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カテゴリ:小郡「黄泉の道」古墳巡り( 5 )

小郡「黄泉の道」の古墳巡り(1)横隈山古墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(1)
⑤横隈山古墳

福岡県小郡市

小郡市内歴史の道マップを手にしながら「黄泉の道コース」を廻ってみました。
思い立った理由は夢の中に「生掛遺跡」という張り紙が出て来たから。
「生掛(しょうがけ)古墳」の事だとすぐに分かりました。
確か小郡市だったはず…と地図を見ると
「津古(つこ)」のすぐ傍ではないですか。

「津古」と言えば、老松神社の伝承に、
「神功皇后が津古から船に乗って老松神社に行って行在所とした。
武内宿禰に祀らせた。そこから田油津姫を攻撃した。」
とあって、気になっていた所です。
物部軍の拠点があった所になるからです。

「津古」―駅名としてはよく知っているけど、
古墳が集中して見つかってる所だとは知らなかった。
丘陵地帯の古墳群。御原国のエリア内です。

これが「黄泉の道」コースのマップです。
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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳


九州歴史資料館で手に入るこのマップは歩く人のためのものなので、車で古墳巡りをしようとすると信号機の名前などが載っていないために、2~3種類の地図を見比べながら走らないと分からないです。


神社と違って古墳は地図に載っていないので緊張の連続。
今回の目的は5つの古墳を完走して地形を掴むこと。
マップのお勧めとは反対に左回りで見学する事にしました。
出発地点は小郡埋蔵文化財センターです。


⑤横隈山古墳

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埋蔵文化財センターから東へ。並走する車道と電車路線を超えて宝満川方面へ。
整然と区画整理された坂道の住宅地へ入って行きました。
古墳なら自然林があるはずと見回すと早くもこんもりとした丘が見えました。
あわてて左折すると、入口がない。
人に尋ねて、反対側にありそうだと聞いて廻ってみると、ありました。
案内板がちゃんとありましたよ。

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石段までついているので、墳丘に登ってみましたが、樹木があるだけでした。
案内板を写しておきます。
横隈山遺跡
現在「みくに野東団地」の名で呼ばれる23万平方メートルに及ぶ範囲を横隈山遺跡という。

1973年3月より実施された発掘調査により、この遺跡が旧石器時代から縄文、弥生、古墳、歴史時代と、間断なく生活の場であったこと、特に弥生時代の遺構群はほぼ全域にわたって存在することが明らかにされた。

現在地は横隈山遺跡第一地点で、保存されているのは前方後円墳である。墳丘は全長約35.6m、後円部南側は盗掘などで原形をかなり壊されている。石室など、内部主体の確認はされていないが、円筒埴輪の破片は採集されている。墳丘の形態は帆立貝式前方後円墳に近い。5世紀から6世紀にかけての築造と考えられる。

横隈山遺跡は標高20~50mの丘陵地帯に位置しているが、この古墳が最高地である。見晴らせば、東に花立山、西北に津古遺跡、原田五郎山古墳と続き、筑後平野北部の古墳時代前~後期の変遷を知る上で重要なばかりか、筑前、肥前、筑後三国の境界として歴史的要所であり続けたことと併せ、この遺跡のもつ意義ははかりしれないものがある。

北部九州には稲作農耕を基盤とする国家の成立をうかがわせる有名な遺跡が多いが、福岡平野では新幹線、高速道、団地建設などの開発により、須玖岡本はじめ殆どは破壊され尽した。植物生態学的にも、シイ、カシ等を中心とする照葉樹林体の相をみせるこの一帯は、いわざ「弥生の森」そのものであり、これだけの歴史的環境を残している所は県内でもきわめて稀であるといえよう。

昭和56年3月10日 小郡市教育委員会
          小郡市郷土史研究会

ここは横隈山遺跡というんですね。
23万平方メートルの広さがあるというけど、どの範囲なんだろう。
すごい広さみたい。住みやすさは旧石器時代から。
標高が20~50mあるので、宝満川の氾濫の心配がない所なんだ。

この古墳の長さが35.6mというのは結構大きいみたい。
帆立貝型の前方後円墳って、福津市の奴山古墳群にもあったよね。
縫殿神社の祠があった所。このブログでは2例目になるんだ。

円筒埴輪はなかなかお目にかからない。仙道古墳で見ただけ。
石室がまだ調査されてないから、未来の人のお楽しみ。
この周囲は全部団地になってしまったので、
この頂上の大型古墳だけ残されていた。
そして、目の前の森は照葉樹林体という。
そうそう、足元の落葉は雨に濡れるとつるつるすべるタイプ。
そして、これが「弥生の森」なんだ。

そして、時代は5~6世紀。
413~478 倭の五王が宋に使いを出した
479 雄略帝が末多王を百済王に任
479 倭国は高句麗を攻撃
507 継体天皇26代 即位
512 任那4県を百済へ
512 倭国は高句麗に勝利
515 倭国は伴跛国に敗北
527 磐井の乱
531 安閑天皇・27代 即位
538 百済聖明王が仏像献上
552 蘇我稲目vs物部尾輿
562 伽耶諸国が滅亡

こんな時代。ずいぶん韓半島や中国大陸との交流や戦いがあってる。
この横隈山古墳に眠る権力者も、行き交う武人や船を見たのかな。
さあ、基礎知識が出来たので、次の井の浦1号墳へ行きましょう。
       (つづく)








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by lunabura | 2011-08-05 21:33 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(2)

「黄泉の道」の古墳巡り(2)井の浦1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(2)
④井の浦1号墳
福岡県小郡市

「駅の前に古墳らしいものがある公園がありますよ。」
と、道行く人に教えられて地図を見ると、
どうやら目指す「井の浦古墳」と重なっています。
「それだあ。」
三国が丘駅前を目指して行くと、それらしき緑地がありました。

駐車場がなく、案内板も見当たらないのですが、
他に見当たらず、探索してみることにしました。

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堂々とした公園入り口です。

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石段を上がると美しい墳丘が。
一番高い所に、気品さえ感じられる円墳があるではないですか!
名前が分からないけど、「井の浦古墳」で間違いないでしょう。

自然環境も素晴らしく、案内板を求めて歩き始めると、
ミュールを履いているのに気づきました。
ミュール=「つっかけ」で古墳探しをするのは、無理無理。
こんなに明るくてきれいな森の公園は珍しいのに…。残念。
坂道を下って、道路にあった看板に辿り着くと、関係ないものでした。

案内板を探し回るのをあきらめて、次に移動しよう、と車で脇を通ると、
美しい湖に囲まれていた!
なんと恵まれた立地なのだ。
改めて、この古墳は特別な存在なんだと思いました。
上空からご覧あれ。


白くハレーションを起こしている所が湖で、空が写って白くなっています。
丸い円墳がよく分かります。
その東側にもなにやら墳丘らしいものがあるのが気になります。
写真を撮った円墳が1号墳なら、それらも古墳だったのかも。

そして、案内板が見つからないという事は資料がない!

ネットで「古代体験館おごおり」を調べると、説明がありました。
「この古墳は6世紀後半に造られて、横穴式石室で、直径23mの円墳。
石室やその周辺から、耳飾りや石製の玉類のような装飾品、
土器などが見つかっている。」
という事が分かりました。

出土物の写真は「古代体験館おごおり」のサイトに載っていました。
http://www.kodaitaiken-ogori.jp/historic_map/map01.htm
このページに入ったら、「収蔵資料検索 ⇒ 考古遺物 ⇒ 出土遺跡の▼をクリック ⇒ 横隈井の浦遺跡 ⇒ 入力項目から検索」
と進むと「出土した銅の腕環、金銀メッキのイアリング、甕棺」が見られます。
(文字入力は上手くいかないので「▼」を利用すると、いろんな写真が見られます。)

たった5点しかないので、盗掘されていたんでしょうね。

という事で、古墳の資料はこれ以上は無いのですが、
「6世紀後半」だというのが分かったので、
その時代の筑紫を調べてみることにしました。

被葬者が500年代の後半に亡くなっているという事から
550年前後~末にここで何が起こったかという事を調べれば、
被葬者が生きた時代が分かる。
という事で、小郡市史を読んでにわか勉強をしました。

被葬者が見た時代とは
朝鮮半島では、6世紀半ば以降、百済・新羅・高句麗による天下取り合戦が激化。
538年、倭人が鉄を運び出していた南加羅が新羅に奪われ、
562年には大伽耶も新羅の保護下に入ってしまう。
日本書紀ではこの事を「新羅は任那の官家を滅ぼした」と書いている。
倭国が任那を失ったことを意味している。

欽明天皇556年、百済の王子・恵(けい)が帰国する時に筑紫の水軍がこれを護衛し、
また別に「筑紫火君」(つくしひのきみ)が勇士1千を率いて護送した。

「筑紫火君」の本拠地は鳥栖市の旧養父郡に推定されている。
その北の基肆郡物部系国造が統治していたと推定されている。

崇峻天皇は591年、任那の再興を企てて、2万余りの大軍を筑紫に向かわせる。
「大将軍」には紀・巨勢・大伴・葛城の各氏から4人が選ばれた。
この大軍が大和を離れると、翌年に明日香の地で
蘇我馬子・額田部皇女・聖徳太子らにより、祟峻天皇が暗殺される。

新政権は「筑紫将軍所」に内乱のせいで「外事」を怠らぬよう早馬を出す。
祟峻天皇の命で朝鮮半島へ出兵するはずだった大軍は
3年9か月もの間、筑紫に滞在したままだった。

市史から関係がある部分だけをまとめてみました。

被葬者が生きた時代には大きな事件として
556年に「百済王子を護送する。」事と
591年に「新羅攻撃軍が2万余り筑紫に滞在した。」
という事があったのが分かりました。

591年
井の浦古墳の被葬者は591年の2万の大軍を見ることが出来たでしょうか。
微妙ですね~。もう亡くなっていたかも知れませんね。

それにしても2万の大軍とか、どこに駐留させたのだろう。
「筑紫将軍所」って太宰府なんだろうか。
これだけの人数の兵糧をどうやって賄ったんだろう。
(いろいろと謎が生まれます…。)

ちなみに、603年には来目皇子が筑紫の志摩で亡くなってます。
聖徳太子は任那奪回は本気だったんですね。

556年
556年の百済王子の帰国の時には古墳の被葬者はきっと生きていたでしょう。
この時に百済王子を送ったのが、筑紫の水軍筑紫火君たちです。
「筑紫の水軍」が養成された所として、この筑後地方は有力だったでしょう。
この被葬者も直接関わったかもしれません。

「筑紫火君」は筑紫の君肥の君が通婚して出来たそうです。
本拠地がすぐ近くの養父郡(鳥栖市)なんですから、
被葬者は筑紫火君の動向を全神経を傾けて見守った事でしょう。

この6世紀後半の筑紫の風景って、
対新羅の緊張がずっと続いていたんですね。
古墳から武具がたくさん出てくるのもうなづけます。
この古墳の被葬者もこの高台から、
広い川の向こうに新羅を見据えていたのかも知れませんね。

それではで③の三国の鼻1号墳に向かいましょう。


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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳


















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by lunabura | 2011-08-04 13:15 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(0)

「黄泉の道」の古墳巡り(3)三国の鼻1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(3)
三国の鼻1号墳

福岡県小郡市

三国の鼻1号墳井の浦古墳の丘陵から水田の方に下って行く方向にあるようです。
それらしき森を見つけたのですが、墳丘が見当たりません。
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こうして写真で見ても、フラットですね。分かれ道を右の方に下りてみました。

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おおお。花立山が見える!あの隼鷹神社から見えていた花立山です。
この視野いっぱいの水田がかつては川でした。

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私が歩いてきた道を振り返るとほら。かつては汀(みぎわ)があったような自然のカーブ。
ここは「津古」(つこ)なんです。

老松神社の伝承に、神功皇后は「津古」から船に乗ったと書いてありました。
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この地図は再掲ですが、中央上部に「●津古」がありますね。
今私はこの●の所にいます。
その南に老松神社「神宮皇后行在所」があります。
津古に立つと、花立山の向こう側に老松神社があるのが分かります。
ここは1800年も変わらぬ風景を残していました。
そう、稲の緑が川の水に変わるだけ。

神功皇后竹内宿禰はこの近くから船に乗って移動した訳です。
もう、誰も彼もが忘れてしまった話です。

そうそう、古墳を探してたんだ。
通りがかりの人に尋ねると古墳の案内板が上の道にあったと教えてくれました。
そして、なんとその人はこのブログの愛読者の方でした。
(驚き!こんな所で、出会うなんて!)
不思議な巡り合わせに感動しながら、教えられた方向へ。

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行くと浄化センターの建物があって、門が閉まっています。
案内板はあったけど、古墳は消滅していました。
絵を見ると、きれいな前方後円墳だなあ。岬の一番いい所にあったんだ。

その事情を案内板で見てみましょう。
三国の鼻遺跡(みくにのはな)
三国の鼻遺跡は、現在の宝満川浄化センターから三国が丘周辺に広がっていました。遺跡は弥生時代と古墳時代を中心とする複合遺跡で、中でも注目されるのは弥生時代後期の環濠集落古墳時代前期の前方後円墳です。

環濠集落は、全長356mの巨大な環濠と竪穴住居群で構成されています。環濠は最大幅4.5m、深さ2.3mで、34軒の竪穴住居群を守るように取り囲んでいます。環濠や竪穴住居の内部からは大量の土器や石器が見つかりました。

前方後円墳「三国の鼻1号墳」は全長66mの市内最大の古墳で、現在の団地内にありました。造られたのは4世紀中ごろで、「津古生掛古墳」から始まる古墳時代前期の津古古墳群の最後を飾るにふさわしい巨大古墳です。

この古墳からは、二重口縁壺といわれる祭祀用の土器が焼く120個も出土したことが特筆されます。発掘調査により、この壺は古墳の墳丘上にきれいに配置されていたことが分かりました。その他にも管玉と鉄剣、そして珠文鏡といわれる鏡が見つかっています。

ここは背振山系から延びて来た丘陵の先端が宝満川沿いの沖積平野に突き出す通称「三国の鼻」と呼ばれることころで、筑紫平野を見渡せる素晴らしく見晴らしの良いところです。弥生時代や古墳時代の人々にとっても、非常に重要な場所だったことが分かります。  平成22年11月 小郡市教育委員会

福岡にも壺がずらりと並べられた古墳があったとは。初めての御対面です。
4世紀中ごろの造営で津古古墳群の最後を飾ったものです。
イラストを見ると立地が素晴らしい。
実際にこのイラストの左側の方に行くと、車を止めて写真を撮るには
危険だったのですが、大変見晴らしが良かったです。

古墳の内部主体は後円部に大小二つの割竹形木棺
前方部には一基の小型割竹形木棺が埋地されていました。
この「外形割竹形木棺二重口縁の壺」が畿内型古墳の葬礼そのものだそうです。
こんな見晴らしのいい所に造るのも、畿内型らしいですね。

ふと思ったんです。
この岬は防衛上大事な拠点で、ここに必要なのは見晴らし台なんだ。
そんな所に墓を造ってしまうんだから、平和になったんだろうか。
国防を考えない被葬者の示威行為に過ぎないのか。

弥生時代から環濠を営んで身を守った人たちが
この場所に古墳を造営したとは考えにくい。

また、ここで起こった仲哀軍皇后軍羽白熊鷲田油津姫などの戦いとは
どう結びつけたらいいのだろう。

小郡市誌を見てまとめてみました。
宝満川の中流域の中心地は現在の小郡市域で、旧三原郡だった。邪馬台国時代は弥生時代の後期後半に当たるが、そのころの遺跡は小郡市の各地に分布する。

この三国の鼻遺跡は集落が標高45m前後の丘陵の頂上部にあって、眼下に平地を見下ろせる眺望のきくところに立地している。

南西側の平らな場所に環濠が巡っていて、内部に34棟の竪穴式住居が営まれていた。
環濠は少しずつ変化して行った。

おそらく当時の水田面からの比高が20mという立地は、普通の農耕村落というよりも、いわゆる高地性の防御村落として、周辺を監視し、その動向を地域社会に通信・伝達する高地性集落であったと考える。

なるほど、環濠集落の中の家がわずか34棟とは少ないなと思ったけど、
やはりこの岬から周辺を監視する砦のような所だったんですね。
ここで得た情報は首都に当たる小郡・大板井遺跡に送られます。

邪馬台国時代の御原国と吉野ヶ里遺跡の場所を描いてみました。
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御原国の広さは分かりません。
三国の鼻から首都の小郡までをとりあえずエリアとして描いています。

弥生時代には監視所だった三国の鼻に、畿内型古墳が造られた訳です。
「畿内の支配権が及んだことを示すものだ!」
という説もあるのですが、

「これらの前方後円墳を、久留米、八女方面に南下する前の
筑紫の君の奥津城と考える森貞次郎の説」もありました。
(「日本の古代遺跡 34 福岡県」保育社)

研究者によってずいぶん位置づけが違うんですね。
これまた興味深い古墳になりました。


出土物の写真は「古代体験館おごおり」のサイトにて。
http://www.kodaitaiken-ogori.jp/historic_map/map01.htm
このページに入ったら、「収蔵資料検索 ⇒ 考古遺物 ⇒ 出土遺跡の▼をクリック ⇒ 三国の鼻遺跡1 ⇒ 入力項目から検索」
(文字入力は上手くいかないので、「▼」を利用すると、いろんな写真が見られますよ。)


c0222861_21251530.jpg
①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳














それでは②の生掛古墳に行きましょう。

地図 三国の鼻 伊の浦古墳 隼鷹神社





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by lunabura | 2011-08-03 21:21 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(7)

「黄泉の道」の古墳巡り(4)津古生掛古墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(4)
津古生掛古墳

つこしょうがけこふん
福岡県小郡市みくにが丘


  さて、夢に出て来たのがこの津古生掛古墳
  すでに完全消滅しているのは分かってる。
  だから、何で夢に出て来たのか、確かめに行くだけ。
  何が待っているのだろうか。

現場へ行く道は地図では読めない道でした。
大通りは車がスピードを出すような所で、
そこから脇道が並行して走っていたので、そちらに行って見ました。
左の団地の中なのだから、取り敢えず左へ左へと、
地図と見比べながら曲がってみると、分からなくなってしまいました。
  古墳探しは難しい。消滅している古墳をどうやって探すのだ。

T字の手前で困っていると、目の前でワンちゃんがウンチをし始めました。
道路の真ん中!終わるのを待っていると、飼い主さんが恐縮しています。
  こんなハプニングこそ私の味方にしなきゃ。

車まで謝りにこられる飼い主さんに、いいえ気にしないで下さい、と
ニコニコしながら、これ幸いと古墳を尋ねるのでありました。
地元の人でも分かりませんでした。
でも、近くで草取りをしている人にまで尋ねてくれました。
  ふふふ。これが狙い。
そして生掛公園というのがあって、そこに案内版がある事が判明。
曲がり角をしっかりと教えて貰って、着く事が出来ました。
聞かないと分からなかったなあ。

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そしてこれが生掛公園の一部。
けっこう広いんですが、他のアングルは人家ばかりになってしまうので、遠慮しました。

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現場の案内版です。他に撮った写真はありません…。(さみしい。)
書き写します。
津古生掛古墳津古生掛古墳は、現在の「三国が丘団地」の生掛公園付近にありました。この古墳は昭和60年の団地造成に伴う発掘調査によって発見され、三国丘陵に存在する古墳時代前期(3世紀後半~4世紀後半)に属する津古古墳群の一つです。
調査の結果、東西方向に全長33m(後円部径29m、前方部長さ4m)で、後円部が高く、前方部が低い前方後円形になることがわかりました。

なになに。3世紀後半の古墳ですって!
となると、卑弥呼が死んだすぐ後の時代ではないの。
神功皇后ももう亡くなってる。
でも、4世紀後半も含まれるとなると、倭国が高句麗と戦ったりした時代。
倭国が高句麗と戦ったなんて、全く知らなかった。
高句麗の好太王碑文に書いてある話かな?
まいったなあ。分からない事ばかり。

ま、そこは置いといて、つづきを読もう。
古墳の周辺には方形周溝墓や土壙墓などが多数造られており、この地方の有力者とその家族や近親者たちを埋葬した墓と考えられています。

出土品には、鏡のほか鉄剣、鉄鏃(てつぞくーやじり)などの武器、ガラス玉などの装飾品など多くの副葬品(お供え物)が見つかりました。

鏡は中国で作られ、日本に持ち込まれたと考えられる方格規矩鳥文鏡です。

また銅の部分が中空の鶏形二重口縁壺形土器が3個体分見つかりました。その表情の豊かさや写実的な描写から考古学の世界だけでなく、美術史的にも注目されています。ほかの二重口縁壺などと共に、祭祀に使用されたものと考えられます。

これらの出土品から3世紀の終わり頃に造られたと考えられ、九州でも最古級の前方後円墳であることが分かりました。 

なんだ、結論は3世紀の終わりなんだ。
卑弥呼が亡くなって、再び戦乱が起こった頃の人だ。
この古墳は未盗掘だった?全く分からない。
3世紀の終わりと推定された要因は鏡と二重口縁壺の形なんだろうか。

副葬品があるなら写真が見たい。
家の中の図録を探すと結構あちこちで紹介されていました。
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これがニワトリ形二重口縁壺。どこかで見た事があるニワトリですね~。
まさか、小郡市で出土していたとは。
高さ約30センチで、この写真は複製品です。これが3個分出土しました。
しかも底には穴が開けてあるんですって。

二重口縁壺というのが、どうやらポイントらしいので、
奈良の箸墓古墳の二重口縁壺形埴輪(45センチ)を見てみると、こんな形。
箸墓古墳は3世紀の中頃。ニワトリより少し古い。

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前回の三国の鼻1号墳に飾られた壺とそっくりですね。
二重口縁って、なかなか凝ったデザインなんだ。
この津古生掛古墳から出た土器は地元のものがなくて、
ほとんどが畿内や中国地方のものがばかりだったんですって。
だから被葬者は畿内と関係が深い人だそうです。

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これが古墳の形。前方後円墳でも帆立貝のタイプに近いですね。
木棺が直葬してあったそうです。木棺なんだ~。
出土した当時は「日本最古の前方後円墳」と大騒ぎになったんですって。
今では九州から関東にかけて広く発見されているそうです。

c0222861_2182539.jpg

これが出土した鏡。方格規矩鳥文鏡。中の方に正方形が描いてあるんですね。
これの年代の決め方が書いてありました。
京都府の大田5号墳から出た鏡と似ていて、
そちらの方の鏡には魏の年号が書かれていたんですって。
魏の「青龍3年」は西暦235年。
だから、津古生掛古墳の鏡も同時期に中国で作られたたと考えられるんですって。
年代が具体的に出たなんてすごいな。
1700年以上も前の時代って、何と優れた技術の時代なんだ~。
う~む。恐るべし。青銅器文化。

以上の資料は「邪馬台国―九州と近畿」(大阪府立弥生文化博物館図録44)
の写真と進村氏の文を参考にしました。


現在、住宅が建ち並び、古墳そのものを見ることはできなくなりましたが、古墳時代前期の墳墓としての歴史的価値は高く、当地域のみならず全国的にも著名な遺跡となっています。   平成21年2月 小郡市教育委員会

高度成長期に発見された古墳はこうして多くのものが消滅してしまったけど、
これが平成時代に見つかったものなら、きっと保存されたんでしょうね。

調べて行くと重要な古墳だったのがよく分かりました。

地図 生掛公園


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①津古1号墳
②津古生掛古墳
③三国の鼻1号墳
④井の浦1号墳
⑤横隈山古墳








この土器や鏡について、訂正や補足説明がある方、是非コメントしてくださいね。

それではラストの津古1号墳へ。




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by lunabura | 2011-08-02 21:21 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(2)

「黄泉の道」の古墳巡り(5)津古1号墳


小郡「黄泉の道」の古墳巡り(5)
 ①津古1号墳
つこ
福岡県小郡市津古永前641-34

今回はラストの津古1号墳です。
ここはナビをズーンと拡大して、目指す事が出来ました。
行き過ぎて戻ったりしながらも、団地内の急坂を上ると、
こんもりとした森が見えだしたので、エイヤっと目指します。
2軒分ずつ直角に曲がりながらも辿り着きました。
おお。きれいだ!古墳が残されてる!しかも案内板がある!これに違いない!

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団地内の史跡公園になって古墳が残っていました。

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前方後円墳なんですね。段差が見える位置から撮りました。
右の方が高いから後円部で、左が低くなって前方部です。

c0222861_15253213.jpg

後円部の一番高い所に立って、前方部を撮りました。
おおっ、くびれの部分がくっきりと見える!優美!
細長い点は三国の鼻1号墳のラインに近いですね。

案内板を読んでみましょう。
津古1号墳
西鉄大牟田線津古駅の西南方向の低丘陵上には古墳時代前期に属する前方後円墳2基と方墳1基からなる古墳群と、その北側にある舌状台地状の河岸段丘には弥生時代から古墳時代にかけての住居跡群が発見されており、これらを含めて津古遺跡と呼ぶ。

遺跡の調査は昭和43年8月から11月まで実施されており、現在ではこの「みくにの団地」内に津古1号墳が保存されている。
津古1号墳は未盗掘であるため内部主体は不明である。古墳は標高52mの丘陵頂部にあり、前方部を北側に向けた主軸長約35mの前方後円墳である。

この古墳は未盗掘なんだ。形も綺麗に残っています。
古墳時代前期だから、3世紀後半~4世紀後半というのは前回学習済み。
卑弥呼の死後でした。
これまで行った③三国の鼻1号墳と②津古生掛古墳と一緒に
「津古古墳群」と言われています。
この三つの古墳を古い順に並べると、

ニワトリの津古生掛古墳が3世紀後半でトップを飾り、
古墳が現存するここ、津古1号墳が二番手。35m。
そして、イラストだけが残る三国の鼻1号墳が4世紀中ごろで、66m。最後を飾る巨大古墳でした。

こうして時代順に見学するのもイメージが掴めていいかも。

さて、この津古1号墳は未盗掘だから中味が分からない。
でも、2~3号墳には出土品がありました。
この古墳のすぐ東側の丘陵上には津古2号墳、津古3号墳と称する古墳があった。
津古2号墳は主軸長約32m。前方部幅約10m、後円部径約19mの前方後円墳である。盗掘を受けていたが、内部主体は木棺であったことが確認されており、刀子3本、小玉2個が検出されている。

周溝からは小型丸底壺、小型器台、舟形文様の線刻を有する壺などの古式土師器が出土している。前方部は南に向いており、1号墳とは逆方向に位置する。

2号墳の内部主体は木棺です。津古生掛古墳と同じでした。
土師器って赤っぽい土器の方ですね。
津古3号墳は津古2号墳に南接して所在しており、一辺約13m、封土高1m弱の方墳である。周溝からは小形丸底壺、二重口縁壺などの古式土師器が出土しているが、内部主体は不明である。
ここに保存されている津古1号墳は古墳時代前期に属する数少ない前方後円墳として学術上にその価値は高く、また我々の祖先の生活を知るうえからも大切にしなければならない遺跡です。

方墳と前方後円墳が並んでる!どう解釈されているのだろう。
文献は見つかりませんでした。
出土物の写真も見つかりませんでした。
でも津古生掛古墳と同時代なら出土物の雰囲気は少し分かるようになりましたョ。

さて、これで「黄泉の道」の古墳巡りは終わりです。
振り返ると、それぞれが丘陵の頂上部にありました。
木棺が出たのが珍しいなと思ったんですが、この時代には周囲では
まだまだ在来の箱式石棺や石蓋土壙が盛行していたそうですから、
ここは特別な人たちの古墳群みたいですね。

そして、この津古から神功皇后が軍勢を率いて老松神社まで
船で行った事が神社の方では伝えられています。
羽白熊鷲田油津姫、夏羽などと戦っているのです。
時代は200年ですから、この古墳群よりずっと前の時代になります。

津古には港があり、この戦いにメリットがある人々が住んでいたはずです。
船や武器などを製造していた所があるはず。
西隣の佐賀県には青銅器のハイテクランドも控えています。
まだまだ手掛かりが眠っている小郡市でした。

文献と出土物が合体する日を夢見て、これからも歩いて行きまっしょ。
いつも一緒に旅して下さってる皆さん、ありがとうございます。

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①津古1号墳  3世紀後半から4世紀
②津古生掛古墳 3世紀後半
③三国の鼻1号墳 4世紀中ごろ
④井の浦1号墳 6世紀後半
⑤横隈山古墳 5~6世紀




















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by lunabura | 2011-08-01 15:39 | 小郡「黄泉の道」古墳巡り | Trackback | Comments(1)
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