー竹内宿禰―たけしうちーちくしうち

クスノキ

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境内に巨大なクスノキがありました。

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推定樹齢2000年! ブログ上、最長寿!
このクスノキについての説明板がありました。分かりやすく書き換えます。
天然記念物 白鷺の楠
昭和35年福岡県指定 樹齢 推定2000年 幹廻り8メートル余

風浪宮の御神木として古来から崇められ、別称を鷺見(さぎみ)の楠と呼び、この酒見(さけみ)地区の地名の語源とされる。
 
社伝によると、神功皇后が韓半島への遠征より御帰還の洋上で暴風の難に遭いながらも、少童(わだつみ)命の御加護を得て、無事に葦原の津、現在の榎津(得の津)に着かれたと言われる。

その折、皇后の御船のあたりに忽然と現れた白鷺をご覧になった皇后が「あの白鷺こそ我を風浪の難から守護された海神・少童命の御化身なり」として、武内宿禰にその後をつけさせられた。

この白鷺は艮(うしとらー北東)の方角に飛び立ってこの大楠の上にとまったので、この地を聖地として少童命を祀らせて、海上指揮を仕え奉った阿曇磯良丸を、この宮の初代宮司として留めたと伝えられている。

神功皇后が帰還中に暴風雨に遭った話はここにも残ってるんですね。
ワダツミノ神を少童命と書いていますが、
同様の話を伝える福岡市の綿津見神社では綿津見と書いています。

葦原の津に到着した時、白鷺が現れて飛んで行き、大楠の上に止まりました。
そのクスノキがこれなんだ。
今が2000歳なら当時は樹齢200年。当時でも、かなりの巨木です。
ここを聖地として船長の安曇の磯良に少童神を祀らせました。

縁起では磯良丸は初代宮司としてここに留まったと書いてありますが、
この後、大善寺玉垂宮に行ったと思われます。
この縁起は磯良丸がこの土地の領有権を与えられた事を象徴しているのでしょう。


この神社の境内の裏手に廻って見ると、長方形の石囲いがありました。

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その石囲をぐるりと廻ると、鳥居があって聖域となっていました。
中の方には祠らしきものも見えます。
いろんな種類の竹が生えていていたのですが、とても珍しい竹が。

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節と節の間がとても長くて50センチ以上はありました。
そして細いです。これを見て、光さんが言った言葉を思い出しました。

「竹内宿禰の一族は特殊な竹を代々植えとると。
この人は笛を吹いていた。楽隊だったと。」
そうか。竹内宿禰には戦う姿が見えて来ないのは笛を吹く楽人たったから?

この竹がその竹内家の竹だという訳ではないのですが、竹笛になりそうな竹です。

音楽は古代の人にとってもエキサイティングなものです。
安曇の磯良だって神楽の音につられて、ついに姿を表わすくらいなのですから。


竹内宿禰っていろんな字が当てられています。
竹内=武内=建内=たけうち=たけしうち

竹は「ちく」とも読みます。
「筑紫」を地元では「ちくし」と読みます。
だから「竹内」は「ちくしうち」=「筑紫のウチ」じゃなかったかなと
思うようになりました。
最近は「竹内」と書いて「ちくしうち」と心の中で読んでいます。

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筑後川
それにしても、この宮には石段がなかった。
平地だったのかと疑問に思ったら、かつては岬だったと教えられました。

大化の改新の頃からこの地方では干拓が始まったそうです。
営々と護岸工事を先人がしてくれたお蔭で、実り豊かな穀倉地帯になっています。

この筑後川の中流域の「山田の堰」で編み出された護岸工事の技術は
今、中村哲氏によって、アフガニスタンの砂漠地帯に水をもたらして、
30万人の人々が農地に戻って来たそうです。

筑後川。
この水の清らかさと美しい故郷を子供たちに残したいものです。

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かわいい狛犬と思ったら、大川出身の陣内孝則家の奉納でした。

次回はさらに南下して鷹尾神社へ。




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by lunabura | 2011-09-15 22:31 | 風浪宮・ふうろう・大川市 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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