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カテゴリ:弩(ど)( 2 )

やっぱ、弩じゃね




昨日は垣生(はぶ)神社の所の推敲をしていて、
壁画の男をもう一度見直した。



武人が立ったまま馬に乗って、矢を射ている壁画だ。


弓を持っているのに弦を引いていない、変なイラストだなと思っていたけど、
よくよく見ると、これ「弩」じゃない?

c0222861_2315255.jpg


真中に心棒があって、弓もかなり小さい。

c0222861_23154695.jpg

やっばり、弩だ。
中間市の歴史民俗資料館で見られます。

最近テレビで見たけど、秦の時代の弩(ど)は200m以上は飛んだという。
これは、衝撃。

羽白熊鷲が雑木山から矢で射られたという話があったけど、
射程距離が離れすぎていて、地元の人も変だと言っていた。
でも、弩が数百メートルも飛ぶなら、話が合う。

羽白熊鷲も、まさかあんな遠い所から矢が飛んでくるとは…。
と驚いたに違いない。

遠賀川流域の武人たちは
仲哀天皇がやってくると聞いて勇んで集まった。
きっとこの中間市の武人たちも参軍しただろう。
そうすると、この弩を持って朝倉まで行った可能性はかなり高い。
弩はきっと古墳時代より前に入っていた。

昨日はそんな事を考えました。
女神から武人と、話は飛びますね~。

ところで、羽白熊鷲と言えば、るなさん、いつもこの人を思い浮かべてしまうんだ。

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照英で~す。
そっくりでしょ。 (^-^)





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by lunabura | 2013-02-20 23:18 | 弩(ど) | Trackback | Comments(2)

弩(ど)弥生の出雲に弩が出土していた


弩(ど)
弥生の出雲に弩が出土していた
出雲・姫原西遺跡
 

平成23年の吉野ヶ里での「よみがえる邪馬台国―吉野ヶ里と出雲王国」で見たのは
弩(ど)の復元品でした。「おおゆみ」とも言い、
ボーガンとかクロスボウとかいうタイプの弓でした。
まさか、弥生時代の日本にこのような武器が…。
かなりショックでした。

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これは現代で販売されているクロスボウ。

出雲の姫原西遺跡から出土した弩の写真はこちら。
http://www.web-sanin.co.jp/orig/news2/9-0512a.htm

復元品はこちらです。
リンクに入ったら50音図が出てくるので、
「ド」だけを入力→リストを表示する→弩の復元品
島根県立古代出雲歴史資料館
http://www.izm.ed.jp/db/search50.php

比較すると基本構造は同じです。
臂(ひ)という木製品が銃の形をしているのも驚き。
人が持ちやすい形を追求すると時代を越えて同じものが使われるんですね。

ネットで調べると、出土のようすが分かって来ました。
場所 出雲市姫原町の姫原西遺跡 川跡とみられる堆積層
時代 弥生時代終末期(3世紀前期)の木製品
出土部位 ライフル銃の形をした臂(ひ)と呼ばれる弩の本体で全長91センチ
所蔵 島根県立古代出雲歴史博物館

この弩の出土により、弥生時代の戦争観がくつがえっていました。
(知らなかったよ。)
「3世紀前期」-これは仲哀~神功皇后の時代そのものです。
(4世紀説だと、さらに弩を使っていた可能性が高まります)

銅鐸や、その鋳型が吉野ヶ里と出雲の間で移動したように、
この弩が移動した可能性は高く、弥生時代の王たちが欲しがって、
神功皇后軍も所持していた可能性が出て来ました。

弩について中国では
戦国時代(紀元前5世紀~)斉の孫臏が弩兵1万を運用していた。
秦の始皇帝陵の兵馬俑坑から出土した。
唐の軍隊の約二割が弩を装備していた。

日本では
弥生時代 島根県 姫原西遺跡から臂(ひ)が出土した。
推古天皇紀 高句麗の使者が隋からの戦利品として弩を献上した。
奈良時代から各地を守る軍団の武器として二名に弩が配備された。

貞観8年(866)肥前国の一部郡司らが日本の国家機密である造弩法を新羅の一部軍勢に洩らして合同して対馬を奪取するという企てが事前に発覚して阻止された。
この流れから面白い推測ができます。

まず、徐福が佐賀県に上陸した時に弩を持って来た可能性がある。
徐福は秦の始皇帝から逃れて来たのだから、弩は当然知っているはず。
多くの技術を持って来たので、弩の製造法も含まれて、日本に伝えた?

貞観8年の「造弩法漏えい事件」を考えると
肥前国(佐賀県~長崎県あたり)では伝統的に弩を作っていた可能性がある。
(新羅と聞くと、磐井の君をついつい思い出す…)

弩の発射装置は青銅で作られるそうですが、
吉野ヶ里遺跡では鉄刀に青銅の持ち手を付けるような技術もありましたが、
この弩に関しては吉野ヶ里と限定せずに、肥前国全体に
弩を製作していた工房の存在を探してよさそうに思えて来ました。

弩は作るのも管理するのも難しいので、高度な技術集団がいたことでしょう。

実は弓矢については
忌宮(いみのみや)の仲哀天皇の話がずっと心に引っ掛かっていました。

新羅の塵輪たちが皇居を襲撃したときに、    
仲哀天皇はみずから矢で新羅の塵輪を倒した。

それを知って実は「え?」と思ってたんです。
仲哀天皇は弓矢が上手かった?
天皇は祭祀をする存在なのに、矢を射る訓練をしていたの?
弓矢なんかは簡単には射られないし、当たらないもの。
(まぐれ当たりか…。)

でも、この弥生の弩なら天皇でも射る事が出来ます。
忌宮の話がこれで納得出来ました。
秦の始皇帝の末裔の功満王が手土産に持って来たのかもしれませんね。

そして、羽白熊鷲が射られたのもこの弩ではなかったかと。

弥生時代についての認識が甘かったな~。とも思うのでありました。








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by lunabura | 2011-12-22 11:11 | 弩(ど) | Trackback | Comments(0)
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