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カテゴリ:丸ノ口古墳公園・那珂川町( 3 )

丸ノ口古墳公園(1)那の国を見晴らす装飾古墳たち


丸ノ口古墳公園(1)
福岡県筑紫郡那珂川町後野
那の国を見晴らす装飾古墳たち

丸ノ口古墳公園はJR博多南駅から車で約10分の所にあります。
(へえ。そんなに近い(驚))
「丸ノ口・北中入口」の信号から山の方に登って行くのですが、
ナビなら「那珂川町北中学校」で行くと、隣なので分かりやすいでしょう。

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手前の駐車場から遊歩道を上ると円墳が!いきなりテンションが上がります。
ところが、左の草むらがすでに古墳。しかも、こちらがメイン。

丸ノ口古墳群Ⅵ群2号墳

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正面に廻って遠景を撮るとこんな感じ。入口は防護されています。

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扉の隙間から撮ってみました。円文が写りましたよ!

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これがそのイラスト。
イラストは円文と波と舟です。う~む。舟はどうして空にあるのだ。
よくよく考えると、高い所から見た大海原を描こうとするとこうなるかな。
あるいは遥か彼方からやって来た?
それともあの舟に乗って旅立つ?
装飾古墳は妄想出来るので、やっぱり楽しい。

しかし、問題は中央にある円文。さらに上にもある。
かつて王塚古墳で円文を見て、何も考えず人の説を採用したけど、
あれは反省。最近は少し慎重になった。

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これが出土品。さて古墳の時代は?
6世紀の後半だそう。
すると、磐井の乱後、古墳が小さくなったというのがこれ?

さてさて、一か所にこだわるには古墳が多い。先を急ごう。

丸ノ口古墳群Ⅴ群5号墳

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これは一枚目の写真の中央に見えていた円墳。廻り込むと、石室が露出していた。
おお、入口から既に円文が見えている。

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あれれ。この強化ガラスみたいな保護板は蕨手さんがレポートしていた古墳だ。
そうか。この古墳だったのだ。これは装飾古墳なのだ。
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石を打って模様を刻みこんでいる。
いたずらしないように覆いをしているのだろうけど、
ここだけ湿気がひどくなって、却って石の劣化が早くなるかも。

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と心配したけど、この解放感からすると、保護板で済ませたい気持ちもよく分かる。
天井石がないので、よく観察できるのだ。
パンフレットを見ると、何々?これは移築復元したんだって。
そうか。そうなんだ。
直径14mの円墳で、「円文」が3つ描かれているのが特徴。
ふむふむ。

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説明板がすぐそばにあるのでありがたい。
いつの頃かな?
6世紀代。さっきの2号墳と時代は重なる。

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ここから出土したのは玉類。
他の所からは武器や馬具が出ているので、ここにも、かつてはあったかも。
それとも夫人?
この時代は女性も同等に埋葬されたのかな…。

さて、この二つの装飾法は敲打法というのだそうだ。
ここだけなのかなあと思うと、こんなイラストまであった。

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福岡中南部に多いんだ。技術が伝播したのか、技術者が移動したのか、
偶然の一致なのか。誰か研究してないかな。
この古墳群が町の史跡に指定されたのが平成11年という事で、
カラーの説明板がすぐ傍に在るのは理想的でした。
(あとは出土品の所在地があれば完璧かな。)

そして、ここから見た景色がこれ。
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那の国全体が見渡せた!

正面に見えるのが若杉~宝満山系。左のずっと奥は犬鳴山系かな。
宝満山系の手前の低くて丸い山が乙金山、その右が最近話題になった大城山(大野城)のようだ。
大城山の麓には大宰府がある。その左は水城で仕切られている。

さらに左の低地から今立っている所も、かつて「天の原」と言われたという。
ちょうど白い飛行機が降りて行くところが板付。那国の王墓がそちらにもある。

ここは北東部が開けているのだ。
古墳の被葬者の背景を知るのに大切なのは場所だと思う。

この見える範囲に磐瀬宮候補地の梶原があり、日拝塚古墳があり、
三笠の山の稜線を伝って月が昇る天体ショーを見られる「月の浦」もある。
ここは何だか凄い所だ。
こんな見晴らしのいい所に古墳を作れるのは、この地を熟知して那の国を愛した人だ。

と思って反対側を見たら、あれ?磐座じゃない?
(つづく)

丸ノ口古墳公園





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by lunabura | 2012-07-25 22:58 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(3)

丸ノ口古墳公園(2)これは磐座?


丸ノ口古墳公園(2)
これは磐座? 

広大な那国の景色を眺めたあと、後ろを振り向くと、山の上に岩がいくつも見えました。

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い、磐座(いわくら)じゃない?

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登って行くと、頂上付近の岩群れが怪しい。
さらに近づくと岩群れの頂上に方向を示す石が見える。
写真を撮ろうと尾根に出ると、だ、断崖絶壁 (@_@;)

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採石か採土の為に切り通された崖になっていました。
かろうじて頂上の方向石が残っている状態。
ここまで近づくのが限度…。

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船石というのかも知れないけど、組んだ石に違いありません。
どこか、方向を示す強固な意志を感じます。
本来はこれを中心に磐座があったのだろうけど、もう全容は分かりません。

そこで思い出したのは、この近くに[後野神ノ前遺跡]という磐境祭祀跡がある事です。

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これは町で貰える冊子『那珂川町の文化財』の一部。
左上の写真は何気ない岩の集まり見えるけど、祭祀場です。
左下の土器群は岩のすぐ近くで出土したもの。
右の写真には、先程と似た石があります。

町の話によると、ここは大宰府のための祭祀場ではないかという説があるそうです。
これは面白い。

現在地はこの後野神ノ前遺跡から、さほど離れていません。

だから、現在地の岩の集まりが磐座だという可能性は充分で、
発掘すれば何か出るのではないだろうかと思いました。

後野神ノ前遺跡が大宰府鎮護の磐座説は魅力的ですが、
磐瀬宮のための祭祀場の可能性がないかなとも考えました。
そうすると、北西部に当たり、いい感じなのです。
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(龍頭遺跡群の近くが磐瀬宮推定地)

那珂川町の磐瀬宮説についての検証はまだ手つかずですが、
その近くの龍頭遺跡群ではこんな掘立遺跡が出ています。

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(町で貰える『那珂川町の古代・中世遺跡』より)

う~む。那珂川町は面白い。

そうして、頂上から下り始めると、巨大な岩盤が見えました。

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で、でかい。
これは御神体だったのだろうかと思ったのですが、祠らしきものは見当たりません。

この岩盤がどうしてこんな所にそそり立つのか、
思い出したのは阿蘇山の9万年前の大噴火です。
阿蘇山の火砕流がこの町まで流れて来たのを知ったのは
裂田溝(さくたのうなで)の所です。
(⇒ 裂田神社)
安徳台の特異な地形はその火砕流によるものですが、
これも同様にして出来たものではないかと思いました。

すると九州の各地で見た同様の岩盤が思い浮かんで来ました。

三郡山登山ルートの途中、あるいは熊本の山の中や
鹿児島の慈眼という名のついた公園でも、同じようなものがありました。
その成り立ちが不思議で仕方がなかったのですが、
今私の記憶の中でつながりました。

阿蘇山の大噴火による火砕流は九州を覆い尽くしたのです。
そして、山容が崩壊する時の地震で津波が起こり、
北アメリカの東海岸まで届いたというホピ族の言い伝え。

想像するだけで、寒くなる…。
(つづく)






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by lunabura | 2012-07-23 22:42 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(2)

丸ノ口古墳公園(3)白石古墳群・磐座と古墳の謎


丸ノ口古墳公園(3)
 白石古墳群
磐座と古墳の謎
 

さて、巨岩を久し振りに見て、満足して下りて行くと、あれ?
ここにも古墳がある。
いったいどうなっているのだ。
しかも、入口に扉が付いている。きっと重要なのだろう。

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開口しているなら覗かねば。

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格子の隙間から写真を撮ると、こんな石室。


さらに、もう一つ古墳があった。
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暗くて見えないので、写真を撮る。

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この石室はさっきのよりずっと強固に造られている。日拝塚古墳と見た目も近い。

ここは「白石古墳群」という事が案内板で分かったが、
もうどれがどうなのか、各古墳の名前が分からなくなってしまった。
6世紀の後半のものだそうだ。
Ⅲ群1号墳は入口の前にテラスを作って、土器を供えて、
その中には皮袋の形をした水筒のような土器もあったという。

いったい、この丸ノ口古墳公園はどんな構造になっている?
改めてイラストマップを取り出した。

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このマップを見ると、私は一番右の⑩からスタートして、
③-④ そして地図では木が書いてある所に登って②-①と移動したらしい。
マップの中で、赤い丸は移築したものという事だ。

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そうすると先程、足元にあったこの露出した石室は移築した物だろうか?
その長さは90センチほどで、最小のものらしい。
この日はこうして珍しい古墳公園に満足して帰宅の途についた。


今、振り返りながら、古墳と磐座の関係を考えた。
古墳群がとても見晴らしの良い所に造られて、
すぐ上の磐座が祭祀遺跡だとすると、気になる事が一つある。

それは何故、祭祀地に古墳を隣接して造ったのだろうかという問題だ。
古代では祭祀点と埋葬地は別にするのではないかという考えを私は持っている。
(忌宮神社で、仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち)が太陽観測点ではないかと推測したのは、
思想的に禁忌を侵す事になるので、逆に隠す所にもって来いだったと考えたからだ。)

だから、磐座と古墳が至近距離だという事に疑問が残る。
イヤシロチにケガレが置かれるのだ。
 
幸いに築造の時期が分かっている。
6世紀後半という時代を考えると、磐井の乱後の混乱期だったろうと思われる。
この町でも古墳は小型化した。
古来の祭祀形態が排除される対象になった可能性だってゼロではない。

考えるに、この古墳群の被葬者は磐座を守り続けた一族ではないだろうか。
一族というイメージは、90センチという石室のサイズから生まれた。
90センチとすると、埋葬された子は2歳未満だったと思われる。
幼い子供の為に丁寧に石室を造る余力があったのだ。
しかし、「神ノ前」を離れられない。
そこでタブーを侵して、聖地に埋葬した。

そんな妄想が生れて来た。

「神ノ前」とか「後野」とかいう地名から、
ここはもっと広い範囲の祭祀圏があったのではないかと想像された。


たった一つの古墳群でこんな妄想を書く事が出来るのはブログならではだ。
これから先、いろいろと見て行く中で、自分の妄想を礎として、時には反省して
古代世界の再構築に向かいたい。


この那珂川町は古代の十字路の中心点だという評価がある。

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(町で貰える、『なかがわまちエコミュージアム』より)

西に行けば伊都国や末廬国へ。東に行けば大宰府。
北は袖の湊。南は吉野ヶ里。
古代のキーポイントを結ぶ立地だ。
大宰府がまだ湿地だった頃は、こちらの方が重要な地点だったに違いない。






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by lunabura | 2012-07-21 23:16 | 丸ノ口古墳公園・那珂川町 | Trackback | Comments(13)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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