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カテゴリ:コメントまとめ( 11 )

高倉健の命日の不思議


高倉健の命日の不思議

高倉健が亡くなって、ひと月近くになろうとしています。
まだまだ、その面影が心に残っています。

きりんさんからコメントをいただきました。

ご無沙汰してます。

高倉健さんは、福岡県遠賀郡岡垣町にある高倉神社から俳優名をとられて高倉としたと以前聞いたことがあります。
健さんが、剣(草薙の剣)とゆかりのある神社に縁があるとうのも、鍛えた剣のような人生と立ち姿に重なりますね。
これはこれは。
高倉神社の社号が健さんの名前の由来とは。
そして当社が草薙の剣を預かったことから、健の名前が生まれたとは。

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島津物部の長として神功皇后軍に武器を提供して水軍として参戦。
のちに皇后はお礼に当社で祀ったという。
境内の綾杉は皇后にゆかりのもので、神紋となっています。(ガイドブック上巻11で紹介)

思いがけない所で繋がりました。
これからは、高倉健を思い出すたびに、私の心の中では高倉神社の神域が重なるのでしょう。

きりんさんは、さらに高倉健の命日の不思議を教えてくれました。

脇山は、昭和天皇の即位の礼とも縁がありましたね。

昭和天皇の即位の礼は、1928年11月10日に執り行われ、
悠紀田は滋賀県野洲郡三上村、
主基田は福岡県早良郡脇山村から選ばれました。

この即位の礼と同日の11月10日が高倉健さんがお亡くなりになった日ですが、
大衆芸能の分野で文化勲章を受章した三俳優の御命日が、昭和天皇の即位の礼と同日という神掛かったご縁があるようです。

2009年11月10日、森繁久彌 さん
2012月11月10日、森光子 さん
2014年11月10日、高倉健 さん

お三方とも日本に於いて最高位の勲章を受けており、健さんが国民栄誉賞を受賞すれば(追贈受賞)、これまた3人共受賞ということになります。

きっと、皆様さらなる高みに昇って昭和天皇の元にいかれたのでしょうね。

森繁久彌 さん は、勾玉
森光子 さん は、鏡
高倉健 さん は、剣

という印象です。
「脇山」とは福岡市早良区にある地名で、蘇我氏が開拓した土地。
そこに蘇我の地名が残らなかったのは、
異邦人の居留地という意味合いがある「わき」という言葉で呼ばれたから。

蘇我氏はのちに、その灌漑技術力で筑紫の君磐井に協力して
水城の築造に貢献したことが、真鍋の解釈から見えてきました。

その脇山が昭和天皇の即位の主基田(すきでん)に選ばれていたのですね。
その即位の日が11月10日。
昭和の男を演じた高倉健の命日も11月10日。
森繁久彌、森光子の命日も11月10日。

これはきりんさんの言われる通り神懸った日だし、
それに気づかれた、きりんさんもまた凄いですね。

昭和という時代について、多くの事を考えました。
「平成」という今。
この平和を何としても次の世代に引き継がなければと思いを新たにしました。



きりんさん、ありがとうございました。




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by lunabura | 2014-12-04 21:04 | コメントまとめ | Trackback | Comments(2)

大宰府考2、白村江の戦いの遠因 、遣隋使・きりんコメント


大宰府考2、白村江の戦いの遠因 、遣隋使
きりんコメント
 
● これに対して聖徳太子は、裴清
「私は、なにぶん田舎者で国際儀礼を知らず、失礼な国書を送って申し訳ありませんでした。」
と素直に謝罪します。(時系列⑧)倭国と比べたら日本国は確かにその通りだったのですから
仕方ありません。

しかし一方で日本国は、近年は仏教にも力を入れており、
倭国よりは隋の理念に近いものを持っていることを伝え、対・倭国の隋-日本秘密同盟を呼び掛けます。
(秘密にしておかねば、倭国が日本国にどう出てくるか分かりませんので)

これで裴清は、倭国に対しては「日本国との密約」という保険を手に入れて帰国することができました。


●(時系列⑨)日本国から隋への返書には

「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す(もうす)」

と「倭皇」を「天皇」と書き直して聖徳太子が送ったという記事が日本書紀にのみ記されてあります。

日本国に対して国書を送ってもいなかった隋の歴史書には記されていなかったとしても
これはしかたありません。
こうして同盟の密約は伏せられ、日本国についての積極的な記述を隋は残さないまま
10年後に隋帝国は滅びてしまいました。


● 「日本の天皇 隋の皇帝に 敬まひて白す」と国名で書けばよいものを、わざわざ
「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す」と方位で記しています。

この
「東の~、西の~」は、以前の国書の
「日出ず処の~、日没する処の~ 」に相当し、
やはり、倭国を基準にした方位にこだわって書き表すことで、
軍事同盟を再度呼びかけているのだと私は考えます。


●聖徳太子は、「倭皇」を改め「天皇」と記し、倭皇から倭という漢字を抹消することにより
別国であることを強調したという推測を私はしています。

「隋の皇帝」に対しての「日本の天皇」というよりも、
「倭の倭皇」に対しての「日本の天皇」という考え方です。

なんといっても、 倭国は「天を以て兄と為し、日を以て弟と為す 」という国ですから。
日本国が倭国に今後対抗していこうと志すならば、
「日皇」では弟のままで従属関係を脱することが叶いそうにありません。
そこで倭国の兄である「天」を冠した「天皇」と称するべきだと聖徳太子が考えたとしても
不思議ではありません。

裴清が持ってきた国書には「 皇帝 倭皇に問ふ」と書かれてあったことを小野妹子は知っていましたから、
倭国王が倭皇ならば、日本国王も「王」ではなく「皇」の字を使わねば、釣り合いがとれないので、
日本は「天皇」と称するのが相応しいと考えたものと推測します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上、遣隋使から読みとく白村江の戦いの遠因を私なりの仮説で推測してみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


隋の高句麗への遠征政策は、次の唐王朝でも継承され、
隋と日本国の密約は、最後の遣隋使と最初の遣唐使どちらの使者でもあった 犬上 御田鍬(いぬがみ の みたすき)によって
唐にも説明され、密約同盟政策が引き継がれていったものと考えます。

通常、遣唐使は毎年出さねばならないものですが、日本が遠国ということもあるでしょうが、
日本国と唐の間には倭国があるため頻繁な使者の往来は倭国を刺激する恐れもあるため
20年に一度の遣唐使派遣という特別な措置がとられたのだと思います。

また、日本国は密約によって唐の冊封国となることを回避し独立を担保することにも成功しました。
日本国があからさまに唐の臣下となる冊封国になれば、倭国がそれを警戒するに違いないからです。
あくまで密約であることに双方に利があるのです。

643年に高句麗と百済が同盟した時点で、水面下で唐日本国同盟の密約が発動し、
百済→倭国→高句麗の滅亡のカウントダウンがスタートしたというのが、私の見解です。

最後に
参考までに今回の仮説に関連のある事件を年表順に列挙しておきます。


581、隋 建国 【仏教を厚く尊ぶ】
587、日本 蘇我馬子(仏教受容派)が物部守屋(仏教反対派)を暗殺。崇峻天皇即位
589、隋 中国を300年ぶりに統一【中国大陸での仏教の勢いが一気に増す】
590、唐 東突厥と相互不可侵条約【西の兵を東の高句麗へ向ける準備?】
592、蘇我馬子が 崇峻天皇を暗殺。推古天皇 即位【日本の仏教勢力拡大】
593、聖徳太子 摂政に就任
594、聖徳太子 仏教興隆の詔
598、隋 高句麗遠征(第一次)

600、遣隋使(第一回)※日本書紀に記載なし。おそらく倭国が派遣するも、隋の冊封国となる意志が倭国王になくその後は隋に朝貢せず。
600、倭国 新羅へ遠征
603、日本、小墾田宮造営し遷都、 冠位十二階 制定
604、隋初代皇帝 崩御、煬堅即位
604、日本、十七条憲法 制定
607、遣隋使(第二回) ※小野妹子 派遣
608、遣隋使(第三回) ※小野妹子 派遣

610、遣隋使(第四回)
612、隋 高句麗遠征(第二次) ※将兵100万人を失う
613、隋 高句麗遠征(第三次)
614、遣隋使(第五回) ※ 犬上 御田鍬(いぬがみ の みたすき)派遣
614、隋 高句麗遠征(第四次)
615、隋 農民反乱激化
618、隋滅亡、煬堅 崩御、唐 建国 高祖 即位

622、聖徳太子 没
625、唐の高祖が、「道教が先、儒教が次、仏教が末」という詔で道教を尊ぶ国策を宣布する。これ以降、唐では基本的に道教を上位に置き奨励し、仏教を下位に置いて抑圧する政策が採用された。【例外は則天武后や韋后の治世の仏教奨励策】
626、唐 高祖 崩御 太宗 即位
628、推古天皇 崩御

630、遣唐使 (第一回) ※ 犬上 御田鍬(いぬがみ の みたすき)派遣
643、高句麗と百済が同盟し、新羅が唐へ救援依頼
644、唐 高句麗遠征(第一次)
645、大化の改新、蘇我馬子 没【唐の仏教抑圧政策も影響あり?】
646、唐 高句麗遠征(第二次)
649、唐 太宗 崩御 高宗 即位
653、遣唐使 (第二回)
654、遣唐使 (第三回)
656、飛鳥岡本宮 遷都
658、日本、蝦夷討伐
659、遣唐使 (第四回)

660、百済滅亡、唐・新羅が勝利
661、斉明天皇 崩御
663、白村江の戦い、(倭国 滅亡?日本 密約を果たし漁夫の利) 唐・新羅が勝利
664、大宰府 水城を造営
665、大野城と基肄城を築城
665、遣唐使 (第五回)
667、遣唐使 (第六回) ※入唐せず
667、近江 大津宮へ遷都
668、高句麗滅亡、 唐・新羅が勝利
668、天智天皇 即位(高句麗が滅亡したタイミングというのが意味深)
669、遣唐使 (第七回)
669、中臣鎌足 没

670、羅唐戦争 (676年まで)
671、天智天皇 没
672、壬申の乱( 羅唐戦争継続中に乱を治める必要あり )
673、天武天皇 即位
676、新羅が半島統一(唐の勢力低下。ただし、新羅は羅唐戦争の戦前・戦中・戦後を通して一貫して唐との朝貢冊封関係を維持し続け、年号も唐の年号を使用し続けた。また、日本としては唐に対して新羅という緩衝国を失わずに済む最上の結果となった)





きりんさん。ありがとうございます。
すごくすっきりとしました。 






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by lunabura | 2012-11-14 13:03 | コメントまとめ | Trackback | Comments(0)

大宰府考1、白村江の戦いの遠因 、遣隋使 きりんコメント 


大宰府考1、白村江の戦いの遠因 、遣隋使
きりんコメント

以前のメールで、
倭国日本は7世紀半ばまで(正確には白村江の敗戦まで)日本列島に両立した別国だ
という仮説を立てたことがありましたが、その仮説を前提に、
遣隋使聖徳太子の事例を考えると、また新しい仮説へと発展させることが出来ます。

それは、
聖徳太子はなぜ、隋の煬帝にあれほど強気な国書を送りつけることができたのか? 」
という謎についてです。

【※仮説の前提として、次の二点を大前提とします。
●聖徳太子は実在した。
●遣隋使の小野妹子は聖徳太子が派遣した。】

①607年の遣隋使について隋書によると、聖徳太子は遣隋使を派遣した際に 使者を通じて以下のように奏上しています。

「 聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。
故に遣して朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ」

意訳すると、
「海西の菩薩のように慈悲深い天子が、重ねて仏教を興隆させているとお聞きしております。
それゆえに使者を遣わせて朝拝いたしました。
同行させた僧侶数十人に仏教を学ばせたいと存じます」


②そして、あの有名な国書の一文が続きます。

「 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」

中華思想的には無礼この上ない国書を携えて来た小野妹子は、隋の皇帝の逆鱗に触れることとなります。
しかし、
これは通説では、当時、高句麗と戦争状態にあった隋の煬帝の足元をみた聖徳太子の優れた国際感覚と計算しつくされた外交手腕によるものとされています。

この国書以降、日本は中国の冊封を受けた属国とはならない意思を示しつづけ、西の隋の皇帝に対しての東の日本の天皇として、対等外交を模索し、やがては独立国日本を確立する道のりの最初の一歩となったとされています。


③国書を見た煬帝は立腹し、外交担当官に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と命じたといいます。無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな、というとこです。

この聖徳太子からの国書の文面は、中国の皇帝と日本国の王が同格であつかわれており、中華的思想では周辺民族は中国より下であり、中華文明を慕ってやってくるものでなければならないという外交常識から外れた、はなはだ無礼なものでした。

また、日本は「日出ずる処の天子」であるのに対して、隋の煬帝は「日没する処の天子」と記されており、書面上では隋が斜陽し没落してゆく印象を与え、傾国の皇帝呼ばわりされた煬帝は、ひどく立腹したとも言われています。

【もっとも、この国書の日没=没落は予言めいており、現実に隋は5年後の612年に高句麗遠征で100万人の将兵を失い、11年後の618年には煬帝が部下の近衛兵から殺害されて隋帝国は崩壊している】


④しかし、その一方で煬帝は、 翌年に自らの使者である裴清(日本側記録では裴世清)を遣隋使の帰国に同行させて状況確認の任務に当たらせ、倭国が高句麗と同盟を結ばないように懐柔策をとります。

これは、
高句麗との戦争を有利に運ぶ為に、隋は日本を味方にしておきたいはずだと予想し(中国の王朝はいつも遠くの国を味方にして近くの国を攻めるという鉄則に従っているので)、日本に友好の使者を遣わす筈だと聖徳太子が読みきった外交成果だったと言われています。


⑤ちなみに隋の記録では「男の王 、后妃多数」とあり、女帝(推古天皇)の時代と異なるため、男の王とは聖徳太子のことか、誤って他の時代の男性天皇を表しているのではないかといわれています。


⑥日本の無礼に怒った煬帝も一応は返礼の使者を出したことは隋書、日本書紀ともに書かれています。
また、日本書紀にのみ 隋の皇帝から授かった返書の国書を小野妹子が帰国途中に誤って紛失したとされています。
裴清が持ってきた国書には「 皇帝 倭皇に問ふ」と書かれており、倭王を倭皇と記しなおしてあり、隋としては最大限の譲歩がなされた表現が国書の中からも感じられます。


⑦裴清は
「 隋皇帝の徳(人民への教え)は二儀(天と地、主と従)である。沢がいずれも四海に流れ下るように、隋の政治体制や理念を手本として見習うようにと教えるために、私が遣わされてきたのです、よって天子自らが諭し命じた事と同じである」
と聖徳太子に伝えます。


⑧これに対して聖徳太子は、裴清に
「私は夷人であり、海隅に僻在して礼儀を知らない」
と謝罪したといわれます。
これは「私は、なにぶん田舎者で国際儀礼を知らず、失礼な書を送って申し訳ありませんでした。」という謝罪ですが、太子が震え上がって言っているのか、とぼけているのか、見方によって判断がわかれるところです。


⑨更に隋への返書には「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す」と倭皇を天皇と書き直して聖徳太子が送ったという記事が日本書紀にのみ記されてあります。


・・・さて、ここまでは通説を時系列で列挙していったのですが、ここからは私なりの推理や仮説を加味していきたいと思います。


私の仮説としては、 次の通りです

●倭国(九州)と日本国(近畿)は、日本列島の東西に両立した別国である。

●東の日本国に聖徳太子がいた時代に、西の倭国には 阿毎 多利思北孤 王がいた。

● 倭国と日本国の勢力比較をすると倭国の方が力が上であった。また、倭国は百済に対しても強い影響力をもっていた。

●西暦600年の遣隋使は倭国の阿毎 多利思北孤が派遣した。(よって日本書記に記述がなく隋書のみ記載)

●西暦607年の遣隋使は日本国の聖徳太子が派遣した。(日本書記によると最初の遣隋使派遣)

● 倭国は純粋な神道の国であり、日本国は神道に仏教を融合させようと努力した国であった。(結果、蘇我氏の影響力が増大)

●時系列①にあった西暦607年遣隋使の奏上では、 「海西の菩薩天子と誉れ高い隋の皇帝と同じく、我が国も仏教をもって国を治めようとしております。

同じ仏教の価値観を共有する我が国の僧侶を遣わしますので、どうぞ仏の教えをお教えください。」と伝えることで、 隋と日本は同じ仏教国であることを強調しつつ、 神道の倭国と、仏教の日本国の宗教面の違いをアピールしたかったのではないか。

一方、
西暦600年の倭国の遣隋使では、神道に則って夜に星を見て占いをしながら政治判断していた(結果、夜に天を兄とし星見をするために起きていて、昼の日を弟として日中寝ていた)という倭国の政治手法を、隋の初代皇帝の楊堅(= 煬帝の父)が耳にし倭国の政治のあり方が納得できず、また、道理に反したものに思えこれを改めるよう訓令した、という話とは極めて対照的です。

一種の宗教戦争の色を帯びてきますが、神道国家の倭国を、仏教国の隋と日本国で東西から挟み撃ちにしようという戦略が聖徳太子にはあったのかもしれません。

また、
昔から領土拡大に遠交近攻を策に用いる中国ならば必ずや同盟話に乗ってくると踏んでいたのかもしれません。


● ②そして、あの有名な国書の一文
「 日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」
が登場するのですが、
「日出ずる処の~、日没する処の~」というのは、倭国を基準とした方位ではないのかと私は考えています。

軍事同盟の呼び掛けなら対等な表現でも差しつかえなかろうと思ったのかもしれませんし、倭国のように古代中国の南朝に国書を出した経験も全く無い日本国としては、初めての国書作成で中華思想的な礼儀作法をただ単に知らなかっただけのようにも思えます。

そして、もし通説どおり聖徳太子が無礼を承知で書いた国書だったとしても、日本国としては隋に対して、倭国を緩衝国とした絶対的なリーチの長さがあり、それが心の余裕を生んでいたのかもしれません。

いくら隋の皇帝でも倭国を飛び越えて一気に日本国を攻めることは不可能ですから。
隋に対しては直接に国境を接していないという地理的条件と安心感から、遣隋使を派遣する際に、あの強気な国書を書き記すことが可能だったのではないかと考えるのです。


●③国書を見た皇帝は立腹し、無礼な蕃夷の書は今後自分に見せるなと命令します。普通ならこれで国交断絶か戦争で話は終わりです。
返書の使者など、まず立てません。
しかし、 煬帝は思います。「日本列島から来たというあの使者は本当に倭国の人間だったのだろうか?」と。

煬帝をはじめ隋の宮中の人々は皆、日本列島と倭国の名は7年前に聞いたことがあっても日本国は知りません。

日本国の聖徳太子による軍事同盟の呼び掛けなど、礼儀を欠いた国書の為にまったく聞く耳も持たれず、同盟話はおろか日本国の存在をきりだす事すらできていません。
ですから煬帝は激怒した後に気が鎮まってから思うのです。

「7年前の倭国からの使者は国書も持たず外交儀礼にも疎かったが、こちらを怒らせるような物言いはしていなかった。夜に起きて星に政を聴き、朝に日が昇ると眠るなど、神道は謎めいていたから

政治を改めるように先帝の文帝(= 楊堅 )が倭国の使者に訓令し促してはいたが、いくら大国・隋から指摘されたからといって国の政や宗教を神道から仏教へたった数年で改めることができるだろうか?」と。

● 煬帝は倭国に国書を記すことにしました。そして、 608年に自らの使者である裴清を小野妹子を長とする遣隋使の帰国に同行させて状況確認の任務に当たらせます。(時系列④⑥の内容)

裴清は、倭国に到着すると 「 皇帝 倭皇に問ふ」とあるように、隋皇帝からの国書を倭王の 阿毎 多利思北孤に渡し疑問をぶつけます。

※小野妹子はこの時点で日本国の聖徳太子(または推古天皇)宛の国書を紛失したことにしました。はじめからそのような隋から日本国宛の国書など存在していなかったからです


●裴清は、 倭王の阿毎 多利思北孤 と謁見し次のことを理解しました。

○倭王の阿毎 多利思北孤 は一目瞭然 男性の王であり、多くの后妃をもっていた。(時系列⑤の内容)

○日本列島から来た小野妹子は倭国からの使者ではなかった。

○倭国は600年の遣隋使派遣以来、一度も使節を派遣していなかった。

○今回の小野妹子を使者とする607年の遣隋使は、日本列島にある国ではあるが倭国とは別の日本国という国からの使者であり、日本国は倭国よりも更に東に位置する新興国であった。

○倭国は600年の初回の遣隋使で、隋の皇帝からの「政治を改めるように」との訓令に失望し、宗教と政治を改める気もなかった多利思北孤は、最初の遣隋使派遣以後は隋との国交を特に積極的に結ぼうとは考えていなかった。

○日本国は近年台頭してきた国ではあるが、倭国と日本国の勢力比較をすると倭国の方がまだまだ力が上であった。

また、倭国は百済に対しても強い影響力を有しており、百済が高句麗と国境を接していることを考えると日本が高句麗と同盟を結ばないように懐柔策をとることが隋にとって最良の策である。

○もし懐柔策が失敗し、将来 倭国が隋との同盟に消極的な姿勢を示したり敵対した場合には、倭国の東に位置するという日本国と連係することで多利思北孤に圧力をかけるという策も状況によってはありえるかもしれない。

○その意味では、中華思想的には無礼この上ない国書を携えて来た小野妹子ではあるが、彼の主である聖徳太子に会うために日本国まで足を運ぶこともやぶさかではない。

以上の状況認識と政治判断から 裴清は小野妹子と共に日本国へ赴き聖徳太子に面会することを決意しました。

●⑦裴清は小野妹子に連れられ日本国までやって来ると、聖徳太子に
「 隋皇帝の徳(人民への教え)は二儀(天と地、主と従)である。沢がいずれも四海に流れ下るように、隋の政治体制や理念を手本として見習うようにと教えるために、私が遣わされてきたのです、よって天子自らが諭し命じた事と同じである」
と高圧的に伝えます。

小野妹子は紛失したことにしていますが、隋から日本国宛の国書など存在しないのですから口頭で伝えるしかありません。

これと同じ内容を倭王の多利思北孤 にも裴清は伝えていましたが、倭王は隋の政治体制を見習うような返答は最後までしませんでした。結果、裴清は日本国行きを決意したのでした。








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by lunabura | 2012-11-11 23:23 | コメントまとめ | Trackback | Comments(2)

倭国の多利思北孤と、日本国の聖徳太子・コメント


ガイドブックを大きく手直しすることになりました。

忙しくなる事が予想されて、永尾剱神社を急いだのですが、
助っ人のようにキリンさんがコメントをくれました。
しばらくまた記事が書けないので、今回はそのコメントをUPします。

思えば、「倭国」と「日本国」が一時併存した事が分かってから、
日本の古代の見通しが随分よくなりました。

前回「そういえば倭国の王家もアマ氏でした ね…。」と書きながら、
北部九州に残る天原・高天原・天草という地名の数々に
何かヒントがないかなと考え始めています。

今回はキリンさんが
「日本と中国の記事の差」に注目した記事を送ってくれたので、ごゆるりと、どうぞ。



倭国の多利思北孤と、日本国の聖徳太子

 こんにちは。ルナさん。
>(そういえば倭国の王家もアマ氏でした ね…。)
の倭国の王の名で、思うところがあり、長すぎるコメントをお送りします。
以下、本文です。
・・・・・・・・・・・・・・・・


大宰府の成り立ちを考える時、白村江の敗戦は無視することのできない大戦争でしたが、
この戦いの20年くらい前の大事件として大化の改新があります。

かつて、神道(物部氏) vs 仏教(蘇我氏)の戦いに勝利していた蘇我氏が
没落するきっかけとなった事件です。

私はこの事件は通説にプラスして、仏教(蘇我氏)から神道(天皇)への
一種の宗教の揺り戻しだったとも考えているのですが、
その遠因の1つとして、仏教を国教とした隋帝国の滅亡があったものと思っています。

今回は、さらに大化の改新の45年前の遣隋使派遣についての出来事を調べながら、
倭国と日本国について関係を考察していきたいと思います。

まず、遣隋使の記録について、日本と中国では第一回目の派遣年数がいきなりズレています。
中国側の記録では西暦600年、日本側の記録では607年となっているのです。

西暦600年の遣隋使について隋書ではこのような記述となっています。

開皇二十年、倭王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩 弥と号(な)づく。
使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。

使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。
天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。

日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。
高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。



西暦600年と607年に隋へ遣隋使を派遣した倭国の王の名を、
中国の歴史書「隋書」は、「 阿毎 多利思北孤 」と記しています。

倭王の姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤、というわけです。
現在の日本の皇族には姓がありませんが、当時の 倭王には「阿毎」 という姓が
あった可能性があるということです。

このなかで、
「阿毎 多利思北孤」の 「阿毎」(あま)は「阿海」の落字ではないかという疑念が
私の中には以前からずっとあるのです。

「熱海」で「あたみ」と読むように「阿海」で「あづみ」と読めればずっとスッキリするのですが。
我が国では海神に「わたつみ」三神もおられますし、
「海」で「つみ」と呼ぶのもありなのかなと思ったのです。

「阿毎」=「阿海」で「あづみ」と読めれば、志賀海神社の現在の宮司さんの阿曇氏まで
系譜が一気に繋がるのですが。

古代中国王朝は ワ国を「倭国」あるいは「俀国 」と表記しているように、
異民族に対しての呼称はわりと大雑把で、侮蔑的な漢字をわざわざ選ぶ傾向があります。

邪馬台国には、邪(よこしま)なんて漢字があてられていますし、
卑弥呼なんて、卑(いやしい)という字がわざわざ当てられています。

卑弥呼は本当は「日巫女」か「日御子」「日皇子」あたりの字が
ワ国の当事者の感覚からすると適当な漢字だと思うのです。

「倭国」という漢字なども本当はワ国側としては「和国」と表記したかったのかなと
私などは空想してしまいます。

卑弥呼の後継者に、台与(壱与 )と歴史書に記された女性がいます。
彼女は「トヨ(イヨ)」と発音されていますが、これは、魏志倭人伝中の壹與のことであり、
後代の書である 『梁書』『北史』では「臺與」 と記述されています。
※(「台与」は「臺與」の簡略代字)

この、台与= 臺與 の呼び名は「とよ」ではなく、
普通に「たいよ」 と読むのではないかと私は考えてみました。

とすれば、「卑弥呼(ひみこ)=日巫女・日皇子」の後継者は、
「臺與(たいよ)=太陽」と呼ばれた女性だったのかもとの推測も立つのですが・・・。
(こんなことを思い付きで書いているのは多分わたしだけですね。)

ヒミコやタイヨを女性の個人名としてではなく、和国の祭祀職名として考えた場合、

【日皇子→太陽】

の流れで祭祀を司る者が継承されてゆき、綺麗な流れになると個人的には感じるのですが如何でしょう。


更に空想の翼を広げて、
倭国=和国とすると、あの聖徳太子の十七条憲法の第一条の

「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。

あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。
しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、
事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」

とある中の、冒頭部分の

「和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。 」

の意味は、

「(日本にとって)和国は貴い国であり、決して逆らうことは無きようにせよ。」

と読み解くこともできます。
このように読むと、十七条憲法が日本国内向けに発布されたのはもちろんのこと、
倭=和国むけに発信された恭順を示唆する「政治的メッセージ」を含んでいると
見てとることも可能になります。


(こういう思考ゲームは、たいへん楽しいので、ドンドンいきますね。次のメールに続きます!)



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by lunabura | 2012-11-07 23:13 | コメントまとめ | Trackback | Comments(7)

大宰府コメント6 白村江の戦い

大宰府コメント6 白村江の戦い


さて、「倭国」と「日本国」について、白村江の戦い の話題になりました。


――ところでFさんが、
「白村江の戦いは、九州勢が戦ったのであって、近畿勢は九州勢を見殺しにした」と怒ってました。
これは倭国と日本国が連合軍だった事を示しているのではないかと思ったのですが。
いかがですか?


ここが一番わからないところです。
ハッキリ言って大和の軍勢は船いくさに不向きな印象が(遣唐使船の沈没率を見るにつけ) 私にはあるので、
筑紫の軍船で一緒に連れていってもらえたのかどうかが解らないのです。

白村江の戦い以降の航海術の未熟さを想うと
大和軍は自力で朝鮮半島まで軍勢を渡海させる能力がなかったと思うので。

白村江の戦いをwikiで調べると、
白村江の戦い
年月日:663年10月4日(天智天皇2年8月27日)-10月5日(8月28日)
場所:白村江(現: 錦江近郊)

結果:唐・新羅連合軍の勝利
交戦勢力:唐 新羅 vs倭国 百済遺民勢力

指揮官:劉仁軌、文武王
上毛野君稚子、阿倍比羅夫、扶余豊璋

戦力:唐軍 7,000人 唐船舶 170余隻 新羅軍 5,000人
倭国軍 :42,000人 倭国船舶 800余隻 百済軍 5,000人

損害: 唐・新羅連合 、不明(倭国・百済連合 軍の被害よりは小規模)
倭国・百済遺民軍 船舶 400隻、兵 10,000 人、馬 1,000頭

とあります。
後世に生きる私たちは歴史を知っているので
大唐帝国に倭国が負けて当たり前という印象を持ちやすいのですが、
戦略としては朝鮮戦争時にプサン近くまで攻められた韓国軍を救う為に
マッカーサーが北朝鮮軍を押し返すべく行った仁川上陸作戦と同じ発想です。
結果はコインの裏表でしたが・・・。

シビアに戦力を比較すれば、
唐と新羅の計12000人に対して、
倭と百済の計47000人の兵力です。

これだけの兵力差ですから、
倭国が4倍の兵力で唐・新羅連合軍に勝つ気満々だったことがうかがえます。
(結果は赤壁の戦いのように火計で大敗でした・・・)

上陸を無事に果たし、制海権さえ失わなければ、日清戦争のように
互角以上の戦いができたはずです。逆にいうと、これだけの兵力を失った訳ですから、
筑紫王朝が傾くのもうなずけます。

問題は、この倭軍の中にどれだけの大和軍が編入されていたのかが解らないのです。

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大和軍は船戦は不得手でも、上陸してしまえば帰国の船は筑紫水軍が乗船させないかぎり
死ぬまで半島で陸戦を続けるしかないでしょうから、
生殺与奪の権を握る筑紫勢としては、陸の戦働きとしての大和勢は(海上はともかく)
陸上戦力として十分期待できる存在となるのです。

ただ、下手をすれば海の向こうで見殺しもあり得ると解っている大和勢が、
帰路の保証のない渡海軍船にどれだけ乗ったかどうか。
大和勢として絶対に乗りたくない船でしょうから、
あとは、筑紫と大和の力関係で決まる筈です。

豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に、渡海を拒んだ徳川家康ほどの力を
当時の大和政権が持っていたかどうかにかかってきます。

私は、おそらく大和の軍勢は筑紫の軍船に乗らなかったと考えます。

そして、白村江の戦い以後に、朝鮮半島に軍勢を送らなかった東軍・大和勢と、
半島侵攻に失敗した西軍・倭国との間に 古代の関ケ原的な戦いがあり
雌雄を決したものと推察します。

ですから、 白村江の戦いは九州勢のみが戦ったのであって、近畿勢が見殺しにしたというよりも、

①近畿勢は自分の身を守る為に渡海の船に乗らず(たぶん、断るだけの発言力はあった。※ちょっぴり自信がありませんが。)
②結果、筑紫勢が敗れた。
③近畿勢としては不敗の筑紫が敗れたことは予想外だったが、このチャンスを最大限に活かすことした。
④古代の関ケ原的な戦闘の後に、
⑤筑紫の国譲りが強制された。
⑥王城神社が大城山より移転し、
⑦恵比寿像を太宰府で見掛ける今に至る。

これが私の推察というか妄想ですが如何でしょうか。



いやあ、ダイナミックに戦況を説明して下さってありがとうございます。
この辺りは全く不得手だったので、有り難いです。

船の問題は謎解きの手掛かりになりそうですね。
瀬戸内海で活躍する住吉族の船は玄界灘を越えるようには出来ていなかったでしょうし、
玄海灘の海の道を知らないので、近畿勢が具体的にどう軍備をしたのか、
面白い課題ですね。

天武天皇が宗像徳善の娘を娶ったのも、手掛かりになりそうです。

以上、きりんさんと、るな のやりとりでした。
私信ではありますが公開して、皆さんのアドバイスを期待したいと思います。







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by lunabura | 2012-07-14 00:01 | コメントまとめ | Trackback | Comments(0)

大宰府コメント5 王城神社

大宰府コメント5 王城神社

前回は、那珂川町の磐瀬宮説を紹介しました。
磐瀬宮の捜索は福岡ではまだ本格的に成されていない印象を受けます。

時々見かける福岡市の高宮説は、理由は「高宮」という地名だからと聞きます。
伝承が見当たらないのでターゲットから、はずしています。

ところが最近、神社誌を見ていたら、中間市の岩瀬に磐瀬宮の伝承が出て来ました。
斉明天皇たちの名前もちらほら出て来ます。
さっそく調査にいったけど、まだ行き着いていません。
この場所は交通の要衝で、斉明天皇たちが通過した可能性があります。

というのも、仲哀天皇と神功皇后の移動ルートでもあるからです。
古代では安全に通れるルートがいくつもあった訳ではありません。
斉明天皇は物部氏の管理するルートを通った可能性が充分にあります。

この女帝は、かつて新羅に勝った神功皇后の業績にあやかろうとする周囲に
振り回されたんではないかと想像しています。
そして戦勝祈願のために神功皇后の旧跡を訪れて祈ったりしています。

神功皇后もまた仲哀軍に取り込まれて戦争に巻き込まれて行った皇后です。
そして彼女もまた神武天皇などの旧跡で戦勝祈願をしています。
困難に立ち向かう時、祖先の加護を祈らずにはいられなかったのは古今一緒です。

こうして、福岡には神武天皇と神功皇后、斉明天皇と、伝承が重なり合う所がいくつかあります。

中間市岩瀬の磐瀬宮は奴国ではないので、対象外かも知れませんが、
いずれは訪れたいと思っています。

そして、きりんさんとの次のやりとりは、まだ磐瀬宮について、
那珂川町なのか、中間市なのか迷っている時でした。



―― 中間市に岩瀬という地名があって、そこに磐瀬宮の伝承があります。
調査にいったけど、まだ行き当たっていません。
この場所は交通の要衝で、斉明天皇たちが留まった可能性は十分にあるのですが。

中間市に磐瀬宮があるとすると、きりんさんの説と矛盾する所がありますか?
それとも、補強する事になりますか?

また、物部の末裔の眞鍋氏は那珂川町の梶原に磐瀬宮があって、
新羅の地震で倒壊したと言っています。ここだと、大宰府を睨む事ができます。

今、私は二つの説の間でゆれているのです。


大宰府の周辺しか調べていないので外がよくわからないのですが、(筑紫城については)
太宰府市の榎社のいう神社の西200メートル隣り(太宰府市の通古賀地区の小字扇屋敷)に、
王城神社という神社があります。
「扇=王城」という地名で残っているようですが、キビシイですかね。



王城神社はマークしています。神武天皇の伝承がある所ですね。
そうか。地図でよく見てみます。

地図 王城神社



王城神社のある通古賀地区 ですが、
通古賀(とおのこが)の「古賀=国衙」ではないかという説を効いたことがあります。

と思ってwikiで見たらちゃんと載ってました。便利な時代ですね。
王城神社
王城神社(おうぎじんじゃ)は、福岡県太宰府市にある神社。
祭神は事代主神(ことしろぬしの みこと)。末社に早馬(はゆま)神社がある。
○歴史
王城神社縁起(江戸時代寛政年間)によれば、神武天皇四王寺山(王城山、大野山)に城を築いた際に、山中に武甕槌命(みかづちのみこと)と事代主命をまつったことに由来するとされる。

その後665年、大野城築城に際し、現在の太宰府市通古賀の地に遷されたとされる。
本社の所在地である太宰府市通古賀(※地元の人は「コッカ」と発音)に筑前国衙(コッカ)が 存在したとの説が古くからあり(筑前国続風土記 拾遺等)、国衙の存在を推定させるものとして、本社横の王城館の前に礎石が残されている。
これらのことから、本社は筑前国衙鎮守のような位置づけであったとも考えられている。

・・・というわけで、王城神社の伝承では、
天智天皇による大野城築城とある日本書紀の記述よりも遥かに古い神武天皇の御代から
大野城山には城があったとあります。

ここで、意味深なのが、王城神社の祭神が、事代主(ことしろぬし)だという点です。
日本神話に登場する事代主は、大国主の息子で、あの有名な出雲の国譲り神話で登場してきます。
葦原中国平定において、タケミカヅチらが大国主に対し国譲りを迫ると、大国主は美保ヶ崎で漁をしている息子の事代主が答えると言った。そこで タケミカヅチが美保ヶ崎へ行き事代主に国譲りを迫ると、事代主は「承知した」と答えた。

とあります。王城神社の伝承から、なんだか、大和政権から
筑紫の国譲りを強制させられたような香りがするのは私だけでしょうか。

事代主は国譲り神話において釣りをしていたことから釣り好きとされ、
海と関係の深い「えびす」と同一視され、海の神、商業の神としても信仰されました。
七福神の中のえびすが大鯛を小脇に抱え釣竿を持っているのは、
国譲り神話における このエピソードによるものです。

内陸部にあるわりには太宰府では道祖神のように、
ちょくちょく恵比寿さんを見かけて変だなぁと思っていたのですが、
王城神社の伝承を知ってからは恵比寿さんの石像を見掛けるにつけ、
かつてこの地で歴史書にも記されなかった国譲りがあり、
往時を偲び先君を慕う民草が、事代主に筑紫王を重ね合わせ崇め、
やがて恵比寿像を彫り敬い奉ったのかなぁと想うようになりました。



さて、このやりとりについてですが、
王城神社について、昨年2~3人の方から立て続けに、その名を聞きました。
神武天皇に関わる神社で、縁起が残っているそうです。
この研究は大宰府の原型を調べるのに興味深い資料なので、いずれじっくりと調べる予定です。

神武天皇の伝承も調査してほしいとコメントをいただきました。
先日、遠賀川流域の神武天皇の伝承のある神社を少しまとめて記事にしましたが、
西に向かうと、宗像市赤間の八所宮、福津市の神武神社、古賀市の熊野神社
と出て来ます。
(神社名が曖昧なので、こっそり訂正するかも。)

大宰府市に神武天皇の伝承があるのは、大変興味深いですね。

福岡における出雲も更に古い地層に眠っているので、少しずつ明らかになればと思っています。

(つづく)







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by lunabura | 2012-07-13 11:00 | コメントまとめ | Trackback | Comments(0)

大宰府コメント4 大宰別府・筑紫城・磐瀬宮・広庭宮

大宰府コメントまとめ4 大宰別府・筑紫城・磐瀬宮・広庭宮

きりんさんのコメントの中に、私が抱えていた疑問を解くヒントがありました。

それは「大宰別府」の存在の謎です。

久留米市の「赤司八幡宮大宰別府」だという伝承があります。
(⇒ サイドバー 赤司八幡宮・あかじ)
これは大宰府の研究に欠かせないものだと注目していました。

その場所は筑後川の中流域のど真ん中。
三方向の川の流れを掌握できる所にあります。
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高良山なども見渡せるので、狼煙を上げれば通信も容易です。

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(赤司宮の近くの筑後川から見える耳納連山~高良山)

大宰別府はどうしてここにあるのだろうかとずっと考えていました。
「大宰府」では北から入ってくる外国船を受け入れるので、
「大宰別府」の方は有明海方面からの船を受け入れる関門だったのだろうか
と考えていましたが、まだ漠然としていました。
二府の範囲がとても広いからです。

北の守りが大宰府で、南の守りが大宰別府だとすると、その間に守るべき重要な場所がある。
それが倭国の王城だろうか。

九州王朝の王城を大宰府の中に求める方もあるようですが、
鴻盧館がツイン館で異国からの病気の侵入を防ぐシステムになっている事を考えると、
大宰府は大型船の乗り入れを受け入れる行政区でありながら、
外敵の、王城への侵入を防ぐ防衛地でもあったのではないかと考えています。

それを裏付けるように、大宰府の中で一般に指摘される場所を王宮殿とするには
狭すぎるという論文をどこかで読みました。

私たちは平安京などを見て、王宮殿が中心の奥にあるイメージを持っていますが、
高句麗や百済・新羅などには山城の麓に
王宮殿と政治区画を分けて造ったものがあります。
このタイプが倭でも当てはまるのではないかと考えたのです。

それでは王城はどこか。
大宰府と大宰別府の間に探してみました。

c0222861_10253787.jpg

上図の赤い丸で囲んだのが大宰府大宰別府です。
年に何度も起こる洪水を考えると立地は丘陵地でないといけません。

一方で中国の『新唐書』を調べると「日本国」の使者は、
「国王は32代、筑紫城に住んでいて、神武から大和州に遷った」と言っています。

該当する場所に筑紫城を探すと、筑紫神社がありました。
その裏手には筑紫城という山城があるそうです。
そこで当然、これからのターゲットになるのですが、筑紫神社は「筑紫の国魂を祀る宮」です。

そこで思い出すのが「筑紫の国魂がおわす宮」で、それは高良玉垂宮です。
高良玉垂宮におわす国魂と、それを拝する筑紫神社という構図が出て来ます。

のちに菅原道真が大宰府に左遷されたのですが、その間に高良玉垂宮の下宮社の近くに参拝しています。
その時、わざわざ袴に着替えたという事から、そこは袴着天満宮と名前が付きました。
(⇒袴着天満宮・はかまぎ)
それほど、重要な聖地が高良玉垂宮なのです。

そうすると「大宰別府」の性格は高良玉垂宮の出先機関なのかもしれません。

「大宰府」が本府で「大宰別府」が別府だと思っていたのですが、
そうではなくて、「大宰別府」とは「特別府=本府」という可能性が出て来ました。

大宰府の陸地が安定するのが、大宰別府より後だという点からも、
古い時代の中枢は久留米市の高良玉垂宮と考えられます。
(先日大宰府で木簡が出土した所は、まだ川岸だった。)


さて、もう一つ謎があります。
それは朝倉橘広庭宮が朝倉にある必然性です。

斉明天皇の宮殿として突貫工事をしたという宮ですが、場所が特定されていません。
先程の地図に朝倉宮と書いてあるのが、朝倉の橘の広庭宮の推定地です。
ところが誰が見ても、唐・新羅と戦うには引っ込み過ぎです。

そこで「倭国対日本国」という二大勢力が福岡で対峙したと考えると、
倭国の中枢をはずした所に宮を造営している事になります。
(対峙すると言っても、微妙な住み分けの可能性がある)


この情景を理解するには、もう一つ謎の宮・磐瀬宮を抑える必要があります。

先程の地図の左上に紫で「磐瀬宮?」と書いたのは、那珂川町梶原の柱穴群跡です。
ここは真鍋大覚氏の説明による推定地です。

斉明天皇たちがやって来る直前に新羅で大地震があって、
那珂川町まで津波が襲って建物群が倒壊したそうです。
年代から考えて、この建物群の磐瀬宮だと推定しています。

この説に従うと、斉明天皇たちが一旦、那珂川町を目指してやって来たけど、
津波で崩壊していたので、どこかに仮宮を建造せねばならなくなった。
そこで朝倉に白羽の矢が当たったと考えられます。
しかし、二つの宮の離れ方が尋常ではないので不思議に思っていました。


そこで、これまで考察したように
高良玉垂宮~大宰別府~大宰府のあいだに倭国の中枢があるとなると、
倭国が日本国の天皇たちに仮宮の造営地を斡旋する時に、自国の中枢をはずして、
かつ目が届いて防衛しやすい朝倉を選んだという必然性が生まれて来ます。

倭国の王が唐に捉えられてしまったために、筑紫城は日本国に無血開城され、
対唐戦略として「大宰府」の方がメインになって行った。

今のところ、そんな流れを思い浮かべました。

(つづく)







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by lunabura | 2012-07-12 10:27 | コメントまとめ | Trackback | Comments(5)

大宰府・朝倉橘広庭宮 コメント3

大宰府・朝倉橘広庭宮 コメント3

さて、今回はきりんさんの説明についてさらに詳しく伺いました。

「日本は朝倉から倭の大宰府に向かい進軍しますので、
倭にとっての仮想敵国・日本への抑えであった阿志岐城=蘆城(※攻める側からすれば、まさに「悪しき城」)は、
進駐軍日本にとって、水城や大野城のような改修工事の必要性などなく
打ち捨てられてしまっていたのでしょう。

因みに、朝倉に奈良の地名と共通する地名が多いのは、
普通は、大和朝廷の東遷の証とされますが(私もそうだろうとは思っていますが)、
逆転の発想をすれば、 倭と対峙した日本が大宰府に入れず、
この朝倉に長く駐屯した
為に奈良の地名を当てはめて呼んでいた為かもしれないなとも思います。」

の逆転の発想に驚いています。これは独創的で面白い観点ですね。
よかったら、もう少し具体的に教えてくださいませ。


ほとんど思いつきのたぐいなのですが、
斉明天皇はなぜ大宰府でなく朝倉で亡くなったのだろうと思いまして。

「橘広庭之宮」には、斉明天皇ならびに中大兄皇子(天智天皇)や
大海人皇子(天武天皇) に中臣鎌足等と 古代のビッグネームが一同に会しています。

日本書紀の記述どおりなら、まだ、この時点で大宰府という都市は存在していませんが、
それでも博多に上陸したなら、まだ存在していないとしても
大宰府の位置のほうがしっくりくるのです。

大宰府なら、博多湾にも有明海にも御笠川や宝満川で連絡しており
一方から攻められれば反対側に船で逃げればいいですし、
内陸に逃げようと思えば山超えで宇美や穂波経由で飯塚から行橋・瀬戸内海へ、
平野を逃げるなら朝倉から日田、大分へと自由自在です。


c0222861_0474928.jpg


「橘広庭之宮」は朝倉でなく、大宰府説もあるので
(斉明天皇を弔う観世音寺は大宰府政庁のすぐ東側に天智天皇が創建しています。
大宰府政庁こそ橘広庭之宮だとする説)、
はっき りとしないのですが、

もし本当に朝倉に橘広庭之宮があったとして、
かつ、大宰府に筑紫王朝の都市があったと仮定したならば、
博多から大宰府を経由せずに朝倉に進むのは困難ですから、
実は四国から九州の東海岸に上陸して日田あるいは飯塚経由で朝倉に入ったのかも
との推理です。

筑紫王朝の守備軍がいて、大宰府に入ることができずに朝倉で陣をはって対峙したとしたら、
西下した斉明天皇の本宮が置かれた橘広庭之宮は、大和朝廷の遷都の観を呈したことでしょうし、
地名もそのまま奈良の地名を当てはめた方が、土地勘も得やすかったものかとの発想です。

朝倉と奈良の地名の対比は、http://inoues.net/club/amagi_kouenkai.html
見やすいものがありました。

ただ、磐井の乱の時にはハッキリと大和政権との戦いの記述があるのに、
白村江の戦いの前後では、なぜ大和政権と筑紫政権との戦いの記述がなく、
筑紫王朝など初めからなかったかのような日本書紀の内容になっているのか、
謎は深まるばかりです。

シナリオとしては、 筑紫王朝軍の白村江への出陣の報を耳にして、
奈良の大和政権は筑紫王朝軍主力の留守を突いて、
東北の兵士を引き連れて大宰府へ侵攻。

大宰府の堅固な羅城網の外側の朝倉で陣をはって 対峙したのち
膠着状態のまま斉明天皇が崩御するも、
白村江の敗戦に勢いを得て大宰府攻略に成功する。

その後、 倭軍の残存兵が帰還する沿岸部に、
東北の兵士を防人として配備し迎撃の任務にあたらせた。

これで、北部九州沿岸の警護兵である防人が地元の九州の兵士でなく、
主に東北地方出身の兵士であった説明はつくのですが・・・
何の資料もないので、あくまで憶測の域をでることはありません。

筑紫王朝の滅亡を目撃したであろう天智天皇にとって、
筑紫王朝の存在そのものが不都合な理由とはいったい何なのでしょうね。

まるで、 日本書紀は、出雲王朝は存在がゆるされていても、
筑紫王朝は存在そのものが否定されているかのようです。



日本国にとって倭国が仮想敵国だという発想は驚きでした。
私は性分が脳天気なので、前にも書いたように、
倭国が本家で日本国は分家程度のイメージしか持ち合わせていません。
日本国の方が経済的にも発展しているけど、
本家の倭国が出兵せよと言えば、まあ断れないかな…、という感じです。


でも、全く勉強していないので、多くの意見を伺いたいと思っています。

(つづく)




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by lunabura | 2012-07-09 00:54 | コメントまとめ | Trackback | Comments(35)

大宰府・神籠石コメントまとめ2

大宰府・神籠石コメントまとめ2

続きです。

ところで、大野城は四王寺山でしたっけ。


厳密には、大城(おおき・おおぎ)山=四王寺山ではありません。
四王寺山にある峰々の最高峰が、大城山で、
四王寺山全体に、大野城(おおののき)があります。

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四王寺山と水城(大野城市に行くと貰える資料)


これは研究した方でないと答えられないほど深い話なのですね。


四王寺山は、すり鉢状になった山で、
山全体の周囲の峰々を土累や石垣で補強して山全体を守る山城として
大野城(おおののき、おおのじょう)が造られています。

太宰府の都府楼の真北標高約410メートルの大城山を最高峰に
大原山などの峰々の総称が四王寺山と呼ばれている感じですが、
地図によっては、「大城山(四王寺山)」と記載されているものもあり、
このあたりは曖昧になっています。

四王寺山には、尾根をつたって延々6.5km以上に及ぶ土塁が馬蹄形に延びており、
土塁が谷にかかるところでは石垣が築かれ、巨大な大野城が形成されています。

四王寺山の名前の由来は、奈良時代に立てられた「四王院」に由来するとされています。
四王院は、774(宝亀5)年に新羅の宗教的呪詛に対抗して呪詛返しをするために創建された寺院で、
現在、大野城の 土塁線上には四天王である毘沙門天、広目天、増長天、持国天 と呼ばれる地域があり、
それぞれの地域から礎石建物や井戸なども見つかっています。

ですから、歴史的には四王寺山より大城山の方が、古い呼び名となります。
もともとは、「大城山=王城の山」、だったのかなと個人的には思っていますが。

大宰府政庁(=都府楼)の真北にある大城山は、
風水で言うところの玄武にあたる山でもあります。

c0222861_14534135.jpg

(大宰府政庁跡から見た四王寺山)

確かに北=玄武だ。

大野城跡は四王寺山にあるんだ。
よく近くを通っているはずなのに、未だにどの山がそうだと言えない。(・.・;)
何度か登った事もあるのに、よく分からない。
ここも土砂崩れの復興が数年かかって最近ようやく見学できるようになったというが、
今年の豪雨には耐えられたか?

この山は神功皇后が登って祈った時、イケメン住吉神が降臨して新羅攻撃を援けてくれ、
その後二人は結ばれたと、『高良神秘書』には書いてある。
(記事は高良大社(7)に詳述)
訳(わけ)が分からなかった。
しかし、その後のるな探偵の調査では確かに住吉神の待遇は格別になっている。

が何度調べても、霧の中に戻ってしまう。
そうか、呪詛が今も効いているのか…。  (-_-;)


大野城跡については、大野城市のHPに詳しく書かれています。
http://www.city.onojo.fukuoka.jp/edu/kyoiku/rekishi/shitei/onojoato.html



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by lunabura | 2012-07-07 14:59 | コメントまとめ | Trackback | Comments(0)

大宰府・神籠石 コメントまとめ 1

大宰府・神籠石 コメントまとめ 1

これは、分かりやす~い!

九州にあった王朝の実態解明に最近、興味が湧いてきましたが、
先達たちはかなり研究が進んでいて、今や細かい所を詰める段階になっています。

初心者には道のりが遠いなと思っていたら、きりんさんが助太刀コメントをくれました。
今回は、「九州の倭国」の研究に欠かせない「太宰府」と「神護石と山城」についてです。


「大宰府」は白村江の戦い以前に、九州王朝が建設した羅城を配した城塞都市であり、
かつ我が国最古の風水都市だと思っています。

日本書紀の記述によると、大野城(オオノノキ) と、基肄城(きいじょう)は
天智天皇4年( 665年) に大宰府防衛のために
大野城山と基山(きざん)に築いた日本最古の朝鮮式山城であり、
同時期に水城や大宰府という大規模な都市までをも築いたとあります。

しかし、これはルナさんの言うところの「日本」 最古の古代山城であり、
「倭」最古のものは更に古くから多数存在するというのが私の考えです。

北部九州に集中的に点在する「神籠石」型古代山城こそが、倭の城であり、
それらは大宰府を中心に配されていたと考えています。

日本書紀にある、大野城と基肄城と水城ならびに大宰府の建設工期の異様な短かさは、
もともとその地に倭が築いていた神籠石型山城の羅城のベースがあってこそ
可能な短期改修工事だったのではないかということです。

大宰府の東側を守る羅城の一環である古代山城 が阿志岐(あしき)の宮地岳で
1999年に発見されましたが、
こちらは日本による改修工事が成されなかったために記紀に記されることもなく、
ほんの13年前まで歴史の闇に隠されたままとなっていました。

おそらく、もともと倭の都市だった大宰府に、白村江の敗戦後に進駐してきた日本軍が、
補強改修した神籠石型の城々( 大野城、基肄城、 水城)のみが
日本書紀に 「日本みずからが一から初めて築城した城」として改竄されて記され、
それら以外の倭の古城は歴史の闇に消えていった。

そして、日本側の記紀に載らなかった城々が
後世に謎の神籠石とよばれるようになったものと推測しています。

日本は朝倉から倭の大宰府に向かい進軍しますので、
倭にとっての仮想敵国・日本への抑えであった阿志岐城=蘆城
(※攻める側からすれば、まさに「悪しき城」)は、
進駐軍日本にとって、 水城や大野城のような改修工事の必要性などなく
打ち捨てられてしまっていたのでしょう。

因みに、朝倉に奈良の地名と共通する地名が多いのは、
普通は、大和朝廷の東遷の証とされますが(私も そうだろうとは思っていますが)、
逆転の発想をすれば、倭と対峙した日本が大宰府に入れず、
この朝倉に長く駐屯した為に奈良の地名を当てはめて呼んでいた為かもしれないなとも思います。

日本書紀などによると、

①(527年 - 528年) 磐井の乱
乱後、磐井の息子葛子が死罪を恐れて糟屋屯倉 (かすやのみやけ)献上

②(536 年)に那津のほとりに官家(那津官家:なのつみやけ)(遠の朝廷:とおのみかど)を設置し、
九州支配と外交の役目を果たす

③(562年)任那を失地

④(609年)には筑紫大宰(つくしの おほみこともちのつかさ)の名が登場

⑤(618年)唐、建国

⑥(660年)百済滅亡

⑦(661年)倭が百済救済軍・第1次派兵

⑧(663年)倭が百済救済軍・第2次派兵するも、白村江の戦いにて大敗。
このとき筑紫君薩夜麻が唐軍に 捕らえられて、8年間捕虜として唐に抑留

⑨(664年)行政機能を内陸の大宰府に移転。大宰府と水城を築く。

⑩(665年) 大野城(オオノノキ)と、基肄城(きいじょう)を築城

⑪(671年) 筑紫君薩夜麻が帰国

という順で事態が進みます。

この中の
①の磐井の乱の顛末は、磐井の息子葛子の首をとるまでには至らず、
筑紫王朝が存続した事実を表しています。

③任那を失地 これは、倭にとって日本の圧力が増したために、
新羅方面と日本方面の二正面作戦が辛くなり 、戦線を縮小させた結果なのかもしれません。

⑧倭が白村江の戦いにて大敗。
このとき筑紫君薩夜麻が唐軍に捕らえられたことを好機に 日本が倭の大宰府を目指し侵攻を開始。

⑨行政機能を内陸の大宰府に移転。
とあるのは、日本が進駐軍として大宰府を占拠したことを示す。
と同時に倭の水城の改修補強も開始。

⑩大野城と、基肄城を築城。
これも、倭の築いていたものを改修し、日本書紀 には日本初の朝鮮式山城を日本が築城し完成と記す。

⑪筑紫君薩夜麻が帰国
主が日本となった変わり果てた大宰府の姿を目の当たりにする。

といった感じでしょうか。

きりんさん、ありがとうございます。

数年前から、考古学界では神籠石を朝鮮式山城の範疇に入れて説明がなされるようになったのですが、
本当にそうなのだろうかという疑問が私の中では消えていません。

神籠石については何度か書いていますが、
「神籠石という盤座と山をぐるりと囲む八葉石」をひっくるめて「神籠石」と呼ぶようになりました。
(⇒高良山神籠石)

これらは素人が見ても、明らかに山城の機能を持っていないので、
朝鮮半島の堅固な城壁と比べると、朝鮮式でひっくるめられても、
「はい、そうですか。」という気分になれません。

きりんさんの説では「九州の倭国」と「近畿の日本国」との関わりの中で、
「神籠石と八葉石」はもともと「倭国」の城で、それを基盤にして「日本国」が手を加えたのが
「大野城と基肆城」ではないかという事です。
(これでいいのかな。違ってたら、またコメントください。)

なるほど、これは面白い。
すっきりしそう。
これからの逍遥の参考にさせていただきたいと思います。

ところで、九州では今年の梅雨の大雨による被害が各地に及んでいます。
7月3日の大雨で、「杷木神籠石」が6か所破損したそうです。
これは国史跡のために、修復の着手には数か月かかるそうです。

筑後川では例年梅雨の中期と末期と必ず水量が増して、被害が出ます。
梅雨明け前の大雨が小雨になりますように。





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by lunabura | 2012-07-05 17:40 | コメントまとめ | Trackback | Comments(2)
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