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カテゴリ:大分八幡宮・だいぶ・嘉麻市( 1 )

大分八幡宮・神功皇后はここで連合軍を解散した


大分八幡宮
(だいぶはちまんぐう)
福岡県飯塚市大分
神功皇后はここで連合軍を解散した
ここは筥崎宮の元宮


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大分八幡宮は遠賀川水系の奥まった所にあります。
そこから先は高い山々がそびえます。
福岡市方面から行くには山越えをしなければなりません。

車で神社に向かう広い道から最後の路地に入ると、
水量豊かな水路と、車が一台通る道がありました。

車道はすでに神社の外縁を通っていました。
水路側には人家が建ち並んでいます。
水路に架かった石橋がなんとも宮前らしい清浄な生活感を感じさせてくれます。

神社の入り口はその道の途中にありました。一歩入ると、ひろびろとした境内です。
平地にあるので、これまで訪れた神社とはずいぶん趣が違いました。

まず目に入って来るのが大きな楠。その堂々たる姿に驚かされます。
天然記念物で、樹齢350年だそうです。

鳥居をくぐると、左に白馬の像がありました。そして、正面には大きな山門が。
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朱塗りの山門にはこの辺りには珍しい仁王像などがありました。

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本殿です。

◇ 御祭神は?
この神社には
応神天皇、神功皇后、玉依姫の命
の三柱が祀られていました。
あ、また、この三人のセットだ。
応神天皇と神功皇后は子と母の関係、玉依姫は神功皇后の守護神でした。

八幡宮って、その三柱が当たり前なのですね。ようやく学習しました。ハイ。
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◇ 神社の由緒
由緒書きが石に彫られていました。読んでビックリ。
なんと、ここは神功皇后が立ち寄っているのです。え?また、神功皇后?
歴史書にはない伝承なので、ちょっとワクワクです。

その由緒書きを口語訳します。
御祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫の命(神武天皇御母君)

当宮は、神功皇后が朝鮮半島を攻めた後、粕屋(かすや)郡の宇美(うみ)村で応神天皇をご出産されてから、翌年の春、都にお上りの際、軍隊を引率されて、粕屋郡と嘉穂(かほ)郡の郡境にある、
険しい山「ショウケ越え」を通って、当宮について、しばらく留まられた所である。

ここで筑紫の行政をお執りになって、軍隊を解散された。

へえっ、ここを通って大和に帰った?
大分(だいぶ)という地名も大分(おおわ)かれという事から来たと言われるそうです。

◇ ショウケ越えの由来は赤ん坊をカゴに入れて運んだ事から
まず「ショウケ越え」とは、福岡市側から飯塚市に行くのに、
必ず通らなくてはならない峠の名前で、現代でも車で行っても難所です。

ヘアピンカーブの急勾配で、冬には凍結するのです。
トンネルが出来てから、すいぶん便利になりました。

西暦200年頃の道路事情はどうだったんでしょうか。
いわゆる登山道があっただけとしか考えられません。
この山道を駕籠や馬に乗ったままでは無理でしょう。
かなりの距離、神功皇后は徒歩で登ったのではないかと思いました。

しかも出産されてから翌年の春にここを越えたというのですから、伝承どおりだとすると、
応神天皇が一歳になるのを待って、しかも雪解けを待っての大移動となったという事です。

一歳になったばかりの応神天皇をどうやって連れて行ったのでしょうか。
なんと、竹で編んだ、ショウケ(小さなカゴ)に入れて運んだと言われています。
それが、「ショウケ越え」という地名の由来です。
そんな言い伝えが1800年経っても残されています。

そうやって、峠を降りて行って、ようやくほっと一息つける場所。
それが、この大分八幡宮のある所でした。車で移動しても、ほっとしたくなる所にありました。

◇ 連合軍の集合と解散
この境内はとても広いと書きましたが、ここは神功皇后の連れた軍勢が解散した場所でもありました。
見回すと、その広さはあの香椎宮と比較しても、遜色ありません。
何千と言う軍勢が駐屯するのに、水も十分にありました。

志式神社の所で書きましたが、彼女は福岡市の海岸近くで、軍衆会議をしています。
その近くの別の神社の伝承には、各部族の軍勢の集合地の跡だという所もあります。

でも、なかなか集まらないので、神功皇后は神事をしました。
すると、すぐに集まって来たと言い伝えています。

どこから、集まったのか。
それがこの宮の伝承から、この近辺の部族たちもそれに含まれると言う事が分かりました。

連合部隊のうち、遠賀川沿いの氏族たちの軍勢を引き連れて帰り、
ここでいよいよ解散したという訳です。

まあ、宇美神社から大分宮まで移動時間を考えると、徒歩隊でも、2,3日で充分でしょう。
さっきは何千人でも大丈夫だと書きましたが、よくよく考えると
本隊はすぐに帰したのでしょうね。
少数の精鋭部隊が残って、神功皇后の警護もしながら、一年を待ったのかもしれません。

◇ 神功皇后は陸路で大和に向かった。
宇美八幡宮から大和地方に向かうのに、海上ルートで帰れば簡単だったのでしょうが、
神功皇后は共に闘った彼らを送り届けながら、陸路で帰りました。

古事記の話を思い起こすと、この九州に遠征して来たのは、本来、熊襲討伐のためでした。
ところが、対戦相手が突然、新羅に変更になって、海を越えての戦争になったために、
集まった部族たちを納得させるのは大変だったと思います。

彼ら無しには戦えなかった。

そんな彼らを大切にした皇后の人柄が、慕われた理由の一つかもしれません。
いたるところに神としてまつられています。

夫の天皇の死は隠したまま、多くの武官文官をも引き連れての事です。
移動する都だったのです。よほど強い意志の女性だった事が分かります。

この宮からは先は、子供を抱きながら、帰る事ができたでしょう。
帰り道にも、彼女の伝承がいくつも残って、そこがそのまま神社となっています。

◇ 元宮としての大分宮
この宮は元宮です。枝宮は筑前の一の宮の筥崎八幡宮です。

この二つの神社は大変遠いので、いったい何故?という思いがずっとありました。
残念ながら、ここを訪ねただけでは、その事情が分かりませんでした。

くるま座さんに尋ねると、筥崎宮と大分宮を地図の上で結ぶと、
その線上に若杉山の頂上の磐座が来ると、教えてくれました。
新たな謎です。

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境内の池

◇ 白馬の謎

最初の写真に白馬の像が写っています。
参拝した時にはなんとも思わなかったのですが、前回、荒穂神社と馬見神社の関係を調べるうちに、
馬見神社には白馬大明神の伝説があるのを知りました。
この白馬と何か関係があるのでしょうか。

馬の像と言えば、ここより北の直方市の多賀神社にも馬の像があったのを思い出しました。
次回は馬の御縁で多賀神社に行ってみましょう。

大分宮を楽しむためのお散歩コース 

神功皇后と玉依姫の関係を知りたい ⇒駕輿丁八幡宮・宝満宮竈門神社                    
『古事記の神々』玉依姫

夫の仲哀天皇の崩御の事情を知りたい ⇒香椎宮
『古事記の神々』神功皇后


地図  大分宮  宇美八幡  ショウケ越え  筥崎宮

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by lunabura | 2010-03-02 15:31 | 大分八幡宮・だいぶ・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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