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カテゴリ:太陽祭祀線 覚え書き( 6 )

「とひ」と「かひ」(2)纒向遺跡の場合


「とひ」と「かひ」(2)

纒向遺跡の場合


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(復元想像図 『邪馬台国 九州と近畿』より)

纒向遺跡に大型建物があった痕跡を示す柱穴があり、その中心線が東西を向いているという話があるので、
今回はその中心軸を確認してみたいと思います。

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図を見ると、東西線が右肩上がりでした。
春分秋分ラインは完全に東西でなくてはならないので、
この纒向の建物群の中心線は春分秋分の太陽祭祀線ではないことになります。
意外でした。
やはり自分の目で確かめないといけませんね。
この斜めのラインは夏至冬至の角度でもありません。

う~ん。
この傾きは「日拝塚古墳」と似ているな~。

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と思って日拝塚古墳を見ると、こちらの傾斜は意外に小さいですね。
纒向遺跡の方が傾斜が大きいのが分かりました。

次は西日本新聞の記事です。(2011.4.28)

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左下の図をみてください。
日拝塚古墳の東西線が右肩上がりなのは地殻変動によるズレかもしれないと思ったので、
纒向遺跡もその可能性があるかなと思って新聞の図を見ると、
四棟の建物のさらに東側に柱列があって、それが南北をきちんと意識しています。
ということは、このラインは地殻変動によるズレでもなく、太陽祭祀線でもないと思われます。

太陽祭祀線でなければ何でしょうか。
ラインの延長上に山の頂でもあれば山から気脈を引いたと解釈できるけど、
これは現地の人に観察をお願いするしかありません。

星かもしれない
もし山でもなく、やはり天体を意識したのではないかとこだわると、
あとは星の信仰の可能性が残っています。
一年の特定の日に東から姿を見せる守護星があったのでしょうか。

例えば、エジプトではシリウスの星の出がナイルの洪水を知らせるというように、
何かの星のイベントがあって、それを祀ったのかも知れません。

真鍋大覚は、「天皇は太陽を祭祀して、皇后は星を祭祀した」と伝えています。
香椎宮の場合、その星はスピカでした。

ベガという星があります。織姫星のことです。
古名で榧星(かやのほし)と呼んでいたそうです。
「カヤ」。

「カヤ」について「韓人倭人は織女を祈る天壇を伽耶と唱えた」と真鍋は伝えています。
                             (『儺の国の星』p158)

「伽耶」というのは朝鮮半島の南部の古代の国の名と思っていましたが、
「ベガを祀る天壇」もまた「伽耶」と呼んでいたというのです。
ベガはかつては北極星だった時代があるんですよね。
ざっと1万2000年前のことです。
今の北極星より強烈な光を発していました。
ベガが北極星の座を譲っても、その信仰は残ったかもしれません。

一方、神功皇后は背振山頂で双子座のカストルとポルックスを祀りました。
http://lunabura.exblog.jp/18632955/

このようなケースがあることから、何らかの星信仰を考えてもよいのかも知れません。
年に一回~数回、特定の日に、ま東より北にずれた方角から昇ってくる星。
1700年ほど前の星。
丹念にステラナビゲータなどを見て行けば分かるかもしれませんね。

「とひ」か「かひ」か、という点では現在の出土だけで判断すると、
槇向の人たちは「どちらでもない」ということになります。
でも南北の柱列があるのですから、その先に東西線が見つかるかも知れません。
もし別の建物が出てきたら、また推理を楽しみましょう。


ところで、槇向に景行天皇の伝承があり、都があったとしたら、
東征した神功皇后は最初にこの宮殿を目指したかもしれないな~。

亡き夫君・仲哀天皇の祖父の宮なのですから、縁故を頼るとしたらここしかないでしょう。
まずは祖先たちを祀るのが彼女のやり方ですから。
そう考えると、纒向遺跡の楽しみが新たに加わりました。
神功皇后はそののち、吉方を選んで稚桜宮に遷宮したのかもしれませんね。


※「かひ」とは夏至を元旦とする氏族であり、「とひ」とは冬至を元旦とする氏族です。


「とひ」と「かひ」(1) 吉野ヶ里は「かひ」族
http://lunabura.exblog.jp/20267331/

で説明しています。






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by lunabura | 2013-05-27 21:18 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(14)

「とひ」と「かひ」(1)・吉野ヶ里は「かひ」族


「とひ」と「かひ」(1)

吉野ヶ里は「かひ」族

久し振りに古代祭祀線のお話です。
各地から流入した渡来人たちが日本で融合していくなかで、
それぞれのルーツを辿るのに、神社の祭神は大きな指標になりますが、
祭祀線もまた指標になると思っています。

元旦をいつにする?
現在の日本は冬至から一週間ほどして、ですかね。
太陽や月のイベントはあまり関係ないみたい。
旧暦だったら、朔月つまり新月が目安だから、月の観測がメインですね。

インドネシア辺りでは今でも各民族ごとに暦が違うので、
何十というカレンダーがあるとラジオで聞いたけど、
古代日本もそんな感じだろうなと思っています。

で、いつもお世話になっている真鍋大覚の本に、
「かひ」と「とひ」の二つの氏族がいたということが書かれていたので、
今回はそれで吉野ヶ里遺跡を調べたいと思います。
(『儺の国の星・拾遺』p245)

昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元旦とする氏族であり、「とひ」とは冬至を元旦とする氏族であった。

春秋の世は朔旦冬至をもって暦を正し、この儀式は日本においても明治3(1870)年まで宮中で受け継がれてきた。しかし望旦夏至は、舒明帝(631)あたりまでは何とか維持されていたものとみえるが、敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、万邦世界に普遍な暦法も必要になってくるところから、次第に両方併用の時代に移り変わってきた。
「かひ」と「とひ」。
「かひ」族は夏至が元旦となるので、東の空を観察して、
一番北から朝日が昇る日からカレンダーが始まります。蒸し暑い季節ですね。

「とひ」族は冬至が元旦になるので、一番南から朝日が昇る日がカレンダーの始まりとなります。
真冬の観測になります。

日本では「朔旦冬至」が元旦だったということなので、
冬至の寒い季節、新月が昇る日を観測していたことになります。
新月の月の出と日の出は同じ時間ごろなので、
夜明け前、雪が降るような季節に三日月より細い月が昇るのですから、
凍りつくような光景が目に浮かびます。

しかし、舒明天皇のころまでは「望旦夏至」が維持されていたということです。
「望」は満月、「旦」は朝だから、夏至の頃の満月の朝が一年の始まりになります。
一晩中夜空を旅する満月が西に沈むとき、
振り返ると東から朝日が昇るのを観測したということになりますね。
梅雨どきだから、なかなか観測しづらかったと思います。

満月と朝日の間に立つ、何とも美しき宇宙の計らいの時。
私も二度ほどその時を経験したのですが、心が壮大になった記憶があります。

ひんがしの 野にかぎろいの 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ
(東の野に曙の光が薄紫の光をすっと立てた。
振り返ると、一晩中煌々と照らしていた満月が沈もうとしている。)

この歌はそんな満月の入りと日の出の時をうたったものなんですね。

あれ、そういえば今夜は満月?
日の出は5:12
月の入りは5:02
だね。

で、今日調べたいのは吉野ヶ里遺跡。

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このロケットを斜めにしたような超現代的なデザインの外周を見ていると、前方後円墳を思い出してしまう。

ロケットの先端が祭祀方向かと思いきや、こちらは「冬至日没」
ロケットの足元の方が「夏至の日の出」

(この赤いラインが正しいかどうかは、あるプラネタリウムに行って確認済み。)

吉野ヶ里族は夏至の日の出を観測しているので、「かひ」族としていいのかな。

さて、真鍋大覚の続き。
かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。皇極帝4(645)年はまさに暦法の賛否を巡って中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあったことを心がけなければならない。

「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが今はない。所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。

月に女人を事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。


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これは以前に作った地図。

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これも、真鍋伝承を描いたもの。
『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(へぐり)は、かつての平群氏の故郷であった。
p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。

平群氏は「かひ」族。曽我氏は「とひ族」
吉野ヶ里は「かひ」族。そして吉野ヶ里遺跡は平群の南にある。

そういえば、糸島の宇美八幡宮は平群のツクの末裔だったな…。
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔だった。
どっちも竹内宿禰の子。

何かつながらないかな~。

満月の夜は妄想もぼんやり。




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by lunabura | 2013-05-25 21:11 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(0)

アイルランドのニューグレンジ・5000年前の冬至の祭祀線


ニューグレンジ
アイルランド
5000年前の冬至の朝日が射し込む遺跡


忘年会のシーズンになると、仕事を終えて外に出るとすでに真っ暗。
冬至の12月22日まで、日暮れはだんだん早くなる。
日本でもこんなに日暮れが早い。
アイルランドになると、日暮はもっと早いし、朝日はいったい何時に出るのだろうか。

私がスコットランドを訪れたのは二回とも6月だったので、逆に一晩中明るかった。
300年ぐらい前のホテルの軒先では、
若い女の子たちが一晩中ハイテンションでたむろしていた。

窓から見える羊たちも、夜中でも普通に起きていた。いつ寝るのだろうか。
これが真冬の暗いシーズンに、羊たちはどうしているのだろうか、
日本からは想像できない北の暮らし。

北の国、アイルランドのニューグレンジは冬至の朝日が差し込むように出来ているという。
いつの時代って?
それが5000年前らしい。
今日もNHKのテレビの画面を見ながら。

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ニューグレンジの塚は直径90m、高さ10m。
白い壁は復元された時に垂直に、コンクリートで固められたものだそうで、
足元に散乱していた石を積み上げて、こんな近代的な形になっているとか。

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1699年にこの石が最初に発見された。渦巻がいくつも描かれている。

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その石の上にぽっかりと空いたルーフボックス。ここから太陽光が射し込む。

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中は17mの通路。ルーフボックスがやや上部にあるのも、計算されている証し。

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光が射し込んだ時の実際の映像?

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光が奥まで届いたとき、右の部屋が光る、という話だったと記憶するけど…。

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これがその右の部屋。テーブル石が鏡のように光っている。

私の記憶が正しいとしたら、これはすごい仕掛け。
目で冬至の朝の瞬間が確認できるんだ。

現在は日の出から4分後に日光が射し込むそうで、歳差に基づいて計算すると、
5000年前は日の出と同時に差し込んでいたという。
たった4分しか違わないとすると、かえって驚き。

日本の平原遺跡では日の出が1800年間で一か月近くの差になっている。
やはり九州島の回転など、多くの要因を調べないと、正しい歳差は出ないのかな。

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これは外壁の一部。全体がカレンダーを表しているという説が紹介されていた。
渦の下の斜め格子を見たら、日本の装飾古墳の壁画を思い出しちゃった。

日本で発見されるペトログリフについては、
シュメールの神官とケルトの船乗りたちが一緒にやって来たという説が主流だけど、
ダーナ神族の存在を知ってから、
ダーナ神族とケルト族が日本にやって来た可能性はないかなと考えるようになった。






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by lunabura | 2012-12-07 22:21 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(2)

ケルトでなくダーナ神族だった


ケルト恋しのスイッチが再び入ったのは
先週、久し振りに聞いたエンヤのウオーターマークがきっかけみたい。

これに砥上山観音塚古墳の壁画のシンクロニシティーが絡んで、
ニューグレンジの事まで書かないと、気が治まらない。

宇土半島の阿蘇ピンク石のレポートの途中で浮気しているみたいだけど、
この古代祭祀線を押さえる事が、
宇土半島の磐座巨石群を理解するための予習になっている事に気が付いた。

ケルト恋しという思いは、かつて「ガイアシンフォニー」という
自主上映映画で聞いたエンヤの美しい声の響きに触発されてから。

「天河神社の五十鈴」と「ケルトの渦」と「タッシリアの渦のペトログリフ」が繋がって、
「ケルトの十字架」と「ホピ族の丸に十字のシンボル」が繋がり、
「押戸石山のストーンサークル」で見た「ケルトの四方拝」と「ホピ族の四方拝」が繋がった。

宝珠山の民家で見かけた力石はバスク地方のケルト人たちと同じ風習。
宝珠山の山上で発見されたペトログリフはオガム文字。

そして、ケルト人と思っていたのは、ダーナ神族の事だった。

その神話に「常若の国」という言葉があり、出土した儀式用の石斧を見て、
日本神話と同じキーワードがあるのを知って、「????」と思ったら、
ダーナ神族の神話と日本神話の共通性を論じる人がいる事が分かった。

前回のロッホクルーの石室はどうして日本の横穴古墳と極似しているのだろう。
4500年の差は何を意味するのだろう。

時間が掛かるけど、これまでの体験を発信しながら、
みなさんと共有して行きたいと思っています。

昨日は昨日で、ヤマトタケルの神社のシンクロニシティーが起こりました。
神功皇后から見たら義父にあたるんですね。
福岡でのヤマトタケルの動き。
これもまた、いつかまとめて行きたいテーマです。





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by lunabura | 2012-12-01 09:56 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(0)

アイルランドのロッホクルー ・奥壁に描かれた太陽光の足跡


ロッホクルー

アイルランド
奥壁に描かれた太陽光の足跡 

前回の砥上観音塚古墳の中の*や◎のマークを見て、思い出したのが、
テレビで放送されたアイルランドのマウンドの中の装飾壁画。

2010年の9月のNHKの放送を見ながら撮影したもので、
タイトルも説明も記憶にないのですが、百聞は一見にしかず。
見てみましょう。

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イギリス北部にはレイラインがあって、その線上にあるのがこのロッホクルーの遺跡。

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まるで天井石が無くなった古墳そっくりのもの。

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その向こうにマウンドが。積石塚と見まがう。
マウンドの右端に二人が立っていますが、そこに入口らしき突起。

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羨道に当たる部分はすでに線刻画。

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ライトアップされた奥壁。右にある丸に花のようなマークが太陽のしるし。
それが複数ある。

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上部の太陽のペトログリフに光が当たっていくようす。
周囲のばらばらの線刻画は、山口県の彦島のペトログリフと似てない!?

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「すべて太陽のしるしをなぞっていくんですか?」
「そうです。」

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右下の太陽のしるしにも当たった。
(しかし、どうして光がスポットのように当たるのかは不明。
懐中電灯を当てただけかもしれない…。)

c0222861_2175933.jpg

これは奥の部屋から外を見た様子かな…。
小口の積石が見えます。
これって、日本の古墳と比べてどうなんだろう。

筑後国造さん、蕨手さんは沢山の古墳を見ているから、どんな印象かな。

砥上観音塚古墳の壁画を見て、こんな番組があったのを思い出しました。
さて、砥上観音塚古墳のマークに太陽光は当たるのかな?

砥上観音塚古墳の壁画はコチラ 
「山歩き古墳巡り」
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-423.html#more

追記
ロッホクルーは紀元前4000年、ダーナ神族の遺跡。
春分と秋分の朝日が最奥の奥壁まで届くという。






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by lunabura | 2012-11-28 21:12 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(2)

太陽祭祀線 覚え書き


ずっとブログ更新が御無沙汰ですが、訪問して下さっている皆様ありがとうございます。

ガイドブックの読者層のターゲットを変えたので、全面的に書き換えています。
大変ですが、あらたに気づく事が多くて、勉強になっています。

今回は私のブログの弱点(・.・;)である「山の上の神社や古墳」をレポートされている
筑後国造さんの、「砥上観音塚古墳」でのアイデアに触発されて
思い出話をつらつらと。

「山歩き古墳巡り」
砥上観音塚古墳
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-423.html#more

これは神功皇后が羽白熊鷲攻撃の前に登った山と言われていている砥上山にある
装飾古墳です。
ちょうど西日が古墳の奥に入り込んで来た時、
中の太陽か星を表している*や◎のマークの上に
夏至や春分の日に、太陽光線が当たるような仕組みになっているのではないかと
ひらめいたという事です。

このように*や◎のマークが、正面でなく、ずれた位置に描いてあるという点で
アイルランドの遺跡がまさしくそっくりなんです。
太陽光線が移動しながらそのマークをなぞって行く。
そんなテレビ番組があったので、見た方も多いと思います。
(例の如く、名前も忘れてすんまっせん)

私はスコットランドの方に行ったのですが、
円墳そっくりのマウンド中に入ったことがあります。
中は竹原古墳のようにドーム型になっていました。
そして、やはり夏至か冬至の光が差し込むように設計されていました。

スコットランドは緯度が高いので、夏は夜中の10時過ぎでも明るいのですが、
逆に冬は早くから日が暮れるので、冬至の日の到来を心待ちにしたようです。

遺跡に太陽観測の仕掛けをしたものがざらにありました。
ストーンヘンジもまた夏至に関わるものでした。
(石のサークルと木のサークルのツインサークルだと放送されていました。)

実は日本でもそのような仕掛けのある神社があります。
一つは大分県の八所神社(?これもまた名前を覚えていない…)でしたか、
洞窟の神社を探し廻って三つ目の神社。
そこに辿りついて中に入った時、入り日がすうっと差し込んで、奥壁を照らしました。
その日は春分の日でした。

また、福岡県の宝珠山の神社。
岸壁に彫り込まれた穴。それは「大日社」と書かれていたと思います。
そこに立つと東に三角形の山が見えました。
春分の日はきっとその左から太陽が昇るだろうと思われる地形でした。
古代の太陽祭祀の遺跡に仏教が入っ来て大日如来を祀る事になったのだろうと
話し合ったものです。

吉野ヶ里遺跡があれほど綿密な夏至冬至ラインを祭祀する仕組みを作っていたのは
私にとってはかなりの衝撃でした。
そして、その夏至ラインを観測しようとすると、日本では梅雨に引っ掛かって、
なかなか出来ないのです。
これは日本にやって来た夏至族(と勝手に呼んでますが)の不幸でした。

纒向遺跡を祭祀した人たちは春分ラインを祭祀しているので、全く別民族です。

砥上観音塚古墳の記事を見て、そんな事を思い出しました。

今回は備忘の為に書きましたが、いずれはこれらを紹介したいと思います。

さて、御心配のマカフィーは上手くいってます。
最初は一ページ開くのに7秒から2分ほどかかってましたが、今は数秒で開きます。
(これが重いという現象なんですね。)








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by lunabura | 2012-11-27 23:11 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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