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カテゴリ:赤司八幡宮・あかじ・久留米( 5 )

赤司八幡神社(1)筑紫道中のとよひめさん 記紀を補う縁起を紐解く


赤司八幡神社(1)
あかじはちまんじんじゃ
福岡県久留米市北野町赤司
筑紫道中のとよひめさん 記紀を補う縁起を紐解く 

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夏の陽が傾きかけた頃、赤司八幡神社に向かいました。
ここは筑後平野のど真ん中。
筑後川の向こうに耳納連山が見えています。連山の右端に高良山があります。

地図を見ると神社はすぐそこで、杜(もり)も見えるのに、道がそれて行きます。
たまたま三叉路にお巡りさんがいたので尋ねると、ニコニコして道を教えてくれました。
聞かなければ分からなかった。近づくと道は迷路のようになっています。
城跡だと後で聞いて納得しました。

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参道です。一の鳥居を過ぎた所です。

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筑後平野に沈む夕陽が長い影を作っています。

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拝殿前のソテツは珍しいです。

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拝殿です。参拝を済ませて境内を廻ると、
宮司さんが自ら境内を掃き清めてありました。
話が伺えた上に、古文献を集めた分厚い資料を知人がもらいました。

不思議にもその資料は三人の方から私の手元に形を変えて届けられていました。
その資料に目を通すと、これまでの多くの課題を解くヒントがありました。
そうだったのか。
こうしてブログで歩いて来たからこそ理解出来る内容でした。

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神殿に廻った時、「あれ?お伊勢さんと同じだ」と言うと、
宮司さんが「ここは八幡神社だけど、宗像三女神が祭神だからですよ。
天照大御神のお子神だからです。」
と教えてくれました。
「もとは、とよひめ神社でした。」とも。

「とよひめ」は豊比咩・止誉比咩・豊姫などと表記されます。
私はここでは止誉比咩と表記したいと思います。
豊姫と言えば、武内宿禰の妻、神功皇后の妹です。
ヨド姫はシリウスの化身であり、津波を教える女神。
それと区別つけるためです。

赤司八幡神社のいにしえの姿「止誉比咩神社」とはどのようなものでしょうか。
この筑後平野のど真ん中にどうして宗像三女神が祭られているのでしょうか。

ここに縁起があるので、「楢原猛夫本」を口語訳します。
筑後の国・止誉比咩神社の本跡の縁起の序をしるす。

筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。

いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。

天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田(かだ)の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。

大足彦(おおたらしひこ)天皇が来られて祭壇をたてて国乳別皇子(くにちわけのみこ)を天皇の代行者とした。この方が河北(こうこた)の惣大宮司・水沼の君の始祖である。

気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比咩神社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。

醍醐天皇の御代に誉田の神霊と武内の神霊と住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。  (後略)
いかがですか?
「まさか?」と思いましたか?「なるほど!」と思いましたか?
私は最初「まさか?」と思い、何度も読むうちに「なるほど!」と
思うようになりました。
この縁起には古代の筑紫を知る手掛かりが沢山含まれています。
しかも、このブログではおなじみの人ばかりが登場しています。

次回は縁起の説く世界を紐解いて行こうと思います。
   (つづく)

地図 赤司八幡神社(止誉比咩神社)





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by lunabura | 2012-01-14 14:39 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(6)

赤司八幡神社(2)三女神を祭る海北道中・水沼の君


赤司八幡神社(2)
筑紫中津宮の時代…ここは三女神を祭る海北道中だった
三女神を祭るのは水沼の君と宗像族とどちら?
 

筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。

いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。

こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。
今回は縁起の中の大きな課題である、ここが「海北道中」だという伝承と、
三女神を祭るのは水沼の君宗像族とどちらなのかという点について考えます。

記紀によれば、アマテラスは水の女神たちを筑紫に降ろしたとき、
「天孫を助けて、天孫の為に祭られなさい」と言います。その場所は「海北道中」です。
そして三女神をいつき祀るのは「水沼の君」と「宗像族」という二つの伝承が書かれています。

海北ということで、宗像市の宗像神社から沖ノ島を自然と想像しますが、
これは現代の地形の感覚から生まれたものです。
この赤司八幡神社の縁起はここが三女神の降臨地の一つで海北道中だと伝えます。
その点について、古代の地形から考えてみたいと思います。
宮が筑紫中津宮と呼ばれ時代の話です。

ありなれ川
福岡には忘れ去られた古代の海があります。
それが福岡の中央を貫流していた「ありなれ川」です。
「ありなれ川」とは「天の川」の意味で、
宇宙を流れる星の川を筑紫の中央を流れる巨大な川に見立てたものです。

各地を廻って昔の事を尋ねると、「昔はここは海だった」とよく聞く事がありますが、
「まさか、こんな内陸部まで。」と驚かされます。

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上の地形図を見ると、薄い緑色の平野に「入り海」の名残が見えます。
(県外の方は宗像の場所を確認しておいて下さいね。)

古代の人は博多湾から筑後平野へと船で移動することが出来ました。
ただし筑紫野の針摺(はりずり)は狭い上に、南北から違う波がぶつかっているので、
難所だったと思われます。

次の地図は「小郡市誌」から抜粋したものです。

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筑後川流域の入り海の様子が詳しく調査されています。
7世紀後半という事は斉明天皇が筑紫に来た頃ですね。
斉明天皇が朝倉の橘の広庭宮で急に亡くなったために、
磐瀬宮との連絡路をどうしたのか考察するために作られた資料だと思われます。

(よく見ると博多湾の方は、ざっと書かれている状態です。
また、堆積した平野部の島々も省略されています。
設定標高が高すぎるかな…。
この地図は古代の筑紫を考える為のタタキ台程度に見て下さいね。)

中つ海
「中つ海」とは「ありなれ川」の事です。
縁起では、この「ありなれ川」の流域を三つの地域に分けていました。

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赤い丸で示したように筑前、筑中、筑後の三つです。
その筑中の中央にある「筑紫中津宮」が現在の赤司八幡神社です。

さて、縁起では「海北道中」とはここだと伝えている点についてですが、
「海北道中」とは宗像神社の北の海だと思い込んでいるので、まずは驚きます。
しかし固定観念をはずして縁起の言う世界観を見てみましょう。

宮のあたりは「河北」(こうこだ)と言います。
ここは潮が引けば「筑後川の北」であり、
満潮になると「有明海の北」になる所なので、海でも河でもある所です。
「河北」とも「海北」とも言える地形です。

だから、「ここが海北道中だ」というのは問題ありません。

二つの島
この「筑紫中津宮」の祭神の三女神は「九州二島惣鎮守の神」と言われていました。

「九州の二島」というのは
「ありなれ川」の左右を「島」と見なした時の呼び方だと思っています。
右の島を右佐島(宇佐島)、左の島を左佐島(佐々島)と呼んでいました。
その名残の地名が大分県に宇佐、長崎県に佐々として残っています。

二つの島の中央部であり、かつありなれ川の中央部に
国を守る惣鎮守の神を祭るのは理にかなっています。
三女神は道主貴(みちぬしのむち)とも言いますが
古代の筑紫の交通の要衝にふさわしい名前でもあります。

こうやって調べて行くと、この赤司八幡神社の縁起は
かなり古い形態を伝えているものだというのが見えて来ました。

さて、ここに居たのは水沼(みぬま)の君です。
水沼は水間、三瀦(みずま)と表記されて地名にも残る事から、
筑中と筑後を統制していた氏族と思われます。
それに対して筑前にいたのは安曇族(あづみ)でした。

それぞれの海の干満の知識を知り抜いた海人族たちが住み分けしていたのが
筑紫中津宮の時代だったと思われます。

筑中の消滅
のちに筑中の地名は消えて筑後に吸収されて行きます。

筑中が消滅したのは、白村江の戦いで水軍が壊滅状態になり、供出した船と
成人男性の人口が激減したのが原因の一つだと私は考えています。
さらに筑後川の堆積によって海が消滅して舟運が不要になってきました。

そんな水沼族が新天地を求めるとしたら、ありなれ川を遡って博多湾に抜け、
安曇族とは競合しない宗像市の釣川に向かうのは妥当でないかと思うのです。

そうすると記紀に書かれた三女神を祭るのが「宗像族」と「水沼の君」という
の二種類の伝承は矛盾がなくなります。

二族は同族ではないか、「みぬまかた」が「むなかた」と変化したのではないか
と前に書きましたが、全く同じ論を唱える人がいたのを資料の中に見つけて、
今びっくりしている所です。

 (つづく)



ありなれ川についてブログ内散歩コース

高天原(1)志賀島の海に高天原があった(なぜ海の中に高天原がある?)
http://lunabura.exblog.jp/13654361/

(今読み返すと、よく分からない状態で書いているので、理解しにくいですね。
すんまっせん)

針摺の瀬戸と水城・古代、玄界灘と有明海はつながっていた・
http://lunabura.exblog.jp/16018354/

(これもレジュメなので、文章になってませんが…。)






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by lunabura | 2012-01-13 22:19 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(2)

赤司八幡神社(3)天の真名井と星の祭祀


赤司八幡神社(3)
天の真名井と星の祭祀

前回、縁起の前半を紐解いて、三女神が天孫を助けるために
この河北(こうこだ)の地に降りてきた事が分かりました。

今回はそのつづきを読みましょう。
天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田(かだ)の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。
「蚊田」というのはここの地名で、和名抄には「賀駄郷」と書かれています。
日本書紀には筑紫の「蚊田」が応神天皇の出生地だと書いています。
出生地については後で検討する事にして、
今回は「天の真名井と蚊田の渟名井」について考えて行きたいと思います。

この「蚊田の渟名井」は「益影の井」と言う名で残っていました。
神社から一キロほど南です。水はもう湧いていないそうです。
(大城小学校内だそうですが、まだ行ってません。)

「この渟名井に『天の真名井の一元(根源)の水』を降ろした。」という事は
天の水を地上の渟名井に降ろしたと言う、壮大で神秘的な話です。

「天の真名井」という言葉は神社や聖泉に付いているので
よくお目にかかりますが、星の名前でもあるのです。
「天の真名井星」と言います。いったい何の星でしょうか。

天の真名井とは北極星だった
眞鍋氏の本によると、真名井星とは北辰(北極星)の事だそうです。
その部分を解読します。(『儺の国の星・拾遺』p120)
中国では極光(オーロラ)の朱赤を「玄」「辰」と書いた。
「辰」は発音が「神」「眞」と同じ事から、「神」に通じた。
その色は天地の漆黒の闇の中に、火山の噴火の炎が赤く周囲を照らしだす色である。
また大地震で火炎が天に向かう柱となる凄惨な色が「辰」であり「神」だった。

北辰を真名井星(まないのほし)と言う。
「真」とは紫紅の色彩を言う。その紫は最高冠位の服の色になった。
「名」とは時代によって「土」を指したり、「水」を指したりした。

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写真のようなオーロラの赤い色を「玄」「辰」と中国では書いていました。
「北辰」とは北にそのようなオーロラが出ることを知っていて出来た字だそうです。
「辰」「神」「真」は同じ発音であることから、「真」で「赤紫」色を指すようになりました。

「真名井」とは宇宙の「神聖な赤色が出現する北の方向」と「水」を示す言葉でした。

これを踏まえて、もう一度縁起を読みましょう。
天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。
天孫降臨の時に、北極星の神水を蚊田の渟名井に降ろして、その水を供えた
という話になります。
実際には、泉に北極星が映り込んだ時、その水を汲んで供えたと言う事でしょう。

それを担ったのが三女神であり、巫女でした。
その巫女を水沼(みぬま)と言った時代がありました。(大善寺玉垂宮にて詳述)

私はこのような星の祭祀があった事が伝えられている事に感動しました。

当時の北極星は何だろう?
問題は北極星です。北極星は時代によって変わります。
天孫降臨の時代は何の星だったのでしょうか。
天孫降臨がいつなのか誰も分からないので、ちょっと困りましたが、
神武天皇が2600年前と言う事(らしい)ので、それより昔に設定してみます。

とりあえず3000年前頃と設定しておきましょか。
それというのも3000年前頃なら北極星は龍座のツバーンだと
はっきりしているからです。(理由がそんなもので済みません。)

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3000年前に筑紫に立って北極星を探すと、くねくねと連なる龍座が見えて、
そのしっぽあたりにツバーンが輝いています。
ずっと見ていると、ツバーンは不動なのですが、それを中心にして
ヘビのような龍座が左廻りにぐるぐる廻ります。

現代ならポラリスの廻りを小熊座や北斗七星がまわります。

この祭事は星が一番輝く新月の深夜に行われたのだろうと思います。

これで思い出すのは満月の夜に月の光を映しこむ神事です。
鞍馬寺のウエサク祭では5月の満月の夜、器に水を満たして満月を映し、
祈りを込めたあと、その水を人々に分かちあう神事がありますが、
同じ名前の祭事がアジアの各地に残っています。

味水御井(うましみずみい)神社大善寺玉垂宮でその可能性を探りました。
この筑紫中津宮でも満月に神事が行われたかもしれません。
どれもが水沼の君のエリアだからです。

ここは御井郡で、三井郡とも書きますが、語源は三つの泉から来ています。
一つは味水御井神社。もう一つがこの渟名井(益影の井)でした。
さらにもう一つ。逍遥しながら出会えたらいいですね。

水沼の君の神社の伝承を紐解く事で古代日本の祭祀が一つ分かりました。
う~ん。すごい縁起だ。

なお、赤司八幡神社には「竿例し」という特殊な祭事があります。
正月14,15日の夜、地上10尺の竿を立て、
月光によって生じる竿の影の長さを測って占象とするものです。
(現在は旧歴の正月14日の晩だけ行われる。)

これは日時計ならぬ月時計ですね。
満月は15日前後なので、竿の影を観測して正しい満月時を得たのでしょうか。
この辺りは誰か専門家の人、教えてください。

水沼族の満月と新月の祭祀。なんとしめやかで美しい神事でしょうか。

そして星と月があれば太陽があるはず。
近くに伊勢天照御祖神社があった事が記録されていますが、
それは所在不明になっています。
久留米のみなさん、見つけたら教えてくださいね~。
(つづく)





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by lunabura | 2012-01-12 22:02 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(20)

赤司八幡神社(4)景行天皇と猿大海と八女津媛


赤司八幡神社(4)
景行天皇と猿大海と八女津媛

さあ、縁起のつづきです。前回の話から数百年経ちました。
大足彦(おおたらしひこ)天皇が来られて祭壇をたてて、国乳別皇子(くにちわけのみこ)を天皇の代行者とした。この方が河北(こうこた)の惣大宮司・水沼の君の始祖である。
大足彦天皇とは景行天皇の事です。国乳別皇子は天皇の皇子です。
弓頭(ゆみがしら)大明神と呼ばれて、弓頭神社に祀られていて、
墓所もその近くにありました。(⇒弓頭神社)

その人が水沼の君の祖になったと書かれていますが、
水沼の君は古くからここにいたので、
婚姻関係が生じてから、貴種の末裔だと名乗ったと思われます。

景行天皇は神功皇后の2世代前で、やはり筑紫を中心として移動して、
戦いか帰順かという選択を各地で迫りました。
旧山門郡では、女王・葛築目(くずめ・くずちめ)が殺されたのが、
記憶に新しいです。(⇒老松神社と蜘蛛塚・みやま市)
同じ地で神功皇后は田油津姫を殺しています。

その景行天皇が福成神社では三女神を祭祀しました。
そして、この筑紫中津宮でも三女神を祭祀したと言います。
そのあと自分の皇子を代行者として残したのですから、
彼がここをとても重要視したのが分かります。ここは三女神を祀る中心地だったのでしょう。

景行天皇がここに来るまでの状況が日本書紀に書かれています。
7月7日に八女の県(あがた)に着きました。藤山を越えて南の粟岬を望みました。天皇は
「あの山の峰々が重なってなんと美しいことか。ひょっとすると神がおわすのではないだろうか。」と言いました。

その時、水沼(みぬま)の県主(あがたぬし)・猿大海(さるおおみ)が、
「女神がおわします。名を八女津媛(やめつひめ)と言います。いつも山の中におわします。」
と奏上しました。八女(やめ)の国の名はこれから起こりました。

8月に的邑(いくはのむら)に着いて、食事をしました。この日、料理人たちはウキ(盃)を忘れました。そこでウキを忘れた所を浮羽と呼ぶようになりました。今、的(いくは)というのは訛りです。昔筑紫の人々はウキを浮羽と呼んでいたのです。


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7月に大牟田から北上して八女を通り、8月に浮羽に行っています。
この筑紫中津宮は八女と浮羽の間にあるので、景行天皇はここに滞在したことでしょう。
ここには猿大海の住まいがあったと神社では伝えています。

猿大海は景行天皇に随行した時、八女津媛の話をしています。
実は私はこの姫の命運が心配でした。あの景行天皇が黙って通り過ぎたのだろうかと。
そう思っていたら、この宮の資料に八女津媛の名前が出て来ました。

「八女津媛は道主貴(みちぬしのむち)の陰魂の荒魂(あらみたま)という。」
道主貴とは三女神の事です。ここで祭られていて、ほっとしました。
(八女津媛を祀る八女津媛神社は矢部(やべ)に現存していています。)

なお、前回は書きませんでしたが、縁起では三女神が降臨したのは、
宗像、道中(筑中)、宇佐の三所だと伝えています。
ここに降臨したのは田心(たごり)姫だそうです。

田心姫と八女津媛は同じ神だという事になります。
水の神と言ってもいろんな側面があるので、女神たちの祭祀場所や名前を尋ねてみると
水沼の君の祭祀の全体が見えてくるかもしれません。

筑後川は「一夜川」(ひとよがわ)と言って、一晩で流れを変えるような暴れ川です。
恵みをもたらしながらも、畏るべき水。
それを司る女神たちを各地に祀ったようすが見えて来ました。
水の女神たちが水沼の君の祭祀の中心を成すのも納得できる地形です。
 (つづく)

追記
景行天皇が筑紫を巡狩する時、当社の祭神田心姫命の荒魂が八女津媛となって現れ、
水沼県主猿大海に神告があったので、
天皇は当社に行幸して田心姫命を道主貴として崇められた。 (大城村誌)




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by lunabura | 2012-01-11 23:40 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(0)

赤司八幡神社(5)神功皇后と蚊田宮と豊姫


赤司八幡神社(5)
神功皇后と蚊田宮と豊姫

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次に伝承が出てくるのは神功皇后です。
気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫を神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比咩神社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。
醍醐天皇の御代に誉田の神霊武内の神霊住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。  (後略)
三女神を祀る筑紫中津宮に神功皇后が訪れて、豊姫を天皇の代行者として残しました。
これは景行天皇に倣ったのでしょうが、
これがキッカケで止誉比咩神社という新たな社号となりました。

神功皇后はどの段階でこの宮にやって来たのでしょうか。
それはネットに出された「大城(おおき)村誌」で分かりました。
神功皇后が西征の途に於いて中つ海(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(かだのあんぐう)(稲数村)を建ててこれに迎えました。

皇后三韓退治後、ふたたび蚊田行宮に入らるるや水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。

皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名井の霊水を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。

皇后は縁故ふかい道中の当社に妹の豊姫命道主貴としてとどめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。
そのために当社を豊姫之宮と称するようになったが、神名帳には止誉比咩神社とあります。
旧大城村(おおき)は南へ約一キロ。益影の井がある所です。
伝承をまとめると、中つ海の中央に位置するこの地は船が付けやすい地形で、
江戸時代には米、その後は砂利を積んだ船が出る良港だったそうです。
今は護岸工事のために川の流れがすっかり変わっています。

古代には水沼の君の船が停泊して、有明海まで自由に往来していました。
神功皇后の時には蚊田に行宮(あんぐう)を建てて歓待しています。
軍船は小郡市の津古(つこ)まで迎えに行ったのでしょう。

この時代には国乳別(くにちわけ)皇子が統治していました。
仲哀天皇に熊襲が朝貢しないという情報をもたらしたのは
この国乳別皇子ではないかという考えを持つようになったのですが、
それに応じて仲哀天皇は小郡市までやって来たのに、急逝。

この先を案じていた時に、その皇后が戦いを続行するというのですから、
国乳別皇子も水沼族も諸手を挙げての大歓迎だった事と思います。

天皇と皇后を迎えるために造った蚊田の行宮跡は、
日比生(ひるお)という所にあるもう一つの豊比咩神社の近くにあったそうです。
かつてはそこに石碑が立っていましたが今は無いという事です。

田油津姫攻撃の途中なので、滞在は一晩だった事でしょう。
軍船は高三潴の弓頭神社を経由して、一気に田油津姫の根拠地の前を過ぎて下流に下り、
柳川市の鷹尾神社に大本営を敷きました。
この時、地元の人たちはごちそうと舞で皇后軍を迎えたという伝承は既に書きました。

神功皇后の足跡は新羅攻撃の後にもここに出て来ます。
安曇磯良(あずみいそら)が船長となった御座船は
大川市の風浪宮から久留米市の大善寺玉垂宮へ。
そこから再びこの筑紫中津宮へと戻ってきます。

この時、神功皇后は蚊田の行宮で出産したと縁起は伝えています。
その時に使った産湯(うぶゆ)はあの渟名井(ぬない)の井戸の水でした。

なるほどね~。
これなら行きと帰りと両方に神功皇后の名前が出て来ても矛盾がない。
と一人で納得するのでありました。

それから神功皇后は妹の豊姫を三女神の祭祀のために道主貴として残しました。
その豊姫の名から「筑紫中津宮」は「止誉比咩神社」と呼ばれるようになりました。
豊姫の墓所は近くの塚島遺跡にあると言われています。

「止誉比咩神社」は後にキリシタン大名の大友宗麟の害を避けるために
「八幡神社」と名を変え、水沼姓を藤原にしました。
さらに「屋わた八幡宮」と変わりました。
現在「赤司(あかじ)八幡神社」の正式名称は「八幡神社」です。

祭神
道主貴 三女神なり (みちぬしのむち)
止與姫命 與止姫命 息長足姫尊 (とよひめ よどひめ おきながたらしひめ)
相殿 八幡大神 高良大神 住吉大神


ブログ内の伝承散歩コース 
田油津姫攻撃の順路
老松神社(小郡市) ⇒ 赤司八幡神社(久留米市) ⇒ 弓頭神社 烏帽子塚古墳(久留米市) ⇒ 鷹尾神社(柳川市) ⇒ 車塚古墳(みやま市) ⇒ 老松神社と蜘蛛塚古墳(みやま市)⇒ 権現塚(みやま市) この先は佐賀県へ

新羅から帰国後の順路
風浪宮(大川市) ⇒ 大善寺玉垂宮(久留米市) ⇒ 赤司八幡神社(久留米市)


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さて、赤司八幡神社について五回ほど書きましたが、いつくか疑問が出て来ました。
解けません!二つの謎。いや三つの謎。みなさんのお知恵を借りたい!

一つ目の謎 豊姫は誰?
豊姫は神功皇后の妹だというのですが、まだ腑に落ちていないのです。
神功皇后の妹って誰だろう、実家を調べれば分かるかなと、
仲哀天皇と神功皇后が最初に一緒に暮らした気比の気比宮をネットで調べると、
妹の名前が出て来ました。虚空津姫(そらつひめ)でした。

虚空津姫を調べて行くと、神功皇后は虚空津姫を
広島県の福山市の沼名前神社(ぬなくま)に祭主として残していました。
現地では別名は淀姫だと伝えています。

二つの伝承を比較すると、神功皇后は妹の豊姫を赤司八幡神社に、
あるいは妹の虚空津姫を沼名前神社に置いてきた事になります。
妹が二人にもなってしまった…。

福岡県の八幡古表神社では虚空津姫の別名は玉妃命・豊比売命となっています。

そこで、視点を変えて、「豊姫は竹内宿禰の妻だ」という話を調べて見ました。

ネットを調べると、壱岐真根子に豊子という娘が出て来ました。
壱岐真根子は竹内宿禰と姿がそっくりで、宿禰の代わりに自害した人です。
両者の深い関わりから、豊子は竹内宿禰の妻ではないかという
気持ちがしてならないのです。豊子を豊姫と呼んだのではないか。
彼には子供が9人という事なので、妻は沢山いたことでしょう。

竹内宿禰は虚空津姫を妻にしたのでしょうか。
壱岐真根子の娘の豊子を妻にしたのが、豊姫と伝わっているのではないでしょうか…。

皆さんはどう解きますか?

二つ目の謎 出産地の蚊田は宇美八幡宮か?赤司八幡神社か?王子宮か?
八幡信仰の始まりである応神天皇の出生地なので、
何カ所かあるのは仕方ないなと思うのですが、何とかなりません?

三つ目の疑問 誉田天皇と応神天皇。
この二人は同じ人と言う事になっていますが、
天皇の諡号(しごうー死んだ後に付けられる名前)って、一人に二つも付けるんだろうか。
変だ~。怪しい~。
と思うのであります。

以上、皆さんのアイデアを教えてください、ませませ。

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当社に伝わる「竿例し」という特殊祭事については、下記に書いています。
http://lunabura.exblog.jp/18322463/

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by lunabura | 2012-01-10 21:38 | 赤司八幡宮・あかじ・久留米 | Trackback | Comments(2)
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