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カテゴリ:(マ行)神社( 11 )

三次神社(2)景行天皇の筑紫行 まとめ


三次神社(2)

景行天皇の筑紫行 まとめ




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(雨乞いの三次石があるというが、狛犬の間の石だろうか?)


由緒に、景行天皇が来た具体的な年と、猿大海にヒモロギを造らせた話が出てきました。
同様な話が久留米の赤司八幡神社でも採集できています。

猿大海と景行天皇のことは『日本書紀』にも出ています。
景行18年と28年を中心に筑紫や肥前の縁起も含めて整理してみました。

18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
       倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
       神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
8月     的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
9月20日 日向より至る。

27年7月 武内宿禰に北陸視察を命じる。
8月     熊襲が背く。
10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。
12月    川上タケルを討伐。
28年2月  日本武尊戦勝報告。

以上が『日本書紀』の記述(一部)です。
景行天皇は18年に三池から八女、藤山を経由して北上し、8月に浮羽に着いています。
ウキを忘れた事件はこの時の話となりますね。

この時、猿大海が同行しているようです。ここは賀茂氏が武器を造っていたのでしょう。その為に三次神社を聖地と定めて祀ったと考えられます。

『古事記』的には、宗像三女神(当時は水沼三女神)と出雲の合体が賀茂大神なので、浮羽は水沼の統治下にあったのかもしれません。

水沼県主・猿大海の屋敷は久留米の赤司八幡神社にあり、景行天皇はそこで天壇を造って三女神を祀り、国乳別皇子を天皇代行として残しています。

経路から考えて、藤山から赤司八幡神社を経由して浮羽に向かったのではないかと考えられます。

また、佐賀市大和町川上 真手山(まて)にヤマトタケルから襲撃された熊襲タケルが逃げ込んだ伝承があります。

熊襲タケルは筑紫で一度ヤマトタケルと会っていて、筑紫の拠点でヤマトタケルに襲撃されて佐賀市大和町まで逃げたといいます。

これが景行27年12月に該当します。
このあと28年に景行天皇は猿大海に命じて、三次神社の聖地に磐境、神籬を祀らせたことになります。

猿大海は水沼県主として、広範囲を治めた、かなりの実力者だったことが分かります。

国乳別皇子の后は水沼から出たので、さらに結束は強くなりました。

日本武尊、仲哀天皇と、次々に当地を訪れ、その記憶を留めるために親子三世代が祭神として祀られたのでしょう。

また、肥前国風土記では景行天皇は高羅の行宮から基肆国の永世神社に行ったと書いています。このルートを仮定すると、浮羽から高良山~佐賀と移動したのかも知れません。



以上の仮説を追加して、『日本書紀』に追加します。

18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
       倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
       神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
このころ 久留米赤司の猿大海の拠点で三女神を祀るために天壇を造り、
       国乳別皇子を残して祭祀をさせる。


8月 的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
このときの滞在地はのちに三次神社となる。

このあと、高良山の行宮を経て基肆国永世神社に行く。
9月20日 日向より至る。

27年7月  武内宿禰に北陸視察を命じる。
8月      熊襲が背く。
10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。武内宿禰同行。
12月     日本武尊は川上タケルを討伐。場所は佐賀市大和町真手山

28年2月 日本武尊戦勝報告。
同年  猿大海に命じて磐境と神籬を三次神社の地に造らせる。

こんな風になりました。

地図がないと分かりにくいですね。
私も、いつも福岡県の地図とにらめっこしています^^


猿大海、水沼、国乳別皇子については、『神功皇后伝承を歩く 下巻』
56 赤司八幡神社
57 弓頭神社
78 大善寺玉垂宮
で復習してくださいな。



地図 三次神社







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by lunabura | 2015-09-13 23:37 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

三次神社(1)景行天皇が猿大海に磐境を造らせた


三次神社(1)
みつぎじんじゃ
旧浮羽町大字山北日盛園
景行天皇が猿大海に磐境を造らせた

賀茂神社を後にして、歩いて三次神社を探しに行きました。
8月15日の真昼、猛暑の日でしたが、思ったより辛くはありませんでした。


何枚もの地図を組み合わせて探しに行ったのですが、尋ねても知る人がいません。
それでも、やはり向こうに見えている森だろうと歩いていくと、車は入れない所でした。




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とても、風情のある小路です。





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あった!
真昼の影のせいで、神額が真っ黒に写っていますが、「三次神社」と書いてあります。



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真夏の日差しでハレーションを起こしていて、ピントがあっているのに、合ってないような感じになっています。
訪れる人もいないようです。






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石の社殿です。

祭神 大足彦忍代別尊(景行天皇) 日本武尊 仲哀天皇 菅原道真

御祭神は父と子と孫。三人揃って祀る宮は初めてです。



由緒
景行天皇十八年、天皇筑紫国を親征された時、生葉山の麓、三次の杜(今の楯山)に霊畤(まつりのにわ)を設けて天神地祇を祀って天下の泰平を祈りたまい、同二十八年、水沼県主猿大海に命じて磐境(いわさか)を造り神籬(ひもろぎ)を立てさせ、神祇を鎮め奉ったのが創始と伝えられている。


景行天皇が最初に来たのは景行十八年とあります。

この宮は生葉山の麓にあるのですが、どの山を指すのか、分かりません。
地図にも、目ぼしい山が見当たりません。


「三次の杜(もり)」はここでしょうから、霊畤(まつりのにわ)も、ここなのでしょう。
景行天皇は十年後の二十八年に水沼県主の猿大海に命じて磐境を造らせています。






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境内の周囲をぐるりと清らかな水が流れていました。





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裏に回ったとき、人工的な石組の跡を発見。その石垣の上に磐座があったのです。


崩壊しているのでしょうか、あるいは元々このような形だったのか。
しかし、そこではゴミが燃やされていました。
ショックのあまり、写真はこれだけしか撮っていませんでした。






神社を振り返ると、磐座は社殿の正中線上に乗っているように思われますし、正面の筑後川を経た向こうに聖なる山を見ているフシがあります。



この宮は過酷な運命を持っていて、大友宗麟に焼き払われた時を含めて6度も社殿を建て直さなければならない状況に見舞われていました。

そして、磐座もゴミ焼場に成り果て、市民から忘れ去られていました。






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by lunabura | 2015-09-12 23:10 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(6)

麻氐良布神社


麻氐良布神社

麻氐良(まてら)という不思議な名前の山が朝倉市にあります。
その神社は麻氐良布神社と書いて、「まてら」「まてらふ」の二つの読み方が見られます。

この山が重要なのは、斉明天皇の死の病の原因が、この神域の木を伐採したためと言われているからです。

当時からそれが分かったのでしょう、中大兄皇子は麻氐良布神社から
イザナミ尊を別けて、「皇居の辺」に別所神社を建てたとなっています。

麻氐良布神社の祭神を『福岡県神社誌』で調べてみました。

月読尊、天照大神、伊弉諾尊、素盞嗚尊、蛭子尊
です。

夫婦神(イザナギ・イザナミ)とその子(蛭子)と三貴子(月読、天照、素盞嗚)
というのが自然な形だとすると、イザナミだけが祀られていません。

やはり、もともと一緒に祀られていたのが、
わざわざイザナミだけ別所神社に祀られ直されたということでしょうか。
勧請でなく、分祀だとすると、よくよくのことですよね。

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ただし『神名帳考證』では
伊弉册尊 伊弉諾尊 斎明天皇 天智天皇 明日香皇子 天照國照彦火明命
となっていて、イザナミ尊が祀られています。

祭神の変遷があったようですね。

そして、境内神社を見てびっくり。

十九座神社
宗像神社
織幡神社
筥崎神社
志賀海神社
志登神社
筑紫神社
竈門神社
美奈宜神社
於保奈牟智神社

まるで、ガイドブック『神功皇后伝承を歩く』の目次を見ているよう。
(ちょっとオーバーかな)
筑紫の神々の勢揃いなのです。懐かしい名前ばかりです。
ちなみに、主祭神を書き加えてみましょう。

宗像神社(宗像三女神)
織幡神社(武内宿禰)
筥崎神社(応神天皇)
志賀海神社(綿津見三神)
志登神社 (豊玉姫)
筑紫神社(白日別)
竈門神社(玉依姫)
美奈宜神社(天照皇大神-寺内)(素盞嗚―林田)
於保奈牟智神社(大己貴)

ほら、知っている神さまばかりでしょ。

ここで祈れば筑紫の神々に全部通じるという神社でした。

三か月前でしょうか、「倭国大連合」というタイトルで、
対新羅戦の為に神功皇后(本当は仲哀天皇)を旗頭として筑紫の氏族たちが大連合したことが、
倭国という国の母胎となったのではという仮説をお話ししました。


これらの氏族の神々が勢揃いなのですから、よくよくの神社のようです。

登る機会はあるかなあ。





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by lunabura | 2014-05-23 21:32 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

宮野神社(2)小山は古墳だった


宮野神社(2)
小山は古墳だった

さて、前回の宮野神社を書いたあと、二つの情報が入ってきました。

一つは筑後国造さんからのコメント。
「金毘羅神社の小山は古墳です。
遺跡地図では、中宮野神社内古墳となっており、横穴式石室の円墳のようです。
一部石材が露出していますよ。」

神殿の右手の小山は古墳だったんですね!


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古墳には石段が付いていました。
石材が露出していたなんて…。
見たかったです。




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もしかしたら、祠の前の石は天井石?

横穴式石室ということなら、6~7世紀かなあ。
ウィキペディアで「横穴式石室」を調べました。一部分だけ抜き出します。

日本での横穴式石室
●日本列島でも横穴式石室や横穴系墓室は、4世紀後半から北九州で造られ、それが九州全域に拡がり、東の方へ伝わった。

●6世紀になってからは横穴式石室が全国各地にひろがった。朝鮮半島で一般化されつつあった横穴石室が日本の各地にひろがるには約1世紀近くの時間がかかった。

●646年(大化2)薄葬令が公布された。この令によって、古墳の築造が細かく規制された。石室をつくることが許されたのは貴族階級であり、一般庶民には石室をつくることは許されず、地に埋めることが規定されている。

この宮野神社が創建されたのは661年です。
社伝では「この宮野神社は、藤原氏祖先の墓といわれ、天孫降臨のとき天照大神に従った「天児屋根命」を祀ってある。」とあるので、古墳も近い年代になります。

橘朝倉宮が建設される時には、風水に叶った適地が検討されたはずで、
朝倉の情報を提供した豪族がいたはずです。

それが誰なのか推測する時、古墳の被葬者が関わった可能性もあり、
中臣氏の祖先がもともと当地に居住していた可能性もでてきます。

何だかワクワクですね。



そして、もう一つの情報はくじらさんから。
「久留米市に藤原鎌足の子孫がいる」ということでした。

バラバラの情報のが、朝倉市の宮野神社という一点で急に膨らみを生じてきました。

想像もしなかった古代のフクオカの姿が垣間見られて楽しいです。




さて、この日、宮野神社から別所神社へ向かいました。
徒歩でもすぐに着く所にあります。

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農道です。向こうのとんがり樹の辺りが別所神社。



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振り返れば先程の宮野神社の杜が見えています。
両社は直線距離で130m。

実はこの日は別所神社の方に先に行ったのですが、消毒があっていたので
遠慮して宮野神社を先に参拝したのです。
宮野神社では別所神社の消毒のモーター音が聞こえていましたよ。
それほど近いんです。

モーター音が止まるのを待って、車で移動しました。
そこにも斉明天皇に関わる縁起がありました。
次回は別所神社へ。



斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移す。中大兄皇子は12日間服喪。御陵山。恵蘇八幡宮


恵蘇八幡宮(1)と木の丸殿 筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
中大兄皇子はここで喪に服した
http://lunabura.exblog.jp/15159645/



宮野神社と別所神社





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by lunabura | 2014-05-12 21:23 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

宮野神社・斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮


宮野神社

斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮



ずっと気になっていることがありました。
斉明天皇の軌跡です。
朝倉には関連の神社がいくつかあったので、調べたいと思っていました。

福成神社(朝倉市)の近くに女官たちの宿舎の伝承があるなら、
徒歩圏内に朝倉の橘の広庭宮があるに違いないと考えてから何年も経っています。

観光マップを観光課から送っていただきましたが、
やはりオリジナル地図を作らないと辿りつけそうもありませんでした。


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まずは宮野神社へ。
境内は遠くからでも見えるのに参道がありません。
畑帰りの人に尋ねて教えてもらい、迂回して辿りつきました。
正面向かって左から境内に入るようになっています。


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一歩、境内に踏み込むとただならぬ宮の気配。
その重厚さ、そして「宮」野という名から、いきなり核心に来たのだろうかと
一瞬驚きました。


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朝倉はどの宮にも説明板があって、ありがたいです。

説明板から。
所在地 福岡県朝倉町大字宮野字中宮野1248
祭神 大己貴命 天児屋根命 吉祥女
祭神の組み合わせが不思議だな。



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宮野神社は大字宮野の氏神であり、毎年10月25日に祭礼が行われている、
この宮野神社は、藤原氏祖先の墓といわれ、天孫降臨のとき天照大神に従った「天児屋根命」を祀ってある。
藤原氏祖先の墓所だといます。どういう意味だろう。
誰かがここに埋葬されている?
祭神は天児屋根命です。

ネットで調べてみました。
岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに太玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨の際瓊瓊杵尊に随伴し、中臣連などの祖となったとされる。 名前の「コヤネ」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。 (wikipedia)



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斉明天皇6年(660年)、朝鮮半島の百済が唐と新羅の郡に亡ぼされ、日本朝廷に
救いを求めてきたので、天皇は翌7年(661年)百済救援のために筑紫に下られ、朝倉橘広庭宮を大本営とされ救援軍を半島に進められたのである。天皇は遠征軍の戦勝を祈願するため、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建されたと伝えられている。
思いがけず藤原鎌足の名が出て来ました。
ここは斉明天皇が生存中に藤原鎌足に命じて創建した宮でした。
そうすると、天児屋根命は藤原鎌足の祖先神ということで、関連性があります。
もういちど、三祭神を見直しました。

祭神 大己貴命 天児屋根命 吉祥女
吉祥女が菅原道真夫人なら、道真公(845~903)なので、この時代には関係ありません。
そうすると、残るのは大己貴命
神功皇后の時にも祟り神として複数個所で祀った神の名が残りました。
大己貴神社(朝倉市)もそう遠くはありません。

斉明天皇は戦勝祈願に大己貴命を祀らせ、
その祭祀に当たった藤原氏の祭祀官が留まって祭祀を続けたのでしょうか。
その祭祀官のお墓?とか、ちょっと乱暴すぎるかな。
う~ん。なんで墓所だろう。


『福岡県神社誌』の方を見てみました。(訳します)

由緒 斉明天皇七年創立。明治五年十一月三日、村社に被定。当社は斉明天皇当所橘広庭の宮に御遷幸のみぎり、玉体守護神として天児屋根命及び大己貴命を勧請し、宮野神社とし、その後天慶年中に秋月対馬守春実吉祥女を合祭し、三座とした由、いにしえの繁栄の時は当村の内字落合という所に神幸神祭執行などが由来に書かれている。
これによると、天児屋根命と大己貴命は斉明天皇の守護神として祀られたとなっています。
すでに具合が悪かったのだろうか…。

合祀された吉祥女に関しては天慶年間が938~947年。
道真公の没した903年の後なので、やはり夫人なのかもしれません。


藤原鎌足がここに立った。
奈良にしか足跡がないと思い込んでいたので、驚いています。


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拝殿から一の鳥居を眺めました。
平坦な地が続き、麦畑が広がっています。
その向こうに筑後川が流れています。その洪水原は豊かな穀倉になりました。

この付近はすでに陸地化していたのでしょう。
ここは都の中心地ではないようですが、
祭祀が営みやすいように都の近くに祀られた可能性を秘めていました。



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境内の右手奥に小山がありました。


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金毘羅社と読めるようです。

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祭神は分からないけど、ウィキでは「大物主神」となっています。

そうすると、最初の祭祀はこちらなのでしょうか。
あるいは、神功皇后伝承地の場合、海人族たちの社がそっとあったりするので、
斉明天皇の龍船を漕いだ海人族かも、とも思ったり。

金毘羅さんを信奉する海人族は、何というのだろう。



さて、都の設計にあたって、目当ての神名備山でもないかと裏手を見ましたが、
ピンと来る山はありませんでした。

この近くにはもう一つ、斉明天皇伝承を持つ別所神社があります。
歩いてすぐの所でした。別所神社と言います。(つづく)



斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社創建。
7月24日 崩御。68歳。


地図 宮野神社







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by lunabura | 2014-05-09 19:12 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(4)

妙見神社・龍神と北斗七星


妙見神社

龍神と北斗七星

 
風と光と鳥のさえずりが共演した豊日社(とよひしゃ)の神事。
その余韻に浸りながら、妙見神社に案内してもらいました。

地図を見ると八所宮(はっしょぐう)の北東500mほどの所ですが、
川の水源の近くにあるので、山中と思われ、
案内なしでは難しいだろうと思ったのですが、その通りでした。

ここからの流れは釣川に注ぎ宗像の平野を流れて玄海灘に達します。

八所宮が蔦が岳(城山)にあったころ、神武天皇が訪れたのなら、安曇族が入っていたはず。

そう思っていると、宮司家にかつて安座上(あざがみ)姓があり、
それは「安曇」と「朝倉の地名」を掛け合わせたものを朝廷から賜ったものだというメールが入りました。

そして、この釣川の支流の源流域の地名が「安ノ倉」と知ると、
ますます安曇の残り香を感じずにはいられませんでした。

私はいつのまにか、安曇を追いかけているようです。


全く人家がない山に思いがけなく立派な県道が走っています。
その途中、目につかない小さな案内板の奥、未舗装の道に入っていきました。


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そして現れた美しい湖。

夢のように深いエメラルド色。


これを見た時、私は熊本の巨石研究会のメンバーとの会話を思い出しました。

「海人族(かいじんぞく)はどうして日本にまで来たの?」
「鉱物資源のためですよ」
「でも、どうして、こんな森の中に鉱物があるって分かる?」
「川の色ですよ。川が緑だったら銅があるんです」

海岸沿いに船で進みながら川の色を観察するのだそうです。

海人族はこの湖の色を見たらきっと狂喜しただろう。


そして自分もまた、この緑にどれほど焦がれていたか。
目の前のエメラルド色に興奮を隠せません。
それは遠い魂の記憶が蘇らせる憧憬だったのかも知れません。



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道の途中から支流に入り、小さな流れを遡ると、川の底は赤色。


「鉄だ」
小さな滝の底も赤く染まっていました。

そして、まもなく滝に出ました。


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そこも赤。
断層のようになった小さな崖の上にせり出した岩盤の上から川が流れだしていました。


ここは妙見の滝。
水はあくまでも透明です。

「何か祈願をすると龍神が親神北斗七星にその願いを届けるために昇って行く」
そんな伝承がありました。

なんと美しい話でしょうか。


この滝の清らかさに、ブログに書くのが、はばかられたのですが、
八所宮の周囲は何処を見ても清浄な地。

八所宮の縁起を紐解くのに必要な聖地として、皆さんと共有しようと思いました。

かつて海人族たちは川を遡って源流を求め、川の神を祀りました。
この川もきっと聖なる地として祀ったことでしょう。

地元の方々の尽力なしには聖地は守れません。
そして訪れる私たちも、この地を清浄に保ちながら次世代に引き継ぎたいものです。


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地図 妙見神社







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by lunabura | 2014-04-07 23:30 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(5)

御手洗八幡宮・神功皇后は手を洗った


御手洗八幡宮
みたらい
福岡県糟屋郡志免町御手洗
神功皇后は手を洗った 

さて、前回の阿恵の日守八幡神社から御手洗八幡宮にやって来て驚きました。
そこはほんの一週間前に所用でこの傍を何度も往復した場所だったからです。
川に貼り付いたように鎮座するお宮の鳥居に見えていた「八幡宮」の字。
まさか、こうして参拝する事になろうとは。

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細い参道の左は道路です。フェンスの右側は川です。

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車から見えていたのはこの鳥居でした。

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縁とは不思議です。ここもまた神功皇后の足跡を伝える宮だとは。
細長い境内でも緑陰があると空気が違います。
拝殿の奥が窓になっていて、向こうの石祠を拝するようになっています。

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これが拝殿の後の神祠です。

御祭神は
応神天皇 神功皇后 玉依姫命
です。

説明板があったので、書き写します。
御手洗八幡宮
由緒
御手洗八幡宮は『筑前名所図絵』の亀山八幡宮を説示する処に、「別府枝村に御手洗と言う所あり。神功皇后が御手を洗い給いし所といふ。其の所に鎮め祀る神を弐所に崇め奉るなり」とあり。

又、『筑前国続風土記拾遺』には「亀山八幡宮は別府・御手洗両村の産土神なり…」とある。これらから推察すると御手洗八幡宮と亀山八幡宮とは同じ頃奉祭されたものと思われる。  (志免町誌より)

神功皇后が三韓より御帰還の砌(みぎり)、宇美にて応神天皇をご誕生の際、御手を洗い給いし土地故、八幡宮をお祀りしと言ふ。  (粕屋郡神社誌より)

(句読点などを補いました)
ここは神功皇后が出産の地に向かう途中、手を洗った所という故事により、
八幡宮を祀ったようです。

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境内から見える川が宇美川です。
皇后はまだ船だったのでしょうか。それとも輿だったのでしょうか。
前回の阿恵日守八幡神社から約1.3キロの所です。
川も須恵川筋から宇美川筋に変わっています。
プロットしようとしてみても、まっすぐではありません。
古代の旅は川があると、大変だった事でしょうね。

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細長い境内はあっという間に裏に出ました。
裏から撮った境内の全体です。
宮が川の土手にあって、道路が境内を迂回して通っている珍しい光景です。


地図 御手洗八幡宮





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by lunabura | 2012-08-24 21:09 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

妙見神社・平成の夢枕に龍神が現れた


妙見神社
福岡市西区小戸
平成の夢枕に龍神が現れた 

小戸大神宮から東の駐車場に戻る途中、岬に鳥居が見えました。

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鳥居を見れば見過ごせない…。

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近づくと真新しい鳥居です。
すぐに山道になりますが、コンクリートで最近整備されたようすです。

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頂に出ると、露天の祭祀場がありました。
岩は直方体に近い形で、中央に突起があります。
(小戸大神宮の突起の岩と関係あるのでしょうか。)

盤座(いわくら)には注連縄(しめなわ)が張ってありました。
後ろの立札には「御祭神  北辰明神(天之御中主神) 北辰妙見菩薩 青龍王神
と書いてあります。
筑前国続風土記の「小戸の西を妙見崎という  則妙現の社あり この地 平らなる岩なり」
というのがこれでしょうか。

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祭祀場の上に「小戸 妙見神社」がありました。
石祠が祀られています。写真がいっぱい飾られています。

この宮の由来が書かれていました。
小戸 妙見神社の由来小戸の西を妙見崎という  則妙現の社あり この地 平らなる岩なり 
(筑前国続風土記巻20)
小戸の西の山を妙見山という 山上に石祠あり  (筑前国続風土記巻43)

 今を去る千数百年前、奈良、平安にかけ庶民の間に親しまれ、全国的に熱烈な信仰を記録したのが妙見信仰である。しかし、時の流れに衰微し、往時を偲ぶよすがもなく、数年前まで御名を残すだけのありようであった。

 さて、この聖地にあって、今年(2003年)より十数年前、或る人の夢枕に龍神が瑞験し、霊告により導かれ、地中に埋没していた現社殿の屋根である古石を掘り出したのが発端である。

しかし、事情あって、地面に放置されたままであったのが、2002年の1月、心ある人々の手によって再建され、更に本年(2003年)4月の改築となり、現在、妙見神社として御鎮座なさっている次第であります。

御祭神
 北辰明神(天之御中主神)
 北辰妙見菩薩
 青龍王神


そもそも北辰妙見とは北辰北斗の星辰信仰に発した菩薩で、奇瑞の霊徳を示現する神妙星とされ、この神を祭れば災厄を免れ、長寿富貴に恵まれると云われる北半球中心の神であり、又、人の善悪の行為を見、禍福を分け、生死を定めるという。

  再建以来、数々の霊験奇瑞あり、念ずれば願い叶う強い霊力を顕現される神であります。 心よりご祈願下さい。
                       畏敬記す  合掌
「妙見崎」という地名が示すとおり、古くから北極星信仰があって、
祠も置かれていたのが、いつのまにか忘れられ、
平成になって再び復興したもののようです。

今、生き生きと神威を発動されている神様のようです。
平成にもこのような奇瑞があるのは本当にありがたいですね。


その周囲を見渡すと周囲の海域が手に取るように見渡せます。
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能古の島が見えます。

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糸島も見えます。

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これは左の絶壁。

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突端から海を見下ろしたもの。

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そしてひときわ聳える大松。
踏みしめられた地面は長年、見張り所として活用されたのがよく分かります。
ここからも北極星を眺めた事でしょう。

紀元前には龍座のツバーンが連星を従えて輝いて、その不動の位置を示したでしょうが、
時が経つに連れて、ツバーンは中心から離れて行きました。
私たちの北極星・ポラリスがその位置に移動するまで北極星はありませんでした。
その間北極星への熱烈な憧れが失われるのにはそんな事情もあったのかも知れません。

今、こうして再び北辰の神が現れる事は有り難いです。
神々が降臨される聖域を何としても守りたいなと思います。
伝承とともに。

地図 妙見神社








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by lunabura | 2012-03-06 20:09 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(2)

三坂神社・神功皇后は雷山登山前に休息した


三坂神社
みさかじんじゃ
福岡県糸島市三坂
神功皇后は雷山登山前に休息した

五十迹手(いとて)が守り続けた高祖神社で戦勝祈願をしたあと、
神功皇后は雷山に向かいます。その途中の三坂神社で一行は休憩をしました。

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三坂神社は平野の中の微高地にあり、さらに急な石段を上って行きます。

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広い境内に大きな拝殿がありました。

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「三坂神社」と書いてあります。
聖地であり、氏子さんたちが集ってお祭りをするような風情です。

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拝殿から見える境内のようすです。

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「お。人面石。」

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祭神は埴安彦命、埴安姫命、豊受姫命です。
埴安(はにやす)の神は「土の神さま」で、豊受姫は「食べ物の神さま」です。
この糸島では甕棺がたくさん出土するので、その工人たちが祀る神社だったのかも知れません。

神功皇后たちがここで休息したという事は、甕棺製作集団の首長の屋敷があったのかも知れません。

福岡県神社誌から。
往古、神功皇后は雷山に登ること、数十日。また下山の時、当所にしばらく休息されたという。三坂と書くのは間違いで、古書にはすべて御坂と書いていた。
登山前に休息したのかどうか文脈がはっきしないのですが、
他の伝承では雷山登山前に休息したとなっています。
登山前後で休息したとも考えられますね。流れから考えて登山前は確実だと判断しました。
(小さなことですが、実は雷山下山後、天皇が突然亡くなるという
重大事件の伝承が糸島の宇美八幡宮にあるので、こだわっています。)

面白いのは、雷山に数十日滞在したのがここに伝わっていた事です。
山は涼しいので、夏場に避暑も兼ねたのかもと想像しています。

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境内からは前回の高祖山までの平野が見渡せました。
左から高祖山(416m)叶岳(347m)、王丸山(453m)でしょうか。
(糸島の方、間違っていたら教えて下さいね。)
目的の雷山は写真では右の山塊の方に行く事になります。

さて正面の山との間に丘陵地帯が見えます。そこには遺跡群があります。
平原遺跡、三雲・井原遺跡、伊都国歴史博物館などなどです。
伊都国の首長たちが活躍し、永眠した場所です。

五十迹手と神功皇后たちが生きた時代には
あの平原古墳の「日の巫女(みこ)」は生きていたのでしょうか。

彼女は周溝墓の中の割竹型の木棺に埋葬されました。(⇒平原遺跡
良く似た遺跡が辰韓(新羅)から弁韓(伽耶国)にかけての範囲で出ています。
彼女は新規渡来者だったのでしょうか?

彼女の古墳の周りには鍛冶道具が奉納されていました。鉄の民だったのです。
糸島の大形甕棺を愛好した人たちとはどんな関係を結んだのでしょうか。
神社伝承と考古学遺跡がつながると面白いですよね!

さて伊都国の王・五十迹手(いとて)の語源について眞鍋氏はこう語ります。(⇒シリウスの和名
シリウスの輝きの連想から、坩堝の達人を石上(いそのかみ)あるいは五十師(いそし)あるいは伊覩率(いとし)などと呼んだ。
「イソシ」とは「坩堝(るつぼ)の達人」という意味だそうです。
五十迹手について日本書紀はこう語ります。
仲哀天皇はイトテを褒めて「いそし」と言いました。これから、イトテの本国を名付けて伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。今、伊都と言うのは訛っているのです。
「いそし」は「いそいそしい」と訳されますが、
実は「いよ~。名人!達人!」というニュアンスだったのが分かります。
五十迹手は青銅の民か鉄の民の王のようです。
というのは、五十迹手がアメノヒボコの末裔だったのが分かったからです。

前回の宿題となった「筑前名所図会」に書かれていた一文。
五十迹手(いそとて)は高麗国意呂山より天降って来た日拝の苗裔であると筑前風土記に書いてある。
の訳ですが、高麗国を私は高句麗と訳しました。
高麗国は古くは高句麗で、新しくは高麗を指します。
この本は江戸時代のものなので、後者で、韓国ほどの意味だったようです。

解決したのはいただいたコメントからです。
「糸島郡史」に
天日槍(あめのひぼこ)は、まず、白羅(しらぎ)往来の要津たる伊都を領有し、ここに住して五十跡手の祖となり、更に但馬(兵庫県)に移りて但馬家の祖となった。雷山に存する神籠石は天日槍が築いた古跡である。
と書いてあることを教えていただきました。

五十迹手が新羅系だとすると、神功皇后とのつながりが深くなります。
末裔同士になります。
(雷山神籠石にも天日槍説が…。
仲哀天皇・皇后がそこに行った伝承があるのですが、これで理由付けが出来るかも。)

五十迹手と平原遺跡の「日の巫女」はどんな関係にあったのでしょうか。
神功皇后は彼女と面会したのでしょうか。
それとも生存期間は、ずれていた?

新たな謎が生まれながらも、少しずつ伊都国のようすが見えて来ました。
次回は雷神社へ行ってみましょう。

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観光案内で貰える「いいね、糸島」より。赤い丸が今回の話題になった場所です。

地図 三坂神社






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by lunabura | 2012-02-19 19:58 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

松尾宮と永岡八幡宮・神功皇后はお腹が痛くなった

松尾宮と永岡八幡宮
福岡県筑紫野市永岡587
神功皇后はお腹が痛くなった

ここは宝満川の右岸。筑紫野市の丘陵地帯に目指す松尾宮があります。
ここは二度目のチャレンジで見つかりました。
住宅街の中にあるので、わかりにくいのですが、隣に「永岡公民館」というよい目印がありました。

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分かりにくい原因はもう一つ。「松尾宮」は「永岡八幡宮」の中に合祀されていたんです。
地図で探す時は「永岡八幡宮」で探して下さい。
正面の鳥居にも「永岡八幡宮」と書いてあります。

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境内に入ると、この楠!! でっかいな~。
ここにはかつて城があったので展望も抜群です。背景の右に見えている山は宮地岳です。

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参道の正面にある拝殿は永岡八幡宮です。
まずはその由来を。
永岡八幡宮
祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫命
   応神天皇 第14代仲哀天皇の第四男。母は神功皇后。第15代天皇。
   神功皇后 いわゆる三韓征伐のあと、現在の粕屋郡宇美町で応神天皇をお産みになられた、と言われている。
  玉依姫命 豊玉姫命の妹で、初代天皇神武天皇の母。(以上は『日本書紀』による)
社格村社(明治5年に定められる)
由緒 不詳 当社がいつごろ建立されたかについては、分かっていませんが、古くから永岡村の産土(うぶすな)神として祭祀されていたようです。 (略)
八幡宮なので応神天皇が祀られていますが、皇后軍がここを通った記憶があって、
神功皇后も祀られ続けたのかも知れませんね。

さて、目指す「松尾宮」は、すぐ左にありました。

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これがその神殿です。

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カメラを挿し入れてみると、男神が祀られていました。
その由来が書かれていました。
松尾宮由来
祭神 大山咋命(おおやまくい)別名を山末之大主神という。大年神の子。須佐之男神の孫。
社格 無格社(永岡八幡宮の境内神社)
由緒 不詳 現在の地に祭祀されたのは大正9年で、それ以前は裏側の道路を隔てたお茶畑のある所にあったそうです。

江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記付録』には
「松尾宮 マツヲヤマ 神殿方5尺・拝殿2間三間半
           祭礼 6月29日・奉祀福生坊
産神也。大山咋命を祭る。鎮座の初詳ならず。社地に神木の松一株有り。」
と記述されています。

この本以外は、永岡村の産土神を八幡宮にしていますが、ここでは松尾宮が産土神となっています。

由緒は不詳ですが、明治初期に編纂された「福岡県地理全誌」には、
   村の北一町。木殿(きのどん)山の上にある。
   里伝に、大変古い社で、神功皇后が熊襲征伐の時、ここで腹痛したので、
   この神に祈られて癒えたと言う」(口語訳・るな)
と、その当時この地に残されていた伝説が紹介されており、松尾宮がかなり古い歴史を持つことをうかがわせています。

 この松尾宮の宮司をしていた「福生坊」は宝満山の山伏です。石段の上にある鳥居は福生坊が寄進したものです。安永3年(1774)の銘があります。 (略)
松尾宮の元宮はここから一町(約100m)北の木殿(きのどん)という山の上にあったのですね。
神功皇后が来た当時は大山咋命が祀られていた訳です。
神功皇后が腹痛を起こしてその神に祈ったというのですから珍しい伝承です。

熊襲征伐の時にここを通ったというので、どの時点で通ったのか、考えたのですが、
ここに立つと羽白熊鷲攻撃のルートは「中つ海」(ここでは古宝満川)の向こう側に見えました。
だから、ここは「津古」へ行く途中、田油津姫攻撃の時になるのが分かりました。

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これは神社のある丘陵から下りた所から撮影しました。
向こうの山々の麓を通って羽白熊鷲の拠点に行軍しています。
手前の田んぼが当時は海で、かつて層増岐野とも呼ばれていた所です。

左は宝満山。右は宮地岳
くるま座さんの調査で、どちらも三笠山だったことが分かりました。
確かに笠を伏せた姿をしています。現在は宝満山だけを三笠山と呼んでいます。

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境内を歩いていると、東側に「松尾宮」の鳥居を見つけました。
ここは入り口によって鳥居の名前が違ってますよ。

さて、神功皇后の移動ルートに戻ると、皇后軍はここから津古の湊に行き、船で老松神社に向かいます。

老松神社はすでに下記のページに書いています。
  http://lunabura.exblog.jp/16567541/

老松神社から南下すると赤司(あかじ)八幡神社に伝承が出て来ます。

次回は赤司八幡神社(久留米市)に行きましょう。

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地図 松尾宮(永岡八幡宮)







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by lunabura | 2012-01-08 23:07 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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