ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:新羅( 3 )

新羅の積石木槨墓―天馬塚古墳―


新羅の積石木槨墓
―天馬塚古墳―

福岡県の嘉麻市に弥生時代の「木槨墓」があると聞いた。
「土壙墓」なら糸島市の平原遺跡でよく知っている。
木槨墓とはどんなものだろうか。
木で枠組みを作ったのだろうか。

早く見たいと思っていたら、新羅にも木槨墓があると分かった。
それがあの天馬塚古墳だ。
その豪華な宝飾品は韓国歴史ドラマ、「善徳女王」で再現された。
善徳女王は斉明天皇と近い時代を生きた人なので、この宝飾品は200年ほど古い時代のものになる。
(韓国の歴史ドラマの時代考証は当てにならない…)
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この副葬品が埋納された古墳が「木槨墓」だというのだ。
今回は木槨墓を追って、ネットサーフィン。

12の小国をまとめた斯蘆国(さろ・しろ)。これが新羅(しるら)へと発展する。
都は金城。今の慶州市。
その頃の墓はどれもが木槨墓で、4世紀から6世紀初めごろの間に造られた。

平地を少し掘って石を並べて床のようにして、木枠を置いて、そこに木棺を安置。
そして石や土で塚を作って円墳にする。

積み石で木槨を覆うと「積石木槨墓」となる。
積石といえば高句麗の墓制だが、それとは系譜は異なるそうだ。

木槨墓を見たいと思ってネットをサーフィン。
新羅・慶州市の天馬塚は積石木槨墓で見学できるように保存されているので、
圧倒的に映像が出ている。
この黄金の塚は、もともと、隣にある更に大きな古墳を掘る前の事前準備として、
保存方法などを研究するために試し掘りしたのが、大発見につながったという。
副葬品は1万点に及ぶ。

「天馬塚」の名は副葬された馬具の所に書かれた「天馬」の絵から付けられた。
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馬具の一部(白樺)に描かれた天馬
(画像出典)
http://www.busantabi.com/content/basic.asp?m_idx=12&s_idx=64

もともと新羅の古墳は日本人の考古学者によって調査研究が始められた。
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これが木槨墓。
画像出典 http://www.lieto.co.kr/?document_srl=170581

中央に王か女王が安置され、身に着けたアクセサリーがそのままの位置に残された。
この木槨墓を覆って石が積まれた。

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画像出典「忘れへんうちに」より
http://avantdoublier.blogspot.jp/2009/01/blog-post_27.html
(考古学的なアプローチがされている、お勧めのページ。)

石の重みでさすがに木槨墓はつぶされていた。
土を取り除いて出現したのが下のような宝冠のたぐい。
メッキでなく、純金。これには勾玉が沢山ぶら下がっている。

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副葬品の画像出典
http://www.lifeinkorea.com/cgi-bin/travel2j.cfm?TravelID=217

これは5世紀後半のものだ。日本ではこんな時代。
451 倭王済が遣宋使
462 倭王子興が遣宋使
478 倭王武が遣宋使
479 雄略帝が末多王を百済王に任ず
479 倭国は高句麗を攻撃
480~ 装飾古墳が出現


外観はこのような円墳。
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画像出典
http://www.pusannavi.com/miru/1069/
内部は見学出来るようになっていて、その様子は最初に挙げたサイトが詳しい。

副葬品の豪華さに目を奪われるが、
これが「積石木槨墓」だというのを記憶しておきたい。
その後、新羅では「横穴式石室」が作られるようになる。

今コメントで話題になった嘉麻市の木槨墓はどのようになっているのだろうか。
保存されているのだろうか。
新羅の木槨墓と比較出来る日が楽しみだ。
嘉麻市の方は弥生時代だから、もっと時代が遡るのだ。

さて、新羅にこだわるのには訳がある。
日本書紀のこの一文の真実が知りたいのだ。
秋9月5日に、仲哀天皇は群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。兵を挙げて討つほどの国であろうか。
この国より宝がある国がある。例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、その白色の名を持つ)新羅の国という。
もし、われを良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。われを祭るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」
と言いました。天皇は神託を聞いて、疑いました。
(日本書紀 仲哀紀)

これは8世紀の日本人の新羅観に過ぎないのだろうと思っていたが、本当に金銀財宝の国だった。(・.・;)
そして、この仲哀紀の辺りは読みこむと矛盾に満ちている。

それを解くヒントが吉野ヶ里の近くに一つある。早く行きたいのに時間がない。
まだまだ仲哀紀の謎解きの旅の目的地は遠い。

るな探偵は気が多過ぎて、二兎以上を追っている…。チョーやばい。

古墳(王陵)公園・天馬塚 -伽耶・新羅の旅-
http://inoues.net/korea/korea_tenma.html







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by lunabura | 2012-06-29 08:59 | 新羅 | Trackback | Comments(6)

新羅の初期・斯蘆国と倭人たち


新羅の初期
斯蘆国と倭人たち

新羅の始まりはどうなっているのかな。
資料を集めていくとだんだん分からなくなってきた…。人によって物の見方が随分違う。
まっ、自分が理解できる部分からまとめて行きまっしょ。

新羅(シルラ)は斯蘆(サロ・シロ)国から始まった。
慶州平野。
日本の弥生時代、現在の慶州市に斯蘆国(サロ・シロ)があり、6つの村があった。
そこに赫居世(ヒョッコセ)たちが北の方から動乱を逃れて鉄器を持ってやって来た。
紀元前57年のことだ。 
農耕社会の中に優れた鉄器を持って来たことから、赫居世がその支配者になったが、彼はその時13歳。

支配者とは6村の連合社会のリーダー的な形態だったようだ。
それはこの時代は支配者が世襲でなく、村間の持ち回りだった事から分かるという。
その称号は居西干・次次雄(コソガン・チャチャウン)と言った。

「居西干」とは君長、「次次雄」とは巫(シャーマン)を意味する事から、
支配者は政治を司り、かつシャーマンでもあった事になる。

紀元前37年。赫居世(ヒョッコセ)は慶州平野に京城を築き、金城と名付けた。
彼の重臣に瓢公(ひょうこう)がいた。彼は倭人だった。その役職名は大輔。
この時代に倭人が侵攻して来たが、赫居世の説得に応じて倭軍は撤退した。
(赫居世も倭人と言う説があった。)

二代目の支配者、南解次々雄の時代に倭人が100艘余りで侵攻した。

紀元前19年。四代目・脱解(タレ)が東海岸からやって来て支配層に加わる。
脱解は倭国の多婆那国の王の子といわれている。
この時代はリーダー会議で支配者を決めていて、その称号を尼師今(イサグム)と言った。


1世紀後半。舎羅里130号木槨墓が作られる。
(鉄の延べ板40枚を敷いていた。)

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(写真は慶州市 舎羅里古墳群)
画像出典は「2002年7月28日~8月3日
第4回友史会海外遺跡の旅「韓国中南部の古代文化に触れる旅」 案内 河上館長」より
http://www.kashikoken-yushikai.jp/reikai/reikai0307korea3.htm)

西暦101年婆裟尼師今(バサ・イサグム)が月城を築いて居城を金城から月城に移す。
(この王が日本書紀で神功皇后軍に降伏した波沙寢錦(ハサムキム)という説がある。
そうすると100年の誤差が出て来る。)

西暦100年以降、国力をつけた斯蘆国は周囲の国々に侵攻して拡大して行く。


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地図を逆さまにしてみました。
斯蘆国が拡大して行く流れの中で、九州や山口を侵攻したのでしょうか。
豊浦宮や楯崎宮、雷神社、高良玉垂宮などに伝わる異敵襲来伝承を重ね合わせると
福岡や山口は最初の上陸地点だというのが分かります。

さて、倭人の伝承を見てみましょう。
稲飯命
『新撰姓氏録』では新羅の祖は鵜草葺不合命の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとする。

アメノヒボコ (ウィキペディアより)
アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。
(新羅王族であった昔氏は、倭の但馬地域から新羅に渡り王となったとされており、新羅王族であるアメノヒボコは但馬・出石に定着した。ただし、昔氏のもともといた場所についてはこの他に日本の東北、丹波等が上げられている。)

大矢田宿禰 おおやだのすくね (コトバンクより)
仲哀天皇9年。神功皇后の新羅遠征にしたがう。新羅にとどまり、鎮守将軍となる。
国王・猶搨(ゆうとう)の娘と結婚し、佐久命と武義命をもうけた。
(王の名前がハサムキムではない事に注目)


三人ほど採り挙げて見ました。後世の創作が加わっているとしても、
新羅の王族に倭人の血が入っている可能性が出てきました。
新羅に対する倭国のこだわりの原因はこれが要因の一つかも。

『古事記の神々』で訳したアカル姫が新羅の王子アメノヒボコと結婚して愛想を尽かして、
さっさと倭国に帰って来たのもそれほど特異な話ではないんですね。

人々の暮らし
さて、彼らはどんな暮らしをしていたのでしょうか。
これと前後する時代の記録が「『三国志』魏書・韓伝」にあるので
その一部を抜粋してみましょう。
韓の人々の風俗は、法律規則は少なく、諸国の都に主帥(しゅすい)がいるけれども、村落は入り混じっていてなかなか統括できない。

人々の間に跪拝の礼はない。住居として、屋根を草で葺いた土の家をつくるが、その形は中国のはかのようである。家の戸口は上にあって家族は全部その中で暮らしている。年齢や男女による区別はない。

死んだ者を葬るときには、墓には槨はあるが棺はない。牛馬を乗用に使う事は知らない。牛馬はみな副葬に使用してしまう。

珠玉を財宝とし、衣服に縫いつけて飾りとしたり、首飾りとしたり、耳飾りとしたりする。金や銀や縫いとりのある綾絹などを珍重することはない。

韓の人々は性格は強く勇敢で、頭に何も被らずまげを見せていることろは、狼火(のろし)を扱う兵のようである。そして麻布の衣服を着、足に底の厚い革ぞうりを履いている。

毎年5月には作物の種を播き終え、そこで鬼神を祭る。多数が集まって歌い踊り酒を飲んで昼夜休まず遊ぶ。その踊りは、数十人が一緒に起ち上がってお互いに調子をあわせ、地を踏んで高く低く、手足はそれに応じて動き、リズムは中国の鐸舞(たくぶ)のようである。

10月に収穫が終わったときも、またこのようにする。鬼神を信じ、国の都ごとに一人を立てて天神を祭る司祭とし、天君と名づけている。

また国ごとにそれぞれ、蘇塗(そと)と呼ばれる特別な村がある。そこには大木を立て、鈴と鼓を懸けて、鬼神に仕えている。いろいろな理由をもった逃亡者がこの村に逃げ込めば、追っ手に彼を引き渡すことはしない。そのため盗賊が多くなっている。

辰韓の老人たちは代々こう言い伝えている。
「昔、中国の秦の代に、労役を避けて韓国に逃げてきたものがいて、馬韓が東部の地域を割(さ)いてその人々に与えた。それが我々である」

辰韓には砦がある。言葉は馬韓とは異なり、国を邦といい、弓を弧(こ)といい、賊を寇といい、酒を杯にそそいですすめることを行觴(こうしょう)という。お互いを呼び合うには徒(と)という。これらは秦人の言葉に似ているところがあり、ただ燕(えん)や斉(せい)の物の名称が伝わったのではないことを示している。

弁辰の国々は鉄を産出し、韓・濊(わい)・倭の人々はみなこの鉄を取っている。いろいろな商取引にはみな鉄を用い、中国で銅銭を用いるのと同じである。またこの鉄は帯方・楽浪の二郡にも供給されている。
『倭国伝』(藤堂明保ほか 講談社学術文庫)より

面白い内容が盛りだくさんです。蘇塗(ソッティ)も出て来ました。
秦から逃げて来た人たちの邑があるのが分かったのも収穫です。
この続きに有名な「倭人伝」が出て来ますよ。
(これ以上は話が逸れるのでまた別の機会に。)

以上、考え併せると、神功皇后軍が新羅攻撃をしたのは「唐突な」事件ではなく、
それまでに多くの交流や戦いの歴史があった事が分かりました。
その中の一つの戦いがたまたま日本書紀に採り上げられたようですね。

東アジアの事、もっともっと広い視野で学んで行くと面白そうです。




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by lunabura | 2012-05-07 22:29 | 新羅 | Trackback | Comments(2)

新羅の王城―月城


新羅の王城―月城


日本書紀を訳していて驚いたのは、朝鮮半島の地名が沢山出て来る事です。
王族も姫も兵士もどんどん行き来しているし、城の名前なども出て来ます。
書紀の編者は九州より朝鮮半島の地形に詳しいんじゃない?なんて思ったほど。

福岡の神功皇后伝承地を百社廻った後もまだまだ謎が残りました。

彼女が新羅まで行かされた目的は本当のところ、何だろう。
当時の新羅の国名は何だろう。
降参した新羅王ハサムキム(ミシコチハトリ)は向こうでは記録されているのだろうか。

津波が国の半ばまで上がったと解釈したが、地理的に整合するのだろうか。
塵輪(じんりん)が倭国の皇居を襲ったという事は、それ以前からの両国に交流があった事を示している。
それはどんな形だったのだろうか。

次々に謎が生まれます。
こりゃあ、朝鮮半島を勉強しなくちゃ…。
しかも1800年以上も前の事を…(とほほ)。

新羅と言っても1000年王国(実際は820年ほど)という長命国なので、
時代によって名称も国土の広さも変化しています。

途方もない長い歴史の海の中へ、えんやこら船を漕ぐ~♪
という訳で今回は新羅の都の場所を探してみましょう。

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はてさて、新羅の都は何処だ?
対馬からは夜になると朝鮮半島の光が見えるというけど、
目的地はいったいどこにあるのか、これじゃあ分かりません。
皇后軍は対馬から先は何処に向かって行ったのでしょうか。

答えはここ。
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こうして地図を見ると、海の道をしっかり把握出来ていないと
辿り付けないのがよく分かります。
戦う敵国の在り処(ありか)や敵の軍備状況ももちろんですが、
潮の道、暗礁などあらゆる情報が整わないと海を渡ってまでも戦えませんね~。

アントンイソラが舵取りする大きな船でも、やはり道先案内がいなければとても無理。
実は私は佐賀県に伝わる、神功皇后のダミーが渡海したという伝承を
まだ捨てられないでいます。
臨月の皇后が渡海するのは無理じゃないかなってね。
まあ、戦略的にもダミーを作って置くのは基本でしょ。

たとえ神功皇后本人が新羅に上陸して城の門に矛を立てたとしても、
弥生時代後期に城なんてあったのだろうか。

こりゃあ、新羅に行かなくちゃあ分からない?
しかし、さすがのるなさんも、これまでのように突進する訳には行かないので、
グーグル・アースで現代の新羅から入って行く事にしました。

新羅があるのはキョンジュ市です。慶州市と書く方が分かりますよね。
(なんで韓国の地図は漢字を使わないんだ…。)

幸いにも新羅は都の場所が変わっていません。ずっと同じ所に王宮があるのです。
その場所は?
慶州国立博物館という有名な博物館がありますが、
それこそ新羅の都に建設されていたのです。

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少し近づいて見ました。キョンジュ市の地形を見ると、盆地で、
海岸からは一山越えた安全な所に国が形成されたのが分かります。
新羅を攻撃するとしたら山越えでなく、
南のウルサンか北のポハンに上陸して川沿いに進軍するしか方法がないです。

『韓国歴史地図』(平凡社)によると、
北のポハンから倭人の侵入があった記録が書いてあります。
その年代は232、364,393年です。
またさらに北の浜からの倭人の侵入が233,292、294年。
(この年代がどうやって割り出されたかは分かりません。
著者は韓国教育大学歴史教育科ですが日本語で書かれた本です。)

神功皇后の侵攻はこれまでの推定で201年。むむ。誤差があるな。
しかし倭人が何度も侵攻した記録が向こうに残っていたとは。
こりゃあ、お互いに何度も侵攻しあってるぞ。

津波が起こって一気に国の半ばまで入ったと日本書紀を解釈した件
については妥当性はあるのかな。

ポハンから慶州まで直線距離で約22キロ。慶州の標高は約60m。
まあ、川の中流域までなら行けたかな…。微妙ですね。

それでは、日本書紀の新羅攻撃あたりを読んでみましょう。(るな訳)
冬10月3日、対馬の和珥(わに)の津を出発しました。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけました。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗りました。カジや櫂(かい)を使わずに新羅に着きました。その時、大波(津波)が起こって船は国の中に到達しました。まさしく天神地祇が助けたのを確信しました。

新羅の王は戦々恐々として、成す術もありませんでした。そこで諸人を集めて言いました。
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」
そう言い終わらないうちに軍船が海に満ちて、旗が日に輝いていました。

鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡りました。新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐ろしさに気を失いました。

目が覚めると、
「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言うとも。きっとその国の神兵たちだろう。挙兵して応戦することは無理だろう。」
と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏しました。

土地の図面と人民の戸籍を封印して支配権を放棄したことを示し、王船の前に降伏しました。頭を垂れて、
「今から後、長らく天地に従うように、貴国に従って馬飼部となります。船のカジが乾かないほど頻繁に春と秋には馬の櫛とムチを献上してお仕えします。また遠く海を越えるのを厭わず、毎年、男女を献上します。」と言いました。

そして重ねて誓って、
「東から出る太陽が西から昇ったり、天の川が逆さまに流れたり、川の石が昇って星となるような事が起こらないのに、春秋の朝貢や馬の櫛とムチの献上を止める事があったら、きっと天の神、地の神の罰があるでしょう。」
と言いました。

その時、日本側の或る人が「新羅の王を殺しましょう。」と言いました。すると皇后は
「もともと神の教えを受けて、金銀の国を授けられるのだ。全軍に『自ら降伏するものを殺してはならない』と命令したのだ。既にこうして財宝の国は手に入った。新羅の者は自ら降伏したのだ。殺すのは不条理だ。」
と言って、その縄をほどいて馬飼部としました。

ついに、その国の中枢に入って財宝の蔵を封印して、地図・戸籍・文書を没収しました。そして皇后の持っていた矛を新羅王城の門に立てて、後の世の印としました。この矛は今でも尚、新羅王城の門に立っています。

そこで新羅王ハサムキム、別名ミシコチハトリ干峡(かんき)を人質として、金銀・彩色・綾絹・うす絹・固く織った絹を八十隻の船に載せて、官軍に従わせました。これよりのち、新羅王が常に八十隻の朝貢を日本国にするのは、この戦いの所以からです。

高麗、百済の二国の王は新羅が地図・戸籍を取り収めて日本国に降伏したと聞いて、ひそかに日本の軍勢を伺い、勝つ事が出来ないのを悟ると、自ら営舎の外に出て、頭を下げて「これより後は、永く西蕃(せいばん)と称して、朝貢をし続けます。」と言いました。

こうして日本は内官家屯倉(うちつみやけ)を置きました。これがいわゆる三韓です。皇后は新羅から帰還しました。

日本書紀を読んでると、セリフが長い所は編者の創作がかなり入ってるのが
分かります。(その上、るなの解釈が加わってます…。)
指揮官のセリフは特に熱が入ってます。編者の好みが反映してるんですね。
文脈を追うと、矛盾があるのも分かります。
それはそれとして、描かれた情景を実際の地形に乗せられるのか、
地図を見るのは私の楽しみなのです。

それでは、新羅の王城がある所に空から近づいてみましょう。
慶州は、かつては「金城」、「東京」とも呼ばれていました。
(この過去の地名を押さえるの、ポイントです。)

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近づいて行くと、月の形をした丘が見えてきます。
西暦101年。この丘に王宮を築いて「月城」と名付けました。(三国史記)
「半月城」とか「新月城」とも言ったそうです。
王たちは代々、この月城に住みました。
だから、神功皇后が行ったとしたらこの「月城」だという事になります。
月の形をした丘に月城とは素敵なネーミングですね。

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これは自然に形成された丘陵で、周りに石垣を積んで山城にしています。
南には川が流れて自然の要塞になっていますが、
北側には3~40mの幅の堀を掘って守りを固めています。
この山城に入城するには南に架かった二本の橋しか通れません。

この月城の中のエリアは平坦ですが、まだ発掘されていません。
これからが楽しみなところです。

後に、この月城から北の方に「満月城」を造ったそうです。
満月城に向かう広い道がまっすぐについていて、周囲は役所が並んでいたそうです。

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その一角にあの瞻星台(たんせいだいー天文台)がありました。
善徳女王の時代に造ったものです。
斉明天皇と時代が重なります。(画像出典 グーグルアース)

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(ドラマ「善徳女王」より。
女王の王冠やベルト、宝飾品のデザインは古墳から出土したものがモデル。
月城が未発掘なので、ドラマの王宮は美術スタッフの創造と思われます。)

その王宮殿の北西には広大な庭園がありました。

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(画像出典 グーグルアース)
これが現在のようす。雁鴨池(月池)というそうです。
新羅の王たちは月を愛したのですね。

月城の右下には慶州国立博物館があります。
慶州の歴史探訪はこちらのサイトに詳しく載っています。
http://homepage1.nifty.com/sawarabi/kankounotabi/kannkokunotabi.3-2.html
さて、この新羅。弥生時代はどんなふうだったのでしょうか。
次回も新羅を辿りましょう。




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by lunabura | 2012-05-03 14:09 | 新羅 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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