ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:真根子と竹内宿禰( 11 )

(13)山惣 真根子は殺されたのではないか


山惣 ふたたび
真根子は殺されたのではないか

山惣「やまそう」
この記事の時、「つづく」と書いていましたが、
いったん壱岐真根子の埋葬地・川古を紹介してようやく戻って来ました。

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ここが武内宿禰の居館跡。山惣の辺りです。


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これはその裏手。もともと丘陵地帯だったのを削ったそうです。

倭国の部族たちを束ねて、国の基盤を築いた武内宿禰の拠点は
現在、住宅地になっていました。

神社があったら、何らかの形で地形なり残ったかも知れませんね。
そう思った時、神社の歴史的価値を知りました。

伝承を後世に伝えるもことは、文化を伝えることになるんですね。
石碑一つでも立てていただけたらと思いました。
さて、真根子の死地はここか、山惣から歩いていける石崎八幡です。

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読みづらいと思いますが、郷土の方が調べて残してくれた地図です。
オレンジが景行天皇の時代の伝承地。
緑が武内宿禰と神功皇后の時代の伝承地です。


赤線を引いている古八幡(石崎八幡)が景行天皇と神功皇后の行宮趾です。

ここに立った時、漠然とした疑問は確信と変化しました。

「壱岐真根子」は自害でなく、殺されているのではないか。
ただ、名誉のために、自害として伝えられている。

その発想の起点は私が追捕使ならどうする?というものでした。

武内宿禰をどうやって見つけ出す?
写真もなく、住所もない時代です。

しかし、探せば武内宿禰の拠点がみつかるかもしれない。

それがもともと武内宿禰の居館探しの動機でした。
1800年近い時空を超えて探査して、大町町山惣に辿りつきました。

暗殺者はノコノコと守りを固められた居館に攻め入るはずはない。
チャンスを待つ。
それは武内宿禰が外出した時。

それを狙って物陰から襲撃する。
これが自分が生き残って帰られる一番の方法だ。
そう思って石崎八幡から見回すと、格好の岬がありました。

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それが再掲の写真です。道の向こうに見えている山はかつては岬でした。

そこに見張りを置いて、隠れて待つ。
都へ向かう行列の中の一番立派な衣装の大将を狙う。

これが一番の戦術だと思いました。

「あの山陰に隠れていたよね」
「そう。そして剣で二度刺された」
「壱岐真根子は武内宿禰のダミーとして活躍していた」
「だから、追捕使は間違って壱岐真根子を殺してしまった」
「真根子の名誉のために、自害したことにした」
「そうね。そんな感じね」

何だか怪しい巫女三人衆の見解はこうして一致したのでありました。^^

武内宿禰が山惣からたびたび石崎八幡で祈ったというのも、
八十女、大鷹小鷹、そして壱岐真根子の霊を鎮めるためだったのでしょう。


こののち『日本書紀』では、武内宿禰は応神天皇に会い、
甘美内宿禰と探湯(くがたち)をして勝ちます。

その勢いで甘美内宿禰を殺そうとしたら、応神天皇が引きとめて
母方・山下影媛の方の奴婢にさせます。

応神天皇って武内宿禰より甘美内宿禰の方に肩入れしてるんだね。


一方、佐賀の伝承では、壱岐真根子には子供がいました。
小経見躬(おふろみみ)と言います。
のちに朝廷より火の君に任ぜられたそうです。

そうすると火の君だった磐井の系譜にはつながっていくのでしょうか。
これまた興味深いところです。


以上、「真根子と竹内宿禰」シリーズは終了です。

サイドバーから、または、下のタイトルからも入れます。


さて、この辺り古代の重要な湊があったためか、すごい話が残っていました。
それは百済王子の話です。
次回へ。





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by lunabura | 2014-10-13 19:42 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(2)

(12)伏尸神社 壱岐真根子は当地に埋葬・その死地は


(12)伏尸神社 
壱岐真根子は当地に埋葬された
その死地が書かれていた

伏尸神社は川古のクスとは国道495号線を隔てた所にありました。

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道路沿いに鳥居があります。


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伏尸は「ふしし」と読みますが、古い書物には「ふし」「ふくす」という読み仮名がありました。

「尸」は「屍」の略字でしょう。
「しかばね」の意味ですが、社号として「死」の字がふさわしくないと、
書かれなくなったのではないでしょうか。

「尸」の字は横たわった人の象形です。
ちなみに「戸」と書けば、「一」は魂。
魂が肉体から抜け出た状態の象形が「戸」の原義です。


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で、どなたの「屍」かと言えば、壱岐真根子です。



壱岐真根子の遺体を入れた皮籠が重すぎて当地に埋葬されたと伝わっています。

ということは、壱岐真根子の死地も近いということになります。

どうしてこのような事態になったのか。
『日本書紀』にも書かれていますが、その状況が不自然なため、
地元でも諸説がありました。

四つの説の概要を書きます。

① 若木町川(かわ)古(ご)に伏尸神社がある。昔から格式の高い村一番の神であった。伝説によれば神功皇后の三韓征伐にも従い筑紫に下向した武内宿禰は、応神天皇の九年四月筑紫観察のために滞在し、横(よこ)辺(べ)田(た)(今の大町福母)にいた。しかるに弟の甘味宿禰は兄の出世を喜ばず、天皇のご信任の厚いことをうらやみ、「兄は三韓と通じて不敬を計はかる企(くわだ)てあり」と讒言(ざんげん)した。朝廷はその真意を確かめ、その事実があれば討てと命じて使臣を発向させた。その頃、壱岐に壱岐直・真根子あり、壱岐直の祖であったが百済に渡り観察し、もとよりその事実も無く全くの不実であることを知った。この人その顔形はなはだ、武内宿禰に似ているので宿禰が罪なく空しく死することを惜しみ、身代わりとなりて自ら剣に伏し死んだ。武内宿禰は大いに悲しみ尸(しかばね)に伏して慟哭してやまなかった。
 この死体を壱岐に運ぶことになった。昔は藤津、彼杵(そのき)の辺りまで三韓にわたるには唐津より出航していて、川古はその交通の要所であった。横辺田から多久を通り川古まで来た時に死体は重くて運ぶことができなかったので、この地に来て葬ることになったと伝えられ、これを神と崇め奉ったのが伏尸神社である。(占部英幸「壱岐・真根子の足跡」)

これによると、壱岐真根子は「横辺田」で身代りになって死んだとあります。
この「横辺田」を調べて行くと、大町町にその場所が見つかりました。

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それがこの写真の偽ピラミッドの付近です。

② 皮籠里 伏尸大明神 応神天皇の九年四月、武内宿禰は筑紫太宰府にいて、九州の農事(綾杉注「百姓」)を監督した。その弟甘美宿禰は異図があるのを讒言し、宿禰は壱岐に逃れた。逮捕使は壱岐に至る。直部の真根子は武内の忠義の人であるのに讒言されたのを憤り、容貌が似ているので身代りになろうと思って逮捕使に、武内だと偽って捕縛された。護送されて杵島郡福母の山惣に来た時、偽物だと自白して自殺した。逮捕使はその亡骸を皮籠に入れて壱岐に送るが、途中亡骸が重くて再び担ぐことが出来なかったので、この地に葬った。(佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告書上巻)

武内宿禰が壱岐に逃げたので、壱岐真根子はそこで代わりに逮捕され、
都へ護送中に「副母の山惣」で自殺。
この山惣もまた、上の写真の所です。


③ 山惣(やまそう) 杵島郡大町町(居館) 武内宿禰が居所を定めたところ。宿禰は度々ここに来て石崎大明神を祭ったといわれている。また、甘美(あまし)内(うちの)真手(すく)命(ね)にそしられて、追捕使に追われた時、壱岐の直(あだい)(真根子)が身代りになって自害した所。
壱岐真根子は武内宿禰の「山惣」の居館で身代りになって自害した。
山惣は上と同じ。

④ 直(あだい)楠(くす) 大町町石崎 応神天皇が追捕使を九州に送ると、武内宿禰は壱岐の国に逃げた。直は宿禰にうり二つで尊敬していたので代わって罪を受けようと、自ら名乗り出て追手につかまった。追捕使たちは直を壱岐国から都へ連れてくる途中、石崎の楠の下で休息した。直は偽物だと判る事を畏れて自害した。(以上、大町町史からのあらすじ)
武内宿禰は壱岐に逃げ、壱岐真根子が代わりに逮捕された。
都へいく途中、「石崎」で自害した。
石崎は上の写真の右手に見えているところです。

こうして、並べると、①②③は「横辺田」の「山惣」。
④は「山惣」から少し離れた「石崎」となります。

「石崎」には何があるのかというと、
景行天皇や神功皇后の行宮があった所です。

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(4)古八幡(石崎八幡) 土蜘蛛 八十女 
http://lunabura.exblog.jp/22574454/


壱岐真根子と竹内宿禰の旅(5)古八幡(石崎八幡・下の宮) 熊襲 大鷹小鷹
http://lunabura.exblog.jp/22579034/


以上、地元の話は武内宿禰の居館かその近くという点で一致していました。
そして、ここは壱岐から都へ向かう道だったということになります。


それでは、次回は現場に戻りましょう。




伏尸神社
佐賀県武雄市若木町川古










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by lunabura | 2014-10-12 16:10 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(0)

(11)川古のクス・壱岐真根子を見たのか


川古のクス

壱岐真根子を見たのか


ここは有明海や筑後川流域の人たちが唐津へ抜ける古代の道沿いにありました。
今回の旅の目的は、筑後川から唐津に抜けるルートの確認だったのです。

秀吉の時代にも使ったルートが、神功皇后時代にも使われていたのではないかと。




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樹高 25メートル。
川古のクスはのどやかな田園風景の中にたたずんでいました。






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根周り 33メートル。
行基が訪れて如意輪観音を彫ったと伝えられています。



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このアングル。
まるで樹の精が両手を広げているように見えます。
上の方にも仰向けになりながら遊んでいる精霊。

向こうに水車が見えています。


ここは松浦川の上流域に当たっていました。
杵島郡から遡って来て、水系を変える交通の要衝だったのでしょう。



そして、「川古」と書いて「かわご」と読ませるのは、
あの壱岐真根子の遺体を入れた「皮籠」から来ているそうです。

重すぎて、ここで埋葬した。


それが、道路を隔てた所にある伏屍神社のいわれなのです。

やはり、ここを通って唐津をめざしたんだ。


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この楠はそれを見届けたのでしょうか。





伏屍神社へ行ってみましょう。



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川古の大楠



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by lunabura | 2014-10-03 22:24 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(0)

(10)武雄神社・武内宿禰を祀る宮


武雄神社

武内宿禰を祀る宮


武雄神社は武雄市図書館の脇から入っていきました。


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左が、あの武雄市図書館。右が駐車場。さらに右の端っこに鳥居があります。

そこから急な坂を曲がりながら登っていきました。


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白いお宮は珍しいですね!



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主祭神 武内宿禰

相殿神 武雄心命
      仲哀天皇
      神功皇后
      応神天皇


なんと、仲哀天皇と神功皇后の夫妻も。お子の応神天皇も。
そして、武雄心命も。

なんだか、当ブログの逍遥している時代そのものですね♪


御由緒です。
『武雄社本紀』によると、神功皇后が異国征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより、同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽(船の艫)(とも)に鎮座し、武雄社が創祀されました。

神功皇后の異国征伐の帰途となっていますね。
風浪宮帰着とどっちが先かな。
順番から考えると、武雄温泉で汚れを落とし、疲れを癒して風浪宮へという感じでしょうか。

船が御船山になった!
皇后の軍船が入港したのが、よほど印象強かったのでしょう。

武内宿禰が豊姫を預けたのも、この時の可能性はないかな…。
病の妻を母に預けて湯治させた。なんてね。



住吉神も同行していますね。

この有明海の北岸には住吉神を。
そして南岸(風浪宮)には安曇磯良を。
(というか、東西でしたね)

武雄神社 風浪宮



この配置は関門海峡を挟んだ「住吉神社と和布刈神社」と同じです。



神功皇后は筑紫の北と南の水門それぞれに住吉族と安曇族の両雄に守らせた。

これで筑紫の守りは盤石です。

神功皇后、ホンマに近畿に行ったんだろうか。
だんだん、怪しくなってきました。
だって、筑紫と肥前をバッチリ固めていますよ。


由緒書きのつづき。
しかして天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に
『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落ち着かないので、幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。
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行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武雄心命を合祀し北麓に遷宮したとされています。

なんと、一緒に祀られていた住吉神と武内宿禰、
天平の代に、立場が逆転したのでしょうか、武内神が遠慮して下に降りました。

そうすると、住吉族はあれからずっと活躍して勢力を伸ばしたのでしょうか。
住吉神は風浪宮にも入り込んでいます。

同じ時代の話だろうか…。
また、落ち着いて調べよう。



で、ですよ。
ここにマサカの神が。

下ノ宮の祭神は「平群木菟宿禰」。「へぐりのつくのすくね」なんです。
平群木菟と武内宿禰は親子の関係でしたね!

もちろん、平群木菟が子供です。
神功皇后の三韓攻撃のあと、何度も朝鮮半島に戦いに行ってます。

思い出すのは、福岡の糸島の宇美八幡宮もまた平群木菟の末裔が
宮司職を務めている点です。
ここもまた、末裔たちが祭祀し始めたのでしょうか。
やはり、武内宿禰にとって、重要な宮だったんですね。
現在の宮司家は伴→藤原姓となっているようです。



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武雄の大楠へはこの境内の左手から、こんな遊歩道を通っていきます♪





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by lunabura | 2014-10-01 23:45 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(0)

(9)武雄の大楠



武雄の大楠


武雄市内の黒尾神社と淀姫神社が500mしか離れていない…。
歩いて数分だ…。

そう考えた時、それぞれの祭神・山下影媛と豊姫が姑・嫁の関係になることに
思いが至りました。

豊姫わずか22歳。
竹内宿禰の母の山下影媛がまだ健在だとしたら、二人が会った可能性があるんだ…。

何度も書いていますが、
竹内宿禰が最初から白髭の老人だった訳ではないんですね。

次の時代、応神天皇の時代に、弟の甘美内宿禰が竹内宿禰を陥れようとしたということは、
甘美内(うましうち)宿禰も年齢的に差がないのです。

甘美内宿禰は『古事記』の方では、叔父の代に当たるのですから、
実は竹内宿禰よりもっと年上だったのかも知れない。

こうなると、竹内宿禰を当時200歳とするなら、甘美内宿禰も200歳前後。
こんな歳で兄弟争いは、あり得ないでしょう。

ぎらぎらとした野望を持つなら壮年の時代の事件になります。

竹内宿禰が豊姫を娶った歳も40代頃だったのではないでしょうか。
そうすると、母も60代にはなっていなかったかも知れませんね。

こう考えていくと、山下影媛が老いながらも健在で武雄に住んでいたとすると、
竹内宿禰が神功皇后と豊姫の姉妹を武雄温泉に連れて行ったけれど、
豊姫が病に臥して動けなくなってしまったので、
母方に預けることにしたのかも知れません。

これが若き妻を守る一番良い手段です。

竹内宿禰はその前に杵島の大町町に出城を作っています。
松浦郡との交通の要衝を守るためです。

景行天皇の時には土蜘蛛・八十女と戦い、
神功皇后の時には大鷹小鷹と戦って、守り抜いた湊です。


そんな竹内宿禰が父の武雄心を祀ったのが御船山でした。
(武雄市史下巻p250)

古代、この麓まで有明海が湾入し、神奈備と称えられただろう御船山は
現在も何処からも見える神の山です。


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その右手の中腹に大楠がありました。


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逢いたかった。


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その神々しさに、息をのみます。



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根元の左手に登山道路の階段が見えています。
今は使用されていないようすですね。



かつてはここから御船山に登って行ったのでしょう。
竹内宿禰もこの道を登ったかもしれませんね。


母の黒尾神社から歩いて一時間の所にありました。




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竹内宿禰が、この山に武雄心を祀ったのには、
どんな噂があろうとも、父は武雄心だ。
そんな思いがあったのかも知れません。



武雄の大楠 武雄神社近く




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by lunabura | 2014-09-29 17:43 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(0)

(6)山惣・ピラミッドの正体は…(´・ω・`)

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(6)
山惣
やまそう
ピラミッドの正体は…(´・ω・`)


この旅の目的は、壱岐真根子の遺体が重すぎて埋葬されたのが武雄市ということなので、
亡くなった場所はその付近にあるだろう。
そこには竹内宿禰がいただろう。
それが宿禰の居城ではないか。

そんな予想から、現地を確認する調査旅行でした。



壱岐真根子を埋葬したのは伏尸神社(ふしし)で、「伏尸」は「伏屍」の省略字です。
「死」の字が神社の名前にはふさわしくないので、省かれているのでしょうが、
「尸」だけでも、「しかばね」と読みます。
これは人が横たわっているのを上から見た象形文字なんですね。

古代は殯(もがり)をするのが基本なので、
遺体を壱岐まで運ぼうとしたという話さえも不自然な挙動です。

そして、資料には後世の人の解釈が混じってしまい、
調べれば調べるほど真実に近づくのが困難となりました。

解釈が資料ごとに違うのは、壱岐真根子が竹内宿禰の代わりに自害したという話が不自然で、
誰もが説明がつかないからだと思います。



ネットで検索すると、壱岐真根子は「横辺田(福母)」で死んだという話が出てきて、
それが大町町に所在していることが判明しました。


大町町に尋ねると、「大町町史」の資料をメールで送って来られました。
そこに、いきなり核心が書かれていたのです。


山惣(やまそう) 武内宿禰が居所を定めたところ。宿禰は度々ここに来て石崎大明神を祭ったといわれている。また、甘美(あまし)内(うちの)真手(すく)命(ね)にそしられて、追捕使に追われた時、壱岐の直(あだい)(真根子)が身代りになって自害した所。


竹内宿禰の居館が「山惣」という所にあった。
しかも、真根子が自害した所だと書いてある。
(ただし、もう一か所の伝承がありました。これは次回)

早速、ネットで地図を見ると、山惣あたりにピラミッドがある!!!?
いや、方墳?
発掘されて、木が切られて地面が露出している???

かなりテンションが上がったのですが、現地で仰天。(@_@;)

なんと、そこには鉄塔が立っていて、土台が方墳の形に削り取られていたのでありました。(><)



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が~~~ん。






ね、ピラミッドか、方墳に見えるでしょ!




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by lunabura | 2014-09-12 23:46 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(0)

(5)古八幡 熊襲 大鷹小鷹

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(5)

古八幡(石崎八幡・下の宮) 
熊襲 大鷹小鷹

次に戦ったのは、やはり神功皇后。


祠の右手に史蹟碑が立っていて、「景行天皇 神功皇后 行宮之遺跡」と彫られていました。

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ここは景行天皇、神功皇后と、続けて行宮が営まれた場所でした。


景行天皇は当地の八十女を滅ぼしたのですが、
景行天皇が去ったあと、熊襲が勢力を伸ばしてきたのでしょう。


前掲文の続きです。

六、神功皇后行宮趾
神功皇后は九年(※仲哀天皇九年と思われる)、武内宿禰以下を率い、筑後の山門村より杵島郡福母の石崎に着御され、熊襲の大鷹小鷹の凶賊を滅ぼすため、行宮を福母石崎の頂上にある大巌石の上に(即、古の八幡社の上方)営まれた。
おっと、こ、これは!
神功皇后は山門村から当地に来たとあります!!
ついに、裏付けが取れました ♪
何の裏付けかっちゅうと…。

3月25日に田油津姫を滅ぼした後、皇后軍は古有明海を横断し、
杵島郡、武雄市を通って松浦川へ抜けたのだろうという仮説です。
ま、さ、か。
ここにちゃんと書いてあったとは!!!

これで、堂々とこの地図が出せますね^^
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さて、神功皇后が平定したという大鷹小鷹の名前は他の資料には、
大鷹渠師(きょすい)小鷹渠師(師はママ)、あるいは大鷹タケル、小鷹タケルで出てきます。

この熊襲の大鷹小鷹の住処は「原田」と記録があって、八十女と比較すると、当地の北西部に書かれています。
八十女の後継ではないと思われます。

もともと、「熊襲の大鷹小鷹」と「土蜘蛛の八十女」の集落は
それぞれ微妙にバランスを取って共存していたのかも…。

ところが、八十女たちが景行天皇に滅ぼされたので、
大鷹小鷹が自然と拡大していった…そんなイメージを持ちました。

この付近の地形はリアス式なので、良い港が少なく、
「石崎の湊」とはどの勢力も押さえたい要衝だったんでしょうね。

勝った皇后の行宮(あんぐう)の場所も、この裏の丘の上と明記されています。


c0222861_23425852.jpg


続き。
安政の頃、大町の田中権六は石採りの為、一山を掘り崩したが、行宮の跡と思われる物は尚も残った。
其の一は御弓掛けの松。これは源平頃までは高さが十五丈もあったが今は無い。
其の二は田中の人夫が石櫃を掘り出したが、その石材は錬石で、神功皇后が八幡社に奉納されたもの。

其の三は兜山。これは武内宿禰が冑を脱いだ所ともいい、また神功皇后が御兜をこの丘に納めて鎮護とされた処ともいう。その後は南北五十間。今は蒲原文六氏の所有である。

所有者の名前まで書いてあって親切ですね…。
地元の人なら、場所が特定出来るんじゃないかな…。

出土した石櫃の石材「錬石」を調べましたが分かりませんでした。
製錬石の省略かなあ…。

そして、其の三に、武内宿禰の名前が出てきました。兜山があるそうです。
このあと、兜塚も紹介しますが、同じものかどうかは分かりません。

この戦いの目的は湊の争奪戦だったのでしょうか。
神功皇后は通りすがりなので、竹内宿禰たちが古有明海と玄海灘を結ぶ古代道の確保をするのが
目的だったのではないかと思われます。


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この石崎八幡に立つと目の前には警察署が建っています。

遺跡地図を見ると、その辺りに「百枚田」と書かれています。

この説明は大町町史から。
百枚田
神功皇后が熊襲一族を皆殺しにし、石崎の山に葬り、その時使われた剣を櫃に納めて埋め鎮護神とした。

すると不思議なことに、そばにあった大きな楠の木の節穴から水が流れ出した。そこで、天之狭田(おさだ)に形どった百枚の田を開いた。そして、石崎大明神の祭祀田とした。これを神功皇后の百枚田という。

これ、糸島で書いた「鉄の民と米の民」の話を思い出しますね。
大鷹小鷹たちは山に住んで、鉄などを生産していたのでしょうか。

大町町には炭住があったという話を聞いて、もしかしたら露天の石炭が採れるような、
熊襲には魅力的な土地だったのではないかと想像しました。
聞くと、近年の石炭は地下深くで採っていたそうです。

また、古川氏によると、海が引くにつれて田が形成されていき、
畔(あぜ)は四角ではなく、Uの字に作っていったので、魚のウロコのような丸い田が
次々に形成されていくのが当地の特徴だということでした。

神功皇后の百枚田も、ウロコ状に広がっていったのかも知れませんね。



兜塚跡
 神功皇后が原田地方の豪族を平定した時、武具、兜、刀剣などを収めたところ。明治三十年ごろ、天然石を積み立てた石櫃数個が発見された。その中に、金環、勾玉など多数あったという。


兜塚跡を探しました。
多分、これだろうという丘がありました。


先程の行宮跡とは違い、兜塚はさらに西にあります。
明治三十年に出土したものは所在不明だそうです。

「石櫃」という埋納法は壱岐対馬でも発見されていましたね。
(金印の記事の所で紹介しているかな…)
石の板で箱を作る方法で、石棺と違って小型です。


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この兜塚、多分ここだろうという話で、特定できませんでした。
今ならまだ、所有者から割り出して、場所が特定できそうですね。

ただ、この丘はブルドーザーが入っていて、もしかしたら消滅する運命かもしれません。
その前に、調査できないかなと思いました。
国の予算、九州に回してほしいですね。(´・ω・`)



ここからすぐ西に、竹内宿禰の居館の伝承がありました。(つづく)







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by lunabura | 2014-09-11 23:44 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(0)

(4)古八幡(石崎八幡) 土蜘蛛 八十女

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(4)

古八幡(石崎八幡) 
土蜘蛛 八十女


古代の岬の裾をぐるりと回りながら進むと人家の切れた所に杜が現れました。

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ここが「石崎」「古八幡社」です。


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祠が残っていて、祭祀も10月19日に行われているようです。


目の前は古代の湊。
ほんの少しの石段ですが上れば古代の海が広がります。
この湊を巡って、天皇家と土蜘蛛たちの戦いがありました。

再び、『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 上巻』を開きましょう。

四、土蜘蛛退治当時の古墳
景行天皇の龍舟が福母の前海に近づいた時、土蜘蛛八十女らは龍舟を焼き討ちにしようとした。この時、志久津彦が密告した。天皇は謀(はかりごと)をめぐらして、彼らを皆殺しにした。

石崎、赤坂の海浜は屍(しかばね)が累々と打ち上げられた。これを埋葬した古墳を八十女の古墳といい、国道の北、二十間(約36m)、慈雲山の墓地にあり、五間(約9m)離れて二個ある。高さ五尺(約150㎝)、周囲百歩である。

一つは鉄道工事のために破壊され、一つは現存するが、去る大正11年、秋月某女をその墳上に葬った。この古墳は西福寺住職の管理する所である。

景行天皇は北部九州の各地で土蜘蛛を滅ぼしていますが、
八十女たちはその情報を手に入れていたのでしょう、
景行天皇の船を焼き討ちにしようとして、逆に滅ぼされてしまいました。

文化財の方に尋ねると、弥生遺跡は役場や小学校で発掘されているそうです。
それは八十女の集落なのでしょうか、あるいは敵対する集落なのでしょうか。

八十女たちの古墳は二つ。そのうち一つが現存していると書かれています。
町史の地図にもその場所が書かれています。

伝承がある古墳はめったに存在しません。
発掘すれば、景行天皇の時代が特定できるかも知れませんね。



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境内から見て左手の森がかつての岬です。
その麓に古墳が二つあったということです。

さて、前掲書によると、八十女の住んでいる所も伝わっていました。

五、鬼塚(土蜘蛛八十女の住んだ所)
福母城山の北、字京の尾にあり、佐賀炭坑区域より一丁余り。この塚は岩石を横へ、その上に一枚の大平石で覆い、その三方を土で盛り、南一方を入り口に開き、穴中は畳三枚敷けるほどである。北方村大字志久江口儀八氏の所有である。


「岩石を横へ」というのは「横たえ」と読むべきでしょうか、岩場を利用した洞穴でしょうか。
イメージが湧きません。

が、住所も所有者もはっきりしています!驚きですね!
弥生の住居跡ということになります。

是非とも、現地を見たいものです。
そして地元の方に伝承を掘り起こしていただいて、
先住の民の歴史を後世に伝えていただいきたいなと思いました。


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想像図。




そうして、この地では再び戦いが起こります。(つづく)




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by lunabura | 2014-09-10 23:55 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(0)

(3)福母八幡宮2・竹内宿禰は新羅陶器に剣と鏡を納めて埋納させた

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(3)

福母八幡宮2

竹内宿禰は新羅陶器に剣と鏡を納めて埋納させた
 


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縁起の続きには竹内宿禰が当地に戻って来た様子が書かれていました。

同年(仲哀九年)九月武内宿禰参拝。剣鏡を奉納する。翌年正月、宿禰は再び参拝。剣鏡盗難の恐れありと、これを新羅陶器に納め、後ろの巌頂に埋没するように命じた。

また、石崎を布具母(ふぐも・皇后陣具を布(し)くという意味)と改め、後年、福母と称した。

神功皇后が当地に来たのは九年三月で、山門県で田油津姫を滅ぼした後に当たりますが、
竹内宿禰はずっと同行していました。

ですから、同年九月に再び参拝したということは、次なる大戦(おおいくさ)、
いわゆる三韓攻撃への戦勝祈願の時期に当たります。

そして、翌年正月に再び参拝していますが、既に神功皇后が出産したあと。
皇后は久山町の斎宮(いつきのみや)で産後を過ごし、
竹内宿禰は黒殿(くろどん)神社で陣営を固めていた時期に当たります。



冬の数ヶ月間、大分宮への出発準備期間に、竹内宿禰は当地に戻って来ました。
剣と鏡を新羅陶器に納めなおしたというのは、戦勝の象徴なのでしょう。

その現場は「石崎」というところで、福母八幡宮からは300mほど離れています。



縁起はさらに続きます。
応神天皇九年に武内宿禰はその弟に讒言されて、八幡社へ参詣して祈願した。
これですね。
今回の旅の目的が出てきました。

異母弟が竹内宿禰を抹殺しようと、天皇に偽りを申告しました。
その知らせは、竹内宿禰にすぐに届いたようで、八幡社に無実が明らかになるように祈願しています。
ということは、竹内宿禰の住処は近い?


縁起の続きに、
神護景雲元年に勅あり、八幡神社に八幡大明神を勅命で勧請され、霊神を猿通山に遷座された。

とあります。
岬の名前は「猿通山」といい、神護景雲元年(767)に「石崎」から遷座しています。

とりあえず、「石崎」に行ってみましょう。




福母八幡宮を出ると、裏手には池がありました。

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写真の右端に土手がありますが、その下はかなりの低地になっています。
土手が決壊したら民家が水浸しになるような地形です。

地名研の古川氏によると、これは入江の奥の地形を利用して土手を作って
溜池にしたもので、佐賀にはこのような地形が沢山あるそうです。

地図を見ればそれがよく分かります。
リアス式海岸のようになって、岬が次々に現れる感じです。

真鍋は脊振山系は氷河期の氷が削って行ったと書いています。
リアス式は東北の海岸だけの話ではありませんでした。



福母八幡宮の石段、こんなに急でしたよ。

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景行天皇や神功皇后が船で来たという事は、有明海がまだ奥深く湾入していた時代で、
古代の地形をよく示す伝承です。


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正面に回りました。
私が立っている所は、古代は海の中?

有明海特有の数メートルの満ち引きのある浜辺に立っているようです。
私の後ろには国道とJR佐世保線が走っていて、それが建設当時の海岸線だったそうです。

私たちは地図と照らし合わせながらキョロキョロと神社を探しました。








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by lunabura | 2014-09-08 20:59 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(0)

(2)福母八幡宮・景行天皇と神功皇后が祀った

壱岐真根子と竹内宿禰の旅(2)

福母八幡宮
ふくも
景行天皇と神功皇后が祀った


武雄北方インターから東へ10分。
地図を見ると、真っ直ぐ通っている34号線に平行して
くねくねと曲がった旧道が北の方にあります。

一見して古代の海岸線だと分かります。
古代の歴史を刻んでいるのはその古い道の方でした。

福母八幡宮もまた、その古代の道沿いにあります。

ナビは細い裏道、裏道へと案内していきます。
「きっとダイレクトに本殿の横に案内するのよ」
「石段を上らなくていいようにね」

福岡の神社でナビに従うと、ご親切にも離合できないような細道を案内してくれます。
石段を上らずに済むようにというナビさんの配慮でしょうが、運転する人は大変。
佐賀でも同じ現象が起こっているようです。

車の切り返しをして、急坂を登ると本殿の横に出ました。

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今日の道案内は『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 上巻』(出版佐賀県)です。

それによると、ご祭神は
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇です。


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そして、摂神として、13柱が掲げられています。

国常立尊、高皇産靈神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天疎向津姫神、天津彦火瓊々杵尊、表筒男、中筒男神、底筒男神、天之事代神、地之事代神、武雄心命、武内宿禰

多いですね。
でも、一つひとつ見ていくと、当ブログでお馴染みの神様ばかりです。

国常立尊、高皇産靈神、伊邪那岐神、伊邪那美神、天疎向津姫神、天津彦火瓊々杵尊、表筒男、中筒男神、底筒男神、天之事代神、地之事代神武雄心命、武内宿禰

赤字の神は小山田斎宮で名乗りを挙げた神々です。
仲哀天皇の死に関係する神々でした。

そして、最後の二柱、武雄心命と武内宿禰は父と子。
後の時代に祀られたことが分かります。

神功皇后が祀った神々、そして、竹内宿禰の末裔が祀った神々という印象です。
それでは、残りの五柱は?
その答えは縁起に書かれていました。

景行天皇15年、肥後より龍舟にて杵島県石崎に(大町村大字福母の新宿古八幡社の処)来御。土蜘蛛八十女を誅し、その礼奠(れいてん)として石崎へ国常立尊、伊邪那岐、伊邪那美両神、天津彦瓊々杵尊、高皇産靈神の五神を祭られた。これを当社の創始とする。

五柱は景行天皇が祀ったんですね。
景行天皇は当社の近く、「石崎」に船でやって来て、土蜘蛛八十女(やそめ)を滅ぼし、
戦勝のお礼に五神を祀りました。

この「石崎」は当社から西にほぼ300mの所で、「古(こ)八幡社」が残っています。
この「石崎」の地名が何度も出てきます。

縁起には続けて神功皇后の名前も出てきます。
仲哀天皇九年三月神功皇后は新羅征伐の時、杵島県石崎に来御あり、諸賊を誅滅され、その礼奠として、天疎向津姫神、天之事代神、地之事代神、表筒男命、中筒男命、底筒男命を勧請された。

やはり神功皇后自身が小山田斎宮で名乗られた神々を祀っていました。

「事代主神」は恵比須様のことですが、実はずっと一緒に祀られています。

事代主は大国主の御子神で出雲系ですが、神功皇后が気比から瀬戸内海を渡航するときの
船団の海人族の神かなあ、と推測しているのですが、よく分かりません。

影のように支えている印象があるのです。
そして、その事代主が天と地の両方にあるのは初めて見ました。

「表筒男命、中筒男命、底筒男命」は住吉三神ですね。
仲哀天皇に龍船や神田を要求した神々です。
住吉族もまたずっと神功皇后を支えています。

「天疎向津姫神」(あまさかるむかつひめ)は天照大御神の荒魂とされています。
この神が仲哀天皇の死に関わった理由が今も謎のままです。


さて、この文に何気なく書かれている日付に注目しました。

「仲哀天皇九年三月」となっています。
『日本書紀』によると、3月20日に夜須(層増岐野)に着いて羽白熊鷲を攻撃。
25日に山門県で土蜘蛛田油津姫を攻撃。
4月3日に松浦県の玉島里に到着。

3月25日から4月3日のわずか9日間で山門県から松浦県に出ているのです。
そうすると、有明海コースは不可能で、高橋津から脊振山の峠を越えたのではないかと推測しました。

そして、この福母八幡宮では「3月」に杵島県に到着とあるので、
るなの推定コースを裏付ける縁起に出会ったのです。


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各神社の伝承ルートを繋いで水色の線で表しました。ガイドブックの下巻の内容です。

このスピード感から考えると、
筑後から肥前にかけての土蜘蛛討伐は練りに練った作戦だったのが分かります。

そして、仲哀九年の『日本書紀』の記事は正確に記録されたものではないかという思いが強くなりました。
従軍書記官がいたに違いありません。
当時、すでに倭人は文字を知っていたでしょう。

周から呉から、秦から人々が渡来しているのですから、
「漢字、持って来たっす」と、古代人は申しているようです ^^





福母八幡宮






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by lunabura | 2014-09-07 21:02 | 真根子と竹内宿禰 | Trackback | Comments(8)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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