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カテゴリ:船原古墳・古賀市( 7 )

船原古墳の被葬者は筑紫君磐井・葛子の一族か


船原古墳の被葬者は
筑紫君磐井・葛子の一族か


古賀市谷山で発見された前方後円墳の側の埋納坑。
そこに埋められていたのは馬具だけでも六領。
一領の一部だけ、新羅のデザインが見られますが、新羅製かどうかは不明。
その他は倭国製だろうとのことです。


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馬具の一部は土の表面に姿を見せた時から黄金のきらめきを発していました。

この「船原古墳」は6世紀末~7世紀初めに造られたといいます。
埋納されていた国宝級の宝物の数々は誰のために奉納されたのでしょうか。

今回はその被葬者像に迫ってみようと思います。
その手掛かりの一つとして、同時代、同じ古賀市美(み)明(あけ)にあった屯倉(みやけ)「鹿部(ししぶ)田淵(たぶち)遺跡」の存在が挙げられます。

この遺跡の重要性は6世紀前半に起こった「磐井の乱」(527年)が関わってきます。

継体天皇に新羅攻撃を命ぜられた筑紫君磐井はなかなか出兵しませんでした。
継体天皇は朝鮮半島からの貢物を横取りしているという言いがかりも付けています。

磐井君は継体天皇の派遣軍と戦ったのですが滅ぼされ、その子・葛子君は連座を恐れて「糟屋の屯倉(みやけ)」を差し出しています。その候補地とされるのが「鹿部田淵遺跡」です。

この遺跡と船原古墳は花鶴川~谷山川という一つの水路で結ばれています。船原古墳の被葬者はこの屯倉の経営に深く関わっていたと考えられます。





被葬者の生きた時代はどんな時代でしょうか。


この時代は朝鮮半島では新羅(しらぎ)が拡大していて、任那(みまな)が滅び、百済(くだら)も危うい状況にありました。百済は何度も筑紫勢に援助を頼んでいます。



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葛子君の子・鞍(くら)橋(じ)君(鞍手郡)が百済王子・余昌と共に戦って王子を助けてもいます。福津の宮地嶽では同じく葛子君の子である勝村(かつむら)・勝頼(かつより)が活躍していました。

古賀市美明の屯倉にはおそらく武器が格納され、この戦いに貢献したと思われます。




一方、被葬者の祭祀環境も手掛かりとなります。
古代より、氏族は自分たちの氏神を祀っていたからです。

被葬者はどこで神祭りをしていたでしょうか。すぐ近くにあるはずです。

船原古墳は舌(ぜつ)状丘陵地帯の突端に築造され、その奥に鎮座する小山田斎宮を守るかのようにみえます。距離はわずか500m。

この古賀市小山田の斎宮(いつきのみや)の始まりは西暦200年。
仲哀(ちゅうあい)天皇と神(じん)功(ぐう)皇后の時代に遡ります。




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仲哀天皇は香椎宮で天下を治め、同市の皇(おう)石(いし)神社の鎮座する鹿部(ししぶ)山から船の軍事訓練を眺めたといいます。

その船はすぐ近くの安曇(あづみ)族の船です。ここは古代の阿(あ)曇(づみ)郷と考えられます。

しかし、天皇は突然崩御しました。神功皇后はその死の原因を知るために小山田に行って神々に尋ねたと『日本書紀』は語ります。

誰が土地勘の無い皇后を小山田まで導いたのでしょうか。

皇后は見知らぬ土地に導かれる時、その人物に全幅の信頼を寄せていたはずです。
その人物はやはり当地の安曇族だと思われます。
その境内には志賀三神も祀られています。綿津見の神ですね。

その末裔が船原古墳に眠ると考えるのが自然です。



安曇族は初代天皇の神武(じんむ)天皇の祖でもあります。その末裔でもある神功皇后が安曇族の船に乗って新羅を討ったのが、いわゆる三韓征伐です。

しかし、戦勝後も新羅との軋轢(あつれき)は400年続き、倭(わ)国は百済と共に新羅と戦うことになりました。

ただ、聖徳太子の派遣した征新羅大将の来目皇子は糸島で亡くなっています。それが603年のことです。船原古墳の被葬者もこの前後に亡くなっていると思われます。

船原古墳の被葬者はこの戦いに貢献していたと思われます。

被葬者が亡くなったあと、各地から宝物が届けられたと思われますが、すでに古墳の入り口が封じられていたために、そばに丁寧に埋葬されたと考えています。

以上から、船原古墳の被葬者は安曇族の一員で、その副葬品のレベルの高さからは磐井・葛子君の一族の可能性が高いと思われます。 




参考 『神功皇后伝承を歩く』掲載神社
24番 香椎宮
25番 皇石神社
36番小山田斎宮

下巻
69番 宮地嶽神社
71番 志賀海神社
72番 志式神社






赤 船原古墳   青 小山田斎宮




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by lunabura | 2015-10-15 20:06 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)

船原古墳(5)同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?


船原古墳(5)

同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?
両古墳は同族だった?

11月1日の新聞に、船原古墳の埋納坑から出土した遺物のCTスキャン写真が掲載されました。
次は、その西日本新聞記事です。

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蛇行鉄器が3本も埋納されていたのは、オドロキ。
蛇行鉄器とは馬の鞍の後ろにつけて、旗を挿すもので、
自分の所属する部隊や、氏族などを明らかにするものでしょうから、
武人にとっては格別な意味を持つものと思われます。

それが、3本 (+_+)  多い!
るな的には、金メッキの馬具より、そちらが気になってしかたがないよ。


豪族とは安曇族である
さて、新聞記事の中で西谷正氏は被葬者に関して
「この地域の有力者・宗像氏と並ぶ豪族」と指摘されています。

この地域の豪族って言ったら、安曇族ですよね。
新宮あたりを中心に、阿曇郷があったほどですし…。

Q その安曇族と宗像氏の関係は?
A 両族は共存共栄していました。

その証しとして、荒雄の遭難事件が今でも志賀島では語り継がれています。

荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出て立ち 待てど来まさじ 
ほか九首                           <山上憶良>
(略)
荒雄の遭難事件は、官から対馬向けの食糧の運搬を請負った宗像部津麿が老齢を理由に志賀村の荒雄に交替を頼んだことに端を発する。荒雄は現在の長崎の五島から対馬に向け出航したのであるが、途中嵐にあって遭難、帰らぬ人となったのである。
http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/fukuoka_ka21.htmlより


荒雄は宗像族の代わりに対馬に向かって遭難したのですが、
安曇族と宗像族の関係がよく分かる資料です。
この話が山上憶良によって十首も歌われています。


糟屋の屯倉を統括していたのは葛子である
新聞記事に戻りますが、桃崎祐輔氏は
「糟屋屯倉の統括者の子孫ではないか」と推察されています。

糟屋屯倉を差し出して命乞いしたのは葛子です。
だから、統括者とはもともと磐井の君であり、子孫とは葛子かその一族のことです。
直接名前を言うのは、はばかられたのかな?

葛子は磐井の君の子ですが、葛子自身は糟屋郡の長者原で
「葛子長者」として語り継がれています。
その近くにも屯倉跡があるという話ですから、屯倉が統合される前には、
各地の便利な所に屯倉があったのでしょう。

磐井の敗北 528年 6世紀前半
船原古墳 6世紀後半~7世紀初め

時代的には桃崎氏の指摘のように、磐井の子孫の時代にあたりますね。

葛子は殺されずにすんだので、葛子の一族が
この地方をそのまま安堵されていた可能性は高いです。

宮地嶽神社では「葛子は安曇族だ」と伝えています。
ということは西谷氏と桃崎氏の指摘を組み合わせたものになります。
考古学的な観察と、神社伝承が一致したと言えるのではないでしょうか。


ところで、葛子は屯倉を献上したくらいで、何故殺されなかったのでしょうか。
屯倉には重要な物資が保管されていたのでしょうが、
武装解除を意味していたのだろうと考えていました。

しかし、葛子の子に関わる宮地嶽神社の北部の津屋崎を探査しているうちに、
ここは「塩、鉄、馬」という国の根幹を支える物資の生産地だと分かりました。
良港があって、異国からは珍しい文物や薬がダイレクトに入って来ていました。

葛子を殺したらどうなるでしょうか。
これらの物資を生産、管理する氏族の長を失わせれば、
物資そのものも手に入らなくなる可能性が出て来ます。
首長とは氏族の長なので、長の首をすげかえて治まるような時代ではなかったはずです。

一方、葛子長者の粕屋町の方は奴国の弥生銀座の近くにあって、
鉄や銅やガラス製品を作っていたハイテクランドでした。もちろん稲作も盛ん。
葛子は武器や装飾品などもまた掌握していたのです。

ヲホド王(継体天皇)が磐井の一族を滅ぼしてしまうと、安曇族の船運も失い、
経済活動や船での戦いも出来なくなります。
これでは磐井の一族を壊滅させる訳にはいきませんね。

「屯倉を献上する」ということは、武装解除と共に、
筑紫で生産された物を大量に継続的に朝貢することを意味していたのだろうと最近では考えています。


葛子の子「勝村・勝頼」
葛子の話に戻りますが、その子「勝村・勝頼」が宮地嶽古墳に埋葬されていると
伝えているのが、宮地嶽神社です。

その北部は先述のように、塩や鉄や馬の一大生産地でした。
ここには大国主命(大己貴命)や少彦名命信仰が広く分布していました。
蛇足ですが、元出雲だったのではないかと、最近のるなは考えています。

磐井の君はその姫と通婚して、平和裏に支配地を広げたのではないか。
そこで生まれたのが磐井の三兄弟「大名麻呂、須多田麻呂、津丸磐麻呂」だろうと考えました。
磐井の君はこの三兄弟を宮地嶽神社を守るように南北に配置しています。

磐井の君は、他に粕屋郡の豪族の姫を娶って葛子が生まれた。
葛子は宮地岳の麓に住む谷殿を娶って勝村・勝頼が生まれたと考えています。


このように宮地嶽古墳の周囲は磐井や葛子の子孫の伝承が濃厚に残っていたのです。
葛子亡きあとは、九州王朝の中心は宮地嶽神社一帯に移ったのでしょう。
だから、宮地嶽神社は「三階松」なのだと考えています。

さて、
同じものが宮地嶽古墳に奉納されていた?
これが今日の記事のサブタイトルです。
新聞に載っていなかったので、アレ?と思ったのですが、
船原古墳から出土した漆塗りの馬具は宮地嶽古墳と同じものだった、
古賀市から神社に連絡があったと聞きました。

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(宮地嶽古墳出土品)

だから、その写真が出るだろうと期待していたのです。(わくわく)

全く同じものなのか、同じタイプなのか、それを知りたかったのですが…。
載っていなくて残念。
(きっと近々比較研究の結果は発表されるでしょう)

全く同じものだとすると、るなの仮説はこうです。

船原古墳 6世紀末~7世紀初頭 被葬者は安曇族だが、葛子の直系かどうかは不明
宮地嶽古墳 7世紀前半 被葬者は安曇族で葛子の子

葛子の二兄弟、勝村・勝頼が亡くなった時に、宮地嶽古墳には多くの文物が各地から献上された。
同時に同じものが船原古墳の被葬者にも届けられたが、すでに封土されていたので、
その近くに穴を掘って埋納した。

そんな感じです。^^

話が入り組んでいて、説明が難しかったです。
文章修業、まだまだです。^^






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by lunabura | 2013-11-06 21:24 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(0)

船原古墳群の周辺散歩ガイド


船原古墳群の周辺散歩ガイド


金銅製の馬具が一式発見された船原3号墳がこれから更に掘り下げられて、
出土物がクリーニングされたら、
きっともう一度現物を直接見学する事ができるでしょう。
その日が楽しみです。

これまでブログに書いた現地説明会から
被葬者の生活エリアにある神社までをまとめました。
周辺散策に利用して下さい。
遠方の方はブログ内散歩をどうぞ。



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船原古墳(1)金メッキの馬具一式が発見された 
その環境 小山田斎宮と愛鷹神社が近い
http://lunabura.exblog.jp/19872796/

船原古墳(2)現地説明会に行って来ました
http://lunabura.exblog.jp/19876646/

船原古墳(3)被葬者の生きた時代
http://lunabura.exblog.jp/19882667/

船原古墳(4)「ふなばる」を考えた
http://lunabura.exblog.jp/19898556/




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小山田斎宮(3)古宮を捜して
http://lunabura.exblog.jp/19970549/

小山田斎宮(1) オキナガタラシ姫の神懸かりの地を探して
http://lunabura.exblog.jp/12788885/

小山田斎宮(2) オキナガタラシ姫の神懸かりの地を探して
http://lunabura.exblog.jp/12810991/




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八幡宮 船原古墳のすぐ近くの宮・磐井の乱を見たのか
http://lunabura.exblog.jp/20001942/




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愛鷹神社 豊玉姫は山幸彦とウガヤフキアエズと共に
http://lunabura.exblog.jp/20118654/





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地図 古賀市谷山




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by lunabura | 2013-05-12 21:49 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(6)

船原古墳(4)「ふなばる」を考えた


船原古墳(4)

 「ふなばる」を考えた


古墳の名前「ふなばる」がどういう経緯で付けられたのかは分かりませんが、
「ふね」「ふな」について、今回は考察したいと思います。

「船原」の字で最初に連想したのは、
「船が泊まるような湊でもあった」のかなという事でした。

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地形を見ると古墳時代に海が迫っていたとは思えませんね。

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これは古墳の近くの川。
この上流にある愛鷹神社の伝承に「社前に川あり。古賀村にて海に入る」とあるので、
この川を小舟で下って海に出たのでしょうね。
という事で湊説はさっさと棄却。


次に考えたのは、造船でもしていたのだろうかということでした。
でも工房を作るには、もっと海のそばがいいのでは?
和船を作る時、完成したら一度海水に沈没させて、隙間を防ぐと聞いたことがあります。
この場所ではやはり不便ですね。
と言う事でこれもまた却下。

さて、この日、古墳を後にして小山田斎宮に行ったのですが、
その摂社を見てちょっと驚きました。

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本殿の裏に並んでいたのですが、
左から鳴瀧神社、志賀三神社、菅原神社、猿田彦神社があったのです。

鳴滝神社は山の上にあるものを合祀したとのことですが、
志賀三神という綿津見の三神が祀られている事から、
この小山田斎宮を守っているは、安曇族と関連した人たちなのだろうかと
ちょっと思ったのです。

そして、菅原神と言えば、冶金の神です。(サイドバー 出目袴着八幡神社)
次に猿田彦の神は道案内の神ですが、
冶金の関係では「猿」を祀るという話を思い出しました。


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それから古賀市歴史資料館で貰った地図を広げていると、
東の谷の薬王寺の裏に銅山と書いてあるのを見つけました。

その南の大目配山には神功皇后が登ったという伝承があります。
そして、ここが愛鷹神社の古宮です。

さらに南に行くと、伊野天照皇大神宮に出てしまうのです。
その途中に遠見岳があります。

伊野天照皇大神宮の方ではこの遠見岳に
神功皇后と仲哀天皇が登ったという伝承があります。

遠見岳と大目配山の距離は2キロほど。
同じ山域に登ったのを西と東でそれぞれに伝えているということになります。
この稜線は現代も歩いて行けるそうです。

伊野天照皇大神宮の社伝の中に
山の上に銅山があって水が汚染された話が載っていました。

そうすると、この山域には銅山があり、
神功皇后の時代から知られていたのではないか。
そんな仮説を立てるようになりました。
さらに、東に行くと犬鳴山です。そこは砂鉄で製鉄をしていました。

銅山や製鉄所に関わる人たちが菅原神や猿田彦の神を祀り、
その運搬などに安曇族が関わったのかも。
と妄想は止まりません。

でも、これと「ふね」と関係ないよなあ。

ちょうどそんな時、牛島さんから荒船神社の所にコメントが入りました。
そう「あらふね神社」。
読み返してみると、「ふね」について延々と書いているではありませんか。
いったい誰がこんなに長々と。
(すっかり忘れていた…。
これからこのブログは「るなの知らなかったあ」から
「るなの忘れとったあ」に変更しなきゃ…)

ということで、同じ記事ですが、再掲します。

(イイボとは蹈鞴の産物のことです。)
『儺の国の星・拾遺』p168 イイボ星 オリオン座 IC 434

陸奥出羽で砂鉄が地下に埋蔵されている地帯を船山(ふなやま)と言い、これを採掘する長者を船木という。

古事記神武紀には神八伊耳命(かむやいみみのみこと)の子孫に、陸奥(みちのく)の石城(いわき)の国造(くにのみやつこ)、伊勢の船木直(ふなきあたえ)の名がみえる。

「ふね」とは斧土(ふなつち)の略で、褐鉄鉱リモナイト(2Fe2O3・3H2O)の風化地層である。「き」とは技術者の古称であった。造る人と掘る人では別の氏族になっていた。

昔は「ふつぬち」といった。なお燃料になる亜炭泥炭を「ふるまき」といった。

陸奥北、下野結城(ゆうき)に「古間木」の名がみえる。「まき」とは薪木即ち燃料で、昔は「もえぎ」といった。わずかな火で長い時間をかけて、酸化鉄の粉末を還元するには最良の炭となった。

「ふる」とは星の古語で流星隕石のごとく、天から降る意に流用されている。隕石には年輪のごとき層を重ねた組織が多い。これが地に落ちて古間木(ふるまき)即ち石炭(いしずみ)を作ったものと祖先は信じていた。

「ふつぬち」とは神代紀には
  次に木の神名は久久能智神(くくのち)を生みたまひき。

即ち「くくぬち」であり、中世あたりから櫟(くぬぎ)、即ち窯の薪木の名となったが、筑紫では歴木(ふみき)とも書いて年輪が識別できる石炭の意に通ってきた。「櫟」の右のつくりの「楽」は銘(らく)、即ち熔鉄のことであった。

タクロを三河で設楽(しだら)という。いかにも銘を作る施設をよく表現している。戦国(1467~1568)の世に南蛮渡りの鉄砲が武器としての勢力をのばしたところは尾張春日井小牧があった。

ここも昔は流木が野原の下に埋没していた所であった。「ふるぬち」とは隕石が風化分解した赤土であった。


福岡県の南の大牟田市に「歴木」という地名があって「くぬぎ」と読みます。
この大牟田市はかつて炭坑で賑わった街なので、
この地名が「石炭」に由来するというのは大変納得です。

今回必要な情報だけ抜き出すと、
「ふね」は葦から生まれた褐鉄鉱(スズ鉄)の風化地層のこと。
「き」は技術者の古称で、「ふなき」とはスズ鉄の採掘長者をさす。
「まき」とは流木が積み重なって風化して野となった所で、
その薪はタタラ製鉄に最良のマキとなった。

最近の水害では倒木が川をふさいで氾濫するケースを目の当たりにします。
そこに土砂が流れ込んで平地を形成すると、倒木が良い燃料に変化する訳です。

山の中で出くわす思いがけない平地には、こんな成り立ちの野もあるのでしょう。
馬を放牧する平地を「牧場」というのも語源は同じなのかもしれません。

「ふね」は古くは「ふなつち」「ふつぬち」とも言った。
________________________________________


以上、一部ですが、自分でもよう調べたなあと…。
(うん、だからこうして日記に書いとかないと忘れるんじゃわい)
(ベンガラはFe2O3)

安曇族についてもこの時触れていて、
この「ふね」を求めて長野に行ったのではないかと仮説を立てているのですが、
長野の安曇では安曇族が土木工事をして現代の礎になって感謝しているといった話が
志賀島の冊子に載っていました。

さて、現場に戻りましょう。
この地形から、かつては広大な葦原があったのかも知れないなと思いました。
それが「ふな原」。
そしてこの船原古墳の被葬者は銅山や葦の製鉄で財力を蓄えていた。
その財力で新羅攻撃の為の軍事援助をしたので、
亡くなったあと、その功績を讃えて最高級の馬具が贈られた。
古墳の蓋をしてしまったあとなので、手前に追葬した。

今日の妄想はこんな感じです。

でも、来目皇子のように客死した人の可能性もあるな
とも思ったりするのでした。

全体が掘り上げられたら、また推理を楽しみましょ。






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by lunabura | 2013-04-25 22:19 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(13)

船原古墳(3)被葬者の生きた時代


船原古墳(3)

被葬者の生きた時代

さて、この古墳の成立時代について現地説明会では聖徳太子の名前が出たけど、
その前か後か忘れちゃった…。(-_-;)

西日本新聞には馬具の時代が「6世紀末~7世紀初め」と書いてあるので、
今回はこの時代の筑紫ってどんな時代なのか、復習してみることにしました。
ターゲットは550年から650年の100年間。

まずは右のサイドバーから該当する時代を抜き出します。

552 蘇我稲目vs物部尾輿
562 伽耶諸国が滅亡570 蘇我稲目死去
572 敏達天皇・30代 即位
585 用明天皇・31代 即位
587 崇峻天皇・32代 即位
589 隋興る
592 推古天皇・33代 即位
5×× 手光南古墳 蛇行鉄器
5×× 王塚古墳 装飾古墳 馬具
5×× 竹原古墳 装飾古墳 馬具
5×× 仙道古墳 装飾古墳
--------------------------------------------------------------------
602 来目皇子対新羅で筑紫へ
603 来目皇子死去
603 当麻皇子対新羅で筑紫へ
603 鞍作止利造仏工に任命
603 高句麗建造費を倭に贈る
607 聖徳太子遣隋使を派遣
618 唐興る
621 聖徳太子薨去
623 法隆寺の釈迦三尊像できる
629 舒明天皇・34代 即位
630 遣唐使はじまる
632 新羅・善徳女王 即位
642 皇極天皇・35代 即位
645 中大兄皇子乙巳の変

教科書に出て来るビッグネームがずらり。
日本では天皇が次々に交代。
対外的には加耶が滅亡。
つまり任那を失ったこと。
これは筑紫に大きな影響を与えたことでしょう。

聖徳太子の兄弟の来目皇子や当麻皇子が次々に派遣されたけど
来目皇子は糸島で亡くなり、当麻皇子は妻が亡くなった。

次はウィキペディア。
日本書紀によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。これを回復するための「征討軍」が推古朝に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している。

この戦いはきっと筑紫全体を巻き込んで、
この船山古墳の被葬者もその嵐の中で生きたことでしょう。

次は、小郡市にある「黄泉の道」シリーズの古墳巡りを一人で巡って考えた過去記事の一部です。
五つの古墳の中で、「井の浦一号墳」が同じような時代だったので、再掲します。

(前略)
古墳の資料はこれ以上は無いのですが、「6世紀後半」だというのが分かったので、
その時代の筑紫を調べてみることにしました。

被葬者が500年代の後半に亡くなっているという事から
550年前後~末にここで何が起こったかという事を調べれば、
被葬者が生きた時代が分かる。
という事で、小郡市史を読んでにわか勉強をしました。


被葬者が見た時代とは
朝鮮半島では、6世紀半ば以降、百済・新羅・高句麗による天下取り合戦が激化。
538年、倭人が鉄を運び出していた南加羅が新羅に奪われ、
562年には大伽耶も新羅の保護下に入ってしまう。
日本書紀ではこの事を「新羅は任那の官家を滅ぼした」と書いている。
倭国が任那を失ったことを意味している。

欽明天皇556年、百済の王子・恵(けい)が帰国する時に筑紫の水軍がこれを護衛し、
また別に「筑紫火君」(つくしひのきみ)が勇士1千を率いて護送した。

「筑紫火君」の本拠地は鳥栖市の旧養父郡に推定されている。
その北の基肆郡を物部系国造が統治していたと推定されている。

崇峻天皇は591年、任那の再興を企てて、2万余りの大軍を筑紫に向かわせる。
「大将軍」には紀・巨勢・大伴・葛城の各氏から4人が選ばれた。
この大軍が大和を離れると、翌年に明日香の地で
蘇我馬子・額田部皇女・聖徳太子らにより、祟峻天皇が暗殺される。

新政権は「筑紫将軍所」に内乱のせいで「外事」を怠らぬよう早馬を出す。
祟峻天皇の命で朝鮮半島へ出兵するはずだった大軍は
3年9か月もの間、筑紫に滞在したままだった。

以上、市史から関係がある部分だけをまとめてみました。

被葬者が生きた時代には大きな事件として
556年に「百済王子を護送する。」事と
591年に「新羅攻撃軍が2万余り筑紫に滞在した。」
という事があったのが分かりました。

591年
井の浦古墳の被葬者は591年の2万の大軍を見ることが出来たでしょうか。
微妙ですね~。もう亡くなっていたかも知れませんね。

それにしても2万の大軍とか、どこに駐留させたのだろう。
「筑紫将軍所」って太宰府なんだろうか。
これだけの人数の兵糧をどうやって賄ったんだろう。
(いろいろと謎が生まれます…。)

ちなみに、603年には来目皇子が筑紫の志摩で亡くなってます。
聖徳太子は任那奪回は本気だったんですね。

556年
556年の百済王子の帰国の時には古墳の被葬者はきっと生きていたでしょう。
この時に百済王子を送ったのが、筑紫の水軍と筑紫火君たちです。
「筑紫の水軍」が養成された所として、この筑後地方は有力だったでしょう。
この被葬者も直接関わったかもしれません。

「筑紫火君」は筑紫の君と肥の君が通婚して出来たそうです。
本拠地がすぐ近くの養父郡(鳥栖市)なんですから、
被葬者は筑紫火君の動向を全神経を傾けて見守った事でしょう。

この6世紀後半の筑紫の風景って、
対新羅の緊張がずっと続いていたんですね。
古墳から武具がたくさん出てくるのもうなづけます。
この古墳の被葬者もこの高台から、
広い川の向こうに新羅を見据えていたのかも知れませんね。

今こうして読み直すと、すっかり忘れてた (+_+)
表現が少々変なところもあるけど、まあ良しとしよう。
以上は小郡市の古墳の話です。

古賀市の船原古墳の馬具が「6世紀末~7世紀初め」ということなら、
小郡市の井の浦古墳の被葬者と同時代を生きたのかも知れませんね。

556年に「百済王子を護送する。」に関わったかな、
それとも591年に「新羅攻撃軍が2万余り筑紫に滞在した。」に関わったかな。

2万余りという大部隊ですから、駐屯地はいきなりの人口増加で、
兵糧やら何やらで、筑紫の豪族たちは大変だったことでしょう。
そんな時代に船原古墳の被葬者は生きていた。
亡くなった後に、その功労を讃えられて金銅製の豪華な馬具が贈られた。
(今のところ、追葬ではないかと想像しています)

古墳の中からも金銅製のものが出土しているので、よほど身分がある人なんですね。


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左のブルーシートが掛かったのが船原古墳。右の盛土はただの盛り土。


井の浦古墳はこちら http://lunabura.exblog.jp/16684888/




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by lunabura | 2013-04-23 00:14 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(5)

船原古墳(2)現地説明会に行って来ました


船原古墳(2)
現地説明会

今日は現地説明会に行って来ました。
古墳へ向かう道は平地から緩やかに上って、山並みが近くなったような所、
周囲よりいくらか高台になった所に古墳群はありました。
今回の古墳は3号墳です。

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正面のブルーシートがかかったのが3号墳。
円墳と決定した訳ではなく、前方後円墳の可能性も残っているそうです。
3号墳の入口が正面よりやや左手に白く見えています。
(玄室の中は立つことができるそうです。)


その左下、端にあるネットの下が発見された馬具埋納坑です。
古墳の入り口に対して正面ではなく、左寄りに埋納されていました。



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埋納坑の全体です。縦5.2m。横0.8m。穴の深さは0.7m。
長いですね!
手前にある二つの半円が金銅装鞍です。
半円の右にカップのように見えるのが壺鐙(つぼあぶみ)です。




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90度廻り込みました。
壺鐙が二つ見えています。これは鉄製だそうです。

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さらに180度反対から。
鞍の右側に白く光るのが金銅装辻金具と引手。
光るのは金だから。

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これは鉄製品の塊。小さな鉄板が集中しています。
馬の鎧や甲の可能性が高く、掘り上げが期待されているものです。

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左の盛り上がった部分が鉄の輪あぶみ。 その上に白く丸く見えるのが鈴。
右にあるのは金メッキの辻金具類。

これらの下の方には漆の板があるそうです。

この埋納坑が貴重な理由として、
馬具が一式出ているという点。
金銅製が含まれている点。
古墳の外に埋納された点。
などが挙げられます。これだけでも、素晴らしいのですが、
何よりも、埋納された状態のまま出土したことが私にとってはイチバン!
だって、埋納した人の気持ちが伝わって来るんですもん。

これから全容が明らかになるのが楽しみです。

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振り返ると3号墳が迫っていました。
正面は右の白い土嚢の辺りですから、正中線からはずれています。

この埋納坑からさらに右手にもう一つの穴があって、
鉄の矢じりが出土しました。

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いえいえ、矢じりだけではありませんでした。
竹に矢じりが嵌め込まれて、桜らしき木の皮で巻いてありました。
とても丁寧な仕事です!

古墳の正面近くに矢があって、左に馬具が埋納されたなら、
右手には弓や鎧なんかが埋納されていてもよさそうだなあ。
と欲張ってしまうのでありました。


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これは平成8年に調査した時に、墳丘の所に置かれていたもの。
透かした器台がおしゃれですな。
器の大きさは18センチ程度。現代の食卓に使うサイズと同じです!


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見学を終えて50mほど歩くとこんな綺麗な川縁りに出ました。
向こうの山の左の方に小山田斎宮があって、歩いて7分でした。

この古墳は宮地嶽不動古墳より古いそうです。
古賀市からは他の所で金銅製の頭椎の太刀が出土していますが、
川筋が違うので、その人たちとは別の集団だそうです。
この古墳の被葬者が住んでいそうな集落遺跡は発見されていないそうです。


地図 福岡県古賀市谷山北地区遺跡群





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by lunabura | 2013-04-21 21:08 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)

船原古墳(1)金メッキの馬具一式が発見された・その環境 小山田斎宮と愛鷹神社が近い


船原古墳(1)
金メッキの馬具一式が発見された

その環境 小山田斎宮と愛鷹神社が近い

古賀市谷山で国宝級と言われる金銅製の馬具が出土しました。
これは西日本新聞の記事。

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地名が古賀市谷山ということで、地図を広げると、
あれれ?
小山田斎宮のすぐ近くではないの。
小山田斎宮のある谷と谷山は別の谷だったので、
頭の中では別々にインプットされていた。(+_+)

船原古墳は田んぼの中にあって駐車場がないとの事なので、
車を遠くに止めて歩いて行く方法を探していたら、
なあんだ、小山田斎宮と古墳の間は徒歩で7分。
直線距離では500m。

それなら歩いて土地勘を作ろうとオリジナルの地図を作製。
張り切って出掛けたら、途中で雨が降り出した。
ということで、室内で予習をすることにしました。

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これは世に知られていない小山田斎宮。
『日本書紀』に書かれた「小山田邑の斎宮」が小山田村に現存している。
(ただし、元宮からは少し移動している)

仲哀天皇の崩御後、直ちに
安全が保障された所に斎宮を設けることが出来たということは、
天皇家を支援する豪族がここにいたからに他ならない。

ここには日本書紀に書かれた、香椎宮の古宮で秘密の会議に出た
物部の胆咋(いくひ)や竹内宿禰のような側近のメンバーだけが
一緒に滞在できたと思っている。

ところが、驚く話が田川市に残っていた。
ここで田油津姫が神功皇后を暗殺しようとして失敗したという。
(サイドバー 若八幡神社 田川市)

大変なミステリーだけど、この狭い宮所から考えると、
田油津姫は神功皇后の傍にいて問題ない関係にあったことになる。
神夏磯姫の末裔はこの時点までは信頼されていた。

これが西暦200年頃の小山田斎宮で起こった出来事。


そこから歩いて数分で話題になっている船原古墳に辿り着く。

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6世紀末から7世紀初めのものだというので
時代は400年近く経っているけど、
被葬者はこの斎宮について知っているはずだ。
祭祀に関わっている可能性だってある。

この古墳は盗掘されていたが、金銅製の飾りの一部が石室内に残っていた。
石室の壁にはベンガラの赤色が残っていて、
装飾古墳だったのではないかと言われている。

今回、金銅製の馬具が一式15点も出土したのは、
それらが石室でなく、5メートル離れた土壙に埋納されていたからだ。
そのお蔭で盗掘者の目から逃れることができた。

この近郊で金銅製の馬具が出たので思い出すのは、
手光波切不動古墳宮地嶽不動古墳。(サイドバー 宮地嶽神社と古墳)

この二つの古墳はかつてはセットで参拝されていて、
祭祀し続けたのは武内家だという。
今は宮地嶽神社によって修復がなされ、不動神社として祀られて、
三階松の紋が九州王朝の存在を主張している。
神社では被葬者は磐井の君の末裔としている。

手光波切不動古墳は7世紀の頃のもの。

船原古墳の被葬者と手光や宮地嶽古墳の被葬者は時代的に近い。
もしかしたら、同じ時代を生きたのかも知れない。

船原古墳からは宮地嶽古墳と同じような「壺あぶみ」も出ているので、
きっと比較検討されて、詳しい時代が分かるだろう。


さて、この船原古墳の傍の川を遡ると、気になって仕方がない神社がある。
それは「愛鷹神社」。
山幸彦が鷹を愛したからついた社名だという。

どうして、ここに山幸彦の伝承があるのだ。

しかも豊玉姫も祀られている。
祭の日には鮭が上るという哀しい伝承と共に。
そして、その子、ウガヤフキアエズまでもが祀られている。
豊玉姫が夫と子供という一家族揃って祀られている神社をようやく見つけた。

この船原古墳は小山田斎宮の谷と愛鷹神社の谷が合流するような地点に、
位置していた。
海から上がってくる者に対しては、
二つの谷を守るような位置にあるようにも見える。
(地図では左上が海)

出土した国宝級の馬具はどんな古代の物語を語ってくれるのだろうか。




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by lunabura | 2013-04-21 00:11 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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