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カテゴリ:美奈宜神社・寺内・林田( 3 )

美奈宜神社(林田)(1)出雲の三神が神功皇后軍を助けてくれた


美奈宜神社(林田)(1)
みなぎじんじゃ
福岡県朝倉市三奈木4933
出雲の三神が神功皇后軍を助けてくれた

美奈宜神社は二つあります。今回は筑後川近くの美奈宜神社です。

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広い筑後平野の中です。西日が低い角度で射しこんでいます。

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赤くて瀟洒な山門が迎えてくれました。

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屋根のラインがシャープでかつふくらみがある、美しい形をしています。
屋根の色と赤い柵のコントラストもここちよいです。

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彫刻もまた素晴らしい。

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神前にお神輿がありました。そろそろお祭りでしょうか。

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神殿の裏に廻ると巨大なクスノキ。境内が広いので、さほど大きく感じないほど。
さて、この神社の由緒書きを読んでみましょう。
式内大社 美奈宜神社 略記
御祭神(出雲三神)大国主命(大国様) 
素盞鳴尊(すさのお・祇園様)
事代主命(ことしろぬし・恵比須様)
縁起 今から1800年前、父君景行天皇の教えにそって、仲哀天皇は皇后と熊襲を征伐されたが、不幸にも病にかかり崩御された。皇后はこの事を秘し、その根幹新羅を討つべく、出師(軍隊を出す事)の計画を立て、兵員を集め、兵船、軍器の準備を整え、神々を祭って本邦最初の外征に肥前名護屋から出征して行った。

この神社は出雲の三神が祀ってありました。
この由緒書きには少し独自の伝承が見られます。
仲哀天皇の父を景行天皇としている点。(日本書紀では父は日本武尊)
仲哀天皇は熊襲を討ったあと病死。(日本書紀では熊襲征伐前に崩御)
(これらについてはよく分かりません。)

「韓半島への出港地は肥前名護屋だった。」
これについては、久留米市の赤司八幡宮でも同様の伝承があり、
この筑後川流域の船団は佐賀県の唐津市の玄海灘側に集結したと考えられます。

 皇后は航海中船中で大己貴命素盞鳴尊事代主命の三神に戦勝を祈願された。海上つつがなく船は新羅の港に投錨し、上陸して戦端は開かれた。戦いは連勝し、三カ条をもって降伏し、大勝利を収め、高句麗、百済も来貢し、肥前、高橋の津に凱旋された。そのあと戦争に勝利を祈られた三神を祭られた。その神が美奈宜神社の三神である。

主な祭礼 1月1日(歳旦祭) 4月29日(春祭)7月30日(夏越、茅の輪)
 10月17日(神課祭)10月21日(おくんち)御神幸 
11月最終日曜日(新嘗祭)
県指定無形文化財(蜷城の獅子舞)おくんちに奉仕
弘化4年(1847)1650年祭執行
白鷺塚 三神奉賛の地は白鷺が羽を休めた所で、竹の叢生する片延字鷺塚一番地、白鷺塚である。  (一部分かりやすく改変)

神功皇后は航海中にこの出雲三神に戦勝を祈願して勝利を得たので
白鷺の止まった竹の生えていた所にこの三神を祭りました。
それがこの美奈宜神社の始まりです。

皇軍の帰港地が肥前高橋の津になっています。
(この場所ごご存知の方教えてくださいませ。)

話によると、唐津から有明海は船で往来が出来るとか。
モーターボートでそのまま通る事が出来るそうです。
大川市の風浪宮では外海を通って帰るルートを推定したのですが、
多島海の時代は、けっこう大きな船も通ったのかな。
(これも詳しいルートが分かる方教えてください。)

さて、神功皇后が出雲三神に祈った話ですが、「福岡県神社誌」を見ていたら、
また少し違う伝承が出ていました。
神功皇后が新羅を討征する時、船の中で大己貴命、素盞鳴尊、事代主命の三神に将軍の治要を祈られ、異賊を討ち平らげ、肥前国杵島郡高橋の津に上陸した時、素盞鳴尊などの神助により、山の中に薬湯を見つけ、軍兵の創傷を治療し疲れを癒したので、皇后は「あな嬉しや」と言ったので、ここを嬉野村(うれしの)と呼んだ。

皇后は凱旋の途中、三神の垂迹の地を定めようと白鷺が降りた所で祈ろうと放つと、下座郡の大沼の竹が生えた所に鷺が宿ったので、皇后は摂政として治世した時にここに宮を作った。

(治要とは国を治める最も大切な事柄という意味。)
「嬉野(うれしの)」といえば「嬉野温泉」で有名ですが、その始まりは帰国後の
兵たちの傷を治すために出雲の三神の神託で温泉を見つけたという事なんですね。
(意外な所から意外な語源が出て来ました。地元ではどう伝えているのでしょうか。)
ここでは出雲の神々は病を治す神としての働きでした。

で?
神社に書かれていた由緒は羽白熊鷲攻略とは関係ありませんでしたね。
ここにはもう一つ伝承がありました。
それは美奈宜(みなぎ)という言葉に込められた伝承でした。 (つづく)

地図 美奈宜神社









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by lunabura | 2011-11-16 22:10 | 美奈宜神社・寺内・林田 | Trackback | Comments(2)

美奈宜神社(林田)(2)一夜で蜷が城を作った・羽白熊鷲を挟み打ちか?


美奈宜神社(林田)(2)
一夜で蜷が城を作ったという伝説
羽白熊鷲の拠点を挟み打ちにした?


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もう一つの伝承です。
蜷城(ひなしろ)の名の由来
昔むかし(約1800年前)古処(こしょ)の山から見下ろした里には筑後川が流れ、よく土地の肥えた豊かな村がありました。

 しかし、古処の山には羽白熊鷲という悪者が住んでいました。時どき山をおりてきて、村人を苦しめました。村人は本当に困りました。
 神功皇后が九州におみえになったとき悪者退治をお願いしました。

 皇后さまは神様にお祈りされて「この潮干玉を使って川の水をからにし、川蜷にたのんで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って一度に水を入れ、水攻めにして滅ぼしなさい。」とお告げになりました。
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 皇后様は川蜷を呼んでたのみました。一晩のうちに立派な城ができました。羽白熊鷲がせめてきましたが、水攻めにあい、滅ぼされていましました。
 
 このあと、村は静かな平和な村となりました。神功皇后様は神様をお祭りするお社を建てようと思われ、一羽の白鷺をお放ちになりました。「白鷺の降りた所にお社を建てたいと思います。どうぞその場所をお示しください。」と申されました。

 白鷺は空に舞いあがり、筑後川に沿ってしばらく飛んだ後、こんこんと清水の湧きでる所に舞おりました。

 皇后様はそこを白鷺塚と命名されその近くに神様を祭るお社と建てられて、美奈宜神社(蜷城(みなぎ)=美奈宜)と呼ばれました。また川蜷が守ってくれた村里をニナシロと呼びました。ニナシロがだんだんなまってヒナシロとなりました。

蜷城の守り神として美奈宜神社は今もみんなを見守って下さっているのです。
(宗像大社、美奈宜神社の縁起より記す)
平成13年1月1日 蜷城地区振興会 (一部改変)

c0222861_23352122.jpgこの伝説では「川蜷(かわにな)と干珠満珠」が大活躍です。
羽白熊鷲との戦いの戦術として、これらの伝説的な要素から骨子を抜き出すと、
   一夜で城が作られた。
   水を利用した戦術が立てられた。
という事になります。

そこで、るな的に考えた。
神功皇后の本隊は大己貴神社辺りにいるのですが、川を遡るために
敵の目をそらしたのではないかと、前に書きました。

そして、この美奈宜神社の伝説から推測したのは
ここに水軍たちが夜中に集結して、一晩で陣営を築いたのではないか
という事です。

夜明けとともに平野部に突如現れた陣営。
「まさか。佐田川の河口に?」熊鷲はそう思った事でしょう。

小石原川から敵が攻めてくる事を前提に戦術を練っていた羽白熊鷲は
佐田川への対応を迫られて急いで軍を二手に分けた。
そして精鋭隊に敵陣を攻撃させた。

この時水攻めがあったとすると、
水軍は川の水を堰き止めて敵の通れる道をわざと作り、
敵が攻めて来た所で堰を切って川の水を流した。
そんな戦術を考えて見ました。

皇后軍は挟み打ちにする作戦だった。
こうして、野鳥(のとり)あたりの熊鷲の陣営が佐田川の敵に対応する隙を狙って、
本隊は一気に小石原川から攻め込んだ。

ま、るなの想像しうる素人戦術ですが…。次回は皇后軍の本隊に戻りましょう。

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by lunabura | 2011-11-15 23:39 | 美奈宜神社・寺内・林田 | Trackback | Comments(2)

美奈宜神社(寺内)神功皇后は神々に戦勝を奉告した


美奈宜神社(寺内)
みなぎじんじゃ
福岡県朝倉市荷原2421
神功皇后は神々に戦勝報告をした

羽白熊鷲との戦いの後、次に神功皇后の伝承が出てくるのは
熊鷲の塚から約一キロ下った美奈宜神社です。

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佐田川にかかる橋を渡ると一の鳥居です。

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これは橋からの眺め。
神功皇后がこの川を「みな清し」と言ったことから
「美奈宜」(みなぎ)と付いたと言います。

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砂利が敷き詰められた明るい参道の向こうは森の中。

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石段を上ると神門がありました。
かつては神官・僧侶が36人も仕えていたそうです。

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少しずつ森が深まって行きます。
山の中に池があって、ようやく神殿が見え始めました。

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拝殿です。ちょうど工事中でした。

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それで幸運にも御神体を象徴する御幣がすぐ目の前に置かれていていました。

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ここは山あいの宮なので、どれもこれもが苔むしていて美しいです。

この宮にも神功皇后の伝承がありました。
由緒書きを写します。
式内 美奈宜神社
祭神 天照皇大神 住吉大明神 春日大明神 
   相殿 神功皇后 武内宿禰 をあわせ祭る

由緒
第14代仲哀天皇は白髪山(しらがみやまー古処)を本城とする敵「羽白熊鷲」を討つため軍を進められていたが、途中病気で急逝、しかし神功皇后は喪を秘して武内宿禰らを従えて喰那尾(くいなお)山頂(ここから北西200m)の地で陣を敷き謀議の末、賊を討たれた。

これはお告げをうけた三神の助であるとして美奈宜川上「池辺」(ここから東へ300m)の地で戦勝奉告をされた。
後に仁徳天皇(神功皇后の孫)の勅願により「池辺」にこの神を祭るようになった。(西暦312年頃)後世ここを「本宮」という。

遷宮
1.大宝元年旧9月22日(西暦751年)喰那尾山頂の陣跡へ。
2.元弘3年(西暦1333年)大宮谷(ここから100m上)へ。
3.天正2年11月(西暦1574年)領主秋月種実の頃現在地へ。神領50町。神官・僧侶36人仕えていた。

社格 
貞観元年正月27日(西暦859年)「従五位上」という位を給う。これは「三代実録」の文中に見える。また延喜式10巻神名帳(西暦920年頃の書)に「筑前国下座郡美奈宜神社三座」名神大と記載あり。

祭礼
10月22日の「おくんち」には獅子、羽熊等お供約200人の御神幸行列が今なお行われている。

これまで羽白熊鷲攻撃のルートを辿ってきましたが、
この由緒書きでおさらいすると、
仲哀天皇は羽白熊鷲を攻撃しようと小郡市の御勢大霊石神社を本陣として
中つ海(筑後川)を挟んで羽白熊鷲に対峙し、
前哨地を視察する途中に熊鷲軍の矢に倒れました。

その死については病気説がありますが、実情は戦死で、
不名誉なために病気で急逝という事になったのではないかと考えるようになりました。

その後神功皇后は小山田斎宮で祟った神を明らかにして、教えのままに祭事を済ませ、
仲哀軍を率いて陸路を進軍して本拠地の秋月野鳥(のとり)を攻撃、
逃げる敵を追って喰那尾山頂を奪取。(喰那尾神社=美奈宜神社本宮)
そこに神籬(ひもろぎ)を作って神々に戦勝を祈りました。

その神々の名がこの美奈宜神社に書かれています。
天照皇大神 住吉大明神 春日大明神 の三神です。
この三神は小山田斎宮で神託を受けた神々だと伝えています。

参考として小山田斎宮の祭神を挙げると
天照大神 健布都神 事代主神 住吉三神 息長足姫尊
天照大御神と住吉三神が共通しています。

これまでの神功皇后の祭祀の仕方を見ていると、
いつくかのパターンがあるのが分かってきましたが、その一つとして、
「援助してくれた氏族」の神を祭祀するという事があります。

この山の中に神道の中核を成すような三神があるのは、
それらが「連合軍たる皇后軍を形成する氏族」の神々で、
それを祀る事で連合軍への感謝を皇后は示した結果だと考えています。
この祈りが武人たちの心を掴む事になったんだなとも。

興味があるのは、小山田斎宮の神々が仲哀天皇を殺した祟り神であって、
十分に祭祀したお蔭で守護の神となった点です。
祟り神は祭祀する事で味方に付けることができました。

そう思いつつ、実は何故、天照大御神が仲哀天皇に祟ったのか、
その謎を抱えて、ずっと歩いているのです。
まだ手掛かりを掴めていません。

遷宮について。
由緒を読むと神社はあちこちに遷宮しています。
元宮はどこだろう?
もう一つの美奈宜神社と関係はどうなっているのだろう?
そんな疑問を持っていました。
はじめはよく分からなかったのですが、現地に行き神社にお尋ねして見えて来ました。

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現在の美奈宜神社の300mほど上流の「池辺」で神功皇后は神籬を立て、神を招いて戦の勝利を奉告しました。のちに仁徳天皇の勅願で神社となりました。(本宮、元宮)
751年、「喰那尾」山頂に遷宮。(栗尾山)
1333年、山頂は暴風雨が多いために「大宮谷」に遷宮。(中宮)
1574年、中宮は境内が狭くて陰気なため現在地「荷原」に遷宮。

という事です。

それでは、二つの美奈宜神社の関係は?
同じ朝倉に二つの美奈宜神社がある事について、結論を言えば、
二つの美奈宜神社は全く関係なく、名前が同じなのは偶然だそうです。

荷原(寺内)の美奈宜神社は皇后が「みなきよし」と言った事から付き、
林田の美奈宜神社は「になしろ」(を作った)から付いた名だとか。
祭神もそれぞれ違っていました。

これですっきりしました。
林田の美奈宜神社については既に詳述しているのでサイドバーからどうぞ。

それでは次の伝承地に行って見ましょう。

地図 美奈宜神社




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by lunabura | 2011-11-14 15:22 | 美奈宜神社・寺内・林田 | Trackback | Comments(5)
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