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カテゴリ:高良御子神社( 10 )

高良御子神社(9)二つの妙見(宗像と久留米)

高良御子神社(9) 

 二つの妙見(宗像と久留米)

いにしえの高良大社は北向きだった


妙見神社(宗像市安ノ倉)は北斗七星への祈りの宮。
聖なる滝で祈れば龍が星に祈りを届けてくれるという。

満天の星々の中、「北」に憧れる思いが「妙見」には込められていました。

この記事を書いた後、高良山の古地図を見ていると、そこにも「妙見宮」がありました。
それは、あの高良御子神社の「南」にありました。

阿志岐の「南」に妙見?
「北の星の神」を南に祀るのは変だな…。
もしかしたら、中心地がもっと南に存在するのでは。

そう思って地図を見ると、妙見宮は山の中の谷に鎮座していました。
宗像市の妙見神社と似た地形の所に鎮座しています。

そして、すぐ東には古宝殿が鎮座していました。
これは動乱蜂の時に紹介しましたが、急な階段を延々と上った所に鎮座する宮です。

神託によって、そこに九躰皇子が祀られたのですが、
その石段を延長してみると、そのラインは思いがけず高良玉垂宮に届きました。



地図





結果、高良玉垂宮から見て北に妙見宮が存在しているのが分かりました。
これから考えると、妙見宮は高良玉垂宮の北の守り神として、
祀られた可能性が出てきました。

九躰皇子を祀った古宝殿も、高良玉垂宮から下った所にあると考えると、
それほど特異な場所に託宣されたのではないとも思われてきました。

ここまでは、単に「妙見」=北斗七星→北に祀るという関連性で
見ただけの話ですが、思いがけず安ノ倉(宗像)と阿志岐(久留米)が
私の中で接点を持ち始めました。



タイミングよく届けられた「高良山雑記」を見ていると、
阿志岐村には次のように、銅を掘った跡があるのが分かりました。
 
「銅採掘の跡 吉見岳の麓阿志岐の北大塔(ウーダーウ)という所に銅を採掘した跡ありという。」

宗像市の妙見神社の緑の湖で銅を連想したことと符合してきました。

c0222861_205658100.jpg



高良御子神社を戦国時代まで安曇族が祀っていたという点と、
妙見神社(安ノ倉)のそばに安座神社という安曇の名を残す神社があったという点もまた、
「安曇」でつながっていることを示しています。

安曇族は高良山にも八所宮にも入っています。
八所宮には神武天皇の頃?
高良山には神功皇后の頃?

安曇族はもっと古くから入っていて、そこなら天皇家を安全に迎えられることを
知っていたに違いありません。




木札の神名の謎
「木札の謎」があったのですが、覚えていますか?
    元気水徳の神 (もとけみずとく)
    一徳元水の神 (ひととくもとみず)
    元気火徳の神 (もとけほとく)
これは高良御子神社に残された木札に書かれた神の名の一例ですが、
この名が八所宮縁起にも書かれています。
珍しい神名なので高良山麓に存在するのが謎だったのですが、
安曇族が両地方に関わっているなら、突飛な事でもないように思われてきました。

「木札」の場所を氏子さんに尋ねると、
「神殿の屋根裏」ではないかということでした。



高良玉垂宮の社殿は北向きだった

「高良山雑記」には更にこんな一文がありました。

「昔時の神社
山本村観興寺画縁起に高良山の社殿は昔し北向き別所の西にあった追分より社殿に上るとある(山本常寛咄)」

これは、観興寺の縁起図に描かれていた玉垂宮は北向きになっていて、
昔は追分から参拝したということです。
地図を見ると追分は阿志岐村の北の方にありました。

玉垂宮が北向きだった時代は不明ですが、
大宰府から船に乗って筑後川を南下して阿志岐村に着くとそこで上陸。

東西に鎮座する坂本神社を通り、山を登って参拝すると、
玉垂宮の正面に出たといううことです。
古代の高良山を考えるには北からアプローチする必要が出てきました。


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阿志岐に鎮座した二つの坂本神社は現在、御子神社の右隣に遷っています。

そして「坂本」という姓が志賀島の古い家柄にあり、
これまた安曇を連想させる名前なのです。

高良御子神社の氏子総代に安曇族のことを尋ねると、御存知ありませんでした。
もう安曇の記憶は消えているようです。

その代わり面白い話を聞きました。

小学4年生なると、火薬や鉄粉などの配合を教わって鉄砲玉を作り、
山の中に入ったそうですが、今では危険だとして禁止されているそうです。

十歳という記憶力の盛んな年代に村の伝統の技術を伝えていたのですね。
今でも動乱蜂を作るときには寄り合って作るそうですが、危険を伴うそうです。


それを聞いて思い出したのは、火薬の材料の硝石(?)。
志賀島で聞いたのですが、安曇族の重要な輸出品だったということです。

安曇族が九州王朝に届けたという資材の中には
このようなものも含まれていたのかもしれませんね。


高良御子神社と八所宮。
全く別々に取り組んだのですが、思いがけず、深いつながりがあるのを
目の当たりにすることになりました。
不思議なタイミングです。



高良御子神社 花火動乱蜂(どうらんばち)
http://lunabura.exblog.jp/21833879/


妙見神社(宗像市安ノ倉)龍神と北斗七星
http://lunabura.exblog.jp/21964236/







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by lunabura | 2014-04-09 21:01 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(2)

高良御子神社にて


高良御子神社にて


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不思議。

おととい高良御子神社の記事を終えたのに、今日、こうしてその拝殿で話を伺っている。

桜を散らす雨は本降りになって、境内を水たまりにしていた。

開け放たれた拝殿の中に冷気が入ってくる。
見上げると、室内の天井付近は壁がなく、吹き抜けになっていた。

ずっとここに留まりたまう九躰皇子。
この地は、まだまだ神気が人の暮らしに及ぶ土地で、不思議な事が今でも起こっていた。

今日はHP「ルーツの広場」さんの久留米訪問に私も随行。
コースは高良山の麓の逍遥。



出目八幡宮、祇園山古墳、高良下宮社、

磐井の井戸、磐井城、

高良玉垂宮、宝物館、

味水御井神社、国府跡、

高良御子神社。




高良山の麓の古代史探訪は奥が深い。

そして、家に帰り着くと、思いがけず「高良山雑記」が届けられていた。
ありがとう。
なんだか高良山に魅入られた一日だった。


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(高樹神社から磐井城跡が見える)





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by lunabura | 2014-04-05 21:30 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(0)

高良御子神社(7)九躰皇子と竹内宿禰の子は同じだろうか


高良御子神社(7)
九躰皇子と竹内宿禰の子は同じだろうか

ようやく、高良御子神社に戻って来ました。
もう一つ、検討しておきたいことが残っていました。

それは九躰皇子竹内宿禰の子は同じだろうかという問題です。

「高良御子神社 高良系神社乃分布」という資料に
九躰皇子を祀る神社の分布が網羅されていたので、これで考えようと思います。

これは「福岡県神社帳」(昭和十九年発行)からリストアップしたもので、
「武内宿禰の御子神を祀った社は北は甘木市より、南は三池郡高田町に至る区域内に十六社ある。」
と書かれています。

その分布はざっと見て、筑後川流域の中流域から下流域に当たります。
高良山を中心としたら北部から南部にかけてです。

くじらさんのコメントによると「王子宮の豊福正美総代から伺ったところによると、
かつては、浮羽から八女までが阿志岐だったとのこと。」
ということなので、御子神の分布は阿志岐とかなり重なっています。

c0222861_035681.jpg

(地図では筑後川を千歳川と書いています。高良山は巨勢の「巨」の字あたりです)

これは竹内宿禰が福岡全体に祀られているのに対して、
御子神は筑後地方に限定されているという特徴があります。

そして、その祀られ方は、
御子神が九人一緒に祀られている社もありますし、一柱だけ独自に祀られている社もありました。

ほかに目につくのは、菅原神と一緒に祀られているケースがいくつかあることです。
竹(竹内宿禰)と梅(菅原道真)を同一氏族が祀っているのでしょうか。

時代的には西暦200年頃、900年頃と、700年の隔たりがあります。
それを繋ぐのは安曇族なのでしょうか。


そこまで漠然と考えていたのですが、くじらさんから、
「阿志岐は高良社 小祝 安曇氏の管轄下にあり、最高祀官 大祝 鏡山氏(物部氏)は、
草野町に在住なされています。」とコメントがあり、納得したしだいです。

つまり、小祝 安曇氏が阿志岐を管轄していたということは、
安曇磯良が高良山に関わってからずっと安曇族が祭祀に関わっていたということになります。

そして、「志賀島から安曇族が九州王朝(八女)まで物資を運んでいた」という
志賀島の人の話と相互に裏付ける内容となります。

阿志岐のエリアが安曇の管轄下にあり、
重なるようにして高良玉垂命の御子神たちが祀られているとなると、
九躰皇子は安曇の末裔という可能性も十分に残っていることになります。

九躰皇子が竹内宿禰の子とはこの段階では言えません。


地図 高良御子神社





坂本命神は男神か女神か?


さらに、九躰皇子と竹内宿禰の九人の子は同じかどうかという問題の
アプローチの手段として、七番目の御子に注目しました。(赤色)

<九躰皇子>                <建内宿禰の九人の子(古事記)>
1 斯礼賀志ノ命神(シレガシ)       1 波多の八代の宿禰
2 朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)   2 許勢の小柄(おから)の宿禰 
3 暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)   3 蘇賀の石河の宿禰
4 渕志ノ命神(フチシ)          4 平群の都久の宿禰
5 谿上ノ命神(タニガミ)、         5 木の角(つぬ)の宿禰
6 那男美ノ命神(ナオミ)         6 久米のマイト姫
7 坂本ノ命神(サカモト)         7 ノノイロ姫
8 安志奇ノ命神(アシキ)         8 葛城の長江のソツビコ
9 安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)     9 若子(わくご)の宿禰

坂本神=ノノイロ姫なのでしょうか。

これを考えるのに、筑後地方では実際にどんな名で祭祀されているのか検討することにしました。

●すると、広川町の高良坂本社では
「古賀村に新しく社を建て始めて坂本命を祭る。是れ玉垂宮の七男なり。」とあって、
坂本命=男神となっていました。
ところが、祭神は9若子宿禰となっているので、
当社では7坂本命=9若子宿禰となっているのかもしれません。

●大刀洗町の高良坂本神社は祭神が7奴能伊呂姫命(ぬのいろひめ)で女神でした。

●また、筑後市の玉垂命神社の祭神は
玉垂御子社 
    1 波多の八代の宿禰 
    3 蘇賀の石河の宿禰
    5 木の角(つぬ)の宿禰 
    2 許勢の小柄(おから)の宿禰 

玉垂御子社
    4 平群の都久の宿禰
    8 葛城の長江のソツビコ
    9 若子(わくご)の宿禰
    6 久米のマイト姫
とあり、肝心の7ノノイロ姫の名がありませんでした。

●北島坂本神社(北野町)の祭神名は坂本命。

こんなに色とりどりです。男神か女神か、謎は解けません。
ただ、全体からの印象では、筑後地方には、九躰皇子=竹内宿禰の子、という
合意があるように思われます。


シレカシ命
九躰皇子の長男・1斯礼賀志命、一柱を祀るのは
久留米市藤光町の玉垂御子神社と野中町の玉垂御子神社、善道寺町の天満宮
です。

シレカシ命は長男ということで、のちには高良玉垂宮を負うべき人だったと
思われるのですが、どうなったのでしょうか。
高良山は、のちには物部氏になるんですよね。

筑後の祭神の分布を分析していくと、もっと実態がつかめそうな予感はします。
これは地元の方にお願いしたいな。

結論として、「九躰皇子と竹内宿禰の子は同じだろうか」の答えは「分からない」でした ( 一一)


高良の神
この資料には、さらに高良の神についての調査も記載されていました。

高良の神を祀ってある神社は、福岡県、大分県、に多く、佐賀県にもあり、全国に広がっている。皆様御存知の武内宿禰は、応神天皇に侍して御育てし、大臣として御助けした長寿神で、武内宿禰を祀る神社名は、高良・玉垂・賀来・武(竹)内・白髭・常盤(ときは)・黒雄(男)・大杉・善親(神)王(ぜぜのお)・古宮・翁(おう)・古一老、その他多種多様である。
注(高原三郎著大分の神々より)(略)

次に武内宿禰と関係のある有名神社を記す。
香椎宮・宇佐神宮・織幡神社・宇美八幡宮・高良大社・玉垂宮・風浪宮・気比神宮・宇倍神社がある。此の内気比神宮は福井県・宇倍神社は鳥取県で、その外の神社は北部九州に在社している。


武内宿禰を祀る神社名は多種多様ですが、このブログで関わった神社がいくつも出てきます。
賀来や善神王は安心院にありましたね。

また、武内宿禰と関係のある有名神社のリストは福岡県内の分は
『神功皇后伝承を歩く』で網羅していて、びっくり。
ガイドブックでは、もっと多くの神社を紹介しています。

しかし、竹内宿禰に関してはそのスケールの大きさから、まだ全貌が見えないのが実情です。

高良山の謎はなかなか奥が深いです。
また、別の方法でチャレンジできる日を期待しつつ、おいとましましょう。


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(石段から、一、二の鳥居を見る)








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by lunabura | 2014-04-03 20:06 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(4)

高良御子神社(6)ここも安曇族が祀っていた


高良御子神社(6)

ここも安曇族が祀っていた

まさか、ここでも安曇族に出会うとは。

それは『ふるさとの民話と伝説』(校区郷土研究会 会長豊福廣見編著)に
書かれていました。

1 高良御子神社祭神名のナゾ 井上 農夫
(前略)
 原始時代の海ジプシイ(漂泊民族)「わだつみ族」の族長安曇氏(あづみし)の氏人が、戦国時代の末期まで、この神社を守っていた。徳川時代になって、所在地の阿志岐村が高良山の神領から分離すると、高良神社の末社の地位から独立して、阿志岐村の鎮守社となった。
 この社の古い由緒は判らなくなってしまった。(後略)


たぶん数年前なら見逃していたでしょう。
安曇族。
戦国時代の末期までここを守っていたといいます。

高良玉垂命を竹内宿禰と決定したのは江戸時代でしたが、
その前まで安曇族が祀っていたということは、
この頃までは玉垂命が安曇の祖として祀られていた可能性が高いと思われます。

この安曇族を「海ジプシイ」と表現したのは、言い得て妙。
「くぐつ」とも呼ばれていたのがこの漂泊の民です。

「くぐ」とは「かやつり草」のことで、
これで編んだ籠を「くぐつ籠(こ)」と言ったそうです。
それに釣った魚やワカメを入れていました。
のちに「くぐつ籠」に、人形を入れて漂泊したことから、
漂泊する民は「くぐつ」と呼ばれるようになったそうです。

その人形(にんぎょう)とは神の人形で、それで呪術をしたり祓ったり、劇をしたり、
また、人形(ひとがた)として穢れを移したりしたといいます。


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傀儡子(くぐつ)  国指定 重要文化財 小犬丸 八幡古表神社

画像出典 吉富町 HP
http://www.town.yoshitomi.lg.jp/p/1/9/2/27/3/1/
物部膽咋とか、大伴武以が出ていますよ。
ガイドブックでもおなじみの人たちです。


「くぐつ舞」
それが、かの「筑紫舞」でもありました。

調べれば調べるほど、安曇族は倭(九州王朝)と繋がっていきます。
そして、竹内宿禰もまた九州王朝の礎(いしずえ)に繋がっていく予感がするのです。
そこには道真公も被さってくる。
竹と梅。そして松。
これは九州の古代王朝のシンボルでしょうか。

るなの心の古代の海では、
この高良山麓と宮地嶽神社(福津市)が竿さす小舟で繋がり始めています。
どちらも、安曇族、そして、磐井一族。
そして謎の竹内宿禰。

当社を安曇族がかつて祀っていながら、
いつ頃から竹のシンボルが掲げられるようになったのか、
その分岐点が分かれば、大きな飛躍が待っているようにも思えます。


地名の可能性はないか
さて、九躰皇子の話に戻りましょう。
初めてこの九人の名に出会った時、
  2 朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
  3 暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ・別名ユウヒトヨサカ) 
の二人の名に注目しました。
それは小郡市で聞いた「朝日山と夕日山」という言葉を思い出させたからです。

遠い記憶なので、間違っているのかもしれませんが、
小郡の平野で誰かが「朝日山と夕日山がある」と言ったのです。

朝日山は鳥栖に地名が現存しています。
夕日山は城山(じょんやま=花立山)だったかと記憶しているのですが、
心当たりの人に尋ねても、分かりませんでした。
思い込みだったのかも、知れないのですが、誰か知っていたら教えてください。

人の名前には地名が付くケースがあるのですが、
もし、「朝日」と「夕日」がその地名を指しているとすると、
もう一人、「安志奇」もまた地名の可能性があります。
この地そのものが阿志岐村です。

そして、阿志岐山城と名前が変えられてしまった大野城市の宮地岳の神籠石の記事で、
大宰府のアシキ氏が「中つ海」を巡行する船を司っていて、
その湊に阿志岐という地名が付いているのではという話になったのを思い出します。

荒船神社(3)蘆木氏は太宰府に直属していた
http://lunabura.exblog.jp/18419337/



c0222861_035681.jpg


有明海の大きな干満の差を利用して船を漕ぐために、
船出の時間は月の満ち欠けに合わせて変化します。
多分毎日50分ほどずれていく。
船の通る時間を見ていると、空を見なくても川面を見ながら、
月の満ち欠けが分かったと真鍋大覚が伝えた話のエリアがここでもあるわけです。



宮地岳(大野城市)の麓から高良山~耳納連山がよく見えます。
そして、この阿志岐の高良御子神社からも宮地岳が見えると、くじらさんが教えてくれました。

九躰皇子の父は自分の子供たちに勢力範囲を治めさせた可能性はないかと考えています。
朝日山、夕日山、阿志岐、そして安楽寺(大宰府)
  8 安志奇ノ命神(アシキ)  
  9 安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


その支配する地域がこの高良御子神社から、また元宮の阿志岐山の頂上から
一望できたのではないでしょうか。


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この景色を思い出すたびに、そんな思いがするのです。
うっすらと宝満山が見えています。

(つづく)





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by lunabura | 2014-03-23 21:31 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(2)

高良御子神社(5) 「九躰皇子」と「竹内宿禰の九人の子」はどうなのだ?


高良御子神社(5)

「九躰皇子」と「竹内宿禰の九人の子」はどうなのだ?


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(高良御子神社から高良下宮社へ向かう神輿)

前回は当社にある「竹」のシンボルから、当社では九躰皇子の父・高良玉垂命は
竹内宿禰と暗示しているのではないかと推測しました。

「皇子」という表現からは父は「天皇」クラスの人と考えられていたことが伝わってきます。

竹内宿禰の時代は弥生末期から古墳時代にかけてと推測していますが
その当時、倭には数十以上の国が有り、その内の三十国が中国と直接外交取引をしていたと中国正史には書かれています。

それぞれのクニに王がいるのですから、竹内宿禰も当然「王」だったと考えられます。
竹内宿禰を祀る神社の分布の広がりから考えると、
北部九州で広範囲に影響力のあるクニの王だったと思われます。

後に天皇という名称が生まれるわけですが、仲哀天皇・神功皇后もまだ天皇でなくて
クニの王だった時代、この二人の筑紫行をサポートした人物が竹内宿禰でした。

高良玉垂宮に残る伝承からは、新羅戦の凱旋後、竹内宿禰はこの高良山に住んだことになっています。
神功皇后の妹・豊姫を妻としたのなら、二人の間に九人の子をなしたというのが、
自然の解釈となります。
これが真実かどうかは分かりません。

記紀からは竹内宿禰は近畿と九州を往復したという状況が伺え、
また神功皇后が皇太后になってからの摂政時代をもサポートしています。

そのようすは高天原で高木の神がアマテラスをサポートするようすとそっくりです。
この時点で、忌宮神社を奪還したのちの記紀は、捏造があるだろうと考えています。
神功皇后が百歳になるまで現役で政治をするのは無理だと思われるからです。

竹内宿禰も、さらに百年、二百年後にまで活躍した話となると、
るな探偵もさすがにお手上げです。

一方、『高良玉垂宮神秘書』では、神功皇后が九人を生んで、
父は仲哀天皇と物部保連なのですから、これはもう付いていけません。


神功皇后は高良山にやって来たという話もあるようですが、
まだそれを書いたものには直接出会っていません。

以上が、九躰皇子を考えるときの状況というか課題です。



そして、一度はやってみたかったこと。
それは九躰皇子と『古事記』の建内宿禰の九人の子との対照です。

九躰皇子って、ざっと見ると、全員男子です。
(高良大社の宝物殿での読み方は、九人目は姫とも読ませていたような)


1 斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
2 朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
3 暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
4 渕志ノ命神(フチシ)
5 谿上ノ命神(タニガミ)、
6 那男美ノ命神(ナオミ)
7 坂本ノ命神(サカモト)  
8 安志奇ノ命神(アシキ)  
9 安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


これに対して『古事記』では建内宿禰の子は「七人が男子。二人が女子」と明記されています。

1 波多の八代の宿禰(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖)
2 許勢の小柄(おから)の宿禰(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖)
3 蘇賀の石河の宿禰(蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖)
4 平群の都久の宿禰(平群臣、佐和良臣、馬御機連らの祖)
5 木の角(つぬ)の宿禰(木臣、都奴臣、坂本臣の祖)
6 久米のマイト姫
7 ノノイロ姫
8 葛城の長江のソツビコ(玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣らの祖)
9 若子(わくご)の宿禰(江野財臣の祖)

対比すると一目瞭然。名前に共通がありません。
ただし、名前は実名が伝わっている訳ではないので、違っていても問題ありません。

一つ、どうしようもないのが、性の違いです。
これが乗り越えられるかどうかは、一つの山です。

そのために、両者を結び合わせる事を肯定する説と否定する説の両方が見られました。

るな的には、そもそも、『古事記』に書かれている九人の子が、
古代社会の豪族を殆どを網羅し、竹内宿禰がそれらの祖となっている点に対して、
捏造があるのではないかと疑っています。

でも、否定する資料もないので、そのまま話を進めています。
しかし、正直ずっとモヤモヤしたままなのです。
ただ、捏造だとしても、豪族たちが竹内宿禰の末裔であることにステイタスを求めている
という点は明らかで、竹内宿禰の存在の大きさを証明していているのは疑えません。

「『古事記』に書かれた九人」と「九躰皇子」は同一兄弟なのでしょうか。
違うのでしょうか。
今の段階では答えは出ません。


しかも、驚いたことに、この神社は安曇氏が守っていたというのです。

(つづく)







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by lunabura | 2014-03-21 23:39 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(6)

高良御子神社(4)九躰皇子の父は?


高良御子神社(4)

九躰皇子の父は?



斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
渕志ノ命神(フチシ)
谿上ノ命神(タニガミ)、
那男美ノ命神(ナオミ)
坂本ノ命神(サカモト)  
安志奇ノ命神(アシキ)  
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


この皇子たちの名が書かれていた境内の由緒書をもう一度読んでみましょう。

「起建」
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412~453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿)
 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。
(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会


九躰皇子は「高良玉垂命の御子」と書かれています。
「阿志岐山上に社を」、と託宣を下されたのは「高良の神」です。

「高良玉垂命」と「高良の神」が別神である件については久留米地名研究会で話しました。
このブログでも、また拙著『神功皇后伝承を歩く上』でも書いています。

不思議に立て続けに出会った志式神社神楽と高良大社絵巻縁起。
これを突き合わせると、「玉をつかさどって与える神」(玉垂命)とは海神のことでした。

「玉垂命」とは「安曇磯良神と、その奉斎する海神」。
「玉垂」の「玉」とは干珠満珠。
それを求めたのが「高良の神」=「竹内宿禰」となる事を紹介しました。

その後、「高良玉垂命」と「高良の神」は混同されていきます。
そして時代が変遷し、『高良玉垂宮神秘書』になると、高良大菩薩という仏名で
物部保連(やすつら)、住吉の底筒男神の名が出てきます。

『高良玉垂宮神秘書』では九躰皇子の母は神功皇后。
父は仲哀天皇と高良大菩薩となっています。
この場合の高良大菩薩は底筒男神、すなわち住吉神、そして物部保連です。

以上が、このブログで調べた状況です。


さて、当社の縁起に戻りましょう。
九躰皇子を祀るようにという神託があったのが412~453年頃のことです。

この時代、つまり五世紀の人は高良玉垂命を誰だと考えていたのか、
これをまず理解しなくてはなりません。

1 海神(綿津見の三神)と安曇磯良
2 竹内宿禰
3 物部保連あるいは住吉神

この三人の誰か。
これを知る方法はあるのでしょうか。



まず、社殿に遺されたシンボル。それは「竹」でした。

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これは本殿の裏にある彫り物。中央に竹が緑で彩色されています。


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こちらは本殿正面、両の柱に笹竹が掲げられています。
写真を見直していた時、初めはいったい何だろうと思いました。
竹の葉は一日でチリチリに枯れるので、祭日の夕方にはこうなったのでしょう。
竹が祀られている社殿を見るのは初めてです。

結果、「高良御子神社」のシンボルは「竹」。
そうすると、「竹内宿禰」の一族だということを暗示していると思われます。


一般に武内宿禰と書かれる名を、私は「竹内宿禰」と書いています。
ガイドブックの時も、書き分けが大変でした。

『日本書紀』なら武内宿禰。『古事記』なら建内宿禰。
そして、各神社の書き方。
そのうえ綾杉説の竹内宿禰なんですから。

でも、原型に遡ることは、シンボルを理解しやすくさせてくれます。
「竹」の笛。音楽。
これが竹内一族の側面なんですね。


当社に「竹」が残されているということは、九躰皇子の父は「竹内宿禰」だと暗示していると思われます。
また、皇子という表記は帝の子という主張も見られます。

「たけしうちすくね」という実名の伝わらない人物は王朝の帝だったのでしょうか。
もしかしたら、その名は「シキハム」だったのかも知れない。
それは織幡宮(祭神武内宿禰)を「シキハムさま」と呼んでいることから推測しています。

(つづく)








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by lunabura | 2014-03-19 23:41 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(8)

高良御子神社(3)坂本神社


高良御子神社(3)

坂本神社



もう少し、境内の神々を確認することにしました。

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一の鳥居には「王子宮」と書かれていますが、二の鳥居には「坂本神社」と書かれています。

これについて境内には由緒書がありました。

東坂本社 櫛岩窓命
西坂本社 豊岩窓命
注=両祭神は、太玉命の御子で「殿(みかど)」を守衛(まも)る神、即ち高良参道入口の守護神である。


これって、何だかすごい事、書いてませんか?
「殿(みかど)」と書いていますよ。
東西の坂本神社は高良参道入口の守護神とあります。

これを素直に読めば、高良山には「みかど」が住んでいたという事になります。

「高良参道の入口」と書いてあるので、最初は現在の参道をイメージしたのですが、
そうではないのが「高良御子神社由来記」で分かりました。

「阿志岐村は古代高良の三口(登口)の一つで(耳納・阿志岐・高良内)、其の内でも高良大社の北側に位置し、尤も(もっとも)重要な所であった。
大宰府を立って筑後川を渡り、野口を過ぎ、神米畷(くまめなわち)を通り、栗林をすぎて、阿志岐坂を登り、高良社へ至る古道である。


この栗林の所に両坂本神社があったと書かれています。
栗林はJR御井駅付近に当たります。

また、神代(くましろ)の渡しには神代家がいてそこを固めていたそうです。
今は神代橋がある所でしょうか。

地図



こうして、航空写真を見ると、阿志岐が北の門だったのがよく分かります。
(写真と普通地図とクリックで変化します)


境内の説明板、さらに書き写します。(中略)
神社調帳 (明治八年)(1875)高良大社臓
祭神 櫛岩窓命 
末社 素盞嗚社 祭神 素盞嗚命
同  佐田社  祭神 猿田彦命
同  八柱社  祭神 高良玉垂命・外七柱
注=八柱社は元治二年(1865)建立

祭神 豊岩窓命
末社 隼鷹天神社 祭神 高皇産霊神
同  石川宿弥社 祭神 不詳
注=境内に佐屋神大明神の石碑あり。

明治四十三年九月二十六日 郡役所の勧誘により、王子山596-1 高良御子神社境内に、全末社とも移転遷座す。
現在、王子宮境内に祭祀してある坂本神社の社殿は一つだが、正面祭壇上に素木の厨子が二つ並んでいる。それが東西坂本本社のご神体である。 中央に不明のご神体一柱あり。(後略)


両坂本神社は明治43年に当宮に遷宮したのが分かりました。
これを見ていると、末社の方に大変興味をそそられます。

櫛岩窓命の東坂本神社の方の佐田社は当社ではサルタヒコですが、
安心院の佐田神社は武内宿禰だったことを思い出します。
そして、当末社には高良玉垂命も祀られています。

一方、豊岩窓命の西坂本神社の方にはあの隼鷹天神社があります。
祭神 高皇産霊神(たかみむずび)。
そう、高良の神によって、高良山の麓に追いやられた高木の神です。
のちに仲哀天皇に祟りました。(御勢大霊石神社・隼鷹神社・高樹神社参照)

それと並ぶ神社が石川宿弥社。祭神は不詳となっていますが、
竹内宿禰の第三子・蘇我の石河宿禰を連想してしまいます。

これらは末社ということなので、栗林地区の人々に密着した神々ということでしょう。
古代の様子を探るのに何か手掛かりを示してくれそうな祭神の組み合わせでした。



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これは王子宮の本殿の右手の社殿です。

これが両坂本神社の社殿と思われるのですが、未確認です。
参拝された方、確認して教えてください。

さあ、これで周囲の状況が少し分かりました。
いよいよ本題に取り掛かる時が来たようです。

(つづく)






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by lunabura | 2014-03-18 22:41 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(0)

八所宮と高良御子神社 こんな共時性も


八所宮と高良御子神社

こんな共時性も


昨日は八所宮を参拝して、思いがけず鐘の話を聞くことになりました。

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(八所宮)

縁起は少しずつ活字化しているのですが、
墨書きされた「豊斟渟尊」の漢字を確認するために『日本書紀』を見ると、
冒頭の第一巻・神代上にその神名が出てきました。

コメントで指摘がありましたが、八所宮の縁起は『日本書紀』と対応しているようです。

『日本書紀』を書いた人は何冊もの書物を並べて、比較しながらどれを採用するか
考えたらしく、採用しなかった書物も「一書にいわく」と書いて、並べて紹介してくれています。

ですから、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)一つとっても、いろんな表記が書かれています。
これが『日本書紀』のスタイルです。

そして、八所宮の縁起はその一柱(ひとはしら)ずつが詳しく説明されています。
『日本書紀』が神名を並べただけなのと比べると、その点が大きな違いです。


で、ですね。

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(高良御子神社)

その後、くじらさんが送ってくれた「高良御子神社由来記」を読んでいたら、八所宮の神名が出て来たんです。

たとえば、次の神です。
    元気水徳の神
    一徳元水の神
    元気火徳の神
しかも、八所宮縁起には読み仮名がついていないのですが、
高良御子神社由来記の方には読み仮名がついているので、大助かりです。

こんなタイミング有る?
神さまが教えてくれた ^^としか考えられない。

その名は『日本書紀』には、書かれていないようなので、
八所宮の縁起を知らないと書けない可能性があります。
あるいは、上記の神は昔の人にとっては常識だったのでしょうか。

八所宮縁起を書き写したすぐ後に読んだ高良御子神社由来記。
オドロキのタイミングです。
この共時性はまた、新たな古代世界を展開してくれるのでしょうか。

今、記事を書くのに、あちこち飛んでいるのも、意味があったのだなあと思いました。

八所宮の縁起には御勢大霊石神社(みせたいれいせき)の名も出てきます。
当ブログではおなじみの神社ですが、どうしてその名が出てくるのか、
この謎も、この先、明らかになればと思っています。


さあて、今日の記事のカテゴリ、「八所宮」か「高良御子神社」か、どっちにしよう。
そうだ、空さん、二つ出してたなあ。
私も真似しよう。
同じ記事をカテゴリを変えて二度UPします。^^






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by lunabura | 2014-03-17 21:30 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(0)

高良御子神社(2)花火動乱蜂


高良御子神社(2)

花火動乱蜂


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ここは王子池。
高良御子神社の裏手から登った所にあります。

話によると、ここで動乱蜂(どうらんばち)という花火があげられるそうです。
動乱蜂。
名前だけは知っていたのですが、思いがけない場所で行われていました。
残念ながら、訪れた年は土砂崩れのために祭が出来なかったそうです。


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湖の左端の白い砂地が土砂崩れの跡です。
その右手に階段が見えます。(ススキの穂の先の直線が石段です)
な、長い。長すぎる。
その上が古宝殿だそうです。
なるほど、麓に遷宮するのもうなずけます。

ネットで調べると、花火動乱蜂の動画がありました。
花火というより大砲!古い形が伝わっているんですね。

この動乱蜂を催行する神社名は「王子若宮八幡宮」となっていました。
何処にある神社だろうと動画を見ていると、この「高良御子神社」が写っていました。

「王子若宮八幡宮」という社号からは応神天皇や仁徳天皇を連想してしまいます。
とても、「高良御子神社」と同じ神社とは思えません。




そこで、再び高良御子神社の境内へ降りてみましょう。

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境内の左手に「花火動乱蜂」の石碑があり、その横に一つの石と二つの石祠がありました。


王子若宮八幡宮
赤い垂幕の祠が「王子若宮八幡宮」でした!
祭神は仁徳天皇です。

小祠建立 天保十有五歳申辰春三月吉祥日
由来=三百数十年前本村区では、毎年九月十五日若宮八幡宮の例祭に素朴な花火行事を奉納していたが、天保の頃、有馬藩砲術指南役古川辰之進氏が花火動乱蜂の製法を創案完成し、代々住民にその秘伝製法をおしえ現在にいたっている。

「本村区」で奉納されていたとあるので、を地図で確認すると、当地の集落のことでした。

この社伝によると、天保の時、ここに小詞を建立して祭祀が始まったようですね。
それまでは、素朴な花火行事を奉納していたとありますが、
祭日が9月15日なので、旧の盆だったのでしょうか。

そこに古川辰之進が赴任(?)して来て、動乱蜂を造ったということです。
砲術指南役だったということなので、あの動乱蜂はやっぱり大砲だったんですね。


太神宮
上の写真の右手の石祠は太神宮と書かれています。
祭神 天照大神
小祠建立 天保十有五歳 申辰春三月吉祥日


これによって、左右の祠は同時に建立されたのが分かりました。



恵比須神

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動乱蜂の石碑のすぐ後ろの神体石は「恵比須神」と書かれています。

祭神 少名彦神(古川家守護神)
注=もと古川屋敷神として祭祀あるのを道路拡張のため高良御子神社境内に移転
遷座 以上本村区にて運営・管理 
平成十四年十月吉日 山川校区郷土研究会建之


古川家の守護神と書かれていますが、出雲系の神でした。



天満神社

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これは天満神社。

天満神社
天満宮(長園より引移)以後 神社調帳による
祭神菅原神(本村区氏神)
小祠建立 明治二十九年十一月上旬建之
注=何時の頃 当地に遷座ありしか不明


道真公です。こちらが当区の氏神さまですね。
そして、冶金の神様でもある。

道真公を祀る集落に少彦名神を守護神とする古川家がやって来て大砲を開発して技法を伝えた。
その時、天照大神と仁徳天皇を祀るようになったようです。

新しい技法を受け入れる技術がここには、もともとあった事を意味します。
ここは古くから武器製造を受け持った集落だったのではないでしょうか。

その上、ここには高良玉垂神の九躰皇子が祀られている。
そこに、高良山の神輿はやって来るというストーリーになります。

境内には、もう少し手掛かりがありました。

(つづく)








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by lunabura | 2014-03-15 22:51 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(0)

高良御子神社(1)九躰皇子を祀る宮


高良御子神社(1)

九躰皇子を祀る宮

ここを参拝したのは2012年10月14日。
高良山の勅使祭が催行された日でした。

本来は50年に一度のお祭りですが、高良山の麓にバイパスが出来たので、
それを神さまにご披露するための御神幸と聞きました。

何故か、私はこの御神幸に加えていただくことになりました。
生まれて初めての経験でした。

高良玉垂宮から下って来た神輿はいったん高良山の北麓に向かい、
引き返して南麓を巡行するようになっています。

私は南麓の方に参加して、南麓の終点まで鎧兜を引いたのですが、
北麓のお宮を知りたくて、くじらさんご夫妻に連れて行ってもらいました。

高良山を降りた神輿は山川町に向かうのですが、ずっと登りでした。
わずかな標高差ですが、神輿を担いでの大変さは容易に想像がつきました。

高良玉垂神がわざわざ向かわれる宮とはどんな所で、どんな神が祀られているのでしょうか。

古代からの細い道は舗装はされていても、くねくねとしていました。
最後、山に向かって登り始めたかと思った時、目的の宮に着きました。

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駐車場から直ちに石段です。神輿を担いでは難行だったことでしょう。


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神額には「王子宮」と彫られていました。

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祭を終えた清浄な境内です。


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拝殿です。
ご祭神は九躰皇子。(くたいおうじ)


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書き写すには気合いを入れ直さないといけないので、今日は写真で。
縁起が書かれていました。

「起建」
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412~453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿)
 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。
(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会


九躰皇子とは高良玉垂命の御子神たちで、5世紀に高良の神の託宣があって阿志岐山上に祀られ、
8世紀になって現在地に遷宮していました。

阿志岐山上の古宝殿が見える場所へ、くじらさんが案内してくれました。
自分ひとりだったら決して気付かなかったことでしょう。

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境内の左手の道を登っていくと、本殿の裏を回りこみながら開けた湖に出ました。

(つづく)








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by lunabura | 2014-03-08 20:10 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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