「ほっ」と。キャンペーン

ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:忌宮神社・いみのみや・下関( 6 )

忌宮神社(1)仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


忌宮神社(1)
いみのみやじんじゃ
山口県下関市長府宮の内
仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


仲哀天皇が7年間治世した豊浦宮がこの忌宮です。
c0222861_20583676.jpg

日本書紀から。

足仲津彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)は日本武(やまとたける)尊の第二子である。
天皇の容姿は端正である。身長は170~80センチ。
稚足彦(わかたらしひこ)天皇(成務天皇)48年に皇太子となった。31歳だった。
叔父の稚足彦天皇には男の皇子がいなかったので、
足仲津彦が皇太子となったのである。

成務60年に成務天皇が崩御され、
仲哀元年1月11日に皇太子は天皇に即位した。
仲哀2年1月11日に息長足(おきながたらし)姫尊を皇后とした。
その前に、大中姫との間には麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子が生まれ、
また弟姫との間に誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)が生れていた。

2月6日に角鹿(つぬが)の行宮・ケヒ宮を建てて住んだ。
3月19日から南国を巡狩して徳勒津宮にいた時、熊襲がそむいて朝貢をしなかった。
天皇は熊襲を討とうと思って船で穴門に行幸した。
その時、使いを角鹿に送って皇后に
「すぐにその港を発ちたまえ。穴門で逢いましょう。」と伝えた。

6月10日に天皇は豊浦津に着いた。
7月5日に皇后も豊浦津に着いた。この日皇后は海の中から如意の珠を手に入れた。
9月に宮室を穴門に興した。これを穴門の豊浦宮という。

宮室とは天皇の宮殿の意味で、皇居の事です。

帯中日子(たらしなかつひこ)の天皇は穴門(あなど)の豊浦宮、
また筑紫の訶志比(かしひ)宮にましまして、天下を治めた。

これは古事記の仲哀天皇記の筆頭の一文です。

さあ、仲哀天皇の皇居あとです。
c0222861_2058162.jpg

広大な境内の中心に一段高く神門があります。

c0222861_20585987.jpg

菊の御紋が目に入ります。

c0222861_20593253.jpg

拝殿前に出ました。堂々と風格がある宮です。

豊浦宮が忌宮神社となっているのは何故?


由緒書きから分かったことは
仲哀天皇が香椎宮で崩御されたのちここに神霊を祭った(豊浦宮)。
聖武天皇の御代に神功皇后を祀って「忌宮」(いみのみや)と称した。
さらに応神天皇を祀って「豊明宮」(とよあけのみや)と称した。
親子三人が並んでそれぞれ別殿に祀られていたが、中世時代に火災が起こったために、
合祀して一殿となり、総称して「忌宮」となった。
「忌」とは「斎」と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。

ということでした。
もともと仲哀天皇の宮だったのが、合祀されていって、
火事に遭って再建された時には、神功皇后の忌宮が中心になってしまった訳ですね。
戦の途中で亡くなった天皇より、
戦勝の神として、また子安の神として女神様の方が人気が高かったのでしょうか。

c0222861_212851.jpg

広い境内の片隅に神功皇后お手植えの「さかまつ」がありました。
必勝祈願して逆さまに松を植えたものが枯れて残っています。
皇后はあちこちに杉や松を逆さまに植えてましたよね。
逆さまなのはどういう事なんだろ。
つがるはずないのにと、現代人のるなはいつも不思議に思うんですよ。

c0222861_2123212.jpg

これは「宿祢の銀杏」(すくねのいちょう)。
当社の御祭神仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた大臣竹内宿禰が植えたと伝えられる古木でその子孫が繁茂している。
銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上で最も古くよりみられる植物で武内宿禰の長寿伝説と結びついている。

倒れんばかりの巨大な古木です。
竹内宿禰が植えた銀杏は織幡神社にもありました。
そこでは仲哀天皇をしのんで植えたと言います。
離れた所でこうして同じような伝承に出会うと、懐かしい気分になるので不思議です。

さて、日本書紀の「神功皇后」を『古事記の神々』に出していますが、
訳していてとても変だなと思う事がありました。
その謎がこの宮で解けたんです。
(つづく)
地図 忌宮





気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-10-10 21:10 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(18)

忌宮神社(2)新羅のジンリンと熊襲が皇居を襲撃していた


忌宮神社(2)

新羅のジンリンと熊襲が皇居を襲撃していた


忌宮神社の神門の正面に囲いがあります。

c0222861_14293185.jpg

「石鬼」と書かれていて、覗くと石があります。

c0222861_1430296.jpg

説明板を読んでみましょう。
数方庭(すほうてい)の由来と鬼石
第14代仲哀天皇は九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を扇動し、豊浦宮に攻め寄せた。

皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿倍高麿、助麿の兄弟まで相次いで打ち死にしたので天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。

賊軍は色を失って退散し、皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍(しかばね)のまわりを踊りまわったのが数方庭(すほうていー8月7日より13日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

新羅軍が直接上陸して皇室を襲撃!?敵将の名前はジンリン。
まさかの大事件です。この話は日本書紀には書いてありません。
さすがに書きたくなかったのでしょうね。

なるほど。これで神功皇后が海を渡ってまでも戦わないといけない理由が分かった。
日本書紀では仲哀天皇が筑紫に遷宮してまでも戦う理由を
「熊襲が朝貢しなかった」という事で済ませていました。
また新羅との戦いは金銀財宝の国を神が与えようと言ったのが始まりでした。

正直、この程度の事で戦う?と思っていたのですが、
皇居に熊襲と新羅の連合軍が襲撃したとなると話は違います。
国の存亡の問題です。

これなら再び襲撃されるのを防ぐために本国と戦うのは納得です。
これで謎が解けるゾ。

前回最後に書いた「訳していて変だと思ったこと」。
私が不思議に思ったのは、
「岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(くまわに)はどうして佐波まで迎えに行ったのか」
という事なのです。
都は下関市なのに、天皇たちは何故、防府市で待っていたのか。

その該当部分を日本書紀で確認すると、
仲哀天皇は紀伊の国に着いて、徳勒津宮(ところつのみや)に居ました。この時、熊襲が叛(そむ)いて貢ぎ物を献上しませんでした。天皇はそこで、熊襲の国を討とうと決意しました。(略)

仲哀8年春1月4日に仲哀天皇の一行は筑紫に行幸しました。その時、岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(わに)は天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊を掛けて、周防の沙麼(サバ)の浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。

この通り迎えに行ったのは豊浦宮でなく、佐波の浦です。

c0222861_14331981.jpg

地図を見るとよく分かりますね。

日本書紀は豊浦宮で起こった重大事件を伏せていました。
この戦いは、たまたま敵将を殺した為に勝利を治めましたが、
皇居直撃ですから、それまでの防衛線をすべて打ち破られていた事になります。

豊浦宮は対外的に危険な場所になったので周防(防府)まで避難したと考えられます。
だから、熊鰐が迎えに行ったのは佐波だった。
そして玄界灘を越えてまで戦う理由は攻撃こそ最大の防御だったから。
やっとすっきりです。

ちなみに弥生時代の戦いのようすが山口県の北西の海岸沿いに残っています。
土井が浜遺跡です。  http://inoues.net/ruins/doigahama.html(歴史倶楽部HP)
頭骨だけの埋葬とか、
至近距離から沢山の矢を打ち込まれた男とかが出土しています。
この一帯はかなり厳しい戦いがあった地域だったという事が分かります。

(つづく)


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-10-09 14:36 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(11)

忌宮神社(3)斎宮・奉射祭・蚕種祭


忌宮神社(3)

斎宮・奉射祭・蚕種祭


c0222861_20395692.jpg

仲哀天皇神功皇后の当時の様子が伺える史跡や祭を集めて見ました。
(「忌宮」長府祭事記 宮崎善敬 などより)

忌宮はもともと斎宮だった
皇室では当時、宮に付属して「斎宮(いつきのみや)」を建てて神祇を祭るのだが、これが「忌宮(いみのみや)」の起こりである。

忌宮神社の南面の「壇ノ城」という所では神功皇后が三韓攻撃に際し、ここに祭壇を設け祭具を整え、忌籠り(いみごもり)して、ひたすら天神地祇の神助を祈願した。その祭壇と祭具を流した所を「壇具川」という。

近隣には皇后の足跡が他にも沢山ありました。

奉射祭(ぶしゃさい)1月16日
朝鮮半島の塵輪熊襲を扇動し、しばしば皇宮の付近を侵そうとしたので、仲哀天皇は筑紫の高麻呂、助麻呂という弓に秀でた兄弟を召して宮門の左右を守らせた。

塵輪は雲に乗って筑紫から長門に至り、衆賊を促して豊浦の海や陸を囲み、
空中から高麻呂、助麻呂を射殺したので、天皇はみずから弓矢を執って塵輪を射倒した。
奉射祭の「的」は塵輪の首を埋めた「鬼石」のそばに東に向けて置かれる。

「弓」は榊で作られて四王司山から刈り出す。
(四王司山は仲哀天皇2年に豊浦宮の守護神を祀った所。
筑紫にも四王寺山という重要な山がある…。)

「矢竹」は美祢市西厚保町の神功皇后神社の神苑より採る。
矢竹のまっすぐなものはほとんどない。試しに射ることなく神事に臨む。
「鋒」は昔は神功皇后の御神号を記した旗を付けていたが、今は紙垂(しで)を付ける。

この神事は秘められていたが、昭和56年から復元された。
石見神楽の系統の友信神楽には「塵輪」という演目が伝わっている。

おっ、塵輪の攻撃ルートは筑紫経由だ…。な、なんと、やすやすと…打ち破られたか…。

c0222861_20344193.jpg

(右端に見えるのが鬼石で、的はこの鬼石のそばに置かれる。)

蚕種(さんしゅ)祭
仁和3年7月、采女(うねめ)時原宿禰春風が言った。
「先祖は秦の始皇帝11世の孫、功徳王(功満王-こまおう)です。
仲哀天皇4年に帰化入朝し、珍宝蚕種などを献上しました。」
(「三代実録」巻53)
豊浦宮にて蚕が献上された。ここがシルク・ロードの東の入口である。

蚕は中国でも最高機密だった特産品です。
王女が髪の毛の中にしのばせて持ち出したエピソードが有るほど重要なものです。
皇帝の末裔が帰化するのに、これ以上の手土産はないですよね。

平成の現代でも、美智子皇后は蚕を飼って機織りをされています。
育てている蚕の中には古代の種そのままの貴重な種もあります。

先日の韓国ドラマ「トンイ」では朝鮮王朝の王妃が「蚕の祭事」をしていました。

c0222861_20361414.jpg

王妃は桑の葉をハサミで切り取り、

c0222861_20363394.jpg

蚕に桑の葉を与える。

c0222861_20365056.jpg

(蚕のアップ。王妃はその日は正装している!)


豊浦宮で最初に織られた絹はどんなものだったのでしょうね。

ところで、るな的には中国側の年代資料がついに出たのが気になる!
功満王の帰化年代はいつなんだ?

西暦195年となってる…!! ワオ。これって100%OKなの?↓

下関ブログ 蚕種祭
http://shimonoseki.tv/blog/blog/2009/03/%E8%9A%95%E7%A8%AE%E7%A5%AD/


(つづく)


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-10-08 20:44 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(9)

忌宮神社(4)「数方庭」と馬韓の「蘇塗」とのつながり


忌宮神社(4)
「数方庭」と馬韓の「蘇塗」とのつながり


c0222861_17142850.jpg


数方庭(すほうてい)8月7日~13日

忌宮神社には天下の奇祭と言われる数方庭(すほうてい)の祭があります。

鬼石の上に太鼓を据え、「スッポウディ」と言われる独特なリズムを打ち鳴らし、
それに合わせてまず切籠が、次に小幟・中幟・大幟が順次登場して
鬼石のまわりを回る祭だそうです。

今回注目したいのは大幟が
長さ30mもある竹の幟の先端にニワトリの羽をつけるという点です。
これについても「『忌宮』長府祭事記」からまとめてみます。
1.「数方庭」は「数宝庭」とも書いて、
男の子が生まれると幟(のぼり)を出し、女の子が生まれると
切籠(きりこ)という短冊や灯籠のついた笹竹を持って参加するという伝統で、
この「宝」は子宝のことで、祭神の神功皇后の守護で生まれた子宝を
神社の広庭でご覧頂いて健やかな成長を祈るという一面を持っている。

2.神功皇后の三韓への出陣や凱旋の際にも、
鬼石のまわりで素朴勇壮な舞技を行ったといわれ、それが数方庭の由来とされる。

3.数方庭は、スホウテイ、スホーデイ、スホーデン、スッポウデイなどと呼ばれ、語源が分かっていないが、
朝鮮半島にソッティまたはスサルテイなどの名で呼ばれる鳥形木製品をつけた
柱があって、村の入口や寺院の門前に建てられている。

これは三世紀の『「魏書』東夷伝馬韓」の「蘇塗」につながるとすると、
「ソト→ソッティ→スホウテイ」となって稲作儀礼が原形となる。

済州島に見られるものは川の氾濫を封じるもので、
原形は広く北東アジアの各地にある。

ここに「『魏書』東夷伝馬韓」が出て来ましたが、
同じ「東夷伝」の倭人の条には有名な卑弥呼の事が書かれています。

(「魏志倭人伝」とは「『魏書』東夷伝の倭人の条」を簡略化したもの。)

その「東夷伝馬韓」に「スホウテイ」のヒントが書かれているそうです。
「馬韓」って百済(くだら)の前身なんですね。

その「馬韓伝」の該当部分を読んでみましょう。
(現代語訳してみました。間違ってたら指摘して下さいませ。)
常に五月に種まきを終わり、鬼神を祭る。
群衆は昼夜休むことなく、歌って踊り、酒を飲む。
その舞は数十人で同じように地を高く低く踏んで、手足を合わせて動かし、
リズムは中国の鐸舞と似ている。
十月に農作業が終わるとまた同じような事をする。

鬼神を信じ、国の邑(むら)ごとに、それぞれ一人の祭主がいて、
天の神を祭り、その人を「天君」と呼ぶ。

また諸国ごとに特別な邑があって、「蘇塗」という大木を立てて、
鈴や小銅鐸を懸けて鬼神に仕える。
その南部は倭に近く、刺青を入れている者もいる。

ここには「蘇塗」の使い方が二種類書いてあります。
<前半>
五月と十月の農作業が終わると人々は竿や大木に鳥の羽,白紙,布をつけて
天神を降ろし、これをとりまいて歌って踊り、五穀豊穣を祈る。
祭主は「天君」という。
<後半>
クニやムラの境界線の一区画に「蘇塗」を立てて、鈴や小銅鐸を掛けて
邪気が入らないように鬼神に祈る。「ソッテ信仰」と言われている。

「蘇塗」につけられる小銅鐸は数センチのサイズで、
リーダーが腰につけたりもします。これが天君かな?
(九博に行くとシャーマンの鏡や銅鐸をびっしりと貼り付けた
迫力ある衣裳が見られるのでお見逃しなく。ちと、怖い…。)



c0222861_1774124.jpg「ソッテの木」に付ける木製品の鳥が、
韓国の論山の麻田里遺跡で出土しています。
馬韓の北部です。
木製の鳥は左の絵のように使います。
カナダのトーテムポールの小型版のようなものも一緒に立てられたのを
済州島では今でも見る事が出来るそうです。






以上に加えて、下関から響灘にかけては渡来人の弥生遺跡が見られる事から、
馬韓の文化も流入していて、数方庭はもともと五穀豊穣の祭りだったのが、
塵輪との戦いの勝利の時にも舞われて、祭事として定着していったと考えられます。

数方庭で幟の先端に鳥毛と鈴を付けるのは馬韓と同じですね。
この幡は下関市内では雨乞いや風まつりに使われ、
また竹竿をかついで「ホイ、ホイ、ホイ」と言いながら田の畔を走る事があり、
農耕の守護神として生きているそうです。


c0222861_1785158.jpgところで。
これって?「蘇塗」と同じかな?

持ってる人は…神武天皇です。











韓国のソッテの写真と遺跡はコチラ
邪馬台国大研究
http://inoues.net/korea/zenranandoh4.html
馬韓の旅 順天支石墓公園 <資料館・墓制館>
鳥居の原型と言われるソッテ


吉野ヶ里歴史公園(2)奇蹟!弥生時代が丸ごと残ってる
http://lunabura.exblog.jp/17183617/



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-10-07 17:17 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(18)

忌宮神社(5)秘祭「御斎祭」


忌宮神社(5)

秘祭「御斎祭」


c0222861_1319042.jpg

御斎祭(おいみさい) 12月7日~15日
忌宮神社には殿様にも教えられない神事がありました。御斎祭(おいみさい)です。
しかし時代の変遷によって厳格な神事が困難になったため、
また原点を重んじる意義を人々に理解してもらうために、
その祭祀の内容が公開されています。

私たち一般人は神殿の中での神事を拝見する事が出来ないので、
古式を伝えるこの神事を知る事はとても有用だと思います。

今回はそのあらましを紹介したいと思います。
御斎祭は秘祭のために、一般の参列や取材は許されていません。

●起源
仲哀天皇崩御のあと神功皇后が三韓征伐に際し、斎宮を立て自ら神主となり、
七日七夜斎戒沐浴して斎宮に入られ、天神地祇を祀って
神の託宣を乞われたことに始まる。  

●御斎始め
12月7日 夕刻6時。
拝殿に黒白の鯨幕を張り、神門を閉じ、鳥居および境内の通路に注連縄を張る。
そして境内のすべての外灯を消すと神域は浄闇の中にひっそりと包まれる。
宮司以下全員白衣白袴で、禁酒・禁煙・髭剃り禁止。
一日三度の白粥と白湯で物音をたてずに慎んで過ごす。

●日供(にっく)
毎朝神前にお供え物をして神拝することを日供(にっく)という。
御食(洗米)、御酒、塩、水の三台で、毎年新調される御斎祭用の神器を用いる。
祝詞は心中で奏し、拍手は音を立てず、朝神楽の太鼓は奏さない。

●板神楽の神事(いたかぐら)
c0222861_13211217.jpg
8日の午前2時より守宮司神社(しゅぐうじ)で板神楽の神事を行う。
神饌と紙の人形(ひとがた)を備え、修祓、大祓詞奏上に続いて祝詞奏上があり、
そのあと笛と板神楽を奏する。
板神楽とは縦24センチ、横25センチ、厚さ2.2センチの松板を左手で持ち、
長さ30センチの槍のバチを一本右手に持って打ち鳴らし、それに合わせて笛を吹く。

楽譜はなく、「感応のおもむくままに奏すること」となっている。
深夜、笛の音と板を打つ音が静寂の中に響きわたるとき、
古代へ引き戻されたような素朴な感動を覚える。

●神衣・神宝の移動
新しい神衣と神宝を調製して奉る神事があるが、
それに先立って古い神衣・神宝が移動される。
三年前の神衣・神宝は14日早朝の海潮潔斎の際に、御船手の浜で焼却される。

●三朝神事
最も重要な神事で、10日、11日、12日の未明に行われる。
満ちて来る潮をくみ取る神事があり、年により、日により、三朝神事の時刻は変わる。
海岸が埋め建てられたので、現在は豊功神社下の海岸を選んでいる。
長府に残された唯一の砂浜で、豊功神社(とよこと)の関係者たちが
竿竹を立て注連縄を張って清浄にしている。

宮司はムシロの上で白衣白袴を脱ぎ、ふんどし姿になって新しい草履をはき、
満珠干珠の両島に向かって秘行事を行ってから海に入り、心ゆくばかり禊をする。
一つの心境に至り得たとき手桶に真潮を汲み、真砂(まさご)を三度手にすくって
カゴに入れ、波打ち際に草履を脱いでまた秘行事を行う。

新しい草履をはいて海に入るのは、海の神様のところへの旅立ちを意味していて、
真潮と真砂を持ち帰ることは古代における神迎えの神事の型を伝えるものである。
神殿に戻り、神秘な口伝の神事を行う。

三朝とは夜半から早朝にかけて、この神事が三日間行われるからで、
「御斎荒れ」といわれる風雨の強い日やみぞれが降る日もある。

c0222861_13231226.jpg

(豊功神社境内から見える満珠干珠島)


●御衣・御神宝の調製
11日に広間に祭壇をしつらえ、ひもろぎを立てて、神饌と五色の絹布を供える。
裁女(たちめ)が小忌衣(こいみぎ)を来て、30数点の御衣裁ちを行う。
12日に縫姫により御衣縫が行われる。御衣は縮尺の小さなものである。
以上、「御斎祭」を簡単にまとめてみました。
詳しい内容は「『忌宮』長府祭事記」宮崎義敬著をご覧ください。


さて、るな的に興味を持ったのは二つ。
まず「板神楽の神事」で、板を感応のままに弾くという事です。
香椎宮で神託を受ける時、琴を弾くのは仲哀天皇でした。
小山田斎宮では竹内宿禰でした。
当時、琴を弾くのは男性の役目で、埴輪にもその姿が残っています。

その時のメロディーを知りたかったのですが、手懸かりがこれだと思いました。
神に感応するために雑念を消していくためのもので、
メロディーやリズムは決まっていなかった。

下手な人が弾く時は「ミ」だけ弾けば形になるという話もあります。
この「板神楽」の奏法は古代の演奏法をよく残していると思いました。

もうひとつ興味を持ったのは「三朝神事」です。
この神事を読んでいると、豊姫のミソギを思い起こされてなりません。
豊姫は海神から干珠満珠の珠を貰うために、その前で神楽を舞います。
豊姫とは深夜の海に入って天候や地震などを占う巫女の事でした。

高良大社 高良玉垂宮(Ⅲ)
70年に一度の大津波を伝える豊姫  シリウス(夜渡星)が津波を教えてくれた
http://lunabura.exblog.jp/13419445/


宮司が身を清めて満珠干珠の島に向かって海中に入る神事こそ、
海神から干珠満珠の珠を受ける神事で、海人族の祭の神髄だと思われます。

この神事は地元の広い地域社会でも参加しているとか。
一宮生倉、吉見、吉母、室津、黒井、吉永など穴門の中心部、遠い美祢の別府までで、
もっと広い範囲で行われていたのではないかと地方史に書かれています。

縁の深い住吉神社でもほぼ同様の忌籠りがあるそうです。
昔は8月15日の放生会に両社の御神輿が出会う習わしもあったとか。

う~ん。長府の古代を明らかにすると、日本の古代史の見通しがかなり良くなるなァ。

次回は仲哀天皇の殯斂地に行って見ましょう。

c0222861_13262814.jpg


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-10-06 13:31 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(6)

仲哀天皇殯斂地・隠した場所は太陽観測点だった?


仲哀天皇殯斂地
ちゅうあいてんのう・ひんれんち
山口県下関市長府侍町
隠した場所は太陽観測点だった? 

筑紫で亡くなった仲哀天皇竹内宿禰が船で豊浦宮まで送り届けました。
船の旅は最低4日かかりました。
「香椎宮(3)天皇の崩御をどうやって隠す?」で計算したのですが、
現地滞在は3日ほどでした。

この間に仲哀天皇の遺骸を仮埋葬しなくてはなりません。
どこでもいい訳ではない。
なぜなら仲哀天皇の妃の大中姫がいるからです。
彼女には皇位継承権のある皇子が二人います。

この時は佐波の方に避難しているはずで、
目撃はされなくても、いつ漏れるかは分からない。

そこで竹内宿禰が選んだモガリの場所は忌宮神社から500mの所でした。
地元のmassyさんの情報で、忌宮は殯斂地の方を向いていると
地元では噂していると聞いて地図を見るとまさにその通りでした。

天皇の崩御後から殯斂地に向かって建てられるようになったのかもと思いました。
なぜなら、海辺の宮は普通は海に向って建てられているからです。

では、まずは殯斂地に行きましょう。「殯斂地」とはモガリをする所です。
本葬をするまで仮に埋葬する所で、ここでは死を隠すために
火無しモガリだったと言います。

忌宮の正面から真南に参道がありますが、途中は屋敷が出来ているので迂回します。
かつてはまっすぐの参道があったと思われます。

c0222861_22133671.jpg

日頼寺の右手に参道があります。

c0222861_22135416.jpg

山道ですが石段がずっと続いています。

c0222861_22142358.jpg

すぐに着きました。

c0222861_22143842.jpg

拡大しました。小さなマウンドがあります。
小山のピークで、樹木が無ければ海が見える所です。

c0222861_22145498.jpg

日頼寺の境内からその小山を撮って見ました。
右側から昇ったわけです。忌宮から500mなので徒歩なら15分。
毎日通って祭祀するのに適当な距離です。
うん。ここならバレない。

そして、航空写真を見ていてあれ?と思いました。
干珠島が真東にありました。しかも満珠島は重なっている。
もしかしたら島の頂が少し見えるかも。

それから豊功神社が御来光のビューポイントだった事を思い出しました。
豊功神社はかつて禁足地でした。きっと太陽観測をする所だからだと思いました。
暦の作成はトップシークレットなのです。

ここに住む神官は毎朝日の出の場所の変化を観測する事が出来ます。

c0222861_22123516.jpg

(豊功神社の境内)

殯斂地の方は春分・秋分の日に干珠満珠から日が昇るのが見える所です。
やはり太陽観測点です。
ここも物部の神官だけが入る事が許される禁足地だったのです。
なるほど、それなら天皇の遺骸を埋葬しても誰も知ることは出来ない。
まいった。完璧だ!

それからついでに夏至や冬至はどこで観測するのだろうかと
23.4度付近を探したら、忌宮神社と三菱重工業長府苑あたりが出て来ました。

c0222861_2213977.jpg

忌宮から冬至の日に干珠島を見ると、その右端から太陽が昇ります。
夏至の日に三菱重工の長府苑あたりから見ると干珠島の左端から昇ります。
長府苑には祠か盤座か太陽に関する古地名がある可能性があります。
あるいは豊功神社が夏至ラインの観測点かも知れません。

天皇の一番の仕事はこの太陽祭祀なので、
忌宮神社と満珠干珠の島は大切な関わりがありました。
神社からこの島々が見えなくなり、砂浜が無くなったのは、
神社にとっては祭祀の根源を奪われるような出来事だったでしょう。

人々がもっと歴史を知って景観の大切さが分かっていたら、
この神社からの景観も守られたかも知れません。

満珠干珠の島々は数m歩いただけで重なりが変わって見えます。
とても面白い光景です。
海からの太陽観測が出来る都は日本でもここだけじゃないかなあ?

それにしても恐るべし。竹内宿禰。
天皇にふさわしく、また秘密が守られる最高の場所を選ぶなんて。

といっても、るな探偵の仮説が合ってればの話ですが…。

地図 仲哀天皇殯斂地




気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-10-05 22:21 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(15)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー