ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:徐福と弓月の君と秦氏( 4 )

景教と秦氏の時代的な関係が分からない


景教と秦氏

時代的な関係が分からない

私の目の前には写しかけの『儺の国の星』があります。
「ゾロアスター」の文字にマークを入れていました。
「景教」という文字も見えます。

丸々2ページ。ふう~。
タイピングしながら、量の多さにひるんだ所でした。

でも、またシンクロが起きたから、続けなくでは。
今日のお題は「景教」という単語。

秦氏について書かれたウィキペディアの一文に「景教」の文字があったのが
気になっていました。
それがこれ。
「秦氏には景教(キリスト教のネストリウス葉)徒のユダヤ人とする日ユ同祖論」
があるということです。

これに関しては、日本に渡来したのはユダヤ人だけではないので、
「日ユ同祖」という言葉は不正確な表現なのだと今は分かります。
「日ユ一部同祖」というべきだと思います。

でも、この論を理解するために「景教」をネットで調べていくうちに、
景教が中国に入ったのが7世紀前半だということが分かりました。

秦氏の日本への渡来が3世紀。
景教の中国流入が7世紀ですから「秦氏は景教徒のユダヤ人」
という説は時代が逆転しています。
この「日ユ同祖論」の論拠は何なのでしょうか。

秦氏は7世紀以降、再び渡来した?
浅学なために、よく分かりません。誰か教えてください。

次は参考にした文です。

世界大百科事典内の景教の言及
【キリスト教】より
…布教の経路は,北のクルディスターンからいわゆるシルクロードを通って中央アジア,トルキスタン,中国,モンゴル,シベリアに及ぶ陸路とアラビア半島からインドに達する海路の二つがあった。635年に長安(西安)に達したネストリウス派教会は景教の名で知られる。中国では勢力が伸びなかったが,のちこの教派を優遇したモンゴル人の元の時代に多少の拡大を見た。…
【東西交渉史】より
…このルートを通って,西暦紀元前後には仏教が中国に伝来し,2世紀以降,中国人の精神生活に大きな影響を与えたが,2世紀の後漢の都洛陽では,仏教のみならず,衣食住および芸能の分野でも〈胡風〉と呼ばれた西域趣味が流行した。このルートは,ひき続き盛んに利用され,5~6世紀にはゾロアスター教(祆(けん)教),7世紀前半にはネストリウス派キリスト教(景教),7世紀末にはマニ教(摩尼教)などイラン系の諸宗教がこのルートを通じて相ついで中国に流入した。また,それとほぼ時を同じくして,イランの美術工芸の伝統も中国に伝えられ,異国趣味にあふれた美術工芸品を生んだ。…
https://kotobank.jp/word/%E6%99%AF%E6%95%99-58637


真鍋はキリスト教伝来について、紀元200年頃には日本に入っていて、
中東の風習とともに伝えていたので、
戦国時代にキリスト教が入って来た時、人々は祖先の言い伝えと通じるものを感じて、
佐賀~長崎辺りでは容易に受け入れられたと言っています。

西暦200年頃ですから、まだ聖書が書き換えられる前の教義だということになります。
中東には多くの民族がいたので、日本に残された中東のシンボルの数々、
ユダヤだけに結び付ける必然はないなと思う、この頃です。


c0222861_20572632.jpg

景教 画像出典 ウィキペディア





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-02-01 20:58 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(0)

豊の秦氏


豊の秦氏

今日は「秦氏」のシンクロ。
ドアを開けたら居間のテレビがついていて、
鶴太郎が宇佐神宮に参拝するシーンが映っていました。
そのまま座り込んで見たのですが、司馬遼太郎の「街道を行く」を手にしながらの
旅番組で、最初に薦神社に向かっていました。

私が見逃した三角池(みすみいけ)のほとりで発掘をした人との対話がありました。
二メートル下は水が湧いていて、かつては沼地だったのを、
秦氏が枝敷きをして土手を7世紀ごろ版築したもよう。
枝敷きとは水城の時にも使われた敷粗朶(しきそだ)工法と同様の物のようです。

土が斜めに重ねられている図が一瞬出ましたが、王塚古墳の築造法に似てたみたい。

c0222861_22124176.jpg


テレビでは秦氏が3~4世紀に渡来して、
7世紀ごろ、豊に朝鮮半島から農法をもたらしたと言っていました。
3~4世紀というのは、ちょうど前回書いた弓月の君が求めて来た
秦人の救出のことを言ってるんですよね。

少し、私の理解が変なのかな?
秦氏って朝鮮半島由来の渡来人?
テレビでは朝鮮半島人として話していたように感じました。
私はてっきり中国から来たのだと思っていましたよ。
あらためてウィキぺディアを見ると、諸説あるんですね。


テレビでは豊の国が日本の農業の始まりという説で説明が進んでいましたが
???
板付や菜畑の方が古いと思うけど…。(´・ω・`)
いったいどうなってるんだろう。

稲作の渡来ルートの話ですが、最近Yさんから、米は北では作れないから、
朝鮮半島経由はあり得ないと聞いたばかりでした。
また、テレビでも、朝鮮半島の北は麦畑だと言っていました。
確かに、日本でも北で米が採れるまでに何百年かかったことか。


私は一時期、休耕田を借りて自家菜園をやったんですが、
その田んぼが放棄された理由は「水が冷たくて稲が育たなかった」というものでした。
山に近くて、山水が流れこんでくる地形だったんですね。
わずかの水温の差が問題だったのです。

米は冷たい水では作れないんだ。
だから、米作は南ルートでないと伝わらないという話がよく分かるのです。

歴史の世界ではこれからもずっと北ルートと南ルートの論争が続くのでしょうね。
こんなシンプルな真理は永遠に歴史の教科書に反映されないんだろうね。
「葦」を「米」と解釈させるのと同じように。


実は、今朝は「過去記事を読み直せ」というサインで目が覚めて、
秦王国に関しての考えや、弓月の君のこと、
まだまだ未熟な説を書いたな…と反省している所だったのです。

福津市の縫殿神社では、神功皇后のお蔭で加羅と通えるようになったと喜んでいます。加羅に秦人が留まっていたんですね。新羅が邪魔をしていたんです。

縫殿神社があるのは「奴山」(ぬやま)という所です。
ここに加羅と連絡を取りたかった人たちが住んでいたということになります。
3世紀ごろの話です。

秦氏の上陸地は福津~宗像近辺ではないかと思っていますが、
秦姓の分布から考えると、周防灘の方にひろがり、
豊に秦王国を築いたのかな…と考えたりしています。
まだまだ理解不足です。

ずっと前に書いた弓月の君の記事を続けて読めるようにしておきます。

http://lunabura.exblog.jp/i211/



いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-01-31 22:14 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(0)

徐福と弓月の君・竹内宿禰は襲津彦に迎えに行かせた


徐福と弓月の君

竹内宿禰は襲津彦に迎えに行かせた


本日の妄想


佐賀県には徐福伝説が深く根付いていて、
上陸地の話や、当時ぬかるんでいた話など、
けっこう具体的な話が今でも話題になる。

福岡県でも筑紫野市の宮地岳、福岡市の名島など、枚挙にいとまがない。
秦の始皇帝から逃れた徐福は3000人の童男童女を連れて、
日本に向かった。
生殖能力を重視したのだから、新たな国造りを意図した事がみてとれる。
船の数だけでもたいそうな数だ。
各船はばらばらに日本に到着したのだろう。

佐賀県の吉野ヶ里には中国の影響があると言われるが、
徐福のもたらした文化を指すのではないかと思っている。

ばらばらになった徐福の船団は長い時間をかけて互いの居住地を発見して、
連絡を取り合うようになっていたと思われる。

徐福の死後、約400年。

竹内宿禰が生まれた。
父が武雄市で祀られている。母も同様。
母の墓は小郡市の竈門神社に伝わっている。
小郡市のすぐ隣は基山(佐賀県)だ。
竹内宿禰は佐賀生まれだろう。

基山(きやま・きざん)は「キ」の国でもある。
竹内宿禰は和歌山県の紀の国の湊も利用していて、そこにも徐福伝説がある。
同じ「キ」の国なのだろうと思っている。


つまり竹内宿禰には徐福関係の血が流れているのではないか。
それがずっと気になっている。

宗像市の織幡宮は「シキハム」様と呼ばれている。
主祭神が竹内宿禰だから、彼の名が「シキハム」というのだろうか。
まだ、確証はない。
しかし、神功皇后をそこまで連れて来て、近くのハツでハタ織りを指示していることから、
秦氏の関連性が見られる。

竹内宿禰は神功皇后を旗頭にして新羅攻撃をした。

それから、しばらくして、
新羅によって足止めを食らっている弓月の君たちを
息子の葛城襲津彦に迎えに行かせた。(日本書紀)
弓月の君はもちろん秦氏だ。

一方、新羅では『晋書』辰韓伝に、
「辰韓は馬韓の東にあり、苦役を避けて韓に逃げて来た秦人が住んでいる。」とある。
この秦人も秦の始皇帝の時代の人たちだった。

そうすると、秦の始皇帝から海路で逃れた徐福たちと、
陸路で逃れた秦人たちがいたことになる。
後者が弓月の君とはいえないだろうか。王族とはいえ、王位争奪に負ければ命はない。
1~2万人を連れていたので、陸路でないと移動できなかった。


ふと、そう思い付いて弓月の君についてwikipediaを調べた。

弓月の君
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。

そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。

渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(wikipedia)

葛城襲津彦と平群木莵宿禰は竹内宿禰の子。

c0222861_20445998.jpg

イメージとしては上の感じ。
「弓月の君」=「秦人」であれば、妄想は結実する…。

ということで、久し振りの妄想コーナーですぞ。

徐福は言った。
「扶桑の国(日本)に先に渡って、平和な国を創っておきまする。
貴殿(弓月の君の祖)は陸路で人々を連れて東の果てに行ってください。
必ず迎えに行きます。」
「分かった。東の果ての湊で待とう。扶桑の国にて必ず会おうぞ。」
そう言うと、弓月の君の祖は海路で行く徐福を見送った。

徐福は有明海から入って行き、ありなれ川の右岸に着いた。
近くの倭人たちに技術をもたらしながら、
倭人と通婚して溶け込んで行った。
その一方で、弓月の君たちの居所を確認するために
使者を何世代にもわたって中国に送り続けた。

それから数百年後。
佐賀で生まれた竹内宿禰は成長して、弓月の君からの連絡を知った。
「ついに約束の時が来た」
息子の襲津彦を呼び出すと、加羅に迎えに行くよう命じた。


今日は、こんな妄想が浮かんでしかたがない。
取り敢えずメモしないと、次に進めない。

という、るなさんでした。

リンクはサイドバーからどうぞ。

竈門神社 玉母宮 小郡市
織幡神社 宗像市
葛城襲津彦 『古事記の神々』




いつも応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-01-31 21:58 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(10)

太秦 「うずまさ」とか、秦王国とか


太秦 「うずまさ」とか、秦王国とか

「うずまさ」というヘアースタイルから考えた


「太秦」について、真鍋が一言、書いていました。

「胡人を肥前松浦で大身(ありたけ)、山城葛野で太秦(うずまさ)と呼んだ。背が高く、しかも髪を束ねて頭上に結うからであった。胡人はSiriusシリウスの彼方から二神連れ立ちて来るものと信じていた。」『儺の国の星拾遺』p126 

佐賀県の松浦では、早くから渡来人が集落を築いていたらしく、
その渡来人たちを「胡人」と表現しています。
胡人とは中東、中近東、近東辺りから来た人たちで、大きな体をしていたようです。

その胡人を、松浦で「大身」と呼んだのは、その体格からで、
山城葛野で「太秦」と呼んだのは、髪型からだということになります。

「髪を束ねて頭上に結う」というヘアースタイルで思い出すのは
竹内宿禰が香坂王・忍熊王の二皇子と戦う時の戦略です。

兵士たちの髪を椎(つち)のように結わせ、そこに弓の控えの弦を忍ばせておいて、
敵に和睦案を出して、自分の味方の弓を切らせます。
これにだまされた敵が安心して同じように弦を切った時、
髪に隠した弦を取り出して弓に装着するのです。

この時のヘアースタイルが「うずまさ」ということになります。


さて、「竹内宿禰と太秦」から思い出したのが宿禰の九人の子の長男です。
長男は「波多八代」と言います。

c0222861_23105110.gif

これは古事記からの系図ですが、
建内宿禰の子として古代豪族がずらりと並んでいます。
子供たちがそれぞれ古代豪族になったのでしょうか。
それでは不自然です。
これは既に存在していた各豪族に竹内宿禰が通い婚して、
子を成して一族となった結果、後の世に、子供たちの祖としたのだろうと
考えています。

真鍋の本から、彼らの筑紫での本貫地が見えてきました。
許勢は筑後平野、平群は脊振山系、蘇我は早良区、葛城は犬鳴山系です。
木はもちろん基山辺りでしょう。
秦氏の在所はまだ出てきません。

竹内宿禰の長男が秦氏ということはどういうことだろうか。
ずっと謎でした。
それで、思い起こしたのが、
仲哀天皇が豊浦宮(忌宮神社)で軍備を進めていた時の話です。

軍船は主に下関、北九州、大分の沿岸で造らせていますが、
「旗」は筑紫の北部で作らせています。
具体的には、宗像市の織幡神社(祭神武内宿禰)が中心で、
その浦は「はた浦」と言いました。

船の帆を縫わせたのは隣町の福津市の縫殿神社。
のちに呉から連れて来た四人の織姫たち、兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)
呉織(くれはとり)穴織(あなはとり)のうち、兄媛だけ留めた地です。
(以上の各社はガイドブックに詳細を書いています)

これらは弥生時代から現地に織物文化が栄えていたことを示しています。
玄界灘沿岸と秦氏?
どう関係あるのだろう。

また、何故、竹内宿禰はその地域で織物作りを命じることが出来たのだろうか。
各部族がそれぞれクニを形成していた時代に、
紀氏である竹内宿禰がハタ氏に命じることができたのは何故か。

そんなモヤモヤがずっとありました。

そんな中、福津市に在住の秦さんが、自分たちは秦氏の直系だと名乗られました。
かつては「はだ」と発音していたそうです。

それを聞いて思いついたのは、宗像~福津には秦氏のクニがあり、
竹内宿禰はそこと通婚したのではないか、というものでした。
そう考えるなら、竹内宿禰が神功皇后を連れて、
旗や帆の制作現場を見せたのも合点がいきます。

仲哀天皇4年には下関の忌宮神社に秦の始皇帝の十一代功満王が帰化しています。
そして、今でも秦さんが福津にいる。
この二つの話に繋がりはあるのだろうか。

ということで、現代の秦姓の分布を調べてみました。

c0222861_2382342.jpg

これを見ると秦姓は福岡県と大分県に集中しています。
筑紫から豊にかけてです。
そして、弥生時代の秦氏の本貫地は福津から宗像にかけての沿岸地?

ちょっと、想定外の話になってしまいました。

でも、竹内宿禰と秦氏の通婚を想定すれば、のちに弓月の君の知らせを受けて、
葛城襲津彦たちが朝鮮半島に足止めされている秦人たちを救出に行ったのも、
動機があるな、と思ったりした次第です。


そしてもう一つ、思い出したのが、『隋書』倭国伝の記事です。

大業(たいぎょう)四年(608)、
隋の煬帝(ようだい)が倭国に使者を派遣しています。
この時の経路が次のように出てきます。

「(略)東に航海して一支国(いきこく)に着き、さらに竹斯(ちくし)国に至り、
また東に行って秦王国に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。
それでそこが夷洲(いしゅう)とおもわれるが、はっきりしない。
また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する」

竹斯国の東に秦王国がある。

この秦王国って、想定した本貫地と合致しない?


地図 織幡神社







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-01-30 23:11 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー