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カテゴリ:<真鍋大覚儺の国の星>( 12 )

地名 古賀・通古賀・遠朝廷 こが・とおのこが・とおのみかど



地名 
古賀・通古賀・遠朝廷 
こが・とおのこが・とおのみかど






筑紫(ちくし)では海浜の水路を古賀(こが)という。
渚(なぎさ)に平行に水を通すところから通古賀(とおりこが)の名があった。

察するに網引(あびき)がはげしく海底の土砂を汀に打ち上げるから
疎水はいつも汀線(みぎわせん)に沿うことになり、
これが自然に溝の海側の岸を高く積み上げ、
ついには巨大な砂丘を形成して松原が育つことになるのである。
『儺の国の星拾遺』p58



【古賀】こが
福岡県古賀市は玄界灘に面していて、
松原を抜けると防波堤があり、すぐ近くに波が寄せている。

渚に沿った水路は思い浮かばないが、
段丘の形成前にはそんな水路があったのかもしれない。

このような地形の名称は何というのだろう。
「海岸段丘」かと思って調べると、これは断層による段丘を指すらしく、
うまく名称が見つからない。






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思い起こせば、志式神社裏手の奈多の浜や










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福津市・年毛宮(としもぐう)の裏手の弓ケ浜の砂の段丘と松原は

どちらも防波堤がなく、自然のままだ。


特に年毛宮の宮司の話によると、
昔は海藻が子供の背丈ほど積み上がったというので、
寄せる波の強さが想像できる。

年々、砂が打ち寄せて段丘が形成された。


この時、年毛宮もまた安曇族だと言われた。
また、宗像族とも通婚しているとも聞いた。

沖ノ島に向かう船が立ち寄り、水を汲んでいったという。
それには、安曇族も宗像族も関係なかったのだろう。

沖ノ島祭祀に関しては、宗像族だけで論考すると見落とすものが多い。


【通古賀】とおのこが

さて、通古賀(とおのこが)は太宰府市にある。
陸地奥深い所にあるが、「とお」とは「船」のことだ。

そこまで船が入る水際という意味になる。
「ありなれ川」の時代のことだろう。

「たぶ」「だぶ」も船を指す。
「タブの木」は「船の木」という意味で、
船材になることから付いたと思われる。

「とお」に「唐」の漢字を当てたケースもある。

「唐ケ崎」の地名が鞍手にあるが、
船が停泊する湊があったと考えられる。

遠賀川左岸にある「唐ノ松」神社の場所もかつては島だったことから、
「とう」(船)が泊まることのできる小島だったのだろう。
伝承では「渡海の松」が始まりだという。




【遠の朝廷】とおのみかど

「遠の朝廷」は「とおのみかど」と読むが、
「船が行き交う」朝廷という意味から来ているという。

通説は「近畿から見て遠い朝廷」というが、
改めて見直すと不自然な説明だ。
日本に二つ、朝廷があったという前提になってしまう。

倭王朝と日本王朝があったとすれば一応説明はつくが。







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by lunabura | 2016-11-05 22:51 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)

天鳥船 何故かクスノキ・パーティー (^o^)/


天鳥船

何故かクスノキ・パーティー (^o^)/


 変光星「ミラ」が光を増した頃、天草の乱が起こったそうです。
そして、「ミラ」を「天草星」と呼んだそうですが、「あまくさ」という言葉の謂れは「天鳥船」(あめのとりふね)から来たものだそうです。それはクスノキで造った船のことでした。
今日は、神々の乗り物、空飛ぶUFOの話ではありません。(^^ゞ
真鍋大覚から

天鳥船
 「あまくさ」とは古事記神代記に出てくる天鳥船またの名は鳥石楠船(とりのいわくすふね)、のちにこれを合して天盧樟船(あめのいほくすのふね)の略であった。

「いはくす」とは盤石のごとく根株を地上に盛りあげ、しかも枝を水平に広くさしのべた樟や楠の古木老樹を云う。

今も未だ然りであるが、樟の筏を海に浮かべると、水に溶けた芳香は大小の魚から蝦の類まで集めるので、漁師は労せずして居ながらにして水揚げができた。
『儺の国の星拾遺』p1

「天鳥船」は「鳥石楠船」とも言い、「石楠」は石のように根が盛り上がった古木で造った船だといいます。

クスノキは神功皇后伝承の宮々でよく遭遇します。船の材料になるので、意図的に植えられたのかも知れないなあ、と次第に思うようになりました。クスノキは大きくなると空洞化するので、そのまま刳り船(くりふね)に利用できるとのことです。

クスノキの空洞を利用したボートに波よけの板を並べれば「準構造船」になります。

クスノキで造った(いかだ)は、その芳香が水に溶け、魚が集まったそうです。
芳香って、あの樟脳の匂いのことかな…。う~ん。タンスの香り?(@_@;)

で、多分、真鍋が言いたかったのは、神功皇后の船に大小の魚が集まって来て、酒を流すと魚がしびれ上がって採れたという話が『日本書紀』に挿入されているけど、あれは特別な出来事でなく、普通の事だ、ということじゃないかな ( ´艸`)
そのエピソードがこれ。仲哀天皇が下関の豊浦宮(忌宮神社)に遷宮し、皇后が遅れて向かう途中の話です。

夏、6月10日に、天皇は豊浦の津に停泊しました。一方、皇后も角鹿を発って、ヌタの門に着いて、船の上で食事をしました。その時、鯛が沢山船のそばに集まりました。

皇后は酒を鯛に注ぎました。すると鯛は酔っ払って浮かびました。それで海人(あま)は魚をたくさん獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言いました。

こういう事から、この辺りの魚は6月になると、いつも酔っ払ったように口をパクパクさせるようになりました。

クスノキで造った船なら、どの船でも魚が集まって来るんですね。魚をしびれさす漁法というのもあったらしいし。神功皇后を神格化しようとした文でしょうが、魚が集まるのはクスノキのせいだと真鍋は言いたいんですね。

クスノキが船材になるということで、神社の境内では注意して見ますが、神功皇后伝承の宮々のクスノキは古過ぎて、使い物にならないくらいに空洞化しています。^^


クスノキは若いうちは(数百歳)真っ直ぐ伸びていますが、何百歳でしょうか、二股に分かれて左右に枝を伸ばし、根の所には大きな洞ができ、ついに枝を落としてしまう、という印象を持っています。



そうだ。今日はクスノキ・パーティにしよう。



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下関市 住吉大社




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古賀市 五所八幡宮 上巻35   ムーミンの木





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朝倉郡筑前町 松峡八幡宮 上巻41





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筑紫野市 松尾宮 下巻54





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大川市 風浪宮 下巻77







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宇土市 大歳神社








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佐賀市 與止日女神社 







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武雄市 川古








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武雄市 武雄神社

神!




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by lunabura | 2015-02-17 21:37 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

埴輪のヘアースタイル 「かふり」


埴輪のヘアースタイル
「かふり」


古代人のヘアースタイルにとても興味があります。

だから、九博に兵馬俑が来た時、しげしげと兵士の頭を後ろから見ました。
すると、左右の耳の後ろから小さな編み込みの三つ組を中央に向けて編み込み、
またうなじからも上の方に三つ組を編み込んで、最後は三本一緒にまとめていました。

その髪型を再現する俑の細やかさに驚いたのですが、
兵士が髪をまとめるのに三つ編みを利用していたのには
カルチャーショックを受けました。

だって編み込みですから、自分では出来ない (><)
この兵馬俑を作る時だけ美容師が付いたのか、普段からそうなのか、
など、疑問も出てきます。

編み込み三つ組なら、髪が乱れることなく、戦うのには理想的です。
写真に撮ってイラストを描きたかったのですが、もちろん撮影禁止なので、
記憶に留めるだけでした。


他の兵馬俑はどんなスタイルなのか。
もっと知りたいのですが、兵馬俑の後ろ姿の写真なんかまずは存在しません。



さて、福岡では埴輪もめったに見られないので、これも出会ったら必ず後ろから観察します。


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これは群馬県から出土した埴輪。    画像出典 東京国立博物館

埴輪の女性のヘアースタイルは「島田」と言われて、
日本髪のルーツとされているのですが、
どうみても、自分の髪をこんな風に結うことはできません。

ヘアーゴムがない時代にどうするんだい?
と見るたびに考えていました。
もし、頭頂で結べたとしても、こんな風に根元をフラットにするのは不可能です。

で、「島田」説を疑問に思っていたら、同じ考えの女性がいて、
この頭の上の物体は「布」であることを中国の雲南や四川で発見して
紹介してありました。
次のブログにはその実例が沢山紹介されています。

http://ysiuruhasi.exblog.jp/13418349

で、真鍋大覚に出てくる謎の「被布(かふり)」が、これだろうと気付いたのです。
「女人は多く髪の上に布をおき、これに荷を載せた。」と真鍋は語ります。

それなら、この厚みが納得できます。
この埴輪の女性は巫女とされていて、「かふり」も実用的でなく、
装飾的になっているような様子です。

九博にはこの「かふり」を被った埴輪がありましたよ。
頭と「かふり」の接点をしげしげと見て、やはり髪の毛ではないと確信しました。


それと、上の埴輪の女性は腰に鏡を下げています。
五つの子丸が付いているので、「五子鏡」というのではないかと推測しています。

これを見た時、七支刀と共にもたらされた「七子鏡」って、
こんなデザインだろうなと、ワクワクしていたのですが、
九博では違うタイプが紹介されていて、しょんぼりしたのでした。




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by lunabura | 2015-01-24 20:40 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

私たちの元旦は何が基準?


私たちの元旦は何が基準?


とひ族の元旦は冬至。
一年の始まりが日の出か、日の入かは氏族によって違う。
かひ族の元旦は夏至。これもスタートの時間はそれぞれ異なってくる。

では、私たちの元旦はどうして決まったのか?
冬至から10日ほど経った中途半端な日なのです。

ネットを見ると、
キリストの誕生日から一週間ほど。
春分の日が3月21日になるように。
という説が見られました。

真鍋大覚は「満潮と干潮の間隔が正しく一日の半分になる日」だといます。
しかも、その「基準は地中海」の地。
その暦をよく守っていたのが、ありなれ川の国栖(くにす・くず)でした。

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 現行の太陽暦は基督(キリスト)(前四~後三〇)の誕生日の七日後、冬至の後十日をもって一月一日の元旦とする。この暦制は地中海民族の絶大なる賛意を受けて制定された。

即ち、満潮および干潮の一日二回の間隔が正しく一日の半分になる日であった。この日から間隔は増加して、五月十五日には十三時間半に達し、再び減少して十月一日に及び均等となる。そして十一月十五日に至り十一時間半と最も短くなり、この日を頂点として再び回復し一月一日の年始に立ち還るのである。

即ち、かつて筑紫に在り玄界灘と有明海を往来した舟人の国栖(くにす)は、地中海のこの太陽暦をよく遵守していた。

初夏の陽暦五月十五日には盛大な海の祭典を催してとり、初冬の陽暦十一月十五日には流済(よさ)水(み)と称する舟魂の祝事を行ひ、採れたばかりの橘を二つ、帆檣(ほばしら)に供えたのである。いつしか橘は顆(み)の数が枳殻(からたち)の七つから朱欒(ざぼん)の十四に進化した。
 この星が五月十五日に南中する時代は一二九五年前、即ち太宰府が正式に外国の暦書を出納(すいとう)した時代に相当する。
 夫木和歌集 巻九 詠み人しらず
  住江(すみのえ)の 国栖(こす)の常夏(とこなつ) 咲(さ)くも見(み)ず
  隠(かく)れてのみや 恋(こひ)わたりなん
『儺の国の星拾遺』p35 葦付星 蠍座 スコルピウス  アスシャウラ

国栖の人たちは自ら海に潜って、石を抱えて磯城(しき)という湊を造りました。
有明海の潮位差は5~7mに及ぶといいます。
その差を計算して、舟が泊められるような標高を選ばないと出来ないことです。

月の引力で日々潮位は変化し、また太陽の引力で複雑な潮位となる。
しかし、現在の一月一日と十月一日は時間的に一日を二等分する。

この前者が元旦に選ばれたわけです。
生活に無くてはならない情報だったんですね。

五月十五日や十一月十五日はそれぞれ海の祭典をした。
国栖の人たちは本来太陰暦の人たちで、星占いも得意で、倭人にも教えたそうです。
「くにす・くず」という名は葛生・玖珠とも書きました。

また、磯城が造れるということは水の監理が上手いということで、
唐門(からと)・鞍手(くらて)とも呼ばれました。

「くず」とは「星くず」と同じ、「星」という意味です。
赤いヒナゲシを愛し、少彦名が祖先だと噂され、河童とも呼ばれるようになりました。
塩作りの名人でもありました。

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さて、磐井君の子の名前は「葛子」。
「くず」を悪い意味に取る人もいますが、「星」という意味かもしれませんし、
「藤」という意味かもしれませんね。

真鍋の本から国栖をまとめていると、この氏族は誰でも自ら働き、
自然の理を観察することに夢中で、
人に喜ばれることを喜びとするような社会像が浮かんできます。
権力社会ではないんですね。

日本人の思考によい影響を与えてくれた人たちなんだなと思ったりします。

かつては玄界灘から有明海まで海が連なっていた頃、
舟を運行するのは難しかったはず。

太陽を見、月を見、そして星を見て、干満の差を見極めた。
そんな彼らは太陽暦も太陰暦もお手の物でした。

そんな自在な国栖は自然には逆らわない。
でも、天智帝はそれを太陽暦一本にしたかった。
新しい支配者の時代を象徴しているかのようです。

水城で♪ 太陽暦の鐘を鳴らすのは 天智天皇~♪

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by lunabura | 2015-01-03 22:20 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

蘇我はどこ?


蘇我はどこ?

今日、メールで蘇我の場所の問い合わせがあったので、
ブログの方でお答えします。

Q 平群は早良区にありますが、蘇我または石川は何処にあるのでしょうか。

早良区(さわらく)は福岡市の西にあります。
平群は残っていますが、蘇我や石川の地名が残っていないんですね。

それでは、真鍋大覚の本から蘇我の記述を抜き出しましょう。

昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。(略)敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、万邦世界に普遍な暦法も必要になってくるところから、次第に両方併用の時代に移り変ってきた。

かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。皇極帝4(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。

「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名鈔には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。『儺の国の星拾遺』p245

結論としては、「蘇我」の場所は福岡市早良区脇山です。

◆蘇我は脇山に改名した。
蘇我と言う地名が脇山に変わった事情は文書にはないけど、
古老の伝えでは、
「月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたもの」
となっています。

「ソガ」とは「月」。
「泰西」とは「西洋」。
「ワキ」とは「異邦人の租界」すなわち「外人居留地」。

「月を女人に事寄せる」とは、「月を見て女性をイメージする」。
世界には、月を男神とする民族と女神とする民族があり、
日本の場合、月読命を男神とするのが主流です。

以上から、蘇我氏は西洋から来た異邦人だったので、
その居留地という意味で「わき」と呼んだという解釈になりますね。

地図を見ると、山裾にあるので、「ワキ山」となったということでしょう。

◆皇極四年
「皇極帝4(645)年は、まさに暦法の採否をめぐって中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあった」
「皇極四年」とは、蘇我入鹿が殺された年です。
ウィキペディアより。
乙巳の変
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。

中大兄皇子と蘇我氏の対立の原因に暦の採用があったと真鍋はいいます。

「曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる」とあるのは、
「一年の始まりを冬至の新月の朝とする」太陰暦だったということです。

中大兄皇子はのちに太陽暦の鐘を太宰府で鳴らさせたということなので、
全体としては太陰暦と太陽暦の対立だったと解釈できます。

どの暦を採用するかということは、
それを担う一族が滅ぶかどうかという重大事で、
蘇我氏はこのために中大兄皇子に滅ぼされたということになります。

◆百済
あと一点。
上記の段には、ものすごく重大な内容がサラリと書かれています。

「敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、」
太宰府が百済の暦書を編集したというのです。
「天子は暦を配る」のですから、
百済は倭国の属国だったという意味になります。
重要すぎてビビってしまいそうです。

実際、先日、これを別の方のメールの返事に書きこんだら、
メールが消滅してしまった (^_^;)
今日は大丈夫かな…。

◆蘇我稲目
もう一か所、真鍋の本から。

稲目は伊儺面(いなめ)と書き、怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた業績を讃えられたのであって、継体帝21(527)年に出る筑紫国造磐井と共に雄略帝17(473)年の洪水を修めたのであるが、神埼の物部氏と那珂中臣氏の間に水利の紛争が昂じて欽明帝13(552)年の仏像を巡っての対立に及んだのである。『儺の国の星拾遺』p134

蘇我稲目は「怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた」とあります。
これが、先程の脇山でしょうか。

稲目は磐井の君と共に、洪水を治めて、水城の建造に関わっています。


脇山の神社を調べると、何か手掛かりがあるかも知れませんね。
すぐ近くの「横山神社」の祭神は分かりませんが、
ネットを見ると、背振神社の下宮だと書いてあります。

葵祭はもともと脊振山の祭だったのを、
中大兄皇子が京都でも行うようにしたそうですから、
脇山という場所はこれから、注目したい場所ですね。

以上、Aさんへのお返事です。
Aさん、あとの調査、よろしくお願いします^^
なお、質問の石川は情報を持ち合わせていません。

大伴武以に関しては、もう少しお待ちください。





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by lunabura | 2014-11-22 20:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(8)

やがて土蜘蛛は大和に東遷した。


やがて土蜘蛛は大和に東遷した

今日は真鍋の本から「筑紫と土蜘蛛」について。

土蜘蛛
(1)筑紫は土蜘蛛の故郷である。やがて土蜘蛛は大和に東遷した。 

(2)「つくみ」とは「つくどり」即ち夜の間も眼光炯炯(けいけい)として目を輝かす梟や木菟(みみづく)の類をいう。元来地中海のEtruria(エトルリア)人の子孫であり、後にはTroia(トロヤ)人 Phoenicia(フェニキア)人、更には Persia(ペルシア)人などの総称たる土蜘蛛であった。金工の術に長じたところの西域出身の異邦人であった。「つくみ」とは鉄を熔かす爐(ろ)の火口(ほくち)の形容であった。仕事が終るまで昼夜の別なく、赤く燃え熾(さか)る炎の中味を覗く窓であった。

筑紫にはかなり昔から異邦人たちが住んでいた。
真鍋の本にはあちこちに、こんな感じで、さらりと名前が出てきます。

これを公開セミナーで解説するにはまだ力不足ですが、
当日、皆さんの研究用として上の文は資料に出しておきます。

これを見て、思い出して独り笑いしたのは、昨年のF教授の話。
日本人のルーツを調査するのに、何故か、九州は「はずす」んですって。\(◎o◎)/!

どうやらその理由が、九州人は他と違うって。
それがピンとこなかったのですが、このあとの質問が盛り上がりました!

そんなことを思い出したんですね。

九州人は土蜘蛛の血が濃い?

土蜘蛛で思い出すのは田油津姫。
神功皇后に滅ぼされた姫。

やはり手足が長い人種で、金工の術にすぐれていた。
田油津姫と夏羽と神夏磯媛は土蜘蛛ということになるのですが、
景行、仲哀、神功と、代々攻められてばかりです。

羽白熊鷲もエトルリア人だと推測したのですが、(金星のところで)
景行天皇もまた金工の術にすぐれていた氏族だと書いてありました。

何だか、内輪もめみたいだな…と感じていたのですが、
ガイドブックではさらりと匂わせる程度にしています。

(1)筑紫は土蜘蛛の故郷である。やがて土蜘蛛は大和に東遷した。

これみて、あ~あ、やっぱり、そうなんだと思いました。
これって、神武天皇のことですよね。
そうそう、他にも氏族たちがいた。

地中海のEtruria(エトルリア)人 … 羽白熊鷲・田油津姫
Troia(トロヤ)人 … 豊人
Phoenicia(フェニキア)人 … 道真(菅原氏)
Persia(ペルシア)人 … 現人(あらひと) 住吉
木菟(みみづく) … 平群氏… 月氏ササン
以上は当ブログで、推測した人たちです。

筑紫は土蜘蛛たちがそれぞれ集落を作っていて、その一部が東遷した。
残った人たちも異邦人すなわち土蜘蛛ばかり。
だから、九州は日本人のルーツ調査のターゲットからはずされる?

縄文人か弥生人か、頭蓋骨の角度を調べて「入れ歯」を作られるO先生。
九州には第三の人種があって、中東の角度を使ってあげないといけない人があるとか。
これ、土蜘蛛ってこと…になる?

あは、今日はワイン飲んでます~

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北部九州

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by lunabura | 2014-11-16 22:29 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(16)

儺の国の星・「発刊に当たって」を読む


儺の国の星
「発刊に当たって」を読む
 

那珂川町にせっかく来たので、この町に伝わる古来の星々の名が記された
『儺の国の星』を改めて手に取りました。

行間からこぼれ出す、さんざめく星々の光。
忘れ去られた古代の日本人の暮らし。
何度読んでも、その世界に引き込まれてしまいます。
しかも私の読解は遅々としています。

真摯に古代社会を追う人々にとってはヒントに満ちているこの本の再版を
町にお願いした事は前述しましたが、再版されるかどうかはまだ分かりません。

そこで、今回はその「発刊に当たって」という一文を書写する事にしました。
これで古代の那珂川町にアプローチしてみましょう。
発刊にあたって

那珂川町の歴史は、いつから始まったものか何の文献も、これを説明する資料は全く残っておりません。

しかし、日本書紀には儺縣(なのあがた)の記事がみえ、また有名な魏志倭人伝には奴国(なのくに)の記載がありますから、既にその頃は筑紫国の玄関として大陸の文化をまともに受け入れていた所と考えられます。

日本から大陸に渡るには、必ず玄界灘の上を通らなければなりません。従って昔の舟人が、必ず星の明りを看(み)て取って、船を行ききさせていたことを思い合わせますと、那珂川には、必ず古い星の名が無数に残っていて然るべきであります。

那珂川は中世の幾度となく打ち続いた戦乱の中にも、荘園だけは祖先の素朴にして誠意ある代々変わらぬ努力の致すところ、厳然として保存され、その上料(あがりりょう)の寄進が博多と太宰府の文化を支える偉大な基盤の形成に力あったことは、隠れた事実でありました。

思ふに、昔の殿上人でなければ、心得ているはずのない上品な星の名が口伝ながら旧家に残っていたことは、誠に不思議な奇蹟でもありました。

那珂川には上古は神功皇后(201~269)、下って皇極・斉明天皇(642~644、655~661)、天智天皇(662~671)並びに後の天武天皇(673~686)、持統天皇(687~696)そして安徳天皇(1181~1185)の行宮(あんぐう)がありました。

今から54年程前に、高松宮殿下の御下命を承りて古事記の独逸語翻訳に生涯を畢(つく)した香椎宮司木下祝夫博士が、斯くの如き由緒ある土地には必ずや日本の文化を支えてきた観星の古語が残存していることと思ふので、今のうちに寸暇を工面して後世に書物を残すことを進言しておかれたのが、執筆の動機であったと聞きます。

著者真鍋大覚氏の御先祖は遠く常陸(ひたち)石岡(いしおか)の出(で)で、永く鹿島神宮の神官を勤め、慶長のあと那珂川の肥前境に帰ってきて、近世は庄屋として百姓の農事に欠かせない歳時暦の編集を維新まで毎年つづけてこられました。

特に、名文として世に知られる常陸風土記の作者なる藤原宇合(うまかい)(694~737)及び今昔物語に豪勇を讃えられた藤原保昌(958~1036)の南家の末裔でありましたがために、荘園のころの公家だけがよくこころえていた優雅な星座の名前を口伝として保存しておられました。

幸い、著者は幼少の頃、父母とともに田仕事、畑仕事、山仕事を夜遅くまで手もと、足もとが見えなくなるまで手伝っておられました。

そのときに、両親からその季節の星の色や光を一つひとつ文字通り手に取るように教え込まれ、時刻の読み方と天気の見方を教えられました。

その時の記憶はもう今から数えて50年昔のことでありますから、もう既にご記憶はかなり淡くなったと語っておられますけれども、民族学的伝承を永久保存する目的で関係方面のご同意とご協力を得て、ここに出版の運びとなりました。

本書は、広報なかがわに昭和53年4月から昭和56年3月まで「那珂川町の星紀辰位」と題して連載した分と、未掲載の聞き書きを追加した分であります。

何分にも遠い昔の伝承の回想録だけに正確な年代や出典を考証するのに多大の事実を要したものと思われまして、九州大学工学部技術官佐藤洋子氏の並々ならぬ調査並びに校正及び索引作製の御助力がありましたことをここに改めて特記しておきます。

皆様方は、この小冊子をご覧になられまして、私達の遠い祖先が夜の間に眺め、祈ってきた美しい雅やかな星の名の数々がこんなにあったのかと驚かれることと思います。

どうか、皆様方のご家庭にもまた、いくつもの別の星の話題があるかと存じますから、何かご団欒のおりの思い出の引きての一つになればと幸に存じます。

昭和57年2月吉日  那珂川町長 大久保 福義

この序文で驚くのは、まずは神功、皇極・斉明・天智・天武・持統・安徳天皇の
歴代の行宮があった事がさらりと書かれている事です。

この中で安徳天皇の行宮については「安徳台」「お迎え」という地名に残されています。
お迎え
安徳天皇に因む地名です。九州へ下向した安徳天皇が外戚であり安徳台(迹驚岡―とどろきのおか)に居館を構えた原田種直を頼り那珂川町を遡上した際、ここで原田一門や村人に迎えられたと伝えられています。

安徳天皇は迹驚岡の仮御所で体を休め、後に壇ノ浦の戦いへ挑むべく各地を渡り歩きました。」(なかがわ見聞録~文化財散策ルート~よりー町で貰えるマップ)
原田種直はNHKの大河ドラマで大宰府の長官(?)として出て来ましたね。
彼のお家は那珂川町だったんだ~。
風早神社の近くなので、武器の生産もしていたかも。

これがそのエリアです。

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これは裂田神社から眺めた裂田溝(さくたのうなで)。
左の森が安徳台です。実際に室町時代の居館あとなどが発掘されています。

さて、さらに前の時代の皇極~持統天皇の行宮と言ったら磐瀬宮という事になります。
いったいそれはどこだと伝わっているのでしょうか。
手に入る那珂川町の沢山のパンフレット類には全くその記述が見られないので、
これからのお楽しみとなりました。

また著者の眞鍋大覺氏に関しては、先祖は鹿島神宮の神官だった事、
また常陸風土記の作者の末裔だった事が書かれています。
那珂川町では庄屋として暦を作った家系なんですね。

さて、カテゴリにある<星の和名・天体>はこの本を元に、
星ごとに分類していく試みをしているものです。
誰も伝えることのなかった古代日本の星の世界へのチャレンジです。

「真鍋大覚」というタグがありますが、エキサイトブログのタグ機能は
各記事に三つしか使えないので、中途半端な分類になっています。
頭の痛い所です。


次回は『儺の国の星・拾遺』の方を紹介します。




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by lunabura | 2012-08-12 22:13 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 (1)序文を読む 1


儺の国の星・拾遺 1
序文を読む 1
 

前回、那の国の星々の名が那珂川町の旧家に伝わる事情が分かりましたが、
今回はさらに詳しく見て行きたいと思います。
『儺の国の星・拾遺』の序文ですが、長いので、少しずつ紹介して行きます。

序文
本書はさきに昭和57年3月31日に刊行されました『儺の国の星』の続編であります。

那珂川は太宰府の近郊に在ったことから、編暦の官人の草稿が旧家に保存されておりました。しかるに醍醐帝天慶2(939)年の藤原純友の乱と後陽成帝天正14(1586)年の島津義久(1533~1613)の乱により、多くの古書が散逸しました。

それでもなお明治38(1905)年7月26日の大風大水までは庄屋の土蔵の中の唐櫃(からひつ)や文庫の中には、太宰府からの疎開の書類写本が保存されていたのでありましたが、この時の水禍の災害があまりにも甚大であったがために、その復旧工事に盆を返上しての日夜の努力が彼岸まで続いたとのことでありました。

漸く秋分に入って土蔵の中に風を通した時に、意外な雨もりで書類は水気を吸い込んで、ついに開きも離しもかなわず、盥(たらい)に水をはって、これに浮かべて少しづつはがしては筵(むしろ)の上に広げて乾かしたのでありますが、何分にも九百年近い古書であったがために修理不能のやむなきにいたりました。

幸に真鍋勝次(文化14年4月8日~明治42年4月23日 1817~1909)に幼少の頃から侍して、よく家伝の古書を披見(ひけん)していた真鍋利市(明治4年8月12日、昭和22年8月16日、1891~1947)がその内容を記憶しておりましたので、

ここに何とか「晉書天文誌」と昭和39(1964)年、初版のA.Becvar(ベックバール)の『アトラス ボレアリス エクリプテイカリス アウストラリス』の星座図をもってその口伝を確かめることができました。

真鍋勝次は明治維新後もなお那珂郡の方冊(ほうさく)を作製して、百姓の歳時月令に資した最後の人でありました。

昔の國暦は現行の太陽暦ではなく、太陰暦に二十四節季、五十六節気、或いは七十三節期を配し、しかも気候の早晩を閏月の適所挿入によって調整するところの天文気象暦でありました。

餘日延年、即ち1年の太陽暦日と太陰暦日の差を秋分に定め、これと同じ日数が過去何年前にすでに存在していたかを付表から引き、その年の天気地気の記録を参照して立冬までに編纂を完了するのでありまして、真鍋利市は常に机辺(きへん)に正座して祖父真鍋勝次の仕事を見守り、自ら検算を助けました。

早くから窮理の術、即ち現在の球面三角法と天文力学を修め、祖父はその英才を嘱望して、孫ながら、真鍋勝三郎(文久2年12月15日~昭和25年3月26日、1862~1950)の養子に選びましたが、後、前町長真鍋勝次(明治43年2月11日~昭和53年7月28日 1910~1978)の出生におよび、これを独立させて大学卒業まで学費を送ることに定めました。

察するに肥前長崎の天文学者西川如見(1648~1724)に幾代か前の先祖が洋書を求めてこれを習っていたものとみえます。

西川如見は暦法に季節を入れることを主張して江戸幕府に抜擢されました。東山帝元禄2(1689)年に江戸本所深川に渾天儀を置き、渋川春海(1639~1715)は京都土御門に代って暦書編纂の事業を開始しました。

二百十日を入れるべき百姓漁師の上申をうけつけたのは、靈元帝寛文11(1671)年からのことと伝えられます。
(つづく)
那珂川町が太宰府市に近いという事で、大宰府で使われた文書の草稿が
旧家に保存されているような環境があった訳です。

藤原純友や島津義久の乱で多くの古書が散逸したと書いてありますが、
私が逍遥している間も、大宰府政庁跡では純友が建物を燃やした話を聞いたし、
志式神社や伊野天照皇大神宮辺りでは、
島津の兵隊たちが神社を焼いて古文書も焼失したり、
鐘を持ち去ろうとして具合が悪くなったという話に出会いました。

古文書を焼く事はその歴史を抹殺するに近い暴挙ですよね。

那珂川町ではそれでも残った写本などが、明治38年の水害で駄目になってしまった。
その日付が7月26日と言う事なので、今年の7月12日~14日前後の水害を思うと、
梅雨前線や台風の脅威はいつの時代も思いがけない地域を襲うのが分かります。

風水害のために真鍋家でも蔵書が修理不能になったのですが、
祖父の手伝いをしていた利市が内容を記憶していて、
昭和になって出版された星座図で口伝を確かめたという事です。

明治38年の水害から昭和39年の初版まで、よく途絶えずに伝わったものです。
(これって、すごい内容が日本に伝わっていたんだ。900年以上も前の情報なんです。)

毎年作成される暦は太陰暦で、気候の早晩を閏月の挿入で調整するという事です。

この閏月(うるうづき)で思い出す事があります。
10年ほど前に太陰暦のカレンダーを2年ほど使った事があります。

確か四国・土佐で作られ始めたカレンダーなのですが、
漁業の人の間で漁に役立つという事で、口コミで広がりました。

これが婦人服の生産や販売(バーゲンの時期の見極め)などにも役に立つので、
さらに広がって行ったそうです。
旧暦のカレンダーという物は、閏月の挿入場所が、寸前にならないと分からないものだと書いてありました。

夏の長さや短かさなどは、ここに反映されるのだそうです。

私はそれまで、閏月は4年に一度、定期的に挿入するものだと思っていたので、
目からウロコでした。

それにしても、球面三角法なんぞを何に使ったんでしょうか。
(ネットで調べると、天文や航海術、そして四柱推命などに必要らしい。)
やはり海を渡るには必要不可欠なんですね。

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江戸後期の渾天儀 画像出典
http://www.e-tmm.info/syuuzou/kontengi.htm
(つづく)

地図 那珂川町と太宰府市







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by lunabura | 2012-08-11 00:19 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

儺の国の星・拾遺 2・物部氏の矜持 ― 遺言はハレー彗星の通過日の特定だった


儺の国の星・拾遺 2

序文を読む 2
物部氏の矜持 
遺言はハレー彗星の通過日の特定だった
 

前回のつづきです。
口述筆記のために、明らかな誤字は変えています。
明治43(1910)年4月19・679日Halley(ハリー)彗星は近日点を通過しました。

この時が69推の方冊(ほうさく)の家系を語る と、生前の真鍋勝次は信じて他界しておりました。即ち彗星到来を予見した上での遺言でありましたが、これはまさに的中いたしました。

ここに1推(いっすい)とはメトン周期のことで、太陰暦235月6939・68841日と19太陽年6939・60170日が差0・08761日をもって一致するところからきた名称でありました。

これから69推は1311年前、即ち推古帝7(599)年のことになるのでありますが、日本書紀巻22推古紀(603)年壬戌歳には、
   冬10月に百済の僧 観勒(ほうし くわんろく まうおもぶ)けり。
   仍(よ)りて暦の本(ためし)及び天文地理の書(ふみ)、併(あわせ)て
   遁甲方術(どんかふはうじゅち)の書(ふみ)を貢(たてまつ)る。

とありまして、祖先は物部氏の出身であり、異朝から大宰府の招請に応じて暦書を
上された時に、これが本朝の古来の式例に副うものであるか否かを検算する家系
であ
ったことが判明いたしました。

大宰府は異朝の入貢する船籍が多く入泊しますから、各国の暦制が船ごとに異なり、これを対応して数年先の次の入国の機会まで、日取りを正しく登録する必要がありました。

従って物部氏は代々、大宰府の暦官の職務を世襲して、もって天文学的計算の術を通じ、これに仕えていたのであります。

「69推の方冊(ほうさく)の家系を語る」
これはハレー彗星が地球に一番近づく日時を特定する事によって、
69推(1311年)続いた、真鍋家の歴史と実力を証明するという意味です。

トップシークレットだった為に、誰も理解する事のない、
物部氏の本来の仕事がこの天体観測であり、暦造りでした。
ハレー彗星はハレーが発見した事になっているが、
日本ではとっくに知られていたのだという思いが伝わって来ます。

この計算が、どれほど高度な科学的知識に裏付けられているのか、
明治時代には誰も理解出来なかった事でしょう。
現代でも、そんな家系が在ったと素直に信じる人は少ないかもしれません。
だからこそ、ハレー彗星の到来を予見したのですね。

ハレー彗星の近日点をどうやって計算したのか想像も出来ないけど、
「69推」ぐらいは理解してみましょう。

「メトン周期」か…。名前は知っていても、内容は知らないよ。
こんな時はWik頼り。
 メトン周期 19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月を入れる回数を求めるのに用いられた。メトン周期に
従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されることになる。

関係ある所だけ書き写しました。検算してみましょう。

1年は365日。1か月を30日とすると、30日×12か月は360日。
その差は5日。10年経つと50日も差が出て、季節感はめちゃめちゃ。
そこで時々閏月を入れて誤差を調整する必要が出てくるけど、
19年間で7回の閏月を入れると誤差は解消されるという事か…。

どうれ、計算してみよう。
365日×19年=6935日
30日×235ヵ月=7050日
7050-6935=115日
30日×7回=210日
あれ?うまくいかない。一か月30日が間違ってる? (@_@;)
29.5日ぐらいかな?
それとも、序に書いてあった、12桁でないと誤差がひどすぎる?
(どうやって計算するの~)

それじゃあ、12桁を使ってまじめに計算しようとしたけど、
桁が多過ぎて計算機に入力できない。とりあえず、下6桁までで計算してみよう。
365.693960日×19年=6948.1852日
30日×235.693968月=7070.8188日
これもダメ。検算でさえ私は出来ない(涙)
差0・08761日が出て来ないよ~ (・.・;) 
やはり、1か月30日が駄目なのか。誰か頼む…。(いや、お願いします。)

こんなメトン周期を日常で使う家系ってどんな家?
そして、計算機がないのに、どうやって計算したのだろう。
メトン周期はあきらめ!

気を取り直して、ハレー彗星を調べてみよう。
「ハレー彗星はエドモンド・ハレー(Edmund Halley 1656~1742)が
初めて76年ごとに地球に近づく彗星を発見した。」

なるほど。
真鍋勝次氏は日本の物部氏はすでに76年ごとに地球に近づく彗星の存在を知っていて、
その近日点を計算する事も可能だったという事を証明したかったんだ。
そして見事的中。

これは天文の歴史を塗り替えるような内容ですぞ。
だから、遺言にしてまでもその家系の存在を伝えたかったのでしょう。
う~む。これぞ物部氏。

真鍋家と大宰府
日本書紀では69推前=599年の3年後に百済の僧・観勒が暦を伝えたとなっていますが、
真鍋家の祖先は、この暦と日本古来の暦との付き合わせをしたという事を暗示しています。
(ひとひねりしていいるのは大覚氏の独特の表現法です。)

現代でも外国では西暦以外の各種の暦を使っています。
東南アジアの何処でしたか、一つの国で何十種類もの暦を民族ごとに使っている
という話をラジオで聞きました。
そのカレンダーはきっとすごい事になってるんでしょう。
でも、その国ではそれが当たり前。
古代の姿が残っているのですね。

古代、大宰府に入港した船も各国から来て自国の暦を使っているため、
倭国の暦との付き合わせが大宰府政庁で行われたんですね。

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これは大宰府の再現図。(パンフレットより)
どの建物でやったのかな。少し身近になりました。

さて、つづき。
真鍋勝次は明治20(1887)年3月28日をもって時の農商務省大臣 山縣有朋(1838~1922)から表彰を受けております。

埼玉県秩父郡の民生安定に多大の貢献を為したるをもって感謝の金一封を授与せられたのでありますが、東京帝国大学農科大学の教授博士をしても荒廃の極に達した田畑の土地改良の大事業を僅か2年の歳月で完成させた功績は天下一の篤農(とくのう)の郷士と称えられたとのことでありました。その語る処の祖先の逸話がこれであります。(つづく) 

勝次氏は那珂川町の元町長ですが、埼玉県では田畑の土地改良に尽力。
日本古来の智恵が余すところなく発揮されたのでしょうね。
どんな改良法だったか、これまた知りたいものです。
(つづく)








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by lunabura | 2012-08-09 10:31 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)

儺の国の星・拾遺 3・メトン周期と満月の祭事


儺の国の星・拾遺 3
序文を読む 3

メトン周期と満月の祭事
 

諸事情で投稿が遅くなりました。<(_ _)> お待たせです。

前回の難問……メトン周期の計算を愛読者さんがしてくれました!
さて、どんな問題でしたっけ。
そうそう、ハレー彗星の近日点を計算した真鍋家(物部氏の末裔)の
計算力を理解するために、基礎となる「推」を検算していた所でした。

「推」という言葉は現代では「メトン周期」に置き換えられるという事で、
メトン周期にチャレンジして、さじを投げた所でした。(笑)

メトン周期 
19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期のこと。
この周期は、太陰太陽暦で閏月(うるうづき)を入れる回数を求めるのに用いられた。
メトン周期に従うと19年間に7回の閏月を入れれば太陽年とのずれが解消されること
になる。
(wiki より)

太陽暦で暮らしている私達も、時々旧暦を使います。
福岡では七夕が旧暦で行われていたので、8月の天候の安定した季節に
満天の星空を見る事が出来ました。
最近はもう太陽暦の7月だけになったかな?
7月の七夕は梅雨の末期なので、雨が心配ですよね。

中国では旧暦の正月の帰省ラッシュがよくニュースになっています。
旧暦が今でも生活に密着しているのが分かります。
旧暦だと、月を見れば今日は何日だと分かるので、
空の「誰でもカレンダー」になります。

ところが、困った事に太陽暦とはズレがあるため、話は簡単ではありません。
そのずれが無くなるのが19年目だという事です。

今月の満月は2012年8月2日でしたが、
もし「次の8月2日の満月の日に再び会いましょう」と恋人と約束したら
19年後になってしうまうんだ~。

さて、眞鍋氏の本に戻ると、
古代、大宰府にやってくる各国の船はオリジナルの暦を持っていたので、
大宰府政庁で計算して暦の突き合わせを行なったわけです。

「609年、百済の僧・観勒が暦の本を奉った」と日本書紀にあるけど、
「この時、暦が初めて日本に導入された」と解釈するのは間違いで、
倭国にはすでに和暦が存在していて、百済の暦とどう違うのかを
当時、換算される部署が存在したというのが実態だという事です。

それを行ったのが真鍋家の祖先で、物部氏です。
すでに高度な暦が日本では作られていました。

神功皇后の筑紫での行動にきちんと日付が付いているのも、
当時、すでに暦があって、従軍書記官がいたと推定しています。

前置きが長くなりましたが、メトン周期について愛読者さんのコメントを紹介します。
(朔とは新月。望とは満月の事です。)
メトン周期ですが1月を30日で計算すると合いません。「日」単位で考えてください。

1朔望月=新月から新月の間は29.530589日です。
(だから陰暦では29日と30日の月が約半々になっています)

これを235回繰り返すと29.530589×235=6939.688415日、

1太陽年=冬至から冬至の南中時までは365.242194日×19回繰り返すと=6939.601686日

235を12で割ると19年と余り7月ですので、19年7閏とすれば、19年後に同じ月の同じ日(*11月1日)に冬至が回ってくるわけです。

(*太陰太陽暦では冬至は11月1日を基本の「朔旦冬至」とし、19年ごとに回ってくる。それでもこのメトン周期では若干のずれが出るのでいろいろ改善されています)

これによると、太陽暦と太陰暦の差が0.086629日。
真鍋氏が出した差は0.08671日。
おお。かなり近い数字が出ましたよ。
(1朔望月=約29.5日を覚えておこう。)

計算機の無い時代なのにかなりの水準だったんですね。
愛読者さん、ありがとうございます。
これですっきりしました。

赤司八幡神社の満月の祭事
さて、物部氏が計算力の優れた人たちだったのが分かりましたが、
それで思い出すのが久留米市の赤司八幡神社満月の祭事「竿例し」です。
(「赤司八幡神社」の正しい名称は「八幡神社」です。)

私は、これは「満月の測量」が祭事になったのでないかとずっと考えていました。
赤司八幡宮に伝わる「竿例し」は正月14、15日の夜、地上10尺の長さの竿を立て、月光によって生じる竿の影の長さを測って占象とする。まことに古拙な占行事で、他に例を聞かぬものである。
(『赤司八幡宮の「竿例し」』(古賀壽)より)

「正月14、15日」に注目して下さい。14日と15日の二日間あるという事です。
「正月」とは「旧暦の正月」の事ですから、15日は満月です。
しかし、一か月は約29.5日なので、ずれが溜まると
満月が15日に来るとは限らず、14日に満月を迎える事もあります。

だから、14日と15日の夜に竿の長さを測量して
満月の時間を確定していたのではないかと考えています。

それは神官によって厳粛に行われた事でしょうが、
そのまま神事として伝えられたではないでしょうか。

現在は旧暦の正月14日の晩、一日だけ行われているそうですが、
よくぞ伝えられたと感激しています。

古賀氏の寄稿文には
「昔は多くの人が集まってこの祭事を見守ったと聞くが、
現在は宮司と家族と時に総代会長が参加するというさびれたものになっている。」
とも書いてあります。
是非とも近隣の方々にこの祭事の意味を知って見守っていただきたいなと思いました。

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この赤司八幡神社は三女神の降臨の地であり、大宰別府です。
天の真名井の意味を伝え、満月の測定の神事を伝えています。
かなり高度な星宿祭祀が行われたもようです。

神功皇后を諸手で迎えた人々の宮でもあります。
まだまだこの宮の伝承全体を消化しきれていないのですが、
日本古来の神道の姿を研究するに欠かせない重要な宮だと認識を新たにしました。





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by lunabura | 2012-08-01 11:03 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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