ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:ウチ考( 6 )

竹内宿禰


竹内宿禰

今日から、校正が戻ってくるまで、ちょっとの間、気持ちのゆとりがあります。
そこで、竹内宿禰のお話し会のための資料を把握してみました。

竹内宿禰に関しては、このブログで記事にした神社だけでも30社近く。
これで一冊の本が出来るほどの分量がありました。

伝承をざっと分類してみると、
祭祀、軍隊、楽隊、土木工事、はたおり、などの特徴があり、
時代は日本武尊から仲哀天皇、応神天皇あたり。

エリアは北陸、福岡、佐賀、鹿児島あたりがポイントでしょうか。

神功皇后が筑紫に風のようにやって来て、吹き抜けて行ったのに対して、
竹内宿禰は九州の各氏族をまとめる位置にあり、
筑紫~佐賀にその基盤がある、在地の人のような印象を受けます。

倭国という一つの国のまとまりの初めの時代を見ることになるのでしょうか。

今回は、これまで踏査した地域での竹内宿禰像をまとめて、
次の課題を見つける所あたりまでかなと思っています。


このブログ、これまで書いた記事が795本ありました。
次々に新しいものに取りかかるのでなく、まとめの時期に来ているのが分かります。

今、ほぼ見えて来たものとして、
神功皇后の時代の列伝としての安曇磯良、竹内宿禰。
磐井の次の時代、磐井の末裔たち。

水沼三女神と宗像三女神。
斉明天皇の福岡での動き。

この辺りがまとめの時期に来ています。
原稿が出来あがったものもあれば、取材ポイントが分かっていて、
実地に行くだけものもあります。

今回、森のオアシスさんからいただいたテーマ「竹内宿禰」は
ちょうどいいタイミングだったなと思っています。

そうそう。
そろそろ、森のオアシスさんと連絡取らなきゃね^^



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志式神社の奈多の浜
ここで「高良の神」は「高良玉垂命」から干珠満珠を貰い受けた

高良の神=竹内宿禰
高良玉垂命=安曇磯良

ここは阿曇鄕。





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by lunabura | 2014-08-04 21:09 | ウチ考 | Trackback | Comments(2)

ウチ考(8)内野宿から馬敷まで・「酒は飲め飲め」の黒田武士が建設した宿場だった

ウチ考(8)
内野宿から馬敷まで
 
「酒は飲め飲め」の黒田武士が建設した宿場だった


さて前回の、この内野宿の物差しの基準は唐制の一里760mだったという話。
これを聞いて邪馬台国九州派はワクワクしないかな。
これって「短里」ではないですか?
最近、二人から「760m」とか「770m」とか聞いたばかりだよ。

『魏志倭人伝』に使われる「一里の長さ」が今でも論争の争点になっていて、
九州説はこの短里で説明がつくらしい。

その短里がなんと江戸時代の宿場造りの基準になっていたというのだから驚き。
一里が4キロという時代に短里も併用されたという緩やかさにカルチャーショック。

邪馬台国畿内派の人も九州派の人も、この内野宿を歩いてみると
魏志倭人伝時代の距離感が楽しめるかも。
と思って宿場の長さを調べたら700mとか。なんと狭い地域だったんだろう。

さて、この内野宿を造った人は誰かな。
展示館の資料によると
長崎街道・筑前六宿(むしゅく)の一つ内野宿は、その建設について福岡藩記録に「慶長17年(1612年)毛利但馬被命内野被建」とある。

毛利但馬(もりたじま)は日本一の槍を飲みとった黒田武士で有名な母里但馬で、黒田公の命で代官として内野建設に当たった。

但馬が大隈城主となった後、内野太郎左衛門がその任に当たった。内野氏が軽輩ながら、かかる藩の大事業に起用されたのは長政公の厚い信任を受けたからにほかならない。

あの黒田節で有名な母里但馬友信が代官となって内野建設に当たったんだ。
(墓所は嘉麻市鱗翁寺)
知っている人が出て来ると急に身近になりますね。

その後「内野太郎左衛門」が引き継いでいる。
この内野氏について、のらさんから情報が。

るなさん、こんばんはです。
何処に書こうか迷ったんですが、その内容に合った所に書きます(>_<)
地元民として何か調べられないかなぁ?と思い持っている『長崎街道 1』を開いた所、衝撃的な事が!!(泣)

飯塚の「内野宿」という名前ですが、貝原益軒の『筑前国続風土記』に「内野邑昔は無し」とあり、それ以前に人は住んでいても内野の地名は無かったそうです(T_T)
ただ水田も少なく一帯は良い狩場であったと『黒田家譜』に見えるそうです。

ではいつ『内野』になったか。
黒田長政の筑前入国に伴い多数の家臣を採用し、その中に秋月家浪人の大庭内蔵助の孫に当たる内野太郎左衛門が居たと。この太郎左衛門が内野宿を開き、自分の出身地の地名をとって付けたとあります。

ん?じゃあ秋月にも「内野」があるって事ですかね?
一寸衝撃的だったので私的に大人しくしてましたが、「内住・大野」は別もんかもと思い書いてみました。


わお。すごい情報。
大変な事に。
江戸時代に出来た地名だとすると、「たまきはる内野」の飯塚説は消えて行く!
江戸時代のお狩場があったという話は私も資料で見ましたが、あの辺りが現地だったのですね。
のらさん。大収穫ですね。
取り敢えず、候補地の一つは消えました。
新たに浮上した高良内の内野が俄然、クローズアップですね。
早良の内野も誰か調査してくれないかなあ。

さて、「内野村がなかった」という衝撃情報はここに書いてありました。

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赤い点線の部分です。

内野宿の名前も「内野太郎左衛門」が出身地の名を付けたとあります。
そこで、思い出したのが、藤俊さんとの会話。

ブログで那珂川町の話題からこの内野の話題になった話をすると、
「内野は那珂川町と関係があります。太郎左衛門の出身地は那珂川町でした。」
確かこんな話でした。
「大庭(おおば)は饗庭(あえば)と書いた」という話もありました。
(饗庭と言えば「神に捧げ物をする神聖な場所」という意味です。(WIKI))
軽輩ではなかったのかも。

「内野」は秋月でなく、那珂川町みたいですね。


さて、話題は変わりますが、

c0222861_0245362.jpg

ここは長崎街道ですから、こんなラクダや

c0222861_025880.jpg

こんな参勤交代の行列が通過して行きました。

なんと、偶然にも、10月30日から「長崎街道展」があるそうで。
場所は九州歴史資料館です。(小郡市)
上の三枚の写真はそのパンフレットからです。

c0222861_0253186.jpg

伊能忠敬の地図も見られるとか。
内野宿を調べたばかりだったから、俄然楽しみになりました。

そして、最後の話題になりますが、ここは黒田藩のお狩場だったそう。

内野宿を出ると、「馬敷」の地形を確認するために、再び出雲を通って北上。
馬敷は写真が撮れませんでしたが、その先に見晴らせる地形があったので車を止めました。
が、そこは既に隣の「大分」(だいぶ)という所でした。

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これがその大分。
この写真の右側には大分宮があり、左には「馬敷」があります。
馬敷は猪鹿が多かったそうで、村の中の池に中島があって、
昔、天馬が死んだのをそこに埋めたそうです。(筑前国続風土記)

江戸時代にお狩場があるなら、古代にもあった可能性はありますが、
「内野」の古い地名が明らかになるまで、
「たまきはる内野」に該当するかどうかの結論はお預けになりました。

地図 内野宿 馬敷




ウチ考はひとまずここまで。
「タグ」の<ウチ考>に(1)~(8)まで入れておきます。
連続して読む時はそちらを利用して下さい。








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by lunabura | 2012-10-28 00:33 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

ウチ考(7)内野宿・日本で屈指の貴重な宿場だった

ウチ考(7)
内野宿
日本で屈指の貴重な宿場だった

老松神社を出ると再び雨が激しくなりました。
ここに来るには江戸時代の街並みを通らねばなりません。
参勤交代があった道で、くねくねとして狭く、両脇には古い家屋。
車ではもったいないような風情のある道です。

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行きがけに撮った写真が数枚ありました。撮っておいてよかったな。

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先を歩く人の様子から道幅が分かると思います。
左の角の家の二階の窓がおしゃれで気になって、近寄ると展示館でした。

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「長崎街道 内野宿展示館」です。
走って飛び込むと、中は新しく改築されていて、心地よい空間になっていました。

そこに展示されていた絵地図を見て、老松神社を発見。
大根地神社も描かれていました。

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中央の☆マークが現在地の「内野宿展示館」。左の赤丸が老松神社。左上が大根地神社。
あれ?大根地神社はこちらの文化圏なんだ。
これは驚き!

例の調子で展示館の方をつかまえて質問攻め。
内野宿の町並みの展示館なのに、羽白熊鷲や大根地神社などオタクな質問ばかり。
大根地神社は神功皇后が熊鷲と戦う前に戦勝祈願をしたと伝える神社なのです。

展示館の方がついに歴史に詳しい藤俊さんを呼んで下さいました。
藤俊さんは最近、内野宿に残る1800年前頃の道、神功皇后の時代の道を発見した
という話をしてくれました。
それは上に掲載した地図の緑の点線で描いたルートです。

さらに話を伺うと、
この内野宿を調査するうちに、この宿場の貴重な価値を発見。
大学の先生たちを招いてシンポジウムを開く準備をしている所だそうです。

「こんな雰囲気の宿場は福岡にはまだ各地に残っていますが。」
そう伝えると、
「いえいえ、この内野宿は江戸時代の線引きが全く変化していないという、
極めて貴重なものなのです。
どこも、いくらかは変化しています。
ここは何度も大火に遭いながら、全く変化していない。
唐制一里760mを残しているのです。
こんな貴重な宿場は全国のどこにもありません。」

大江戸〇〇館からこちらに来られたという藤俊さん。
いろいろと面白い話を聞かせて貰いました。

その中で菅原道真公の話も出て来ました。
道真公についても研究されているのですが、ビッグスターはどうしても伝承が変化しやすいので、
その父や妻など、周囲を調べているのだそうです。

この研究法は私も同じ。
私はそれを密かに「ビッグスターと星座たち」と呼んでいるのですが、
周囲固めをすることで、揺るぎない世界を構築しようとしているのです。(一応ね。)

道真公に関しては、師匠の娘を妻にしたと言う事なので、
師匠の方を調べているということでした。
師匠の名は「島田忠臣」というそうです。
京都の天神さんにその忠臣公を祀る福部神社があるとか。
筑後市の水田天満宮にも祀られていて、それは母の縁だそうです。

伊賀の助という地位にあったという話も。
「あれ?私、それ知ってます。
泉河内に島田家の集落があって、そこは平家の落人で、伊賀の助の末裔です。
壇ノ浦で負けて山の中に逃げ込んだそうですが、
援助者がいないと決して入り込めないような山の中なのです。
畑仕事をする時でも、必ず矛を立てていたそうですよ。
反対側に逃げ込んだ平家一門は全滅しています。」

そんな話をすると、藤俊さんはまさにそこに調査に行ったばかりとか。
このタイミングに、こりゃあ、私が呼ばれたのかなと思いましたョ。
御縁とは不思議ですね。

このブログの訪問者の中にも二人ほど道真公を研究している人がいます。
みんな切り口が違うから、一度報告し合ったら面白そうだな。

で、肝心の大根地神社については、年に2回、4月8日と10月8日に
老松神社まで御神幸祭があるのだそうです。
のらさんが調べてくれたサイトによると、
老松神社の宮司さんが大根地神社の宮司も兼ねているとの事。
両社には深い縁がありました。

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館内でいただいた古地図を見ていると、老松神社が地図の中心になっています。
左に小根地、上に大根地と描かれています。
今でもこの神社はつながっています。

宿場は右下の方に描かれています。
位置関係から、両神社が宿場の精神的な中心地だったことがよく分かります。
(追記 あとからよくよく眺めると、この地図トリミングしてあるみたい (・.・;))
緑の点線は神功皇后時代の古道。
これは飯塚市の立岩遺跡の石包丁を求める道だろうとの事でした。
石包丁は100キロ離れた所からも出土しているそうです。

c0222861_1191162.jpg

この宿場から街道を下っていくと、すぐに山家宿です。
阿志岐の近くに出るんですね。
どんどん下ると、本当に長崎に出ます。
長崎街道だから当たり前と言えば当たり前ですが。

(つづく)







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by lunabura | 2012-10-27 01:25 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

ウチ考(3)内の一族


ウチ考(3)
内の一族
 

竹内宿禰が特別扱いされているなあと思われるのが『日本書紀』。
景行天皇の記事の中に、何故か竹内宿禰の出生話がさらりと挿入されています。

それがこの部分。
景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になりました。

代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀をさせました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で神祇を祭祀しました。

そこに9年間住みました。その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました。

この前後は普通の文脈です。
興味のある方はサイドバーの「景行天皇」で確認して下さい。

竹内宿禰はタケオココロ命が景行天皇の代わりに祭祀をした柏原で影姫との間に生まれました。
「柏原」の場所はまだ特定されていません。

「紀伊」の国での話となっていますが、同じ発音で「基肆」と書くと佐賀県です。
父親のタケオ・ココロ(武雄心)命はその佐賀県の武雄(たけお)市に祀られています。
母親の山下影姫は「基肆」の隣の小郡市に祀られています。
竈門神社と言って、影姫の墓所だと伝えられています。

過去記事は以下。
   竈門神社(玉母宮)かまどじんじゃ 福岡県小郡市力武宮の脇
   竹内宿禰の母・山下影姫の墓所だった
   http://lunabura.exblog.jp/16421532/


父も母も有明海~筑後川流域に痕跡を残しています。
紀伊国は基肆国の書き換えの可能性があります。

「紀伊」で思い出すのは徐福伝説です。
有明海~筑後川流域もまた徐福伝説に満ちています。
「キイ」というのは徐福たちの拠点だったのではないかと最近考えています。
それと重なる竹内宿禰の両親たちの伝承。
ウチ家が徐福のもたらした先端技術に触れている可能性は高いです。

さて、『日本書紀』の中でもう一カ所竹内宿禰にこだわった所があります。
それは更に古い時代、孝元天皇の所です。
ここは系図だけが書かれている短い章なのですが、竹内宿禰へ導かれて行くような文脈です。
彼につながる事が当時のステイタスだったのでしょうか。

それらを組み合わせて書いた系図が次の図です。

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孝元天皇はウツシコメ命とイカガシコメ命の二人を后にしています。
二人はウツシコオ命からみると妹と娘です。
妹からは天皇たちが生まれ、娘の系統はは竹内宿禰へと繋がっていきます。

このウツの字は古事記では「内」・日本書紀では「欝」が当てられていて
「欝」は「ウチ」とも「ウツ」とも読めます。
私はこの一族をとりあえず「ウチ家」と秘かに呼んでいます。

孝元天皇は「ウチ家」に妻問いして、経済的基盤を得たようです。
兄妹の「ウツシコオ」と「ウツシコメ」という名前の付け方はいささかアバウトな感じがしますが、
その「ウチ」の名が竹内宿禰に引き継がれたのではないかと考えているのです。
(竹内宿禰の異母兄弟に味師内宿禰という名もみえる。)

系図を見ると竹内宿禰の先代までは「命」がついていますが、
彼の世代になって宿禰に降格しています。
古事記に至っては、タケオココロの命の名前が消滅しているのです。
何か異変が起こったのでしょうか。ちょっと気になりますね。

さて、上の系図に神功皇后の系譜を加えてみました。

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仲哀天皇と神功皇后は開化天皇から枝分かれしています。
さらに一世代上の孝元天皇で竹内宿禰の系譜と分かれています。
要するにこのブログで御馴染みの三人、仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は同じルーツなのです。
三つの系譜はそれぞれ天皇・王・命という流れです。

仲哀天皇と神功皇后の婚姻によって、ウチ家の結束が強まっています。
竹内宿禰が仲哀天皇と皇后を支えたのは同族だからです。

この三者が一堂に会して戦ったのが新羅です。
新羅との戦いは「天皇家」というより「ウチ家」の事情と言った方がよいかも知れません。

「ウチ家」が天皇家の経済的基盤だとすると、当然ながら経済を支える産物があったはず。
当時の宝物は鉄と銅と金、水銀などの鉱物だと思っています。
ここに、先述の徐福の先端技術が関わっている可能性はないかな。

「ウチ家」の人が住んだ所には「ウチ」という「地名」が残っているかもしれない。
そこには何らかの金属鉱山などの痕跡があるのではないか。
弥生の集落もあるだろう。

「ウチ」と「鉱山」「弥生」が組み合わさったものが私の探す「内」の都かも知れませんね。

竹内宿禰にしか用例のなかった「たまきはる うち」が
古田武彦氏が言われるように飯塚市の内野で詠まれたものだとすると俄然、期待は大きくなります。
(つづく)


ウチ考(4)天神社 出雲神と道真公を祀る宮
http://lunabura.exblog.jp/18539365/





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by lunabura | 2012-10-04 23:14 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

ウチ考(2)「たまきはる 内の朝臣」とは竹内宿禰なんだけど

ウチ考(2)

 「たまきはる 内の朝臣」とは竹内宿禰なんだけど

神功皇后の神社巡りのガイドブックの地図を描いている内に、
文章の推敲をし始めて、すっかり夢中になっていました。
文章が下手なので、いったい何十回推敲したらいいのか…。

福岡県内に300以上伝わる伝承の中のわずか100社だけど、
彼女の存在感が生き生きと描き出せる上に、
約3年間という限られた古代の筑紫の状景が切り取られる奇跡。

そんな中で、まだ謎が多いのが竹内宿禰
彼の両親や、陣営地、出城、末裔たち、などはかなり具体的に分かったのですが、
何故か私は彼の全体像をつかんだという印象がないのです。

私が「竹内」という表記を選ぶようになったのは、
彼が「竹斯(筑紫)」の「内の朝臣」だから、というシンプルな理由から。
「武内」とか「建内」と書くのは、単にカッコよくするためですね。

「内の朝臣」が竹内宿禰だと書くのは、今回が初めてかな。
『日本書紀』なんかにそう書かれているんです。

そして、この「内」とは地名ではないか。
ずっとそんな思いがしていました。
それは「中臣の烏賊津使主」が那珂出身ではないかというのと同じ理由です。
(⇒ 審神者神社)

あれほど自由に物部軍を操るくせに、つかみどころのない竹内宿禰の事を
もっと知る決定打はないか。
そう思って「内」の地名を各地に見つける度に、心に掛けていたのだけど、
どうしても飯塚市の内野が気になる。

その近くには「出雲」があるし、王塚古墳があるし、
羽白熊鷲が逃げ込んだという別伝を持つ老松神社までもある。
何よりも「大分宮」(だいぶぐう)がある。

大分宮は筥崎宮の元宮で、かつ宇佐八幡宮の本宮。
宇佐八幡宮の本宮となると、そのすごさは計り知れない。
宇佐は何せ、日本中にある八幡信仰の総本山なのだ。

応神天皇の神霊が毎年、大分宮に通っていたのが分かったのは
正八幡神社、位登八幡宮伝承から。

正八幡神社 田原麿は仲哀天皇軍に馳せ参じた

位登八幡神社 神功皇后は田原麿の城に半年も滞在した
http://lunabura.exblog.jp/16746001/


古代筑紫の地図を双六(すごろく)に例えると、
大分宮が分かれば「アガリ」だなと思えるほどで、
ここに迫るのには何故か勇気が要る。

「内」と大分宮が関わりがあるのかどうか、全く予想がつかないけど、
今回は「内の朝臣」という表現がある『日本書紀』の神功皇后紀を、
読んでみましょう。

この中に出て来る「たまきはる 内の朝臣」は「魂の極まる 竹内の朝臣」という意味で
「霊力の極まった」と訳しています。
敵が彼を謗って「腹は小石」と言っています。

腹の中の「たま」とは丹田(たんでん)力と言うイメージが近いでしょうか。
霊力がある人は それが大きいんです。
実際に目に見えるほど。

神功皇后は3月5日に、武内宿禰と和邇(わに)の臣の祖・武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の軍勢を率いて、忍熊王を討たせました。

武内宿禰らは精兵を選んで、山背(やましろ)から出ました。菟道(うぢ)に着いて、川の北に駐屯しました。忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。

その時、熊の凝(こり)という者が忍熊王の軍勢の先鋒となりました。(熊の凝は葛野城首(かづののきのおびと)の祖で,他の本には多呉吉師の遠祖という。)自分の軍勢を奮い立たせようと思って、声高に歌を詠みました。
  かなたの あれ、あの松原 
  松原に 進んで行って、
  槻弓(つくゆみ)に まり矢(音の出る矢)をつがえて、
  貴人は貴人どうし、 
  親友(いとこ)は親友どうし、さあ闘おう。
  我は 闘うぞ。
  霊力が極まっているという 内の朝臣と。
  やつの腹のは 小石だらけさ。
  さあ、闘うぞ、我は。

その時、武内宿禰は大軍に命じて、全員に髪を椎(つち)のように結わせました。そして号令をかけて、
「おのおの、控えの弦を髪の中に収めよ。また木刀を腰につけよ。」
と言いました。

そうして、皇后の仰せだと言って、忍熊王をだまして言いました。
「吾は天下を取ろうとは思っていない。ただ、幼い皇子を抱いて、君王(忍熊王)に従うだけだ。どうして、戦おうなどと思うだろうか。
願わくは、共に弦を絶って武器を捨て、ともに連合して和睦しようではないか。そうして、君王は皇位を継承して、その席に安心して座り、枕を高くして安んじて、よろずのまつりごとを専制なさるがよい。」と。

そう言うと、はっきりと分かるように、軍勢に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせました。忍熊王はその偽りを信じて、自分の軍勢に命じて、武器をはずして川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

そうすると、武内宿禰は大軍に号令をかけて、髪に隠した弦を出して、再び弓に張って、真剣を付けさせました。そうして、川を渡って進軍しました。

忍熊王は騙された事が分かって、倉見別(くらみわけ)・イサチの宿禰に言いました。
「謀られた。もう、代わりの武器はない。どうして戦えようか。」
といって、軍を連れて少し退却しました。

武内宿禰は精兵を出して、追いかけました。ついに逢阪で対戦して、討ち破りました。それで、その地を名づけて逢坂と言います。

忍熊王の軍勢は逃げました。武内宿禰はささなみの栗林(くるす)で追いついて、大勢を斬りました。そこに血が流れて、栗林にあふれました。それで、縁起が悪いと言って、今に至るまで、この栗林の木の実は御所に献上しません。

忍熊王は逃げて隠れる所が無くなりました。そこでイサチの宿禰を呼んで、歌を詠みました。
  さあ、我が君、イサチの宿禰よ。
  霊力が極まった 内の朝臣の 
  頭槌(くぶつち)の太刀にやられて 痛手を負わないとするなら、
  ニホ鳥のように 水に潜るしかない。

こうして二人共に、瀬田の渡し場で身を投げて死にました。その時竹内宿禰は歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  目には見えないので 本当に身を投げたかどうか分からなくて、
  溜息がでる。
そう言って、その遺体を探させたけれども、見つかりませんでした。

こうして数日して、ウヂ川に出ました。武内宿禰はまた歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  田上を過ぎて ウヂで捕まえた。

うむ。だまし討ちか。
この戦術。いただけませんな。
でも、戦いのシーンはこんなのばっかり。(;一_一)

ま、それはさておき、
歌謡を訳してみて、竹内宿禰が「たまきはる 内の朝臣」だという事が分かりましたが、
他に出て来る数例とも竹内宿禰を指しています。

そして、前回の(「ウチ考(1)に書いたように、万葉集の冒頭を飾る数種のなかに、
この「たまきはる ウチ」が出て来たのですね。

たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深野」

これは地名だけど、もしかしたら竹内宿禰と何らかの関わりがあるのかな?
と期待した訳です。
関係無かったら残念ですが、行ってみないと分からない。(つづく)

ところで私は近畿地方の地勢が全く分かりません。
この話はいったい何処の話なのか、誰か教えてくださいな。



飯塚市 内野


  






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by lunabura | 2012-10-01 14:33 | ウチ考 | Trackback | Comments(4)

ウチ考(1)『古代史の十字路』から


ウチ考(1)

 『古代史の十字路』から
 

図書館で本を返して帰ろうとした時、キラキラ光る本が目に止まりました。
手にすると、『古代史の十字路』というタイトルでした。
「古代」という単語にめっぽう弱い私は著者を見てびっくり。
古田武彦と書いてありました。

本を開くと「那珂川」と「内」の字が見えました。
ちょうど那珂川町の古墳と伝承を書いている最中で、
「内」の噂をブログのコメント欄でしたばかりでした。

この共時性に乗っからないと。

そこで、長い間気になっていた「内」という地名と姓について
これまでの事を整理する事にしました。
終着点に辿り着くかどうかは見当がつきません。

図書館で借り出しの手続きを済ませて、「内」が出て来る
「第七章 太宰府の「中皇命」(なかつすめらみこと)」の歌」
を何度も読み返して、ようやく古田説の概要が分かって来たのですが、
この長歌を口ずさむと、私なりの解釈が生まれました。

2か所ほど古田氏と違っていますが、私なりに万葉歌を楽しんで訳してみました。
左が古田氏の書き下しで、右が私の口語訳です。
天皇 宇智の野に 遊猟(みかり)したまふ時、  天皇が内の野で狩をされるとき、
中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして 中皇命が間人連老に、献上するように
献(たてまつ)らしめたまふ歌          命じられて作った歌

やすみしし わが大王(おおきみ)の      八方を治める私の大王(天皇)がお仕えする
朝(みかど)には とり撫(な)でたまひ     朝廷―中皇命が 朝には撫でるように手入れされ、
夕(きさき)には い倚(よ)り立たしし      夕方には 寄りかかって立たれる
御執(みと)らしの 梓の弓の          手にされた 弩弓の
中弭(なかはず)の 音すなり          引き金の音がする
朝猟(あさかり)に 今立たすらし        朝狩に 今、立たれるらしい
暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし       夕狩に 今、立たれるらしい
御執らしの 梓の弓の              手に取られた 弩弓の
中弭の 音すなり                 引き金の音が聞こえて来る

反歌                     反歌
たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて    内の大野に 馬を並べて
朝踏ますらむ その草深野            朝 踏み分けて走る 草深い野よ

(第一巻 第3・第4番)

この長歌は万葉集の第1巻の第3番目に出て来るという勇壮な歌ですが、
この詞書(ことばがき)に登場する3人「天皇=大王」「中皇命」「間人連老」の中の、
「中皇命」という人が謎の人物として、古来、論争されているそうです。

「中皇命」
確かに名前の一部の「皇」というのは誰もが使えるものではありません。
そして、歌の中では「天皇」の方を「大王」と、一つ下の身分で歌っています。
天皇より中皇命の方が偉い事になります。

それに加えて、
歌の中で「朝庭」という漢字が使われているのも、ただならぬ身分を示しています。

古田氏は「朝庭」は「朝廷」の事で、「天皇家」のそれ以外にも在ったと解いています。
確かに、「倭国」と「日本国」が併存していた時代があるのですから、
倭国の天子に「中皇命」という人物がいて、日本国の天皇を「大王」と謙譲するのは
話としてシンプルです。

太宰府を「遠の朝廷(とおのみかど)」と言うほどですから、
九州に「朝廷」があったのは歴然としています。

この歌は天皇が間人連老を連れて九州の倭国にやって来て、中皇命に面会し、
狩好きの中皇命が内野に出掛けた時、天皇も同行して、
間人連老が中皇命の狩を寿ぐ(ことほぐ)歌を献じたと読み取れます。

行った場所は内野。
そう。飯塚市にありますね!
ずっと遠い所の話かと思っていたら、なんと福岡県にその舞台があるという。
俄然、興味が大きくなりました。

そして、ここからが古田氏と違うのですが、
古田氏は「朝庭」を「みかど」、「夕」を「きさき」と読んでありますが、
私は「朝庭」を「あしたには」、「夕庭」を「ゆうべには」と、そのまま読みました。

日本語の文章は「主語」が変わらない時は二つ目の主語は省略するという
基本によって解釈しています。

また、「中弭」(なかはず)は弓にはあり得ないので、那珂町の「那珂で作った弓」と
氏は解釈されていますが、私は弩(ど)ではないかと考えました。

弩なら中央に引き金(板機)があって、音がするからです。
倭国の天子が持つ物として弩はふさわしい武器です。

狩に出立する前に、照準を合わせたり、矢をつがえたり、はずしたりと、
撫でさするように愛器をいとおしむようすが思い起こされます。

また、狩を終えて馬から降りてから愛器をステッキ代わりにして立つ姿が
「い倚(よ)り立たしし」ではないかと思いました。

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こんな感じです。
朝はまだ冑をかぶっていませんが、
狩を終えた時は冑をかぶったままにして描いてみました。
(古墳時代の鎧冑を着せたので、時代が変かな。
靴も古墳に描かれる、とんがりブーツです。)
雰囲気が伝わればと未熟なりに頑張りました。(汗)
(時代考証の参考資料があれば教えて下さい。)

つくづく思うのですが、
美豆良って、冑をかぶるのに必要な髪型なんですね。
(長髪を後ろに束ねても邪魔になるし、韓国のように頭頂でまとめるとかぶれない。)
ズボンを絞るのは馬に乗るためだな。
埴輪に見られる髪型や装束は武人にとって合理的な姿です。

以上、私なりの「中皇命」でした。

そして、反歌を読んでびっくり。
たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深野

「たまきはる 内」。
これは以前、訳する時に、ずいぶん考えた枕詞だったのです。
あの人の時ですよ。ほら、あの人。

(つづく)









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by lunabura | 2012-09-15 00:16 | ウチ考 | Trackback | Comments(6)
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