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カテゴリ:日拝塚古墳( 2 )

日拝塚古墳(1)百済と倭国を結ぶ古墳


日拝塚古墳(1)
ひはいづかこふん
福岡県春日市下白水南6丁目208番外
百済と倭国を結ぶ古墳

百済の前方後円墳から、ずいぶん寄り道をしました。
百済の地にあるこれらの古墳は倭人が作ったことが見えて来ましたが、
その中の海南長鼓山古墳が春日市の日拝塚古墳に近いという事を聞きました。
偶然にも、すぐにその古墳に行く事が出来たので今回はそのレポートです。

この古墳は住宅地が迫る丘陵のピークにあります。道案内なしでは難しい所ですぞ。
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墳丘の形が綺麗に残っています。
国指定になっていたので、この敷地だけは保護されています。

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後円部に石室の入り口が露出しています。

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近づくと、こんな感じ。
教育委員会に申し込めば石室に入る事が出来るそうです。

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今日は隙間からカメラでエイヤっと。結構見えますね。
この石室が百済の海南長鼓山古墳と似ているそうです。

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そこで、二つの写真を並べて見ました。
左が日拝塚古墳。右が海南長鼓山古墳です。
確かに似ていますね。
日拝塚古墳は人が立つことができそうです。竹原古墳王塚古墳を思い出しました。
(過去記事はサイドバーから)
百済の前方後円墳は平天井が特徴だそうですが、
この海南長鼓山古墳の天井がどうなのかは分かりません。

石室の形や副葬品など、比較した研究があったら面白そうですね。

とりあえず、一般人が簡単に手に入る情報として、まずは春日市のHPから
 
6世紀に築造された前方後円墳で、周溝まで含めた規模は全長60メートルほどになります。墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。

 主体部は、後円部中央に位置する単室の横穴式石室です。昭和4年に盗掘を受けた際、石室内から須恵器、鏡、装身具、武器、馬具などが多量に出土しており、大部分は回収され、東京国立博物館に収蔵されています。
主軸が東西を向いて大根地山を見ているのは興味深いので、次回検証します。
今回は百済のものと比較するのがテーマです。
何々?出土物はいったん盗掘されたものが取り戻されたって?
これは驚きですが、その出土品もみんな東京に行ってしまった?
これじゃあ出土品が見られないぞ。

看板の写真を見てみましょう。
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これはかなり洗練された副葬品ですね~。
これが、倭人たちが百済で手に入れて、故郷の首長に贈ったものだとすると、
面白いのですが、私にはよく分かりません。

妄想するのにはもっと資料が欲しいなと思って探すと文化庁のデータベースがありました。
日拝塚古墳は博多平野にあり、那珂川の右岸の低段丘上に立地する前方後円墳である。古墳は前方部を西に向けており、全長41.2メートル、後円部径22メートル、高さ5.9メートル、前方部幅34メートル、高さ5.4メートルを測る。墳丘は段築が明瞭で、葺石、埴輪は認められない。石室は後円部中央に設けられ、西南に開口する単室の横穴式石室である。玄室は長さ3.6メートル、幅2.6メートル、高さ4メートルである。羨道は長さ4.8メートルで玄室から2.5メートルは幅約1メートル、高さ1.5メートルを有する。

玄室奥壁寄りに屍床があったといわれるが現在は残っていない。昭和4年に開口したおり、多量の出土品が知られ、獣形鏡1面・金製垂飾付耳飾1・金環4をはじめとする装身具類、環頭柄頭をもつ太刀1をはじめとする武具類、鉄製輪鎧3組などの馬具類、須恵器等多数があり、現在東京国立博物館に保管されている。本古墳は前方部が発達した平面形を示しており、出土品の特色からもこの地域で6世紀に属する後期の古墳として典型的なものである。
むむ。これでも、よく分かりません。残念だなあ。

(つづく)

地図 日拝塚古墳





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by lunabura | 2012-06-05 10:06 | 日拝塚古墳 | Trackback | Comments(6)

日拝塚古墳(2)「ひはい」の由来


日拝塚古墳(2)
「ひはい」の由来
 

さて、今回のテーマは「日拝」という名前の由来です。
墳丘の主軸がほぼ東西を向いており、彼岸の時期には東方約16キロメートルにある大根地山(おおねちやま)から昇る太陽を拝めることから、「日を拝む塚」として「日拝塚」と呼ばれるようになりました。(春日市HPより)

さて実際はどうなっているでしょうか。

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測量なんて当然出来ないので、グーグルアースから切り取ってみました。
前方後円墳にしては円墳が丸くないですね。封土が崩れているのかな。
それともそんな設計?

いや、テーマは古墳の主軸でした。
グーグルアースが地図として正しく東西南北を指しているとすると、
切り取った輪郭が物差し代わりに使えます。
それと見比べると微妙に傾いているので、
主軸はHPにあるように「ほぼ東西」となるようです。
歳差運動で、東西がぶれたのでしょうか。

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円墳の上から東を見ると、遠くに三角形の山が見えました。
(写真では電柱のすぐ左。)これが大根地山(おおねち)です。

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拡大しました。三角形の独立峰です。
このブログでは初登場ですが、実はこの山はあちこちから見える、気になる山で、
神功皇后が登って祭祀したという伝承もあります。
私もかつて登ろうとしたけど、イノシシの噂を聞いて止めたことが…。(-_-;)

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日拝塚古墳から大根地山に向かって東にラインを引くと頂上にはつながりません。
少し北に届きます。
もしかしたら、日の出の場所は山の北の峠かもしれません。
日の出を観測するのに、山のピークを利用するのも有りですが、
二上山のように凹んだ所から出る太陽を観測する例もあるのです。

そこで、月の浦からの月の天体ショーを発見した、くるま座さんに尋ねると、
彼はここで日の出を観察したというではないですか。
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それによると、春分の日は大根地山の少し左側から、夏至は乙金山から太陽が昇ったそうです。
それを写真に書き込んで見ました。
夏至に乙金山(おとがねやま)から昇るとすると、春分の日についても
大根地山のピークではなく峠から出る事が前提だった可能性が出て来ました。

ここから毎日、日の出を見た情景を想像しましょう。
春分の日に大根地山の峠から太陽が出ると、その後、日の出は日々左にずれて行き、
夏至の日に乙金山から出ると、Uターンして再び大根地山に戻ります。
その後はさらに右の方から出来ます。
冬至の日の出の目当ての山も家の向こうにきっとある事でしょう。
蛇足ですが、大根地山と古墳のほぼ中間点に大宰府があります。

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さて、振り返って古墳の反対側を見ると油山が見えました。
どんな日没が観測できるのでしょうか。

さてさて、この「日拝塚」の由来についてはあの真鍋大覚氏が書き残してくれていましたよ。

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写真が載っていたので、私が撮ったものと並べて見ました。
30年ほどで封土の形が変化しているようですね。
本文を引用してみます。
前方後円墳は門戸(かどのくち)の方位が夏至の日の出、冬至の日の入りを見通す様式になっているものもある。まさに居ながらにして太陽暦日を見取ることが出来る。

前方後円墳を「狐塚」とも言う。その形が狐の耳を立て腰を高くして休みおる姿に似ているからと説かれている。

昔は日契塚(ひけいづか)、後に日経塚(ひけいづか)と呼び、一種の日計塚の意であったが、これを「きつね」と略したのが由緒らしく、更に吉日を選び縁起を担ぎ出す江戸初期頃には暦書の普及も又百姓町民の手元に届くことになって、その由緒が失われた。

またの名を日回塚(ひかいづか)あるいは日向塚(ひけいづか)と言う。夏至冬至のこの日を限って日の出入りの方位が回転するからであるが、これが訛って日拝塚に変わり、春分秋分の日の出日の入りを正す渾天儀の役を勤めてきたのである。
なるほどですね。
すべての古墳が太陽の観測に使えるように造成した訳ではありませんでした。
ただ、この古墳は主軸が東西に造られたために、
さきほどのように山の稜線を観測する事で「日を計る」ことができたので
「日契」「日経」とも呼ばれ、「日回」「日向」とも書かれ、最終的に「日拝」となりました。

「あの古墳は何でヒケイち言うとかいな。」と人々が語源を考えて、
漢字を当てはめていったようすがよく分かります。
キツネの寝姿に似ているのも、面白いですね。
キツネが口にくわえている巻物とは暦のことなのですから。

つづき。
(前方後円墳は)元来は含墓(がんぼ)のちには観墓(かんぼ)と呼んだこともあった。その形が「含」(に似ていたからである。)

「含」とは即ち「王者の口に血統を刻した玉石」で、これを挟む葬式が遠く殷周時代に行われ、(その形は今の短冊あるいは紙雛、又は戯化されて、てるてるぼうずの形に似ていたが、)冥土で閻魔が鋏でこれを抜き、裏表の書面を確かめたうえで天国か地獄への配分を定めたと語られている。やがてこれが「大王の舌抜きの説話」に転じ、更には虚偽の申し立てを「二枚舌」と言うに及んだのである。
へえ。そうなんだ。
中国の殷などの被葬者の口に玉石をくわえさせるのは、
その血統の印刻を閻魔大王に見せるためなんですって。
閻魔大王はその玉石を引っこ抜いて、書面を確かめたなんて。
由来が分かるとなるほどだな~と思いますね。
その形は前方後円墳の形なんだ。ふふ。そうなんだ。

古墳の前と後は高さが不同であった。方位を見定める労を軽くする配慮であった。

衆人はこれを見て各々高さを競うゆえに「いがみあいづか」と称していたらしい。権力闘争を事とした王者を揶揄(やゆ)するかの如くに聞こえるが、元来は神前仏前に供える飯粥(いがい)の形を写した古語に他ならない。

飯はさらに高く盛り上げることができるが、粥(かゆ)は椀に入れて具を中に伏せてもほぼ平たくなる。百姓はかつて王者の資本で開拓した水田のお蔭を感謝する供物を日々忘れなかったのがこの発祥である。(中略)

里の女人が供物を捧げて立ち帰った後、人気のなくなったのを見済まして、母狐が子狐連れでそのまま一日草むらの日向で昼寝をしていたと聞く。古墳の尊厳は荘園が存続していた頃まであったらしい。

『儺の国の星』より(一部、るなが言葉を補いました。)
お供え物の「いがい」が「いがみあい」に変わるなんて、有り得る~。
そして暦のシンボルとなったキツネがそこで昼寝をするなんて、いい時代の話ですね。

古代は「王者の資本で開拓した水田」って、言われるとホントそうなんだ。
これに類する話は「裂田溝」(さくたのうなで)も該当しますよね。
あの裂田溝はここからはすぐ隣の那珂川町にあるんですよ。

そして、この日拝塚古墳の系譜はその那珂川町につながるという話を聞きました。
時代を遡ってその那珂川町に行きましょう。





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by lunabura | 2012-06-04 19:50 | 日拝塚古墳 | Trackback | Comments(2)
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