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カテゴリ:老松神社(各地)( 5 )

ウチ考(6)老松神社1・内野・羽白熊鷲のもう一つの終焉地を探して

ウチ考(6)
老松神社(1)
福岡県飯塚市内野
羽白熊鷲のもう一つの終焉地を探して

前回の土師の老松神社を通って王塚古墳方面に下り、「出雲」の交差点に向かいました。
山越えのルートが土砂災害の為に通れないので、
遠賀川方面から内野宿に向かうことになります。

土師の老松神社は泉河内川沿いにありましたが、
内野の老松神社は穂波川水系の奥にあります。
道は200号線。長崎街道が並行して走っています。

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「阿恵」の信号です。「阿恵」は「北」という意味ですが、朝鮮語だとも聞きました。
(本当かどうか知ってる方、教えてね。)

ここが「北」なら「南」があるだろうし、「中央」もあるのではないか。
そう考えて南を見ると弥山岳(377m)があり、さらに南には前々回の天神社のある内山田があります。
「中央」にふさわしい所は見当たらないなあ。

これから向かう「内野宿」は、南西方面になります。
大まかに見て、この「内野宿」あたりが「中央」になるのかも…。

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「阿恵」を過ぎて「内野宿」方面へ。穂波川を遡って行く形になります。
この地の標高は200m弱で、正面の山々は400m級。
穂波川沿いに発達した穏やかな平野の奥に、目指す内野宿があります。

その先は「冷水峠」。トンネルが出来る前は急カーブの連続で、
冷や汗をかくから着いた名前かなと幼な心に思っていましたが、
冷水が湧く事から付いた名前だと『筑前国続風土記』に書かれていました。

上の写真では長崎街道は道の右を走っていて、左の方に穂波川が流れています。
古代人が住むとしたら、山あり川ありで、出入口の防衛もしやすい良地です。

合併前の地図を見ると、穂波・筑穂・嘉穂・稲築(ほなみ・ちくほ・かほ・いなつき)
と古代鉄に関するかもしれない名前がずらりと並びます。
「ホの一族」と名付けた一族をふと思い出しました。
あの頃は暗闇の古代史を手探りで歩く状態で、却って大胆な事を書いていたなあ。(汗)
サイドバー → 馬見神社 (うまみじんじゃ)

さて、今回、目指すのは「内野の老松神社」です。
それはここに羽白熊鷲の終焉地があるという話をネットで見かけたからです。

「羽白熊鷲の墓」が「甘木の寺内ダムの施設内」にあって、伝承も残っているのは紹介済みですが、
この老松神社に逃げ込んだ話を見かけたのです。
記憶が曖昧なので確認したくてネットでもう一度探しましたが、見つかりませんでした。
(なんと私のブログばかりがヒットする…。(大汗)検索の得意な方、情報をお願いします。)

老松神社は内野宿の近くなので、まずは内野宿を目指したのですが、
どこかな、とキョロキョロするうちにあっという間に通り過ぎて、冷水峠にたどり着きそうになりました。
慌てて、Uターン。
あ、大根地神社の鳥居がある!!
でも、今日はパス。行ったら、満足して、そのまま帰ってしまいそう。
今日は老松神社なのだ。

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内野宿の奥まった位置に老松神社はありました。
この左には天満神社の鳥居もあって、

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どちらから入っても、境内は一緒です。

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老松神社といえば道真公ゆかりと聞くし、天満宮もまた道真公ゆかり。
いったいどうして二つの宮が共存している?
合祀したのかな…・


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こちらは老松神社。やはり祭神は菅原神。

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右脇には珍しい子を抱いた狛犬。

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左脇の狛犬。ユニークな表情ですな。元祖ゆるキャラ?

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その左に鎮座する天満神社の拝殿。祭神は同じく菅原神。

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一番右に鎮座する大神社。祭神は大日靈命。(おおひるめ)
天照大御神の別名と言われています。

さて「福岡県神社誌」を訳しながら写しましょう。
村社 老松神社 嘉穂郡内野村大字内野字関屋
祭神 菅原神
由緒 不詳 明治5年11月3日に被定。
社説に曰く、後深草天皇・宝治2年の創建で、昔太宰府の神領だった事からここに勧請されたと伝えている。
元字古宮という所に鎮座されていたのを、天正元年現在地にお遷しした。神宝に古鏡が8面ある。また宝永2年、藩主黒田綱政公が寄進した絵馬が1扁、及び天保8年藤原義実公が奉納した額が一面ある。
後深草天皇(1243-1304)は鎌倉時代の天皇。
この時代に大宰府の領地だったという縁で勧請されたのが、現在地に遷宮したという事です。

これを見ると比較的新しい時代の創建だけど、これまでの逍遥から考えると、
創建とは、縁もゆかりもない所に唐突に神社が造られたのではなく、
もともと古代からの祠などの祭祀があったのにかぶせて、
正式に神社として建築したというニュアンスがあるように感じています。

ここもまた羽白熊鷲の伝承があるとしたら、
ずっと古代の土蜘蛛たち?の史跡の上に建ったのかも知れないという気持ちが拭いきれず、
とにかく宮司さんに話を聞きたいと、やって来たのに、
出会った氏子さんが何かただならぬ様子。

お話を伺うと宮司さんの初盆だと…。
一年、いや半年遅かった…。

氏子さんに熊鷲伝承がないか尋ねましたが、やはり耳にした事はないようす。
もう羽白熊鷲の飯塚側での伝承はこれで永遠に消えてしまうかも知れない。
そんな後悔の念を抱きながら、墓か石があるかも知れないと境内を廻りました。

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これは宮中で行われる新嘗祭の斎田として穂波町が指定されて、
奉仕した記念碑です。

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道真公ゆかりらしい狛牛。

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屋根が作られて大事にされている石。
一番左には梵字らしき跡。

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拝殿前から見た境内の様子。しっとりとした美しい山里です。
羽白熊鷲の事はあきらめました。

最後に通りかかった内野宿の資料館を訪ねる事にしました。
雨がまた降り出しました。
もう一つ、心に残ったのは大根地神社の鳥居。
思いがけず、ここから近い所にあったけど…。   (つづく)








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by lunabura | 2012-10-22 00:48 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(7)

ウチ考(5)老松神社・大己貴神と少彦名神がやって来た


ウチ考(5)
老松神社
おいまつ・福岡県嘉穂郡桂川町土師
大己貴神と少彦名神がやって来た

既に3年前に参拝した宮ですが、ようやく記事にする時が出来ました。
写真のストックを見ると、撮った枚数の少なさに唖然。
鳥居さえも撮ってない…(・.・;)
ずいぶん意識が違ってたんですね。
はじめの頃は神社の縁起や伝承の重要性に気づいていなかったのが自分でもよく分かります。

この老松神社の縁起の重要性が理解出来るのに3年の逍遥が必要だったということでしょう。
そっか~。
このブログもそろそろ3年になるんだ。

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さて、今回はいきなり境内です。
ここは飯塚市から秋月に向かって緩やかに高度を上げていく県道66号線沿いにあって、
石段も数段ある程度の高さです。

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拝殿と神殿です。(斜め…。)
主祭神は大国主神。
祭神 大物主神 事代主神 菅原神 吉祥女

境内の入口に立派な由緒書きがあります。それを読んで行きましょう。
由緒の記 (現代語訳します)
創建年代ははっきりとしない。社の記録によれば、遠く神代の昔、大己貴命・少彦名命が心を同じくして力を合わせて天下を経営された時、この西海に下って、この土師の地にしばらく滞在されたという。

のち、人皇11代・垂仁天皇の御代に、出雲の国の造・野見宿禰が埴輪を造って殉死の者の代わりとしたという功を賞して、土師臣の姓を授け、また諸国で鍛地(かち・かじち)を授ける時、当庄をもその一つに加え、宿禰に与えられた。

出雲より土師連がやって来て当庄を領有し、出雲杵築の大社に鎮座されている大国主神(大己貴命)を、神代の時にしばらく滞在されたこの地に勧請して、土師宮と称して斎き祀ったのが当社の濫觴(らんしょう・始まり)である。

その後、大物主神・事代主神を合祀したが時代ははっきりとしないという。(後略)

驚く事に、大己貴(おおなむち)命と少彦名命がこの土師の地に滞在していました。

少彦名命の名は祭神から消えていますが、前回紹介した天神社の祭神は
「スクナヒコナノミコト・オオクニヌシノミコト・菅原道真」
となっていて、距離的にも2.5キロほどしか離れていません。
どうやらこの桂川町には大己貴命の足跡が色濃く残っているようです。

福津市の渡半島の楯崎神社には「大己貴命と宗像姫の連合軍が異敵と戦った」伝承が
あった事を考え併せると、遠賀川左岸の伝承を丹念に拾って行くと
大己貴命の全体像がもう少し明らかになるかも、という予感がします。

さて次の時代になって、野見宿禰がこの地を褒賞として貰っています。
野見宿禰は殉死者の代わりに埴輪を使う事を案出した人とされています。

この宮の伝承によると、彼は「土師の姓」を与えられ、「諸国の鍛地」を与えられています。
「鍛地」についてネットで調べると「かち・かじち」という姓がありましたが、
語意は出ていませんでした。
そのまま「鍛冶地」と考えていいのでしょうか。

そうだとすると、野見宿禰は「諸国の鍛冶地」を与えられたということなので大変な褒賞です。
しかもこの土師はその一つだったというのです。
ここは鍛冶地=冶金の地だったという事になります。

野見宿禰は天穂日(あめのほひ)神の末裔で
天穂日神 → 野見宿禰 → 土師氏 → 菅原氏
という流れがあるそうです。
天穂日神は熔鉄の神だと眞鍋氏が書いています。

思い出すと、菅原道真が久留米市の袴着天満宮で、袴に着替えてまでも神を祀ったのですが、
そこの御神体石はカップ&リングという杯状穴が彫られていて、
元宮の地は隕石落下点を示す椋の木がある所でした。

出目天満宮・袴着天満宮 久留米市御井町高良山 御神体は天体石 
菅原道真は太陰・星暦を守ろうとした?
http://lunabura.exblog.jp/16161071/


太宰府に左遷された道真公ですが、
この宮の伝承によって、ようやく「熔鉄神と菅原氏」の流れが理解出来ました。

道真公が左遷されたとはいえ、県内の老松神社の多さを見て、
こちらでは歓迎されたのではないかと、おぼろげに考えていたのですが、
土師氏 ⇒ 菅原氏という流れに「熔鉄神」というキーワードが存在するのが
この宮で確認出来て、このアイデアに期待が生まれました。

祭神に道真公と吉祥女の夫妻が祀られているのもその縁なのでしょう。
この夫妻が北と南に流された悲劇を土師の人たちは知っていて、
せめてここで一緒にと祀っているのでしょう。

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さて、この宮を参拝したきっかけは
くるま座さんが「変わったものがある」と言って案内してくれた事だったのですが、
何が変わっていたのかすっかり忘れていました。
最近、機会があって尋ねると、「羊」の像があるのが珍しいとの事でした。
上がその写真です。
道真公の関連の宮は「牛像」がよく奉納されているのですが、確かに「羊像」は初めてです。

追加
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これは境内の左の祠。御神体が丸石です。

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その遠景。
広々とした境内が清々しくて、心地よかった事を覚えています。

この宮から北に3キロほど行くとあの王塚古墳があります。
赤い壁画や副葬品の馬具のヘビーな造りを思い出します。
その被葬者を支えて土器や鉄器作りをした人たちがこの宮を祀ったのでしょうか。

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この桂川町の丘陵という丘陵は古墳群が沢山造られています。

王塚古墳(1)福岡県嘉穂郡桂川町寿命 感動の装飾壁画を知らなかったよ
http://lunabura.exblog.jp/15066125/


王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男
http://lunabura.exblog.jp/15085334/


さて、次回はもう一つの老松神社へ。いよいよ内野です。






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by lunabura | 2012-10-10 23:49 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(4)

老松神社(朝倉・下渕)熊鷲の本拠地が見える


老松神社(下渕)
おいまつじんじゃ
福岡県朝倉市下渕840
熊鷲の本拠地が見える
前回、「美奈宜神社(林田)」では、
佐田川の下流で水軍が一夜で陣営を作り上げて、
羽白熊鷲を挟み打ちにする作戦ではなかったのか、
と書きましたが、

その間、皇后軍の本隊は大己貴神社から古処山が見える場所に進軍しました。

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松峡神社(まつお)から仙道古墳を左に見ながらいよいよ秋月方面へ。
写真の左端に見える円墳が仙道古墳です。左の山が阿弥陀が峯。
右の山は大己貴神社(おおなむち)の御神体山です。
この右側を廻り込んだ所に大己貴神社があります。
そこで見え始めたのは古処山(こしょ)。羽白熊鷲の根拠地です。
敵前逃亡者が現れたために皇后は大己貴神を祀りました。

そこからいよいよ川沿いに遡って行きます。
秋月に行くには二つの道路があるのですが、より山際の古道を行くと、
こんもりとした杜が見えました。

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老松神社です。

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いきなりの大古木に先制パンチ。

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古木の茂る神社でした。

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拝殿です。

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秋月藩に近いからでしょうか、崇敬厚かったのがよく分かります。

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神殿です。新しく造成されたようです。

案内板があったのですが消えかかって、よく読めませんでした。
いろいろ総合すると、
皇后軍の秋月周辺の駐留地を「七ヶ森」と言い、
ここは「三府の森」(みふのもり)という陣営です。
皇后の丈競岩(たけくらべいわ)がここに移されているそうですが、
これは気づかなかったです。

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境内の裏手にまわると、古処山(こしょさん)がよく見えました。
二つの山の右の方です。
その手前の山には見張りがいるに違いありません。
その奥は秋月野鳥。羽白熊鷲の根拠地「のとりのたふれ」。

こちらからよく見えると言う事は向こうからも丸見え。
軍勢の数もすべて把握される地形です。
ここは平野のど真ん中。周りよりほんの少し高くなっている程度。
逃げも隠れもしない覚悟の陣営だったのが分かります。
川沿いに進めば道は敵の根拠地に通じる。


もうどこで戦闘が始まってもおかしくない。
直線でわずか5キロ。
向こうから進撃すれば1時間後に戦闘が始まってもおかしくない。
老松神社はそんな陣営の跡でした。


地図 老松神社 秋月野鳥










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by lunabura | 2011-11-17 10:16 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(2)

老松神社と蜘蛛塚・女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か


老松神社と蜘蛛塚
おいまつじんじゃ と くもづか
福岡県みやま市瀬高町大草311
女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か

田油津姫(たぶらつひめ)の古墳と言われる蜘蛛塚を目指しました。
老松神社の境内にあるというので、杜を探しながらです。
田園の中の集落の曲がりくねった道の所にありました。

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いかにも古社です。

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みごとな楼門が建っています。

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内側から。

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拝殿は新しく建造されたばかりのようです。


さて、目的の蜘蛛塚の方は一の鳥居のすぐ左にあり、その上に御堂が建っていました。

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石段の高みがそのまま墳丘の高さになります。
古墳の名は「蜘蛛塚」と言いますが、もともとは「女王塚」と言われていたそうです。

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御堂の真裏に廻ると墳丘の姿がまだ残っています。
雨が降ると血が流れると言われている事から、
石棺の中の朱が流れ出していると考えられています。

町指定文化財 蜘蛛塚(大塚) 瀬高町大字大草字大塚
昭和56年2月23日指定
この塚は、瀬高町大字大草字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚という部落の名の起りでもある。今は石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、土蜘蛛の首長田油津姫の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に小墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正二年春、田の中の小塚を崩してその上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが 後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。
瀬高町教育委員会

説明板を見ると、被葬者には二人の候補がありました。
一人は景行天皇に殺された首長で、葛築目(くずちめ)と言う名も伝わっています。
もう一人は神功皇后に殺された田油津姫です。

葛築目は男か女か
「葛築目」の「目」は「め」で「女」の可能性があるのですが、
蘇我の稲目と言えば「男」なので、男女どちらかは表記からは分かりません。
しかし、ここが女王塚と呼ばれていた事、子安観音が祀られている事から
被葬者はこのクニの女王の可能性が高いと思われます。

いづれにしろ、この古墳には「天皇家に殺された女王の記憶」が残されています。

またこの古墳が前方後円墳だったとすると、通説の論理で行くと、
この地域を支配するようになった畿内の権力者が権力を誇示して
前方後円墳を作ったという事になって、時代は下がります。

どうも、伝承と古墳の形式が合いません。

神功皇后の時代を古墳時代に引き下げるか。
前方後円墳の始まりを引き上げるか。(大胆すぎる?)
結論は将来の発掘を待たねばなりません。

同時代の人たちの古墳を見回すと、
国乳別命(くにちわけ)の前方後円墳(久留米市)の周りからは
弥生時代のものが出土してましたが、
仲哀天皇の古墳(藤井寺市)は5世紀後半の築造。
息子の応神天皇陵(藤井寺市)は5世紀初頭の築造と、親子で逆転しています。
まだまだこの世界は研究の途上にあるようです。

熊襲や土蜘蛛って誰なんだ?
そもそも、この戦いの発端は何でしたっけ?
そうそう、熊襲が朝貢しなかった事が始まりでしたよね。

日本書紀では「熊襲」については、鴨別(かものわけ)に攻撃させたら
おのずから降服したと、チョコっとだけ書いています。
流れからは不自然で、辻妻合わせに後で挿入した印象を受けます。

そこで、これまでに登場した国々の場所を書いて見ました。

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神功皇后軍に殺された王・女王たちを青色で書いてます。

関西で生れて関西で育った日本書紀の編者が考える熊襲の実態は、
羽白熊鷲や田油津姫など、「敵対した国々」を総合した漠然としたもののようです。

「土蜘蛛」とは、かなり早くから入植した渡来人で、
山の中で鉱山を掘っていた人たちで、中東系だから手足が長いので、
イメージから蜘蛛の漢字を当てられました。
田油津姫もそんな種族の誇り高い姫だったと思われます。

この田油津姫の国の呼び方を考えました。
ここは数年前まで山門郡だったので山門(やまと)の国と呼びたいとおもいます。

この山門の国の朝貢品は何だったのでしょうか。
香春岳は銅、羽白熊鷲は鉄だったので、この山門国も金属関係と予測しました。

手掛かりは、この神社の名前が老松神社という事にあります。
老松神社といえば菅原道真(すがわらみちざね)です。
もちろん平安時代の人なので、関係ないと思ったのですが、
道真公の祖は天穂日命(あめのほひ)で、熔鉄の神です。
もともとここは鉄の神が祀られていて、
のちに悲劇の道真公もまた祀られるようになったのでしょう。

ここは有明海と筑後川に近く、豊かな葦原だったので
スズ鉄の生産をしていた可能性があります。
そばの女山(ぞやま)あたりの鉱物なども調べると全容が見えてくるでしょう。

るなの推理コーナー
景行天皇は帰順しなかった山門の国の女王・葛築目(くずちめ)を殺して、鉄製品を朝貢させるようにすると、それを支配、管理するために子供の国乳別命を近くの高三潴に封じた。国乳別命は地元の豪族と結びついて水沼(みぬま)の君の祖となる。

一方、葛築目を殺された山門の国では、次の王、もしくは二代目かに香春岳の田油津姫を迎えて女王か妃にした。

こうして再び力を取り戻した山門の国は国乳別命に朝貢するのが理不尽で、朝貢を取りやめた。

その報告を国乳別命から聞いた仲哀天皇は下関に遷都して、景行天皇が残した筑紫の支配権を確立するために乗り出した。

こんな感じかな…。
手に入ったコマを並べると、こんな仮説が生まれました。

調べて行くと、この老松神社はクニの聖なる場所というのが分かって来ました。
山門国の都造りについて興味深い記事があったので、資料が揃ったらまた報告します。

さて、続けてもう一つ有名な権現塚古墳に行きましょう。

地図 蜘蛛塚・老松神社






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by lunabura | 2011-09-25 16:35 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(0)

老松神社(小郡市)羽白熊鷲に勝った神功皇后は田油津姫攻撃に取りかかった


老松神社
福岡県小郡市上岩田
羽白熊鷲に勝った神功皇后は
田油津姫攻撃に取りかかった

時には勘違いが思いがけない所へ導いてくれることがある。
この老松宮に来たのもそんな勘違いからでした。

媛社神社天忍穂耳神社が七夕さまなら、その間には白鳥座があって、
中心付近に盤座(いわくら)でもあるんじゃない?
そう思って地図を眺めてみるけど、よく分からない。
少し北に上岩田老松神社というのがある。とりあえず行ってみよう。

その程度の考えでした。白鳥座の場所は後で見直すと見当違いでした。

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国道500号線を走ると、こんもりとした杜があって、すぐに分かりました。
神社の脇から入ってしまったので、改めて正面から撮り直しです。
勢いよく流れる用水路にかかった小さな橋を渡ると、うっそうとした杜の中。

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夕暮れの雨の中とはいえ、かなりの異世界の趣。

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デジャヴでも起こりそうな、夢の中を彷徨うような世界でした。

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参拝を済ませて、真っ暗な拝殿に向かってフラッシュ焚いてみると、左右に木像。
老松神社と言えば、普通は菅原道真公を祭っています。
これらの神像もそれに関する木像でしょうか。

祭神
由緒書きがありました。
老松神社(老松宮)
祭神 菅原眷族神 高良玉垂命 住吉大神
由緒 この老松宮はもと、上岩田、井上、下岩田の氏神であり、この神の鎮座地を昔は神磐戸と称していた。上岩田の地名は、神磐戸から神磐田、上岩田と変わったのであろう。

菅原眷族神とあるのは、菅原道真公そのものでなく、側近を祀っているのでしょうか。
「昔の社殿は1070年、上岩田の庄領家菅原氏の造立」とあるので、
末裔がいたのかな…。まっ、よく分からない。

次の祭神は高良玉垂命。こんな所に、例の謎多き神が。
次の住吉大神と一緒なので、高良玉垂命は竹内宿禰の事かも。
各地の神社で「高良の神」とあれば、今のところ何処でも竹内宿禰を指していました。
筑紫の国では高良玉垂命は竹内宿禰と考えるのが一般的だったようです。
ただ、これが真実かどうかは分かりません。
最近、るなは疑(うたぐ)り深い。(御勢大霊石神社でのショックが大きかった。)

ところが、由緒書きを読み進めると、あれ?
大昔、神功皇后が秋月の羽白熊鷲(はじろくまわし)を征伐せられ、次いで、筑後国山門県の田油津姫(たぶらつひめ)を滅ぼそうと、津古から舟にて得川(宝満川)を下られ、この神磐戸にお着きになった。

今の老松宮は当時の行在所の跡で、その御駐輦(ちゅうれん)の折、武内宿禰に御剣を祀らせられた。その不動岩が境内にあったが、現在は不明。又、境内に大岩窟があったが、正保年間(1644)これを破壊し、その巨石を稲吉堰の築造に利用したので、今はその跡があるだけである。  (略)

神功皇后がここにも来てる。しかも、これは仲哀天皇の崩御後だ。
そして既に羽白熊鷲とは戦った後。
次のターゲットは山門県(やまとのあがた)の田油津姫。
その為の陣営を整え直して、ここに行在所(あんざいしょ)を作ったんだ。

仲哀天皇は軍卒を励ますために廻っている時に流れ矢が当たったと
御勢大霊石神社で伝えているので、敵はずいぶん近くにいる。
すると、この時点での敵は羽白熊鷲しかいない。
流れ矢ではなく、狙われたのではないか。
この時は宝満川を挟んで戦ったのではないか。

天皇が負傷したあと、親衛隊の物部軍は血相を変えて川を渡って攻撃したはず。
その勢いに、さすがの羽白熊鷲も本拠地の秋月に押し戻された。

竹内宿禰が仲哀帝の遺骸を香椎宮から豊浦の宮に送り届けると、
神功皇后は羽白熊鷲と戦うのに躊躇しなかった。
皇后の指揮のもと、物部軍は宝満川を渡り、松峡宮、大己貴神社へと進軍した。

ここに来て、るなはこんなストーリーを考えるようになりました。

新羅(辰韓?)との戦いを決断するのに、
あれほど占いばかりした彼女とは全く様子が違う。
神功皇后はこの時は無我夢中だったんだ。報復なのだ。
夫を殺された怒りのために、彼女に迷いはなかった。
戦いの先頭を切る彼女に、親軍は頼もしささえ感じただろう。
新たな主上の誕生だった。
そうして、ついに羽白熊鷲を討った。

でも、山門(やまと)の田油津(たぶらつ)姫は何故?
何故、田油津姫をいきなり殺したのだろう。


この時の陣地と敵方の本拠地を地図に書き込んでみました。
c0222861_13361114.gif

仲哀天皇は御勢大霊石神社で羽白熊鷲と対峙したので、宝満川を挟んでの戦いだと思われます。
「松峡神社は神功皇后の行在所」という伝承があるので、
仲哀天皇の崩御後に、皇后軍は川を渡って歩を進めたと考えます。
それから、敵をもう一歩追い詰めて、大己貴神社に出ました。
地図では朝倉市と書いてあるところのすぐ北に大己貴神社はあります。
そして、ついに羽白熊鷲を滅ぼしました。

その後の攻撃目標は田油津姫。彼女のクニはかなり下流です。
皇后軍はこの老松神社に陣営を構えました。
津古(つこ)から船で」と書いてあることから、ここは岬か島だったようです。(標高18m)

この先、物部の本営たる高良山までは、皇后を連れて行っても大丈夫です。
しかし、彼女を南下させたかどうかは疑問。
戦場に皇后を連れて行って、主上を再び失う失態など、もうあり得ない。
神功皇后はこの老松宮に留まったのかも知れない。

(と、空想にふけっていたルナは、はっと現実に帰る。)

という訳で思いがけず
神功皇后の田油津姫攻撃の陣営跡に来てしまったのでした。

不動岩と古墳
由緒書きでは、神功皇后の時代には不動岩があったという。
やったね。まさか、盤座があったとは。
神磐戸とまで呼ばれていたので、ここは聖地だったんだ。
竹内宿禰に剣を祀らせたというから、いつものように銅剣だろう。

「大岩窟があった」というのは、古墳の石室ではなかったかと思いました。
というのも、境内にはこのように石が並べられていたのです。

c0222861_1339840.jpg

半サークル状に並べてあるので、独特の雰囲気を醸し出しています。
後で小郡市誌を開くと、やっぱりこの境内には二つの古墳がありました。
老松神社古墳(上岩田古墳群)
一号墳は規模が直径15m。見かけの高さ1.5m。
二号墳は直径12m。見かけの高さ3m。時期は不明。

c0222861_13394562.jpg

これは境内右手の猿田彦の石碑です。加工した岩もごろごろとしています。
その裏手の少し高くなっている所が、古墳だったのかもしれませんね。
ここは宝満川の近くなので、大きな洪水があれば川に洗われてしまい、
表土が流れて石室が露出した可能性があるかもとおもいました。

「1644年に大岩窟を破壊して巨石を稲吉の堰に再利用した」とあるので、
あの媛社神社の近くに運ばれたようです。

上岩田注連ねりそうそう、ここの「人形しめ」を忘れちゃならない。
正式には「上岩田注連(しめ)ねり」と言うそうです。
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ここだけの注連縄で、代々その創り方が受け継がれています。

それに加えて、神殿には鬼面が。
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う~。私のカメラではこれが限界。
これまで見た鬼面の中では、高良下宮社に一番近い感じ。
この神社は江戸時代後期に再建されています。

帰ってから地図を見直すと、あれ?
ここは筑紫の飛鳥のそばでした。

まいった。御原国は面白い。
遺跡がやたら多いので、少しずつ訪れて行きたいと思います。

飛鳥
御勢大霊石神社
大己貴神社

地図 上岩田老松神社 飛鳥 
  





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by lunabura | 2011-07-07 14:00 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(2)
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