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カテゴリ:(サ行)神社( 25 )

杉守神社  香月氏



杉守神社

 香月氏


遠賀川流域の物部氏の中では、香月氏の系譜がかなり詳しく伝わっている。

物部氏は文字を持っていて、記録を残す氏族だったのだろう、とよく思う。

香月氏の祖はニギハヤヒであり、かつ田道命ということなので、
物部と皇族の末裔の両方の性格を持つ。

だからだろう、
小狭田彦の代に景行天皇や日本武尊の遠征に絶大なる支援をしている。

その結果、日本武尊は小狭田彦に「香月」姓を賜ったという。

簡略な縁起はネットでも見ることが出来るが、
文脈から、どうしても分からない事があった。

それは、香月氏の本貫地は杉守神社のある所ではないのではないか、
という疑問だった。

それを確認するために、杉守神社に出かけることにした。

場所は前回の磐瀬行宮(中間市)からわずか4キロ程度の所だ。





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田園に突き出た丘陵があり、その突端に宮は鎮座していた。







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急な石段を上りきると境内に出た。








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拝殿は左側にあった。
宇佐や熊本で見かけた横参道のようなタイプだった。







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神紋は鳥だ。
後で教えていただいたが、「白い鳥」と言う。
何か特別な鳥を指すわけではなかった。
ヤマトタケルの象徴である「白鳥」のことだろうと勝手に思った。

これまで「白鳥」を「はくちょう」と思い込んでいたが、
「しろいとり」と読むのが正しいのかもしれない。





初夏の嵐のあと、クスノキの落ち葉がおびただしい季節だ。
落ち葉掃除をしてあった宮司に話を伺う事が出来た。

それによると、やはり、香月氏はもともとここではなく、
黒川の上流、「ヨモギが原」という所に住んでいたという。
「フツ」と似ているでしょうが、とも言われた。

「ヨモギ」は一般に「ホウ」「ブ」と音読みするから、
何か特別な呼び方があったのだろう、なるほど、
物部らしいと思った。
そう、「フツの御魂」という剣神霊を信仰しているのが物部氏だ。


小狭田彦が娘の常磐津姫とヤマトタケルの縁組をしたのも、
そのヨモギが原ということになる。

戦うときには香月氏は宗像氏と共に戦ったという。
香月氏の祖に市杵島姫の名前も見えることから、
両氏は長い間共闘関係にあったのだろう。

宗像氏の動向の伝承を初めて採取した。
宗像氏は大国主を祖とするので、遠賀川流域で活躍していたのだ。
なるほど。
ミッシングリングが少しずつ繋がっていく。



さて、香月氏は何故ここに移って来たのか、伺った。

もともと黒川の上流、シラキ川が注ぐ所に住んでいたが、
水が無かったので、現在地に移ってきたという。
氏子が周辺に多いのも理由の一つだと言われた。

移ってきたのは、古代の話だ。
現在地には近年まで水質のよい井戸があったが、
炭鉱のために水が出なくなったという。

また、黒川も洪水で氾濫して、一面水浸しになるという話も伺った。

当宮はもともと「日本武尊」のみを祀っていたが、
先祖の夢で、それでは寂しいからと、新たに三祭神を合わせ、
四柱を祀っているという。
三祭神とは神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇だ。

まだ「スギモリ」も「杉森」から「杉守」と変わった。


家に戻って黒川の水域を調べていると、金剛山を回りこんでいることが分かった。
金剛山!
そう、そこには川上タケルの弟がいたはずだ。


「脇巫女27」でそのことを考察している。
◇◇ ◇

小狭田彦は本名は常盤津彦と言った。
幼少より賢明で、いつも山間の狭い土地を開墾していたから、
小狭田彦と言うようになった。

景行天皇が来て、しばし小狭田彦の居館に留まり、移っていく。

のちにヤマトタケルもやって来て滞在する。
小狭田彦の住まいは香月庄。現在杉守神社の所か。
あるいは寿福寺か。

小狭田彦は娘の常磐津姫を差し出した。

この近くの金剛山に熊襲が住んでいた。
そのクマソとは火国の川上梟師の弟で、江上梟師(たける)と言った。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、
熊襲の軍を屠ったという。

杉守社伝に日本武尊が
「あな楽し、花の香り月清きところかな。
今よりこの地を香月のむらと名づくべし」
と名を賜ったのはこの時だろうか。
小狭田彦は香月氏となった。

◇◇ ◇

やはり、金剛山にいた江上タケルと一戦交えていた。


ヨモギが原に居た小狭田彦は娘をヤマトタケルに嫁がせた。

それから江上タケルや川上タケルとの戦いに勝ち、
褒賞として香月の姓を賜った。

その後、小狭田彦の夢に亡くなったヤマトタケルが現れて、
白鳥となって、この地に飛んで来よう、
と言ったことに因んでここに祀るようになったとする。





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杉守神社では宮司さんにお忙しいなか、お話を聞かせていただきました。

改めて、お礼を申し上げます。



杉守神社






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by lunabura | 2016-05-12 22:00 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(6)

志登神社3・ハレー彗星とカノープス


志登神社3
ハレー彗星とカノープス


志登神社は北に柑子岳、南に雷山が見えるという特殊な位置にあり、しかも夏至ラインには今山の二上山が乗るという驚きの位置でもあります。


糸島市 志登神社




「志登」の意味は「海淵」。波が立たない日には星の観測にもってこいでした。星の観測には空を直接見る方法と、プールに映して観測する方法があります。

ティオティワカンでしたか、ピラミッドにプールがあるのは星の観測のためと考えています。水鏡に写る星は、ステラナビゲータなどとは違う軌跡を描くのを見た事があります。


さて、「志登星」(ハレー彗星)は76年ごとに到来しますが、19年を四度(しど)重ねると76年になることから、「四度」→「志登」となって、ハレー彗星を志登星と呼ぶようになりました。

19年って、メトン周期でしたね。(※メトン周期とは19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期)

昨年末、朔旦冬至に志賀島に行ったのも、もう遠い過去のようです。ブログに書かなかったら、記憶に留まらなかったかもしれません。

今年、志賀島のお膝元の志式神社では19年に一度のお祭りがあったそうです。お潮井があった事も重ね合わせると、どうやら志式神社にもまた天文観測官がいたのではと思うようになりました。(ガイドブック下巻72)

さて、糸島市志登は単なる湊ではなく、安曇族の天文観測官がいた可能性が出て来たのですが、tatsuさんが、志登から見える志登星(ハレー彗星)の画像を作ってくれました。

すごく感動したので、ご紹介します。


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これを見ると、以下の真鍋の文がよく理解できます。

 
彗星を志登星という。十九歳を四度かさねるを言う。その大なる時、北斗を覆う故とも説かれる。北斗を四三星(しそのほし)というから、その一つの方言でもあった。(拾遺p51)


ハレー彗星が本当に北斗七星を覆っていました。

画像を見ると、星空を6月1日に固定してあります。固定しないと背景の星は動きっぱなしになって分かりづらくなるんですね。グッド・アイデア!


姫古曾神社の所で考察しましたが、「彗星」を倭人はオオゲツヒメ、燕人系は姫子星と呼んでいました。そこに祀られているのが市杵島姫です。市杵島姫は物部氏と通婚しているので、基山の辺りは物部の天文観測となるのかもしれません。


安曇の星祭祀と物部の星祭祀、いつか区別が分かるようになると面白いですね。



さて、tatsuさんはカノープスの画像も造ってくれました。雷山に沿ってカノープスが動いています。


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「這うように」と描写されるカノープスは、諏訪星と呼ばれ、スサノヲの化身とされました。荒ぶる神です。

以上、志登から見えるハレー彗星とカノープスでした。
Tatsuさんのお蔭で解読が進みました。ありがとうございます ^^







 




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by lunabura | 2015-07-11 18:37 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(2)

志登神社2・志登=海淵・北斗七星 志登星=ハレー彗星


志登神社2

志登=海淵・北斗七星 志登星=ハレー彗星


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志登神社に再び舞い戻って来ました。

志登神社は現在、田園風景の真っただ中、360度が見渡せ、しかも、今山(かつては二上山だった)を夏至ラインに見ているといいます。


豊玉姫が上陸できたのですから、もちろん湊があり、綿津見神が祭られているので安曇の息が掛かった所ですが、太陽祭祀ラインがあるということは、ただの湊ではなく、天文祭祀の観測地点の可能性も出てきました。




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これは神社の前の水路ですが、波がないのでまるで水鏡のようです。

これから思い出したのですが、「志登」(しと)という単語が真鍋の本に出ていたので読み返してみました。「志登」と「志登星」の二つが出てきます。

まずは「志登」から読んで見ましょう。

潮の空間(からま)即ち、海面が静止した時にシリウスが水平線から離れる瞬間に上下互いにとけ合ったように連なる時は必ず地震津浪が現れると語られておりました。仲哀九(200)の時も又然りと伝えられます。

昔の人は外界の波に動じない海淵を沼津、或は志登と呼び、星影のゆらめきを見て海の異変を察しておりました。やがてこれが倭語の鯰(なまず)即ち漢名の鮎魚(せんぎょ)と結び付き地震鯰の説が通りだしたのかもしれません。

山田伏見宮の絵馬には、松浦の鮎の故事を語るかの如く遠い昔の素朴な観天望気が事寄せてあるかと思われます。(儺の国の星p49)


「志登」や「沼津」は海淵のことだと言います。これは火口の跡で、海の中の場合、外で波が立っていても、そこだけ波が生じないという特殊な海面となります。


志登神社の位置は今では田園のど真ん中ですが、かつての糸島水道の中にあります。
大型の船が泊められるなら、そこは火口湖だった可能性もあります。これで「志登神社」と呼ぶようになったのかもしれません。

なお、糸島水道に関しては、かつて水道はなかったという論文が出ているそうですが、この広い地域で、水路が無かったことを証明するのは困難ではないかと思っています。

わずか3メートルほどの水路でも船の航行には十分です。
縄文海進期や弥生小海進期などで水深が確保できたら船は十分通ります。やはり伝承どおりに水道はあったと考えられます。また、いつ、ふさがったのか、その時期について真鍋家では具体的に伝えています。(何処かに書いたと思う)

引用文に出てくる山田伏見宮とは那珂川町の伏見神社のことですが、「伏見」は観星台の上で水平線から出てくる星を観測するために、伏して見ることから出来た言葉だそうです。(ガイドブック下巻64)

神功皇后が馬に乗っていてナマズが飛びついたり、松浦で鮎(あゆ)占いをしたのも、実は観天望気のようすを民話化したものだということです。


古人は時刻を計るに水平線を出入りする星影を見遣った。この種の星を伏見星と言った。これとは別に四季を教える頭上の星を天津星と区別した。

たしかにシリウスは冬の真夜中に天頂までのぼるのであったが、古人は早く臥し、つとに起きるを務めとしていたから、シリウスは宵星(せうのほし)であり、又暁星(けうのほし)であり、要するに伏見星の類であったことになる。(儺の国の星)p48


水平線に掛かる星で時間を計り、頭上を通過する星で季節が分かったといいます。シリウスは民間にとっては、時計代わりの星でした。

天津星という言葉も、神話ではなく、観測用語の一部ということになります。

以上のことから、現在地に「志登」という名の神社があるのは、観星台(伏見殿か隈本)があった可能性が高いと思います。

さて、別の本に「志登なる社」について書いてありました。
斗極をともに七等星(ななつならびのほし)と呼びました。和名類聚鈔には筑前志摩郡の条に登志(とし)の鄕名が見えます。舟人の守護神なる七星になぞらえて、昔は巨石を配列した遺跡がありました。

 図七(とし)或は七斗(しと)を万葉仮名で写した地名であり、怡土もその派形であります。志登(しと)なる社は妙見の祠が建つ天平以前の昔の信仰の存在を示しております。(儺の国の星p50)


志登神社の東の方に「登志」という地名が残っています。そこには巨石を配列した遺跡があったそうです!もう名残もないでしょうが、そこには登志神社があります。

空さんのブログ記事を見ると、登志神社の社殿の後ろに石が並べてありますね。もしかしたら、それらの石が巨石だったのかもしれません。



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こちら志登神社にも正面にこんな大石がありました。支石墓とは趣が違うので、これもストーンサークルだったのかもしれません。

「とし」も「しと」も北斗七星から来た言葉で、怡土(いと)もまたそれから派生したものだそうです。妙見信仰が入ってくる前から、糸島には北斗七星の信仰があったということです。

海人族ならみな北斗七星を崇敬していたことでしょう。


もう一つ。
 彗星を志登星という。十九歳を四度かさねるを言う。その大なる時、北斗を覆う故とも説かれる。北斗を四三星(しそのほし)というから、その一つの方言でもあった。(拾遺p51)


彗星を志登星と言いました。19年×4=76年。これはハレー彗星のことですね。それが最大になった時には北斗七星が隠れてしまうほどだったことから、北斗七星の名が重ねられたようです。

北斗七星は四+三で、「しそ」のほしと言い、それが訛って「しと」となったと言います。小郡に「四三」と言う地名がありますね!
まとめると、
志登=海淵(星を観測した)
志登=北斗七星の言葉の一部から生じた
志登星=ハレー彗星 北斗七星を覆うようすから。
こんな感じでしょうか。「しと」には北を示す星の印象が色濃いようです。

続きにこんな文がありました。
 筑紫の人々は二千年以上も昔から、よく近東の文化を心得ていたらしい。(拾遺p51)


糸島は近東からの渡来人の時代のち、朝鮮半島からの渡来人の時代を経ているので、ルーツを考える時、北の方だけでなく、もっと多面的な方向からの考察が必要ではないかと思っています。

真鍋はそれをかなり具体的に伝えているので、少しずつ紐解いていきたいのですが、もう少し古代史の知識が必要です (/・ω・)/ .


 






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by lunabura | 2015-07-09 21:36 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

志登神社の今 焼失した豊玉姫の宮


志登神社の今

焼失した豊玉姫の宮

 
「志登神社が燃えています!」
と悲鳴にも似たコメントが入ったのは2014年7月15日でした。

「福岡県警糸島署によると、15日午後7時20分ごろ、福岡県糸島市の志登神社で出火。 本殿と拝殿の計130平方メートルを全焼し、約1時間後に消えた。けが人はいなかった。 同署が火災の原因を調べている。」

志登神社は「しと」神社と読みます。

糸島に伝わる豊玉姫を祀る宮。
豊玉姫が上陸した伝承を伝える宮です。勧請したものではないので、とても貴重です。

再訪しようと思っていたのですが、全焼したと聞いてさすがに気力を失ったことを思い出しました。

しかし、建物は失っても、人々の思いさえ残っていれば、必ず再興されると信じていました。歴史上、多くの神社が戦火に遭いながらも今に伝えられているのは「心」のお蔭だと思います。

しかし、現代と言う時代は神の事も分からなくなり、人の移動も激しく、神社を支える力が衰えている時代です。どうなるだろうと思っていたのですが、再建が始まったことを聞いて一安心しました。

先日、櫻井神社参拝の帰りに志登神社にも参拝してきました。気付くともう一年が経っていました。





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田園風景の中、こんもりとした杜は何処からでも見えました。


















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鳥居の向こうに、今は拝殿はありません。光が降り注いでいます。










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コンクリートの基礎が出来ていました。まもなくまっさらな神殿が出来ます。









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鳥居付近はこのように昔のままです。


伊勢神宮が二十年に一度は新たな神殿で神霊を迎えるように、この宮も新しい神殿で豊玉姫の神霊を迎えます。


相殿には和多津見神、彦火火出見尊、息長帯姫命、武内宿禰命が祭られています。
安曇の神々の宮ですね。湊があったのでしょう。


豊玉姫は夫の彦火火出見尊が共に祀られていました。
そして、神功皇后もまた武内宿禰と一緒に祀られています。
ガイドブックの世界そのものですね。


風が水田からそよそよと吹いて、神の杜は変わりなく清らかでした。









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この画像は社殿の裏から見える山を撮りました。地図を見るけどどの山か分かりません。
また、今回も豊玉姫の伝承の岩が分かりませんでした。今思えば、左手から出た所にあったのかなあ。
御存知の方、教えてくださいね。




思えば、豊姫の神社(久留米)そして、市杵島姫の神社(姫古曾神社)と、女神の宮々が続けて炎上しています。このようなことはあってはならないことですが、起こってしまっても、不死鳥のように蘇るのが日本の社(やしろ)だと思います。


そして、女神たちのこと、もっと知って皆さんと共有しようと思いました。






志登神社




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by lunabura | 2015-07-06 21:17 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(7)

薄野神社(一ツ目神社)(3)鹿毛馬神籠石と比較した


薄野神社(一ツ目神社)(3)

鹿毛馬神籠石と比較した

「馬蹄形で囲まれた傾斜の緩い谷と二本の小川」

この一ツ目水源と同じキーワードを持つのが「鹿毛馬神籠石」。かけのうまこうごいし。

福岡県飯塚市にある神籠石だが、これを城と考えるのは無理だと思う。
桜もちさんも言われるように、こんな城を設計する軍師は敵方のまわし者だ。


では、何か。

その緩やかな傾斜に流れる水路の状況から、
葦を燃やして取りだす褐鉄鉱の選別の場所と私は想定した。

遠賀川に生える大量の葦を刈り取って、目の前の川を利用して運び込み、
奥の方で葦を燃やし、水を流しながら灰とスズ鉄に選別する作業場と推定。

想像はしても、一般人の私にそれを証明する方法はないだろうと思っていた。

が、熊本の山鹿市の薄野神社が天目一箇神(あめのまなこひとつ)を祀り、
その裏の水源の原で砂鉄を選別するために人工川が存在するのを知って、
両者が同じ構造だと証明できれば、鹿毛馬神籠石の鉄の選別所の証明につながると考えた。

神護石が囲む谷では「鉄穴(かんな)流し」が行われたいたのではないか。
ウィキぺディアで確認しておこう。

鉄穴流しによる砂鉄採集方法

鉄穴流しは山中に含まれる山砂鉄を効率よく採集する方法として宝暦年間からおこなわれた。鉄穴流しは大きく分けて「採集」と「洗鉄」という2つのプロセスを経ることで砂鉄の純度を上げた後に収集する。

まず、適当な地質の山を選び、その付近に水路を引く。そして花崗岩などの風化した、砂鉄を多く含む岩石を切り崩し、引いておいた水路に切り崩した岩石を流し込む。砂鉄を多く含む岩石は水路を流れるうちに破砕され、土砂と砂鉄に分離し洗場に流される。洗場では、一時、砂溜りに破砕された岩石を堆積し、順次、大池、中池、乙池、洗樋と下流に流していく。

その際、各池では水を加えてかき混ぜ軽い土砂を比重の差で砂鉄と分ける。この方法を比重選鉱法という。このような比重選鉱法を用いながら下流へ破砕物を流し、砂鉄と土砂を分離し砂鉄純度を高めながら下流に流していくことで、最終的には80%以上の砂鉄純度になる。これが鉄穴流しのプロセスである。
この砂鉄が褐鉄鉱に変わったのが鹿毛馬神籠石だと考えていた。

これは過去記事。
鹿毛馬神籠石へ行ったよ(1)http://lunabura.exblog.jp/20837850/
鹿毛馬神籠石(2)http://lunabura.exblog.jp/20845194/
鹿毛馬神籠石(3)http://lunabura.exblog.jp/20855095/

ということで、鹿毛馬神籠石と一ツ目水源をグーグルの映像で比較してみようと思い立った。
まずは、鹿毛馬神籠石のおさらい。


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谷を正面から見るために、南北軸を回転させている。
赤ラインで示した土手周辺に二本の暗渠が存在する。
神籠石は谷を囲んでいる意図が感じられる。


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これは、グーグルから切り取った鹿毛馬神籠石の南北軸そのままの画像。
谷は西に向いている。
200mの基準線から、土手の辺りのはばは50m弱というのがわかる。

次は一ツ目水源と薄野神社を含む画像。
縮尺が分かるように、同じ200mの基準の大きさで切り取った。
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一ツ目水源の池は中央より上の小さな方。
その右手の谷奥が草原あたり。直径100mに満たない敷地だ。

一ツ目水源の敷地と鹿毛馬神籠石の土手辺りを比較すると、両者はほぼ同じスケールだ。


一ツ目水源には鉄穴流しの作業場があるので、
同様の施設である鹿毛馬神籠石もまた鉄穴流しの作業場を囲んだ物といえよう。

神籠石の多くが川の側に立地しているのは葦の運搬のためだ。
川の葦を現場で処理する施設なのだ。

阿志岐神籠石などに建物の跡が見つからないのは当然だと思う。
城ではないのだから。

神籠石がすべて鉄穴流しの作業場だというのではないだろう。
一つずつ確認しないと結論は出せない。
が、少なくとも、九州王朝の城ではない。
九州王朝を支えた製鉄の施設だ。

両者の施設を比較してそんな結論が出た。

この鉄穴流しの技術は江戸時代に最高峰を迎えて途絶えた。
この技法の欠点は大量の土砂が下流域を汚染すること。

それを克服したのが、福津市の渡半島の「金山たたら精錬所跡」
http://lunabura.exblog.jp/16450288/
金山たたら製錬所跡 福岡県福津市津屋崎町渡
江戸中期以降・出雲よりたたら製鉄技術を導入

さて、この土砂による下流域の汚染で思い出す神話があった。
それは「アマテラスとスサノヲ」のお話。

(つづく)





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by lunabura | 2014-08-11 23:21 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

薄野神社(一ツ目神社)(2)水源と製鉄


薄野神社(一ツ目神社)(2)

水源と製鉄



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境内の裏手には夢のような池。



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クレソンの白い花の咲く流れが、その池に注ぐ。

勾配の少ない川のせせらぎはどこまでも美しい。


この敷地は半円の形で森に囲まれていて、周囲に周回道路がある。
その奥にいざなわれていくと、絶え間なく湧き出す水があふれている。

近くに八大竜王が祀られていた。


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ここを水源として水は流れ出していた。



振り返った。


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小川がお分かりだろうか。
クレソンの道となっている。

ここが敷地の一番高い所。
そして奥に池があり、薄野神社があって、天目一箇命が祀られている。


スコットランドの草原と同じ。
これは五月の写真。
今ごろは草は猛々しく繁茂しているだろうが、スコットランドの夏の草はこの背丈までだった。

植生はほとんど似ていたけど、これ以上は育たない北の地がケルトの地だった。




製鉄には水が沢山要るという。
はてさて、ここではどこが工房だったのだろうか。
帰り道、もう一か所、プールのような四角の池があった。


ここには人工的な川と自然の川の二本が流れていた。



「近年まで製鉄していましたよ。左に洗コウの川があったでしょう」
「え?!!!!!」
見逃した!

数人で戻ってみると、見慣れた段々の疎水しかない。
「これだ」
「え?これが?」


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それは二本の川のうち、人工的な川の方。
単に段々にしてあるだけかと思ったけど、砂鉄を選別する作業場だったんだ。

何と合理的な設計だろう。

馬蹄形になった谷の奥にある水源から水を引いて作業場にする。
そして、中央には自然のままの流れを残す。

馬蹄形?
うん?

馬蹄形に囲まれた傾斜の緩い谷と二本の川。

この美しい「一ツ目水源」を思い出していると、重なり合う光景が心に浮かんでくる。

はたして、同じだろうか。
航空写真を突き合わせてみよう。

(つづく)





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by lunabura | 2014-08-10 21:00 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(4)

薄野神社(一ツ目神社)天目一箇神を祀る宮


薄野神社(一ツ目神社)

天目一箇神を祀る宮


アイラトビカツラがあったのは熊本県山鹿市菊鹿町相良。
その谷を下って山塊を迂回していくと、こんな景色。

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見事な神名備山。
そして、その向こうの丸い山の左の稜線に私の目は釘付け。

見たことのある風景。
そう、スコットランドで、こんなふうに巨岩が立っていたっけ。


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おお、車はどんどん近付いていく。



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ついに正面に回り込み始めた。
これがあの有名な「不動岩」なんだ。
そそり立つランドマークそのもの。

古代、世界のどこからやって来ても、あの岩を見つければ目的地に着く。
こんなに天気がいいのに、かすんでいるのはpm2.5のせい。

さて、この岩からぐるりと西の谷に入っていくと、目的の薄野神社。
天目一箇命を祀る神社に行けるのだ。

かなり迷いながらも、ようやく到着。
山鹿市久原薄野


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思いがけず開けた土地に清浄な空気が流れていた。

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楼門の左右には大臣?が控えている。
そして、右を見た。


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まさしく一ツ目(ひとつまなこ)そのものだった。
ついに来た。
名前だけは聞いている鍛冶の神を祀る宮。



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薄野神社。一ツ目神社。
祭神 天目一箇(あめのまひとつ)命。



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「ほら」
と手渡された石。何だったっけ。炉の壁石だったっけ?
製鉄のあった証拠なんだけど…



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神殿は四方に赤い鳥居がある、珍しい造り。
彫り物も豪奢で、 
「現在の神殿は焼失後、元禄六年(一六九三)二月建立したが再び炎上 安永八年(一七七九)再建。拝殿は天明三年(一七八三)十月、楼門は寛延四年(一七五一)の建立である。」と書いてある、

創立は1500年前。
「今から約千五百年の昔、繼体天皇の四年(五一〇)十一月高天山の神主若山連(むらじ)
の後裔吉田氏が斎き祀ったといい県内屈指の古社である。」

福岡では稲荷神社が多く、このような名前の神社には出会っていない。
しかも、稲荷神社は急な坂を上った小山のピークにあるものが多い。
それに対して、ここは石段一つない、フラットな地形だ。
鉱物が違って、製法が違うのだろうか。

思い出すのは、和水町(なごみ)の江田船山古墳を調べていた時、
熊本では弥生時代に製鉄があっていた、と書かれていたことだ。

当然ながら考古学的には弥生時代の製鉄は否定されている。
しかし、日本全国を調べずに定説が出来たのかもしれない。

阿蘇山の噴火で砂鉄が一メートルも積もった地層もあると小耳にはさんだ。
砂鉄の上で火を焚けば、簡単な鍋らしきものが出来ると真鍋はいう。
中東では焚火をすればガラスが出来るのと同じ理屈だ。

ここは510年の創立ということなら、磐井の君が生きていた時代だ。
磐井の勢力は肥(佐賀~熊本)に及んでいた。
ということはここもまた磐井の勢力下にあったのかもしれない。

境内の由緒書には、さっきの不動岩のことも書かれていた。
伝承によると、往古旧三玉村蒲生の不動岩と旧三岳村彦岳権現が首引きをした時、この地にあってわが子の首引を案じていた母神の目に首引きの大綱の端が当たり、一目をうしなわれたので、その母神を祀って一ツ目神社と称するようになったという。
 また民俗学上では天目一箇神は古代における鍛冶集団の祀るところであるともいう。
 本社を有名にしたのは 寛政のころ(十八世紀)伊勢松坂の本居宣長の門に学び 肥後の国に初めて国学を導入した社司帆足長秋である。
ということは、天目一箇神とは女神なのか。
ここは女神の宮だったのだ。


境内神社として八坂神社(祭神素盞嗚命)熊野座神社(伊弉冊命)木幡神社(天忍穂耳命)稲荷神社(倉稲魂命)天満宮(菅原道真)を祀る。

昭和二十七年新法人切り替えによって久原の本今田・永田・本霊仙に奉祀する菅原神社三社および催合の天神社を飛地境内神社とした。祭神はいづれも菅原道真公である
稲荷神社があった。天満宮も。
道真公を祀る集団はやはり製鉄と切っても切り離せないことが確認できた。

誰か、コメントで道真は九州王朝を再興したかったのではないか、
と書かれていたのを思い出した。

道真の追手は容赦なかったという話を耳にした。
太宰府で亡くなったのではないという話がチラホラ聞かれる昨今だ。

それにしても、この境内は心地いい。
人家が無いからだろうか。
この奥には池があり、泉があった。
(つづく)



教えて!
薄野の読み方は「すすきの」でいいですか?

カテゴリ、とりあえず、「さ」に入れておきます。



薄野神社




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by lunabura | 2014-08-09 23:41 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

皐月宮・瀬織津姫と速秋津姫と三女神


皐月宮
さつきぐう
瀬織津姫と速秋津姫と三女神


あの清らかな皐月宮が心に宿っていた。

日常の事をこなしながら、ふとした時に心に問うと、「皐月宮の事が知りたい」という思いが浮かぶ。

「「重々秘訣」で検索すると出てきますよ」
ユキさんが教えてくれたキーワードを入れると
三女神と比売大神と神功皇后の謎に触れられたページが出て来た。

「千時千一夜」というブログだった。
そこには瀬織津媛の名も出て来た。

瀬織津媛は天照大御神の荒魂ということらしい。

そうすると瀬織津媛は仲哀天皇に祟ったあの女神だということになる。
どういうことだろう。

仲哀天皇に祟った女神。
かつて、それを書こうとしてパソコンが音を立ててシャットダウンしたことがある。
その日以来、私はこの女神に触れるときには慎重になっている。

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)
これが小山田斎宮で名乗った神の名だ。

小山田斎宮の祭神に天照大神の名があった。
その後、ガイドブックを書きながらも、ずっと注意して見ていたが、どの神社でも向津媛はアマテラスだった。

しかし、祖神が子孫に祟る理由が分からず、この問題を棚上げにした。



もっと、基礎から。
そう、皐月宮の祭神から押さえよう。

あらためて「皐月宮」で検索すると同じブログにヒットした。

そして、皐月宮は「辻八幡宮」に合祀され、そちらに祭神の名が書かれていたのを見つけてあった。

「皐月宮は今はこの神社に祀られています」
と車を走らせながらユキさんが教えてくれた宮が「辻八幡宮」だったんだね。

次は「千時千一夜」より
昭和十八年に初版刊行された『宗像郡誌』(上巻)は、「辻八幡社」「神湊村大字江口字皐月にあり」、同社には「境内神社五社」があるとして、そのなかの皐月神社の項を、次のように書いています。

皐月神社 
祭神 瀬織津姫命 宗像三柱神 速秋津姫命 神功皇后

由緒 祭神瀬織津姫命、宗像三柱神、速秋津姫命ハ無格社皐月神社トシテ、大字江口サツキニ祭祀アリ。古ヘ田島宗像宮ノ頓宮地ニシテ、五月五日大祭アリ。競馬ヲモ執行シアリシト。又祭神神功皇后ハ大字江口字原ニ、無格社原神社トシテ祭祀アリシヲ、大正十四年四月一日許可ヲ得テ合祀ス。
神功皇后は後に合祀されているので、皐月神社の祭神は「瀬織津姫命 宗像三柱神 速秋津姫命」ということになる。

私はユキさんに案内されて皐月宮へと向かった。



宗像市の釣川の河口の橋の右岸、宗像大社関連の建物の横から海に向かって歩いた。


c0222861_232405.jpg

そこある古木は枝打ちが古くになされていた。
このような広々とした所で枝が邪魔になるとしたら、かつては建物かなにか施設があったのではないか。

この杜の先に古社があるのかな…
そう思って進むと松林に出た。


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白い案内板がここが境内だと教えている。
「あそこですよ」
「え?」
右手の奥に神籬(ひもろぎ)があった。


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まさに古式ゆかしい祭祀場。
瀬織津姫命 宗像三柱神 速秋津姫命。

ここに五月会の時、宗像五社(第一宮・第二宮・第三宮・織幡神社・許斐神社)
の神輿が集ったという。

織幡からは…竹内宿禰も。
これはただならぬ宮だ。

瀬織津媛を祀る宮としては、波折宮があった。
どちらも川が海に注ぐ所にあるという共通点がある。

大祓いの祝詞より(るな訳です)
天つ神は天の岩戸を開いて祓い清め、国つ神は高い山から低い山まで祓い清め、風の神があまねく吹き渡って、残っている罪穢れはないかと祓い清め、早川の瀬にいる瀬織津姫がそれを大海原に持ち出して、大海原にいるハヤアキツ姫が呑み込んでくれる。
それを息吹き戸主の神が根の国底国に吹き飛ばして、根の国底国にいますハヤサスラヒ姫という神が背負ってさすらって無くしてしまう。
こうして罪という罪がないように祓い清めて下さいと、天つ神、国つ神、八百万の神々に申し上げる。
ここには罪穢れを大海原に持ち出してくれる瀬織津媛と、
大海原でその罪を呑み込んでくれる速秋津姫命が祀られていた。

そして、川を一キロ半遡った所に鎮座する宗像三女神と。

c0222861_2341844.jpg


写真の対岸の山のずっと左に宗像大社はある。


棚上げしていた向津姫の問題。
「棚上げ」と書いて驚いた。

昨日の夢は「棚を空にして綺麗に拭き上げる夢」だったのだ。
白い棚に何を置く?

それがこの女神たちの事だったのだろうか。



地図 宗像市 皐月宮






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by lunabura | 2014-06-18 23:08 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(2)

細石神社(5)「さざれいし」が「砂鉄」なら


細石神社(5)

「さざれいし」が砂鉄なら


c0222861_054884.jpg

「さざれ石」は「小さな石」ということでしょうが、
どうして木花開耶姫の神社の名に付いているのでしょうか。

「君が代」にも「さざれいし」が出て来ますが、それについて
真鍋大覚が解説していたのを思い出しました。

「さざれいし」とは砂鉄、即ち磁鉄鉱(Fe3O4)の結晶である。これを鉄に還元する名匠が伊迹師(いとし)、或いは五十氏(いそし)、後に万葉の頃は石上(いそのかみ)であった。

「いわほ」とは鉄のことである。鉄が分解して赤鉄鋼(Fe2O3)にサビとなって、苔が吸収されるまでの過程を述べた古歌だった。

しかし、この歌の内容を見る限り、砂礫が地球の造岩作用によって岩石に固結し、ついには風化して塵埃となり、草木に吸収されるまでの過程を説いたことになる。
(『儺の国の星・拾遺』)

「さざれいし」とは「砂鉄」のことだと真鍋は言います。
「いわほ」は「鉄」です。

これを作る名匠を「伊迹師、五十氏、石上」と言ったと伝えています。
             (石上といえば、物部氏ですね)
「いとし」「いそし」は音韻変化したものでしょうが、
あの仲哀天皇(神功皇后の夫君)が伊都国の五十迹手(いとて)を
「いそし」と誉めたシーンが『日本書紀』に出て来ます。

また筑紫の伊都の県主(あがたぬし)の祖・イトテが天皇が行幸したのを聞いて、五百枝(いほえ)の賢木を抜き取って、船の艫舳(ともへ)に立てて、上の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、中の枝には白銅鏡を掛け、下の枝には十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引島に迎えに来ました。

そうして、
「私めが、わざわざこれらの物を献上する訳は、天皇が八坂瓊が優美に曲がっているようにあまねく治めて下さいますよう、また白銅鏡のように山川海原を明確にご覧になれますように、そうして、この十握剣を掲げて天下を平定してくださいますようにという意味からです。」と言いました。

天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。今、伊都と言うのは訛っているのです。
21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。

仲哀天皇の都だった下関市の豊浦宮を新羅の塵輪が襲撃したために、
天皇たちは佐波(防府市)に疎開していました。

熊鰐三種の神器を掲げて迎えに行きますが、
この伊都国の五十迹手もまた三種の神器を掲げて彦島まで迎えに行きます。

この「三種の神器を掲げる作法は正装」だと和布刈神社の社伝が伝えています。
多くの歴史書が服従の印と勘違いしていますが、「正装」なのです。
(征服した相手の船に乗るほど危険な行為はありませんよね)

五十迹手は仲哀天皇の祖を高祖山で長年祀り続けていたのです。
      (熊鰐も神武天皇の史跡を守り続けていました)
それで、仲哀天皇は五十迹手の口上を聞いて「いそし」と褒めたのです。

「いそし」が「製鉄の名匠」のことなら、
五十迹手が掲げた三種の神器は伊都国で生産されたもので、それを見て、
「名品だなあ、いよお!名匠!」というニュアンスで褒めたと解釈もできます。

「イソ」とは、「アントンイソラ」のイソと同じで、シリウスのようなプラチナ色の輝きを指しています。
まさに白銅鏡のプラチナ色の輝きをも思わせます。

『日本書紀』は五十迹手の国は「イソ国」と言っていたのが、「イト国」に訛ったと言います。
出来たばかりの白く輝く鉄の刀身。白い銅鏡。
そういうメタリックな白い輝きの色が「イソ国」のイメージでもあるのでしょう。


思えば、「木花開耶姫」を三雲村の人たちが「高磯比売神」だと言うことも、
「高磯」の名の中に「イソ」が含まれていて、気になっていました。
この「磯」もまた、金属を思わせる単語だからです。

この時、リンクしている『不思議空間「遠野」』さんがコメントをくれました。
(一部改変)

ところで、木花開耶姫を祀る神社、興味を持っています。

地元(遠野)では桜の木を「樺の木」と呼び「木の華」の意味があります。調べると鍛冶に於いて発生する「火の粉」の意がある事がわかりました。つまり桜の花は火の花でもある。

コノハナサクヤヒメのコノハナも恐らく火の粉だと思われるのは、火中出産を果たした木花咲耶姫は、茨城県の室八嶋神社で竃の神として祀られているからです。この細石神社での木花開耶姫と石長比売の伝承の詳細はわかりませんが、今後の展開を興味を持って待っていますm(_ _)m


製鉄や鍛冶の民は桜の花を見て、製鉄の時の火花を思い浮かべるのでしょうね。

鉄の民にとって、「このはなさくや」が「火の粉」のシンボルだとすると、
「いわなが」は、やはり産物の「鉄」のシンボル。
ですから、「木花開耶姫」の別名を「高磯比売」と呼ぶ可能性は十分にあることが分かりました。

カマドの火を一心不乱に見つめて温度を知ろうとする鉄の民が、
火を神と慕って「コノハナサクヤ姫」と呼び、桜の花と重ね、
のちに一般の人たちに絶世の美女神とされていった過程が思い浮かびます。

二女神の名には鉄の暗号が込められていることになりました。
(ホトタタライススキ姫と似ていますね)

きっと古代の人は、二女神の名前を聞くと、砂鉄を製鉄していた国津神の姫神と分かったのでしょう。

古代は姫たちの本当の名前は秘められていました。
「名前を尋ねる」ということは「プロポーズ」を意味していた時代がありました。
姫の名前を知っているのは、親と夫ぐらい。
ですから、二女神の神名も仮の名で、本当の名前は伝わっていません。


以上から、細石神社は砂鉄を製鉄していた集団の祀る宮ということになってしまいました。
これまでのスズ鉄から砂鉄へと大変革をもたらした技術集団なのでしょう。

この集団を「国津神」とすると、
「国津神の木花開耶姫」と「天津神のニニギの命」の結婚は、
「三雲南小路遺跡を祭祀するクニ」と「天孫族のクニ」の連合という事にもなりそうです。



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これは「ホの一族」というタイトルの記事の所で書いた系図です。
馬見神社でひらめいて描きました。
天孫族が結婚という温和な方法で連合国家を作っているような印象を受けました。

この系図から見ると、細石神社は大山津見命のクニとなりそうなのですが…。
いかがでしょうか。
細石神社が三雲南小路遺跡をも祀っているとすると、
その王と王妃は大山津見命と妃かもしれないと考えたくなります。
あるいは、大山津見命を奉斎する集団。


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(三雲南小路遺跡1号甕棺の出土品)

全く想定外の展開になってしまいました。

今回は、東北の『不思議空間「遠野」』さんと、九州の『ひもろぎ逍遥』が
同時に「コノハナサクヤヒメ」をテーマにしたというシンクロニシティに支えられました。
不思議な思いがします。

それにしても、夫君のニニギノミコトはどこ?
周辺を探してみましょう。

(つづく)




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by lunabura | 2013-12-07 00:15 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

細石神社(4)高祖神社にはコノハナサクヤ姫の皇子が祀られている


細石神社(4)

高祖神社にはコノハナサクヤ姫の皇子が祀られている


細石神社の参道を歩くと、ずっと目に入ってくる高祖山。
参道の正面ではないのに、心はそちらに魅かれます。

c0222861_012390.jpg

気づくと何枚も写真を撮っていました。

伝承では、コノハナサクヤ姫はこの辺りででヒコホホデミ命を出産したといいます。
そして、そのヒコホホデミ命はあの高祖山の祭神となりました。

再び、奥村玉蘭の『筑前名所図会』を見てみましょう。(るな訳)
佐々禮石の社」(さざれいしのやしろ)
三原村にあり。
この神は高祖大明神の御母という。だから木花開耶姫を崇め奉るのだろう。神体は小石なので「さざれ石」というのだろう。

(三原村は三雲村の誤りでしょう)
「佐々禮石の社」とは「細石神社」のことです。
「彦火々出見尊の御母」が当宮のコノハナサクヤ姫です。

高祖神社
あの高祖山には高祖神社があります。

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祭神は主座に彦火々出見尊。
左座に玉依姫命、
右座に息長足姫です。

息長足姫(神功皇后)が祀られているのは、
皇后がこの社を乾(いぬい)の方角に向けて建立したからと言われています。
神功皇后は五十迹手(いとて)に案内されて、この宮に祈願に来たのです。

五十迹手は代々この神社を守っていたそうです。
神功皇后はこの彦火々出見尊に祈願したということになります。

祭神としての息長足姫の名はこののち追加されたことになるので、
上書きされる前の古い神が存在していたと思われます。

謎の高磯比売神
その古い女神の名がどうやら高磯比売神と思われます。
境内の由緒書に
〈『三代実録』には「正六位高磯比賣神に従五位を授く」〉とありました。

この高磯比売神のことが皆目、分からなかったのですが、
wikipediaの「細石神社」に次のように書かれていました。
この「細石神社」の祭神は「磐長姫、木花開耶姫」である。つまり主祭神は「女神二柱」である。
この事からと、昔は「高祖神社から神輿が細石神社に下る(上る?)」神幸があったという事から、この「細石神社」は「三代実録」に記載された「元慶元年(877年)、高磯ヒメ神に従五位下を授ける」とある「高磯ヒメ神」であると考えられると三雲の氏子は云っている。


三雲村の人たちは、「高祖神社の高磯姫神」とは「細石神社の女神」のことだと言っているんですね。
ですから、高磯姫神とは木花開耶姫を指しているのが分かりました。
(磐長姫も含まれているのかもしれませんね)

しかも、「高祖神社から神輿が細石神社に下る(上る?)」ということなので、
お子神が木花開耶姫の元に神幸するということになります。

これを補強する話が別のブログにコメントされていたので引用します。
高祖神社の正面で、確か、この細石神社から、末の娘が嫁に行くとか言う神話がありませんか?それで、神楽が4月26日ごろに毎年あります。

とあります。
「末の娘」とはコノハナサクヤ姫のことですね。

これらから、神功皇后が参拝した頃は、高祖神社にはコノハナサクヤ姫と彦火々出見尊の母子神が
祀られていた可能性が高くなりました。

こののち、神功皇后の神名が上書きされたんでしょうね。

地図 細石神社 高祖神社




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by lunabura | 2013-12-06 00:08 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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