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カテゴリ:七支刀( 6 )

七支刀(5)削り跡は二カ所


七支刀(5)
削り跡は二カ所


今日は九州国立博物館に行って、七支刀の現物を見てきました! 
神社の神宝庫にひそかに眠る七支刀。
本物と御対面です。(^o^)/
(一生見れないと思っていたので、感激!)

錆びた鉄剣の中の金の象嵌が薄暗い照明でもキラリと輝きを見せています。
私はどうしても見たかったのです。

七支刀に彫られた文字が一部削り取られているという話を確認したかった。

るな探偵、まさかの至近距離に、人目も気にせず、
薄暗い中、ためつすがめつ、上から、下から、斜めから見ました。

目が慣れてくると、二文字目が削り取られているのがはっきりと分かってきました。
展示は横になっていましたが、縦の状態として説明します。

c0222861_22293178.jpgノミ(?)は三回以上、左下から右上にすべらせています。
それは、一番左に文字の一部が縦四ミリほどの線が残っていることから推測しました。

文様に目をやると文字の右横に縦に一本、金のラインが象眼されています。
刀身の上から下まで通るラインです。
しかし、文字を削ったノミが滑ったのでしょうか、ラインも削ってしまっています。

この削った文字を通説では「和」と読んでいますが、「和」の三画目の縦のラインを残して、二画目や四画目を削る事は不可能です。
こりゃあ、「和」と読むのは無理だっぺ。

「日」とか「目」あるいは「中」のような字の一画目が残されている感じです。
真鍋の言う「化」も無理だなあ。


そして、この日、バッタリと会った友人がもう一つ削られた部分を発見しました。
それは五文字目です。
全く象嵌が残っていません。
しかも、ノミの跡らしきへこみがあります。
これは明らかに欠字なのに「五」と読んでありました。

よく見ると、右側の金ラインは残っているので、削るのが簡単な字です。
一二三四五六七八九十
の中で、右のラインを傷つけずに削り取れる文字は果して「五」でしょうか。
もう少し、簡単な字のはずです。
これは目視なら欠字とした方が、学問的な態度と言えるでしょう。

もし、X線で見たら目視とは違う結論が出るかもしれませんね。

説明パネルには「泰■」を「太和」(369年)と書いてありました。
購入した記念本で確認すると、
今回の銘文の解釈は浜田耕策氏の見解を採用しているとのこと。
やはり神功皇后摂政52年を372年と、先に決定して、逆算しています。
372年の論拠は書かれていません。


さて、七支刀の本物の展示は2月15日(日)までです。
ご覧になった方、自分の目でどう見えるか、るなの意見に惑わされず、
感じたままを教えてくださいね。







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by lunabura | 2015-01-16 22:32 | 七支刀 | Trackback | Comments(2)

七支刀(4)デザインの元はやっぱりヒカゲノカズラだ


七支刀(4)

デザインの元はやっぱりヒカゲノカズラだ

七支刀(3)で真鍋の文章を紹介しました。
「ひかけのかづら」は坩堝の仕上がりを願う女人の髪飾りであったと聞く。大和山辺丹波市石上神宮の七支刀(ななつさやのたち)はまさにこの「ひかげのかづら」の抽象的図柄」『儺の国の星』p66

そうすると、まーりんさんから思いがけない情報が。

いただいたコメントの一部を紹介します。
七支刀のデザインの元がヒカゲノカズラとは・・・
いまちょうど自分のブログで書こうとしたのが、ヒカゲノカズラに関するものです。

ホメオパシーという療法で使われるレメディに、ライコポディウムという重要なレメディがあります。それはロシアやフィンランドの森で夏の終わりに「ヒカゲノカズラ」の穂状花序を乾燥させ、叩き落として採った胞子から調製されたということです。

レメディのライコポディウムが効果があるとされる症状は多岐にわたりますが(有名なのは「自信のなさ、心配症、あがり症」に効くこと)、製鉄に関係しそうなものは、眼の炎症・痛み、ろうそくの灯に敏感ってところでしょうか。

またホメオパシーの創始者が書いたテキストには、火にくべると爆ぜる性質があること(火薬に混ぜたようです)、また古人が言い伝えるライコポディウムの効能を今の(1800年代)の人は信じないようだが、という部分があるので、北ヨーロッパでは伝統的な薬草の一種ようです。

Wikipediaをみるとヒカゲノカズラは古くから北半球に分布していたようですが、ヒカゲノカズラを大事にした種族は、どこから日本に来たのでしょうね。

ヒカゲノカズラの穂状花序・・・って、ネット上の画像を見ると、天に向かって数本突き出している様が本当に七支刀みたいですね。かんざしのようだともいえるかもしれません。

あわてて、画像を検索しました。
ガ~ン (@_@;)
ホンマヤ。そ、そっくり\(◎o◎)/!

c0222861_2163351.jpg

合成してみました。

ヒカゲノカズラの髪飾りに関しては『儺の国の星』p66に
脊振の御祭は、今は5月11日~13日の間となっている。京都鴨の葵祭と同じ頃である。ここに「あふひ」とは「ひかげのかづら」の事であって

とあるので、賀茂氏のお祭りだということになります。

賀茂氏のキーワードだけ並べると、
一目 緑眼高鼻 蹈鞴(たたら)足一騰 八咫烏(カチガラス) 3500年前
となります。

八咫烏は高句麗の壁画にも描かれていますが、明らかに日本の方が古いです。
だって、日本は神武天皇の時代ですから。

賀茂氏は一目国から二手に分かれて、
日本まで辿りついた一派と高句麗で活躍した一派に分かれたのではないか
と仮定しています。

まーりんさんの情報だと、目の炎症に効くということなので、
一目の人たちにとっては大事な薬草だということになります。

賀茂氏の守護草・ヒカゲノカズラが刀としてデザインされた時、
七支刀の形になり、冶金の成功を祈る象徴とされたという解釈ができます。

その一本が神功皇后の時代に倭国まで届けられたということでしょうか。
神功皇后は青銅の女神ともなったことを思うと、
まさにふさわしい贈り物だったと思われます。

今日はこんな妄想をしました。

ま―りんさん、本当にありがとうございました。(^o^)/
それにしても、凄いシンクロニシティですね。
植物の精霊たちも、応援してくれている!

ヒカゲノカズラの葉っぱ、いいなあ。
アメノウズメが髪に挿したのは、葉っぱの方かな、穂の方かな。
葵祭の方は五月なので、葉っぱの方でしょうね。
実物を見たい。
里歩きの楽しみが増えました。

さて、いよいよ明日は志賀島です。
天気も良さそうで、輝く海が見られますね!

お待ちしています♪





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by lunabura | 2015-01-10 21:08 | 七支刀 | Trackback | Comments(0)

七支刀(3)230年説 坩堝の仕上がりを願う女人の髪飾りをデザイン化したという


七支刀(3) 230年説

坩堝の仕上がりを願う女人の髪飾りをデザイン化したという

七支刀の本物が1月15日以降に、九博で展示されるそうです。
今はレプリカが展示されているとか。
待ち遠しいな。

さて、石上神社の七支刀は369年制作が定説ですが、それを疑うのは、るなぐらいかな。

その理由は
①年号の一部が欠字なのに369年と決めるのは無理がある。
干支で考えても、
369年-60年=309
369年―120年=249年
など、複数の候補があり、369年に特化する理由が不明確のまま定説になっている。

②「神功皇后が貰った七支刀」=「石上神宮の七支刀」の根拠がない。

てな感じです。(´・ω・`)
それまでの七支刀問題に関しては次のリンクに書いています。
http://lunabura.exblog.jp/i210

愛読者さんにこの辺りの事情を教えていただいてようやく理解できました。

でもね、「泰■四年」=「太和四年」とする学問って、
いったい歴史の世界はどうなっているんだろうと、ずっと疑問でした。


この疑問を上手く表現できなかったけど、
小保方さん風に言えば、「研究不正」に該当しない?
「泰■四年」→「太和四年」って、元データの改竄だもん。

と、相変わらず ??? の、るなさんでした。


そこで、今日は真鍋の「七支刀」を見つけたので書き写そうと思います。

結論を先に書くと、
七支刀のデザインの元は「ひかげのかづら」という植物で、
アメノウズメが挿していた髪飾りと同じデザイン。
坩堝の仕上がりを願う女人の髪飾りだと言います。

「泰■四年」は「泰化四年」と判読して、
魏明帝太和四年(230)の写しという仮説を出しています。

結局、真鍋もこれに関しては、すっきりとしませんでした。


c0222861_21314377.jpg

これはアメノウズメの髪飾りをこっそりと描いたもの。葉っぱが七枚です。
(ただし、かづらの現物を見たことはない)

ビーズの髪飾りは飯塚市で出土したものを描いています。
おでこから耳の前にかかるラインは現代でも通じる美的センスです♪
飯塚市の資料館にありますよ。
(手前の男神は猿田彦のつもり)

では『儺の国の星』p66から。

脊振の御祭は、今は5月11日~13日の間となっている。京都鴨の葵祭と同じ頃である。

ここに「あふひ」とは「ひかげのかづら」の事であって、古事記神代記、天の岩戸の条に「天の宇受売の命、天の香山(かぐやま)の日影を手次(たすき)にかけて、天の真拆(まさき)を鬘(かづら)として」云々が最古の記事であり、又、平家物語大原御幸(おおはらごこう)の条に「まさ木のかづら青つゞら、くる人まれなる所なり」にもその名が見える。

 夫木和歌抄巻七 葵の条に
  中原師光朝臣の作れる歌 
   そのかみの みかけの山の 諸葉草 けふはみあれの 志るしにぞとる
又同書 賀茂祭の条に前中納言定家卿(1162~1241)の作れる歌
   雲のうへを 出るつかひの もろかつら 向ふ日かけに かさすけふ哉

「ひかけのかづら」は坩堝の仕上がりを願う女人の髪飾りであったと聞く。大和山辺丹波市石上神宮の七支刀(ななつさやのたち)はまさにこの「ひかげのかづら」の抽象的図柄であって、銘文には、泰化四年の年号が判読できる。これは魏明帝太和四(230)年の元号の写しかもしれない。
 日本書紀巻九 神功紀五十二年(252)の条に曰く
  七支刀一口・七子鏡一面・及び草々の重宝(たから)を献る。

京都の葵祭のルーツは脊振山の祭で、
天智天皇がそれを見て京都に再現したと真鍋は言います。

そこには賀茂氏がいて、盛んに鉄などを作っていました。
蹈鞴(たたら)の神を八丁様と呼んでいました。
そういえば、飯塚に向かう山に八丁峠がありますが、これもそれかな。

脊振のお祭りに髪に挿す植物が「ひかけのかづら」で、
これが京都の葵祭にも用いられたようです。

その実物を見ないと何とも言えないのですが、
「七枚葉のかづら」というデザインが百済からもたらされたのですから、
さらにそのデザインの発祥など、これから注目してみたいと思います。

年代の問題は真鍋は「泰■四年」=「泰化四年」→太和四年です。
ただ、時代が繰り上がって、魏の時代、230年説を出しています。

真鍋大覚は神功皇后の時代を西暦200年としています。

この年は太陰暦と太陽暦の元旦が同じという特殊な年だったらしく、
西暦の無い時代、年代の計算にこの年が基準となったもよう。

だから、200年の話は何度も出てきます。
太歳も三度もして、何度も確認した時代らしいです。

るな的には、現代人より、物部氏の口碑を信じたいな。
ただし、まだ200年の太陽暦と太陰暦は未調査です。




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by lunabura | 2015-01-08 21:34 | 七支刀 | Trackback | Comments(5)

七支刀 369年説と468年説(2)


七支刀 
369年説と468年説(2)

さて、石上神宮の七支刀の銘文の年号が欠字なのに、
どうやって369年と判読されたのか、どうしても分からない。

その銘文がこれ。

「泰■四年」

これを「太和四年」と読むそうだ。
わざわざ字画の多い字に変えたのは何故?
「泰」=「太」となった事情が知りたい。

そこで、るな探偵は思いついた。
そうだ! 年号に詳しい愛読者さんに教えてもらおう!

369年説について
(るな)
少し教えていただきたいのですが、七支刀の年代について、
その銘文の写しを見ると、肝心の年代の部分の一字が欠落しているのですね。
きっと多くの研究で369年となったと思うのですが、
実際は2、3年の誤差があるのでしょうか。

私は、日本書紀の年代に合わせて無理に年代が決められているのだろうかと、
不思議に思ったのです。
この年代によって、神功皇后が4世紀の人となっているように見受けられます。

年号については全く分からないので、この辺りがどうなっているのか教えていただけますか?

(愛読者)
ご指摘ごもっともです。
正確には「泰■四年」で■は読めていません。

「泰」に該当する年号としては東晋の「太(泰)和4年(369年)」か、西晋の「泰始4年(268)」または南宋の「泰始4年(468)」で、銘文からだけでは決定できません。

物理的に明らかにできない以上、文献や史的事実との整合性を検討し、論証する必要がありますが、神功皇后紀52年に七支刀記事があることから、

①神功・応神紀が2運120年ずれているのは、『三国史記』で405年乙巳の百済の阿花王死亡が、『書紀』では応神16年(『書紀』紀年285年乙巳)に書かれていること等から明らかであること、

②神功紀には半島での新羅・百済をめぐる戦闘が記されているが、新羅・百済の成立は4世紀後半で、3世紀では史実にあわないこと(ちなみに国名を明らかにして中国に朝貢した最初は百済が347年、新羅377年です)、

③逆に高句麗広開土王の碑の391年に倭が百済、新羅を破り臣民としたとの記述から、このころ倭国が半島で神功紀にある軍事行動を起こしていたことは疑えないこと、

などから、今は泰和でほぼ異論のないところとなっています。もっとも石上神社の七支刀が神功紀の七支刀とは違うと考えればこの考えは成立しませんが・・

この様ですので、単に『書紀』記事と合わせて解釈しているわけではないと思います。(一方、泰始との解釈は、あまり成功しているとは思えません。)

なお宮内庁は、『書紀』が神功皇后陵とする狭城盾列陵とは佐紀盾列古墳群のこととしていますが、調査では4世紀から5世紀初頭以降の築造となっているようです。

会報では中心的な論点ではなかったので、紙面の関係からその辺は省略し断定的に「泰和」と書きましたが(註)でも入れておいた方が良かったかなとも思います。

また、神功皇后紀52年(『書紀』紀年壬申252年)を120年ずらせば372年になり、369年とずれますが、百済の史書は干支で記述されていたと考えられるので、刀の鍛造が369年で献上が372年で神功紀の120年ずれで合っているとするのが合理的だと思います。

ただ369年という年に重要な意味があるはずで、
九州王朝説なら高良記の玉垂命三潴遷都とも一致し、
かつ新羅との戦闘に備え博多湾岸から筑後に都を移したということになり、
神功皇后の新羅との戦闘記事とも整合するときれいに説明できると思っています。

私は神功皇后のモデル前つ君・卑弥呼・壱予・玉垂命を含む
九州王朝の歴代女帝だと考えています。

海外史書に記す倭国女王は近畿天皇家には存在しなかったので、『書紀』編者は神功紀を作って「まとめて」近畿天皇家の人物に見せかけたというのが真実だと思います。

(るな)
(略)年号が読めないという点で、私は、この七支刀は神功皇后の年代特定の資料にはならないと思っています。その点も含めて、掲載を許可していただければと思っています。

(愛読者)
引用はいくらでもどうぞ。
ただ全体の論の主旨は「『書紀』編者は、大和朝廷の「気長足姫尊(実年代不明)」を「神功皇后」と命名して、そこに卑弥呼・壹予・玉垂命・橿日宮の女王など「筑紫の女王」の事績を入れ込んで「神功紀」を作った」というものです。

 従って、「神功の実年代」とは、より正確(厳密)に言うと「『書紀』に書かれた『神功皇后の三韓討伐』部分のモデルの実年代は玉垂命と一致する」というものですので誤解の無いように。この部分(三韓討伐)では七支刀は十分根拠資料となると考えます。

 卑弥呼はじめ複数の人物の事績を集めたのが『神功紀』であり、周防に遠征したり、魏に使者を送ったり、香坂皇子、忍熊皇子を討伐したという神功の事績のモデルの年代とは明確に違いますし、当然大和朝廷の「気長足姫尊(息長帯比売命)」や「仲哀天皇」の年代をさすものでもありませんから。

 以上よろしくお願いします。

以上、愛読者さんから丁寧な説明をいただきました。

「泰■四年」は「太和」と読んで369年説となる理由が網羅されていて
とても分かりやすい説明でした。ありがとうございます。


次にもう一つの説を紹介します。
468年説について
先週、本棚にあった本(まだ読んでいない(・.・;))をパラパラとめくると、
「泰■」について、別の見解が書いてありました。
グッドタイミング。
これも参考になるので書き写します。

泰□4年は468年

奈良県天理市の石上神宮に伝えられている七支刀の銘文は、鉄刀であるために錆びて不明な文字があり、解読には福山敏男ほか多くの異説がある。(略)

これまで、大多数の解読は「泰和4年5月16日丙午正陽」を
西晋の太和4年(369)としてきた。わたしも長い間それを疑わなかった。
泰和=太和なら、太和4年は、藤大臣が大善寺に玉垂宮を完成し、神功が貴国の統治を確立したという369年己巳にきれいにつながるからである。

神功=倭王旨でさえあれば、百滋王世子がその時点で倭王のために百錬の七支刀を造ったという想定はどこにも不自然がことがないと思われた。七支刀は百済と倭を結んだ友好のシンボルとも理解することができるだろう。

しかし、この銘文の年号は、太和ではない。泰□である。銘文の研究の初期には四世紀太和説が有力であったが、近年は五世紀泰始説が説得力を増してきている。

 七支刀の製作年が西晋の太和4年(369)でないことは、百済が西晋に朝貢して余句がはじめて冊封されたのがカンアン2年(372)であることから明白である。宮崎市定が指摘するように、朝貢国が冊封される以前に宗主国の年号を使用することはあり得ないからである。 

 すると泰□4年は宋の泰始4年(468)で、その場合の七支刀の贈り主は仇台百済の余慶(455~475)ということになる。 (略)
(兼川 晋 『百済の王統と日本の古代』)

これによると、369年よりさらに100年後ということで、
るな的には未踏の分野になるのでした。

ということで、今回は石上神宮の七支刀の製作年代についての大まかな争点を学びました。
これですっきりです。 

う~む。歴史はやはり奥が深いな~。


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by lunabura | 2013-05-17 20:23 | 七支刀 | Trackback | Comments(3)

七支刀 369年説と468年説(1)


七支刀 

369年説と468年説(1)

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博多駅で旅人を迎える「卑弥呼像」です。
凛としたまなざしと、美しい色彩。

その左手に持つのは七支刀。
右手には銅鏡。(ちゃんと凸面になっている!)
三角縁神獣鏡なのか、裏を見てみたいな!
勾玉を下げ、貫頭衣を着て前後に布をまとう。
倭人伝そのまま。
しかも、その布の模様は王塚古墳の装飾文様。

作者がどれほど弥生時代に関する歴史書を読みこんだのか、よ~く伝わってきます。
そして冠はなんと新羅風。
これは卑弥呼といいながらも神功皇后のアイテムにも彩られているぞ。

卑弥呼。
人々の心をひきつけてやまない倭の女王。
本当に美しい博多人形です。



置かれている場所は改札口のちょっと手前の右の片隅なので、
気づく人はほとんどいない。
どうせなら中央のコンコースに置かれたら、
もっと多くの人の目に触れるだろうなと思うと、置き場所がもったいないなあ。


さて、今回はこの神功皇后のアイテム「七支刀の年代」についてです。

なんで七支刀が神功皇后のアイテムなのかというと、
『日本書紀』に、
神功摂政52年9月、百済のクテイらが千熊長彦に従って倭国にやってきて、
七支刀や七つ子の鏡などを献上した、と書いてあるからです。

たまたま現存する奈良県の石上神宮の七支刀の製作年から
神功皇后の時代は西暦200年+120年=320年という説が
現代では定説なのだそうです。

それを重々承知の上で、年表には200年と書いている私は
相当のへそ曲がりですな。

いろんな方が心配してコメントをくださっています。
でも、日本書紀のツギハギをチェックしないと、年代は確定できないよね。
まずは素の状態で古代の歴史を見たいというのが、るな流なんです。


製作年の不思議
奇跡的に現存する石上神宮の七支刀の銘文から、製作年は369年だと聞くけど、
模写を見たら、肝心の年号の部分は判読不明だった~ (@_@;)
かなりショックを受けたのは一年前。

年号の部分が欠字なのに369年と決まっているのは何故なんだあ?

それに加えて「神功皇后が貰った七支刀」=「石上神宮の七支刀」
と何故言えるんだ。その論理が理解できない…。

もしかしたら、七支刀が世界で一本だけしか作られなかったというのが前提になってる?
そんなの、どうやって証明できるんだろ。
鋳型で作られたと判明した以上は、銅鏡と同じように複数造られたのでは?

たまたま、奈良で一本発見されているだけかもしれないのに。
そんな思いを消すことができずにいました。


福岡県のみやま市の「こうやの宮」の神像は七支刀を持っている。
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ところが、これも石上神宮に奉納されたんだということになって、
「神功皇后が貰った七支刀」=「石上神社の七支刀」=「こうやの宮の神像の七支刀」
という論理もあったりする。
これがどうして成立するか、よく分からない。

以前書いたけど、吉田信弘氏によると、
みやま市には別の七支刀が存在していて、
戦争中に鍛冶屋が鋳直そうとしたけど、全く歯が立たなかった。
そして行方不明になった、という話を聞いていて、
七支刀というのは何本も製作されているのではないかと思ってます。
その失われた七支刀が見つからないかなあ。

でも、みやま市に鍛冶屋さんはあるだろうか、と思って確認したら、
こうやの宮のすぐ近くにあるそうで、
これから調査される可能性が出て来ました。

なにせ「こうやの宮」は「磯上物部神社」ともいうんですからね。
ずっと注目してるんです。


さて、判読不明の年号が基準になって、
神功皇后の七支刀が石上神宮に預けられた?という
仮説の上に仮説を載せて出来ている年代、369年。

いったい、どうする。
るな探偵は考えた。    (つづく)




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by lunabura | 2013-05-15 23:01 | 七支刀 | Trackback | Comments(9)

七支刀の神像―こうやの宮


七支刀の神像―こうやの宮

今日は久留米地名研究会で発表された
「『こうやの宮』の里を訪ねる」という講演を聞いてきました。

c0222861_22224293.jpg


「こうやの宮」を知ったのはずいぶん前で、二度ほど参拝しました。
七支刀を掲げる異国の神像。
これを知ったのはかなり衝撃だったのですが、
民家の庭を通って参拝するようなところだったので、
紹介するのが憚られていましたが、
講演者の方に確認を取って、ブログ掲載の許可をいただきました。

何もない田んぼの中の祠にどうしてここにそんなものがあるのか
不思議で途方にくれたことを思い出します。

今回の話で、狭い地域に十数社もの宮があり、
中には中大兄皇子もここにやって来たという伝承の宮が有るのを知り、
この宮にアプローチするのに、
太神(おおが)という地域全体から出来る事が分かりました。

「太神」は「於保三和」と平安時代には読んでいたことが
『倭名類聚抄』に書かれていたのを知って、なるほど。

熊鰐さんが率いる遠賀水軍がオンガ、オオガともいい、
その上流から山越えしたら大己貴神社(朝倉市)に出る。

熊鰐さんは岡田宮(北九州市)に祀られていて、こうなっています。
(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
       少彦名命(スクナヒコナノミコト) 
       県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
熊鰐さんは出雲系なのです。

どうやらオオガが古代に重要な位置をしめていると、
マーサと意見が一致したのを思い出しました。

大神神社が福岡市和白にありますが、そちらは「おおみわ」と読みます。

神功皇后はこの神を畏れていました。
どうやら筑紫の古代の神なのですね。

出雲の方のブログを拝見するとルーツを筑紫に求めています。
私も出雲が筑紫の深層にあるのが気になって仕方がありません。

まだ訪れていない大根地神社は「オオネチ」と読みますが、
「オオナムチ」の変形ではないかと予想しています。

それが、この「こうやの宮」の所在地太神(おおが)とどうつながるのか。
この宮の正式名は「磯上物部神社」というそうです。

大己貴と物部がつながるとしたら、これまた沢山の研究が必要ですね。

う~ん。
今日は、備忘録として書いておきます。







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by lunabura | 2013-03-02 22:26 | 七支刀 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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