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カテゴリ:宇美八幡宮・うみ・糸島( 5 )

宇美八幡宮(5)支石墓に埋葬された縄文系在地人から考えた


宇美八幡宮(5)

支石墓に埋葬された縄文系在地人から考えた

長野宮ノ前遺跡

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これは宇美八幡宮の一の鳥居からの眺め。大好きなショットです。

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この神社の参道は川から始まるのですが、支石墓はその近くに移設されています。

先日購入した「倭国創生」の図録を読んでいると、この遺跡のことが書かれていました。
「最古の戦死者たち」
(略)
さらに、長野宮ノ前遺跡では24基の木棺墓が主軸を合わせて整然と横並びに埋葬されていて、短期間に埋葬されたことをうかがわせる。その多くには頭部に赤い顔料が塗布され、二基の木棺墓から切先や茎が欠けた石鏃(せきぞく)が出土し、これらも副葬品ではなく体内に残存したまま葬られた可能性が高いと考えられる。
(略)

この遺跡の人たちは日本の歴史の中でも最古の戦死者たちだそうです。
武器は石器。
その切っ先が折れてしまっています。
12号からは刃渡り16.3cm近くの石鏃が出たのですが、
胸に2本、止めを刺すように交差していたそうです。

戦いが終わってムラに運ばれて、丁寧に葬送の儀式をされたのでしょうか、
頭に朱が塗られていたといいます。


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驚いたのは、彼らは木棺に埋葬されていたということです。
しかも、24基が野外墓地のように整然と並んでいます。
この多数の木棺はすでに準備されていたのでしょうか。
木棺って、急に作れるようなものではないですよね。24も。

大量の木棺を加工する技術があり、一般兵(?)にも使用したとなると、
かなり高度な文化があったということになります。

この長野宮ノ前遺跡の時代が書かれていなかったのですが、
前後に紀元前4~500年の遺跡の記述があったので、
これもその時代の物と評価されているのでしょう。
現地説明板では紀元前300年となっています。


この当時、宇美八幡宮は祭祀されていたのでしょうか。

竹内宿禰がここに香椎から棺を持って来て埋めたのが紀元200年ごろ。
その末裔がそのまま留まって祭祀していますが、
この支石墓の人たちはさらに500年以上も前の人たちです。

遡っていく弥生時代
弥生時代は研究が進むにつれて、だんだん古代に遡っています。
かつて弥生時代は紀元前3世紀頃(初期)から始まったと言われていたと思いますが、
もっと早くから稲作をしている遺跡が見つかり始めてから、
今では紀元前5世紀ごろから弥生時代と言われているのではないでしょうか。
(もちろん紀元前10世紀説もあり)

そこで、従来の「初期・中期・後期」という分け方に「早期」が追加され、
「早期・初期・中期・後期」と四時代に区分されているようです。
具体的に何世紀なのかは学者によって違うという問題があり、
一般人には弥生時代が理解しにくくなっています。

中国正史と比較して学びたいとき、このアバウトな分類が、私にとっては大きな壁となっています。
世界に通じるように、「何世紀」という表現をするようになってほしいなと願っています。
あるいは、本や案内板には必ず何世紀と書いてほしいなと思っています。


さて、「倭国創生」に戻りましょう。つづきを読みましょう。

支石墓の下に縄文人が!

このように、糸島地方の早・前期の墳墓では、戦いの痕跡をとどめた墓が多く発見されていることがわかる。糸島地方では、弥生時代初期の戦いの事例が集中していることは従来から指摘されていうところであり、弥生文化が、この地において様々な軋轢の中で根を張り、拡大していったことを物語っている。

しかし戦いの対決軸が、縄文的な旧勢力 対 渡来系新興勢力といった単純なものではなかったことは、先の新町遺跡の戦死者の墓が端的に物語る。

その戦死者は、支石墓に埋葬されていることから、稲作文化を将来した渡来系であるはずであったが、出土人骨から推定される人物は在地の縄文系であった。戦いの本質についての研究は、まだ緒に就いたばかりといえる。


これを読んで驚いたのが支石墓の被葬者の問題。
新町遺跡の支石墓に埋葬されていたのは渡来人ではなかった!
「縄文系の在地人」だったというのです。
この名称、「縄文人」と簡単に言っちゃいけないのかな?(どう違うんだろう)

実は、支石墓と言えば被葬者は渡来人、と当然のように言われることについて、
博物館でも疑問を投げかけたことがあります。
「どうして、支石墓の被葬者は渡来人と言えるのですか?」
「それは朝鮮半島に支石墓が沢山あるからです」
「???」

この論法は一般人には、あまり説得力がないなと思いました。

定説では「文化は半島から日本列島に流れている。逆はない。」
というのですが、どうやって証明されたのだろうかと常々疑問を持っていました。

『日本書紀』を読むと、倭人が何度も何度も朝鮮半島に渡っているので、
だんだん違和感が出て来たのです。

どれもこれもが渡来人なら、倭人はどこにいる?
そんな疑問、土井ヶ浜ミュージアムでお話しましたね。
(土井が浜は中国の一地方とDNAが一致したらしい)

だから、支石墓の下には縄文系在地人が埋葬されていたという結果には得心が行きました。

天津神と国津神
コノハナサクヤ姫は国津神、ニニギの命は天津神。
そんな二人の出会い。
一夜を契っただけで、同居していなかったという状況からすると、この糸島に、
国津神のムラと天津神のムラがそれぞれあったと考えられます。

両族は戦いや通婚などいろんな形で融合して行った。
だから、本に書かれた、糸島での「戦いの対決軸が、
『縄文的な旧勢力』対『渡来系新興勢力』といった単純なものではなかった」
と書かれていた点にすごく納得しました。


あの細石神社三雲南小路遺跡を祭祀した施設で、その墓に埋葬された王と王妃が
地元で言われるようにコノハナサクヤ姫とニニギノ命の墓だとすると、時代はいつか。
墓の年代から割り出す事ができます。

それは前述の本では「弥生中期」となっていました。
いったい何世紀だろうか。
こうして るなの思考はストップするのです。
(一説では金印・西暦57年より少し前らしい)
キリストの時代?

大山津見一族はその時代に糸島にいたと仮定することになります。
(るなには、さくや姫とニニギノ命が一緒に埋葬されている気がしないので、
三雲南小路遺跡には大山津見命が祀られていると今のところ仮定しています。
しかし、大山津見命はもう少し古い時代の気がする…)

一方、天孫族は福岡の中だけで考えたら、南から北へ移動しているように見えます。
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というのは、系図を見ると、天孫族は最初に高木の神一族と通婚していますが、
高木の神といえば、高良山周辺や英彦山周辺が中心でした。
天の忍穂耳は英彦山や宝満川沿いに祀られています。

その後、糸島の大山津見一族、志賀島・壱岐島の綿津見の神一族となると、
北上しているように見えるのです。
これは、今までのイメージと正反対なので、とまどっています。
どうなることやら。

糸島の遺跡の中に、あるいは神社の伝承に、
コノハナサクヤ姫とニニギの命の時代を再現できるのでしょうか。

神話でなく歴史を求めて、この美しい伊都国をもう少しさまよいたいなと思うのでありました。


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(宇美八幡宮)

地図 宇美八幡宮 細石神社








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by lunabura | 2013-12-17 21:59 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(2)

細石神社(6)ニニギの命を探して、再びの宇美八幡宮・気比大神・天日鉾


宇美八幡宮(4)

ニニギの命を探して、再びの宇美八幡宮
気比大神・天日鉾

再び、伊都国に戻って来ました。

磐長姫木花開耶姫の姉妹神が細石神社辺りに住んでいて、
その皇子・彦火々出見命が宮の傍で生まれたとしたら、
夫君のニニギの命の宮はいづこ?

あの高祖山にその名が無いので、伊都国の他の宮から探してみることにしました。

取り出したのは「神功皇后伝承を歩く」の原稿。
自分で自分の本を参考にしたのですが、これが一番便利 (・.・;)
手前味噌というやつですな…。
(あと少しで皆様のお手元にも…)

それで近場(ちかば)を探して出て来たのが宇美八幡宮
むむ。ここか…。

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宇美八幡宮は福岡には二社あって、応神天皇の生誕地とされる宇美町の宇美八幡宮と
この糸島市の宇美八幡宮があります。
この両者には深い関わりがありましたよ。
ガイドブックにはそんな話も織り混ぜています。


ところがどっこい、この糸島の宇美八幡宮はとても謎が多い。

ガイドブックで100社紹介する中で、99社までは整合性があったのですが、
この糸島宇美八幡宮だけは異なる伝承があって、どこに位置付けたらいいのか
悩んだ宮でもあったのです。

何度か電話でも尋ねて、親切に教えていただいたのですよ。
それでも、謎は沢山残りました。
糸島で、この宮の謎が解ければ、古代史の深い謎が解けると思ったほどの宮でした。

今回、木花開耶姫の夫君の宮探しで、再登場するとは…。

祭神を見てみましょう。

祭神
[上宮] 仲哀天皇
[本宮] 応神天皇、神功皇后、玉依姫、瓊々杵尊、気比大神、菅原大神

当宮は上宮と本宮では祭神が異なっています。

本宮の六柱から八幡神(応神天皇、神功皇后、玉依姫)と、平安時代の菅原大神を差し引くと、
ニニギの命気比大神が残ります。


気比大神と五十迹手
いとて
まずは、伝承が残っている気比大神について。
気比大神は神功皇后の御座船に出現して皇后を援けようと言われた神だそうです。
そして社伝では、気比大神はアメノヒボコとなっています。
(記紀とは違っていますよ)

天の日鉾といえば、神功皇后の祖先にも当たるのですが、
五十迹手(いとて)もまた、その末裔だという伝承が糸島にはあるのです。
いったいどうなっているのでしょうか。

ほかに、神功皇后軍が新羅遠征する間、仲哀天皇の棺が当宮に埋葬されて、
のちに竹内宿禰が掘り出したとも伝えています。
それほど、当宮は皇后や竹内宿禰から信頼された宮なのです。


それに仲哀天皇が近くで急に崩御されたと伝え、
その殯斂(ひんれん)地を占ったことが祭事として残っています。

豆と杯を使うのですが、これは周王朝の祭事を踏まえているのではないかと、
愛読者さんが指摘されました。

これらの伝承や祭事はいったいどう繋がるのでしょうか?
るなにはさっぱり分かりません。
誰か推理してください。

五十迹手は高祖神社を天皇家の祖神として奉斎していたので、
五十迹手自身の祖神を祀る宮はもしかして、こちらではないかとも考えたりしました。

近くの支石墓って関係ないかなあ。

で、今回のターゲット、瓊瓊杵尊の伝承は見当たりません。 (・.・)
(つづく)



過去記事はこちら
宇美八幡宮 http://lunabura.exblog.jp/i178/
宇美八幡宮・糸島(1)仲哀天皇の殯斂地と特殊神事
(2)武内宿禰の子 平群の木菟の末裔が祀る宮
(3)長野宮ノ前支石墓





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by lunabura | 2013-12-11 17:57 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(0)

宇美八幡宮・糸島(1)仲哀天皇の殯斂地と特殊神事


宇美八幡宮(1)
福岡県糸島市長野
仲哀天皇の殯斂地と故事を伝える特殊神事

前回の雉琴神社から西へ約1.5キロ弱に宇美八幡宮があります。
県道12号線から見ると丘の麓に鳥居が見えて「こっちだよ」と教えてくれるのですが、
正面には道がありません。

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この写真だと右の方に八反田の信号があるので、そこから左折して
すぐにもう一度左折すると、案内板があって農道を通って辿り着きました。

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車道は参道の途中を横切るように通っているので、
この鳥居は二か三の鳥居になります。
参道の左には見事な藤棚があったので、それを目印にするといいです。

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二つ目の石段です。丘の上に上って行きます。

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すぐ右側に拝殿がありました。森厳な感じが伝わって来ます。

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拝殿は広くて、浮彫りが施され、建物は向こうが透けています。

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神殿に廻ると武官像が左右に控えていました。
このような造りを見るのは初めてです。
格式の高さを感じさせられます。宝暦9年(江戸時代)の建立です。


この宇美八幡宮には本宮上宮があって、現在地は本宮です。
上宮には仲哀天皇が祀られています。
今回は上宮には参拝しなかったのですが、仲哀天皇の御棺が一時期納められていたと伝えます。

まずは神社にあった縁起を書き写します。
宇美八幡宮縁起
祭神 
上宮 仲哀天皇
本宮 気比大神、応神天皇、神功皇后、清瀧権現、玉依姫、瓊々杵尊

由緒
上宮 長嶽山(前の山)南方に鎮座(周囲45間)丸型山稜、頂上に石祠がある、祭神は仲哀天皇。当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、武内宿禰に命じ、香椎に在るところの先帝のお棺を当山に収めて、築陵したとある。皇后の三韓御渡航の折の御殯斂(ひんれん)の地か。


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これは長嶽山を上から見た図です。
北に本宮が有り、南に仲哀天皇を祀る石祠があって上宮と言います。
縁起では、「香椎宮にあった棺をここに収めたので、三韓に渡航する間の殯斂地としたのか」
とあります。

大分宮(だいぶぐう)の裏の山にも仲哀天皇の殯斂地があるので、
天皇の御印のようなものを棺に入れて、共に行動したのだろうかと、
ちょっと考えました。真実はどうなんだろう…。

宮司さんの家がすぐ隣にあったので勇気を出して訪ねました。

ちょうど在宅で、話を伺うと、
「仲哀天皇は幡振山(はたふりやま)→不動池
→筒原という神籠石の水門の下の不動滝
嵯峨里の集落→雉琴神社の横のしょうずの水
(雪が降っても積もらない所で、25度~26度の湯が湧く)
を通って室小路で急に亡くなられた」
という話でした。死因は分からないそうです。
(話を聞いた時は地名がよく分からず、順や名称が違っているかも知れません。)

「そこで、仮埋葬するモガリの宮の場所を占った所、すぐ近くの小高い丘に決まったんです。
それがここで、長嶽山と言います。
のちに武内宿禰がやって来て、棺を掘り出していったと聞きます。

仲哀天皇が亡くなった場所では毎年お祭りをします。

10月15日(に近い土日)は朝8時から神饌を調理しますが、
宮方二名と宮司が一の膳から五の膳まで52種類の料理を作ります。
それから室小路へと進みます。

室小路が亡くなった場所で、現在はそこは田んぼになっているので、
横の道路で行いますが、昔は稲を刈って神事を行っていました。
宮司と宮方2人。男子、女子の正稚児で催行します。

正稚児が八幡宮を向いて、杯についだ甘酒を飲んで青豆を3粒食べて、
それを三回繰り返します。」
この稚児の不思議な動作は当時の占いを模したものでしょうか。

「三台の神輿が鎮懐石八幡宮(ちんかいせき)まで七日かけて往復します。」
(かつての道はウケの森(ウブゲの森)→ボラ峠→下向道→こゆがはら)
驚く事ばかりでした。宇美八幡宮が鎮懐石八幡宮と繋がった…。

このように故事にちなむ祭事を聞くのは初めてで、
メモを取るのがやっとで、話の断片をつないだものなので、
これから先、訂正する事があろうと思います。

(不正確な文なので、引用はしないでくださいね。
何度か電話でも教えていただいたのですが、まだまだ不十分です。)
ただただ、「この祭は大変な文化財だ」という思いがします。

これほどの祭事にしてまで伝えられる仲哀天皇の崩御の地。

あの記紀の話は?
あの御勢大霊石の話は?

どれが真実なのか?
伝承をつないで来た私はここで途方に暮れたのでした。

それでも、さらにこの伝承に厚みをもたらしたのはこの話をしてくださった宮司さんの姓です。
その姓は武内。
武内宿禰の子孫81代目だそうです。
                                        (つづく)

地図 宇美八幡宮







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by lunabura | 2012-02-27 22:53 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(2)

宇美八幡宮(2)武内宿禰の子 平群の木菟の末裔が祀る宮


宇美八幡宮(2)

武内宿禰の子 平群の木菟の末裔が祀る宮


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「先祖は武内宿禰の第四子と聞いて来ます。」
その言葉に、思わず宮司さんを見上げてしまいました。
大変背が高く、堂々とした体格です。

この宇美八幡宮は代々、武内宿禰の子孫が祀っていました。
第四子って誰だろ?
家に帰ってUPしていた系図を引っ張り出しました。

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古事記の系図ですが、右から四番目は「平群の都久」です。
この「ヘグリのツク」には不思議な名前交換の話があります。
父親たちが子供たちの名前の交換をしているのです。
父親たちとは応神天皇竹内宿禰の事です。

子供たちが同じ日に誕生していました。
応神天皇の子供は仁徳天皇です。
平群のツクの「ツク」は仁徳天皇に付けられるべき名前だったのです。

『古事記の神々』に口語訳したものがあるので、そこだけ抜粋します。
〔仁徳天皇〕
始め、仁徳天皇が生れる日には、ミミズクが産殿に飛び込んできました。
その翌朝、(父親の)応神天皇は大臣・武内宿禰を召して
「これは何のしるしだろうか。」と尋ねました。大臣は
「吉祥です。たまたま、私の妻が出産したのですが、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これまた不思議な事です。」
と言いました。

この時天皇は言いました。
「今、我が子と大臣の子と、同じ日に生まれたとは。どちらも吉瑞があった。これは天の表(しるし)だ。思うに、その鳥の名を取り換えて、お互いの子に名付けて、後の世の契りとしよう。」と。

そこでミソサザイ(サザキ)の名前を太子(仁徳天皇)に付けて、オオサザキの皇子としました。ミミズクの名を大臣の子に付けて、ツクの宿禰としました。これは平群臣の始祖です。この年、太歳がありました。(日本書紀)
少し変な気分です。
だって、壱岐真根子が竹内宿禰の身代わりで死んだ原因は、
応神天皇が竹内宿禰の殺害命令を出したからでした。

ところが、今度はお互いの子供が同じ日に生まれたから、名前を交換して契ろうという訳なのです。
ずいぶん信頼関係が変化しました。応神天皇はもちろん神功皇后の御子です。
系図を出しましょうね。

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このあたりは話も年代も一貫しないので、私は「捏造しているな」と疑うようになっています。


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それはさておき、書紀によれば
ミソサザイは竹内宿禰の妻の産屋に飛び込んできました。
そして仁徳天皇の名前になりました。




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ミミズクは応神天皇の妃の産屋に飛び込みました。
そして竹内宿禰の子の名前になりました。
ミミズクの古名はツク。ズクとも。


これはいったい何の暗号なのでしょうか。まだ手掛かりは掴めません。

取り敢えず「平群のツク」について事前準備が済みました。

それでは本題の宇美八幡宮の縁起の続きを読みましょう。
本宮 
古名を長野八幡宮という。

神功皇后、三韓御渡航の折、船上に神あり。「吾は新羅の神、清瀧権現なり」と「皇后の国土を守護せん。」よって、神功皇后が無事御帰朝の際、当山にて報賽の祭りを執り行ったという。

その後、第16代仁徳天皇の治天10年、平群木菟(つく)の宿禰の子、博公を神主として、この霊蹟に神社を建立し、気比大神(天日鉾尊)を祀らせたのが本宮の起源である。
古名を長野八幡宮というのは、所在地が長野という地名だからです。

縁起では神功皇后の渡航の船に新羅の神が現れて守護してくれたので、
凱旋後、ここで報賽の祭を行い、
平群のツクの子が気比大神を祀ったのが起源だと書いてあります。

気比大神はアメノヒボコだと書かれています。
(気比神宮ではイザサワケです。)
新羅攻撃なのに新羅の神が現れて、倭国の方の応援を約束したという事になります。

古事記によると、このあと13年後には応神天皇と気比の大神の名前交換も行われています。

二代にわたって行われた名前の交換と混線する神の名前。

しかもこの話が西暦200年頃の話だとすると、実は新羅はまだ建国前です。
便宜上新羅と呼んでいるだけです。辰韓、シャグク、サログクのどれでしょうか。
まだまだ、分からないことだらけです。

それでも、ここに来て分かったのは、
アメノヒボコの伝承のある雷山神籠石を通って仲哀天皇と神功皇后が雷山から降りてきた。
そして、その直後、重大な変事が起こり、竹内宿禰の末裔が今なお神社を守っているという事です。

ここに気比の神が祀られている事は、古代史の謎を解く手がかりになる事でしょう。
伊都国は解かれるのを待つ謎がたくさん残っています。

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一の鳥居の前の川です。この話の舞台となった雷山などが一望できました。

(つづく)

なお、竹内宿禰を祀る織幡神社にある、
気比と筑紫に共通する沈鐘伝説の話を書いています。

織幡神社(5)沈鐘伝説と海女
http://lunabura.exblog.jp/14829157/





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by lunabura | 2012-02-26 22:41 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(0)

宇美八幡宮(3)長野宮ノ前支石墓


宇美八幡宮(3)
長野宮ノ前支石墓

宮司さんからお話を伺ったあと、石段を下りて車に戻ろうとしましたが、
一の鳥居への参道の雰囲気がいいので、道路を渡って歩いて行きました。
すると。
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あれ?これは支石墓?

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同じ三石を反対から。
ちょっと小振りだけど、やっぱり支石墓です。
こんなに綺麗に並んでいるからこれは移動したのかな?

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反対側にも三つ並んでいて、
これは後世に字が彫られた石などが支えに代用されています。
注連縄が張ってあるので、何らかの伝承を持っているようです。

説明板がありましたよ。
長野宮ノ前支石墓
この支石墓は現在地から300m東に位置する長野宮ノ前遺跡から発見され、当地に移築復元したものです。
遺跡は弥生時代の初めごろ(今から2300年前)の総数40基にのぼる共同墓地で、1987年の県営ほ場整備工事の際に発見されました。

この花崗岩の大石は重さが約3トンあり、石下から大きな壺の棺が出土しました。
支石墓とは墓穴に遺体を埋葬した後、地表に大石を据えて墓石にしたものです。
通常は大石と地表の間に人頭大の支え石を挟んでおり、これが墳墓の名称の由来となりました。

支石墓は朝鮮半島から伝えられた墓制で、糸島市の志登支石墓群(国史跡)石崎矢風遺跡、新町遺跡、唐津市の葉山尻支石墓群(国史跡)など糸島から唐津にかけての玄界灘沿岸地域から多く発見されています。
古代のわが国と朝鮮半島の人々の活発な交流を物語る資料として貴重です。
平成7年3月31日 糸島市教育委員会



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これを見ると、縄文人の集落と弥生人の墓域が並んでいます。
この二つの異文化は調和して融合出来たのでしょうか。

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これは一の鳥居から見える東の風景です。
川がすぐ前を流れていて、向こう岸の田んぼの中に支石墓があったようです。

縄文時代から人々が暮らしていた所に渡来人がやって来ました。
どんな文化的ショックが起こったでしょうか。
糸島に生まれた神話は日本神話の源流の一つになって行きました。

もう少し糸島を逍遥しましょう。
次回は神在神社です。




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by lunabura | 2012-02-24 20:45 | 宇美八幡宮・うみ・糸島 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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