ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:志賀島の各地( 6 )

志賀島 二見岩の穴!




志賀島 二見岩の穴




このブログの始まりとも言える二見岩です。
2009年8月に撮っています。
志賀島の金印ロード、反時計回りに回るとまず目に飛び込んできます。







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二つの岩の間に見えているのは、
今話題にしている相島と鼻栗瀬ではないですか!


この日は天気も良くて海もきれいですね。






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少しずつ北に行くと、左のろうそくのような岩が大きく見え、
立花山の二つのピークが見えるようになります。

イザナギとイザナミの宮殿と言われています。








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さらに北に行くと穴!!!









次は2014年の12月22日。
朔旦冬至の日。





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二見岩と立花山。








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やはり北に歩いていって撮ったもの。









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そして、穴!
今見ると、穴は意外に低い位置にあります。


かつては海の民の道しるべとなるものと考えていましたが、
もしかしたら、特異な日に太陽の光が通るのかなと
思い始めました。


チェリーさんの参考に^^









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by lunabura | 2017-03-15 22:07 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(2)

高天原 ふりさけ見れば 月が見えるかも


高天原 ふりさけ見れば 月が見えるかも


「碇が見えるでしょ」
「あっ。ほんとだ!」
「昔はもっとあったのですが、砂に埋もれて少なくなりました」

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道路から下を覗くと渚の自然石の間に人工的な直方体が。
福岡の各地の神社でもよく見られる碇石です。

近くに蒙古塚があり、蒙古軍がここにも上陸しようとして全滅しています。
この碇石が元寇の時代のものと言う訳ではありません。
が、この一帯は船着場として昔は利用された渚だという証しです。

ここに来た目的は、実はかつて巨大なムクノキがあったという話を聞いたからでした。三人で手をつないでようやく届くような大きさだったそうです。

昭和になって志賀島を一周する道路が出来た時に伐採されたそうです。
そこには近づいてはならぬという磯良瀬と丸瀬があるといいます。

椋の木は隕石落下地点の目印でした。
近づいてはならぬ二つの瀬というのは、隕石のため?
そんな予想を立てて行ったのですが、ちょっと違ったようです。


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右は丸瀬。小さな岩に鳥が止まっています。

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左は磯良瀬。
現地を見て、どちらも暗礁があるので危険だから近づくなということだと思いました。

そして、その二つの瀬に挟まれた所に、古戸清水があるのです。
清水は山の中にあって、猪の足跡があり、登りませんでしたが、
水が小さな川となって流れていました。
古代の船乗りたちは、二つの瀬を門のように見て、最後の水を手に入れたことでしょう。


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そして、さらに左の方を見ると、福岡タワーが。
中央左よりに、宝満から三郡山が見えました。
宝満山やその横の宮地岳は御笠山(三笠山)とも呼ばれていました。

そして、今いる浜の北のほうには「高天原」という場所があるのです。
「高天原」は海岸近くの海域にあります。

そう。
思い出したのです。あの歌を。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

今いる志賀島の高天原に船を漕ぎ出すと、
春日方面の三笠山の方角に月が出るのを見る事ができるんですね。

しかも、この志賀島にも三笠山があるのです。
志賀海神社は春日大社の元宮だね…。(これは関係ないか…)

写真で見えている範囲は博多湾で、水深が浅く、小舟しか渡れなかったそうです。
アマ(船乗り)たちが小舟を漕ぐ光景からアマノハラと呼ばれたんですね。

ですから、阿倍仲麻呂もここまでは小舟で来て、いよいよ外洋船に乗り換えたのでしょうか。
あるいは、遣唐船に乗ったままだったのでしょうか。
志賀島には空海も立ち寄った記録があります。

以上から、この歌が志賀島の高天原付近で詠まれたとしても問題ないことが分かりました。

愛読者さん、いかがですか?
ここも、いい線行ってますよ。

そして、今日は何とまあ、くるま座さんにも会いまして。
「天拝山から見た、御笠山(宮地岳)に昇る月」を激写した写真をいただいたのでした。

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(これは春日の「月の浦」から見た光景とほぼ同じとか。
しかも、その麓に「宮地岳を昇る月とこの歌を書いた掛け軸」を伝える家を発見したとか。)

ということで、二つの説が出ました。

A「春日の月の浦」から見た「三笠山の月」。
B「志賀島の高天原」から見た「春日の方の三笠山の月」。
う~ん、悩むな…。
よし。
C B+C 志賀島で三笠山の月を見ながら、Aを思い出している。
これで行こう。

今日は「三笠山と月」のシンクロニシティの日でした。


高天原(1)福岡県東区志賀島弘
志賀島に高天原があった なぜ海の中に高天原がある?
2000年前の博多の姿
http://lunabura.exblog.jp/13654361/


月の浦 月の浦から見える天体ショーを発見
万葉歌「天の原 ふりさけみれば~」は禁忌の歌だったのか? 
http://lunabura.exblog.jp/17342596/


高天原と宝満山(御笠山)


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by lunabura | 2013-11-16 21:48 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(0)

志賀島から糸島半島がみえた


志賀島から糸島半島がみえた


今日は懸案だった安曇連の城探しに、急遽、志賀島へ。

鹿さんに再会して、地元を案内していただきました。

最後に、古戸清水の入口から海の向こうの山々の説明を受けました。

志賀島の西海岸―金印通りーを走ると、海の向こうにずっと山々が見えています。
向こうは糸島半島です。

島にいながら糸島と共に暮らしているような気になってきます。
それほど、糸島半島は近かったです。

実際、志賀島は那珂郡になったり、志摩郡になったりしたそうです。

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写真の中央の奥に見える薄い色の山が糸島富士、可也山。
左の端には高祖山、怡土城。 左手前は今津の端っこ。

そう、神功皇后が辿った道が一望できるのです。

鹿さんには、神武天皇の辿った道が見えているようです。

山の名前を教えて貰いながら、古代そのままの光景の中に私も溶け込みました。

ここは金印公園の近く。

いにしえ人も、この光景を見ながら船を漕ぎ出したのでした。


るなは、今日は、この光景から抜け出せられません。







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by lunabura | 2013-11-14 22:16 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(2)

高天原(1)志賀島の海に高天原があった


高天原(1)
福岡県東区志賀島弘
志賀島に高天原があった

なぜ海の中に高天原がある?

2000年前の博多の姿

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ここが福岡県の志賀島の高天原の海です。博多湾に面しています。
海の向こうに見えるのは福岡市内です。
(デジカメのオートで撮ったために、暗く写っていますが、これはお昼に撮りました。)

こうして情報が入ったよ。

志賀海神社の宮司さんが
「志賀島には高天原という所がありますよ。」
と言って、地図を示してくれました。
確かに高天原と書いてあるのですが、そこは海でした。
「なぜ、そこを高天原というのかは分かりません。」とも。

高天原といえば、宮崎県の高千穂あたりかと思っていたので、
福岡県にそんな地名があるとは、驚きです。
それじゃあ、行って来なくっちゃ。

という事で、志賀島の勝馬の沖津宮からの帰りに寄ってみました。
時計とは反対回りです。
さっきまで、あんなに綺麗な沖津宮の所にいたのに、
再び、車を止めてみたくなるような景勝の地です。

その浜に降り立って驚きました。正面に玄海島が、大きく見えます。
福岡沖地震の後、テレビに何度も映し出されたので、
見ると、すぐにそれだと分かりました。

地震で破壊された町には、真っ白なビルが建っているのが、
こちら側からもよく見えます。こんなに近いんだ。
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この玄海島の向こうの方にも大きな島が見えます。
しかし、よく見ると、島ではなくて半島でした。
糸島あたりの半島がすぐそこに見えていました。
博多湾の奥には、町が見えます。

船で博多湾に入港する時には、たくさんの緑の島々の間を
縫って入って行くので、その変化にわくわくしますが、
ここ高天原からは、それが一望できました。

それにしても、この海になぜ高天原の名前が?
確かに綺麗な海ですが…。

そこで天原の意味を調べました。 

この海が高天原だという謎を解くヒントはやはり、『儺の国の星』にありました。

その本には、「高天原」は載っていませんが、「天原」について、何箇所か書いてありました。
いくつか抜き出しましょう。

あまのはらとは船に泊まる氏族の邑(むら)のことであった。
筑紫の西の多島海であった。

古代の筑紫の西側はまだかなり海の中で、島がたくさんありました。
そこには、船に泊まる氏族がいて、その一帯をあまのはらと呼んだという事です。
昔、筑紫の国はその中央を、北から玄界灘、
南から有明海の荒穂(あらほ)、即ち滔々たる海流が貫いていた。
東なるを宇佐島と言い、西なるを天原(あまのはる)と言った。
―略―
宇佐島を昔は右佐島と呼んだ。
そして天原左佐島とした。
今、大分県豊後宇佐(うさ)にそのままの郡名と、長崎県肥前松浦左左(さざ)に郷名が残る。

筑紫(ここでは北部九州全体を指す)では、中央を海流が南北に流れていました。
北は玄界灘から、南は有明海から海流が流れ込んで、太宰府辺りで、ぶつかりあいました。
その二日市水道の東側を宇佐島、あるいは右佐と言い、
西側を天原あるいは左佐と呼んだという事です。

右佐と左佐の由来は星の名前から来ている。
「右佐」とは竜座のツバーンのことで、「左佐」とは大熊座のポラリスのことです。
北極星がツバーンからポラリスに変わる間、北極を示す目星がありませんでした。
ですから、当時はこれらのツバーンとポラリスが北を教えてくれました。

この地の人々は星空の大切な星の名を、東西の島に名付けたという事です。
(そう言えば、高良玉垂宮や志式神社に出て来た
二つの玉がこのツバーンとポラリスでしたね。)(⇒詳しくは高良大社に)

実際に宇佐と「ささ」という地名は、大分県と長崎県に現在も残ってます。
天原を「ささのうみ」と言った。
弦月型の葦舟(ささらぶね)が往来する多島海、古人のいう千顆海(ちかのうみ)であった。「ささなみ」は「しか」の冠辞である。
『儺の国の星・拾遺』より

(天原を「ささのうみ」とも呼びました。
それは、三日月形の「ささらぶね」が往来していたからです。
海域には沢山の島があって、それを古語で千顆海と言っていました。
枕詞の「ささなみの」は志賀にかかりますが、それはこの地名から来ているという事です。)

志賀島の語源は近い島と言われたりしますが、そうではなくて、
昔は多島海を千顆海(ちかのうみ)と言っていて、
それがしかの島と変わった訳ですね。

枕詞として有名な「ささなみの」は「志賀・なみ・寄る・夜」などにかかりますが、
「ささの海」に浮かぶ「ささらふね」から来ていたとは、もう誰も知りません。
暦法家の家だからこそ、言い伝えたのでしょうね。

葦舟は本当にあったのだろうか?

それにしても、古代の日本に葦舟があったとは、考えたこともありませんでした。
そこで考古学の本を見ると、竹舟があったと書いてあります。
竹舟なら、『古事記の神々』で、「豊玉姫」を訳した時に、
山幸彦が、それに乗るシーンが書いてあります。その部分を書き出します。

 私はどうしようもなくて、海辺で嘆いていたら、塩土の神がやって来て、
『どうして日の御子さまが泣いていらっしゃるのですか。』
と聞いてきます。
それで事情を話すと、塩土の神は
『よい考えがあります。』と言って、
竹で編んだ小船を作って、私を乗せてこう言いました。
『私がこの船を押し流します。
日の御子さまはそのまま潮の流れに乗って下さい。
すると、綿津見の神の立派な宮殿に着くでしょう。

実はこの時、訳しながら、「ん?竹舟があったの?」と驚いていました。
今、考古学の本にそれが書かれていたのを確認して、やっと納得です。

でも、葦舟の記述はまだ見つけていません。
それでも、竹の舟があるなら、十分可能性があります。
腐れやすいので、発掘される事はないのでしょう。

南米のチチカカ湖の葦舟なんかは今でも現役です。
あれを見ると、葦舟でも博多湾を島から島へと行き交うのには
十分なんだろうなと思いました。

古代の天原を、まとめてみるとこうなりました。

福岡県には、かつて二日市水道(針摺の瀬戸)が南北に流れていた。
その海流が南北から流れ込んで、太宰府辺りでぶつかり合っていた。
そのために筑紫は東西の島に分かれていた。

東側を宇佐島とか右佐の島(うさのしま)と呼び、
西側を天原(あまのはる)とか左佐(ささ)の島と呼んだ。
そこには、葦のささら舟が行き交っていた。そこで、ささのうみとも呼んでいた。
それをアマのハラと呼んだ。
また、古代には船に泊まる氏族がいた。かれらの村もアマのハラと呼んだ。
(そう言えば、アマは海人、海女に通じますねえ。)

 「天原」は分かったけど、「高天原」は? 

福岡県の地図を見ると、「高天原」のある志賀島は天原(博多地区)の最北端に位置していました。
「高」は美称や敬称に使います。
「天原」の北端、あるいは聖地という意味で、「高・天原」と言ったのではないかと思いました。

これらの事から、「高天原」は、「沢山のささら舟が行き交う多島海の聖地」
というほどの意味ではないかと、思いました。


地図   高天原  二日市の針摺  佐々  宇佐




次回は浜辺でできる地震予知法を紹介します。


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by lunabura | 2010-02-04 17:50 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(10)

高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法

高天原(2)
福岡県福岡市東区志賀島弘
真鍋大覚に学ぶ地震予知(1)

「地震とナマズの伝承」は、
浜が砂鉄で真っ黒になる事だった。


福岡市の志賀島の高天原の海です。
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この浜には荒磯があって、ごつごつした岩が波に洗われています。
砂の色は、黒みがかった灰色です。砂鉄が行く筋も走っていました。
「砂鉄だ。」
懐かしいなあ。子供の頃は磁石で遊んだっけ。

そう思いながら帰ったのですが、その夜、真鍋大覚氏の本を読んでいると、
浜辺の砂鉄と地震予知についての記述を見つけました。

「地震とナマズ」の伝承は、浜辺の砂鉄が真っ黒になる事だった!
日本は太古から噴火が多い。降り落ちた灰は地熱と日射で分解して砂鉄となる。
これを駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

波打ち際に沿って、干潟の浜に行く条もの縞模様が、或いは濃く、或いは淡く、えんえんと連なる。
漁師はこれを見て、海が荒れるか、和らぐかを見極めた。

特に地震の直前は、海底からの無数の気泡が間断なく噴き上がるので、思い砂鉄の粒はいつもより多量に海水の中に浮き上がり、これが長い波に大きく寄せられて、浜に上がる。
浜は一面に炭の屑を厚く固めたかの如く黒く敷かれる。

かつて、漢人が日本の西海に如墨という国名を記録した理由はこの青黒い海の色を見ての事ではないか。

地震鯰(なまず)のことわざは上流の火山を水源とする大河の口に(住む)漁師であれば(分かっていて)、日本のいたる所で(起こる)津波の、地磁気の(観察)から生まれたことわざであった。

鯰の黒い背の色はまさに「ぬち」の塩水にぬれた色そのものであった。漁師は水の底に巨大な鯰を空想して、これが地震の前になると里人に教えていると考えていたのである。

砂鉄を肥後で「なぎ」、伯耆で「のぎ」、越後で「ねぎ」、美濃で「なへぎ」という。
地震即ち「なゐ」(地震の古語)で、ゆり動いて煽り出るからと説かれている。

『儺の国の星・拾遺』より  (一部、読みやすく追加、変更しました)

地震の前にはナマズが暴れる」ということわざの由来が
現代では分からなくなっていたのですが、地震雲の大家、真鍋氏は
「地震の前には、浜辺が砂鉄で真っ黒に埋まり、それが海水に濡れて、
ナマズの背中のように黒く光る現象だ」
と説明してくれています。

それは地震の直前には、海底から無数の気泡があがって、
砂鉄を舞い上げて、それが浜に打ち上げられるからだという事です。

地名に込めたメッセージ
これ(砂鉄)を駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

筑前の「はまを」は「浜男」と漢字で書きます。香椎宮のすぐ近くです。
かつてはそこまで海だったと、いろんな方から聞きました。
浜のラインに沿って、鉄道が通っています。

浜男」とはその浜が真っ黒になるほど、砂鉄が上がって来た事を
伝えるためについた地名の可能性が出て来ました。そこには、浜男神社もあります。

よど姫神社や姫神社も70年に一度の津波を知らせるための
神社だという事を「高良大社」で書きました。

地名は歴史を物語ります。これらの地名は、津波が押し寄せた事を
後世に教えようとしている先人からのメッセージなのです。

福岡県の国道3号線の古賀市の所に「」という変な名前の交差点があります。「ながれ」と読みます。
江戸時代にここまで津波が来て、家が流れたと言い伝えています。

浜辺の砂鉄。

これは誰でも観察できる地震の予兆です。
全国のビーチ・コーマーの皆さん、また、浜辺を散歩する皆さん、
浜歩きの時には砂鉄を観察してください。
そして、検証して行こうではないですか。浜辺の砂鉄ほど分かりやすいものはありません。

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この日の高天原の砂浜の砂鉄です。薄い砂鉄の筋が何本か走っていました。
まだ、この砂鉄の重要さを知らなかったので、ちゃんと写真に撮ってませんでした。

それにしても、ここの砂浜が黒いのは、砂鉄が多かったからなのですね。
同じ砂鉄でも、小戸(御手洗)の方では、筋にならずに、50センチの塊の状態でしたよ。

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by lunabura | 2010-02-03 20:37 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(5)

二見岩 竜宮門と名付けちゃいました


二見岩   福岡県福岡市東区志賀島

竜宮門と名付けちゃいました

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「志賀海神社の神様は、今、島の横の磯の岩場にいらっしゃるのよね。」
と、知りあったばかりのMさんが何度も言います。

ルナは神社大好き人間だけど、人には内緒です。
だから、まさか、いきなりこんな話を聞かされていいのかしらと、戸惑いました。

Mさんの話がどうしても気になるので、ある朝、
その神社とその磯の岩場に行きました。

ルナは神様がいるかどうかは分からないのですが、
神社は清々しくて、とても幸せな気持ちになります。

志賀海神社にお参りした後、
志賀島を外周するドライブコースを車で走りました。
右側はずっと海です。
とてもきれいな海です。

ガードレールにはトンビが、数十羽も止まって羽根を休めていました。
こんなに沢山の大きな野鳥を見れるなんて、
何か、ラッキーな気分です。

そのまま車を走らせると、Mさんの言う磯の岩場はすぐに有りました。
そこは自然と車を止めたくなる景勝の地です。
大きな岩がごろごろしていて、磯遊びには持ってこいの場所です。

車を降りて立つと、目の前に巨大な岩が二つ、
まるで海へと続く門のようにそびえていました。

私はその正面に立って見とれていました。

すると、その正面の沖合の海が丸く光り出したのです。
その時気づいたのですが、その日は曇りでした。

そして、その沖合の海の上の雲だけが丸く切れて、
太陽の光がまっすぐ射したのです。
まさにスポットライトでした。

「あそこが、竜宮への入り口だわ。」
と、思ってしまいました。
そこで、ルナはこの磯を秘かに『竜宮門』と名付けました。

それから画家の青木茂の描いた絵「わだつみのいろこの宮」
というタイトルが思い出されました。

「きっと、あれが、わだつみの神のいらっしゃる海の底のお宮の入り口だ。」
と、自然に手を合わせました。


でも残念な事に足元はゴミだらけ。
何も掃除道具がないので、もう一度、
今度は掃除に来ようと思って家に帰りました。

帰り道、トンビたちはまだガードレールの上に止まっていました。

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右側の岩には穴が開いていました。
こんなのが世界中にあります。


 何故二人の人間が同じ日に掃除に来たの? 

 掃除をしようと思いつつ、なかなかチャンスがなかったのですが、
ある日、「明日行こう。」と思い立ちました。

その頃は何故か朝早くから目が覚めてしまう日が続いていました。
「まあ、目が覚めたらね。」
と軽く思いながら寝ました。

翌朝、5時に目が覚めました。

寝ぼけてしまい、「なんでまた早く目が覚めたんだろ。」
と思って寝直しました。

すると、なんと、カラスがベランダに止まって、
「カア、カア、カア、カア」と四回鳴いたのです。
こんな事は初めてです。
「あ、起こされた。今日はお掃除に行くつもりだったんだ。」
と飛び起きました。

 箒としょうけとビニール袋を持って車を走らせました。
そして、その竜宮門に着いて、ほうきをトランクから出した時です。

磯から、黒いビキニの若い女性が上がって来ました。
彼女は沢山の拾ったゴミをビニール袋に入れています。

 お互いに同じ事をしているのを見て、
すぐにどちらからともなく話をしました。

近くで見ると、その人は歴史の教科書に出て来る、
阿修羅王の仏像そっくりな顔立ちの人です。
その黒く日焼けしてひきしまったな身体と、整った美しい顔にルナもほれぼれです。

「千葉から車でずうっと海沿いにやって来たんです。
海がゴミだらけだったので、拾った所です。」
彼女にとっては海の掃除は当たり前の事のようでした。

「ここのウニは食べられるのですか。」
「もちろん、大丈夫です。
漁師さんたちがここのウニを採って売っているのですから。」

ここでの漁は一般人はご法度ですが、
彼女は汚れた海しか知らなくて、ここの海の中にいるウニが
安心して食べられるかどうかを聞いて来たのです。

「この島の奥には行きましたか?」
「いいえ。」
「この道をずうっと行くと、有名な勝馬海水浴場があって、シャワーもありますよ。」
と教えて上げると、濡れた水着のまま、すぐに車に乗り込んで出発しました。

 彼女を見送ると、勇気100倍。道路の掃除を始めました。
だって、これって、結構照れくさいのです。

でも、同じ日に同じように掃除をする人間に出会えたなんて、
これこそ、神様の計らいだと、思いましたよ。

 帰りに志式神社の前を通る時、またカラスが
「カア、カア、カア、カア。」
と、遠くの空で鳴くのが聞こえました。
「あ、また4回だ。今日は行けないけど、またお参りに行きますね!」
と思いながら、家路を急ぎました。

 帰ってからルナパパが
「何かお知らせがありましたか。」
と聞いてくれました。
「うん。あった。あった。
同じように竜宮門を掃除する人がいたのよ。
彼女は海を。私は道路を。
あの、タイミングで会えるなんて、神様のはからいとしか考えられないよ。」
と、報告しました。

今考えると、この件が御縁で、
『姫宮さまたちの物語』を書くようになったのかな、と思いました。

豊玉姫や玉依姫が、この「わだつみのいろこの宮」の姫神です。
このあたりの海域が舞台だと分かってきました。

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海の中道から能古の島を望む

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by lunabura | 2009-11-02 10:58 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(10)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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