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カテゴリ:物部氏( 1 )

物部氏 どっちが古い?


物部氏 どっちが古い?

「物部はどっちが古いですかね」
全く同じ質問を二人の男性から続けて受けた。
一人は土曜日。もう一人は三日後の火曜日に。
私が誰かと古代史の話をする機会は、最近ではこの二人だけだったので、
立て続けの質問だったということになる。

「どっち」というのは、もちろん「遠賀川流域か、筑後川流域か」ということだ。

私も、同じ関心を持ったことがあったけど、いつの間にか忘れていた。
今日はこれまで出会った伝承を羅列してみよう。

遠賀川流域
神武天皇が田川にやって来た時、迎えに来たのが馬見の物部の末裔・駒主命(こまぬしのみこと?)。(日若神社4)
神武天皇の祖神を祀り続けていて、馬を連れて来て、自宅に案内している。
この自宅というは馬見神社の近くになるのだろう。

神功皇后の時代には仲哀天皇を支えた物部に
嶋戸物部(高倉神社)と新北物部(鞍手郡)が出て来るので、
中流域から河口付近にかけて物部の勢力図があったもよう。
鞍手の物部氏は剣から生まれた剣神の三女神を祀って、三女神の六ケ岳降臨神話を育んだ。

そして、『日本書紀』に出て来る物部胆咋(いくひ)が神功皇后を連れて材木調達している。
大元稲荷神社(小倉南区徳力)を中心にして森林を掌握していたらしい。

その胆咋が筑後川流域では神として祀られている。
その神社が高良下宮社(久留米市)。胆咋は両流域に現れるキーパーソンだ。


筑後川流域
三女神を祀る水沼の君の祖に物部の名が見える。
水沼の君の祖は国乳別命だと『日本書紀』か『古事記』に書かれているが、
実際はもっと古くから筑後川流域にいた。
少なくとも景行天皇の時代に猿大海が出て来る。
国乳別命は神功皇后の時代の人物だ。

そして竹内宿禰とともに高良下宮社の祭神となっているのが先程の胆咋。
この胆咋が高良山に関わる物部氏の基盤になったのではないかと秘かに思っている。

また、さらに筑後川を遡ると物部さんが現在もいて、
かつては他の人々が入れない領域を持っていたという。
この物部氏はさらに古いのではないかと考えている。

そうだ、下流域のこうやの宮では七支刀を持っていた。

こうして両川の物部を比べると、三女神信仰をするのは水沼と宗像だけでなく、
物部氏もまた該当していたことに気付かされる。

真鍋大覚はどう伝えていただろうか。

曽我稲目(そがのいなめ)は伊都郡と那珂郡の間に新開の土地を開き、筑紫の国造磐井と共に473年の洪水を修めたのであるが、神崎の物部氏と那珂の中臣氏の間に水利の紛争が昂じて、552年の仏像を巡っての対立に及んだ。

葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。
(略)
物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、背振の北と南を領有していたのである。

恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。
物部氏は星見(ものみ)の家系であった。

これは磐井の時代の話なので、5~6世紀になるが、物部氏のルーツは近東にあり、
佐賀県の神崎にいたと伝えている。

結論
以上が今日、なんとか思い出した物部氏の時代と所在地で、
これから伺えるのは
遠賀川流域には、神武天皇が生まれる前から物部氏はいたという事になり、
筑後川流域に関しては、時代的に指標となる伝承が得られていないので判断できない。
だから、どちらが古いのかまだ分からない。

こんな所かな。^^

それにしても、福岡の人には、どっちが古いのか気になるよね。
何でだろ~。


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(中途半端な地図)


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by lunabura | 2013-10-23 22:07 | 物部氏 | Trackback | Comments(2)
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