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カテゴリ:大嶽神社・おおたけ・福岡市( 5 )

大嶽神社(1)おおたけ・磐座の上に神社が建っている?・ここは立花山を遥拝する古代からの聖地?


大嶽神社(1)
おおたけじんじゃ
福岡県福岡市東区大岳
磐座の上に神社が建っている?
ここは立花山を遥拝する古代からの聖地?


ここは出発点。これまで何度か紹介した福岡県の志賀海神社です。
海に向かった不思議な鳥居があります。遥拝所です。
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いったい何処に向かっているのだろうと、お尋ねした所、
「宮中ほか、すぐ前に見える大嶽神社などです。」と教わりました。
写真の鳥居のちょうど真ん中に、その大嶽神社の山が写り込んでいます。
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鳥居の先の石の垣根まで行くと青い海が広がり、大嶽神社が右側に見えています。
今日はどうしてもそこに行ってみたい!

志賀海神社から戻る途中の左手から少し入りこんだ所にありました。
すぐ隣は大岳荘という海の幸の食事処。それをめざせばOKです。
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鳥居が赤だ。もしかしたら、ここはお稲荷さん?
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けっこう急な坂です。
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階段を上ったらすぐに境内でした。桜が散ったばかりです。
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近寄ってみるとやっぱりお稲荷さんでした。
でも、何だかへん。なんだろう。普通のお稲荷さんとは何処か違う。
ルナの嗅覚が働きます。
その原因はキツネ像の土台の石にありました。
さりげなく土台になっている石がどうやら盤座(いわくら)の岩に似ている。
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すぐ横にもいくつもの岩があって、その一つに四角い穴が彫られて、
そこにかつての扁額らしきものが建てられています。
「正一位稲荷宮」と彫ってあります。でも、その下の岩の方が気になる。
どうやら稲荷信仰よりもっと前の時代の痕跡です。
この岩は火成岩らしく、表面がつるっとしています。
他にも岩がないかなと、数m奥に行くと、こんな岩が。
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ひだひだになっていて、さっきのとは全く別の岩です。という事は?
ここは、組み石の上にある?
そう、それを磐座(いわくら)という。
ルナはかつて巨石や盤座に夢中になって、
鹿児島から神戸、三輪山、はてはイギリスまで、見て回った時期があったので、
この岩の感じに久し振りの興奮を覚えました。
さらに奥の方に行くと崖になって、海が見えました。そして。
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おお!な、なんと正面に立花山が…。ここからは見事に二上山だ。
この山はイザナギイザナミが一緒に暮らした神殿だという伝承が
麓の新宮町にあるのを最近知りました。如何にも貴い山容です。
すると、ここは、立花山の遥拝所になる?
ここは古代の盤座の上に神社が建ってるんじゃない?
そう思って、他を探すと少し下がった所にも岩が。
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さらに下に行くと祠の下に平べったい巨石が。
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やっぱり、そうだ。盤座の上に祠が建っている。
このフラットな感じは、かつての祭壇石かもしれない。
想像するに、この山にはもともと磐座があって、
後の世に土で基礎を固めて、稲荷の祠を建てたのではないか。
変形しながらも祈りの場として、連綿と続いている聖地なのではないか。
そんな思いがかけめぐります。
ここの巨石は、宗像大社の沖ノ島の盤座群と同様の盤座で、
何らかのネットワークを持っていたのかも知れない。

巨石文化といえば、このブログでは日天宮の所で紹介しました。
これがあるという事は重要な祈りの聖地なのです。

久し振りの磐座を見て興奮しながら帰ったのですが、
御祭神について調べていると、考えさせられる情報が入って来ました。
            (つづく)



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by lunabura | 2010-10-20 22:41 | 大嶽神社・おおたけ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

大嶽神社(2)おおたけ・シナツヒコは風の神さま・シナツ星とはスピカ星


大嶽神社(2)

祭神・シナツヒコは風の神さま
そしてシナツ星とはスピカ星

 
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さて、海の中道の途中の小山にあった大嶽(おおたけ)神社
盤座(いわくら)を思わせる岩があちこちにあって、
しかも立花山を見ていたのが前回分かりました。
不思議なのは、神社の名前です。
「大嶽神社」が正式名のようですが、
岩の上に置いてあった扁額には「正一位稲荷宮」とあり、
現在の扁額は「正一位 大嶽神社」。なんだかミックスしたような…。

その不思議な感じの理由を明らかにするために
今回は祀られている神々について見て行きたいと思います。

御祭神の名前は志賀海神社のリーフレットに書いてありました。
志那都比古・志那都比売・大濱宿禰・保食神の4柱です。
今日は最初の二柱を見て行きましょう。

志那都比古と志那都比売
この読み方は神社に伺って、シナツヒコ・シナツヒメと教えてもらいました。
とても珍しい神さまです。古事記を調べるとありましたよ!
長いけど、現代語訳を読んでみましょう。
日本の島々と神々が生まれて行く感動的な情景が描かれています。
イザナギとイザナミの命の間に生まれた最初の子供はヒルコでした。
お二人は、話し合いました。
「今回生まれた子供は良くなかった。やっぱり、天つ神の所に行って、相談しよう。」
と言って、一緒に参上して天つ神の御意見を求めました。
そこで、天つ神の意見によって、太占(ふとまに)で占って、告げられました。
「女が先に言ったのが良くなかった。また帰って、やり直しなさい。」
そこで、再び天下りして、天の御柱を同じように廻りました。
今度は、イザナギの命が先に「ああ、なんと素敵なお前よ。」と言って、その後、イザナミの命が「ああ、なんて素敵なあなた。」と言いました。

日本の島々を生む
そうして再び、夫婦の交わりをして生んだ子供は
淡道(あわじ)の穂の狭別(さわけ)の島。
次に伊予の二名(ふたな)の島。この島は身体は一つで、顔が四つ有りました。顔ごとに名前が付いています。
伊予の国はエヒメと言い、讃岐の国イヒヨリヒコと言い、粟の国はオオゲツヒメと言い、土佐の国はタケヨリワケと言います。
次に隠岐の三つ子の島を生みました。またの名は天のオシコロワケ。
次に筑紫の国を生みました。この島もまた、身体は一つで顔が四つありました。顔ごとに名前が付いています。
筑紫の国は白日別(しらひわけ)と言い、豊国は豊日別(とよひわけ)と言い、肥(ひ)の国はタケヒムカトヨクジヒネワケと言い、熊襲の国はタケヒワケと言います。
次に壱岐の島を生みました。またの名は天の一つ柱といいます。
次に津島を生みました。またの名は天のサデヨリヒメと言います。
次に佐渡の島を生みました。
次にオオヤマトトヨアキヅ島を生みました。またの名は天つミソラトヨアキヅネワケと言います。
こうして、八つの島を先に生んだので、大八島国(おおやしまぐに)と言います。
 そうしてから、戻る時に吉備の児島を生みました。またの名はタケヒカタワケと言います。

次に小豆島を生みました。またの名をオオノデヒメと言います。
次に大島を生みました。またの名はオオタマルワケと言います。
次に女島(ひめしま)を生みました。またの名は天一根(あめのひとつね)と言います。
次に知訶(ちか)の島を生みました。またの名は天の忍男(おしお)と言います。
次に両児(ふたご)の島を生みました。またの名は天の両屋(ふたや)と言います。

神々を生む
こうして、国を生み終えて、さらに神を生みました。
生んだ神の名前は、オオコトオシオの神。
次にイワツチビコの神を生み、次にイワスヒメの神を生み、
オオトヒワケの神、天のフキオの神、オオヤビコの神、カザモツワケノオシオの神、
次に海の神で名は大綿津見の神を生み、
ミナトの神、ハヤアキヅヒコの神、イモハヤアキヅヒメの神を生みました。
(オオコトオシオの神からアキツヒメの神まで合わせて十神。)
このハヤアキツヒコとハヤアキツヒメの二柱の神はそれぞれ川と海を受け持ちました。

次に生んだ神の名は、アワナギの神、次にアワナミの神。
次にツラナギの神、次にツラナミの神。
次に天の水分(ミクマリ)の神、次に国の水分の神、
次に天のクヒザモチの神、次に国のクヒザモチの神。

次に風の神、名はシナツヒコの神を生み、
次に木の神、名はククノチの神を生み、
次に山の神、名は大山津見の神を生み、
次に野の神、名はカヤノヒメの神を生みました。
またの名は野椎(のづち)の神と言います。
(シナツヒコの神より野椎の神まで、合わせて四神。)
この大山津見の神とノヅチの神の二柱はそれぞれ山と野を受け持ちました。

すごいですねえ。この神々の名前が朗々と詠まれるのを聞けば、
日本の国土が形成されたようすが目に浮かぶようです。
そして、これが古代人の倭の国土のイメージなのです。
その中で、今日の話に関係があるのを青字で示しました。

知訶(ちか)の島
これは注釈では不明となっているのですが、私は志賀島ではないかと思います。
先の方で詳述しますが、
「昔は近島と言ったのが、今は訛って資河島という。」と言う伝承があります。
さらに古くは千顆(ちか)の島だったようです。
(「高天原」に書いています。)

この大嶽神社のある山も昔は島でした。
そして風の神・シナツヒコを祀って、船の安全を祈ったのが分かりました。

シナツ星はスピカ
ところが、この「シナツ」という言葉が『儺の国の星』には星の名前として出ています。
それによると「シナツ星」とは「スピカ星」を指していました。
これはシナツヒコとは関係ないのでしょうか。
そんな疑問が生まれたので、その部分を意訳してみます。

「シナ」には「中間・中」の意味があって、
「行きしな、もどりしな」と言って、「行く途中、戻る途中」の意味で使う。
乙女座のスピカを若狭の三方では「しんじぼし」と呼ぶことを野尻抱影が書いている。
「しんじ」とは古語で彼岸の中日、(春分と秋分)の事である。
昼と夜の長さが同じで、冬と夏が接する時である。
これからスピカを「しなつ星」「ひなかば星」とも言った。

スピカはバビロニヤでは春分を司る女神であった。
身に白絹のひれをかけて、髪には白銀の髪飾りを挿し、手に麦の穂を持つ姿だった。
かつてのバビロニヤでは春分の日を年の始まりとして祝っていた。
かつての栄華を誇った王国も一朝だけ咲く花の夢のようにはかなく消えてしまったが、
このスピカが春分の日の星として礼拝された時代は紀元前666年の頃である。

しかし、歳差運動によってスピカは春分を示さなくなり、今は夏至近くを示す星となった。そこで新しく付いた名前が「日夏星(ひなつぼし)」「日向星(ひなたぼし)」で、江戸時代には「始夏星(しなつのほし)」と呼ばれたかもしれない。

野尻抱影が採集した「しんじぼし」という言葉を残す若狭は、
近東や中東の民族特有の面立ちが見られる東の限界地である。
スピカが春分の日の女神であるという幻影が筑紫を通って
若狭まで運ばれた名残の言葉である。
小乗仏教で中時(しんじ)というのにもその名残が残っている。

これは真鍋大覚氏の本をかなり意訳しました。この文から読み取れるのは、
紀元前の昔、中東あたりのバビロニア王国が栄えていた頃、
スピカが春分の日と秋分の日に東から昇って、新年を告げる星だった。
スピカは両手に麦の穂を持つ女神として祀られた。
その暦を持った氏族が筑紫や若狭に辿り着き、
スピカをシナツ星とか、シンジ星、ヒナカバ星と呼んでいた。
しかし、歳差運動によって、今では1か月以上もずれてしまって、
春分の日を示さなくなった。

という事です。
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(『星の神話・伝説』野尻抱影より)

新年を決める基準として春分や秋分を選ぶ氏族と、
夏至、冬至を選ぶ氏族があります。
これは世界中の古代文明を見る時、注目したい点です。
メキシコのピラミッドは春分・秋分の日に蛇の影が出現するように作られています。
イギリスのストーンヘンジは最近の研究では夏至の夕陽が
一点を指すように作られていると言う研究が発表されました。
日本でもそのように、新年を見極める仕組みが古代の聖地で見られます。

確かにこの神社から見えた立花山は東の方にあります。
阿曇海人族たちはこの大嶽神社の場所を見つけて、
東の空にスピカが昇る観測点としたのではないかと思いました。
そして、故郷と変わりない新年の星を祝ったのかも知れません。
祭神の名前「志那都比古・志那都比売」にはそのような
「シナツー春分秋分を教える神」の可能性があるかもしれないと思いました。

☆ ☆ ☆

久し振りにスピカが出て来たのですが、このブログももうすぐ一年を迎えます。
このブログは「香椎宮とスピカの謎解き」から始まりました。
こうして、一年経って、またスピカに戻って来たのがとても不思議です。
しかも、ここから見える立花山の麓に香椎宮があるのですから。

眞鍋大覺氏の本の内容は難解だし、驚く事ばかりで、
自分でもよく理解できないまま、チャレンジして来ました。
三行しか理解できなかった眞鍋氏の本も一年の積み重ねのお蔭で、
少し理解出来るようになりました。(我ながら成長したなあ)
次回は一年前には理解出来なかった部分にチャレンジします。

地図 志賀海神社 大嶽神社 立花山 香椎宮


スピカのお話⇒香椎宮




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by lunabura | 2010-10-19 20:58 | 大嶽神社・おおたけ・福岡市 | Trackback | Comments(4)

大嶽神社(3)おおたけ・立花山と古代祭祀―香椎宮と志賀海神社と春分・中東から来た人たちの邑


大嶽神社(3)

立花山(二神山)と古代祭祀―香椎宮と志賀海神社と春分
中東から来た人たちの邑があった

この大嶽神社の祭神・シナツヒコ風の神である事が分かりましたが、
シナツには他にも季節を分ける「中日」の意味があり、
古代の新年である春分や秋分の日を告げるスピカ
の意味もある事が分かりました。
今日はその事が書かれている『儺の国の星』の前後
(一年前には理解出来なかった部分)にチャレンジです。
では、意訳しながら紹介します。
二神山とは春中峯山(つくしねやま)とも書き、山頂が二つに見える山を指す。
古代人は春分秋分の日、二神山に太陽が出入りする場所を探し出して、その西や東に邑(むら)を作り、都を作った。
国王を証明する金印が出た志賀島からも、二神山(立花山)が東の方に見えるので、そういう邑があった。
立花山の西の麓に橿日宮(香椎宮)があるが、「かし」とはスピカの古語で、春分と秋分の象徴としてこれを祀る祠があった所が古宮即ち日振宮(ひふりのみや)だった。

橿(かし)の木や椋(むく)の木もその昔は陽光がさんさんと降り注ぐ砂漠のオアシスに茂る常緑樹であった。古代に中東や近東から日本に移り住んだ人たちは、それを見て、古里に茂る常緑樹を偲んだ。(椋の実は正月の羽根つきの黒い実)椋の木には黒く固い実が成るのであるが、それを空から降る隕石の化身と信じた。
という内容です。
ではこの文の流れを追いながら眞鍋氏の説を見て行きましょう。

●志賀島から立花山が見える。
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これは志賀海神社の遥拝所から東を撮ったものです。
飛行機の下に二神山(立花山)が写っています。
肉眼ではもっと大きくはっきりと見えるんですよ。
(自分のデジカメの限界をつくづくと感じます。)
この山の右手前ぐらいに香椎宮があります。

春分の日を新年としていた中東の氏族は、
山の間から朝日が昇るのを観測出来る場所を求めて邑(むら)を作る人たちで、
この志賀島がまさしくそれに該当する場所であるのを彼らは発見しました。
だから、この志賀島には当時の都があったはずだというのが眞鍋氏の説です。
その証しが金印なのですね。
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(志賀島歴史資料館所蔵のレプリカ。志賀島の山の岩の下から出て来た。
漢の委の奴の国王と書いてある。)

香椎宮を橿日宮と書く由来は「カシ」が古代語でスピカだった事から。
そして、この志賀島から見える二神山(立花山)の麓に
それを祀る祠を丘の上に作った。そこが香椎宮の古宮である。


一年前、この一文に心のざわめきを覚えて福岡県の香椎宮に行きました。
実際に行ってみると、古宮には仲哀天皇神功皇后の伝承が残っていました。
そこでその時代の春分と秋分の天文現象を調べて、
確かにスピカが太陽の後を追って昇るのを天文ソフトで確認しました。
たった三行を理解するのにずいぶん調べましたねえ。
そして一年たって、ようやくその前後が理解できるようになりました。
香椎宮に詳細記事)

春分の日の古代祭祀線は立花山―香椎宮―大嶽神社―志賀海神社
全体で捉えるとさらに具体的に分かるのではないかと思いました。

ちなみに古代の新年は春分の日と秋分の日が当てられて、
現在の一年をかつては二年と数えた時代があったそうです。
(日本書紀の年代の計算で、よくこれが出て来ます。)

椋の木には黒く固い実が成るのであるが、
それを空から降る隕石の化身と信じた。


これについては眞鍋氏はこう説明しています。
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。
2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。(古物神社に書いています。)

この話は、実は私はまだよく理解出来ていないのですが、
たまたま、くじらさんから面白いコメントをいただいて、ずいぶん理解の助けになりました。
そのやりとりの一部を紹介します。(古物神社の記事にて)
「るなさま、いつも貴重な情報、示唆を与えてくださり、ありがとうございます。
古代物部郷のひとつ浮羽物部氏の末裔の方のはなしによれば、中近東で栄華を極めていたソロモン王国を支えていた氏族が物部氏とのことを伺いました。
彼らはインド洋から東南アジアまでの海域で、ある特定の砂浜から採取した砂鉄から鉄の精錬を行い、現地人と交易をおこない、見返りとして膨大な量の胡椒を積み込み、王国に富をもたらしたということです。これをソロモンの知恵というそうです。
糸島の弥生中期の製鉄遺跡 元岡遺跡群や、出雲の斐伊川流域 製鉄遺跡群も、あるいはそのなごりかもしれないと現在調査中です。
また、世界ではじめて鉄の生産を行ったヒッタイト以前は、隕鉄を原料と為し鉄器の製造にあたっていました。そのため当時(シュメール)は鉄の価格は金の5倍、銀の40倍だったそうです。日本の古代史にオリエント文明の名残が残されている可能性は、否定できない事実かもしれないとわたしは最近では考えています。」

「はじめまして。浮羽物部氏の情報をありがとうございます。お話がとても分かりやすくてありがたいです。
この話は那珂川町に伝わる暦法の眞鍋家と補完し合います。
ヒッタイトはハッティーとも言い、それがハチマンとなったという事です。宇佐八幡と関連します。いよいよ、古代鉄を頑張んないといけないかなあ。
宮地嶽古墳の近くの丘は鉄を採った後のカナクソで山になっているそうです。
名島神社に書いていますが、三笠宮もオリエント研究に向かわれました。」

「少々説明を付け加えますと、「物部が中東出身という説話」は浮羽物部氏族に繋がる家系の中心となる人物が、過去商社マンとして世界各国を渡り歩き得た体験から基づいた私見として話してくれたものであります。浮羽物部に口承伝承されているわけではないということをお伝えさせていただきます。物部本家に関しては、現在進行中という段階です。補足説明させていただきます。」

「補足説明ありがとうございました。本家の伝承と、ルーツを調査した方のお話と二つあるのですね。よく分かりました。
でも、その世界各国を回った方、是非本にしていただきたいですね!だって九州の古代人は9割が渡来人です。そのルーツを外国で探さないといけないんですから。
本家の調査は困難でしょうが、形になる事を願っています。」
この浮羽(うきは)物部氏というのは、福岡県の筑後川流域の浮羽郡の物部氏のお話です。
日本書紀には生葉(いくは)と出て来ます。
王塚古墳の所にも少し書いています。)

やっぱり数行理解するのに、これだけの知識が必要でしたね。

この物部氏についても古物神社の所でちょっとだけ勉強してます。
その一部を書きます。
物部氏は石上に改姓しましたが、眞鍋氏によると、
「石上(いそのかみ)とは坩堝(るつぼ)の達人」を指すそうです。
物部氏については、福岡県と佐賀県の県境にある背振山の南、佐賀県側にいて、
南天の星座を観測していたと書いています。
福岡県の那珂(なか)の中臣(なかとみ)氏と和睦したり争ったりしています。
彼らは中東がルーツで、倭人に星占を教えています。

まだまだ謎が多くて、阿曇族と物部氏とはどうなっているのか、
シュメール人とケルト人はどうなっているのか。ルナは分からないのです。
        
次の写真は二枚とも立花山です。
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志式神社から見える立花山は三上山です。
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大嶽神社から見える立花山は二上山です。
見る方角によって全く違う山に見えます。
二上か、三上か。これは海から湊を目指す船人にとっては、
航路を教えてくれる、まさしく神の山ですね。

ブログ内で那の国の古代祭祀の旅
 香椎宮⇒志式神社⇒志賀海神社⇒名島神社⇒大嶽神社

地図 志式神社 大嶽神社 志賀海神社 立花山 香椎宮 





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by lunabura | 2010-10-18 17:58 | 大嶽神社・おおたけ・福岡市 | Trackback | Comments(13)

大嶽神社(4)祭神の大濱の宿禰は阿曇の連の祖/さばめく海人たちを束ねた人


大嶽神社(4)

祭神の大濱の宿禰は阿曇の連の祖
さばめく海人たちを束ねた人


貝原益軒の『筑前国続風土記』にその名前が出てくるので、現代語訳します。 

神功皇后新羅に行かれる時、御船は夜来て、
粕屋郡資河(しか)島に停泊されました。
お付きの者に大濱小濱(おおはま・こはま)という者がいました。
皇后は小濱を呼んで、「この島に行って火を貰って来なさい」と言われたので、
小濱は手に入れて帰って来ました。
大濱(おおはまー日本紀の応神天皇紀に、阿曇(あずみ)の連(むらじ)の祖、
大濱宿禰とあるのがこの人であろう。)は尋ねました。
「近くに人家があったのか。」
小濱が言いました。
「この島は打昇浜(うちのぼりはまー奈多の浜)と近く、連なっています。
ほとんど同地と言ってもいいほどです。」
それで、近島と言ったのが、今は訛って資河島といいます。


大濱は神功皇后のそば近くに仕えた人
久し振りに神功皇后が出て来ました。これは新羅と戦う前の話です。
原文では大濱と小濱は「陪従」とあるので「お付きのもの」と訳しました。
これから分かるのは大濱は神功皇后のそば近くに仕えたという事です。

志賀島の語源
また、この話では「ちかしま」→「しかしま」となった語源の説明をしています。
博多の人の会話を想像しました。
「しかの島は、何で、しかの島と言うとね。」
「ああ、志賀島と奈多が近かったからじゃなかとね。
ほら、神功皇后が火ば貰って来いちゆうて、すぐに貰って来たろうが。」
「そうな。近かったから近島ね。チカ島がシカ島になったとね。なるほど。」
と噂し合って、神功皇后の話と結びつけましたとさ。

でも、真鍋大覚氏の研究では、
福岡県の博多周辺は海の中にあって、沢山の島があり、
多島海を千顆海(ちかのうみ)と言っていたという事なので、
これがもともとの語源ではないかと思いました。
今でも、壱岐の島からフェリー船で博多湾に入って行く時には、
沢山の小島が見られる、とても美しい多島海です。
眞鍋氏はこうも言っています。
枕詞として有名な「ささなみの」は「志賀・なみ・寄る・夜」などにかかりますが、
「ささの海」に浮かぶ「ささらふね」から来ていたとは、もう誰も知りません。

暦法家の家だからこそ、言い伝えたのでしょうね。
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(ここが舞台となった打昇浜(うちのぼりはまー奈多の浜)です。
志式神社の裏手になります。
水平線の左の島影が濃いのが大嶽神社のある所。
その右奥の色の薄い丸い島が志賀島。)

大濱の宿禰には海人たちを束ねた功績があった
大濱については日本書紀の応神天皇の所に書いてあるというので、
そちらも調べました。
応神天皇3年の冬、10月3日に東(あづま)の蝦夷がことごとく貢ぎ物を献上した。蝦夷を使って厩坂道(うまやのさかみち)を作らせた。

同年の11月に、あちこちの海人サバメイテ(訳のわからない異国の言葉を話して)命令に従わなかった。そこで、阿曇の連の祖(おや)、大濱の宿禰(すくね)を派遣して、その海人たちを平定した。それから海人の統率者になった。こうして当時の人たちのことわざで「サバアマ」と言う由来となった。
と書いてありました。
応神天皇神功皇后の子供ですから、さっきの話から20年位後でしょうか。
大濱は同一人物の可能性がある訳です。
新羅に勝利した神功皇后と竹内宿禰は国内でも
蝦夷や海人などを支配下に治めたのですが、
まだまだ不安定な時代だったのがこの記事で分かります。
面白いのは海人たちがサバメク事。
異国語を話すために言葉が通じなかったと解釈されています。
海人族といっても、いろんな氏族がいたのが想像されます。
その海人たちを平定した人が大濱の宿禰です。
彼の出自はこの志賀島を中心に活躍した阿曇族(あずみぞく)。
故郷の島にある、この大嶽神社に神として祀られていたのですね。

(ちなみに蝦夷も平安時代の本には外国語を話す国として描かれているので、
古代の日本ではいろんな国の言葉が話されていたのが分かります。)

                        (つづく)

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境内の裏手のようすです。




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by lunabura | 2010-10-17 16:54 | 大嶽神社・おおたけ・福岡市 | Trackback | Comments(4)

大嶽神社(5)ウケモチの神から五穀と蚕が生まれた・ハイヌウェレ神話と日本の神話


大嶽神社(5)

ウケモチの神から五穀と蚕が生まれた
ハイヌウェレ神話と日本の神話


さて、今日は最後の祭神、「保食神」です。「うけもちの神」と読みます。
字から分かるように食べ物の神さまです。日本書紀に出て来るので訳してみます。
天照大神が天上にあって、言いました。
葦原の中つ国保食(うけもち)の神がいると聞いています。
そなた、月夜見尊(つくよみのみこと)、行って見て来なさい。」と。
月夜見尊は命令を受けて降りました。そして保食神の所に行きました。

保食神は首を回して国土を見ると口からを出しました。
又、海を見ると、のひれの大きいもの、小さいものを口から出しました。
又、山を見ると、毛の荒い動物、柔らかい動物を口から出しました。
その各種の物を全部揃えて、沢山の机に並べて饗応しました。

この時、月夜見尊は顔色を変えて怒って言いました。
「けがわらしい。いやしい。どうして、口から吐き出したものを、
あえて私に食べさせようとするのか。」
と言って、即座に剣を抜いて、殺してしまいました。
それから天上に戻って、詳しくその状況を話しました。

すると、天照大神は大変怒って、
「お前は何と悪い神だ。もう会わない。」と言いました。
そこで月夜見尊と、一日一夜隔てて離れて住むようになりました。

この後、天照大神はまた天の熊人(くまひと)を遣わして、
どうなっているか見に行かせました。この時には保食神はすでに死んでいました。
すると、その神の頭頂からは牛と馬が生れていました。
額からは(あわ)がなっていました。眉の上には(かいこ)が生まれていました。
眼の中には(ひえ)が生まれていました。腹の中にはが生まれていました。
陰部からは麦と大豆や小豆が生まれていました。

天の熊人はこれを全部持ち帰って、献上しました。
天照大神は喜んで、
「これはこの世の青人草(人間―青い目の人とも言う)が食べて生きるものです。」
と言って、粟(あわ)稗(ひえ)麦豆を畑の種子としました。
また稲は水田の種子としました。
また天の邑君(むらきみー農民の長)を定めました。
そこで、その稲種を初めて天の狭田(さなだ)や長田に植えました。
その秋に実った穂は大変長く垂れて、豊作でした。
また口の中に蚕を含んで絹糸を引き出すことが出来るようになりました。
これから初めて養蚕が始まりました。

ウケモチの神を訪ねた月読尊(つくよみのみこと)は、
その神の口から食べ物が出て来るのを見て、殺してしまいました。
その為にアマテラスと絶交状態になります。
これが太陽と月が一緒に空にいられない理由となっています。
いかにも神話らしいですね。

ところが思いがけない事に、ウケモチの神の死体から五穀の種と蚕が生まれました。
これが倭人に豊かな作物を与えてくれました。
この話は一見残酷な話のようですが、
殺された神や女神から食物が生れるパターンの神話は
ハイヌウェレ伝説といって、東南アジアなど各地の神話に見られるものです。
作物は国によって違います。
インドネシアでは身体をバラバラに土に埋めると、タロイモが生まれて来ます。
なんだか、縄文土偶がバラバラに壊されて埋められる話を連想しませんか?
次の写真は三内丸山遺跡(縄文時代)の出土状況です。
c0222861_152184.jpg

(写真提供:青森県教育庁文化課)
土偶がわざわざ壊されてあちこちに埋められているのは、
この保食神やオオゲツヒメの神話で説明できるのではと思いました。

対応していた朝鮮語
驚いたのは、岩波文庫の訳注に朝鮮語の事が書いてあった事です。
この保食神の神話が朝鮮語で読み解かれるというのです。
岩波文庫の訳注を写します。
牛馬・粟・蚕・稗・稲・麦・大豆・小豆が生るとあるが、
これらの生る場所と生る物との間には、朝鮮語ではじめて解ける対応がある。
以下、朝鮮語をローマ字で書くと、(aは逆様のaですが、aで書きます。)

頭(mara) と    馬(mar)
顱(cha)  と    粟(cho)
眼(nun)  と    稗(nui白米に混じった稗類)
腹(pai古形はpari)と稲(pyo)
女陰(poti) と    小豆(pat)

これは古事記の場合には認められない点で、書紀の編者の中に、朝鮮語の分かる人がいて、人体の場所と生る物とを結びつけたものと思われる。
(金沢庄三郎・田蒙秀氏の研究)

なるほど。すごい研究ですね。
(韓国語は一日で挫折したルナです。その重要性は分かるんだけど…。
それはさておき)
日本書紀の編者に朝鮮語が分かる人がいるのは当然じゃないかな。
当時、仏教も寺院も仏像も壁画も全部朝鮮半島経由ですもん。

日本書紀を開いて驚いたのは、百済・新羅・高句麗の人たちが
あちこちに登場する事。ひょいひょいと玄海の荒海を越えて、
行ったり来たりしている。
だから『日本書紀』という歴史本を中国語(漢文)で書こうとする時も、
正史の書き方、中国風の年代の計算なんかは、
中国や百済の人たちなんかから習いながら書いたんだろうなと思います。
古代日本って、今より国際的みたい。

話を戻しましょう。まとめです。
このウケモチの神の神話は、モチーフは南方から、
こまかい作物の対応は北から来たのが分かりました。

古事記にも似たのがあるけど
あれ?もう一つ気になるのは、古事記に出てくるオオゲツヒメ
同じような話だけど…。混乱しそう。
こっちも訳してみよう。
高天原から追放されたスサノオの命は食べ物をオオゲツヒメに乞いました。
すると、オオゲツヒメは鼻や口や尻からいろんな食べ物を取り出して、
いろいろと料理を作りそろえて献上しましたが、
スサノオの命はその様子を覗き見して、汚らわしいものを献上すると思って、
即座にオオゲツヒメを殺しました。
こうして、殺された神の体からは、頭から蚕が生じ、両目からは稲の種が生じ、
両耳からは粟が生じ、鼻からは小豆が、
陰部からは麦が、尻からは大豆が生じました。
これを見て、カミムスビノミオヤの命はこれを取らせて種としました。
やっぱり同じモチーフの話でした。
殺されたオオゲツヒメからも食べ物が生れるのですが、
眞鍋大覚氏はその語源を大月氏胡語に見つけていました。
大月氏(だいげっし)って聞いた事あるけど、どうなってるの?
月氏
秦・漢の時代、中央アジアに拠ったイラン系またはトルコ系の民族。
前漢の初め、甘粛省敦煌地方から匈奴に追われてイリ地方に、
紀元前2世紀ごろ、さらに烏孫に追われてアム河畔に移り、
大夏を征服して一大国家を建てた。
紀元前1世紀の中葉、その諸侯の一人によって滅ぼされた。
匈奴に追われて西走したものを大月氏、故地に残留したものを小月氏という。
(広辞苑)

前漢の初めって、紀元前3~4世紀?
あの敦煌壁画のある辺りにいた民族が追われ追われて移動したんだ。
その人たちの使った言葉の一部が古代日本にも伝わって残っていたとは。

今回は保食神やオオゲツヒメという古い神話のルーツを見て来ましたが、
東南アジアからやって来たモチーフに、
遠くは中近東から、近くは朝鮮からの言葉が重なって、
新たな日本神話が形成されたのが分かりました。

古代の日本では、春分の日に五穀豊穣の神・オオゲツヒメを祀ったそうです。
ですから、この大嶽神社ウケモチのカミもかつては
春分の日には作物の神さまとして、
シナツヒコと共に盛大に祀られたかも知れません。

ウケモチノカミウカノミタマの神とも同一視されています。
ウカノミタマはお稲荷さんと呼ばれて人々の暮らしに密着しています。
それで、この神社は古代祭祀と稲荷信仰が融合したように見えるのですね。
c0222861_15263964.jpg

これで一件落着と思ったのですが、二日後に、人から預かった書類の束に
とんでもないメモが紛れ込んでいました。
朝鮮古代語研究家 I先生
イナリ=稲荷とは鉄器保管庫(兵器)の司をして農民に農機具として貸し与え、
使用が済んだら又保管していた所。
使用者(農民)はそのお礼に農作物(米、麦…)を差し出していた。
それで稲荷となった。つまり兵糧(代金)米である。

うっ。また古代鉄。そうか、古代は貴重品だからレンタルだったんだ。
これで多くの謎が解ける!ここの稲荷も、鉄器が置かれていた?
実は近くの名島神社には、そんな伝承の小島があるのです。
戦後の鉄不足の時代、みんなそこに拾いに行ったそうです。

あちこちに散在する鉄の伝承。
ルナの頭の中には少しづつ古代の地図が出来て来たのですが、
記事にするには力不足です。
でも、今日コメントで面白い情報貰ったから、また頑張ります。

ブログ「徒然なるままに、、、」さんに、
その鉄器と農具が埋納状態のまま出土した写真が掲載されているので、
紹介します。

  だれも埋葬されていない古墳
http://jumgon.exblog.jp/14827713/
 





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by lunabura | 2010-10-16 15:41 | 大嶽神社・おおたけ・福岡市 | Trackback | Comments(2)
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