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カテゴリ:安曇族と志賀島( 14 )

志賀郷と阿曇郷



志賀郷と阿曇郷



香椎のアカデミックカフェのレジメを作りました。

香椎宮を中心にして起こった出来事を並べ、神社のリストを作ったら、
旧糟屋郡(かすやぐん)と重なってきました。


のちに、旧糟屋郡の一部が福岡市東区に編入したり、古賀市になったりしました。
香椎宮も現在は福岡市東区です。


旧糟屋郡は表糟屋と裏糟屋に分かれるそうで、西の方が表糟屋となります。
これらの地域を考えていると、不思議な感じがしたのです。

それは倭妙類聚抄に書かれた糟屋の志賀郷と阿曇郷と
重なるのではないかという感覚なのです。


阿曇郷はウィキペディアでは新宮町付近に想定してありますが、
それでは狭すぎます。

年毛宮(としもぐう)に尋ねると、私たちは安曇族です、と言われたので、
地図に乗せると、宗像市のすぐ西側まで阿曇郷となってきます。
アチメの浜という安曇の浜もあることだし。



で、南の方、夷守駅(ひなもりえき)のある粕屋町を見ると、
志賀神社があり、鹿の浜と万葉集に歌われているので、
そこまでは少なくとも志賀郷となります。

志賀郷の浜は遠浅(とおあさ)だったので、小舟で輸送していました。
現代の博多湾も昭和になって「しゅんせつ」されて、
ようやく大型船が入港できるようになったそうです。

朝鮮通信使が博多湾に入らず、相島に入港するのは、
水深が足らず、外洋船が入れないからです。

黒船が相島に来たのも、水の深さの問題があったのです。
黒船の婦人が気分が悪いから休ませてくれと言って上陸したそうですが、
なかなかの策略です。

名島は水深が深かったので、大型船が入れました。
秀吉が上陸しています。

こう考えると、
旧糟屋郡全体の海岸線寄りが安曇族の支配下にあったと想定できます。
表糟屋が志賀郷で、裏糟屋が阿曇郷と重なるのではないか。
そんなことを考えた一日でした。


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赤が旧糟屋郡。綾杉が推定する志賀郷が緑、阿曇郷が青。
(マウスで書くラインが震えるので、おおまかなイメージで捉えてください)







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by lunabura | 2016-06-04 23:30 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(2)

「阿知女作法」と磯良のつながり


「阿知女作法」と磯良のつながり


志賀島での質問に、「阿知女作法」に関するものがありました。

まずは、阿知女作法について、Wikipediaを見て見ましょう。
阿知女作法(あちめのわざ、あちめわざ、あちめさほう、あじめのさほう、等々)とは、宮中 及び神社等で歌われる神楽歌の一つ。本来は、神の降臨を喜び、神聖な雰囲気を作るためと思われる一種の呪文。

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)、お~けー(一度)のフレーズを阿知女作法と呼び、これが2組(本方・末方)に分かれて唱和される。

神楽歌は、庭燎(にわび:夜の準備)、採物(とりもの:神迎え)、前張(さいばり:神祭り)、明星(あかぼし:神送り)の段階に大きく分けられるが、阿知女作法で有名なものは庭燎の後に、また、採物、前張 等でもフレーズを変えて繰り返される。鎮魂祭の歌(下記)にも使用される。
平安中期には儀礼として完成していた。延喜末年頃に譜の統一が行われている。


これは検索すると動画で、神楽演奏を視聴することができます。

詞は「あちめ」「お~」だけの神楽ですが、
神秘的で遠い世界に呼ばれるような趣の演奏です。

Wikipediaでは、「あちめ」=「安曇磯良」説を紹介しています。
「あちめ」とは、男神と考えられている安曇磯良を指すといわれ、「お~お~お―」とは、安曇磯良が返答している声との説(太平記等)がある。しかし、後世に当て字したものだろうか、「阿知女」と、「女」の漢字がついており、詳細は不明である。また、「うずめ」の転訛との説もある(愚案抄)。
「あづみ」という言葉は次のようにさまざまに変化しています。
アヅミ
アドべ 
アドン    
アントン(アンドン)
アド 
アジム
アヅマ 
アヅチ
アツミ
アヅサ

「あちめ」もその一つと考えられます。

また、「うずめ」と解釈するのも、連想できるものがあります。
それは、志賀島に、磯良だけが「アメノウズメの舞」を舞えたという伝承が
あるからです。

これは、神功皇后が志賀島の勝馬まで出かけた時の話です。
神功皇后が側近を連れて、志賀島の北端まで行ったのは、
安曇の祖神即ち皇神たちに参詣するためでした。
ところが、肝心の磯良が来なかったのです。

それでも天の岩戸の神楽を奏上しようとすると、
アメノウズメの舞を知る者がいませんでした。
「磯良なら知っている、演奏していれば必ずやって来る」という話になり、
磯良抜きで神楽を奏上していると、
やはり、志賀の皇神(磯良)が金の亀に乗って舞いながら登場したという話です。

ですから、磯良の舞う神楽にはウズメの舞が含まれているのです。


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(その現場・志賀島大戸小戸)


さて、紹介した話の中で磯良を「志賀の皇神」(すめかみ)と表現しています。
「皇」は皇統にしか使えない文字なので、安曇族の立場を考えるのに大事な表記です。
何故、「皇」が許されるのか。
それは安曇族が神武天皇の祖先に当たるからです。

そう、神武天皇の母・玉依姫は安曇の姫なのですから。

さて、話を戻しましょう。
質問は、阿知女作法の「阿知女」が磯良を指すなら、
何故、宮廷に伝わるのかという内容だったかと思います。

この時、自分がどう返事したのか、記憶が曖昧なのですが、
一つは傀儡舞で磯良が登場する時にも祝詞が挙げられているという話をしました。
磯良と祝詞には切っても切れない深い関わりがあることを示しています。

また、志賀島が禊に厳しい島だったことも手掛かりです。
それはイザナギが黄泉の国から戻って勝馬(志賀島)の小戸で禊をして
神々が生まれたことから、禊に厳しい島なのです。
ここは神話の始まりの地なのです。

神話の始まりの神、天御中主神は沖津島に祀られています。

これらは安曇族が神道の始まりに深くかかわっているということを暗示しています。
宮廷の祭事に安曇族の神楽が残っていても、それほど不思議ではありません。
こんな話をしたかな。(つもり)


で、真鍋大覚(だいかく)を昨夜も見ていると、タイミング良く、
安曇族が船を出す時の宣言(のりと)の話が出てきました。

今日はそれを引用します。

その前に。
「あへ」とは「北」です。
「胡人」とは「中近東付近から渡来してきた人」です。
「七つ星」は北にある星、即ち「北斗七星」と解釈して読んでみてください。

胡人は「N.T.V」の三音はよく紛れていましたから、「ななつのほし」は素直に「わたつみのほし」になりました。海を渡る舟人に七星は目をそらすことの出来ぬ存在でありました。

 「わたつみのほし」を略したものか阿曇(安積)星の名がありました。「あへのかたのよみのほし」、即ち北位を看取る星の意を舟人が短くまとめた名かとも考えられます。安住なる氏族は舟人として上古に知られた家系でありまして、北辰を氏神として祈ってきました。

その子孫は後に倭寇となりますが、元寇の後は日蓮(1222~1282)の宗教に吸収されて維新の後までも西海の重鎮たる一代勢力を維持しました。

察するに前述の長い名は、倭人が海北道即ち玄界灘に舟を出す時の宣言(のりと)の一節にあった句かと思われます。

現在の神官の読み挙げる祝詞は、延喜式更に千年後にこれを統一した内務省神社局が、型に嵌めたものでありまして、昔はもっとのびのびとしたおほらかな大和言葉が氏族伝来の調子で語られていたと香椎宮司木下祝夫(1894~1980)が述べておられます。
『儺の国の星』p60


今回、注目する一文は
「察するに前述の長い名は、倭人が海北道即ち玄界灘に舟を出す時の宣言(のりと)の一節にあった句かと思われます。」
です。

安曇族が玄界灘に舟を漕ぎ出す前に、
祈りの言葉を捧げていたことがこれで分かります。
北の星々に祈ったわけですね。

同じ安曇族の風浪宮では「火清鳴弦御祈祷」(ひきめんごきとう)といって、
船出の前に弓を鳴らして魔を祓います。

安曇族と天皇家との関わりを考えると、
神武天皇が安曇の姫・玉依姫から生まれているので、
神武東征のとき、船を提供したのは母方の安曇族以外には考えられません。

神武天皇は北部九州の各地に姿を現していますが、
移動手段は安曇族の船だったはずです。

安曇族は出航するたびに祝詞を捧げ、弓を鳴らして魔を祓っていた。
これを神武天皇は毎回見ていたはずで、
これらの儀式が宮廷に伝わるのも自然な流れだと思いました。





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by lunabura | 2015-01-13 21:23 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(4)

奈多



今日は思いっきりドタバタの日でした。

原稿の手直し第二段が始まり、いいスピード感で進めていましたが、
今日は一日の流れがいつもと違う。

占星術的にも、今日から空気が変わるようで、
どなたにもそれぞれ何らかの変化があっているのではないかと思います。

志式神社の重要性に着目した編集者から追加書き込みの要請がありました。

ししき神社。
荒ぶる神々を鎮める宮。


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そのこよなく美しい渚で繰り広げられた神々の舞。
磯良が綿津見神から干珠満珠を貰い受け、豊姫を通して武内宿禰に渡す。

もう誰一人としてこの神々の物語を語る事はありません。
年に一回の神楽がようやくその物語を繋ぎとめてくれました。

今日はそんな煌めきの古代と現実をいったりきたり。

蔵司の現地説明会を忘れないうちに書き留めておきたいのですが、
優先順位の絞り込みからは
志賀島での歴史講座の準備が最優先です。

打ち寄せる波に重なって見える金や赤や白や青の衣裳のきらめき。
神となった人々の輝きを語る日まであと一週間になりました。



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by lunabura | 2014-10-27 22:05 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

安曇族と志賀島(11)安曇連の城さがし 3 ついに来た


安曇族と志賀島(11)
安曇連の城さがし 3
ついに来た


前回の天神社から移動すると、思いがけない平地がありました。

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正面のピークが二つある丘の左のピークに天神社があります。

写真を撮って振り返ると、鹿さんがじっと立っていました。

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「ここに割れた土器が沢山出て来たんです。畑を作るのに邪魔だったらしいです。」
電柱がある辺りを指し示しながら、「祭祀があっていたんじゃないですかね」とも。

言われて見回せばフラットな地形で、何らかの施設と集落があってもよい広さでした。

当然ながら、壱岐対馬や朝鮮半島に向かう船は志賀島を通っていきます。
そして、ここは船を出せるかどうか、最終判断をする場所なので、
航海の安全を祈る施設があって当然です。
海を見ながら綿津見の神々に祈った後、土器を割った情景が目に浮かびそうです。
現在は家があって、ここからは海は見えません。

浪が高ければ何日も日和待ちをしたでしょう。
のちの時代には、その人たちの為の宿泊施設があったかもしれません。
というのは、空海の伝承がここにあるからです。

「向こうの山の右手には空海が休んだという瀧があります」
写真の正面の三角形の山の右手にその瀧があり、川となって脇を流れていました。

遣唐船もまた、ここで出港のタイミングを計り、その間、空海たちも下船して過ごしたのでしょう。
空海はこの時、31歳。
体力気力ともに充実した年代だったんですね。

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空海のゆかりの滝は砂防ダムとなっていました。
そばに御堂があり、4月29日には参拝客で賑わうそうです。


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これは前回作成した地図。
「『ミヤカタ』『ブクデン』は志賀海神社の神田だったそうです」と鹿さんが調べていてくれました。
そうすると、漢字は「宮方」「奉供田」でしょうか。


そして、滝に向かう山野が るなが想定する安曇城。

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崖の上に出ると、フラットな地形がありました。海が見えます!
位置的には大濱の砦の上あたりでしょうか。

「ここは『城山』ともいったそうです」
「そうですか!」
「あの二階建ての家がある所はかつて小山があったんです。
それを崩して地盤を整えるのに使っています」
「それじゃあ、きっとその丘の上に見晴らし台があったんでしょうね!」

この写真の右奥に病院の施設がありました。
かつてはコカコーラの施設だったそうです。
グーグルで見て、城を想定した場所です。
そこはいかにも城を作るのにふさわしい地形でした。

崖の下の弘の漁港は古代から使われていて、
もともと安曇族のプライベート湊だったのではないかと思っています。

船から上がれば少し高台の所に集落があって祭祀施設が造られ、
さらに高くなった所に安曇の長の城。
そして、もう一つ、高くなった所に見晴らし台と砦がある。
そんな想像をしました。
城として理想的な場所です。
ここを発掘すれば、倭奴国~奴国の古い時代の安曇城跡が発見されるのではないでしょうか。

それに対して、もう一つの湊は金印公園辺り。
外敵や病気から城を守るために国際港とし、そこで荷を検査して金印で封泥をした。
だから、金印はそこにあっても不思議ではない。

そんな思いをいだきました。
鹿さん、お世話になりました。ありがとうございます。

安曇族と志賀島 過去記事はこちら
http://lunabura.exblog.jp/i214/







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by lunabura | 2013-11-29 20:55 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

安曇族と志賀島(10)安曇連の城さがし 2


安曇族と志賀島(10)

安曇連の城さがし 2
天神社

懸案の「安曇連の城」さがしの続きです。

猛暑が終わるのを待つうちに初冬になっていました。
おだやかな小春日和の日に、ふたたび鹿さんにお願いして現地を歩きました。

その前にある所へ。

「ここにはどうも古墳らしいものがあるんです」
と、案内された崖には穴がぽっかり。
横穴墓のように土を掘り込んだ穴でした。
防空壕や野菜保管所にしては場所が変なのですが、
ブッシュに遮られて近づくことはできず、何の穴か分かりませんでした。

つづけて、
「ここも古墳みたいなんです」
と示された地面を見ると、石棺墓の蓋石が並べられているように見えます。
このようなものが複数あるそうです。
(盗掘されたらいけないので写真は控えますね)

ほかに「金の蔵」と呼ばれる場所がありました。
ブッシュ化していて近寄れないのですが、何故そう呼ぶのかは誰も分からないとか。
名前からして、安曇族の財宝の在り処(か)か…。
これを聞けば、いよいよ城は近いぞ、と思われるのでした。

考古学的には、志賀島は金印発見後、「全島調査された」という話を
何度か聞いたのですが、実態は違うようですね。
調査されたのは金印公園付近だけ?
もしかしたら、志賀島は古来の聖地と国際港としての認識が足りなくて、
一部だけの発掘で全島という言葉が使われてしまったのではないかと思われました。




そして次に案内されたのは天神社でした。

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鳥居の右側が欠けているのは、先の福岡西部沖地震のせいだそうです。
鹿さんもパソコンが壊れてしまったそうです。
石段は急です。

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拝殿です。

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御祭神はイザナギ・イザナミ神だそうです。
これは別の所から遷宮したそうです。

志賀島にはイザナギが禊をした大戸・小戸の伝承地がありましたね。
また、志賀島から見える二上山(立花山)はイザナギとイザナミの夫婦の宮という伝承がありました。
その二点を結ぶエリア内に夫婦神を祀る宮があるのには、深い意味があるように思われます。


「この境内が前方後円墳の地形をしているんですよ」
と言われて見回すと確かに円になっていて、廻りは崖になっています。
拝殿に向かって右手の裏の方に前方部と思われる地形が続いているそうです。


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振り返ると稲荷社がありました。
「あ、稲荷だ」
「これは最近、遷してきたものです」
「そうですか」
そう答えながらも、るなは「イナリ」を思い出していました。
  この地形は神功皇后伝承でよく出会った地形。
  イナリだ。
  製鉄か、武器保管庫の可能性があるのでは。
そんな場所に前方後円墳を造る可能性は十分にあります。
古墳時代って、高地の見晴らしのいいポイントを選んでいるケースがあるもんね。

  ここは岬状に張り出した地形で、防衛上重要な所だし、
  イナリがあり、のちに前方後円墳が出来たと考えても無理はない。
あとは、考古学的な調査が明らかにしてくれるでしょう。

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帰りには糸島半島がまっすぐ見えました。
その一番高い所に造られた高祖城から逃れて来た某が故郷の山の見える所にこの神社を建てたそうです。


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弘地域にいると、糸島が大きく迫ってくる不思議な感覚を覚えました。


海から見て、初めて糸島半島の古代の全体像を想像できるようになりました。



(つづく)


安曇族と志賀島 過去記事はこちら
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志賀島 天神社







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by lunabura | 2013-11-28 23:30 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

安曇族と志賀島(9)呉から来た安曇族・九州王朝の場所を伝えていた


安曇族と志賀島(9)

呉から来た安曇族
九州王朝の場所を伝えていた

蒙古塚の話です。
金印公園のすぐ北にある蒙古塚ですが、もともと「クビキレ」という地名でした。
元寇の船が一艘着岸したので、乗組員を殺したところです。
しかし、呉の乗組員だけは助けたそうです。
何故なら安曇族が呉から来た民であり、乗組員の言葉で呉人かどうか分かったからだそうです。

安曇族は呉から来た民なので漢字を知っていたそうです。
それは当然だと思います。

鉄や銅を作る事の出来る人たちは、グラムやキロに相当する言葉を持ち、
故郷からその単語と共にやって来ます。
船を造る事の出来る人たちは、センチやメートルに相当する単語を持ち、
のこぎりや斧で木を測って切ったり削ったりしました。
それらの言葉は倭語になって、意味不明ながらも使われているものもあるでしょう。

真鍋大覚はさらに中東の言葉に遡って説明しています。
安曇族は中東から呉を経由して倭国に辿り着いたことになります。

通説では漢字や仏教の渡来の話になると、
突然『日本書紀』の記事がまかり通るのが不思議でならないのですが、
筑紫の状況から見ると、正史に取り上げられない文化交流が早くからあり、
直接、半島や大陸と文物をやりとりしていているのは明らかです。

金印の時代だって、30国近くがそれぞれに中国を目指したのですから、
朝貢品を数えて記載するのに漢数字などを使わずにどうして目録を作れるでしょうか。

歴史の真実を調べて行くと、通説とは違う世界が広がるのは仕方がないですね。
(志賀島の方々も通説では説明できないことがあって困っているみたい)

安曇族は漢字を知っていたので、文書が読み書きできて通訳もできる。
船に乗って国境のない世界を自由に駆け巡るようなスケールの大きな海の民だでした。



さて、呉について思い出すのは「倭人は呉の太伯の子孫」と中国で倭人が自ら言ったという話です。
安曇族が呉の末裔だということは歴史を捉えなおす大きな手がかりとなると思います。

ずっと気になっていたのが、「志賀皇神」という名称です。
「皇神」ということは、天皇家の祖という意味があるはずですよね。

確かに豊玉姫の子と玉依姫が結ばれて、神武天皇が生まれたのですから、
安曇族の血が濃く入っています。

通い婚の時代ですから、本来、神武天皇は安曇族の長として育てられるべきものだったのかも知れません。

中東から呉を経て、対馬を拠点としていた安曇族は豊玉彦の時代に
志免町から須恵町あたりを本拠地として王宮殿を築き、名島に離宮を造った。

そんな聖洲さんの話がだんだん真実味を帯びて来ました。

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(これは地名から建物群を推測した画 王子八幡宮・竈門神社に詳細)

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(名島神社に詳細)


日守神社(ひまもり)の近くに志賀神社があるのは、
そこまで安曇の船が入っていたからと鹿さんも話します。
かつての志賀郷というエリアはかなり広いのです。

ウガヤフキアエズが安曇の母・豊玉姫から生まれ、その妹を玉依姫を妻としたのは
安曇族の血の濃さが必然だったのでしょうか。
安曇族の祖神に志賀「皇神」として「良し」としたのは余程のことです。

そうすると、あの勝馬の元宮まで天皇たちが次々に訪れたのも納得できます。


「天孫族は武器を持ってきた」と鹿さんが言いました。
その言葉は安曇族と山幸彦の社会がかなり異なっていた事を暗示しています。

山幸彦の執拗な攻撃による海幸彦の不幸を見ると、
不合理な事件が起こったのではないかと胸を痛めます。
海幸彦と山幸彦は兄弟となっていますが、
「海の民」と「山の民」のシンボルに読み変える必要があるかもしれません。

しかし、安曇族はさまざまの辛苦を呑みながらも泰然として歴史を育んで行った。

その歴史の中には香椎宮を仲哀天皇に提供するということも含まれていたでしょう。
深い縁があるから仲哀天皇と神功皇后は見知らぬ香椎宮に手ぶらでやって来れた。

羽白熊鷲や田油津姫の討伐後に香椎宮からの疎開先である久山町の斎宮を提供したのも、
やはり安曇族ということになるでしょう。
安曇族こそ奴国を建国した民でしょう。

それから時代が変わり、奴国が高良山に退避したという話があるのも、
戦いが海の向こうから絶えずやってきていたから。
高良大社にはすでに玉垂命(安曇の海神)が祀ってあったので、
入城に混乱はなかったと思われます。

そして鹿さんは思いがけない言葉を一言。
「安曇族は九州王朝にも物資を運んでいました」
「え?九州王朝?  そ、それは何処ですか?」
「八女だと聞いています」

八女か…。
盲点だった。
八女といえば磐井の根拠地ではないか。
そこなら安全で豊かな土地だ。
八女もまた島のつく地名が多く、昔は海が来ていたといいます。

また、大川の風浪宮の宮司さんから伺った大川と八女の深い関わりを思い出しました。
風浪宮もまた安曇族でしたね。

榎津(えのきづ)という湊がその近くにあって、神功皇后もそこから上陸したのですが、
国際港でもあり、古代の異国の地図にもその名が書かれています。

安曇族は志賀島から八女までどうやって物資を運んだのでしょうか。
それは筑紫の北と南を貫流して流れる「ありなれ川」の存在が説明してくれます。
志賀島から小舟で針摺の瀬戸を越えて宝満川、筑後川と下って行けばいいのです。

安曇族は北の叶の浜(志賀島)と南の榎津(有明海)という筑紫の国際港を
二つとも掌握していたことになります。
その財力と航海力で各地の美人を擁していたそうですよ。

九州王朝が八女にあったのはいつのことでしょうか。
都は北から南に移動して行ったのではないかと考えています。


王子八幡宮・竈門神社
http://lunabura.exblog.jp/16413004/

福岡県粕屋郡志免町南里宝満山
地名から推測された那国本宮の地
応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか?

名島神社
http://lunabura.exblog.jp/i21

名島神社(6)倭国の将士たちはここで名乗りを挙げた
名島神社(1) 豊臣秀吉が御座所を設けた
名島神社(2)ここには「那の国」の宮殿があったという
名島神社(3)三笠宮とオリエント文化研究
名島神社(4)君が代の歌のルーツがあった
名島神社(5)昭和の頃 竹藪に覆われていた・竜巻と鯖・ムーダン


地図 蒙古塚





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by lunabura | 2013-07-26 21:44 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(6)

安曇族と志賀島(8)乙子神社の祭神は仁徳天皇の弟・稚郎子皇子命だった


安曇族と志賀島(8)

乙子神社の祭神は仁徳天皇の弟・稚郎子皇子命だった


その日のもう一つのターゲット。
それは
乙子森
乙子の森というのは志加大神の御子の御塚なり。御乳が少なくて辛苦された。
現代で乳汁の出が良くないものは水扱の器を作って祈れば必ず乳が出るという。

という乙子森さがしです。
「おとしのもり」と読みます。

志賀大神の御子の塚だということで、もしかしたら豊玉姫かもと思ったのですが、
志賀大神と志賀皇神は別だと分かったので、豊玉姫の可能性はなくなりました。
志賀大神とは安曇磯良のことですから、その姫の塚だということになります。

鹿さんはいとも簡単に「乙子神社」に案内してれくれました。
勝馬の小さな平野からいきなり高度を上げながら山に入って行きました。
細い車道もかつては人道で、他の村と行き交う唯一の陸路でした。

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ほどなく車を止めるように指示があり、狭い路地に頭を突っ込むようにして駐車。
左手のガードレールの下の方に祠の緑の屋根が見えました。
地元の方に案内していただかないと、とても分からない所でした。

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古代の神社の境内とはこのように自然林に囲まれてあったのでしょうね。

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道路から下るとすぐに古木に抱かれた境内が。
そしてその祭神を見て驚愕したのでした。

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「稚郎子皇子命」と彫られています。
『日本書紀』では「菟道稚郎子皇子」と書かれている「うぢのわきいらつこのみこ」です。
なぜ、ここに!?

誰もがそう疑問を持つはずです。
ウィキペディアを見ました。
応神天皇の皇子。(略)

父天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談で知られる。

百済から来朝した阿直岐・王仁を師に典籍を学んで通達し、父の天皇から寵愛された。応神天皇40年(309年)1月に皇太子となる。翌年に天皇が崩じたが、太子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。

そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、太子を殺そうと挙兵する。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知し、大山守皇子はかえって太子の謀略に遭って殺された。

この後、太子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。

尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の八田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたという。

「菟道稚郎子皇子」という名前は聞いたことがあっても、
このような事件があったのは知りませんでした。
美談と書かれていますが、どうみても話全体が不自然ですね。
誰が見ても、捏造されていると思うでしょう。

この事件が神功皇后の孫に当たる世代の話だというので、
こんな事になってしまったのかと、残念な思いもします。

その皇子が志賀島の山の中に祀られている。

情報は「点」だけなので、何とも妄想のしようもないのですが、
これもまた、志式神社の祭神のように、安曇族は真実を知っている…
そんな思いがします。

勝馬が、景行天皇、神功皇后が参拝するような聖地だったということが
すでに分かっているので、
応神天皇やその御子たち、と続けて参拝があったのかも知れません。

そして、対馬の綿津見神社を検索していて、
仁徳天皇の時代にも、異敵が本州の西を襲おうとした話があったのを見つけました。本州の西といえば、あの蓋井島(ふたおい)の話を思い出します。
仲哀天皇の豊浦宮の時代に、新羅がいったん上陸して占領したのを
神功皇后が戦って取り戻したという話です。

その後、ついに新羅を討って凱旋した話になっているけど、
まだまだ不穏な時代が続いていたということになります。

そうすると、再び安曇族の援助を得る為に皇家が
神功皇后に倣って志賀島にやって来たという可能性が出て来ました。
なかには久米皇子のように、客死した人たちもいたのかも知れません。
そういえば、元宮の沖津島には隼人の防人がいたとも聞きました。

話を戻しましょう。
祭神の名前に「菟道」の字が付いていないのは一つのヒントです。
薨去後に地名が付けられたのでしょうから、
もともと「稚郎子皇子」だったと言えるのではないでしょうか。

仁徳天皇の兄弟が祀られているのは乙子神社だけではありませんでした。
近くの山には兄の大山守命が祀られているそうです。
今はブッシュになって道が無くなっているとか。

こうしてみると、
筑紫には、まだまだ手が付けられていない歴史の真実が残されているようです。

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車に戻ると、向こう側がよく見えました。
平地がある…。
何故、山の中にこんな広い平地があるんだ。
池の跡なのだろうか。


結局、探していた志賀大神の御子の塚については分かりませんでした。
しかし、時代的にはそれほど離れた時代ではないのですね。
まだ、どこかに古墳が眠っているのかも知れません。
そうすれば、きっと 石棺墓でしょう。


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by lunabura | 2013-07-25 20:46 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

安曇族と志賀島(7)伊邪那岐命が禊をした「小戸」


安曇族と志賀島(7)

伊邪那岐命が禊をした「小戸」

鹿さんは「城の腰」を教えてくれたあと、「高天原」「高麗囃」という地名の近くを通り、
「小戸・大戸」に連れて行ってくれました。

「イザナギの大神のミソギ祓いをされた小戸は勝馬にある」
地元でもそう伝えていたのですね。

かつて一人で、地図を見ながら探し廻った場所に一発で到着。
まさか、地元の方に連れて来てもらえるとは思ってもいませんでした。
  また来たよ!
c0222861_21155421.jpg

ここは志賀島の最北部、綿津見三神を祀った元宮三宮に囲まれた所です。
綿津見三神はイザナギから生まれて、それぞれ三宮に分かれて祀られています。

c0222861_21162119.jpg

地図には他にたくさんの地名が書かれています。
かなり分かって来たのですが、「大戸・小戸」がよく分かりませんでした。
これ以上は具体的に詳しく特定できないだろうとあきらめていました。

ところが、思いがけず鹿さんが教えてくれました。
「小戸」と「大戸」は別です、と。

「大戸小戸」とは「大戸」と「小戸」を短縮して書いていただけでした。(+_+)

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龍さんがくれた志賀島の地図。
平成17年に福岡市東区によって書かれた地図です。

明神と書かれた所が沖津宮。それを挟んで大戸と小戸があります。
(どうやら安曇族の地名や名前の付け方の特徴に大・小を付ける特徴がみられますね。
大金・小金。大濱・小濱とか)

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これが現場。砂州から沖津宮(明神)を見ています。
この砂州から左が小戸、右が大戸です。

c0222861_21173773.jpg

左手の小戸です。ここは泡がよく立つので「泡ゆき」が「あわき」になったのでは、と。
沖津宮の白い鳥居が見えていますね。

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こちらが右手の大戸。かつては船は大戸から入港したそうです。
それでも赤瀬があって岩礁が多く、入ってくるのはとても難しかったとのこと。
波が荒い時には小戸の方に船を着けたそうです。


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先程の地図に元宮三宮を加えてみました。

鹿さんの話では、イザナギの命は左の小戸の浅瀬で禊をして、
右手の大戸で潜って禊をしたのではということです。
なるほど!

c0222861_21213649.jpg

それに倣ってでしょうか、志賀海神社の祭りの前の禊場は沖津島の岩のあたりだそうです。

思いがけない収穫でした。


そうだ。もう一つ知りたい事があった。


大戸小戸 大戸小戸というのは勝馬山の側に入り海のようにして、その東に穴がある。
深く入って際限がない。伝にいうには、志加皇神、神遊の瀬よりこの穴に出入りされた。ゆえに大戸小戸という。

「大戸小戸」では志加皇神が「神遊(しんゆう)の瀬」から穴に出入りしていたといいます。
「志加皇神」とは「綿津見三神を祖とした安曇族の神々」ですが、
「その神々が出入りする穴」というのにえらく魅かれまして。

見つけたいなあと思ってみても、人家や畑があって、一人では無理だと思っていました。

「あの沖津宮の島には洞窟はありませんか」
「いや、聞いたことはありませんなあ」
やっぱり無理か。

ところが、鹿さんはその後調べてくれていました。
「洞窟は畑のあるあたりがかつては入江で、外から見られないので洞窟のようだと言っていたそうですよ」
「そうですか。ということは、現在陸地になっている所なんですね」
 
 私は洞窟は沖津宮の島にあると思い込んでいました。
言われて、文章を読み直すと、「勝馬山の側に入り海」とありますね。
冒頭の地図を見ると分かりますが、思いがけず広い田畑が広がっています。
かつては入り海だったそうです。
今は沖積平野で、昭和に入っても土砂崩れで家が埋まったりしたそうです。

神秘的な入江とそこに隠れる舟の数々。
その奥に豊玉彦などの隠れ屋敷があったのでしょうか。
だんだん、古代の世界が見えて来ました。


そして、先程の地図に赤丸を付けているのですが、
「猪狩」という字名があって、びっくりしました。
  …また猪だ。

「猪」の地名にはどうやら「銅」が絡んでいるのです。
伊野天照皇大神宮の猪野。
位登八幡神社の付近の猪の地名と土折猪折の伝承。
製銅の民のシンボルは「猪」?

この猪狩の近くに神功皇后が太刀を打ったという太刀打神社があり、
また細型銅矛の鋳型が見つかったという場所もこのエリアです。
古墳もあるらしい。

この島には製鉄遺跡が見つかっていないのですが、鉄滓は出土しています。
鹿さんの話では
「志賀島の砂鉄のチタン含有量が10パーセント。
糸島が1パーセントなので、糸島産が溶けやすかった。
安曇族は鉄鋌を輸入していた」
という話でした。

糸島でも志賀島でも製鉄が試みられて、
よりよい鉄が出来た糸島の方が古代の一大製鉄所として発展していったんですね。

そうか。近畿地方の巨大古墳に眠る王者の鉄鋌のベッドも、
安曇族の働きがあってのことなんだ。

謎の遷宮
神功皇后の時代まではこちらが中心地で、その後、表津宮だけは
南の方に遷宮します。それが現在の志賀海神社です。

その原因については、土砂崩れが一番だったのではないかと思うようになりました。
また、皇后軍の新羅戦の時、大波(津波)が起こって新羅の中ほどまで
水が到達したことが『日本書紀』から伺えますが、
その返し波が日本海を襲った可能性があり、
北が開いている勝馬(かつま)は波を受けた可能性が考えられます。

そんな話をすると、鹿さんは
「そういえば、志賀海神社も元々は浜にあったのが、大波にさらわれたので
現在の丘の上に遷ったと聞いた事があります。日本海側で津波があったと思いますよ」
ということでした。
津波は一度だけではないのですね。


こうして、少しずつ古代の聖地のようすが明らかになりました。

そして、この日はもう一つターゲットがありました。
(つづく)




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by lunabura | 2013-07-22 21:26 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

安曇族と志賀島(6)安曇連の城さがし


安曇族と志賀島(6)

安曇連の城さがし

さて、いよいよ本題の安曇連の城あと探しです。
城の腰(じょうのこし)
昔、安曇連代々城を築いて、ここに居住されたことによって、そこを城の腰という。

弘漁港で待ち合わせをして、鹿さんと合流。
「城の腰」は弘漁港から100mほど戻った場所にありました。崖の上です。

「城の腰は大濱の砦(とりで)です」と鹿さん。
「え?大濱ですか?安曇の城ではないのですか」
「砦です。大濱は大嶽神社の方にもあります。近くには小濱もあります。
あちらは出先機関だと思います」

大濱とは神功皇后に尋ねられて、小濱に火を貰って来させた人です。
その大濱は大嶽神社の方に祀られています。

「大濱は神功皇后の道先案内をしたのだと思います。
城の腰からは海が荒れているのかどうか、よく分かるのです。
ここでないと、船を出すかどうか決められないのです。」
「そうですか。そんな場所なんですか」

地形こそ真実を語ってくれます。
神功皇后軍の出港にしろ、白村江の戦いにしろ、
ここから外海のようすを観測して、出港を判断したのです。

「今は私有地になっていますが、川があって水があります。弥生土器も出土しています」
「それは今どこにありますか?」
「さあ、どこでしょうか。分かりませんね」
(例の如く、ここでも発掘されたものは行方不明になっていた)

そうか、城の腰は砦なのか。
城ではないんだ。
いやいや、砦があるのなら、その背後に城があるはず。
城を守るために砦はあるのだから。

c0222861_20572340.jpg


これは弘漁港近く。左手前に一直線になっている自然石が、古代の湊のあと。
古代の湊と同じ所に漁港がある。




…もう少し調べてみよう。

あきらめきれず、家に帰って地図を広げました。
龍さんが字名を記した地図を用意してくれていたのです。
それが左下の図です。

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あ、あるじゃん。(驚)
字名に「ミヤカタ」「ブクデン」があるではないですか。「上手弘」もそれっぽい。
「城の腰」(大浜)の背後に宮の存在を示す字名が残っている!

そうすると、そこは平地で田畑になっているはず。それが右の航空写真です。
ざっと付き合わせると「ミヤカタ」「上手弘」は田畑。「ブクデン」は森になっているようです。

「ブクデン」はどんな漢字かなぁ。「ブク田」「ブク殿」???
公募!
誰か当て字を考えてくださいな。

以上から、例の如く るな的推理が始まるのであった。

安曇連(あずみのむらじ)の代々の城は弘の崖の上にあり、
砦(城の腰)が浜に近い方にあった。
そこは大濱が取り仕切っていた。(浜の名前も大浜)
弘(ひろ)は昔から良港で、ここが安曇連たちの本拠地だった。

そして防衛上、もう一つの湊を持っていた。
それが金印公園の近くの叶の浜(かなのはま)。
そこには出先機関の検閲所を置いて、荷物の集積や他国の船の停泊所としていた。

一般の船はここに入港した。
漢への朝貢品はここで最終チェックがなされ、封泥がなされた。この時、倭奴国王の金印が押された。
漢の滅亡後、用済みになった金印は丁重に石の埋納施設に埋納された。

そんなストーリーが出来ましたよ。
さあ、ここまで調べました。あとは現地調査を残すのみ。

地図に載っている「天神社」も重要ですね。
場所だけは教えてもらったんです。

c0222861_2101813.jpg

浜から急な斜面を上ったところにありました。参拝はまだです。

連日35度超えの猛暑。
現地調査は涼しくなってからね。

それまで、みなさんもブログ内で逍遥を楽しんで下さいな。


高天原
http://lunabura.exblog.jp/i183/

高天原(1)志賀島の海に高天原があった
高天原(2)砂鉄による地震予知の方法

大嶽神社
http://lunabura.exblog.jp/i186/

大嶽神社(1)おおたけ・磐座の上に神社が建っている?
         ここは立花山を遥拝する古代からの聖地?
大嶽神社(2)おおたけ・シナツヒコは風の神さま
         シナツ星とはスピカ星
大嶽神社(3)おおたけ・立花山と古代祭祀―香椎宮と志賀海神社と春分・
         中東から来た人たちの邑
大嶽神社(4)祭神の大濱の宿禰は阿曇の連の祖
         さばめく海人たちを束ねた人
大嶽神社(5)ウケモチの神から五穀と蚕が生まれた・
         ハイヌウェレ神話と日本の神話

地図 城の腰




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by lunabura | 2013-07-20 21:07 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

安曇族と志賀島(5)金印は埋納されたのかもしれない


安曇族と志賀島(5)

金印は埋納されたのかもしれない


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勝馬(かつま)の海です。
この傍の国民休暇村の右手に小さな歴史資料館があります。

そこには志賀島の歴史や地勢などの資料が展示されていますが、
その中に金印の発見当時に藩に提出された口上書があります。
現物ではなく、タイプしたものです。

それを見て、きちんと報告書が書かれていたのが驚きでした。
口上書自体にも真贋の問題があるようですが、
そこに出土状況が書かれているので読んでみたいと思います。
時代は江戸時代です。

「金印発掘に関する届け書
那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚

私抱田地叶の崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候二付、先月二十三日、右之溝形を仕直し可申迚岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、二人持程の石有。之かな手子にて堀り除け申候処、石の間に光り候者有。之二付取上水にてすすぎ候上見申候処、金の印刻の様成物に而御座候。(略)
                        志賀島村百姓 甚兵衛
天明四年三月十六日
津田源次郎様
       御役所
(略)
(るな訳)
私が抱えている田地が叶の崎という所にございまして、
田の境の溝の水の流れが悪うございましたので、
先月23日に、その溝の形を直して、岸を切り落としたところ、
小さな石がだんだん出て来まして、二人で抱えるほどの石がありました。
これをカナテコで掘り除くと石の間に光るものがありました。
それを取って水ですすぐと、金の印刻がされたような物でございました。
(後略)

これが金印の出土状況です。
私はこれまでは何故か大きな岩とは丸いものと思い込んでいたので、
訳してみて驚きました。

石は二人で抱えられる大きさで、カナテコで動かせたのですから、
これは平たい石ではないかと思われました。

説明では、この石に至る前に小さな石が出て来ています。
全体を推測すると、ドルメンのような平石の上に積石がされていたという印象です。
その平石をのけると石の間に金印がありました。

これが、どうしてこんな所に…と、多くの学者を悩ませています。
遺棄説(捨てた)、隠匿説(隠した)、漂着説(流れ着いた)、
奴国王の墳墓説(奴国王の墓の副葬品)、奴国の没落による金印の隠匿施設(隠した)。
いろいろと出そろっています。

これを訳してみて、るな的には、対馬にある埋納遺構と
同じようなものではないかと仮説を立てました。

対馬の埋納遺構というのは、
小さな石板で箱状に囲ったものの中に宝物を置いたもの、
あるいは宝物の上に石が置かれたりしたものです。
その形はきちんとしたものではないのですが、
古墳の副葬ではなく、独立した埋納施設と評価されています。

その遺跡は次の二つです。
シゲノダン遺跡 銅矛(九州から)短剣の束飾り(韓国から)鉄剣、
               馬鈴、やりがんな 天宝元年(西暦14年)の貨泉 ほか
c0222861_20535840.jpg

(地元の人が掘り上げたものを聞き取りして復元したもの。
いかにも大切に埋納されているようすが分かりますね)

クビル遺跡 銅矛 銅鍑(どうふく・煮炊き用の鍋)

これらの出土品は対馬では生産できず、九州からや朝鮮半島~中国からもたらされたもので、
交易あるいは褒賞によるものと思われます。
どちらも古墳の副葬品ではないのが特徴です。

その対馬といえば綿津見神社が鎮座し、
豊玉姫の墓や磯良恵比須の岩などが伝わっています。
安曇族のゆかり深い土地です。
志賀島から北上すれば必ず対馬を経由していく重要拠点です。

シゲノダン遺跡からは時代が特定できるものが出土しています。
西暦14年の貨泉です。
これに比べて、志賀島の金印が西暦57年
いずれも弥生時代ですが、活発に交流が行われていて、
弥生人は高技術の産物を目の当たりにしているのが分かります。

対馬の宝物の保管方法の基本的な考えは、平石で囲いを作って宝物を置いて
大きめの石で蓋をするというものと思われます。

ですから、金印の保管方法も、対馬と同様に小さな石で囲って金印を置き、
大きな平石をかぶせ、さらに小石を積み重ねた。
そんな埋納施設だったのではないかと考えています。

金印はもちろん細工の美しい素敵な箱に入っていたことでしょう。

石を使う意味
私は毎年、先祖墓に行く時、山登りの格好をして行きます。
山の中の墓への道というのは、一年行かなかったら、植物が繁茂して通れなくなります。
その場合、ナタや草刈り機で道を切り開きながら行くのですが、
ついに一歩も踏み込めなくなって、あきらめた場所が二か所あります。
(墓がどんだけある…?)

こんな植物の豊かに繁茂する風土で何らかのサインをその土地に残すとしたら、
石に頼るしかないんですね。
磐座に至る道にナビらしき大きな岩があるのも、そんな風土のせいだろうとつくづく思います。

話は戻りますが、
金印が不要になる原因として、相手国が滅んだので使用しなくなった
ということだって有り得ますよね。
(奴国を没落させなくてもいいのでは)

使えなくなった金印を保管するとしたら、保管場所の目印として
石を使うじゃないかなあ、と常々思うのでした。

当然ながら聖地に置かれたのでしょうが、
「大切なものだから、みだりに触ってはイケない」と言われると、
あっという間に藪の中になってしまいます。

こうなると三世代も後になると、覚えているでしょうか。
現代人がおじいさんの家の宝物の置き場所は?なんて言われてもピンとこない。
金印が忘れ去られたのもこんな単純な事情もあり?

口上書に「田の溝の修理中に」と書かれていたことから、
そこは元々、ある程度平坦な地形だったと思われます。

倭奴国の検閲所があって、津波を避けるために少し高い位置にあり、
常時使用するために建物の中に保管していた。

しかし漢が滅んで、金印が封泥として使用できなくなったので、
聖地に石を置いて金印を静置し、大きな石を乗せてさらに石積をした。
世代が代わり、戦さがあったりして、いつのまにか忘れられた。

そんなイメージが生まれました。
(ま、あの口上書が捏造だとしたら、また別の話になりますが)

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金印公園



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by lunabura | 2013-07-19 21:01 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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