「ほっ」と。キャンペーン

ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

カテゴリ:八幡の謎( 6 )

八幡の謎(1)水星と御許山の磐座


八幡の謎(1)
水星と御許山の磐座

今回から、真鍋大覚の著作を通して八幡の謎にチャレンジです。
これまで八幡は、るなにとって漠然とした世界でしたが、
宇佐と安心院という現地に立つと、
物部氏の伝える星の伝承がいくらか理解出来るようになりました。

さあ、誰も知らない古代の日本にご招待。
                         (『儺の国の星・拾遺』一部改変)
宸位星(水星・マーキュリー)      p67
(略)
祖先は人間の生命の発祥を星に求め、日に求め、広くは空にあると信じた。天の聞こえざる声を聴くに、山頂に三個の巨石を安置し、もって神域と定めた。水星の太陽を周(めぐ)るに三月を要する所以であった。豊後宇佐の御許山(647.0米)の遺跡がこれである。

九州でも各地に巨石が置かれた所がありますが、三石は天の声を聴くための神域だと真鍋は言います。

あいにく、御許山(おもとやま)の神域は立ち入り禁止ですが、
熊本の三石を並べた遺跡に行ったことがあります。

それは山頂から少し下った所にあり、三つの巨石が並んでいました。
そこに連れて行ってくれた人が言うには、
「大中小それぞれ、世界、国、個人の祈りを捧げる所だ」と夢で教えられたそうです。

その三石は東を向いていたので、三人それぞれ磐座を背にして
昇ってくる太陽の光を受けました。
太陽と、太陽の光を受けた磐座の波動に挟まれるという特殊な空間に感激しました。

こんな使い方もありかな、とも思っているのですが、
そのアイデアを得たのは、押戸石山の磐に座った時でした。
押戸石山の山頂には磐座があって、不定形のストーンサークルを描いているのですが、
私がひそかに王者の椅子と呼ぶ石があります。

座れるようになっていて、ちょうどリクライニング椅子のように、もたれかかる事が出来ます。
しかし、大き過ぎてつらいです。
その横にちょっと小さい玉座があり、そちらの方が人間には良いサイズでした。

そして、その夜、玉座の正面には冠座が輝いたのです。
それを見て、私は、王になる人が儀式を受ける岩ではないかと妄想したものです。
星と星の光を受けた岩の波動の間の人間、てことですね。


このような椅子は他の山中にもありました。

磐座って、サイズの基準が普通の人間よりも、当然大きいのですが、
与那国島海底遺跡が出て、石段を見た時、
ああ、このサイズの人たちがやはりいたんだと思ったものです。
今では、2m以上の人骨が世界各地から出土していますね。


おっと、話がそれました。もとに戻りましょう。

御許山の磐座が三個の理由は、水星が太陽を周回するのに三か月要することに起因すると真鍋はいいます。
ウィキペディアを調べると「水星の公転周期は約88日である」とありました。
確かにほぼ三ヶ月ですね。

真鍋の本には
「太陽をめぐるに87.98784日を要し、これを約三朔望月に達するところから、三圍(みゐ)の星の名もあった。やがて水星の名の発祥と倭人は解し、御井(みゐ)の星の名を脳裏に浮かべていたらしい」とありました。

太陽の近くにあるので、黎明の時、そして日没時に見るため、晨星(しんのほし)、略して辰星(しんのほし)とも言ったそうです。
(晨とは「あした」とも読み「早朝」という意味です)

c0222861_23185113.jpg

(今日の夕方5時ごろ。水星は金星より太陽の近くに)

御許山の三石を聖地とした人たちは、水星が太陽を三か月かけて公転するということに
意義を見出す人たちということになりますね。

つづきを読みましょう。

小熊座を手長星(てながのほし)、大熊座を足長星(あしながほし)と言った。

極東に移り住んだTroya(トロヤ)民族は斗極の形を見ては直ちに水汲み水すくいの仕事を連想し、これがいつしか水星を辰星と重ね合わせる信仰に到達したものらしい。

黄河は北から南に流れる水域があって、これが秦嶺に当たるところに漢人が周(前1122~250)以来、唐(618~975)に至るまでの文明を形成した。

漢人は北が即ち水源であったことになる。ここに玄武なる沙漠の海無し沼の神格を与えて、水星を配したのである。

清少納言の随筆でしたか、「手長・足長」と出て来ますが、これは小熊座と大熊座の名だそうです。

c0222861_23193978.jpg

(上のイラスト、足長を書き間違えてます <(_ _)>)

トロヤ民族は日本に来て、初めて北斗七星が水を汲む姿を見たのでしょう。
北斗の水汲みは玄海灘から響灘の現象でしたね。
「これがいつしか水星を辰星と重ねわせる信仰に到達した」という意味はよく分かりません。

黄河の中でも北から南に流れる流域に周から唐の文明があったために、
「北といえば水源」というイメージが出来て、
玄武(北の聖獣)の坐す北の星として水星を配置したということになります。

玄武とはちなみに、亀に蛇が巻き付いた形をしています。
奈良県明日香村のキトラ古墳や、韓国の装飾古墳にも見られますね。

c0222861_2320396.jpg

亀と蛇か…。キダとも読めるな…。
佐田神社の亀蛇がこの玄武だとすると、るなの亀蛇考は水泡に帰すかも。

(つづく)




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-05-12 22:47 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(13)

八幡の謎(2)「ささくり」三石の磐座と坩堝から出来た金


八幡の謎(2)

「ささくり」三石の磐座と坩堝から出来た金

水源を中世は「みなもと」とよび、神代は「をもと」といった。水星三囲により、水源の大地に三石をあげて、その安泰を祈った。これを「みつくり」と呼び、近世は箕作(みつくり)と書いた。百姓は水を遣り繰りする神を見ていた。

天台の儀式華やかに三位一体の神仏たがいに垂迹の教えが普及する頃は、天竺(てんじく)の弁財天なる水源の女神を置き、また妙見を立てるところもあったが、八幡の本地なる宇佐だけは、あえてこれを許さなかった。
 (『儺の国の星・拾遺』p67)

<水源を中世は「みなもと」とよび、神代は「をもと」といった
これで思うのですが、源氏の「みなもと」って、御許山信仰から付いた名なのでしょうか。
八幡信仰の聖地は御許山(おもとやま)ですよね。
のらさんにコメントいただいてから、気になっていました。

以前、こんばんわんさんが指摘されたように、元宮の件も
宇佐八幡宮は御許山を遥拝していて、大分八幡宮との縁に出会うこともありませんでした。

地図 赤 御許山   青 宇佐八幡宮 

(写真モードに替えると地形がよく分かります)


<水星三囲により、水源の大地に三石をあげて、その安泰を祈った>
「水星三囲」とは水星が太陽を一周するのに約三カ月かかるという意味と思われ、
水源に三つの石をあげるのは、それが由来でした。

何故、八幡はそんな天文現象が重要なのだろうか。
水星は金星と同様に、明けの明星と宵の明星に分かれるので、
その周期と関係あるのだろうかと、プラネタリウムに尋ねました。

今年2013年の例でいくと、
水星が明け方によく見えるのは 4/11前後 7/30前後  11/18前後
夕方によく見えるのは  2/17前後 6/13前後 10/9前後
だそうです。
今日10/5は夕方に見えたはずですが(雨だった…)、しばらくはこの現象が続く事になります。

その後、明け方に見えるようになって、再び夕方に見えるのは来年。
この周期は約115日ということでした。
約四か月サイクルなので、公転の三か月とは無関係です。

るなが知りたかったのは
「水星が三か月で太陽を回る事と、水星が朝か晩に見えることは関係があるのか」
ということで、結論は「関係なし」でした。

三石に込めた水星の公転周期とはいったい何なのか、謎のままです。


次、行きましょう。

<垂迹の教えが普及する頃は、天竺の弁財天なる水源の女神を置き、また妙見を立てるところもあった>
本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。(Wikipedia)


神々の国に仏教が入ったとき、神と仏とどう折り合いをつけるのか、
当時の誰もが疑問を持ったことでしょう。
神々への信仰を捨てて仏だけに帰依する事はできなかったと思います。
そこで、神々は仏の化身として先に現れていたんだと、上手く説明したわけですね。

「水の神」はインド(天竺)ではサラスワティー、中国で弁財天といいます。
日本では市杵島姫と、名前が変わります。
弁財天の真言「オン サラスバティ エイ ソワカ」に「サラスワティ」が出て来ますね。

c0222861_23325159.jpg

水の女神の持つ琵琶というアイテムは日本にも伝わりました。
でも、市杵島姫とサラスワティーでは微妙に違いますね。
そこが垂迹説の苦しいところかな。

また、水を祀るシンボルとして、他に「妙見」が挙げられていました。
「妙見」とは妙見菩薩であり、北極星や北斗七星の信仰でもあります。
これらは各地で融合されて行ったわけですが、宇佐だけはこれを許さなかったというのです。
いったい、どういうことでしょう。

先を読んで行きましょう。
(中略)
蹈鞴で作った金石珠玉の類を「ささくり」という。
「ささ」とは月齢三日の朔の月形の形容であるが、時には朝、すなわち朝晨あるいは黎明の空をも言った。
「あさ」とは蹈鞴の底のごとく虚にして偏を言ったのである。
「くり」とは重く凝結した金石であって、古人は星辰、あるいは隕石そのもの又はその化身と信じていたのである。

胡人は「土よく気を放せば石を為す」のことわざを心にしていた。石は結晶水を得て風化した果てに土になり、土は結晶水を解離すれば金を産む道理を数千年昔の風姓呂氏の頃から知っていたのである。

太陽の至近距離を巡って、朝に姿を見せ、昼に姿を消す水星を蹈鞴の中の燃えさかる炎と渦巻く金のしたたりに見立てていたのかもしれない。山頂に立てられた三石、即ち「ささくり」は風を呼び、雨を招く三種の神器であった。


<「あさ」とは蹈鞴の底のごとく虚にして偏を言ったのである。>
この蹈鞴(たたら)とは蝋石(ろうせき)という柔らかい石で加工された坩堝(るつぼ)のことで、
出雲のタタラとは別のものです。

この坩堝には穴が開いていたのですが、それが中心でなく偏った所に開けられていたそうです。
ですから「虚にして偏」とは、坩堝の中が空っぽで、穴が偏った所にあるという意味になります。
その状態を「あさ」と言ったということですから、
夜が明けて星々が消えて空っぽになった空に太陽だけがあって、
そのかたわらに水星がポツンと見えるようすを「虚にして偏」と言うのでしょう。

<「くり」とは重く凝結した金石であって、古人は星辰、あるいは隕石そのもの又はその化身と信じていた>
私たちは鉄の材料として砂鉄や鉄鉱石を思い浮かべますが、
古代人は葦や隕石からも鉄などを取り出していたそうです。
坩堝から取り出した金や鉄の粒(つぶ)を見て、それは星の化身だと思ったということになります。
そういえば、隕石って星のかけらだから化身と言えますね。


c0222861_2333933.jpg

この写真はちょっと違う例だけど、隕石を彫って造られた仏像です。

日本の仏像とはずいぶん姿が違いますね。
2012年の記事を引用します。

1938年にナチス親衛隊(SS)の探検隊がチベットから持ち帰った仏像は、隕石(いんせき)を彫って作られていたという論文が26日、科学誌「Meteoritics and Planetary Science(隕石学と惑星科学)」に発表された。

   アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の「第三帝国(Third Reich)」と宇宙からの「財宝」の結びつきを示した独オーストリアの合同研究チームによる調査結果は、まさに映画『インディ・ジョーンズ(Indiana Jones)』を地で行くような話だ。

 鉄分を多く含む岩石で作られていることから「アイアンマン(Iron Man、鉄の男)」と呼ばれるこのチベット仏像は、動物・民俗学者エルンスト・シェーファー(Ernst Schaefer)が率いるSS探検隊がドイツに持ち帰ったもの。

(c)AFP 2012年09月27日 12:04 発信地:パリ/フランス 引用
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2904113/9587885?ctm_campaign=txt_topics


この像を見て、隕石って意外に加工しやすいんだなと思いました。
鉄を多く含んでいると書かれているのをみて、
古代人が隕石から鉄を取り出したというのも、あり得るんだと思った例でした。


<蹈鞴で作った金石珠玉の類を「ささくり」という>
これについて、他の所に椿の種に例えた話が出て来ます。

c0222861_2334273.jpg

これは庭の椿の実の今朝の状態です ^^ グッドタイミング ♪
赤い椿の実は、熟すと皮が三つに割れて、中から三つのクリが出て来ます。
これが「ササクリ」のイメージです。

「蹈鞴の産物の金石」も「山頂の三石」も同じように「ささくり」と呼ぶ理由について、
真鍋は次のように考えました。

<太陽の至近距離を巡って朝に姿を見せ、昼に姿を消す水星を、
蹈鞴の中の燃えさかる炎と渦巻く金のしたたりに見立てていたのかもしれない>


水星が朝見える時には、太陽に近いので次第に光を失います。
その様子と、燃え盛る炎の中にポツンと生じる金と重ね合わせているのではないだろうか
という意味でしょうね。

(つづく)


アイデアをくださいな。
<数千年昔の風姓呂氏の頃から知っていたのである>の「風姓呂氏」が分かりません。


コメントとメールをくださった方へ。
少し返事が遅れています。待っててくださいね。




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-05-12 22:46 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(13)

八幡の謎(3)風姓呂氏


八幡の謎(3)

風姓呂氏

前回、分からなかった「風姓呂氏」について、コメントで教えていただきました。
助かりました (^o^)/
関連する部分だけ、掲載させていただきます。

桜もちさんより。
「風姓呂氏の頃から知っていた…」とは、呂不韋の『呂氏春秋』のことを指しているのでしょうか。
内容に関しては殆ど無知なのですが…当時最高水準の百科事典だと始皇帝関連の本で読んだような…。
記憶が曖昧なのでスルーして下さい…。

いえいえ、スルーできませんぞ。
私も、たまたま資料を見ていたら、『呂氏春秋』が出て来たので、
これかも!と思ったところでした。
秦の始皇8年(紀元前239年)に完成したそうですね。

こんばんわんさんより。
風氏呂氏は「古代中国(春秋時代以前?)」といった意味ではないでしょうか?
風氏は中国建国神話に出てくる有名な女禍などが風氏であったとあります。
呂氏は桜もちさんの言う春秋時代の呂氏(秦の宰相)などしか私も思い浮かびません。。。

 参考:『中国姓氏事典』
「上古、三皇の一人伏羲氏(太昊)がこの姓を伝えた。また女媧氏も風姓であり、
春秋時代、宿、須句、顓、臾等四国を治めた者は、すべて風姓を名乗ったという。」

 ちなみに、私もにわか勉強してみたところ、この風氏はシュメール人の風の神「エンリル」に通じるものがあり、エンリルの神の秘数(トーテム)は「50」だそうです。

このエンリルも黄泉の国に行かされたり、戻ったりしており、日本の神話との相似性も伺えます。また、シュメール人の暦(古代バビロニア)は、日本との旧暦と似ている点があるそうで一日は日没から始まるそうです。

日が暮れて政務をしていた古代日本もそうだったのかもしれませんね。

なるほどですね!
興味深い話ばかりです。女媧(じょか)に姓があったとか想像もしませんでした。

女媧とは。

中国神話の女神。半人半蛇の姿。伏羲の妹であり、夫婦であるという。三皇(伏羲、女媧または黄帝、神農)の一人。

女媧は伏羲のあと王になった。人間を土(黄土)から創ったという。はじめは丁寧に、疲れてくると縄を泥につけ、ぐるぐる回し、泥がはねて人間になったという。できの良い人間と悪い人間の差はこのせいだという。
http://www.jiten.info/dic/asia/joka.htmlより

c0222861_20463224.jpg
伏羲(ふっき、ふくぎ)
二人の持ち物を見てください。コンパスと定規を持っています。
周囲にあるのは星座ですね。時代は古いぞ。
兄の伏羲の方を調べてみました。

伏羲(ふっき・ふくぎ、- Fu Hsi または Fu Xi、紀元前3350年~紀元前3040年)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。

三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は鳳(凤)姓。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に、蛇身人首の姿で描かれる。伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる。また、現在の中国では、中華民族人文の始祖として崇拝されている。  wikipedia





これで時代が分かりました。
春秋時代は紀元前771年~前403年。
風姓の時代になると紀元前3350年~紀元前3040年。

この時代の技術。金星の和名の再掲です。
c0222861_2218363.jpgc0222861_22185728.jpg


これは鐘ですが、左が紀元前9世紀のもの。右が紀元前3世紀のものです。
左の物とか、女媧より古い (@_@;)
古代の技術はどうしてこうも高度なんだい。

なるほど、真鍋大覚もこれを背景にして、風姓呂氏を古代中国という意味で使っているんですね。

それにしても、のらさんのコメントに、「黄帝社が須佐にある」とあったのも、
気になります。
須佐は良く読む作家さんの本の中に広島の三次を囲むように三角形が出来る拠点の一点が須佐の高山と言う事で興味を持っていた位です。
高山は昔は『神山』と言われていたらしいですね。
黄帝社なる神社があるそうですが、ココも神様の変換があったようです。

黄帝という名前は日本的じゃないので、どうしてこんな名が?
と気になったのです。
そうしたら、上で引用した中に、
三皇とは「伏羲、女媧または黄帝、神農」とあるではないですか。
祭神は誰だろう。

気になるシンクロニシティですね。

さあ、とりあえず、これで続きを読む準備ができたぞ。^^v





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-05-12 22:45 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(0)

八幡の謎(4)八幡とは星占なり


八幡の謎(4)

八幡とは星占なり


前回、文中の「風姓呂氏」が伏羲と女媧の時代~春秋時代を指していることを確認しました。
それを踏まえて真鍋大覚のつづきを読みましょう。p68

占星術は春秋の頃、すでに王室で主に君子の運命をはかる方策であった。晉代(265~420)続いて魏代(220~265)には毎晩の星座をみて、くる日くる日のなすべき仕事を案じていた。

倭人は(占星術を)唐代(618~975)には辰方(しょうほう)、宋代(960~1179)には正法(しょうぼう)とよんだ。貴族のいわゆる方違え(かたたがえ)なる訪問の道順、旅程にはすべて辰位(=星)によって選んだのである。

称徳帝(718~770)と弓削道鏡(712~772)の真意を糺す(ただす)べく和気清麻呂(733~799)は宇佐八幡宮に下向した。葛城一言主(ひとことぬし)は星占の祈祷を特に濫用して、事あるごとに平城京を譎詐権謀(きっさけんぼう)の渦中に入れ、多くの氏族をたがいに殺戮させていた。

その頃の宇佐は、日本における世界教の中枢的存在として日本の国運を太宰府の背景のもとに客観的に展望していた。

昭和16年(1941)大東亜戦争の可非をめぐって羅馬(ローマ)法王に特使を派遣する提案が下された事実は、まさに天平の昔によく対応するところである。


紀元前3000年以上前の「伏羲と女媧」の絵には定規とコンパスと星座が描かれていましたね。
古代中国では占星術は王室で使われ、倭人はそれを辰法、正法と呼んだそうです。
日本の貴族の方違えが星占いで決められていたとは想像もしませんでした。

宇佐八幡宮に和気清麻呂が来たのは、弓削道鏡の件のためですが、
文脈からは、その当時、平城京でも占星術が行われていたという事になります。
葛城一言主が星占いをしていたというので、「一言主大神」をネットで調べたら、
賀茂氏なのですね。八咫烏。

賀茂氏といえば、製鉄の技術を持っていましたが、製作するのは主に農具などでした。
その賀茂氏が、占星術の知識もあって、平城京で濫用していたというのですから、チョー驚きです。

奈良では渡来人たちが各地に集落を作ってバランスを保っていたのでしょうが、
互いに殺戮させていたとは。
何だか、小説のネタになりそうな…、新情報です。

その頃の宇佐もまた占星術が行われていて、国際性を失わずにいたと解釈できますね。
昭和になって、大東亜戦争の可非をめぐってローマ法王に特使を派遣する提案を下した件が、
奈良時代と対応するというのですから、
宇佐が特別な立場を保ち続けた背景を垣間見る思いです。



次は「磯城星(しきのほし)ヘラクレス座 ラス アルゲーチ星」
の所に出て来る文です。   『儺の国の星・拾遺』p69

八幡とは星占(からまに)、すなわち辰方(しょうほう)のことであった。
(略)
八幡の神術は人類の歴史と共にはじまり、八百万の星の数だけあったはずであるが、今はその全容を知る人はない。そして、八幡信仰の発祥や由来を唯物弁証法的に解明する学者はいない。


ずばり、八幡とは占星術のことだと言います。
宇佐が謎めいて見えるのも、このような背景があったのを、
私たちはどこか深い所で感知していたのでしょうか。
それは日本人の集合意識の深みで感知するような感覚です。

この話を読んで、ああ、そうだったのかと、どこか腑に落ちるのが不思議です。
皆さんも、そうではありませんか?



c0222861_23395065.jpg

(宇佐神宮)


c0222861_23401049.jpg

これは宇佐神宮の境内にある弥勒神宮寺あとです。
写真に写っている説明板を写します。

弥勒神宮寺の成立
宇佐神宮関係の史料によれば、725年に八幡神を現在の小椋山に遷した時、東方の日足の地に弥勒禅院を建てたことが記されています。
(略)

八幡神の成立
八幡神は応神天皇のことであり、西暦571年に宇佐の地に現れたと伝えられています。朝廷が編纂した「続日本紀」にはじめて登場した737年以降、八幡神は中央政府との関係を急速に深めていきました。

そして、740年に聖武天皇が進めた東大寺大仏建立に協力する託宣(おつげ)を行うなどの功績があったことから、国家神としての地位を持つようになりました。

やがて八幡神の託宣は朝廷から庶民にいたるまで広く信頼されるようになり、769年の道鏡事件でも大きな影響力を示しました。


この託宣を占星術の結果と読み替えると、なるほど、よく当たるはずだと思っちゃいました。


(つづく)




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-05-12 22:44 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(6)

八幡の謎(5)八幡は太白暦だった


八幡の謎(5)

八幡は太白暦だった

今日は、『儺の国の星』「羽白星(金星)」p175より。(一部改変)

八幡の由来について、昔から今に至るまで国学者は誰一人語りません。八幡とは太白暦の氏上(うじのかみ)でありまして、金星暦五年が太陽暦八年に満つ ところからその名が付けられたとの口碑がありました。

春秋左氏伝昭公十(前541)年から数えて暦数の大貳(たいに)千二年後の雄略帝6(462)あたりから八幡信仰が豊後宇佐の地で一斉に勃興しました。八幡の祠大月氏族の礼拝堂、霊廟あるいは耶蘇の教会の類を、後の人が神社に祭り上げたとこのことです。

なお採金錬金のところを馬上(まかみ)とよんでおります。豊前宇佐にその地名が残っております。後には宿場町として江戸駒込(こまごめ)のようになりました。※1


<八幡とは太白暦の氏上(うじのかみ)>である
「太白暦」とは金星暦のことです。金星暦といえば、マヤ暦が有名ですね。

「氏上」とは「古代における氏のかしら。氏を代表して氏神をまつり,氏人や部民・奴婢などの私有民をひきいて朝廷に仕えた」(学研キッズネット)

これらから、「八幡とは金星暦を持つ氏族の族長だ」ということになります。

<金星暦五年が太陽暦八年に満つところ>
私たちは太陽暦なので、一年は365日ですが、金星暦の一年は584日です。
太陽暦の8年と金星暦の5年は奇しくも同じ日数になります。
      365日×8年=2920日。
      584日×5年=2920日。
「八年に満つ」→「八 満つ」→「八満(まん)」→「八幡(まん)」と変化したというのですが、
これは金星暦でない人がそう呼んだということになりますよね。
太陽暦族とか太陰暦族が金星暦族をそう呼んだというのでしょうか。

この金星と太陽の現象を「五條八旗」と言ったそうです。

これについては、『儺の国の星』P241に書かれていました。

太白暦の五歳と太陽暦の八年は一致する。これを昔は五條八旗といった。後の方を八歳(はっせい)と写して八旌(はっせい)、あるいはその意を還して八幡と書いた。胡語のbag(バン)を倭約したものとみえる。

八旌の「旌」は「旗」という意味です。少しずつ言葉が変化するようすが分かります。
(こんな言葉が生活に関わる古代人って、なんだか想像つかない…よ)

更に天神八幡の信仰が合体すると、天満なる言葉が舟の集う湊の祠の在所の地名にあてられるに到った。

天神さまといえば、菅原道真公のことですよね。
天満神社がときおり摂社として見かけられるのですが、天神と八幡の合体なんですか。(驚)
「太宰府天満宮」とか、天神信仰に八幡信仰も重なっているということ?
(今は言葉の理解で必死です)


さて、冒頭の文に戻り、※1の続きを写します。

春秋左氏昭公十(前541)年から数えて暦数の大貳(だいに)千二年後の雄略帝(462)年あたりから八幡の祠は大月氏族の礼拝堂、霊廟あるいは耶蘇の教会の類を後の人が神社に祭り上げたとこのことです。

う~む。
文脈からは、八幡の祠とはもともと大月氏の礼拝堂やキリスト教の教会の形式だったのを、
神社の形式に変えて行ったということですよね。
つまり、八幡の祭祀はもともと大月氏やキリスト教の教会の形態だったということです。
(頭がヒートしそう)

大月氏と月氏を調べるか。

【大月氏】
匈奴(きょうど)に追われて西遷し、バクトリア(大夏)を支配した月氏の主力。のち、この地方に起こったクシャン(貴霜)朝をも中国では大月氏とよんだ。→月氏

【月氏】
中国の戦国時代から漢代にかけて、中央アジアで活躍した遊牧民族。民族系統は不詳。前3世紀ごろモンゴル高原の西半から西域、甘粛西部にまで勢力をのばしたが、前2世紀ごろ匈奴(きょうど)に追われ、主力はイリ地方へ、さらに烏孫に圧迫されてアム川北方へ移動し、大夏を征服して大月氏国を建てた。黄河上流域に残ったものは小月氏という。       (コトバンク)


c0222861_22593349.jpg

これはその当時の地図。(ウィキペディアより)
左上に「月氏」が書かれています。遊牧民族だけど、民族系統は不明…か。

今回の分をまとめると、
八幡の氏族は北方中国の遊牧民やキリスト教会の祭祀形態を倭国に持ち込んでいたと解釈できますね。
確かに、渡来人たちは自分たちの宗教を持って倭国に来る訳ですが、
5世紀ごろまでは、独自の形態を保ち続け、その後神道式に変化しということになります。

金星暦を持ちながら、倭までやって来た八幡族。
彼らは宇佐で星占いをして、倭人の心を掴んで行きました。
(つづく)




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-05-12 22:43 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(2)

八幡の謎(6)復習編


八幡の謎(6)

復習編


c0222861_235578.jpg

(宇佐八幡宮)

今日から、中断していた「八幡の謎」に再び取り組みたいと思います。
最後の記事は、もう一か月も前になっていました。

内容をすっかり忘れたので、(5)まで読み返したのですが、
よく理解できていない自分の姿が目に付くだけで…、困ったもんです。

まとめないと、次に進めないな…。

ということで、今回は1~5(3を除く)の復習です。

(1)宇佐の御許山の禁足地にある三個の巨石は、水星が太陽を回るのに
三か月かかるという
天文現象が由来である。(水星三囲)

水星は明けの明星と宵の明星の時期があり、別名「晨星、辰星、三圍星」とも言う。

極東(日本)に移り住んだトロヤ民族は北斗七星を見て、水汲みを連想し、
水星と北極星を重ね合わせる信仰をした。

中国では漢人も、都では黄河が北から南に流れるので、北=水源というイメージが出来て、
北の星として水星を配置して、玄武の座とした。


(2)日本人は「水源」を古代は「をもと」、中世は「みなもと」と言った。
水源には、「水星三囲」によって、三石をあげて水源が安泰であるように祈った。

仏教が盛んになると、各地で、インドのサラスワティ(水の神)、中国の弁財天という水源の女神を置いたり、
妙見菩薩に見立てたりしたが、八幡の本地である宇佐だけはこれを許さなかった。

山頂に立てられた三石(ささくり)は風を呼び、雨を招く三種の神器であった。
「ささくり」とは蹈鞴で作った金石珠玉を指す。

「ささ」とは三日月形の形容で、時には黎明の朝を指した。
「くり」とは重く凝結した金石のことで、星や隕石の化身と信じられた。

これは、水星が太陽の至近距離を回って、朝に姿を見せて昼に消えるようすを、
蹈鞴の燃える炎と生じた金のしずくに見立てたからかもしれない。



(4)占星術は中国では春秋の時代に王室で用いられていた。
倭人は占星術を唐代には辰方(しょうほう)、宋代には正法(しょうぼう)と呼んだ。

葛城一言主は占星術を濫用して、都の氏族をたがいに殺戮させていた。

八幡とは星占(からまに)すなわち辰方のことで、和気清麻呂が宇佐八幡宮に下向した時に用いられた。

そのころの宇佐は日本における世界教の中枢的存在として、日本の国運を
太宰府の背景のもとに客観的に展望していた。


(5)八幡の暦は金星暦だった。「八幡」の語源は「金星暦の5年」が「太陽暦の8年」に
「満つ」(同じ日数だ)ということから付いたとも言われる。(五條八旗)
       金星暦…584日×5年=2920日  
       太陽暦…365日×8年=2920日
  
天神(道真公)と八幡が合体して「天満」という言葉が湊に付けられるようになった。
八幡の祠は大月氏族の礼拝堂、霊廟、あるいは耶蘇の教会の形式だったのが、のちに神社となった。


以上、真鍋大覚『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』から抜粋して綾杉か解釈したものです。
誤解釈がある可能性があるので、引用は原典の方をしてください。




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-05-12 22:43 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー