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カテゴリ:<真鍋大覚儺の国の星>( 17 )

真鍋ノート魏志倭人伝2 躬巨国 投馬国 伊都国 耶馬国 好古都国


真鍋ノート

魏志倭人伝2

躬巨国 投馬国 伊都国 耶馬国 好古都国



さて、真鍋大覚による魏志倭人伝の国々の記事のつづき。

躬巨国くしこく 古賀政男の出身地・筑後三潴大川。(宮崎康平説)
投馬国とうまこく 天草島。天鳥船の故郷。
早良さわら 魏志倭人伝にはない。
伊都国いとこく 怡土郡。奴国との境は室見川(早良川)
奴国ぬこく 那珂郡。伊都国との境は室見川(早良川)
耶馬国やまこく 筑後八女郡。
好古都国こことこく こごち。満天の星座。不知火の群光を連想させる。
邪馬台国やまたこく 時見の対象となる高山を遠望するところ。

早良に関しては、遺跡がありながら、
魏志倭人伝には記述されていない謎があるが、
真鍋は奴国の一部としているようだ。

伊都国は糸島水道の南から室見川までとしているので、
高祖山や飯盛山の山塊は伊都国ということになる。

奴国は「ぬこく」「なこく」いずれを読んだか未詳だが、
室見川と「ありなれ川」に挟まれた領域で、
那珂川町を中心と考えているもよう。

耶馬(やま)=八女(やめ)

好古都国に関しては断定はしていないが、
文脈からは不知火(しらぬい)の見える有明海沿岸と考えているようだ。

邪馬台国も断定していないが、東か西に時計代わりの高山があるとする。

また、「奴佳鞮」(なかて)とは邪馬台国の「官名」だが、
同名の「王」(あるいは邪馬台国の一官)が
多良岳~諫早を領有していたとする。


前回の地図に追加してみた。









c0222861_19373985.png

「奴佳鞮」(なかて)が邪馬台国の一官名ということは、
邪馬台国はこの付近としているように見受けられる。

倭国の大乱は雲仙岳(画像では普賢岳)の領有を巡ってのものだ
という文も見られた。(少しあいまいな記憶)


見つかったのは以上の国ぐらい。

本をお持ちで、ほかの国を見つけた方は、
コメント欄に、ページとともに一文を是非とも!


<2017年10月27日>




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by lunabura | 2017-10-27 19:38 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

真鍋ノート 魏志倭人伝 奴国 不彌国 為吾国 伊邪国 姐奴国 巴里国


真鍋ノート

魏志倭人伝 


奴国 不彌国 為吾国 伊邪国 姐奴国 巴里国



邪馬台国論争に参加する気持ちはサラサラないが、
真鍋大覚の本には各国の場所がちりばめられている。

単語帳をエクセルでボチボチと作り始めたところ、
真鍋による魏志倭人伝の各国も少しずつリストに挙がってきた。


今回は、その国々の中、わずか六国ではあるが、
その場所を確認しよう。


奴国ぬこく二万戸余り。戸をもって数えた。ありなれ川を挟んで対岸に不彌国。
不彌国ふみこく千余家有り。家をもって数えた。ありなれ川を挟んで対岸に奴国。
為吾国ゐごこく肥後菊池泗水。ゐご=地底から湧き上がる水をためた深い池。
伊邪国いざこく肥前松浦伊万里。筑紫の天原の領域。
          中東民族が住み着いた歴史あり。
姐奴国そなこく宮崎康平によると、肥後益城。(ましき)
          そぬ・せの=女人が衣装を洗い濯ぎ、
          砧でたたき晒して干し、頭に乗せて帰る姿。
巴里国はりこく朝倉郡。あさくら・はり=高瀬舟の元祖の名。

地図に落としてみた。









c0222861_20324216.png

真鍋は「奴国」の位置を「ありなれ川」の西としている。

私自身、論を立てるようなレベルには達していないが、
真鍋の言う奴国の位置に関しては違和感がある。

香椎宮の位置が儺県(なのあがた)だからだ。

奴国とは、
委奴国(倭奴国)の金印が出た志賀島を中心とした博多湾沿岸全体、
すなわち、那珂川~那の津~香椎~旧粕屋郡北部を考えている。


真鍋による魏志倭人伝の世界は、
これからも少しずつ追及していこう。

あくまでも真鍋の世界であって、
私の説ではないことを断っておきたい。


真鍋の邪馬台国は何処だろうね。

<2017年10月26日>



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by lunabura | 2017-10-26 20:35 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(5)

土蜘蛛



真鍋ノート

土蜘蛛



土蜘蛛といえば田油津姫だ。

兄の夏羽も、その祖の神夏磯姫も土蜘蛛ということになる。

真鍋は、土蜘蛛は地中海のエトルリア人の子孫、トロヤ人、
フェニキア人、更にはペルシャ人を含むという。

金工の術に長じた西域出身の異邦人である。

「つくみ」とは夜の間も眼光炯々(けいけい)として目を輝かす
フクロウ(梟)ミミヅク(木菟)のことをさすが、
一方で、鉄を溶かす炉の火口(ほぐち)の形容でもあったという。

仕事が終わるまで昼夜の区別なく
赤く燃え盛る炎の中身を除く窓のことも指した。

近東では、火の加減はすべて未婚の女人があつかったという。

ギリシャ神殿では、神に供える料理を作るために
巨大なレンズで天の日(火?)を集めて火をともすのは
神殿の女官の務めであったという。
(儺の国の星拾遺 p108)

2018平昌冬季オリンピックの聖火の点火は
え?
本日24日?




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<2017年10月24日>



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by lunabura | 2017-10-24 19:25 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

新月のいざないは



10月20日は新月でした。
なんだか、大きな節目の「新月」だったようですね。

今回の「新月」は
「新しい体験が始まる」のと、「根気のいること」がセットらしい。

わたしもまたまた新しいことを思いついたのですが、
さすがに根気が要る(´・ω・`)

そういう点では新月の占いは当たっているなあ(;^_^A

何を思いついたかというと、
「真鍋の本の単語帳を作る」というアイデアです。

これまでも何度も単語帳を作りました。

手書きやワード打ち込みなどなど。

でも、利用しにくいのです。

最終目標の渡来人の読解に関して、
言葉が重複したり、難解だったりして理解が進まないのです。
誤植もあります。
「カン人」が「韓人」か「漢人」か、分からないのです。
「漢字」が「韓字」となっているのを発見したからです。
「展開」が「転回」となったり。

真鍋が盲目になったため、校正が出来なくなったのがその理由です。

ですから、根本的に読んで理解しないと、
誤植のまま解釈する危険性があります。

そのためには、単語帳を作って正誤表も要るなあと。
いったいどれだけの労力が必要だろうか。


大体、言葉にすると「思い」は消えてしまいます。
だから、普段は「形」になるまで発表しないのですが。
今回は書いてみようと思います。

書いて消える思いなら、大したことはありませんね。




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by lunabura | 2017-10-22 20:47 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

【真鍋ノート】南十字星と大宰府

【真鍋ノート】


南十字星と大宰府


真鍋大覚の星に関する史料は『石位資正』といい、
漢名の星宿の項目に対し、日本の古い和名を列記したものだという。
中国の星名と日本の星名の照合表のような感じなのだろう。

この『石位資正』が書かれたきっかけは、
刀伊の入寇という侵略事件だった。
この時、異国の天文知識に接した藤原隆家が編纂したものという。
隆家はこの時、大宰権帥だった。

当時は太宰府から南十字星がまだ見えていたという。
南十字星が将来見えなくなるにつれて、
星の和名が消えることを案じたことからの編纂だった。



緒言より(改変)
<『儺の国の星 拾遺』の原本は『石位資正』で、
藤原隆家が1039年に大宰権帥に再任された時、
九州で星暦についての古今の見聞録を編纂したものである。

執筆の契機は1014年から1019年の任期中に
刀伊の入寇に遭い、大陸の夷狄(いてき)の
偉大なる天文知識に感銘してからのことと伝える。>

ウィキペディアによると、
藤原隆家が大宰権帥になったのは
眼病(突き目)の治療のために筑紫行きを望んだからだという。
この時に、刀伊の入寇に遭い、応戦している。
刀伊とは満州の女真族と考えられ、
壱岐・対馬を襲い、筑前まで上陸したという。

この時に隆家は敵ながら天文知識の豊富さに感銘したのだろう。

この頃は太宰府から南十字星が有明海のかなたに沈むのが見えていたが、
将来、この星座が見えなくなるとともに、
世人の関心が星空から離れていく気配を察してこの本を企画したという。

太宰府から最終的に見えなくなったのは明治15年(1882)だそうだ。

真鍋大覚の父、真鍋利市は明治43年(1910)3月27日に
脊振山頂から南十字星のγ星(一番上の星)を有明海上に見たという。

今年(2017年)、脊振山系から南十字星のγ星が撮影されて、
話題になった。
まだ、年に数回は観測することができるらしい。

済星(さいせい)
韓人は南十字星を「済星」と呼んだ。
巨済島や済州島はこれに由来する地名で、
昭和60年から換算して35年~309年前に出来た名である。

わたしの星

倭人は南十字星を「わたしの星」と呼んだ。
「済」が菱形の川瀬舟をさすことからついた。
「済」(さい)がなまって「さやのほし」と呼ぶこともあった。



真鍋の本は文章だけなのに、色彩があふれている不思議な本。


<2017年10月16日>



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by lunabura | 2017-10-16 20:56 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

「興玉」と猿田彦神



真鍋ノート

「興玉」と猿田彦神


「おきたま」とは月日を並べる暦作り


「甲斐」の由来は「夏日」


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興玉神

これは北九州市八幡西区の一宮神社の境内の「興玉神」の石碑だ。

駐車場から上る坂道の道端に鎮座している。

一宮神社は神武天皇の磐境・神籬を熊鰐一族が守り続けた宮である。記紀の岡田宮はここにあった。



この「興玉神」について、真鍋を紐解こう。



<「おきたま」とは、月日を置き並べる暦作りの意であった。

「た」は月でThala(ターラ)なる古代地中海語の略であった。



「ま」は胡語のMutso(ムツオ)、Mutesa(ムテサ)、Massa(マサ)なる日神あるいはMuruhなる星神の略と思われる。>(『儺の国の星』序p4~ 一部改変)




元来、「碁盤と碁石」は暦日算定の器であったという。

黒と白の碁石を「た」(月)と「ま」(日・星)に置き換えて、

それを並べて暦を作っていたという。




この「た」と「ま」の語源は地中海や中近東の

「ターラ」(月)「ムツオ」(日・星)などから来ている。




この「興玉神」は合祀されたのかもしれないが、

暦作りの痕跡を残す神ということになる。




神社での祭祀の日取りを決定するのに暦は欠かせない。




猿田彦

一方、「興玉神」とは猿田彦神のことでもある。

道端にあるのは道祖神として鎮座しているのかもしれない。




「興玉神社」はもう一つ、同市八幡西区木屋瀬(こやのせ)にもあり、

その祭神は猿田彦神だ。




また、伊勢二見「興玉神社」の祭神も猿田彦神である。




伊勢二見が浦から見る日の出は有名である。

これは夏至の日の出で、

運が良ければその朝、はるか向こうの富士山から日が昇るという。




夏至を元旦とする「かひ族」の象徴的光景であるらしい。




『古事記』猿女(さるめ)の君の条に

猿田毘古の神、阿耶詞(あざか)に座し時に、

漁(すなどり)して、比良夫貝(ひらぶがい)に

その手をはさまれて海水に溺れたまいき。

とある。




<「あざか」とは潮が引いて地肌があらわに出た干潟である、

「さるめ」とは衣裳を脱いだ空身(そらみ)の海女(あまみ)、

あるいは日に焼けた赤裸(そほみ)のことであった。>




猿田彦が干潟に出て漁をしている時、

貝に手を挟まれて海に引きずり込まれたという不思議な話だ。




<これは甲斐の峯(富士山)を凝視する神の姿を貝にたとえ、

夏日(かひ)に例えた古人の諧謔(かいぎゃく・ユーモア)が

秘められているのかもしれない。>



「貝」とは「甲斐」と「夏日」のことで、

猿田彦神が富士山からの日の出を見て夏至の日を確認する姿を

面白く描写したものとする。



なまよみの甲斐

<「なまよみ」は甲斐の冠辞である。

この「なま」は即ち「たま」と同義であるから

「なまよみ」とはまさに日月星辰の動向、或は方向を観測して

月日を読みとることであるから、

富士山はまさに日本人が暦日を見定める唯一の象徴であった歴史が

推察されるのである。

夏至を「かひ」、冬至を「とひ」と言った。

甲斐の国名の由来はまさに夏日(かひ)にあった。>



「なまよみの甲斐」の「なま」は「たま」がなまったもので、

「たまよみ」と同じだという。

甲斐の国名の由来は、この興玉神社から「夏日」(夏至)が

観測できることからついたということになる。



伊勢暦は太陰暦と太陽暦を重ね合わせて編纂されてきたもので、

今も「神宮暦」として、広く利用されているが、

その日月星の観測地に「興玉神社」があるということだ。




そこで、碁盤と碁石のような「暦日算定の器」を利用して

「た」と「ま」を計算していた氏族がいたことになる。



<倭人は春分秋分より、夏至冬至を重視する民族であったらしく、

古代の住居も陵墓も夏至冬至の朝日夕日に正対するか、

左右に見通す方向に設計築造した。>



倭人は夏至冬至を重視していたという。

そういえば、吉野ヶ里や周囲の神社のラインは夏至冬至が多かった。



伊勢二見のカエル

<夏至冬至を「日還」と書き「ひがえり」と訓じた。>

伊勢二見の興玉神社にはカエルがいっぱい奉納されているらしい。




これも夏至や冬至を境に日がUターンして昇る「日還」「ひがえり」が

「ひきがえる」になったためという。

(『儺の国の星』p38)

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一宮神社(神功皇后伝承を歩く上巻2)

今日の台風18号は風も無く、雨も少ししか降らず、

穏やかに過ごすことが出来ました。

この先も被害の無いようにお祈りします。

※ エキサイトブログのプレビュー画面と実際の画面が同じにならず、
読みにくくなってしまいました。どうしよう。



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by lunabura | 2017-09-17 21:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

天鳥船 何故かクスノキ・パーティー (^o^)/


天鳥船

何故かクスノキ・パーティー (^o^)/


 変光星「ミラ」が光を増した頃、天草の乱が起こったそうです。
そして、「ミラ」を「天草星」と呼んだそうですが、「あまくさ」という言葉の謂れは「天鳥船」(あめのとりふね)から来たものだそうです。それはクスノキで造った船のことでした。
今日は、神々の乗り物、空飛ぶUFOの話ではありません。(^^ゞ
真鍋大覚から

天鳥船
 「あまくさ」とは古事記神代記に出てくる天鳥船またの名は鳥石楠船(とりのいわくすふね)、のちにこれを合して天盧樟船(あめのいほくすのふね)の略であった。

「いはくす」とは盤石のごとく根株を地上に盛りあげ、しかも枝を水平に広くさしのべた樟や楠の古木老樹を云う。

今も未だ然りであるが、樟の筏を海に浮かべると、水に溶けた芳香は大小の魚から蝦の類まで集めるので、漁師は労せずして居ながらにして水揚げができた。
『儺の国の星拾遺』p1

「天鳥船」は「鳥石楠船」とも言い、「石楠」は石のように根が盛り上がった古木で造った船だといいます。

クスノキは神功皇后伝承の宮々でよく遭遇します。船の材料になるので、意図的に植えられたのかも知れないなあ、と次第に思うようになりました。クスノキは大きくなると空洞化するので、そのまま刳り船(くりふね)に利用できるとのことです。

クスノキの空洞を利用したボートに波よけの板を並べれば「準構造船」になります。

クスノキで造った(いかだ)は、その芳香が水に溶け、魚が集まったそうです。
芳香って、あの樟脳の匂いのことかな…。う~ん。タンスの香り?(@_@;)

で、多分、真鍋が言いたかったのは、神功皇后の船に大小の魚が集まって来て、酒を流すと魚がしびれ上がって採れたという話が『日本書紀』に挿入されているけど、あれは特別な出来事でなく、普通の事だ、ということじゃないかな ( ´艸`)
そのエピソードがこれ。仲哀天皇が下関の豊浦宮(忌宮神社)に遷宮し、皇后が遅れて向かう途中の話です。

夏、6月10日に、天皇は豊浦の津に停泊しました。一方、皇后も角鹿を発って、ヌタの門に着いて、船の上で食事をしました。その時、鯛が沢山船のそばに集まりました。

皇后は酒を鯛に注ぎました。すると鯛は酔っ払って浮かびました。それで海人(あま)は魚をたくさん獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言いました。

こういう事から、この辺りの魚は6月になると、いつも酔っ払ったように口をパクパクさせるようになりました。

クスノキで造った船なら、どの船でも魚が集まって来るんですね。魚をしびれさす漁法というのもあったらしいし。神功皇后を神格化しようとした文でしょうが、魚が集まるのはクスノキのせいだと真鍋は言いたいんですね。

クスノキが船材になるということで、神社の境内では注意して見ますが、神功皇后伝承の宮々のクスノキは古過ぎて、使い物にならないくらいに空洞化しています。^^


クスノキは若いうちは(数百歳)真っ直ぐ伸びていますが、何百歳でしょうか、二股に分かれて左右に枝を伸ばし、根の所には大きな洞ができ、ついに枝を落としてしまう、という印象を持っています。



そうだ。今日はクスノキ・パーティにしよう。



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下関市 住吉大社




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古賀市 五所八幡宮 上巻35   ムーミンの木





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朝倉郡筑前町 松峡八幡宮 上巻41





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筑紫野市 松尾宮 下巻54





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大川市 風浪宮 下巻77







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宇土市 大歳神社








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佐賀市 與止日女神社 







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武雄市 川古








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武雄市 武雄神社

神!




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by lunabura | 2015-02-17 21:37 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

埴輪のヘアースタイル 「かふり」


埴輪のヘアースタイル
「かふり」


古代人のヘアースタイルにとても興味があります。

だから、九博に兵馬俑が来た時、しげしげと兵士の頭を後ろから見ました。
すると、左右の耳の後ろから小さな編み込みの三つ組を中央に向けて編み込み、
またうなじからも上の方に三つ組を編み込んで、最後は三本一緒にまとめていました。

その髪型を再現する俑の細やかさに驚いたのですが、
兵士が髪をまとめるのに三つ編みを利用していたのには
カルチャーショックを受けました。

だって編み込みですから、自分では出来ない (><)
この兵馬俑を作る時だけ美容師が付いたのか、普段からそうなのか、
など、疑問も出てきます。

編み込み三つ組なら、髪が乱れることなく、戦うのには理想的です。
写真に撮ってイラストを描きたかったのですが、もちろん撮影禁止なので、
記憶に留めるだけでした。


他の兵馬俑はどんなスタイルなのか。
もっと知りたいのですが、兵馬俑の後ろ姿の写真なんかまずは存在しません。



さて、福岡では埴輪もめったに見られないので、これも出会ったら必ず後ろから観察します。


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これは群馬県から出土した埴輪。    画像出典 東京国立博物館

埴輪の女性のヘアースタイルは「島田」と言われて、
日本髪のルーツとされているのですが、
どうみても、自分の髪をこんな風に結うことはできません。

ヘアーゴムがない時代にどうするんだい?
と見るたびに考えていました。
もし、頭頂で結べたとしても、こんな風に根元をフラットにするのは不可能です。

で、「島田」説を疑問に思っていたら、同じ考えの女性がいて、
この頭の上の物体は「布」であることを中国の雲南や四川で発見して
紹介してありました。
次のブログにはその実例が沢山紹介されています。

http://ysiuruhasi.exblog.jp/13418349

で、真鍋大覚に出てくる謎の「被布(かふり)」が、これだろうと気付いたのです。
「女人は多く髪の上に布をおき、これに荷を載せた。」と真鍋は語ります。

それなら、この厚みが納得できます。
この埴輪の女性は巫女とされていて、「かふり」も実用的でなく、
装飾的になっているような様子です。

九博にはこの「かふり」を被った埴輪がありましたよ。
頭と「かふり」の接点をしげしげと見て、やはり髪の毛ではないと確信しました。


それと、上の埴輪の女性は腰に鏡を下げています。
五つの子丸が付いているので、「五子鏡」というのではないかと推測しています。

これを見た時、七支刀と共にもたらされた「七子鏡」って、
こんなデザインだろうなと、ワクワクしていたのですが、
九博では違うタイプが紹介されていて、しょんぼりしたのでした。




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by lunabura | 2015-01-24 20:40 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

私たちの元旦は何が基準?


私たちの元旦は何が基準?


とひ族の元旦は冬至。
一年の始まりが日の出か、日の入かは氏族によって違う。
かひ族の元旦は夏至。これもスタートの時間はそれぞれ異なってくる。

では、私たちの元旦はどうして決まったのか?
冬至から10日ほど経った中途半端な日なのです。

ネットを見ると、
キリストの誕生日から一週間ほど。
春分の日が3月21日になるように。
という説が見られました。

真鍋大覚は「満潮と干潮の間隔が正しく一日の半分になる日」だといます。
しかも、その「基準は地中海」の地。
その暦をよく守っていたのが、ありなれ川の国栖(くにす・くず)でした。

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 現行の太陽暦は基督(キリスト)(前四~後三〇)の誕生日の七日後、冬至の後十日をもって一月一日の元旦とする。この暦制は地中海民族の絶大なる賛意を受けて制定された。

即ち、満潮および干潮の一日二回の間隔が正しく一日の半分になる日であった。この日から間隔は増加して、五月十五日には十三時間半に達し、再び減少して十月一日に及び均等となる。そして十一月十五日に至り十一時間半と最も短くなり、この日を頂点として再び回復し一月一日の年始に立ち還るのである。

即ち、かつて筑紫に在り玄界灘と有明海を往来した舟人の国栖(くにす)は、地中海のこの太陽暦をよく遵守していた。

初夏の陽暦五月十五日には盛大な海の祭典を催してとり、初冬の陽暦十一月十五日には流済(よさ)水(み)と称する舟魂の祝事を行ひ、採れたばかりの橘を二つ、帆檣(ほばしら)に供えたのである。いつしか橘は顆(み)の数が枳殻(からたち)の七つから朱欒(ざぼん)の十四に進化した。
 この星が五月十五日に南中する時代は一二九五年前、即ち太宰府が正式に外国の暦書を出納(すいとう)した時代に相当する。
 夫木和歌集 巻九 詠み人しらず
  住江(すみのえ)の 国栖(こす)の常夏(とこなつ) 咲(さ)くも見(み)ず
  隠(かく)れてのみや 恋(こひ)わたりなん
『儺の国の星拾遺』p35 葦付星 蠍座 スコルピウス  アスシャウラ

国栖の人たちは自ら海に潜って、石を抱えて磯城(しき)という湊を造りました。
有明海の潮位差は5~7mに及ぶといいます。
その差を計算して、舟が泊められるような標高を選ばないと出来ないことです。

月の引力で日々潮位は変化し、また太陽の引力で複雑な潮位となる。
しかし、現在の一月一日と十月一日は時間的に一日を二等分する。

この前者が元旦に選ばれたわけです。
生活に無くてはならない情報だったんですね。

五月十五日や十一月十五日はそれぞれ海の祭典をした。
国栖の人たちは本来太陰暦の人たちで、星占いも得意で、倭人にも教えたそうです。
「くにす・くず」という名は葛生・玖珠とも書きました。

また、磯城が造れるということは水の監理が上手いということで、
唐門(からと)・鞍手(くらて)とも呼ばれました。

「くず」とは「星くず」と同じ、「星」という意味です。
赤いヒナゲシを愛し、少彦名が祖先だと噂され、河童とも呼ばれるようになりました。
塩作りの名人でもありました。

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さて、磐井君の子の名前は「葛子」。
「くず」を悪い意味に取る人もいますが、「星」という意味かもしれませんし、
「藤」という意味かもしれませんね。

真鍋の本から国栖をまとめていると、この氏族は誰でも自ら働き、
自然の理を観察することに夢中で、
人に喜ばれることを喜びとするような社会像が浮かんできます。
権力社会ではないんですね。

日本人の思考によい影響を与えてくれた人たちなんだなと思ったりします。

かつては玄界灘から有明海まで海が連なっていた頃、
舟を運行するのは難しかったはず。

太陽を見、月を見、そして星を見て、干満の差を見極めた。
そんな彼らは太陽暦も太陰暦もお手の物でした。

そんな自在な国栖は自然には逆らわない。
でも、天智帝はそれを太陽暦一本にしたかった。
新しい支配者の時代を象徴しているかのようです。

水城で♪ 太陽暦の鐘を鳴らすのは 天智天皇~♪

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by lunabura | 2015-01-03 22:20 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

蘇我はどこ?


蘇我はどこ?

今日、メールで蘇我の場所の問い合わせがあったので、
ブログの方でお答えします。

Q 平群は早良区にありますが、蘇我または石川は何処にあるのでしょうか。

早良区(さわらく)は福岡市の西にあります。
平群は残っていますが、蘇我や石川の地名が残っていないんですね。

それでは、真鍋大覚の本から蘇我の記述を抜き出しましょう。

昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。(略)敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、万邦世界に普遍な暦法も必要になってくるところから、次第に両方併用の時代に移り変ってきた。

かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。皇極帝4(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。

「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名鈔には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。『儺の国の星拾遺』p245

結論としては、「蘇我」の場所は福岡市早良区脇山です。

◆蘇我は脇山に改名した。
蘇我と言う地名が脇山に変わった事情は文書にはないけど、
古老の伝えでは、
「月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたもの」
となっています。

「ソガ」とは「月」。
「泰西」とは「西洋」。
「ワキ」とは「異邦人の租界」すなわち「外人居留地」。

「月を女人に事寄せる」とは、「月を見て女性をイメージする」。
世界には、月を男神とする民族と女神とする民族があり、
日本の場合、月読命を男神とするのが主流です。

以上から、蘇我氏は西洋から来た異邦人だったので、
その居留地という意味で「わき」と呼んだという解釈になりますね。

地図を見ると、山裾にあるので、「ワキ山」となったということでしょう。

◆皇極四年
「皇極帝4(645)年は、まさに暦法の採否をめぐって中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあった」
「皇極四年」とは、蘇我入鹿が殺された年です。
ウィキペディアより。
乙巳の変
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。

中大兄皇子と蘇我氏の対立の原因に暦の採用があったと真鍋はいいます。

「曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる」とあるのは、
「一年の始まりを冬至の新月の朝とする」太陰暦だったということです。

中大兄皇子はのちに太陽暦の鐘を太宰府で鳴らさせたということなので、
全体としては太陰暦と太陽暦の対立だったと解釈できます。

どの暦を採用するかということは、
それを担う一族が滅ぶかどうかという重大事で、
蘇我氏はこのために中大兄皇子に滅ぼされたということになります。

◆百済
あと一点。
上記の段には、ものすごく重大な内容がサラリと書かれています。

「敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、」
太宰府が百済の暦書を編集したというのです。
「天子は暦を配る」のですから、
百済は倭国の属国だったという意味になります。
重要すぎてビビってしまいそうです。

実際、先日、これを別の方のメールの返事に書きこんだら、
メールが消滅してしまった (^_^;)
今日は大丈夫かな…。

◆蘇我稲目
もう一か所、真鍋の本から。

稲目は伊儺面(いなめ)と書き、怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた業績を讃えられたのであって、継体帝21(527)年に出る筑紫国造磐井と共に雄略帝17(473)年の洪水を修めたのであるが、神埼の物部氏と那珂中臣氏の間に水利の紛争が昂じて欽明帝13(552)年の仏像を巡っての対立に及んだのである。『儺の国の星拾遺』p134

蘇我稲目は「怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた」とあります。
これが、先程の脇山でしょうか。

稲目は磐井の君と共に、洪水を治めて、水城の建造に関わっています。


脇山の神社を調べると、何か手掛かりがあるかも知れませんね。
すぐ近くの「横山神社」の祭神は分かりませんが、
ネットを見ると、背振神社の下宮だと書いてあります。

葵祭はもともと脊振山の祭だったのを、
中大兄皇子が京都でも行うようにしたそうですから、
脇山という場所はこれから、注目したい場所ですね。

以上、Aさんへのお返事です。
Aさん、あとの調査、よろしくお願いします^^
なお、質問の石川は情報を持ち合わせていません。

大伴武以に関しては、もう少しお待ちください。





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by lunabura | 2014-11-22 20:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(8)
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