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カテゴリ:垂裕神社・すいよう・朝倉( 2 )

垂裕神社(1)秋月のとりに皇后軍の駐屯地「梅園の森」


垂裕神社(1)
すいようじんじゃ
福岡県朝倉市秋月野鳥
筑前の小京都・秋月野鳥
のとりたのふれに皇后軍の駐屯地「梅園の森」がある


今日から再び神功皇后の話に戻りましょう。
羽白熊鷲を攻撃する皇后軍が
いよいよ敵地の見える老松神社まで進軍したところまでお話しました。

伝承はこの後、秋月の城下町で見つかりました。
秋月は小京都と呼ばれるように、しっとりとした城下町です。
大人の秘密のデートスポットにお勧めしようと思ったのですが、
久し振りに行くと観光客が多くてびっくり。
「大人のデートスポット」と変更しましょ。

この町が神功皇后の伝承を辿ると全く別の表情を見せてくれました。

何だったっけ?
そうそう、デートコースでなく、「荷持田村」(のとりたのふれ)探しでした。

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秋月は車でしか行けないのですが、近くに有料駐車場が沢山あります。
車を止めてからメインの「杉の馬場」の通りを歩きましょう。
入り口のバス停です。(あっ。なんだ、バスが通ってるんだ。)
ここは「郷土館前」です。「野鳥(のとり)」は次のバス停ですね。
でも、この場所の地名を調べると「秋月野鳥」(あきづきのとり)です。

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すぐ橋を渡ります。

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この橋の名前が「野鳥橋」。(のとりばし)

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この川の名前が「野鳥川」。(のとりがわ)
とても水質がよくて、染色家がここに引っ越して染め始めたら、
一際美しく染まるようになったと言っていました。

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ずっと桜並木が続きます。今は初冬なので、葉も散りました。

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ずっと歩いて行きましょう。

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武家屋敷が見えます。

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そうして桜並木が終る所に垂裕神社の鳥居が見えて来ました。

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石段を上ると黒門です。
人気スポットなので、人が写らないようにするためにずいぶん待ちましたぞ。

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この黒門あたりに皇后軍の駐屯地「梅園の森」があると伝えています。
秋月城からここまでがフラットな地形なので、
もともと羽白熊鷲もこの辺りに居城を構えていて、皇后軍と一線交え、
敗戦して逃走した後に、皇后軍が駐屯したのではないかと思いました。

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この地図で見ると、左から右に歩いてきたことになります。
野鳥橋、杉の馬場、秋月城趾、現在地です。
そして右下に秋月八幡宮と書いてありますが、
皇后軍の次の陣営がそこにあります。

その秋月八幡宮に行く前に、この垂裕神社も見て置きましょう。(つづく)








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by lunabura | 2011-12-13 14:02 | 垂裕神社・すいよう・朝倉 | Trackback | Comments(0)

垂裕神社(2)黒田長興公を祀る宮だった


垂裕神社(2)
黒田長興公を祀る宮だった


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黒門から先の参道はゆるやかな勾配ですが、

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次に待つのは急で長い石段です。
自然石で作られたこの石段の起源は意外と新しく、
明治時代に士族たちが総出で作ったもので、「士族坂」と言います。

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かなり長い石段を上り終えると境内に出ました。

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山の中の神社です。とても緑豊かな所でした。
山の頂上部にあるので、光が射し込んでいます。

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拝殿正面です。

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明治時代に造営されたものです。

境内に由来書きがありました。
垂裕神社由来記 (すいようじんじゃゆらいき)
ここは旧筑前の国秋月である。
当社は垂裕大明神(秋月黒田藩 初代藩主 黒田長興公(1610~1665)を奉祀する。
長興公は福岡藩祖黒田長政の三男として生まれ、幼年より温厚 毅にして英明の誉れ高く、父長政公に愛されていた。

1624年(寛永元年)秋月黒田藩五万石の城主として入府する(公は14歳)

福岡宗藩と共に肩を並べて諸侯の列に就くことができたのは、長興公の偉大なる人物によるところが大であった。

1638年(寛永15年)島原の乱に際しては(公は時に28歳)幕命に従って諸藩と共に出陣。原城本丸攻略などに大きく戦功を挙げた。

1859年(安政6年)東陽院殿(長興公)の二百年祭典挙行にあたり、時の十代藩主長元公(土佐山内家より養子)は藩祖を祭神と仰ぎ、永く敬神酬恩し奉らんと勧請し、神号垂裕大明神を授賜された。

1873年(明治6年)この神社造営に当たっては、台地を開き道をつくり、旧御館裏の空谷杉や入府当時に植樹した丈余の老松が用いられた。又坂道の石段は士族の老若男女が総出でつくった故に士族坂と呼ばれている。爾来、祭神の英明にあやからんと遠近から参拝者多く崇拝の社となっている。

時がうつりて1947年(昭和22年)歴代藩主、島原の乱以降の秋月の乱、佐賀の乱、熊本神風連の乱、福岡の乱、西南戦争などに没した志士、国家の為に忠誠を尽くし、殉華なされし日清戦争、日露戦争、大東亜戦争などの戦没者、秋月町財政の功労者などの御霊が合祀さる。

参道の黒門は秋月氏時代(1202~1587)の古処山城の搦手門(からめでもん)であったものを、長興公の秋月城築城の際に大手門とし、明治になって現在地に移されたものである。(県指定文化財)
1999年10月
垂裕神社維持委員会
この神社は黒田長政の三男で、わずか14歳で城主となった長興公を
没後200年経って垂裕大明神として祀った社でした。
明治維新を経てここに神社が造営されました。
その時に士族たちが台地を開いて道を作り、士族坂を作っています。

この由緒書きにはもう神功皇后の名も羽白熊鷲の名もありません。
城が作られると、かなり広範囲に整地されるので、
弥生の遺跡も残っている可能性は低いでしょう。

この近辺に羽白熊鷲が居城を構えていて、
皇后軍と戦った事はもう時のかなたに消え去っていました。

しかし、砥上神社から松峡神社、大己貴神社、老松神社と、
点と点を結べば伝承がつながって行きます。
更にそれは羽白熊鷲の臨終の地へと続いて行きます。

ここがやはり日本書紀に書かれている「荷持田村」(のとりたのふれ)なんだ。
ここは少し前まで野鳥村でした。

そんな事を考えながら境内を歩いて見ると、
小峯のピークを整地しているのが分かります。
境内の端に立つと風が下の方から顔に当たって来ます。
ああ、上昇気流だ。
ここで羽白熊鷲たちは鉄の武器を作っていたのだろうか。
そうだとすると、武器が山積みされていた事だろう。

「攻めて来たぞ~!」
皇后軍が野鳥川を渡ってなだれ込んで来ると、
この村に住む人々はここを捨てて山城に逃げ込んだ。
皇后軍は案外簡単にこの地を手に入れのではないか。

決戦はここではなかったようだ。

敵が逃げ、まだ生活の跡のある黒門あたりに皇后軍は陣を敷いた。
残党を探してこの小ピークに向かう踏み分け道を上ると、
残された武器があり、兵士たちは歓声を上げた。
そんな想像がされました。

ここに神社を建てたときには
1000年以上も経っているので森に戻っていた事でしょう。
それでも熊鷲たちの整地した名残があっただろうと思いました。

そんな想像をしながら次の陣営地へと
私たちも追って行きましょう。

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地図 垂裕神社








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by lunabura | 2011-12-12 15:55 | 垂裕神社・すいよう・朝倉 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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