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カテゴリ:名島神社・福岡市( 6 )

名島神社(6)倭国の将士たちはここで名乗りを挙げた


名島神社(6)
倭国の将士たちはここで名乗りを挙げた

これまでは名島神社については聞き語りを中心に書きましたが、
今回は福岡県神社誌を見て行きたいと思います。
名島神社へのアプローチは道路や団地があって分かりにくいです。
帆柱石(ほばしらいし)」の案内板を目印にいくとこのような海に出ます。
ここは既に神社の境内です。すぐそばに有料駐車場もあります。

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ここには荒磯があって、親水公園があります。

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そして波打ち際に「帆柱石」(ほばしらいし)があります。
神功皇后の船の帆柱が化石になったと伝えられています。
アップしてみましょう・

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帆柱石は木の化石です。説明板を見てみましょう。(一部変更)
名島檣石(なじまほばしらいし)
カシ属の幹の化石(珪化木)で、円柱状の石片が連続しています。名島の丘陵を形成した第三世紀の地層中に露出したもので、時代は漸新世前期(約3700万年前)に属すると考えられています。
香椎宮の社伝によれば、神功皇后の三韓出兵の時に用いた船の帆柱が化石になったといい、近くの「まないた石」や「縁の石」の大石とともに伝えを偲ばせています。
     2000年3月
さすがに伝承は大風呂敷でしたが、神功皇后と結びつけられたのには訳がありました。

祭神 湍津姫命、田心姫命、市杵島姫命
由緒 宗像三神神功皇后の勧請で、その後社は旧藩主より寄附。明治5年11月3日村社に被定。
社説に曰く、神功皇后の御征韓で出発の祭、ここで宗像三女神に三韓服従のことを祈願されて、従軍将士の氏名を名乗らせ、(元黒崎と言ったのをこの時から名島という称号になった。)乗船されて、凱旋の帰途にここに報賽のため、宗像三女神を奉斎されたのが起源である。その時、供奉の官人を御社創立のために残して社務に当たらせたという

中世時代、宗像神を仏名に変えて弁財天と称したが、明治維新の際に名島神社に戻った。(中略)
境内には神功皇后が征韓された時の帆柱が石になったと言い伝える檣石(ほばしらいし)がある。(福岡県神社誌)
名島神社は香椎宮を出港した船団の重臣たちが名乗りを挙げたという事が始まりでした。
その時、神功皇后が宗像三女神を祀りました。
この伝承が大きくなって神功皇后の船の帆柱が石になったという話になりました。

今回注目したいのは従軍将士の氏名を名乗らせたという事と
祭神が宗像三女神だという事です。

前回「筥崎宮(2)」で、香椎宮の神幸祭は
神功皇后が率いる倭国軍の出陣を模したものだと紹介しましたが、
香椎宮を出ると名島は志賀島に向かう航路上に当たります。

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この時、唐津から洞海湾まで、玄界灘の各地の港からも
一斉に軍船団が壱岐の島に向けて出港したことでしょう。

その大事な出陣の儀式が重臣たちの名乗りで、その時に神功皇后は宗像三女神を祀りました。
ただ宮司さんによると、祭神はもともと豊玉彦だったという事です。
確かに名島神社と志賀海神社の祭祀圏を考えると
同じように「君が代」を伝えている点など不即不離の関係です。

豊玉彦は那の国の王であるとも伝えています。
そうすると、名乗りを上げた対象は豊玉彦で、
宗像三女神はこの時合祀したのかも知れないなと考えました。

神功皇后の乗る龍船は安曇磯良が舵取りをしています。
だから彼の祖である豊玉彦に敬意を払ったのだと思うのです。

宗像三女神を信仰していたのは筑後川から北上してきた水沼族だと赤司八幡神社で推測しました。
田油津姫攻撃の時からずっと側で仕えてくれて、その長たる国乳別命(くにちわけ)も乗船している訳ですから、
水沼族への報恩のしるしに、三女神を祀る事で新たな拠点を保障したものではないかと考えました。

さらに、凱旋後に社務をする人を置いて行ったということですが、
この名島の沖の小島に神功皇后は戦利品の鉄の武器を隠したという伝承があります。
今は陸地になって面影もありませんが、
戦後の人々はそこに鉄を拾いに行っては現金化していたそうです。
鋌鉄(ていてつー鉄の延べ板)の可能性もあるなと思いました。
ですから社務というのは鉄器の管理者でもあったのではないでしょうか。

さて、それから千数百年経って、豊臣秀吉がやって来ました。
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神殿です。
秀吉公か来た時にはすでにこの社殿は現在地に降ろされていました。
もともと神功が峯という頂上部に置かれていたそうです。

豊臣秀吉は神功皇后の跡をなぞっている気配があると以前書きましたが、
この神社には「御座所」(ござしょ)を設けて九州観察の中心としたとあります。
それはこの地が九州を観察するのにふさわしい地形だったからです。

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境内の左からはその頂上へと向かう遊歩道が出来ています。
そこを上って頂上の景観を見てみましょう。

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臥龍桜。

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名島神社は桜の名所です。

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秀吉公は淀姫を連れてここに宿泊しました。若杉山や宝満山などが遠くに見えています。
手前の丘陵地帯の麓には弥生銀座がありますよ!
そこに那の国の根拠地があると思われます。淀姫もこの景色を見たのですね。

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これは左の方。立花山が三上山に見えています。その手前に香椎宮があります。
筑紫平野のかなりの部分を目視できます。海も見えた事でしょう。

黒田長政公も見た景色です。
黒田長政がここに赴任して来て城をすぐに移転させたのは、
名島神社にある古い秘密を知ったからだろうと思っています。

その秘密はブログには書けないのですが、
黒田長政がキリシタン大名だったという事が関係していると思います。
神社の上に城があるのが憚られたのでしょう。

だから、長政公が名島城を廃城にした心を汲み取れば
この公園に城を作る事は問題があると思います。
名島神社がこの場所に戻るのが本筋だと思っているんですよ。






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by lunabura | 2012-03-15 13:54 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(4)

名島神社(1) 豊臣秀吉が御座所を設けた


名島神社(1)
なじまじんじゃ
福岡市東区名島
かつて、ここは島だった
豊臣秀吉が御座所を設けた

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名島神社に行くには福岡の大動脈、国道三号線の
名島信号あたりから海岸に向かって行くのですが、
周囲は次々に埋め立てられて、都市高速道路も走るようになり、道が分かりにくくなりました。

近づいたら、名島城跡や名島帆柱(ほばしら)石の看板を頼りに海岸に向かって行きましょう。
名島神社の看板を見て行ったら、裏参道の急坂に迷い込んでしまいました。
初めての人は、正面(海岸側)からがお勧めです。

駐車場は親水公園の所にあるので、そこに車を止めて、
海を見てから、山に向かって鳥居をくぐって上って行きます。

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(へえ?この石段は柔道の谷亮子が鍛えた所ですって?)
その石段を上ればほどなく拝殿に着きます。
境内に着くと、狛犬ではなく、ギョ、魚…?が迎えてくれました。

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拝殿です。

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この日は四人の青年がお参りに来ていました。
明日はお祭らしく、境内にはテントが張られたりして、準備万端の気運が満ちている日でした。
ここは桜の名所としても有名なお宮です。戻りながら海を見る事が出来ます。

駐車場付近に説明板がありました。
名島城跡 付 名島神社

名島城はもと大友の根拠地で、立花城の出城であった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉は島津征伐の後、小早川隆景を筑前国主に封じ、
この城を増強するとともに「御座所(ござしょ)」を設けさせ、
何か事が起こった場合に備えるとともに、九州監察の中心とした。

文禄の役の折に、秀吉は肥前名護屋への西下の途中、
淀君(よどぎみ)らとこの城に立ち寄って宿泊をしている。

この城は関ヶ原合戦後、慶長5年(1600年)黒田長政が筑前国主となり、
やがて福崎の地に新しく福岡城を築いたので、廃城となったが、城跡らしさがまだ残っている。

山腹の名島神社は宗像三女神を祭神とし、元来神宮ヶ峯に祀られていたのを
隆景が築城する時、現在地に移したものである。
なお、神社の本地仏である弁財天はこの宗栄寺に移されている。
福岡市

もともと山頂に神社があったけれども、立花城出城の建設の時に、
山頂から少し下がった現在地に移動させられたのですね。
なるほど。

でも、ここに秀吉と淀君が泊まったなんて、歴史が急に身近に感じられました。

黒田長政がやって来ると、ここの天守閣は解体されて、福岡城の方に移築されました。
福岡城には、ここから移転された名島門というのが現物が残っているそうです。

そして、この神社は黒田氏の四代目によって建立されています。

頂上に行くと360度の展望の地でした。
(ただし、現在は海の方は樹木が茂っていて、見えません。)

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前回の梶谷城と同じように、山城として、海上のすべてを掌握できました。
しかも周りは浅瀬です。大きな船で攻められる心配のない所にありました。
ここはかつて島だったのです。それがよく分かりました。

南側の展望です。
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正面に見えるのが立花山。三つの峰が特徴的です。
しかし東から見ると二つの峰に見える不思議な山です。

その山頂に立花城があり、こちらはその出城だということです。
その間にビル群がありますが、かつては海でした。

ここは朝鮮半島への海路の大事な足がかりの地でもありました。
神功皇后の伝説も残っていましたよ。

天守閣は造らないで。もっと大切なものがある。


現在、ここに天守閣を作る計画があり、賛否両論があるそうです。
しかし、この名島には山城だけがあったのではありません。本来、神社があったのです。
宮司さんから話を聞くと、ここは古代のロマンを秘めた重要な聖地でした。
福岡市が観光スポットにしたいのなら、絶対古代の名島の復元をお勧めです。

数百年でなく、数千年の歴史と景観を守るために、天守閣は建ててほしくはありません。
せめて、このままにしてほしいと思いました。

次回は宮司さんから聞いた古代の名島です。
地図  名島神社




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by lunabura | 2010-04-14 14:56 | 名島神社・福岡市 | Trackback(1) | Comments(4)

名島神社(2)ここには「那の国」の宮殿があったという


名島神社(2)

ここには「那の国」の宮殿があったという
かつては海神・豊玉彦が祀られていた


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名島神社の宮司さんからお話を伺いました。
その内容については、この先、本にする予定があるという事なので、
ブログでは差し支えのない範囲だけ、紹介したいと思います。

御祭神が明治時代に変えられた
江戸時代が明治に変わった時、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)がありました。
それまで神道と仏教が混在していたのを、国家が神道一本でやって行く事になったので、
仏教を廃止しようという動きの事です。

この時にこの神社の御祭神も変えられたという話でした。

江戸時代の地図を見ると、名島弁財天となっています。
明治時代の廃仏希釈によって、弁財天から宗像三女神に変わったそうです。
もともとどちらも水の女神です。(弁財天はインドがルーツ)
弁財天は現在、すぐ隣のお寺に祀られています。

元々ここは豊玉彦の神宮だった


そして、もっと昔に祀られていたのは豊玉彦の命一柱だけだったそうです。
豊玉彦の命は海神です。
このブログでもあちこちに登場しておなじみになりました。

志式神社のお神楽では、例のもじゃもじゃ頭で登場しました。
高良玉垂宮では玉垂宮は海神・豊玉彦ではないかと推測しました。
豊玉姫・玉依姫の父神でもあります。

豊玉姫や玉依姫を現代語訳した『古事記の神々』では、
和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町)を次のように紹介しました。

海神である豊玉彦尊がここに宮殿を造りました。この地を夫姫(おとひめ)と名付けました。
ここで生まれ育った豊玉姫はここで亡くなり、お墓が今でも伝えられています。

そして、この名島神社でも、その海神を祀っていたとは。これは新発見です。
宮司さんに聞かないと知らないままでした。

さあ、さらにお話を紹介します。

ここには「那の国」の宮殿(離宮)があった
「名島」のナは「那の国」のナと同じで、ここは那の国王が作った国です。ナとは湊(みなと)の意味です。ミナト島という意味でナ島と呼んでいたのです。壱岐の人たちは「浦」を今でもナと呼んでいて、
「郷の浦」はごうな、「さすの浦」はさすな、と呼んでいますよ。

その後、渡来人が来ました。
渡来人は湊を浦と呼んでいたので、名島は浦島とも言いました。浦島太郎のお話のルーツはここですよ。

この神殿はかやぶき屋根(流れ葺きで、神明造)だったのが中国からの渡来人の技術によって、中国式のそり上げの瓦葺になりました。彫刻が施されて、金銀が塗られていました。

なるほど、古代の日本の宮殿と言えば、それこそ伊勢神宮のような建物を想像しますが、
中国から技術者集団が来て、宮殿を建てたとしたら、屋根が反り上がって、きれいに彩色された
龍宮城のような建物が建つはずです。

浦島伝説と言えば、すぐ近くの志賀島にも残っていましたよ。

江戸時代の学者の本に、那の国に志賀島や和白が含まれている理由が分からないと書いてありました。
江戸時代には二日市水道が陸地化していたので、イメージが湧かなかったのでしょうね。

現在の市街地がほとんど海の上だと思えば、那の国が福岡平野に沿った湾岸地帯にあったというのが
分かります。

金箔のついた瓦が実際に出土していた

豊玉彦の宮殿が対馬でも、博多湾でも、当時の最先端の建築で建てられたのは間違いないでしょう。
対馬の方も瓦葺だったと伝わっています。

かやぶきの屋根の神殿が普通だった時代ですから、瓦葺きだとすると、それは大変な宮殿です。
しかも、金箔が貼られていたとは…。

そんな金箔の残った瓦がここから実際に出土して皇族のある方に届けられました。
(次回につづく)


次の絵は聖洲さんの想像画です。


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那国王、那の津展望の図(那島 龍宮城)
後ろ向きの二人の女性が豊玉姫と玉依姫。二人がそれぞれ手に持っているのが干珠満珠だそうです。
向こうの岸は那の津。現在もその地名が残っています。その奥の方に那の国の本宮があったそうです。

聖洲さんも昔の名島に詳しくて、出土した瓦や神殿に残るものを参考に描いたそうです。
中国文化が入っていて、当時は絢爛豪華な宮だったのを表すために、
天井の一枚一枚まで丁寧に描き込まれています。

那の国も奴の国も同じだよ。

ちなみに 「ナの国」の表記について、那でも奴でも儺でも、どれもナと読みます。
それぞれに歴史があって、どれもOKです。現存する地名は「那の津」などと書かれています。
私の表記もその都度変わります。個人的には那の国が好きです。





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by lunabura | 2010-04-13 15:59 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(0)

名島神社(3)三笠宮とオリエント文化研究

名島神社(3)

三笠宮様はここで出土した金箔の瓦を見て、
近東の研究に向かわれた。


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昭和34年に三笠宮様が『日本のあけぼの』で
博多湾の名島が中心だ」と書かれたんですよ。
と宮司さんが話してくれました。
「え?三笠宮様が?ここに来られたんですか?」
「そうですよ。」

三笠宮について辞書を引きました。
皇族の一家。1935年、大正天皇の第四皇子崇仁(たかひと)親王(澄宮(すみのみや))1915年~)が創始。戦後東大でヘブライ史を専攻。日本オリエント学会名誉会長。

のちに、東大で講義をされたとも聞きました。ヘブライ語の研究をされた宮様がこの名島に注目された?
その理由がよく分からなかったのですが、思いがけず別の方から、詳しい話を教えてもらいました。

それは当時小学生だったという光さんと、親戚の聖洲さんの話です。

 三笠宮様がまだ澄宮と言われていた頃のことです。
小学生の光少年が遊んでいたら、澄宮に呼ばれて、生れて初めてカレーライスを御馳走になったそうです。

澄宮がここに滞在された理由は、戦前にここに無線局があって、そこにしばらく勤務されていたという事でした。
ここは世界中の無線が焦点のように集まって傍受できる特異な地形で、
いち早く世界の情報が取れる所だったそうです。
「新高山登れ」も最初に傍受したのはこの名島の無線局だったそうです。

光少年はこの名島神社付近が遊び場でした。
名島神社の境内からは、金の冠がバラバラになったものが出土したそうです。
金の指輪も出て、それは宗像神社の沖ノ島から出土した指輪とそっくりなものだったとか。
また、瓦が出て、それには金箔が残っていたそうです。

そして、三笠宮様が名島神社に来られて境内の岩に座られた時、
当時の名島の小町娘がお茶を出したそうです。
その時に、出土した金箔のついた瓦を献上したそうです。
それを見て、澄宮はヘブライ語の研究に向かうようになられたと教えてもらいました。

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この絵は聖洲さんが出土した物を、光さんから聞きながら描いたもので、
金冠と金の指輪と金箔の残った瓦です。

忘れられた神社の境内から異国の文化の遺物が出土した、その深い意味を悟られたのでしょう。
そう、古代の日本には文化と共に、多くの渡来人が来ていたのです。
この名島神社はその証を今に伝えていた神社でした。

三笠宮様は古代オリエント文明研究の第一人者となられました。
そして、昭和34年に三笠宮様が『日本のあけぼの』で「博多湾の名島が中心だ」と書かれたという訳です。

出土品は今、京大にある?

京都大学がここを発掘調査したそうです。続けて東大、九大がやって来たとか。
京都大学の考古学研究室には、これらの出土品がまだ保管されているでしょうか。
戦前のものはホコリをかぶったままかもしれませんね。
そこには、私たちの固定観念を一掃する遺物が収納されているはずです。
是非、調査して公開してほしいものです。

最近でも、境内からペルシャの彩陶が二片出て来たそうです。
宮司さんが確認したところ、鴻盧館(こうろかん・福岡市の古代の迎賓館)で
出土したものと、同じものだったそうです。
「一緒に展示したいと言われたけど、断ったよ」
とニッコリして言われました。

このエピソードがあった頃の名島の海岸のようすです。
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これも聖洲さんの絵です。昭和の初期まで、まさに海の中に島がありました。
今は団地などが建っているそうです。砂州があって、島に歩いて渡れるようになっています。
絵の右上に沖ノ島があります。(宗像の沖ノ島ではありません。)
ここからは、鉄が出土していたそうです。
神功皇后が戦争から帰って、ここに武器を置いたという伝説があります。

現在のようすです。
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古代の名島
海から見たらこんな風だったのかな?
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(聖洲さんの絵)

名島にお城を復元するなら、こっちの方が断然いいのにな。



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by lunabura | 2010-04-12 21:46 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(2)

名島神社(4)君が代の歌のルーツがあった


名島神社(4)
那の国王が志賀島に渡る歌が残っていた。
それが君が代のルーツだった。

「志賀海神社との関わりを教えてください。」と尋ねると、
宮司さんは志賀海神社に伝わる歩射祭の歌を歌って下さいました。
今宵 夜半に着き給う 御船こそ たが御船ありけるや
あれはや あれこそは 阿曇の君の召し給う 御船になりけるよ
(今夜、夜中に到着なさる御船は誰の御船だろうかなあ。
あれはなあ、あれこそは阿曇の君が乗っておられる御船だよ。)
そう、歌ってから
「これは志賀の島に来る那の国王をお迎えする歌ですよ。」
と言われました。
「へえ、そうなんですか。」

歌の中には、はっきり阿曇の君と歌われています。
すると、阿曇の君那の国王という事になります。
国王は別の所にお住まいです。
それはどこか。
それを宮司さんは名島だと言われるのです。
そして、それを裏付ける話を別の出会いから教えられることになりました。

(神楽歌については、宮司さんの歌を書き写すのが間に合わなかったので、
一部違うのですが、『香椎宮史』の中に載っていた江戸時代の本から紹介します。
天保年間に採取された歌です。
『古伝神楽歌』 天保初年 志賀島所聞 宮崎大門)

この江戸時代に書かれた本を読んでいると、続きにこんな歌が書かれていました!

君が代は 千代に八千代に
 細石の 巌と成りて 苔の産霊(むす)まで

皆さんご存じの日本の国歌です。この「君が代」は志賀海神社に古くから伝わる神楽歌だったのです。
ネットで調べると、この志賀海神社の神楽歌が「君が代」の元歌ではないかと言われていますが、
やはり、その通りだと言う事になります。
この神楽歌が国歌になった事情についてはある神社の宮司さんが推挙されたと聞いています。
(出典が分からなくなったので、確実になったらはっきりと書きますね。)
(追記…香椎宮の木下美重宮司だと分かりました。
詳しくはサイドバーから【「君が代」ゆかりの三社参り】を見て下さい)

歌の情景を想像してみました。
日が暮れると、人々が浜辺で明々とかがり火を焚いて暗い海を見つめた。
潮騒だけが響く。闇の海の上に船の灯りが見えて、近づいてきた。
静かな湾をすべるように走る船。人々が歌い出す。
「今夜、夜中に到着なさる御船は誰の御船だろうかなあ。
あれはなあ、あれこそは阿曇の君が乗っておられる御船だよ。」

灯りがだんだん大きくなり、船の影が見え始め、かがり火に照らされた人々の姿も見え始めた。
そして、船が着くと、国王がじきじきに姿を現された。「おおっ。」人々のどよめきが響き渡る。

ふなべりに国王が立って手を挙げられると、人々は歌い出した。
「阿曇の君の世は、千代に八千代に続きますように。
小さな石が集まって大きな岩になって、苔がつくまで。」

こんな神楽が古代から歌われているのが志賀海神社でした。

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(志賀島からは福岡市のビルがよく見えます。左奥に福岡タワーなどがあるのが分かりますか。
この海が神楽歌の舞台です。)

これは驚き!
君が代は名島神社にもあったよ。
阿曇の君は名島に住んでいた!


共時性が起こりました。名島神社のあと、聖洲さんに初めて会いました。
するとその時、名島神社に君が代のルーツがあると言われたのです。絵まで描かれていました。

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絵の女性は豊玉姫と玉依姫?

吾が君は 千代に八千代に 
細石の 巌と成りて苔の生すまで
(伝 国家発祥の地)

これは名島神社に伝わる歌だそうです。志賀海神社とは初句が少し違うだけです。
そう、「君が代」とほぼ同じ!

ここの「吾が君」とは「那の国王」を指しているそうです。名島神社の宮司さんが言われた通りでした。
名島神社と志賀海神社とは深い関わりがあるのが分かりました。
こうして互いの島にそれぞれにこの歌が伝わっているなんて、奇跡のようです。

次の絵はそんな那の国王が川を渡って人々の暮らしを見に行かれる様子です。

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これも聖洲さんの絵です。
那国王、宮殿を出て、庶民の弥栄(いやさか)を祈って、
輿(こし)に乗って、行幸(ぎょうこう)さる。

絵が細部まで描き込まれていて、古代の様子が手に取るように分かります。
もちろん想像画ですが、当時の歴史をずいぶん調べたそうです。
輿などは、ユダヤのアーク(聖櫃)と同じイメージだそうです。
韓流の歴史ドラマを見ると、輿の形はこれとよく似てますね。
江戸時代の駕籠を見慣れている眼にはとても新鮮です。



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by lunabura | 2010-04-11 14:42 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(6)

名島神社(5)昭和の頃 竹藪に覆われていた・竜巻と鯖・ムーダン


名島神社(5)
荒れ果てていた昭和初期ごろ
韓国から巫堂(ムーダン)が祈りに来ている


もと光少年と聖洲さんから伺った珍しい昔の話を紹介します。


1.荒廃していた名島神社

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[神殿と拝殿を除いて、一面、笹竹藪で、光少年の一家が6年間(昭和4年から昭和10年頃まで)に渡って、
竹根を掘り起こし、運んで焼却処分し、現在に至る。]

古代に栄えた名島神社は秀吉公によって、少し下の方に移転され、頂上には名島城が出来ましたが、
その後、城は福岡舞鶴に移転しました。社殿は時とともに古くなりました。
江戸時代にはいったん再建されましたが、その後、無人化して、ひどく荒れて行ったそうです。

光さんが小学生の時には絵のような状態で、竹藪に占拠されていたそうです。
そこで、光少年の家族が竹を除いて行ったそうです。

当時の話を聞かせてもらいました。
「竹はこんなに太かったよ。」
と親指と人差し指で輪っかを作って見せてくれましたが、直径6センチほどだったでしょうか。
竹ですから根っ子から払うのは想像を絶する大仕事です。
いとこの聖洲さんがその話を絵に描いていました。絵がとても面白いので紹介しました。
社殿を拡大しました。やけにリアルですねえ。

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これが黒田家四代目綱政公が建立(再建)したものです。
時を経て、ここまで荒廃したのを、家族で藪を払ったんですねえ。6年かかったそうですよ。
今は、改修されて、写真のようになっています。

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それまでは、雨が降ると神殿に雨洩りがして、バケツなどが置かれたそうです。

こんな珍しい話も。

2.竜巻が来るとサバが降って来た。
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[博多港上で竜巻が発生して、名島神社上を通過すると、天から鯖(さば)が降って来た。(昭和10年夏ごろ)]

一回だけでなく、何度もあったそうです。昔は博多湾には沢山鯖がいたんだそうですよ。

もう一つ珍しいお話。

3.韓国から巫堂(ムーダン)の人たちが踊りに来ている。
かつては毎年。今は、時々。
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[神功が峯の大松に鎮まる主(始祖・家元)に参拝する巫堂(ムーダン)と踊りの一行の図。]

話によると、かつて朝鮮から王が来た時、随行した踊り手が名島で亡くなってしまって、
大松の所に埋葬されたそうです。

それからは、その命日になると、毎年、朝鮮半島からその踊りを伝える人たちがやって来て、
ここで、踊りを奉納していたそうです。

「一行は朝鮮半島から下関に船で来てねえ、
何処にも寄らずにまっすぐに名島に来て、一週間踊り続けてたねえ。
浜辺にテントを張ってキャンプしていたよ。」
「でも、その頃は神社は荒れていたんでしょ。」
「そう。朽ち果てかけた神殿の周りを鉦や太鼓を鳴らしてぐるぐる廻って踊っていたねえ。」

今でもそれは続いていますが、名取を取った時だけに減っているそうです。
大松も枯れてしまって今はないそうです。

先日、桜の頃に再び行くと、頂上は公園として整備されていましたよ。
看板も変わっていたりしていました。

もう、三笠宮の話も那国の離宮の話もうたかたのように消えてしまうのでしょうか。



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by lunabura | 2010-04-10 21:32 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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