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カテゴリ:筥崎宮・はこざき・福岡市( 2 )

筥崎宮(2)雌雄の珠とナマコと八旗


筥崎宮(2)
雌雄の珠とナマコと八旗

玉せせり
正月の3日に「玉せせり」があります。
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この二つの雌雄の玉を競り合う神事ですが、ブログで逍遥している内に、
この神事は玄界灘の浜の各地で行われていた事が分かってきました。
福津市では、子供会によって受け継がれているそうです。

この玉に触ると無病息災でいられるという事から競われるようになったのですが、
その玉が「二つの珠」と知ってから、干珠満珠ではないかという思いが離れませんでした。
そして、福岡県神社誌を紐解くと、ちゃんとそう書いてあるではないですか。
博多記には
「正月3日、玉採りの神事は神功皇后が三韓を退治した時、龍珠の干珠満珠の玉を献じた瑞相をかたどったものだという。雌雄の二つの珠がある。

また伝えている。
明応3年正月元旦卯の刻に博多上洲崎町に原田という人がいて、筥崎宮に詣でて、
汐井浜に出てはるかに沖の方を眺めていたら、不思議な事に光輝いて海上から浮き出て来たものがあった。

よく見ると一対の珠が打ち寄せてきた。それを拾って家に置いていると、種々奇怪な事があったので、同8年に一つは筥崎宮に、もう一つは櫛田神社へ納めたという。」
と書いてあった、
天明6年8月1日、櫛田神社からその球は筥崎宮に納められた。
やっぱり!干珠満珠の象徴でした。
別伝では、海から寄り付いた一対を櫛田神社と筥崎宮に納めたのが、
後に筥崎宮に納められたとあります。なるほど。

櫛田神社の祭りである山笠の時、各流れの人たちは箱崎まで走って来て、
浜でお汐井取りをしますが、二社の縁の深さはこういう伝承にも表れていました。
箱崎の浜は狭いながらも残されていますが、鍵が掛かって入る事が出来ませんでした。

筥崎宮と宇美八幡宮
御胞衣祭 12月31日
祭神の応神天皇は仲哀天皇の9年12月14日に御降誕されたが、御胞衣を大晦日の夜を徹して筥崎の地に納められたという由緒によって、12月31日の晩に行われる祭典である。
出産後約二週間経ってから、ここに埋められたというのですから、
吉日を選んだのでしょうか。胞衣は洗って乾燥させるとネットには書かれていました。
皇后の出産というものは格別いろいろな儀式があった事を伺わせます。
気になるのは、何故離れた所に埋納されたのかという点です。
宇美八幡宮の飛び地境内にも埋納地が存在します。

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筥崎宮と宇美八幡宮は直線距離で約8.8キロ。
こんなに離れて、埋納された理由がまだ分かりません。

筥崎宮と香椎宮
三元祭 一月一日
三元とは年の始め、月の始め、日の始めを言って、12月14日に応神天皇の御降誕があり、大晦日は夜を徹して尊き御胞衣を埋蔵したので、元旦には鏡餅に代えて海鼠(なまこ)を香椎の行宮に供御した。この古い例に従って今に至るまでこの日、ナマコ型の餅を献上する。
元旦という天皇家の重要な祭祀日に間に合うように胞衣が埋蔵されたようです。
それから朝になって香椎宮にナマコを献上したというのです。
その後はナマコ型の餅に変わったという事ですが、不思議な話です。

ふと思い出したのは、「口を利かぬナマコ」でした。
それはアメノウズメの所に出て来ます。夫のサルタヒコが死んだあとの話です。
アメノウズメの命は、ある時、海辺ですべての魚、大きいものも小さいものも集めて、
「お前らは天つ神の御子にお仕え申すか。(命を差し出して、献上用のお供え物になるか。)」
と尋ねたところ、なぎさの魚たちは皆「お仕えします。」とお答えしましたが、ナマコだけは何も答えませんでした。

そこで、アメノウズメの命はナマコに言いました。
「お前の口は答えぬ口だ。」
と言って、紐小刀でその口を切り裂きました。それ以来、ナマコの口は裂けるようになりました。

こうして、代々、島からの朝廷への貢物(みつぎもの)を献上する時には、初物を猿女の君たちにお与えになりました。
朝廷への貢物になる事について、ナマコが返事しなかったというのです。
ナマコが何を象徴するのか考えたこともなかったのですが、
神話ではナマコには「答えぬ口」という象徴が込められているのが分かります。

ナマコがそんな存在だとすると、皇后の後産である胞衣を埋めた後、
当時の朝廷にナマコを献上したのはやはりそれを象徴したのでしょうか。

当時、仲哀天皇は死を秘められたままです。

しかも中枢は久山町の斎宮に移動していて、香椎宮は空っぽ同然です。
神功皇后は産後は久山町の斎宮の方で過ごすのですから、
主無き香椎朝廷に口きかぬナマコが献上されたという事になります。

秘密にされているのは生まれた皇子の父である仲哀天皇の死か、
あるいは…もう一つの秘密?
まあ、ここらへんで止めておきましょう。


筥崎宮と香椎宮の縁の深さは
香椎宮の古宮祭の時に筥崎宮からも参加する事や、
その神幸祭に旗を掲げて参加する事からも分かります。
香椎宮の祭りについて福岡県神社誌を口語訳します。
香椎宮の神幸祭は最も荘厳を極め、その供奉行列は昔、神功皇后の三韓征討の時に、御出陣の陣容を模したるもので、特に官幣小社の志賀海神社から選出した八人の水手(かこ)は各櫓を持ち、箱崎の浦からは八旗を奉じて供奉し、また当時の重臣たる武内大臣、大伴大連、中臣大連、大三輪君、物部大連の役として氏子総代が神前で抽選して当たった者がそれぞれ従者を引き連れて、甲冑姿で供奉し、神輿の前後には獅子楽、稚児が供奉して勅使道を香椎潟にある頓宮まで神幸される。


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香椎宮の1年・都会の中の故郷~PART2 御神幸
The FURUSATOシリーズsakamoto
http://www.youtube.com/watch?v=O0B0qqG4Oew&feature=related

より。

旗には日本書紀に書かれている五人の重臣たちの名が書かれています。
筥崎宮からは八幡のシンボルである八旗を奉じます。
志賀海神社からは八人の水手(かこ)たちが供奉します。

こうして出陣の様子をお祭りにしてまで残しているのを見ると、
出港地は時の朝廷・香椎宮だったと考えるのが本筋のようです。
筥崎宮は地理から考えると那の国の水軍の本隊がある所だったかも知れませんね。







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by lunabura | 2012-03-12 21:45 | 筥崎宮・はこざき・福岡市 | Trackback | Comments(2)

筥崎宮(1)応神天皇の胞衣(えな)を箱に入れて埋納した


筥崎宮(1)
福岡市東区箱崎
応神天皇の胞衣(えな)を箱に入れて埋納した

筥崎宮と言えば「玉セセリ」と「放生会」(ほうじょうや)が
博多の祭として多くの市民に親しまれています。
今回はその歴史を辿ろうという事で、その長い参道を最初から歩いてみました。
駐車場は鳥居を車のままくぐって参道に入るとすぐ有料駐車場があります。

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三号線の傍に大灯籠がありました。かなりの高さです。
これがかつては博多湾を通る船の灯台になっていたのですね。

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放生会の時には左右に夜店が並び、まだ暑さの残る9月に浴衣を着たりして参拝します。
放生会は「ほうじょうや」と発音します。

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やっと一の鳥居に着きました。
鳥居の数え方は筥崎宮では、社殿に近い方から一、二と数えていくそうです。

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拝殿前です。ちょうどホークス応援の垂れ幕が掛かっていました。
ホークスだってアビスパだって絵馬を掲げて参拝する必勝の神様。
って、どなた?
と、ようやく御祭神を意識するようになりました。

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御祭神 応神天皇   
     相殿 神功皇后 玉依姫
そう。ずっとこれまで一緒だった神功皇后の御子、ホムダワケ皇子が御祭神でした。
生立八幡神社で初めて立ったあの赤ちゃんが、こうして堂々と祀られていました。
神功皇后の御子こそ八幡信仰の中心となった人物なんですね。

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拝殿のすぐ右にあるこの赤い囲いはホムダワケ皇子出産時の胎盤が埋められています。
宇美八幡宮ととても縁が深いのが分かります。

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この日は偶然に扉が開かれていて、中を撮る事が出来ました。
石碑には「筥松」(はこまつ)と書かれています。
立札を読んでみましょう。
御神木 筥松
筥崎宮の御祭神、応神天皇が筑紫宇美の里(粕屋郡宇美にてお生まれになった時、(西暦200年)その御胞衣(おえな)を筥に納めて浪の音も静かな白砂青松の浄地に埋め、標(しる)しの松を植えたところと伝えられている。
それがこのところであって、その後この地を箱崎と称え、この松を「標の松」又は「筥松」といい御神木として尊んでいる。

千早振る 神代に植えし 箱崎の 松は久しき 標しなりけり
              続古今集 法印行清
胞衣(えな・プラセンタ)については宇美八幡宮で勉強しましたが、
縄文の昔から出産後の胎盤を埋めたり、高い所に置いた風習がありました。
このホムダワケ皇子は神功皇后のお腹の中に入ったまま戦って勝ったので、
胎中天皇と言われ、勝利の神として絶大なる信仰を受けました。

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この扁額は鎌倉時代の亀山上皇の自筆を模写したもので、
天皇の巨大な木像が境内の右手に祀られています。

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元寇の時、「身を以て国難に代わらん」と、全国の社寺に国家の安泰を祈願されたそうです。
博多区の東公園の亀山上皇の銅像の原型で612センチの高さです。
(山崎朝雲作 明治35年)

で、「敵国降伏」という字についての由来は
さらに遡って平安時代の醍醐天皇の時代に、
太宰少貳真材朝臣が石清水八幡宮に廻廊を造営寄進しようと立願したところ、
延喜21年6月21日に神託があって、
「あらたに新宮を筑紫の筥崎に造営し、宮殿を乾(北西)に向けて柱に柏(かしわ)を用いよ。
末代になって異国より我が国を狙うものがいれば、吾はその敵を防去する。
故に敵国降伏の字を書いて礎の面、吾が座の下に置くべし」
とあって、宮殿が建てられたといいます。(福岡県神社誌)

石清水八幡宮の祭神がやはり応神天皇ですから、
ゆかりの深い箱崎で日本を守るという神託だったという事になります。

はたして鎌倉時代になって元軍が日本に上陸して大変な戦いになりました。
筥崎宮も戦火にあって炎上しましたが、二度とも戦いに勝った事で、
こうして勝利をもたらす神として、今でも人々の祈りが絶えません。

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境内の右手には元寇の時の碇石が置かれています。

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                  (つづく)


地図 筥崎宮 宇美八幡宮








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by lunabura | 2012-03-11 11:53 | 筥崎宮・はこざき・福岡市 | Trackback | Comments(26)
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