ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:古代の筑紫あれこれ( 12 )

「梁塵秘抄」の中の筑紫二首


「梁塵秘抄」の中の筑紫二首


「ろうじんひしょうですか」
「いえ、りょうじんひしょうです」
図書館での会話です。( ´艸`)

梁塵秘抄が買いたくてネットを見たのですが、表紙だけ見てもどんな本か分からないので、図書館で確認して気に入ったものを買おうと出掛けました。

見当たらなかったので、受付で検索してもらった時の会話でした。

「ろうじんひしょう」
変換したらどんな文字がでるかな。ちょいと、ここでやってみよう。
「ろうじんひしょう」→「老人飛翔」
はは。一発で出た!思った通りだった。本のタイトルにいいかも (/・ω・)/ .

で、そんなこんなで「新日本古典文学大系」を借りて来ました。

前半は仏教関連の歌がずらりと出ています。現代では葬式の時にしか関わらない仏教ですが、それとは全く違い、日常の中に仏教が生きていました。

精神性の高さが伺えます。日本人の高潔さとか、こんな所で育まれたのかな。そんなレベルを庶民が歌ってるんですから、驚きです。

後半には教科書に出てくるような歌が並んでいましたよ。


そして筑紫関連の歌をみつけたので、二つほどピックアップしてみます。



311 筑紫の霊験所は、大山(おおやま)四王寺(しおうじ)清水寺(しみずでら)、武蔵(むさし)清滝(きよたき)、豊前国の企救(きく)の御堂な、竈門の本山(ほんざん)彦(ひこ)の山

これは筑紫で霊験が高いと言われる所を羅列して歌ったのでしょう。知っている名が出てくると嬉しいですね。で、それが何処なのか、特定するのも楽しみです。

以下は語句の説明を本から一部ですが、抜き出しました。※は、るなの意見です。

「大山四王寺」 筑紫郡四天王山。四天王安置の古寺  ※四王寺山?
「清水寺」 太宰府の観世音寺。    ※ みやま市の清水寺ではないか。
「武蔵」 筑紫野市。本尊薬師。    ※ 武蔵(ぶぞう)寺
「清滝」 龍王の瀧か。        ※ 古賀市の清滝寺ではないか。
「企救の御堂」 企救池があった大興寺か。 
「竈の本山」 宝満寺。竈門神社。
「彦の山」 彦山権現 天台の修験道場  ※英彦山

清水寺と清滝寺は現存するので、著者には検討してほしいです。
また、ご意見やアドバイスのある方、コメントでお願いします。



383 吹田(すいた)の御湯(みゆ)の次第(しだい)は、一官二丁三安楽寺 四には四王寺五侍(さぶらい)、六膳夫(ぜんふ)七九八丈九傔仗(けんじょう) 十には国分(こくぶん)の武蔵寺(むさしでら) 夜は過去の諸衆生

これは筑紫の温泉の入浴に関する序列が歌になっています。 以下は注を写しました。

「吹田」二日市武蔵。筑紫の湯
「御湯」 入浴は治療法
「次第」 入浴順序の社会序列
「官」 大宰府の高級役人
「丁」 「寺」の誤写か。観世音寺。西海道僧尼のための戒壇院、管内の僧尼仏寺を監督。
「安楽寺」 道真の廟所。天満宮の神官を支配、大宰府に密着。
「四王寺」 311に同じ。
「侍」大宰府勤務の武士。
「膳夫」大宰府勤務の料理人。
「七九八丈」 未詳
「傔仗」 大宰府の高級役人護衛の武士。
「国分の武蔵寺」 311に同じ。
「夜は…」伝承か。死者供養への意識。

湯治である温泉入浴にも序列があるとは面白いですね。当時の身分に対する考えが伺えます。

まずは大宰府の高級役人、観世音寺の僧、安楽寺(のちの太宰府天満宮)の僧、それから四王寺の僧です。

そのあと、大宰府勤務の武士、そして膳夫となっています。膳夫は料理人と解釈されているので、「それにしては順が早い」という感想を書いた本もあります。

膳夫は天文観測官ということでしたね。詳しくは以下に。

掌の形を楓(かえで)に見立てる。「かしわて」の略である。

膳部(かしわて)とは皇太子のもとで天文観測を補佐する官階であった。その名の如く、つねに客星彗星の位置を「かしわて」で測るところから、倭人が名付けた職名であった。

後に天神に五穀豊穣を感謝し、その供物膳部を申餔(しんぽ)の刻、即ち日ざしが最も強く、空が最も明るい時にささげる祇官もかねることが多く、やがては宮中の日夜の食を調達することになった。
(眞鍋大覺による)

これなら、入浴の序列が6番目というのも納得です。

最後の「夜は過去の諸衆生」というのは亡くなった人たちのこととされています。
入浴は現代では夜が普通ですが、思えば電気の無い時代には、夜は入浴タイムではないんですね。

亡くなった人への供養の心に、ほっこりとする歌でした。


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安楽寺(太宰府天満宮)



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by lunabura | 2015-06-08 20:50 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(0)

鞍手古道


鞍手古道


今日は雨でしたが、鞍手の神功道の確認に行って来ました。
Furutsukiさんの御案内です。今日確認した神功道は虫生津から古門神社まで。

ガイドブックなら上巻18古物神社に登場するルートですが、想定ルートに寄り添うように古代道が伝わっていました。

その地形一つ一つに意味があり、伝承が伝わっている!感動しました。
今日は写真を整理しただけですが、後日紹介します。

るな的には、鳥栖の物部氏と市杵島姫の関わりを書いている最中に、このタイミングでもう一つの物部の里、鞍手の地を踏むことに驚いています。鞍手もまた三女神の降臨を伝える六ケ嶽(むつがたけ)があるからです。

しかも、ニギハヤヒと市杵島姫の関わりの解読がようやく出来たタイミング。




鞍手には神功道と太閤道の二つの古道がありました。
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これがその交差点。不思議な地形でしょ。
古代史の宝庫、鞍手!

この地が日本の歴史にどれほと影響を与えていることか!
しかも、地形がかなり残っているという貴重性。
ここもまた総合的な研究が待たれるところでした。





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by lunabura | 2015-04-11 00:16 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(9)

愛宕という地名


愛宕という地名



愛宕(あたご)という地名を調べると、全国に314か所。
愛宕○丁目とか、愛宕○区というように、重なっているのもあるので、
差し引くと200か所ほどでしょうか。(全くアバウト)
北海道から鹿児島まで分布していました。

身近な地名ですが、真鍋はどう伝えているのでしょうか。p131
「玄海灘の海上気象」からの抜粋です。

胡瓜や南瓜(ばうぶら)の未熟な中実は「なかご」あるいは「ごお、ごう」である。飴状の赤い鉄、すなわち「温、熱、暖」を表す「あた」と具「ご」が結合して姪浜(めいのはま)の愛宕山の地名が生まれた。

「ほご」に似た「小戸(おど)」の地名も傍らにある。
「台無しにする」「駄目にする」というのを「御釈迦にする」という。印度は遺体を火葬にして骨をガンジス河に捨てるのが葬式である。

出来損じの作品を原型がわからぬように粉砕し、舎利にし、あるいは無念さの鬱憤(うっぷん)をはらす心理がこれである。

キュウリやカボチャの未熟な中味…ってどんなん?

キュウリって、昔は大きくなってから収穫していたらしいのですが、
現代は未熟な状態が好まれるということなので、スーパーにあるキュウリを思い出せばいいですね。

スプーンでこさぐと中味が取れます。(「こさぐ」って九州弁かな…)
その部分を「なかご、ごお、ごう」と呼ぶそうです。

それが製鉄の飴状の状態を連想させ、鉄の場合は「暖かいゴ」→「アタゴ」と呼んだそうです。

ということは、愛宕って製鉄をしていた所なのかな。


近くに小戸ヨットハーバーがあり、小戸神社があります。
その「おど」という発音も又、「反古(ほご)」にするという言葉とつながり、
失敗した作品を壊している状況を真鍋は連想するようです。

姪浜(めいのはま)といえば、神功皇后の下着を干した事から付いた地名と
言われていますが、意外や意外、156ページには思いがけない話が書かれていました、


 今津湾一帯の砂鉄はチタン含有量がきわめて少ない良質で、本邦屈指の中に入り、川砂に対する鉄分の含有率平均15%、最高85~95パーセントにも達するという一大宝庫である。

今山、可也山、芥屋大門などの玄武岩が中生代から第三紀始めに形成され、これが表面から少しずつ風化剥離脱落して、遠浅の糸島水道に堆積して来たのがその生因である。

三重県名張郡に赤目(あかめ)瀧があり、その岩肌はベンガラ(赤鉄鉱)である。早良郡「姪ノ浜」は中世「衵(あこめ)ノ浜」と称した。貝原益軒は

〈むかし衵浜と言ったらしい。八幡記に、神功皇后三韓を退治されて御帰りの時、十二月四日、ここに着かれて、衵の御衣を干されたことから、衵の浜と付いたという。いつのころからか、姪浜と言うようになったらしい。〉

と述べている。「姪」の漢音は「鉄」と同じである。背後の山は愛宕(あたご)と言う。すなわち溶鉱炉であり、眼前の砂丘から原鉱の砂鉄を採取し、これを露頭の石炭で精煉していたらしい。下着まで汗ばむ熱気がこのような伝説を生んだのである。

なるほど。
姪浜は神功皇后の下着干しから付いたのではないんですね。

貴婦人の下着干しが何で目撃されて伝えられるのか…、
と納得できない地名譚でしたが、もともと溶鉱炉があったということなんですね。

だから、愛宕の近くに竹内宿禰の出城があったのも、
船運だけでなく、製鉄所を守る陣営でもあったんだ…。
地図を見ると、稲荷神社もありますね。



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これは小戸の浜から糸島半島を撮ったもの。
砂鉄が黒い筋を見せています。

真鍋は砂鉄は山の崩壊に加え、海底火山からも出ていると言っています。


赤は愛宕。

地図の方に切り替えれば地名が分かります。


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by lunabura | 2014-09-03 22:50 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(0)

野見宿禰VS当麻蹶速・鍛冶師対決としての新解釈


野見宿禰VS当麻蹶速

鍛冶師対決としての新解釈


今回は「玄海灘の海上気象」(真鍋大覚)のp131です。
野見宿禰と当麻蹶速(たぎまのけはや)の相撲について、
真鍋独自の解釈が書かれています。

『日本書紀』巻第六、垂仁紀にはBC23年のこととして、つぎの記事が見える。

 垂仁七年の秋、七月七日にお側の者が申し上げた。
「当麻(たぎま)邑(むら)に勇み強い人がいます。当摩蹶速(たぎまのけはや)と言い、その人となりは、力強く角を壊し、曲がった鉤(武器)を伸ばします。いつも『四方に探しても我が力に並ぶものはおるまい。力の強い者に会って生死を問わずにひたすら力比べをしてみたいものだ』と言っています」

天皇はそれを聞いて、群臣に言われた。
「朕(わたし)は当麻蹶速は天下の力士だと聞いたが、これに並ぶ者はいるか」
臣下の一人が進んで申し上げた。
「出雲国に勇士がいます。野見宿禰といいます。試みにこの人を召して蹶速と勝負をさせたらいかがでしょうか」

その日のうちに、倭直(やまとのあたい)の祖(おや)・長尾市(ながおち)を遣わして、野見宿禰を召した。野見宿禰は出雲からやって来た。

当麻蹶速と野見宿禰に力比べをさせた。
二人は向かい合って立った。おのおの足を挙げて踏んだ。野見宿禰は当摩蹶速の??骨を踏み砕き、その腰を踏み砕いて殺した。そこで当摩蹶速の領地を没収してすべて野見宿禰に賜った。その邑に腰折田(こしおれだ)があるのはこのせいだ。野見宿禰はそこに留まって仕えた。


魏志倭人伝の不弥(ふみ)は野見(ぬみ)、投馬(とうま)は当麻(とうま・たぎま)とし、「宿禰」は脛、骨、「蹶速」は足毛などとすれば、北方蒙古系と南方琉球系の相撲(角力)、唐手の対決と解せられるが、

これは鞴(ふいご)の足踏の達者さ、ズク、コケラの製造剥離作業の迅速さ、熔融鋳造の技術の良否を投馬産と伊都産の砂鉄で比較し、ついに筑紫側に凱歌が揚がったことを暗示しているのではないだろうか。

垂仁帝(BC29~AD70)の在任中にはすでに九州各地で製鉄業者が技を競っていたことになる。

 一方はすでに鑿(のみ)になったが、他方はまだ湍間(たきま)すなわち固化した鋳鉄以前の沸騰状態に在るという遅速の相違を二者の姓が示しているのである。
有名な相撲の話ですが、ウィキなどには具体的な話が紹介してありませんね。

改めて訳してみると、力自慢の当摩蹶速が誰か力自慢と対決したいというので、
出雲の野見宿禰を呼び出して対決させたら、野見宿禰の方が強くて、
蹶速を踏み殺してしまったという話です。

これは相撲の始まりとしてよく紹介されていますが、こうして原典を読んでみると、
私たちが知っている相撲とは少し違っていますね。

対戦時に「足を挙げて踏んで」います。
シコを踏んだのかと思ったら、相手を踏み砕いています。
現代の相撲とは全く違いますね。

現代人から見ると、当摩蹶速が殺されてしまう理由も分かりません。
蹶速が「生死を問わず」と言ったから、と書紀は理由づけられるようにしていますが、
セリフがある場合は、8世紀の人が当時の人が納得するように作ったものなので、
創作されたものと考えています。
(その点は、神功皇后のセリフも同じです)

真鍋はこの「足を挙げて踏む」は「フイゴを足で踏む」と解釈して、
対戦を製鉄の仕事ぶりの対決として読み取っています。
材料も、投馬産と伊都産の砂鉄、とそれぞれが自分の使い慣れたものを使用したとしています。

そういえば、蹶速(けはや)という名前は「フイゴ踏みが強くて速い」という意味にも解釈できます。

二大産地の代表的技術者の対決は
野見宿禰の野見は「鑿」(のみ)が出来あがったが、
当摩蹶速の「たぎま」はまだ鉄が沸騰している状態の「湍間」(たきま)だった。

そのような話です。

これを読んでいて二点ほど分からない所がありました。

1・投馬(とうま)と当麻(とうま・たぎま)は発音が同じだという事ですが、
投馬国を具体的に何処に比定しているのか、文脈からは分からない。

2・不弥国は、真鍋は宇美町付近を比定しているので、
これと伊都産の砂鉄のつながりが分からない。
―伊都国の砂鉄が宇美町まで運ばれて製鉄されたということでしょうか。

この疑問点が解決付かず、消化不良なので、パスするつもりでしたが、
コメントに野見宿禰の名が書かれていたので、びっくりして、書くことにしました。

それに、昨日整理していた星の資料の中にも、のみの星の名が出てきて
これまたびっくりしたのです。(+_+)

能美星(のみのほし)
華南の蛋民の子孫が筑紫に坩堝(ゆあみ)金炊(かなたき)の技術を伝来した歴史を教えております。(『儺の国の星』p136)

「のみの星」とは金星のことです。

さて、この野見宿禰の末裔に菅原道真が出ています。
道真公は左遷されただけでなく、厳しく弾圧されたような話が九州でチラホラ聞かれます。
平家狩りと同じ様相なのかな…と考えるようになりました。

「若松」をシンボルとする竹内宿禰から「老松」をシンボルとする菅原道真まで、
同じように製鉄集団を抱えていたとすると、
「倭国」と「日本国」がもう少し立体的に描きだせるかも知れませんね。
そう、これで「松竹梅」が揃いました。^^

各地の老松神社 
http://lunabura.exblog.jp/i182/



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若松恵比須神社
祭神事代主命(ゑびす様)、武内宿禰命




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by lunabura | 2014-09-02 20:50 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(1)

製鉄で倒れた人たち


製鉄で倒れた人たち


今日は「玄海灘の海上気象」(真鍋大覚)のp131を読みます。

古代人は粒子の砂鉄を高温状態にしさえすれば、これが冷たく光る鋼(はがね)に融合固化するものと信じていた。

しかしもっとも酸化度の強い磁鉄鉱から強力に結合している酸素を剥奪するには猛毒の一酸化炭素によって還元せねばならない事実を発見するまで、数十万の犠牲者が中毒のため、或は不具不随になり生命を失ったはずである。

一つの窯に燃やす炭は優に三~四百俵を越している。一酸化炭素を猛烈に吐き出す窯ほど多量に鋳鉄が生産されるという奇妙な矛盾は、決死的作業であり、仕事に熱心な優秀な技術士など生命を落とす危険に曝(さら)されているのであった。

砂鉄からハガネを作りだすには、一酸化炭素が必要で、それは人間には猛毒だったということから、製鉄は命懸けの作業でした。

だから、羽白熊鷲など山の中で鉄や銅に関わる民は作業員確保のために里に下りて人さらいをして、鬼と恐れられていたという事がよく分かります。

一回で炭が三~四百俵もいるのですから、炭焼き人もまた大勢必要でした。
海で採れる砂鉄を急な山の上に持って行って、風の吹くのを利用するため、
犬鳴(いぬなき)など山の上に製鉄跡があるのもこれで理解できます。

神功皇后のガイドブックで旅をされた方は、稲荷社が必ず急な小山のピークにあり、
意外にも狭い境内だということを肌で体験されたと思います。

そんな所には古代の有力者がいて、有名な古墳なども近くにあり、
仲哀天皇や神功皇后を安全に招いた古代豪族がどんな暮らしをしていたのか
想像がつきそうな気がしてきます。

つづき。
同じ爐(ろ)の温度でありながら一酸化炭素の包有濃度と高熱状態で、なめらかな黒い肌で幡居する鋳鉄と、何の変化もなく閃(ひらめ)く砂鉄が接する。

古代人の合点のゆかぬ不思議な顔、不審と不満と無念を混合した表情が想像でき、型ばかりの真似事では絶対に理解できぬ技法が門外不出として厳秘にされていたはずである。

優秀な技術者は、工夫の途中でつぎつぎに斃死して後人に伝わらなかった。千慮の一失で落命した練達者もあった。これが今、累々として残る鉱滓の山である。爐の跡に接して建てられた無数の古墳群は供養塔でもあった。
鉄を作るには砂鉄と炭を交互に入れて燃やすだけでは駄目なんですね。
真似事では出来ないし、命を落とす者も多く、いったん熟練者が死んでしまうと、
その技術は失われてしまう。

そのために戦って手に入れようとする状況が生まれたのかも知れません。

先日、糸島の巨石探査に誘われて、行けなかったのですが、
あとで聞くと、山の中は古墳だらけで凄かったといいます。

小さな古墳だらけ。
人の命の数だけ古墳はあるわけですが、
このように製鉄で倒れた人の古墳もまた多かったのですね。


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(福岡市埋蔵文化財センターにて)


廃棄されたおびただしい鉱滓の群落を見て、徒労に帰した失敗の厳しい現実を背の負籠(ふご)にになって片付ける百姓の悲痛さを想う。

「御破算になる」ことを「反古(ほご)にする」と言う。これは稾カマスに入れてきれいさっぱり棄却することである。モッコ「ふご」の形は真っ四角なムシロを二枚重ねて三方を縄で綴り併せてつくる。

四足を切り取って空剥(うつはぎ)にした鹿の皮の袋がフイゴに利用された。「ふご」は「負籠」と同音であり、また、竹を編んだ長方形の籠をも言う。
百姓は冬になると各自で鉄を作った時代があったそうです。
そのために山に入って木を切って炭を作る。
それから窯で砂鉄を燃やしても、失敗すれば一年は無駄になる。

真鍋は鉄滓を見ると、その苦労がよく分かるようです。

「ホゴにする」が製鉄用語だったとは知りませんでした。
鹿の皮の袋については、「アマテラスVSスサノオ」に書きましたね。


下の図は筑紫の鉄滓が出た古墳(白丸)の分布です。
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画像出典「福岡市元岡・桑原遺跡群の概要」より
http://www.kuba.co.jp/syoseki/PDF/3274.pdf

山際ばかりですね。
失敗作が副葬されるのはどういう意味を持っているのか、
上の文を読んでからだと、いろんなメッセージが受取れそうです。







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by lunabura | 2014-08-29 21:53 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)

糸島の地名に残された製鉄の記憶


糸島の地名に残された製鉄の記憶


糸島水道の話の続きには地名の由来が書いてありました。
そこで、今日はそれを写して行きたいと思います。

「玄海灘の海上気象」真鍋大覚 p130

渡良瀬 度会(わたらい)

秋落ちの早い、砂利の多い水田がつづく怡土(いと)の谷には、初秋の風が志摩の方から吹き渡って来る。水はきわめて清冽澄明で絶え間ない渓流の音を爽やかに立てている。

渡良瀬川、五十鈴川の名が自然に雰囲気となって環境をこめてくるのが感ぜられる。渡良瀬、あるいは度会(わたらい)は、大垂(おおたらし)の転訛で、いかにも伊勢神が大和から渡御遷座まします印象を与えるが、古代人には銅や鉄の鋳造製錬の際に粘稠(ねんちょう)な熔融物が大きく垂れるほど苦心惨憺の成果であり、技術の的確さを示す神技の象徴でもあったからである。

五十鈴とは拝殿の鈴ではなくて「ずく」の転訛で、固化したばかりの玉(生)刃金(はがね)の意である。

語源は、爐(ろ)の内に重く沈んでいるまだ熱い鋳鉄を突き出す操作にも繋がる。やがては鋳造された直刀の刺、衝(つく)の行ないにもなる。

生(壱岐)の松原は、鞴(ふいご)の呼吸(息)であり、周船寺の古い港名が示すように、これが舟で積み出されて行く意味でもある。

初秋の怡土に吹き渡る風か…。
ちょうど今頃の季節でしょうか、真鍋の自然の描写を読むと、
忘れ去った季節を感じる感性が呼び戻されます。

糸島には有名な櫻井神社や二見が浦があり、伊勢との繋がりを思い起こさせますが、
五十鈴とはもともと銅や鉄の関連の言葉だということです。

そういえば、伊野天照皇大神宮の前も五十鈴川が流れていますが、
伊野の山では製銅をしていたとかで、川の汚染があった時代がありました。

褐鉄鉱の作りだす器状の形もまた自然な鈴を作りだすことがあり、
スズ鉄という言葉の由来と聞きます。

大垂(おおたらし)とは銅や鉄が真っ赤に流れ出るようすを表し、
それがワタラシ、ワタライと変化したといいます。

生の松原という言葉も考えれば不思議な言葉ですが、
「息」や「行き」という言葉から来たものだということです。


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(壱岐神社から今津湾に出て、糸島半島を見る。五十迹手の船団はここから出航した。)




可也(かや)芥屋(けや)
建物の新築祝の行事を「こけらおとし」と言う。これは鋳物の本体の表面に固着した鉱滓を削り落す作業から出たもので、「ずくおし」「けらおし」という職人の用語がこれである。

可也、芥屋などは、「けら」が転じたものである。

今山、今宿、今津などは鋳間(いま)すなわち江戸の銀座のごとく、鉄製品の販売生産地である。開拓した鋳鉄は「す、じゅ」で、「ずく、じゅく(宿)」にも転ずる。
可也山の地名はよく伽耶国由来などと言われますが、そうではなく、
「かや」も「けや」も「けら」から来ていたとは!

「こけらおとし」が鋳物職人の用語だったとも知りませんでした。
元岡などで生産された鉄が流通していくさまが目に浮かぶようです。


ついでにp129から。


桜井 小桜

馬肉の事を俗に「さくら」というが、色が桜色という事に起因しているよう伝えられるが、これは「早鞍」「さくら」のことか。

早馬「はやうま」すなわち駿馬を鞍に託して言ったのであろう。駅のころを昔は「はゆま」と訓じていた。

志摩郡桜井村桜井、那珂郡三宅村小桜など山犬、狼から保護した放牧場の跡か。
なるほどですね。
馬肉を「さくら」っていうのは、早馬、早鞍から来ていたとは。
古代では駅ごとに馬を置いて、どんどん乗り換えていた。
大きな鈴を着けて駈けて行ったんですよね。

桜井神社あたりも、馬の放牧などを考えて地形を見直すと、また別の世界が見えるのかもしれません。

地名はやっぱり歴史の化石です♪




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西から糸島半島を見る。





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by lunabura | 2014-08-28 21:20 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)

糸島水道は濁流に埋もれた


糸島水道は濁流に埋もれた


真鍋大覚は屋久杉の「縄文杉」の名付け親だと聞いています。
伐採された杉の年輪から縄文杉の年代を推定したそうですが、
年輪に現れる台風斑点も測定して年代を特定し、
それと日本の歴史と繋ぎ合せるという興味深い研究をしています。

真鍋は、雄略天皇の時代に瞬間最大風速107・9m毎秒の風が吹いたと書いています(@_@;)
100m超えというのは観測記録にあるのでしょうか。

調べると、「第2宮古島台風」(昭和41年台風第18号)
が瞬間最大風速85.3m毎秒を記録していました。

世界記録ではアンダーセン空軍基地(グアム) :1997年12月16日に105.5m/s。

そうすると、真鍋の推定は荒唐無稽な数字ではないようです。

そしてこの時、糸島水道は泥流に見舞われ、怡土と志摩が繋がったというのです。
その記述を読んでみましょう。

「玄海灘の海上気象」p130から
雄略帝17年8月、日本は空前絶後の台風が来た。屋久島安房、下屋久営林署に保存されている標本は幅17.2m、33年の年月にわたって台風斑点が残っている。

風速に換算すれば最大値は10分間平均にして76.3m毎秒、瞬間最高値にして107.9毎秒という値が推定される。

熊野年代記、紀伊南牟婁郡誌などの文献には、
八月 熊野台風 諸木ことごとく倒れる
と簡潔に記録してあるだけで、古事記にはいささかの片鱗も見出せない。

ただし日本書紀第14には雄略帝18(474)年に、「秋、8月、(略)物部菟代(うしろ)宿禰、物部目連(つぶらのむらじ)を遣わして、伊勢の朝日郎(あさひのいらつこ)を討たせた。」とあるのは、天災の後に必ず起る暴動の鎮圧に他ならない。
営林署に保存されていた標本に残る台風斑点から計算しているんですね。
真鍋の専門は「航空機運動安定論、極長周期波動解析」というものなので、
風の計算とか独自の手法を持っていたのでしょう。

熊野の山の木がすべてなぎ倒された話はテレビで見た記憶があります。
このあと「伊勢の朝日郎を討たせた」のは天災後の暴動が起ったからだと
真鍋は結論づけています。

この続きに糸島半島の話題が出てきます。
怡土と志摩の百姓に巨万の富と力を与え、ついには金に幻惑魅了されて緑の山河を荒廃させた砂鉄と爐の悪循環は、神の怒りが長い間の隠忍の限度を超えて一瞬に爆発したかの如く、山なす泥流濁土となって糸島水道にあふれ、これを永遠に埋没陸化したのである。

怡土(いと)と志摩は良質の砂鉄が採れ、
6世紀には26基の製鉄の炉が作られています。(元岡)

日本列島へは多くの渡来人が海を渡って来た歴史がありますが、
戦乱による亡命以外にも、鉄や金やヒスイなど、富を得るための渡来もあり、
物欲は現代人と変わらないのではないかと思うようになりました。

真鍋もまた、人間の欲が糸島の自然破壊を起こしたのだと、泥流の根源を見抜いています。


さて、糸島に「水道」があったのかどうか、
近年、ボーリング調査があって、陸続きだったという論文が書かれているそうです。

論文を読んではいませんが、海峡というのは幅3mの川でも繋がってしまうので、
はたしてボーリング調査は全体を網羅することが出来たのだろうかという疑問を持っています。

その論文を読んでいない者があれこれ言うのは何ですが…。

陸峡があったにしろ、怡土と志摩の間にはかつては船を泊める良港がありました。

真鍋は「糸島水道」がこの5世紀の台風の時に埋まってしまったと推定しています。
これもまた論証を読む必要がありますが、この部分で伝えたいのは、
鉄の民が砂鉄を掘り起こし、炉を作るために土を掘り起こし、
燃料になる山の木を伐採し尽くしたために、糸島の山は丸裸になり、
崩落がひどく、ついに台風の時に大崩壊が起こって水道が埋まってしまったということです。

今回、広島の災害で花崗岩が風化しやすい話が紹介されていますが、
糸島は玄武岩で、風化剥離脱落して糸島水道に堆積していった、ということだそうです。

糸島平野の水稲栽培はきわめて早く、すでに班田収授の制度が確立された頃の鄕村帳が最古の文献として残っている。

暗黒の芥屋大門(けやのおおと)を浮かべる玄海灘の海流は藍青の色をたたえて滔々と北流する。これだけの勢力を以てしても、今に至るまで、ふたたびかつて神功皇后の船団が隊伍を揃えて堂々と通過した昔の姿に復元することは不可能になった。

陸化が汀(みぎわ)線降下、地盤上昇に起因するものでないことは、海面に巨大な口を開く洞窟の中心位置が今も昔も変化していないことで明瞭である。
五十迹手(いとて)は独自に船団を組んで今津湾で
皇后の船団と合流して外海に出たと推測しています。

伊都国の大船団を係留するのに適した水道が埋まったあと、
強い潮流が水道を洗い続けても、二度と水道を復活させることは出来なかったと言います。

ある研究会で北部九州が地盤上昇した可能性を述べた方もありましたが、
芥屋大門の観測から、地盤上昇はしていないと真鍋は言います。

(つづく)


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筑前における古代の製鉄遺跡の分布
画像出典「福岡市元岡・桑原遺跡群の概要」より
http://www.kuba.co.jp/syoseki/PDF/3274.pdf





糸島





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by lunabura | 2014-08-27 20:40 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(0)

鉄とウラジロ


鉄とウラジロ


今日は、太宰府地名研究会のトレッキングで
福岡と熊本の県境の宮々を参拝してきました。
テーマは「古代官道と高良山の影響の及ぼす古代世界」という感じでしょうか。

船着き場があれば駅があり、早馬がスタンバイ。
そこには旅人の祈りを受け止める神々の宮がありました。

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(竹飯八幡宮)

古代駅の宮はあらゆるものを受け入れ、浄化する気に満ちています。




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(椛神社)

そして製鉄の民の宮は鳥居も奥まり、急な石段の上にひっそりと鎮座しています。
氏族に祀られる宮々は氏人の祈りに応えるべく静謐な気に満ちていました。





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その境内にはウラジロが。


「ウラジロがあれば鉄がある」とYさん。
「どうして?」と誰かが尋ねる。

「ウラジロはマサ土に生えるのです。
九州は阿蘇から北部の方に花崗岩が分布してマサ土が多いのです」
こちらでは真砂土は「マサツチ」と発音します。

出雲の鉄穴流しはまさにこれを利用したものですね。
その、雨に対して脆弱なようすを私たちは今目の当たりにしています。

広島が大災害で、一日も早い救出と復興を祈るばかりですが、
これはどこでも起こりうることでもあります。




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(岩本橋)

古代から自然の摂理を理解し、護岸工事などをしてきた歴史があるので、
今の安全な日本があるんですね。

古代の駅の宮には目の前に滔々と流れる川がありました。
九州もまた長雨で川は濁り、水かさを増していました。

今、日本は古代の人々の祈りと知恵に耳を傾ける時がきているようです。






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by lunabura | 2014-08-24 23:46 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(0)

奴国と不弥国 


奴国と不弥国 


「奴国と不弥国は仲が良くなかったとです」
と聖洲さんは言った。
――千年以上経っても確執が語り継がれている?

これを聞いて思い出すことがありました。

魏志倭人伝に「奴国の二万余戸」「不弥国の千余家」とあるように、
奴国と不弥国では家の単位が「戸」「家」と違っているのです。
別の部族ということでしょうか。

「奴国と不弥国は○○川を挟んで仲違いをしていたとです」
聖洲さんが言われた川の名前を覚えていなくて、改めて尋ねました。

「境目は何川ですか?」
「宇美川です」

聖洲さんによると、神功皇后の出産地は王子八幡宮で、奴国の領地にあったのですが、
不弥国が自分の所の宮を皇后の出産地にしてしまったらしい。

本宮が伝承を失い、それを勧請した宮が繁栄することはよく見られることですが、
この奴国と不弥国に同様の問題があり、奴国の方が伝承を失った可能性はあります。

そこで、実際に連れて行っていただいたのが王子八幡宮です。

王子八幡宮・竈門神社
福岡県粕屋郡志免町南里宝満山
地名から推測された那国本宮の地
応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか? 
http://lunabura.exblog.jp/16413004/


ガイドブック『神功皇后伝承を歩く』を編集するに当って困ったのは、
神功皇后の出産地を名乗る宮が複数ある点でした。

そこで、後世の研究に委ねるために、出会った宮については全部紹介することにしました。

そして、多くの方がガイドブックを手に参拝されることを考えると、
宇美町の宇美八幡宮が人々を迎え入れる環境が一番揃っているので、
これをメインとして紹介することにしました。


さて、奴国は博多湾を囲むように栄えていましたが、
川や湾が洪水で陸地化していったと共に住民が変化していったようです。

どこが奴国か、不弥国かという論争に関しては、まだ意見を持っていませんが、
真鍋大覚の描く古代がいきいきとしているので、
今日は真鍋の伝える古代の多々良川などを逍遥しましょう。

p129 「玄海灘の海上気象」

博多近郊で風化蛇紋岩である滑石の主要産地は糟屋郡香椎城ノ越山(じょうのこし)、同須惠山城岳、筑後久留米高良山である。

この付近に草場、湯浦、温石等の各鉱泉が湧出している。仲哀帝が神功皇后となぜこの地を訪れなければならなかったか。

伊覩(いと)の溶鉱炉に多量の温石が必要であったからである。この地の傍らに多々羅川があり古代冶金の中心があった。
仲哀天皇と神功皇后が高良山の麓、高良下宮社朝妻辺りに滞在して
神籠石や高良三泉に祈ったりしていますが、
本来の目的は伊都国の溶鉱炉に必要な温石の確保だったと真鍋は言います。

溶鉱炉から出てくる高熱の湯(鉄)をどうやって受け止めるか。

割れる心配がなく、加工が簡単な温石(おんじゃく)を器にしていたということです。
土器でも作れるそうですが、万一割れることを考えると、温石は理想的な石です。

子供の頃、チョーク代わりに温石で道路に落書きをしたのを思い出します。
爪でも筋が付くほど柔らかい石です。

これを温めて腹に巻いて暖を取る風習もあったので「温石」と言いました。
神功皇后が腹に巻いたのはこの温石だろうとも考えています。

伊都国では冷たい洗鉱の作業をするのは女性で、
温石を温めて腹に巻いていたのではないかと真鍋は推測しています。



多々良川は「タタラ」。
これについては、下記のページで書いています。

若八幡宮 多々良川―古代の製鉄―イラスト
http://lunabura.exblog.jp/i117/



真鍋の続きです。
倭人伝の不弥国は勢戸を中心として宇美湾と多々良湾二つの入江であるという意味のほかに「踏み」という鞴(ふみこ・ふいご)または蹈鞴(たたら)を踏む部族が居住し、これが奴国の二万余と不弥国の千余と、家屋構造の格式を示す、戸と家という別扱いにされていたのであろうか。
今は平野となっている多々良川流域ですが、古代は宇美湾・多々良湾と、
深く海が入り込んでいたのでしょう、その二つの入江という意味で「ふみ」と言い、
また冶金の一族がタタラを踏んでいた印象から「踏み」と言ったのではないかと真鍋は言います。

奴国と不弥国の「家屋構造の違い」が「戸」と「家」の違いではないかとも言っています。

これは竪穴住居と、高床式住居の違いなのでしょうか。
よく分かりません。



さらに続き。
竈門山(かまどやま)、有智山(うちやま)、砥石山(といしやま)など、太宰府裏手には博多力士の祖、正応の墓石がある。
筑前国続風土記土産考には、
「いにしへ太宰字有智山に正応という鍛冶がいた。(略)
沖浜はむかし博多の袖の湊東西に通って、今の湊橋より本岳寺の??まで入海あり。唐船かかれり。その入海から北の陸地を沖浜と言ったとか。

地理を調べないと詳細は分からないのですが、太宰府の裏の方に鍛冶の村があったようです。
竈門とか砥石とか、山の名前も関連のものですね。



日隈(ひのくま)月隈(つきくま)も、火口(ほぐち)を築き、粘土を搗(つ)き、
さらには交易船が着く入江の奥の地名である。

日隈、月隈は空港の丘陵地帯にある地名です。
気になる地名でしたが、こんな歴史があったとは。



(略)
三韓征伐の帆柱石が地下から掘り出されるほど、山野の草木も土砂も消耗しつくされ、糟屋の干潟が埋められたのではないか。

筑紫に干潟ができるほど、鋳物の民族は新天地を求めてあたかもスサノオ尊が簸川(ひのかわ)を分け入ったように東方へと移動し、後に残された平野に稲の文化が葦の芽の如く萌えだしたのであろう。

天の沼鉾の後に大八洲国が生じ、斎庭の稲穂を捧げて天孫降臨に至る神話があらためて読み返されねばならぬと思われる。
「三韓征伐の帆柱(ほばしら)石」とは珪化木のことで、木の化石ですが、
名島神社の海にはもちろん、筥崎宮宇美八幡宮にも、
庭の堺石やクスノキを囲む垣根として大量に利用されているのを見ることができます。



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(宇美八幡宮の湯蓋の森の根元に珪化木がずらり)




どうやって化石が出たのだろうかと思っていたのですが、
鋳物の民が土砂を消耗し、また山の木を伐採して燃料にして剥げ山になったので、
洪水が発生して、地下に埋もれれていた珪化木が露出したということでしょう。

その干潟が陸地となると、稲の民が稲を植え始めました。

そうすると、神話の天のヌボコの話、すなわち、イザナギとイザナミが
固まっていない大地を鉾で掻きまわして大地を作ったという話は、

「鉾(ほこ)を作る民」が川を泥水の干潟にして、ホコを作ったあとに
陸地が出来たという現実を象徴している、と考えてみなければならないということです。

そして、スサノオに象徴される鋳物の民、鉄の民は燃料と資源を求めて東へ移動していった。

多々良川流域の平地はある意味で人災だったことになります。

氾濫川が稲の実る大地に変わっていく壮大な物語を真鍋は描いています。



こうして奴国も不弥国も緑なす大地へと変わり、住む人々も変化していきました。
「奴国と不弥国は仲が悪かった」
というのも、「アマテラスVSスサノオ」に書いたように、「鉄の民」の流す土砂が
下流の「稲の民」の田を埋めてしまうという鉱害の話ともつながりますね。



多々良川






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by lunabura | 2014-08-20 23:29 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)

筑紫西朝と大和東朝(3)倭の五王


筑紫西朝と大和東朝(3)

倭の五王


さて、真鍋は日本の歴史に二大勢力が対立する構造がある事について述べたあと、
次のように書いています。

このように二大勢力の対立は、かつての4,5世紀にも在ったはずで、これが大和東朝筑紫西朝とも名付けるべき世相であった。

古事記、日本書紀には前者の事は詳細に記しても、後者の行動は関与せざる所なるが故に抹殺し、一方、唐土の史書には、後者の友好親善は詳録しても、前者は東夷以下に黙殺していた。

この二重構造が、とかく万世一系の思想を鼓吹した大日本史の主流に育成された国史観には、正統と異編以上に容喙(ようかい=口出し)されなかったのである。
4,5世紀、古墳時代、日本は西と東に朝廷があり、東は大和に、西は筑紫に
その都があって、二大勢力となっていたと真鍋は言います。

いわゆる「倭」と「日本」のことでしょう。

記紀を書いた人は大和にいたので、筑紫の事情が分からず、触れなかった。
神功皇后の移動ルートからみても、
出産後から北九州に戻って行った一年は完全に省略されていたので、
日本書紀を書いた人は、筑紫から豊前に至る地理を全く知らなかったんだろうなと
思いました。

一方、中国の方は筑紫と交流していたので、大和の状況には関心なかった。

それを大和中心の万世一系としたために、
九州からみると違和感のある歴史になりました。

しかし、ほんの数十年までは、これに関して述べることが出来ない時代がありました。

私たちは、その曲げられた知識をそのまま学んでしまったので、
真実を取り戻すのに苦労することになりました。

こんな風に自由に一般人が研究できる時代になったのはほんの最近のことなんですね。

「筑紫の西朝」と「大和の東朝」
これを受け入れると、急に歴史がシンプルに見えてきました。

このブログは筑紫の歴史を明らかにすれば充分なんですね。

さて、続きを読みましょう。

卑弥呼・壱世(いよ)、讃、玲、斎、興、武を、神功皇后、応神、仁徳、履中反正、允恭安康、雄略の各帝に対比するから、日本書紀の年号の信憑性の論議が沸騰し、さらには移葬改葬の可能性を無視して陵墓の型式と内容の不一致の正否を顧慮せぬ事がさらに波紋を投げかけている。

ここは、一字も変えずに写しました。
真鍋の考えがよく出ているからです。

「卑弥呼+壱世」を「神功皇后」にした『日本書紀』に従うと、
倭の五王(讃、玲、斎、興、武)もまた、
神功皇后の末裔の天皇たちに当てはめないと困るわけですが、
この五王の兄弟関係と天皇家の兄弟関係が一致しないので、
かなり無理をした論が生まれています。

その結果、中国の歴史書が正しくて、『日本書紀』の年号は出鱈目だという説が生まれました。
(もちろん、出鱈目の部分もあるのですが…)


そうではなく、「中国の歴史書に書かれた倭」と「日本書紀に書かれた日本」の
それぞれの歴史を確立すればOKなんです。

また、古墳の年代の問題に関して。
近畿地方の巨大な古墳も『日本書紀』の年号と合わないので、
天皇陵の見直しが課題になっています。

しかし、墓は移したり、改葬したり出来るので、
古墳の型式だけで年代を決めることはできないという訳です。

これはよくあることですね。
私の実家も江戸時代からの墓を全部掘り上げて累代の墓にしたので、
平成の墓に江戸時代のものが入っています。

「墓が平成の型式だから、江戸時代の人のものではない。」
と言われたら、困っちゃいます。^^ 

そうすると、前回問題にしたNHKの説を検討すると、
平原遺跡の土壙墓の葬制を持つ卑弥呼たちが奈良に移動して土壙墓を作ったが、
後にその末裔が巨大な前方後円墳に作りなおした、
という考えも出来ますね。
でも、それだと数世代必要です。
やはり、一世代で土壙墓から前方後円墳に葬制を変えるのは無理じゃいと思うけどな。

さて、「倭の五王」が当ブログに初めて出てきました。
今年、宮地嶽神社で講演をしたとき、倭の五王について質問がありました。
その時は、「倭の五王という名前は存じていますが、それ以上の事は分かりません」
と答えました。

ホント、全く知らない世界です。
でも、倭の五王と天皇家は別物だという認識は持っています。

他に知っているのは、この五王の名を家系に持つ松野氏が存在することくらいです。

その系図がこれ。
c0222861_222187.png

そのルーツは呉王・夫差で、「孝昭天皇三年来朝住火国山門」という注があります。

火国山門は菊池。
菊池には薄野神社(一ツ目神社)とか、アイラトビカズラとかがありましたね。
(う~ん。ここで繋がったか)
一度行ったところなので、ぐっとイメージしやすくなりました。

呉王・夫差か…。
また調べないといけませんね。
安曇族が呉から来たと言ってましたし、
磐井の系譜とどうつながるのか、興味津々の世界になってきました。






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by lunabura | 2014-08-18 22:03 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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