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カテゴリ:高句麗壁画・八咫烏( 1 )

高句麗壁画(1)八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


高句麗壁画(1)
八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


今日は高句麗の装飾古墳壁画です。
その中に八咫烏がいくつか出ていたのでそれを紹介します。
ヤタガラスーそう、日本サッカーのシンボルマークです。三本足が特徴です。
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この絵は「日神・乗鳳凰図」です。
「太陽神が鳳凰に乗っている図」という意味なので、左右の人物の乗り物を見てみましょう。
左は龍ですね。右側は鳥です。ですから右の方が日神です。
この日神は笛を吹いています。ヘアースタイルを見ると男の神です。
高句麗の太陽神は男の神です!
中央の円を見るとカラスがいます。
羽根を広げて、笛の音に合わせて舞っているかのようです。
そして、足を見ると、三本だ…。ホントにこれは八咫烏です。

この古墳は「輯安(しゅうあん)5塊墳4号墓」と言い、
中華人民共和国―集安地方にあります。6世紀の古墳です。
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「日神・月神図」これは同じ輯安5塊墳の5号墓。
男女の神が舞っています。八咫烏を頭上に差し上げているのは男神です。
左が月神で女神です。神さまらしく衣の袖が羽根です。
とても軽やかな描写で、自由な筆遣いに驚きます。

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「舞踏神」これも同じ5号墳です。
朱雀か鳳凰に乗って天女が踊っています。
その向こうに八咫烏の足が三本だけ見えます。なんだか大胆な構図ですね。
八咫烏の顔は見る人の想像にお任せ。なんだか嬉しそうな顔が浮かぶんですけど…。
鳥や天女の躍動感がすごいです。

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真坡里(しんはり)7号墳
これは少し時代が後で、6世紀後半の金メッキの銅の透かし彫りです。
中央の円の中を見てください。鳥がいて三本足です。
また上の方にも鳥が彫られています。
下に帯があるので、冠ではないかと言われています。

これら4点の八咫烏は6世紀のものです。日本とはどう関わりがあるのでしょうか。
6世紀だという事は日本も古墳時代に入っています。
日本での八咫烏の話は、神武天皇の時に出て来ていて、道案内をしています。
日本の神話はずっと古いです。
ですから、この高句麗古墳からの日本への直接の影響は考えられません。

それでは二カ国に八咫烏が伝わっているのは何故か?と考えると
もっと、前の時代に八咫烏の伝承があったと想定できます。
検索すると「三本足の烏」の思想は中国で生まれていました。
すると、こういうストーリーが出来ます。

中国辺りに八咫烏神話を信奉する氏族がいて、北部朝鮮に辿り着いた。
その一部は南下して日本まで辿りついた。
北部朝鮮に残った人たちはそこで高句麗の建国に関わって栄えた。

では、その人たちはどんな氏族だったのでしょうか。
そのヒントが同じ古墳(5号墳)に描かれていました。

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「燧(ひうち)神と鍛冶(かじ)の神」
左の神は火打ちの神です。右は鍛冶の神。
これから、この八咫烏を信奉しているのは鉄の民族である事が分かります。
この高句麗の装飾古墳に埋葬された人は、八咫烏をトーテムとした鉄の民です。

一方日本では「八咫烏は賀茂氏の祖」だと言われています。

賀茂氏については真鍋大覚氏の本にいくつか記述があるので、
言葉を補いながらまとめて見ました。
南冠座(コロナ アウストラリス θ)
賀茂の氏族は、日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、
むしろ百姓の鋤鍬(すき・くわ)の方を主としていた。
その祖が来た時代を考えると、海幸山幸の時代に釣り針が出てくるので、
そのころには渡来していたはずである。
「冠座」を「かまのほし」とも言うが、この起源は鎌の形の半円形から由来する。
鎌の形は当時の舟の形にも似ていて、それで水を渡る時には、
葦草を切り払いながら漕がなければならない。
そんな沼沢池を渡って来た氏族・北方系の胡人が賀茂氏である。
彼らが鉄を作る時、片目で坩堝(るつぼ)火の色を見ていたので、
冠座には要目星という名もついていた。
坩堝の底の反面に析出した金銀の粒を星の配列にみたてていたともいう。

鳩座 (コルンバ β ウズン)
烏鵲は干潟の冠水の有無遠近を見定める鳥として、
昔は旧約聖書のノアの洪水の神話の時代から知られていた。
縄文弥生の祖先は烏鵲と共に干潟の開拓に努めて来た。
神代には賀茂の氏族は八咫烏を伴として日々をすごしていた。
今、肥前にすむカチガラス即ちカササギは
まさにその生きた化石というべきものである。
有明の干潟にいるムツゴロウをカチガラスは餌としていたが、
干潟が稲田と変わった今日では全くムツゴロウとは無縁になった。
干潟が陸地化するまでに3500年の以上の歳月がかかった。

タタラで鉄をつくる賀茂の氏族は火勢を見つめる仕事をするようすから、
「隻眼一目の神」と崇められて来た。

賀茂の星
『淮南子』などには大陸の西北方、或いは北方、さらには東北方に
一目国があったと語り伝えている。
「一目」を高麗の古語でカナムリと言う。一目は「タタラの神」となった。
常に高温の金属蒸気を見るために視力保護の目的で片目をつぶって
物を眺める習慣が身についている工人の氏族の事である。
福岡県那珂川ではこれを称して「八丁様」と言い、
京都山城では「加茂の神」と崇め奉った。

天智天皇は662年、筑紫の長洲宮に遷都された。
そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。
天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、
筑紫と同じ「葵祭」を催行された。
こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。
「背振神社」は京都「賀茂神社」に、「現人神社」は大阪の「住吉大社」に
生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。
そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。
これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。
玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。
ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を
模した品にほかならないのと同じです。
これはあちこちにあった文章を集めました。

これをまとめてみます。
有明海が陸地化する3500年以上前に賀茂氏は八咫烏を連れてやって来た。
当時は葦原だったので、船を進めるには鎌で葦を払いながらであった。
その時の鎌の形が「冠座」の形と同じなので、「かまのほし」と名付けていた。
また、当時の船の形は三日月のように両端が上がっていた。
八咫烏には干潟が陸地になるかどうかを見極める力があったので、
賀茂氏はそれを連れていた。
賀茂氏の出身地は「一目国」で、中国大陸の北西から東北にあった。
「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、
閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからである。
それを、筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言った。
「賀茂神社の葵祭」の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、
天智天皇がご覧になって、京都でも真似をして始めたことにある。
葵祭は京で神社と共に栄えているが、
ルーツの方では寂れてしまって、忘れ去られてしまった。

この話は高句麗と日本と両方に八咫烏が伝わっているのを
よく説明してくれていると思いました。

古事記では神武天皇を助けるために天から八咫烏が使わされています。
その続きを読むと、地下で働く不思議な人々と出会って行きます。
これは、鉄の民の描写だと思っています。
神武天皇も鉄の民の協力を得て、力を付けていった事が婉曲に描かれています。
(⇒神武天皇
そしてこれが日本のサッカーのシンボルマークになりました。古くて新しいヤタガラスです。

参考文献
『高句麗文化展』 高句麗文化展実行委員会 (写真転載)
『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』 真鍋大覚 那珂川町発行



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by lunabura | 2015-08-10 08:10 | 高句麗壁画・八咫烏 | Trackback | Comments(10)
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