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カテゴリ:ヨド姫の宮めぐり( 14 )

ヨド姫(14)こくな

ヨド姫(14)
こくな

『儺の国の星拾遺』を読んでいますが、
前回(13)の「ヒアデス星団の七女神」の続きは「こくな」の話が出てきました。
書き写しましょう。(一部変更)

 百済谷那(こくな)の葡萄状結晶性褐鉄鉱の特産地である。倭人はこれを虎来土(こくな)と書いた。その精錬の名人を国造(こくぞう)と呼んだ。

いつの頃か漢字を二つに絞ることになって、略して寅気と書き、これをどう読み直したものか、陰毛(いんのけ)あるいは犬吠(いんなき)などと名人の子孫の故郷の地名に当てたのは中世であった。

聖書に基督(キリスト)誕生の時に牧羊犬が聖母(マリヤ)の出産を気遣う描写があるが、タタラの出銑の際には狗犬も関背をあげるかのごとく吠えたてたと説かれている。

タタラを音訳して猛虎に例える。ヒヤデスが深夜、天頂に達する頃からタタラ造りがはじまる。牡牛座タウルスの名も又「とろく」あるいは「とらき」に事寄せて考えた祖先があったかもしれない。虎来(とらき)星の名がそれである。この頃になると田に稾(わら)が積み上げられる。稲置(いなぎ)星の名もあった。


「百済の谷那」と言えば、『日本書紀』の神功皇后紀に出ています。
ネットで検索したら、るなの『古事記の神々』が出てきました (@_@;)

神功摂政52年の秋、9月10日にクテイたちは千熊長彦に従って来朝しました。その時、七支刀一口、七子(ななつこ)の鏡一面、および種々の宝を献上しました。そして、
「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。
大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」


百済が七支刀を献上したのは有名ですが、その時、谷那の鉄山も献上していたんですね。

「谷那」を「虎来土」と書いてどちらも「こくな」と読むのですが、
他にも「虎」の字を当てた表現があるのは、どうやら倭人は牡牛座の「タウルス」の発音を記憶していた、
と真鍋は暗示しています。

(12)回に出てきた「火炊星(ひやきほし)」の「ヒヤキ」も「ヒヤデス」の音写かと言っていましたね。

海人族たちは中東と倭国の間を船で往来するので、
古い日本語の中には、異国の言葉がダイレクトに入って来ているようです。

そして、「こくな」とは葡萄状結晶性褐鉄鉱ということなので、
スズ鉄が葡萄のように丸く結晶化したものということになります。

葦の根に近い所で結晶化していくので、鈴のように中が空洞になっていき、
縄文人がそれを容器にしたものも出土しています。

次の写真は「つれづれなるままに」のジュンジュンさんが気付いた鈴。

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青森県岩木山北麓 巖鬼山神社

これこそ、葡萄状の結晶。
スズ鉄が鈴なりになるよう、祈りを込めたものかも知れませんね。





タタラの達人の故郷を「いんなき」と中世に呼ぶようになったようですが、
「犬鳴」こそ、製鉄を営んだ場所だということは、当ブログでも何度も出てきました。

「こくな」は前々回の所に出てきました。次に再掲します。

徳勒星(とくろくの星)
牡牛座 Taurus θ(71)
(略)
鉱脈が地熱で風化分解して脆弱(ぜいじゃく)な軟泥粉末になったものを、
祖先は「 あまつまら 」「くくぬち」「 こくな 」 「ふなつち」「たらを」「まつを」「まつら」などといった。
坩堝(るつぼ)に炭塵と共に混合して点火すると容易に金属を熔かし出すことができる。

火口(ほぐち)からV字型の壁(そこ)を伝わってしたたり落ちる高熱の合金を
受ける皿が「とろく」であり、これが冷却して固まった塊を「をきたま」と言った。
置給星(おきたまの星)の名も出羽の地で昔はきかされた。
ヒヤデスの音写かと考えられるほどの名に火炊星(ひやき星)もあった。


「くくぬち」「こくな」「ふなつち」どれもが風化した鉱物でした。
「あまつまら」(天津麻羅)は、古事記に登場する鍛冶の神です。
これもまた鉱物と同義に使われたということですね。


『古事記の神々』から七支刀と谷那が出てくる所を掲載しておきます。
真鍋大覚が七支刀と谷那を続けて書いたのは、『日本書紀』が下地にあったんですね。
記憶力すごい。

神功皇后(14)百済は七支刀と谷那の鉄を献上する
 
50年の春2月に荒田別たちは帰国しました。

夏5月に、千熊長彦とクテイたちも百済から戻って来ました。皇太后は喜びながらも、クテイに、
「海の西のもろもろの韓をすでにそなたの国に与えた。それなのに、またこうして何度もやってくるのはどうしてなのか。」と尋ねました。

クテイたちは、
「天朝の恵みは、遠くて卑しい我が国にまで及んでおります。我が王も喜んで踊り出さんばかりです。そこで真心を示すためにこうして再び参りました。万世に渡るまで必ずお仕えする心を示すためです。」
と奏上しました。

皇太后は
「嬉しいことを言ってくれる。それは私の望むところだ。」
と言って多沙城(たさのさし)を追加して与えて、通い路の駅舎(うまや)としました。

51年春3月に、百済王はまたクテイを派遣して朝貢しました。
皇太后は皇太子と武内宿禰に、
「親しくする百済国は、人ではなく天が与えたような国ですね。貢いで来る物は珍しいものばかかりで、見たこともないものばかり。時を置かず常に朝貢して来て、大変喜ばしいことです。(私が死んだあとも)変わらず、厚く恩恵を与えるように。」
と言いました。

その年、帰国するクテイを千熊長彦に送らせました。百済に着くと皇太后の言葉を伝えました。
「われは神の示しに従って初めてここに道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。今また友好の縁をしっかりと結び、永遠に慈しむものである。」

百済の王の父子は並んで額を地につけ、
「貴国の恩恵は天地より重いものです。いついかなる時にも決して忘れません。聖王は天上にあって、月や太陽のように輝いておられます。私めは下に侍って、忠誠の心は山のように不動です。永遠に西蕃となって、二心(ふたごころ)は持ちません。」と言いました。

52年の秋、9月10日にクテイたちは千熊長彦に従って来朝しました。その時、七支刀一口、七子(ななつこ)の鏡一面、および種々の宝を献上しました。そして、
「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。

大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」
と言いました。

そうして、肖古王は孫のトムル王に、
「今わたしが使者を通わせている海の東の貴い国は天がひらいた国です。その国が天の恩を我が国にも与えて、海の西側を分けて与えてくれた。だから、この国の基盤は永遠に固いのです。

そなたも、この友好関係を大切にして、国中から集めたものを献上し続けてくれるなら、私は死んでも恨むことはない。」と言いました。これより後、毎年朝貢し続けました。







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by lunabura | 2014-03-05 23:59 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

ヨド姫(13)ヒアデス星団の七女神と七支刀

ヨド姫(13)

ヒアデス星団の七女神と七支刀


シレカシの魂を持つ人から、夢で七支刀を授かったと聞きました。
その七支刀は水晶で出来ていて、枝の先に金色の文字が刻まれていたそうです。

その文字は覚えていないそうですが、とても印象的な夢だと思いました。
夢の世界は思いがけないものを見せてくれます。

シレカシと聞いてピンとくる人はかなりのマニアですね、高良山の。
高良玉垂宮の摂社に祀られている九躰王子の第一王子です。

前回の「(12)くくぬち」の続きに
ヒアデス星団の女神たちと七支刀のことが載っていました。

真鍋大覚『儺の国の星拾遺』牡牛座 p102の所です。

日本書紀巻九 神功紀(200)年十月の条に曰く、
   己亥(つちのとのゐ)の朔(ついたち)辛丑(かのとのうし)に和珥津より発(た)ちたまう。
   時に風廉(かぜのかみ)は風を起こし、陽侯(うみのかみ)は浪を挙げて、
   海の中の大魚、ことごとく浮かびて船を扶(たす)く。

同52年(252)年の條には、七支刀が献上されている。

ここに七なる数はヒヤデス星団のアエスラ、アンブロシア、デイオネ、テユエネ、エウドラ、コロニス、ポリュクソなる七柱の女神に由来するから、遠く地中海にローマとエジプトが相和し相睦み、もってユリウス暦を選定した崇神帝52(前46)年の神話が三百年後の極東に何かの影響を及ぼしていたのかも知れない。

名草星(なくさ)ヒヤデスを古事記神代記イザナギ・イザナミ二神の條に、
  香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木のもとにます、名は泣沢女(なきさわめ)の神。
牡牛座を香久星(かぐのほし)といった。


神功摂政52年に七支刀が百済から献上された記事がありますが、
この「七」の数については、ヒヤデス星団の七女神に由来するとあります。

ヒヤデス星団の実際の星の数は百を超えるそうですが、
文明ごとに異なる聖数を当てる訳で、文面からはローマ神話によるものと解釈できます。

が、何しろローマやエジプト神話に関しては無知なので、
「ユリウス歴を選定した崇神帝52年の神話」が何を示唆しているのか、今回はお手上げです。


シレカシさんの夢に出てきた金色の文字がヒヤデス星団の七人の女神、
即ち星の名が刻まれていたとしたら、素敵ですね。
う~ん。
誰か、作らないかな…。
手に持って見たい。

ちなみに、ヒヤデス星団とは牡牛座の顔の部分でした。
前回の記事を書き変えています。


名草星
安曇族の名前に名草が出てきて、「名前は草」と解釈している本もあり、
どうしたものかと悩んでいましたが、ここに「名草」とあるので、
ヒヤデス星団の名前が付けられていたとようやく分かりました。


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by lunabura | 2014-03-04 21:33 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(6)

ヨド姫三社(12)くくぬち

ヨド姫(12)

くくぬち


嘉瀬川流域の洪水警戒域にそれぞれ祀られていた三つのヨド姫神社。
古代人が水の女神を祀って平安を祈る姿が見えてきました。

淀姫神自体が祀られていないケースもありましたが、
すべてに共通していたのは安曇族の姫神たちが祀られていたことでした。

安曇族がこの川に入り込んで生業をしていたのは間違いないでしょう。
しかし、彼らがこの流域に遡ったのは何故だろう。

もうこれ以上は分からないと思っていたのですが、
『儺の国の星拾遺』の「牡牛座のヒヤデス星団」を読んでいたら、
「くくぬち」が出てきて、はっとしました。

くくのちの神。
そう、この神は上無津呂の淀姫神社に祀られていた神です。
「木の神」でした。
山の中に木の神を祀るのは理にかなっているのですが、心のどこかに違和感がありました。


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今、真鍋の文を読むと、それは金属に関わる内容でした。

「くくぬち」が出てくる部分を引用します。
省略した部分には、牡牛座のV字がヒヤデス星団で、
その星群のようすが坩堝の火のイメージとつながる話が載っています。
『儺の国の星拾遺』P101

徳勒星(とくろくの星)
牡牛座 Taurus θ(71)
(略)

鉱脈が地熱で風化分解して脆弱(ぜいじゃく)な軟泥粉末になったものを、
祖先は「あまつまら」「くくぬち」「こくな」「ふなつち」「たらを」「まつを」「まつら」などといった。

坩堝(るつぼ)に炭塵と共に混合して点火すると容易に金属を熔かし出すことができる。

火口(ほぐち)からV字型の壁(そこ)を伝わってしたたり落ちる高熱の合金を
受ける皿が「とろく」であり、これが冷却して固まった塊を「をきたま」と言った。

置給星(おきたまの星)の名も出羽の地で昔はきかされた。ヒヤデスの音写かと考えられるほどの名に火炊星(ひやき星)もあった。


そうそう、講演会の時、坩堝の耐熱温度の質問が出ましたが、
古代の坩堝は平たい皿状なので、現代の坩堝とはまた概念が違うようです。

風化した鉱物と炭塵を共に坩堝で点火すると金属が簡単に取れたと真鍋は伝えています。
その風化した鉱物を「くくぬち」と言ったということですね。

「くくのち」と「くくぬち」とは容易に音韻変化します。
「くくのち」神が「粉末になった鉱物」の神だとすると、安曇族が山の中に分け入った理由が見えてきます。
鉄などの金属を求めてここまでやって来たということになります。

温泉にはミネラル分が含まれますが、ミネラルこそ鉱物のこと。
温泉が近くにあるということも、手掛かりになります。

「ふなつち」

「くくぬち」と共に挙げられていた「ふなつち」はスズ鉄が風化して粉末状になったものでした。
それで思い出したのが「船原古墳」の所に出した真鍋の文です。
繰り返しになりますが、再掲します。

『儺の国の星・拾遺』p168 
イイボ星 オリオン座 IC 434

「ふね」とは斧土(ふなつち)の略で、褐鉄鉱リモナイト(2Fe2O3・3H2O)の風化地層である。「き」とは技術者の古称であった。造る人と掘る人では別の氏族になっていた。昔は「ふつぬち」といった。

なお燃料になる亜炭泥炭を「ふるまき」といった。

陸奥北、下野結城(ゆうき)に「古間木」の名がみえる。「まき」とは薪木即ち燃料で、昔は「もえぎ」といった。わずかな火で長い時間をかけて、酸化鉄の粉末を還元するには最良の炭となった。

「ふる」とは星の古語で流星隕石のごとく、天から降る意に流用されている。隕石には年輪のごとき層を重ねた組織が多い。これが地に落ちて古間木(ふるまき)即ち石炭(いしずみ)を作ったものと祖先は信じていた。

「ふつぬち」とは神代紀には
  次に木の神名は久久能智神(くくのち)を生みたまひき。

即ち「くくぬち」であり、中世あたりから櫟(くぬぎ)、即ち窯の薪木の名となったが、筑紫では歴木(ふみき)とも書いて年輪が識別できる石炭の意に通ってきた。「櫟」の右のつくりの「楽」は銘(らく)、即ち熔鉄のことであった。


ここに「くくのち」即ち「くくぬち」とありましたね。
これらから、当地には風化した鉱物と、燃料があったことが想像できます。

神水川(おしおい)を渡るとき、Yさんが「砂鉄だ」と言った言葉が、
まさしく安曇族が最初に挙げたと思われる言葉と重なるのでした。

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by lunabura | 2014-03-03 22:45 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

(11)吉野離宮はダムに沈んだ?


(11)吉野離宮はダムに沈んだ?


愛読者さんから、「吉野」に関してのコメントがありました。
以前にもそれに関してコメントをいただいていたので、心に残っていたのですが、
嘉瀬川ダムで思いがけない話を聞きました。

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それは「吉野離宮はダムに沈んだ」という話でした。

古川氏によると、佐賀県の県議会での質問に、
「大切な吉野離宮があるのに沈めていいのか」という内容のものがあったという事です。
その県会議員が誰なのか、また、いつの議会なのかは未調査で、
吉野離宮という名称かどうかも未確認だそうです。

また、ダムが出来るときには地元の調査がされますが、
その報告書は佐賀市立図書館で開架されている、
という所まで、古川氏が調べています。

これを踏まえて愛読者さんのコメントを読むと、うなずけることが沢山あります。

淀姫神社がある嘉瀬川流域は面白いですね。見て回ったことがありましたが、神社には気づかずパスしていました・・・残念!

嘉瀬川は上流に吉野山があり、下流は過去は吉野ヶ里方面に向いて流れ、「吉野」地名も旧河川沿いに残っているなど、この付近が「吉野」と呼ばれていたとしても不思議はないと思います。

『書紀』に斉明天皇が吉野宮を作ったとあり、万葉36番で吉野宮を「水激る瀧の宮処」と歌っていますが、奈良吉野宮とされる宮滝付近には「宮滝には滝はありません」(吉野資料館)とのこと。

一方、古湯の下流に雄淵の滝があります。大きく立派な滝でした。肥前国庁跡も川岸にありました。

『肥前国風土記』に「宮処郷は郡(神崎郡)の西南に有り。同天皇(景行)行幸の時、此村に行宮を造り奉るに因りて、宮処郷と曰ふ」と「天皇が宮を『宮処』に造った」との伝承があります。「滝の宮処」の「宮処」です。

奈良吉野よりこの「佐賀吉野」の方が古くて本物の吉野であり、「天皇」とは九州王朝の天子で、嘉瀬川(吉野の川)沿いに「吉野宮」を造ったということだったのではないかと思っています。

奈良吉野には滝がないという情報は地元でないと得られない話で驚きました。

佐賀県において、景行天皇の「宮処」があったのは私も気になっていました。
「神埼」(かんざき)といえば、真鍋は物部がいたと伝えています。
鞍手の神埼神社(こうざき)も物部の里です。
そこに天皇の宮処を造営するのは合理的です。

私も以前から調べたい神社が吉野ヶ里町にあります。
田手神社(太神宮) です。

ネットで採集した社伝に
「主祭神として、撞賢木厳之御魂向津媛命をお祀りし、
応仁天皇、管原道真、仁徳天皇を合祀する。」
 
「天智天皇筑後に暫く皇居された時、清浄晴沙の地を選んで、この地に皇太神宮、
撞賢木厳之御魂向津媛命(天照皇太神宮)を勧請し、荘厳な 一宇を建立された」

「天智天皇筑紫に暫く皇居せられし時に、御心願ありし此地を撰ひ、皇大神の荒魂
撞賢木厳之御魂向津媛命を奉斎ありたりと、又一説に斉明天皇とも伝ふ」

などと出てきます。
撞賢木厳之御魂向津媛命は「つきさかきいつのみたまむかつひめ」と読みます。
この撞賢木厳之御魂向津媛命こそ、仲哀天皇の崩御の原因に関わった神です。
(小山田斎宮で神功皇后が祟った神を尋ねたときに名乗った神)

神功皇后から四百年以上経って、再び新羅との戦いを迎え、
旗頭となった斉明天皇もまた突然崩御します。
仲哀天皇と同じ不吉が起こったので、天智天皇は同じ神の祟りを連想した可能性は
なかったかと考えています。

社伝では、天智天皇が祀ったのがいつの時点なのか分かりませんが、
この場所を選んだということで、宮処は近いのではないかと考えていました。

現地に行かないと、これ以上の理解は出来ないのですが、
愛読者さんの言われる「吉野宮」の傍証になるのではないかと思いました。

佐賀市近辺の方、一肌脱いで、調べていただけませんか?
議事録。尋ねた議員名。吉野離宮の正式名称。伝承。ダム資料の地図。
などです。


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by lunabura | 2014-02-28 19:01 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

ヨド姫三社(10)淀姫神社 古湯 豊玉姫と海津見神

ヨド姫三社めぐり(10) 

淀姫神社 古湯
豊玉姫と海津見神

ヨド姫神社めぐり。最後のお宮です。
ここは温泉で有名な古湯(ふるゆ)。
前回の下無津呂から川を下っていった所、川と道路に挟まれた所に鎮座しています。

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神社の向こうには貝野川が流れています。

ここは見覚えのある社でした。淀姫神社だったんですね。
思いがけず参拝できました。

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一の鳥居をくぐるといかにも古社の風情。
この鳥居の神額は諏訪神社と書かれていましたよ!
今、気付きましたが、向こうに神名備山が見えていますね。

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そして、拝殿前の境内です。
ご祭神は豊玉姫と海津見神(わだつみ) 他 11神。
伝承が手に入っていません。
淀姫神社ですが、ヨド姫の名はありません。

真鍋大覚によれば「ヨト」と「トヨ」は混同されたそうです。
ここもそうなのでしょうか。

地図を見ると、貝野川はすぐ先で嘉瀬川に合流し、下流では天河川が合流。
つぎつぎに支流が流れ込み、十字路のようになっていて、
上無津呂の淀姫神社の地形とそっくりでした。
やはり、大雨が降れば氾濫するような場所に水の女神を祀ったのではないかと思われました。


嘉瀬川流域のヨドヒメ神社を振り返った
嘉瀬川流域の上流から下って行くと、
上無津呂の淀姫神社では豊玉姫と玉依姫を祀り、下無津呂の乳母神社では玉依姫と海神。
そして、中流域の古湯の淀姫神社では豊玉姫と海神。
最後、古有明海に注ぐ下流域の與止日女神社では與止日女または豊玉姫
が祀られていました。

こうして並べてみると、嘉瀬川流域には安曇族の女神と海神が意図して配置されているようにも見えます。

安曇族が九州王朝であったという事が分かった今、
この流域は九州王朝にとって、重要な存在だったことが伺えます。


磐座とムクノキ

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拝殿の左手に磐座群がありました。

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もともとこちらが起源なのかもしれませんね。


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そこにはムクの実ムクロジュの実が落ちていました!


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幹の肌のアップ。

やはり真鍋が言うように、隕石が落ちた場所にムクロジュを植えたのでしょうか。
(真鍋はムクロジュをムクノキとよんでいるのが判明しました)
ここはそれに加えて磐座も置いた?

安曇族は鉄のためなら長野までも行って安曇野を展開しています。
ここも隕鉄の落下視点として、製鉄に励んだのでしょうか。

ヨトヒメ神社めぐりが、思いがけなく安曇族との出会いとなりました。
志賀海神社で行われる夜渡祭は、こうして各地の淀姫神社の平安の祈りも
含まれていたのかなあと、今さらながら気づかされました。


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淀姫神社の狛犬さん、どうなんでしょうか?



地名研究会の旅はここまで。あとは温泉組と帰宅組に分かれて解散です。
帰宅組の私たちは福岡に一番近い距離をナビで見ると、三瀬峠越え!
糸島が近かった。
そして、帰り道、虹のアーチを二度もくぐって福岡へ戻りました。




淀姫神社
佐賀市富士町古湯




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by lunabura | 2014-02-25 18:46 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(11)

ヨド姫(9)乳母神社 母なる玉依姫と海の神

ヨド姫三社めぐり(9) 

乳母神社
めのと
母なる玉依姫と海の神

上無津呂から下無津呂へ。

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どんな山の中でも、道路は見事に舗装されています。
高架から降りた所に乳母神社がひっそりと鎮座していました。

周囲に人家はありません。

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参道も??から入って行くようになっていました。
一見して古社だと分かります。

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祭神は玉依姫と大海祇神。(おおわだつみ)

そうすると、玉依姫が乳母神ですね。
姉の豊玉姫の子・ウガヤフキアエズを育てました。
オオワダツミ神は海の神。
ここにも安曇の神々が祀られていました。

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周囲が開けた境内に、ひときわ古い巨木が祀られています。
木のコブが膨らんでいます。
安産の神木のようですね。


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そして天満宮が!
道真公です。
このように大切に祀られています。
そして、縄には海藻が結ばれていました。

海人族の証しです。


道真公は思いがけない所で出会います。
九州王朝と深く結びついているのが分かってきました。
そのためでしょうか、道真公が過酷な追跡を受けた状況を耳にします。

道真公は福岡の人にとっては学問の神様として慕われていますが、
京都辺りでは三大祟り神の一つに挙げられているのをネットで見て驚きました。
道真公もまた、その真実を明らかにされるのを待つ神なのでしょう。


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その横の祠には十一面観音が祀られていました。
神社に観音さま。
珍しいですね。
どこからか合祀されたのでしょうか。
あるいは廃仏毀釈から免れたのでしょうか。

でも、十一面観音って、瀬尾律姫とも言われますよね。
禊ぎ祓いの神で、水の神でもある女神。

その真後ろには、ほら、清らかな流れが。
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「この川には温泉が湧く所があるそうです」と古川さん。
地元の人が子供の頃、ここで泳いでいて暖かい場所を見つけたそうです。


集落からは遠く離れた地に湧き出す温泉。
ふと、古代社会では産屋を別に建てる話を思い出しました。

あるいは、産婦のためにここは産屋が建てられていて、
暖かい水を汲んで産湯を使ったのかなあと、妄想しました。

そこで神武天皇の母なる玉依姫を慕って祀ったのでしょうか。
産宮神社(糸島市)の奈留田姫を思い出します。

奈留田姫もまた、玉依姫と豊玉姫に安産を祈り、神武天皇の子を無事に生んだのでした。
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ここは佐賀市の北部の山の中。
しかし、さらに山の中に入ると3キロほどで雷山に出て、糸島市に出てしまいます。
雷神社までも5キロほど。

海草を取りに行くとしたら、川を遡り、長野峠を越えて糸島に出る方が早いです。
安曇族たちは、いったいこの山に何を求めたのでしょうか。

志賀島では忘れ去られた古式の祭祀形態が残っていそうに思われて、
いつまでも心に残る宮でした。

穏やかな天気は急に変わり、冷たい風が吹き始めました。

佐賀市富士町下無津呂
乳母神社の場所は不明




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by lunabura | 2014-02-19 22:16 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

ヨド姫(8)淀姫神社 上無津路 豊玉姫と玉依姫を祀っていた

ヨド姫三社めぐり(8)

淀姫神社 
佐賀市富士町上無津路
豊玉姫と玉依姫を祀っていた

車を降りると、川の音が耳に飛び込んできました。
もはや、せせらぎというレベルではなく、渓流のような大きな水音でした。
「ここは川の合流点よ」とマーサが教えてくれます。

後で地図を見ると、十字路のように川が合流している所でした。
ここは佐賀市内ですが、ずうっと北上した山の中です。

ヨド姫…。
津波が来るところではありませんでした。
しかし大雨が続けば洪水が起こりやすい地点。
それで水の神としてヨド姫を祀っているのだろうか。
周囲を見回すと、冬枯れの山あいの里は、それはそれは清らかでした。

駐車場からすぐに橋を渡りました。

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「砂鉄がある!」
そんな声に川底を覗きました。
どれが砂鉄かよう分からん。
あの赤茶色の集合物がそうなのかな?

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神社はすぐそこでした。

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木の根元に「力石」が!
ケルトの風習と同じ。
バスク地方では今でも丸い石を担ぎ上げる祭が残っていますが、
この日本にも「力石」が伝わる町があります。

福岡県の南部の宝珠山村では民家の軒先などに置かれていました。
成人式にこの石を抱えるんだそうです。

ここの石もそんな使われ方をしたのでしょうか。
海人族の匂いがします。

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開けた境内に砂が敷かれているのが印象的です。

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ご祭神は豊玉姫命、玉依姫命、高皇産霊神 猿田彦命 
句句之智命 保食神 大山祇命 新田義貞 鎌倉景政

社号は淀姫神社ですが、ヨド姫の名はありませんでした。
その代わりに豊玉姫と玉依姫。
干珠満珠の女神たち。安曇族の女神たちが祀られていました。

高良山を追われた高皇産霊神がここに祀られているのは唐突な印象です。
どんな歴史が秘められているのでしょうか。

道案内の神、猿田彦。
木の神、ククノチの神。
食べ物の神、ウケモチの神。
村人の暮らしがしのばれます。


境内の由緒書によると、
淀姫神社の創建は詳らかではない。が、記録によれば、西暦515年継体天皇の御宇の勧請であろうと察せられる。

ということは、磐井の時代だね。


c0222861_2116457.jpg

「これが重要なのです」
古川さんが示した所には高良山の紋と一つ巴、二つ巴、三巴の紋が並んでいました。
一つ巴は薦神社にあったのと同じ。
思いがけない所で再会しました。

ここに高良の紋がある理由が由来書に書かれています。
続きを書き写しましょう。(一部分かりやすく変更)

正親町天皇の永禄4年(1561)山内の領主神代勝利、同長良父子は、龍造寺隆信の攻撃に敗れ、この地に救いを求めた。社人賀村大和守舎種は、神代父子を社内に隠し、にわかに村民を集めて大祭の態して神楽を奏していた。

追手の兵が来て探索したが、神代父子は見当たらず、社務所に火を放って退いた。幸い社殿は焼失をまぬかれ、神代父子は無事であった。

神代は神恩の大なるを謝して、即座に佩刀二振りと田七町五反を奉納して、神代家鎮護の神と仰いだ。

社殿はその後、幾度か改築されて今日に及んでいる。(後略)
平成25年11月吉日 上無津呂自治会

戦国時代に山内の領主神代勝利らが当社に逃げ込んで助かったので、お礼に祀ったのですね。
山内ってどこだろ。

資料を見ると、神代家は高良玉垂神の末裔となっていました。
高良玉垂神は安曇磯良と奉斎する海神だから、神代家は安曇族の系統となります。

敗戦して落ち延びる場所は縁故の場所のはず。
ここはもともと安曇族が入植していたと考えれば、
山の中に海神の姫神たちが祀られているのもうなづけます。

目の前の川は「神水川」と書いて「おしおい」川と読むそうです。
「おしおい」といえば、各地の神社で見かけましたね。
身を清める海の砂を「おしおい」と言い、参拝する前にそれで体を清めます。

志賀海神社には一の鳥居の所と拝殿の所、二か所にあります。
山笠の始まりの時、筥崎宮の「おしおい」を取りに行く行事は今も続いています。
日少神社(飯塚市)では海がないため、社殿の裏を流れる川に「おしおい」を取りに行きます。

この神水川では海の代わりに、その砂を取って無病息災を祈ったのではないでしょうか。
  境内のサラサラの砂がそんな想像の裏付けをしてくれないかな。

それにしても、こんな山の中。
目的がないと入植できません。
  山の中にあるのはやはり鉱山だろうか。
  何か採掘していたのだろうか。

初めてここに住まいを定めた人々の生業を思っていると、「ム、ムクの木だあ」
ついに見ました。
社殿の右手に威風堂々としたムクノキ。

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真鍋大覚の言う「隕石落下地点に目印としてムクノキを植えた」
あの木をついに見た。
冬枯れで葉っぱが無いけど、ムクの実が落ちてるかも…。
足元を探すけど、掃除が行き届いていて、何も残っていませんでした。

そうだ、木の肌を覚えておこう。

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それはウロコのように一つ一つはがれそうな表面でした。


そして、祠の所には、こんなゆかしい風習が。

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手前には藁で作ったお皿がありました。「わらでしお」と言うそうです。
昔の人たちは草を編んでお皿にしたんですね。
熊本では伸びている部分を切るそうです。

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そして、これが古墳の直弧紋のデザインの元ではないかという説もあるんですって。
何々?
直弧文!
ずっと気になる文様の名前を聞いて、へえ~。

ここはまだ古来の風習が伝えられる大切な山里でした。

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また、いつか訪れたいな…。
今度はゆっくりと。


淀姫神社




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by lunabura | 2014-02-17 21:24 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

ヨド姫(7)真手山 熊襲タケル対ヤマトタケル

ヨド姫三社めぐり(7)

真手(まて)山

熊襲タケル対ヤマトタケル


再び、佐賀のヤマトタケルの伝承に戻ります。

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佐賀市大和町大字川上大願寺から見える山は真手山といい、
小碓尊(ヤマトタケル)に襲撃された熊襲タケルが逃げ込んだ山だと伝わっています。

念のため、『大和町誌』の方も読んでみました。
概要は前回の「大願寺の伝承」とほぼ同じで、るなが注目するポイントだけ羅列します。

熊襲は筑紫を根拠地にして北部九州地方をおびやかしていた豪族。
九州全土を征服して各地の穴ぐらに陣を張っていた。

小碓尊と熊襲タケルは筑紫で一度、会っている。
小碓尊は弟の彦王を大将、竹内宿禰を補佐役として筑紫の穴ぐらの本陣を攻めたが、頭(かしら)の熊襲タケルは逃げた。

小碓尊は筑紫から船に乗って堀江に寄港、蠣久で上陸。
小碓尊の二太刀目が熊襲タケルの頭の急所に決まった。
小碓尊が平定するのにおよそ6年かかった。

あとは、健福寺伝承とほぼ同じで、町史の方がより詳しく書いてありました。


これらから当時の状況を推察すると、
熊襲タケルは筑紫を根拠地にして九州全土を支配していた大王です。

穴ぐらの陣が各所にあったということは、金属採掘の集団ではないかと考えられます。

熊襲タケルの立場から見ると、小碓尊から急襲されたということになります。

これを書いていて、神功皇后の戦いの時に作った地図を思い出しました。
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紫色が神功皇后軍の傘下の国々。青色が滅ぼされた国々です。
山門県では葛築目が景行天皇に殺され、続けて田油津姫が神功皇后に殺されています。

ちょうど、昨日、宮地嶽神社で話した時に質問があったのがこの辺りの問題です。
熊襲は一般に九州の南部に居たと思われていますが、実態はまだ不明です。
そういう中に、拠点が筑紫にあったという伝承が出てきたのです。

「ソ国」とは脊振山一帯に想定している国で、「襲国」とも書けるので、
ここが「熊襲」のクニかと一瞬、思ったのですが、残念ながら、ここは肥前であって、筑紫ではないですよね。
熊襲の根拠地は筑紫の穴倉の分布するような山域に探すのが妥当です。

ミイ国が気になります。
そこには高樹神社があり、「高良の神(竹内宿禰?)に一夜の宿を貸して
高良山に戻れなくなった高木の神」が祀られています。

この高木の神が仲哀天皇に祟ります。
だから、高木の神を追い出したのはヤマトタケルと竹内宿禰が組んだ時と考えることも可能です。
ヤマトタケルはまだ16歳前後。竹内宿禰はヤマトタケルの弟と同じ年齢。

話の辻褄は合います。
この仮説が合っていれば、高木の神は熊襲の神となります。

ずっと前からこの逍遥の前に立ちはだかる「鷹」の神々を思い出します。

歴史の奥深い所にある古代のベール。
そのベールを開く所まで行かないと、九州の古代は明らかにならないのだと
古代の神々は伝えているように思われてなりません。


次の写真は真手山の中腹にある健福寺の境内から見た景色です。

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襲ってくる敵の姿は丸見えです。
ヤマトタケルが女装して女たちに紛れて侵入する作戦を立てたのも納得です。


この寺には熊襲タケルの墓も伝わっていました。
寺の背後の山の中にあるそうです。
目印の石があったそうですが、今はたぶんブッシュ。

山頂には高地性集落遺跡があるんだろうなあ。
発掘されたなら、弥生遺跡と伝承が重なる稀有な遺跡となるかも…。



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by lunabura | 2014-02-16 17:54 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

ヨド姫(6)大願寺廃寺~健福寺・日本武尊が熊襲タケルを討伐した所だった

ヨド姫三社めぐり(6)

大願寺廃寺~健福寺
日本武尊が熊襲タケルを討伐した所だった

與止日女神社から西へニキロ行くと五社神社がありました。

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集落の間の小道を通ると一の鳥居。


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民家の間の参道の向こうに拝殿がありました。
周囲が開けています。

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祭神は春日大明神、比賣神、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の五柱。
ここで八幡神に出会うのが不思議な感じです。

どこにもありそうな境内ですが、驚くべきことに、ここは大願寺廃寺跡なのです。
県指定の史跡です。
所在地は佐賀市大和町大字川上大願寺。

c0222861_1543873.jpg

拝殿の足元はその礎石を利用したもの。(@_@;)

説明板によると
年代的には7世紀末から8世紀前半頃のものです。
硬い花崗岩を削りだして柱座(柱を立てる場所)を作った礎石を持つ建物は、九州では太宰府市の大宰府政庁跡や観世音寺などごく一部にしかありません。

見回すと巨大な瓦や布目瓦など、博物館で見かけるようなものが沢山ありました。
写真を載せるのは控えます。

佐賀、凄すぎ。
近畿なら大騒ぎするんじゃない?

で、ここに来た理由はヤマトタケルの熊襲討伐の伝承の確認のためなのです。
え?
熊襲って、熊本とか鹿児島の話じゃなかったの?
そう思って、サイドバーからヤマトタケルを読み直すと、地名は書いてないんですね。


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ここは地名が大願寺。境内から山が見えていました。
頂上部がフラットで、いかにも山城を営みやすい景観です。
その中腹に「健福寺」があります。
ここもまた行基の開山だそうです。

そこがその伝承の舞台です。

当寺の落慶法要記念号(昭和49年4月28日)に「大願寺の伝説」という記事が書かれていました。(読みやすいように、一部変更します)

1940年、景行天皇の頃、筑紫を根城として北部九州をおびやかしていた熊襲という豪族がいた。景行天皇は皇子の小碓(こうず)尊に熊襲征伐を命ぜられた。尊は時に16歳、しかし英智武勇にすぐれていられる。弟彦王を副大将に武内宿禰を補佐役として筑紫の穴倉陣に攻め入った。その時、熊襲タケルは、いち早く逃げ去った。
しばらくして逃げ先が川上附近とわかったので、海路、舟で肥前堀江(今の堀江通り)に一度寄港、さらに蠣久(かきひさ)に上陸、ひそかに逃げ先を探索している中に、大願寺の山の中に居て、毎日娘達を集めて大酒宴中とわかった。

 そこで或る日、小碓尊は女に変装して酒宴中に入り、時をみて「我こそは筑紫野で見参せし小碓尊である。天下をわがものに騒がした不埒(ふらち)め、これが天罰だ」
と二太刀目が急所にきまって倒れた熊襲は息もたえだえながら「我こそは日本一の武勇者として誇りつづけたが、我以上に尊のような智勇権謀者がおる事は知らなかった。尊こそ誠に日本一の武勇者なれば、今後は日本武尊と尊称し奉る。

我は九州全土をわが家の住いとせしもこれが最後となったこの川上の土地を記念して姓熊襲を川上の姓に改め、川上タケルと称する」と遺言して息を引き取った。

それ以来、小碓尊を日本武尊といい、熊襲タケルを川上タケルと呼ぶようになったという。
熊襲の墓が境内にあるといわれているが、もちろん、元真手(まて)山にあった時代でもあるので、彼の地一帯を調査する必要がある。 (一部変更)

地名が (@_@;)
「熊襲」の根拠地は景行天皇の時代は筑紫野だって!!!
しかも、「熊襲」って姓だって (*_*;
これって、熊鰐と同じじゃない。(-_-;)

そして、竹内宿禰とともに攻めた場所が筑紫の「穴倉陣」。
「アナクラ」って、どこ?
もしかしたら「アサクラ」? ま、マサカね。

びっくりする事ばかりだけど、
とりあえず、大願寺地区で伝わっていた伝承の世界をとらえてみよう。

「熊襲」は筑紫に住んでいて、北部九州をおびやかしていた。
つまり、景行天皇の一族とは対立関係にあった。
しかし、小碓尊は熊襲に対して、一度、筑紫野で見参したと言っている。

両族には何らかの交流はあったという事だ。
(小碓の名は一般には「おうす」と読むけど、当地では「こうず」と読む)
熊襲の拠点は筑紫の穴倉。

景行天皇はそこを小碓尊に襲撃させる。この時、竹内宿禰も参戦。

熊襲は当地、大願寺の山、真手山の豪族を頼って逃げ込む。
小碓尊は船で追撃。
海路と書いてあるので、当地は有明海の湾入が大きかったのだろう。

やや下流の佐賀市?堀江に寄港して、蠣久(当地から南約3キロ)に上陸。
ある日、女装して城に入って熊襲を仕留める。

この時の熊襲の言葉では、九州全土を支配していたという。
そして、終焉の地、川上にちなんで川上姓となる。

小碓尊は「日本武尊」となるが、この時代の表記は『古事記』の「倭健」とする方が、
より原形に近いと、るなは思う。

「真手山」の「まて」は、小碓尊が急所から剣を引き抜こうとしたとき、
熊襲タケルが「待て」と言ったことからついた地名だと、健福寺の住職は言われた。

(つづく)

地図 健福寺 大願寺廃寺






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by lunabura | 2014-02-11 19:00 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(0)

ヨド姫三社めぐり(5)石神 世田姫


ヨド姫三社めぐり(5)

石神 世田姫

ここは肥前の国。
『肥前風土記』が残っている地域です。
そこには確か、石神についての記述があったはず。

が、本屋では『風土記』が手に入らず、図書館へ行って借りてきました。(平凡社)

佐嘉の郡
郷は六所(里は19)、駅は一所、寺は一所。
昔、樟(くす)の樹が一本この村に生えていた。幹も枝も高くひいで、茎葉はよく繁り、朝日の影は杵島郡の蒲川山を蔽い、夕日の影は養父の郡の草横山を蔽った。日本武尊が巡幸された時、樟の茂り栄えたのをご覧になって、勅して「この国は栄(さか)の国」というがよい」と仰せられた。そういうわけで栄の郡といった。後に改めて佐嘉の郡と名づける。

これって、與止日女神社のクスノキの話ではないですか?
影が杵島郡から養父郡へ掛かったというので、調べると、両方とも25キロほどの距離がありました。

誇張表現だとしても、堂々たる巨木だったのでしょうね。

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これは境内に遺された株を前々回とは別の角度から撮ったもの。

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この巨木たちの根元にあるの、分かりますか?
おっきいですね!


さて、本題の「石神」を探して続きを読みましょう。
ある人はこうもいう。郡の西に川がある。名を佐嘉川という。年魚(あゆ)がいる。
その源は郡の北の山から出て、南に流れて海に入る。
(略)
また、この川上に石神がある。名を世田姫(よたひめ)という。
海の神(鰐魚をよぶ)が毎年毎年流れに逆らって潜り上ってこの神のもとに来る。海の底の小魚が沢山従って上る。その魚をおそれかしこむ人にはわざわいがないが、またその反対に、人がこれを捕って食ったりすると死ぬことがある。すべてこの魚どもはに2、3日とどまっていて、また海に還る。


「石神」が出てきました!その神の名は「世田姫」でした。
海の神が毎年この神のもとに遡ってやって来るんですね。
その時、小魚も一緒にやって来る。

この川の「石神」といえば、巨石パークの磐座群のことです。

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この磐なんか、絶妙のバランスなんです。
地震があれば崩壊するのでは、という石組がそこかしこにあります。


この巨石群を世田姫と呼んでいるというのですが、
與止日女神社のヨド姫とは関係ないのでしょうか。

そう思って、巨石パークのHPを見ると、ありましたよ!

古くは、肥前風土記にも記された大和町下田山中の巨石群です。10メートルをはるかに上回る石たちは、肥前国一の宮として栄えた与土日女神社のご神体と考えられています。神秘的な古代のロマンを感じさせる巨石は、幾千年の年を経た今も、私たちを見守るかのように、静かにたたずんでいます。(画像も文も巨石パークHPより)

磐座群は與止日女神社のご神体と考えられていました!
そうすると、「よと」も「よた」も同じ神で、音韻変化しただけですね。

『風土記』には海の神(鰐魚)が毎年川を遡って来ると書かれていましたが、
「鰐」ってワニ=バニ=ふとマニのマニ=亀。

亀といえば海の神です。また、豊玉姫の出産の姿を思い出させます。
遠賀川では遡る鮭の姿を豊玉姫に例えるケースもありました。

豊玉姫と愛息・ウガヤフキアエズの別れは古代の人に語り継がれた話なのでしょう。
この川上峡でも、海の魚が見られると、豊玉姫の話をささやいたのでしょうか。

與止日女神社は外削ぎ。男千木でした。

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神殿を撮っていると、お日様がキラリ!

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急いで、シャッターを切ると、こんな優しい光が。



地図
赤 與止日女神社 青 巨石パーク




 ◆ ◆ ◆ 語り部 ◆ ◆ ◆
                  
◆ 2014年2月15日(土)13:30~16:30
タイトル:「神功皇后伝承を歩く ――足跡をたどる旅のガイド――」
           第17回 玄海地名研究会
           会場:福津市宮司元町7-1 宮地嶽神社内 文華学院 あるいは 直会澱
              (会場が直会殿に決まりました)
             
詳細は コチラ


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by lunabura | 2014-02-09 21:57 | ヨド姫の宮めぐり | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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