ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:(ヤ・ラ・ワ行)神社( 5 )

淀姫神社・豊姫はここで亡くなった


淀姫神社

佐賀県武雄市朝日町
豊姫はここで亡くなった


竹内宿禰を一カ月近く追って来たのですが、その途中、
配偶神の豊姫の死地に立つとは想像もしていませんでした。


私の中では、これまで、ずっと謎めいていた姫神だけど、
ここ武雄では豊姫の軌跡が濃厚に残っていました。

昨日、お話会を終えてなお、心に残り続けるのがこの姫神だったのです。

c0222861_21122511.jpg

ここは広い平野、石段は無く、石の橋を渡っていきます。



c0222861_2113518.jpg



c0222861_21173586.jpg

御祭神は淀姫命 ほか 六柱。

淀姫神社ですから、祭神が「淀姫」なのは当然なのですが、
境内の由緒書には思いがけないことが書いてありました。
「淀姫」とは「豊姫」のことで「神功皇后の妹」の事なのです。

淀姫神社の祭神は神功皇后の妹の淀姫命で、またの名を豊姫ともいい、朝日村の村社であった。
神社の創建のいわれは、神功皇后の朝鮮出兵の時、妹の淀姫が後をしたって武雄温泉に来られ、丸山の風景をながめ、長旅の疲れを慰められたという。
 皇后の旅立たれた後、淀姫は二十二歳の若さでここ川上の地で亡くなり、御霊を祀るため建てられたと伝えられている。

淀姫すなわち豊姫は姉を慕って武雄温泉に来て、のちここで亡くなったというのです。

わずか22歳。

年齢まで伝わっていたんですね。

姉の息長帯姫が皇后となった時、豊姫は13歳頃でしょうか。
姉は15歳ぐらいでしょうか。

これは『日本書紀』とは合わない想定ですが、
実は私はずっとこの年齢ぐらいではないかと思い続けていました。
昔の女子の適齢期は中学生ぐらいの年齢なんですね。

息長帯姫(神功皇后)が8年近く懐妊しなかったのは、
まだ幼い時に嫁いだからではないかという思いもありました。

昔は、年に二回年を取ったので、記事通りに三十代で嫁ぐことはなかっただろうとも。

古代は姉妹で嫁ぐ例も多いので、息長帯姫と豊姫は共に嫁ぎ、
のちに、豊姫は竹内宿禰に下されたのだろう、なんて想像もしてました。

この縁起には竹内宿禰の姿が見えませんが、武雄温泉にはその姿が見えています。

神功皇后三韓より凱旋の時、筑前にて御病臥、神諭あり「三日路の処に温泉あり入浴すべし」と、直ちに大臣武内宿禰を従え、御臨幸ありしと。
(佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告上巻)

神功皇后が筑前で病臥したというなら、産後の肥立ちが悪かったのでしょうか。
病気を押して武雄まで湯治に来ています。

るな的想像では、この時、豊姫も一緒だったのではないかと。
ところが豊姫も病に伏してしまい、竹内宿禰は豊姫に心を残しながらも、
皇后を守護し続けて、筑前へと旅立ったのではないかと。

そして、豊姫は一人で黄泉の国に旅だった。
「武雄市史」には、お付きの者が一人いたことが書かれています。





豊姫は志式神社や高良玉垂宮の縁起に、
海神から干珠満珠を貰った人として登場していました。


c0222861_2113529.jpg

私は、豊姫が竹内宿禰の妻だったということを聞いても
イメージが湧きませんでした。

しかし、古代の人はみんな知っていたのでしょうね。

私はここに来て初めてそれを得心しました。





c0222861_21142475.jpg




c0222861_21143973.jpg

ここは「がばいばあちゃん」のロケ地。



c0222861_21145792.jpg

水がとても豊かな所でした。



佐賀県武雄市朝日町中野10247






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-09-22 21:18 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(0)

若八幡宮 神功皇后が立ち寄った


若八幡宮
宮若市沼口195
神功皇后が立ち寄った


神功皇后のガイドブックの百社を選んだ後、どうしても伝承が確認できない神社がありました。

古い本に一行書かれていたのを調べ、参拝したのですが、宮の方は不在。
何度か電話をかけでも連絡がつかないので、別の神社にまで掛けました。

そこには石碑があったと教えていただいたので、再び電話をしてみても、
どうしても連絡が取れない。
未確認のまま本には出せないので、ついに断念。
図書館に行って、想定ルート上に伝承のある宮を調べる事にしました。

そして、『宮若町誌』についに伝承を見つけたのです。
それが、今日紹介する若八幡宮です。

昔、神功皇后が異国遠征のときにこの地に立ち寄った。そのゆかりの地に、保元二年(1157)九月二十四日、村人は力を合わせて神社を建立した。


こんな素朴な社伝に心ひかれます。

ただ、そこに存在する。
これこそ、「古代が、すぐ近くに息づいている」世界ですね。

神功皇后が通過しただけの神社は省いてもいいのではないか、と言われたのですが、
私にとってはそのような神社こそ宝です。

地図を広げて現地を探すと、何度もその前を車で通過している所だと分かりました。

c0222861_22135092.jpg

山口川の向こう。
近くの目印は工場が散見されるくらい。
その川の向こうに鳥居と灯籠がありました。
まっすぐ200m。

c0222861_22142015.jpg

それらしき杜(もり)。

c0222861_22144316.jpg

落ち葉が参道を彩っています。

c0222861_2215528.jpg

古木の間を通って境内に出ると、石垣の上に拝殿が見えました。

c0222861_22152546.jpg

氏神様の宮のようです。
御祭神は応神天皇 神功皇后 武内宿禰 ほか。
八幡宮の三柱目が珍しく武内宿禰ですよ。


c0222861_22155299.jpg

一目ぼれした古木。
名前が知りたい。

仲哀天皇と神功皇后が靡山(なびきやま)を見ながらゆるやかな勾配を下って来て、この川に出て来ました。

境内は川より少し高い地点。


c0222861_22162966.jpg

境内からわずか見える山々の稜線に、とても心が解放されました。
皇后たちもきっと同じ景色を見たことでしょう。

ちょうど、この正面辺り、わずか一キロの所に竹原古墳があるのです。
あの装飾古墳。

c0222861_22165193.jpg

馬を連れていた武人。ブーツを履いていたね。

仲哀天皇と神功皇后を迎えた時代から数百年たって、そこに眠る男。

歩いて15分。(川があるけどね)
どんな古代社会があったのでしょうか。
装飾古墳というものは何にもまして、驚きと真実を与えてくれます。

船に乗ってやって来た男。
もし、この武人がずうっと船に乗って来るとしたら山口川を遡って来なければなりません。
この川は遥か遠賀川に注ぎます。
ですから、玄界灘から岡の湊を通って来たことになります。
火を噴くドラゴンは夜空の星座だと、るなは確信しているんですがね。

竹原古墳(1)福岡県宮若市竹原 この優美な装飾壁画は通年公開!
http://lunabura.exblog.jp/15619249/

竹原古墳(2)日本の古墳に火を噴くドラゴンが何故描かれている?
http://lunabura.exblog.jp/15638086/

さて、仲哀天皇の一行は川を渡って、山口八幡宮に向かいます。
その後、いよいよ厳しい見坂峠を越えて福津市へ。
時は真冬。

車で走ると、途中、三か所ほど鳥居が見えます。
見坂峠のピーク付近とそれを挟んで前後二か所。
車が多いので止められないのですが、そこで一行は休息したのではないかと考えています。


若八幡宮
宮若市沼口195



「神功皇后伝承を歩く」 上巻 22 掲載神社


いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2014-01-24 22:21 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(0)

山口八幡宮・神功皇后はいよいよ見坂峠を越える


山口八幡宮
福岡県宮若市山口
いよいよ見坂峠を越える
 
仲哀天皇の一行は遠賀川流域から物部の里々を通って、
那の国への峠へと向かいます。その前に休息したのは山口八幡宮でした。

c0222861_2191244.jpg

山口川にかかる橋を渡ると大きな灯籠が迎えてくれました。
この先には九州自動車道のガードがあり、そのまままっすぐ行くと
数軒家が建っていて、それが終わる所に鳥居が真横に立っています。
右側を注意して見ていないと見逃しそうです。

c0222861_2193375.jpg

周囲は山と田んぼです。

c0222861_2194913.jpg

石段を上ると巨大なクスノキや狛犬たちが迎えてくれました。

c0222861_211053.jpg

拝殿は新築されたばかりのようです。

c0222861_21102474.jpg

神殿は昔のままの姿が残されていました。
二の鳥居の手前に由緒書きがありました。(現代語に改変)
山口八幡宮 由緒
鎮座地 福岡県 鞍手郡 …
御祭神 主祭神 応神天皇    
相殿 神功皇后 武内宿禰明治5年11月3日 村社に被定。
社説に曰く、昔、神功皇后がこの村を行幸された時、ここでお休みになった。それより見坂越え におもむかれ、遥かに海原を眺められた。

その後、延喜2年(西暦902年)9月9日。初めて小方隼人と言う人が皇后の行幸の例にならって八幡宮を建立する。今の宮所がこれである。

昭和7年9月9日鎮座1000年祭を執行する。詳細は宗像神社の末社記にある。
また筑前早艦および筑前国続風土記拾遺附録にも記述がある。年中数度の祭事がある。(略)
この宮の名前は「若八幡宮」から「八幡宮」という名に変わり、
今は「山口八幡宮」となっています。
祭神は応神天皇になっていました。
原文には延喜2年に「皇后の行幸の例に任せ八幡宮を」とあるので、
当時、神功皇后の行幸先が八幡宮に置き換えられて行った背景が伺えます。

c0222861_21115727.jpg

狛犬がいくつもありました。

c0222861_21121773.jpg

参拝を済ませた帰り道に山口川の橋から見坂峠方面を写しました。
見坂峠という地名の由来は
神功皇后がそこから初めて海を見た事から付いたと言われています。

この先は比較的緩やかな上り道になりますが、
下りは絶壁のような急坂となり、ヘアピンカーブが出て来ます。
冬はチェーン規制があるような所です。
その途中にも小さな鳥居が二か所ほどあり、休息所だったのかなと気になるのですが、
車が止められず通り過ぎるだけです。

c0222861_21125297.jpg

見坂峠からは今でも一瞬だけ海が見えます。ずっと向こうの水平線が分かりますか?
山道を歩き続けた一行は陽光きらめく海を見て
きっと嬉しかっただろうなと思われるような峠道です。

さあ、いよいよ那の国です。
香椎宮までのルート上に小山田斎宮や五所八幡宮があります。


小山田斎宮(Ⅰ)オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して
      (Ⅱ)オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して
      http://lunabura.exblog.jp/i3/


五所八幡宮 ムーミンの木に会いに来たよ
      http://lunabura.exblog.jp/i106/


地図 山口八幡宮






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-02-10 21:18 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(0)

若松恵比須神社・竹内宿禰は海の底に光る石を祀った


若松恵比須神社
北九州市若松区浜町
竹内宿禰は海の底に光る石を祀った 

洞海湾の入口に若松南海岸というレトロな港の風景が残る通りがあり、
そこから区役所の裏手に向かうと若松恵比須神社があります。

神社は境内の三方向から入ることが出来て、
車は右側から入って許可を受けて境内に止める事が出来ます。
ここへ向かう目印は赤い若戸大橋です。

c0222861_1794747.jpg

「若戸」の名は「若松と畑」の文字を組み合わせたもので、
前回の戸畑から若松に行くにはこの橋を通らずにはいられず、
こうして境内に立つと、神社の境内を削って出来たのかなあ、
お世話になってるんだなあと思いました。

c0222861_17102870.jpg

これは正面のようす。橋の下から撮っています。

c0222861_1710464.jpg

これは左側にある一の鳥居です。

c0222861_1711670.jpg

かつてはすぐ近くまで波が打ち寄せていたそうです。
埋め立てが進んでいますが、それでも海のそばに来た開放感があります。
砂利の色が蜜色で、海の砂のように丸いです。

c0222861_17113024.jpg

恵比須神社の名の通り、拝殿には恵比須様の絵が。
本来の名前は事代主(ことしろぬし)です。

「若松」と言う地名は竹内宿禰がかつての美しい松林を愛でた事から付いた名だそうです。
あるいは手植えしたとも言われます。
そう、竹内宿禰は仲哀天皇一行と一緒に来ているのですね。

立札があったので、由緒を読みましょう。
由緒
当社は約1650年前の創建と伝えられ、往古、仲哀天皇・神功皇后が熊襲征伐のため、筑紫の国へ行幸啓された折、洞の海へと向かう皇后の船が進まず、武将・武内宿禰が漁夫に海中を調べさせたところ、「海底に光る石」が見つかり、「是は海童(えびす)神の心なり」という天皇の仰せによって、神祠に祀ったことに由来する。

武内宿禰はその後、再び当社近くの美しい海浜を訪れ、若々しい松が連なる姿を愛でたことから、この地を「若松」と呼ぶようになったと伝えられています。
この由緒をもし3年前に読んだとしたら、あまりよく分からなかったのだろうなと思います。
今では、御馴染みの三人組という感じで、な~るほどという印象です。

前回の飛幡八幡宮で、
戸畑の北の海にあった千曳(ちえい)の岩を仲哀天皇が祀った話が出て来ましたが、
そこで天皇と皇后は別の船に乗り換えて、広い洞海湾の入口を渡ったのでしょうか。
皇后の船が進まなくなって、船を寄せると、海の底に光る石を見つけて、
それを恵比寿神(事代主神)として祀りました。それが御神体となっているそうです。
他にも伝承がいくつかありますが、海の中の石を祀ったという骨子は同じです。

このような由来から御祭神は
事代主命(ゑびす様)、武内宿禰命
大山咋神、大物主神(だいこく様)
天照大神、豊受大神、素盞鳴大神
となっています。
恵比須神社に日吉神社が合祀されたそうです。

c0222861_17133076.jpg

拝殿横には「若松」の名にちなんで松が植えられていました。

c0222861_17134789.jpg

これは境内社「笠森稲荷神社」。
御祭神は宇賀魂神、イザナギ、イザナミ神、椎根津彦神、猿田彦神

c0222861_1714687.jpg

もう一つの境内社「天満神社」
御祭神は菅原道真公、応神天皇、恵比寿幸魂
ここは交通の要衝だったのでしょう。
菅原道真公の伝承もちらほらと出て来ます。

c0222861_17142849.jpg

厳しい環境の中で御神木は命をつないでいます。

c0222861_17144519.jpg

珍しい方位石がありました。
境内の一角の波打ち際に置かれていたものを移設したそうです。
江戸時代末期のものと推定されています。

さてさて日本書紀によると、不思議にもここから天皇と皇后は別行動を取ります。
仲哀天皇は外海を通り、皇后は洞の海(くきのうみ)を通ります。
これについては、女性は波の穏やかな内海を通ったのではないかという説がありますが、
別の事情が見えて来ました。
さあ、次回からその航路を辿って行きましょう。
 

地図 若松恵比須神社









ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-01-29 17:19 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(2)

矢埜竹神社・皇后軍は矢の竹を切った


矢埜竹神社(田神社)
やのたけじんじゃ
福岡県朝倉市矢野竹
皇后軍は矢の竹を切った

矢埜竹神社は喰那尾神社から900mほどしか離れていません。
喰那尾(くいなお)神社は山の頂上にありましたが、
矢埜竹(やのたけ)神社は谷に下って行く所にあります。

ケンポナシの古木があるので有名らしいのですが、どの木かな。
c0222861_17285078.jpg

ガードレールの切れ目から入って数軒で目に入るのがこの巨木。これが神社の目印です。
このまま道を進むとすぐに突き当たるので右に曲がると境内の駐車場に出ます。

正面が何処か、よく分からず、きょろきょろして鳥居を見つけて
扁額を見ると「…埜竹…」という字が辛うじて読めました。

c0222861_17292412.jpg

このように時を経た物が好みなのでついつい写真を沢山撮ってしまいます。

c0222861_17353044.jpg

参道の長さはわずか10mほど。

c0222861_17295626.jpg

石灯籠が残っています。
石灯籠ってずっと昔の時代は一つだけだったそうですね。

c0222861_17302085.jpg

参道を終えて振り返るとこのように「下がり宮」になっています。
ここが「下がり宮」だというのは地元の方に教えてもらいました。
この特殊な形に特別な宮の思いがします。

c0222861_17303932.jpg

本殿です。

c0222861_17305222.jpg

本殿正面です。御祭神を隣家に尋ねたりしましたが、分かりませんでした。

この神社は何故か、あれこれと尋ねるのがはばかられて、
踏み込む気持ちになれません。

そして本殿の裏手に廻って驚きました。石の祠が真裏にあったのです。
隠れキリシタンのように、本殿でお参りすると
この祠を参拝するようになっていました。

c0222861_17311525.jpg

これがその祠です。
c0222861_17313971.jpg

神紋を見ると2本の矢が彫られています。「並び矢」です。

後で、紹介していただいた方に電話で尋ねると、現在ここは田神社というそうです。

羽白熊鷲の伝承がないかと尋ねたのですが、それは分からないという事でした。
皇后軍が竹を切って矢竹にしたという伝承は伝わっていました。
その特殊な竹は川の方、少し登った遺跡の所に今も生えているという事です。
遺跡がある?!と思ったのですが、具体的には尋ねそびれました。

矢は消耗品です。
皇后軍の兵士たちは矢じりだけは沢山所持していて、
矢竹は現地調達だったのでしょう。
矢に使える特殊な竹をここに見つけて、必死で矢を造ったのを
村人は見ていて、今に言い伝えたのではないかと思いました。

地図 矢埜竹神社









ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2011-12-19 17:36 | (ヤ・ラ・ワ行)神社 | Trackback | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー