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カテゴリ:佐賀東部の神社と古墳( 32 )

佐賀東部(32) 鰐神社・王仁博士が上陸した

佐賀東部神社と古墳(32) 

鰐神社
王仁博士が上陸した


前回までの景行天皇、ヤマトタケルの時代も終わり、次の仲哀天皇と神功皇后の時代も終わった頃、吉野ヶ里遺跡はしばし無人となりました。

そして、その西を流れる城原川流域(神埼町竹原地区)には久米部、的(いくわ)など、軍事的部民が栄えました。


そのエリアに鰐神社(王仁神社)があります。王仁博士が上陸したと伝わる宮です。




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訪れたのは昨年、花の盛りの頃。






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藤の花が美しい季節でした。









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拝殿の奥に二つの祠があります。







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その一つが鰐大明神です。





説明板には次のように書かれていました。

鰐(わに)大明神と王仁(わに)天満宮
 この神社の創建は定かではないが、正面の鳥居は元禄十二年(1669年)に氏子三村から寄進されたものです。

 御祭神として鰐大明神と熊野三社が祭られているところから渡海者の安全を祈願されたものと思われますが、当社には王仁天満宮と刻まれた小さな石祠も祭られています。

 「王仁」というのは、4世紀後半に応神天皇に招かれて百済から多くの技術者集団をつれて渡来されたと古事記、日本書紀等に記載され、日本に初めて漢字の手本である「千字文」と儒教の原典である「論語」を伝えた王仁博士ではないかと思われます。

 王仁博士の一行は朝鮮半島の南西端にある木浦の湊から渡来したと伝えられていますが、日本のどこに上陸されたかは記録もなく不明です。

 もし、吉野ヶ里の渡来人と同じく目の前の有明海から北上したとすれば、ここ竹原地区付近に上陸したと思われ、ロマンに満ちた夢は大きくふくらんできます。
                                      神埼市 
                                      神埼市観光協会
 
ここは王仁博士が上陸したところでした、

説明板からは、朝鮮半島と佐賀を結ぶ航路の存在が伺えます。この航路については、他に百済王子が杵島に亡命した話もあることから、連絡が密にあったように思われます。

もちろん徐福も来ていますし、孔子廟などもあり、中国の文化が今も生きているのが感じられます。佐賀は先進の文化で栄えた所でした。

この鰐神社がある地域も軍隊を駐留させていたのは、大事な地域だったということを意味しています。

警護に安全な地域だったからこそ、王仁博士を上陸させたということです。


さて、「王仁博士」は名前を知っているだけなので、にわか勉強で記紀を読んでみることにしました。

読むと、『古事記』の方では「和邇吉師」(わにきし)と出てきました。

(応神天皇の御世に)新羅人が参り渡って来た。建内宿禰命はそれを率いて堤や池を作らせて百済池を作った。

また、百済の国主照古王が牡馬、牝馬それぞれ一頭ずつ阿知吉師(あちきし)に付けて献上した。また横刀(たち)および大鏡を貢いだ。

また百済国に対して、「もし賢人がいたら献上せよ」と命ぜられた。すると和邇吉師に論語十巻、千字文一巻あわせて十一巻を持たせて貢上した。

とあります。

この和邇吉師の一行には酒を作る人なども同行して賑やかだったようです。その上陸地が佐賀東部ということになります。

都はいったい何処なんだろう。奈良は遠すぎない?

壱岐真根子が都へ護送される時も、唐津から南下していましたね。都が奈良の方にあるなら山口に上陸する方が便利なのに。

都は何処?


それでは『日本書紀』はどう書いているんだろう。

応神十五年8月6日、百済王は阿直伎(あちき)を使わして二匹の良馬を貢いだ。そこで軽の坂上の厩(うまや)で阿直伎に飼わせた。そこを厩坂という。阿直伎は経典が良く読めたので、皇太子の菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)の師とした。

天皇は阿直伎に「汝より優れた博士はいるのか」と尋ねると「王仁という者がいます。この人は優れています」と申し上げた。

そこで、上毛野君の祖、荒田別・巫別(かむなきわけ)を百済に派遣して、王仁を徴用した。阿直伎は阿直伎史の始祖である。

応神十六年2月に王仁はやって来て、皇太子菟道稚郎子の師となった。皇太子はもろもろの典籍を王仁に習われた。よく理解された。いわゆる王仁は書首(ふみのおびと)らの始祖である。

と、『古事記』とほぼ同じ内容を書いています。

で、王仁が持って来た「千字文」に関しては時代的な矛盾があるというので、ウィキってみると、

「南朝・梁 (502–549) の武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣 (470–521) に文章を作らせたものである。」

とあり、応神天皇の時代より後に成立しているのが分かりました。その矛盾に関しては、いろいろと説がありましたよ。


さて、王仁は「皇太子・菟道稚郎子」の師となったんですが、
ウヂノワキイラツコ…この人を祀るのは志賀島の山の中と、宇佐神宮、入ってすぐ右の宮でした。

ずっと気になっている、謎の皇太子です。『古事記』を読むと、いったん天下を治めたように書かれていますよ。歴史的には次の天皇は仁徳天皇です。

この辺りは矛盾がとても多いんですね。最近の研究者の方々の追及で、教科書で習った話は通用しなくなりつつある感じがしています。


また、この記事を日本初の漢字の渡来だとする、無理な解釈も存在していました。記事に初めて書かれているから「初めての渡来」とするのは間違った解釈です。「初出の記事」とするのが正しい。

卑弥呼なんか、中国へ手紙を送ったり、返書を貰ったりするんだから、漢字読めないと困るよね (^_^;)

もう、この辺りの記紀の記事、つっこみどころ満載ですが、るな的には「ぶらぶら」の精神を貫いて(?)そろそろ佐賀東部をおいとましようと思います。

と言いながら、この辺りに詳しい愛読者さん、ご意見をいただけたらいいな。
と、人使いの荒いブログ主は思っているのでした (+_+)




さて、『肥前国風土記』の続きに関しては、すでに書いている
「ヨド姫の宮巡り」
「真根子と竹内宿禰」
で、あらましが分かります。サイドバーからどうぞ。


また、(1)から(32)まで続けて読む方はサイドバーもしくは下の「佐賀東部の神社と古墳」をクリックしてご覧ください。


ブログを見て佐賀の古墳や神社巡りをした方が何人もあります^^
ドライブのお伴に『ひもろぎ逍遥』ってことでしょうか ^^









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by lunabura | 2015-06-30 20:40 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(2)

佐賀(31) 白角折神社・ヤマトタケルは矢を射た

佐賀東部神社と古墳(31)

白角折神社

おしとりじんじゃ
ヤマトタケルは矢を射た

景行天皇は吉野ヶ里のすぐそばまでやって来たのですが、はたして戦いがあったのかどうか、櫛田宮の縁起からは分かりませんでしたが、思いがけず、出雲を思わせる伝承に出会いました。

さて、景行天皇の皇太子がヤマトタケルですが、彼もまた当地に来ています。その足跡が城原(じょうばる)川を遡った所に残っていました。白角折(おしとり)神社と言います。



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上流からアプローチしています。右手の杜が目的の白角折神社です。





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一の鳥居に「白角折神社」と彫られています。






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拝殿です。祭神は日本武尊。


熊襲征伐の時に、ここから的に向かって矢を射たという伝説があるそうです。
「的」は「いくわ」という地名で、城原川の対岸にその名が見えます。

「いくわ」といえば、「浮羽」(うきは←いくは)と同じではないか!と思って、地図を見ると、隣には「志波屋」という地名までもがあります。「志波」は朝倉の地名です。

どうも、この地は筑後川の軍団がいたことを思わせる地名や伝承があるようです。


それについて、「かんざき@NAVI」に具体的に書かれていました。

白角折(おしとり)の名称は、日本武尊が熊襲征伐のときに白角折神社から的に向かって矢を射たという伝説から幣作りのおしとり部と関連があるという説、西方の国を制圧するときに鳥が白い角を持ってきて、戦況が有利になったことから「おしとり」と呼ぶようになったという説があります。

歴史的には、7世紀頃、大和朝廷は朝鮮半島の緊迫化により、九州に多くの軍事的部民(*1)を配置しました。
神埼町竹原地区は、かつて戊久米里(つちのえくめり)と呼ばれ、その時代背景と、地名の久米から、軍事的部民の久米部の存在が推定されています。

神社に近接する的(いくわ)という地名の由来も、軍事的部民的部との関連が考えられることから、武神としての日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がお祀りされたのではないでしょうか。
*1 朝廷や豪族に隷属し、労役や生産物を貢納した人々の集団

http://www.kanzaki-museum.com/feature.php?mode=show&id=2

「白角折」と書いて「おしとり」と読ませるのは不思議ですが、「白」と「とり」から、ヤマトタケルの白鳥伝説を思い出さずにはいられませんでした。

ヤマトタケルは死んだあと白鳥になって飛翔します。その白鳥を泣きながら追っていったのが后(きさき)とその御子、すなわち仲哀天皇です。

この話ののち「白鳥」はヤマトタケルのシンボルとなります。

ヤマトタケルを象徴する「しろとり」が「おしろとり」→「おしとり」と変化したのではないかというのが、るな的発想です。「角」は憶測ですが、対岸に「角地」という寺院名が見られることから、戦いの歴史が絡んでいるのではないかという気がしています。


的(いくわ)軍は景行天皇の時から天皇軍寄りですから、ヤマトタケルの時も側近の中にいたと思われます。道案内が出来たかもしれません。

これまた全くの憶測ですが、ヤマトタケルはこの「北」にある山にいた異敵と戦い、勝利したのち、駐留した的や志波の軍隊の陣営が地名になったのではないでしょうか。

「北」には何があるかというと仁比山神社が現在あります。そこの主祭神は「大山咋命」です。天平時代の勧請ということで、これ以前のことは分かりませんが、この神は吉野ヶ里の中央に取り残された日吉神社と同じ神なのです。

ここに消え去った歴史のヒントがあるように思われますが、文献が見当たらないので、これ以上踏み込むことが出来ません。


吉野ヶ里遺跡に出土する青銅の製品や、材料として残された錫(すず)の塊を思うと、それをどこで採掘して精錬したのかという研究課題が残っています。

吉野ヶ里のクニは鉱物資源の採れる山を掌握していたに違いありません。その山とはどこか。それがヤマトタケルが矢を射た「的」がある山だと考えられます。

ヤマトタケルは景行天皇の命を受けて、父が制覇できなかったクニの一掃を狙って再び派遣されたのでしょう。

その名残が白角折神社の伝承ではないでしょうか。結果がどうなったのか、的や志波屋の地名があることから、勝利して軍の一部を留めたのではないかと考えることもできます。


この時、そばに仕えたのが竹内宿禰です。竹内宿禰はヤマトタケルより少し年下ですが、まだ二人とも十代。この後、二人は真手山の熊襲タケルと戦ったことはすでに紹介しました。その途中、立ち寄ったのが当地だろうと考えています。


日田の方からコメント欄で質問がありましたが、景行天皇は佐賀や筑後、日田などにあるいくつかの女王国に対して、占領されるか、滅ぼされるかという二者択一を迫ったのだろうと考えています。

拒めば殺され、降伏すれば哀しき女神として祀られたりしたのでしょう。その一例が神功皇后伝承にも出てくる葛築目(くずちめ)や、神夏磯姫です。

そして王国には熊襲タケルの名が伝わっています。




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これは境内の千年の楠。




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また、境内から外を見ると、三角の特徴的な山々が見えます。地図から判断すると、帯隈山、早稲隈山、日の隈山のいずれかが見えているようです。

この山にも歴史を解く手掛かりがありそうですね。





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これは神社の東の城原川から上流域を見た所。「北」の方面です。
そこに「的」と言う地名があり、仁比山神社があり、角地地蔵院、稲荷神社があります。

 あの有名な九年庵がある所といえば、ピンときますね。







白角折神社







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by lunabura | 2015-06-26 21:23 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(4)

佐賀(30)吉野ヶ里遺跡・衝撃の天御中主=カペラ

佐賀東部神社と古墳(30) 

吉野ヶ里遺跡

衝撃の天御中主=カペラ

 
天御中主神といえば、記紀の始まりの神です。
「天地が初めて開けたとき、高天原に成れる神の名は天之御中主神。」
これは『古事記』の冒頭の文。

真鍋はカペラ星を日本では天御中主と呼んだと伝えています。
カペラは天の川のほとりにあるので、川原星(かわべらのほし)とも呼びました。

一方で、神道では天御中主神を北辰すなわち北極星と捉えたという歴史があります。北極に星がしっかりと輝きだしたのは天智帝の時代頃からなので、天御中主=北辰説は奈良時代以降に生まれた思想だと考えられます。

神功皇后の時代は北極星がないので、ポラリスとツバーンを見て、その中間に北を想定した話は何度も書きました。この時代は弥生時代の終わりごろです。

吉野ヶ里遺跡は弥生時代の始まりから終わり過ぎまで繁栄したクニですので、やはり北極星を見ることはできませんでした。

しかし、何らかの方法を使って南北を定め、二つの櫓で示したことが分かりました。
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見事に南北を測量しています。



では、天御中主神がカペラ星だったということはどういうことか。

これまで具体的なイメージを持つことが出来なかったのですが、tatsuさんが、ついに画像で示してくれました。

次はそのコメントです。

真鍋がさらりと記した「カペラは極東に来て、記紀の天御中主神になり、甲斐辨羅神になり、川原星になったと語られている。『儺の国の星 拾遺』(P124)」が気になって、
北内郭から西暦200年12月10日22:15(地方平時)の夜空を見てみました。

天御中主神=北辰のように言われますが、天の中心と言えば、人から見れば、やはり頭の天辺方向ではないのかという素朴な疑問に見事に答えてくれたのが天御中主神=カペラ説です。

天の頂上にすっぽりと収まるぎょしゃ座の五角形。カペラはそのα星として輝いています(画像向かって右肩)。天の川が背景になり、川原星もまさにそのとおりです。



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いかがですか。
私は驚愕しました。百聞は一見に如かず。
本当に天の中心にカペラがぎょしゃ座を控えて輝いているのです。

古代人はこれを見て、すなわちカペラが天頂に達した時、この星を神と呼んだのでしょう。それは特別な時間に限ってではないかと思いました。




この星は高良の星とも呼ばれ、天御中主とも呼ばれた。
この神を祀るのが志賀島の沖津宮です。

ガイドブックの下巻の表紙には天御中主を祀る島を選びました。

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ここにも高良玉垂命と安曇の深い関わりが見て取れますね。
(高良玉垂命=安曇磯良、高良の神=武内宿禰)



さて、Tatsuさんの続き。
ところでこの五角形、時代が同じなのでデフォルメされて北内郭のモチーフになったようにも思えます。そして内側には熊モン、いや隈モンが仰向けに寝ている・・・
こりゃ、アンドロダメダと思われたら、この話はボツにしてください。



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北内郭は「熊もん」ではないですか (/・ω・)/

いやあ、これで、もう「隈もん」にしか見えなくなってしまった。
やばすぎる(+_+)






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by lunabura | 2015-06-23 20:50 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(4)

佐賀(29)ソグド人がやって来た?神埼西郷

佐賀東部神社と古墳(29)

ソグド人がやって来た?

神埼西郷

「佐賀神埼」の記事を書いている最中、朝、手にした本からパラリと落ちて来たコピー。そこには「神埼西郷」という文字がありました。それは真鍋の本のコピーでした。

神崎に「西郷」がある?
地図を見ると、櫛田宮の西、城原川の対岸にありました。



コピーには「佐伯」「ソグド」「シルクロード」の文字も。
それはずっと理解できないページでした。

ところがその夜、真鍋の本を手に取ってたまたま開いたページに「佐伯」の文字が。

こうして、バラバラに書かれていた内容が繋がった不思議な一日がありました。これが先日ちょっと書いた「渡来した人」のことです。今日はこれをブログに書くことにしました。


「西郷」
その地名はソグド人が「別所」を設けていた所だと真鍋は伝えています。
「別所」は記憶があいまいですが、確か「湊」だったと思います。

渡来人たちの足跡は湊からスタートします。渡来人ごとに棲み分けがあり、その名残が地名に残っているということです。それがいよいよ具体的に分かって来ました。

まずは、出て来たコピーの一部を紹介しましょう。

常陸国風土記 茨城郡の条に曰く
  山の佐伯(さへき)、野の佐伯、自ら賊(あた)の長と為り、徒衆(ともがら)を引率(ひきい)て國中を横しまに行き、いたくかすめ殺しき。

 藤原宇合(うまかひ)(694~737)の名文に成るこの記述は、近東のアンティオキヤから長安をへて、遂に石岡までのシルクロードを開拓したソグドの氏族の片鱗を窺わせる。

西条(さいじょう)の地名は播磨加古、備後比婆、安芸賀茂、阿波板野、伊予新居(にい)、三河幡豆(はづ)、安房安房(あわ)、安房長狭(ながさ)にみられる。これが倭人が翻訳翻案したシルクロードの道路(みちすじ)であった。

 西郷の地名は摂津豊能(とよの)、伯耆東伯(とうはく)、隠岐周吉(すき)、筑前宗像、肥前神埼、肥前高来、大隅姶良、美濃本巣(もとす)、三河渥美(あつみ)、遠江小笠(おがさ)が挙げられ、もって佐伯の氏族の別所であった。   拾遺p167
 
要約すれば、
ソグド人はシルクロードを開拓した氏族であり、日本では佐伯といい、茨城県石岡市まで足跡を伝えている。地名は「西条」別所は「西郷」という。
ということです。

ウィキペディアには、
ソグド人は中央アジアに住んでいたイラン系の農耕民族で、かつてはシルクロードを経済的に支配していた、
と書かれています。


ソグド人は日本では佐伯という名で呼ばれていたので、風土記に書かれた佐伯はソグド人たちだったということになります。

「西条」(さいじょう)「西郷」(さいごう)の地名は佐伯(さいき)の拠点だったということです。いわゆるソグド人コロニ―です。

ウィキぺディアによると、ソグド人は中国では「康・安・米・史・何・曹・石・畢・羅・穆・翟」という姓を与えられ、それらを一括してソグド姓と呼んでいます。

「ソグド」は『魏書』では「粟特」(そくどく)と書かれています。それが日本では「粟の国」を連想させます。佐伯姓は瀬戸内海を中心に分布しています。


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それでは佐伯(さいき)の「き」とは何かというと、「技術者」の古称だそうです。

佐伯氏は何の技術者だったのかというと、これが夜に開いたページに書かれていたのです。それは「池の造成工事」でした。

佐伯なる氏族は北方の胡族であって、よく湖を見出し、井を造る特技があった。

 『古事記』景行紀には倭建命(やまとたけるみこと)から分かれた讃岐の綾の君の名が見える。日高見国(ひたかみのくに)から抜擢してつれてこられた北人(あへひと)の系統である。

単于(せんう)なる胡人であって、火山地域に住居を求めた民族であった。

讃岐の地にはまだ随所に旧噴火口が露出していた。従ってここが九州を別にしては、四国でただ一つの北人(あへひと)の集中的居留地であり、やがて周囲から隔絶されて自滅する運命にあった。

 後に空海(七七四~八三五)がこの系統から出る。幼名を真魚(まを)と言う。数百年昔の祖先が築いた池に棲みついた大魚に因んだ名であったかもしれない。又蝦夷(あへぬ)、即ち毛人(まおひと)に由来したところかもしれない。

 佐伯氏は旱魃の地方が出るたびに諸国に分散して、池の造成工事を掌握した。時には旧火口から溢れる水脈の涸れざることを祈る神官ともなり、その家系が今に及んでいる。『儺の国の星拾遺』p177


「佐伯氏は旱魃の地方が出るたびに諸国に分散して、池の造成工事を掌握した」ので、各地に友好的に融合していったと思われます。空海はその末裔に当ります。
空海の時代までその技術が伝わっていたのかと思うと納得です。

「単于なる胡人」の「単于」はここでは「北アジア遊牧国家の初期の君主」で、「胡人」とは中国から見て「西方の異民族」です。ソグド人は胡人に含まれていました。


佐伯氏の得意な物がもう一つありました。それが「占星術」だったのです。

佐伯の氏族はよく星を祀り占いをもって身を立てた。倭人は石位により時を量るのみに終始するから、信仰と生活の面でとかく意見の合わぬことが多かった。拾遺177


「石位」とは星座のことです。
倭人が「石位」(星座)で時や季節を知るだけだったのに対して、佐伯氏は「星祭りと占星術」に長けていたのです。

ここまで解読した時、吉野ヶ里のあの北内郭を思い出さずにはいられませんでした。
吉野ヶ里が紀元前から発展していくなかで、紀元三世紀頃前に北内郭が建造された訳ですが、それを調べれば調べるほど高度な天体観測の痕跡が出てきました。




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Tatsuさんが新たに発見した観測ラインを記入してくれました。

現代人が天文ソフトを駆使して初めて理解できる観測技術をもたらしたのは誰か。

Tatsuさんは、コメントで「交渉から納入・運用まで行う総合貿易商社的な性格を持つ組織」の存在を示唆されましたが、シルクロードの経済を支配し、中国では一大勢力ともなったソグド人がまさに該当することに気付きました。

そして、そのコロニーの別所「西郷」が城原川を隔ててわずか一キロ強の所に存在することから、彼らは北内郭建設の一翼を担った可能性があるのではないかと思いました。

あまりにも辻褄が合いすぎて、出来過ぎかな、と悩みました。

北内閣の技術提供者は佐伯氏なのか、物部氏なのか、あるいは共同作業があったのか、はたまた全く別の氏族の成果なのか、具体的な氏族名で考察できるようになって、かえって困惑していたのです。



今日は、夏至。
2000年前の今日、吉野ヶ里ではきっと夏至の祭をしたことでしょう。


2015年の夏至は朝からずっと曇で、涼やかな一日でした。「かひ族」にとって、日本の夏至は梅雨と重なり、思うような観測が出来なかっただろうな、と例年思います。

夏至の日没の光は福岡筥崎の参道も貫いて、神鏡を輝かせると聞きます。
(今は少しずれているらしい)

さて、胡人の渡来のルートはずっと同じではありませんでした。

胡人が日本に自由に渡来できた時代は燕(前1123~前222)代で終焉した。韓人が半島を占拠してからは、胡人は全く倭人と隔絶されて、日本はあたかも韓人の自由に往来できる別天地に変わった。

陸封された胡人の子孫が西の熊襲であり、東の佐伯であった。『儺の国の星拾遺』p177

ソグド人が日本に自由に渡来出来たのは弥生時代前期ごろまで。海北道が利用できなくなって佐伯は陸封されたとあります。

しかし、彼らは南海道を使ってでも日本にやって来た。
この先どう展開したのかは解読中です。
時間が掛かっても、続きが知りたいですよね!











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by lunabura | 2015-06-22 21:23 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(2)

佐賀(28)櫛田宮2  出雲神話を伝える宮だった

佐賀東部神社と古墳(28)

櫛田宮2 

出雲神話を伝える宮だった

クシナダヒメ
前回は境内資料館の古文書に書かれていた「櫛田大明神とは伊勢大神宮の大娘(ひめ)豊次比売命」を紹介しましたが、HPには「櫛田大明神」のことは「櫛稲田比売命」と書かれています。

HPに書かれた御祭神
櫛田三柱大神
・櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)正面御座、櫛田大明神
・須佐之男命(スサノオノミコト)  東 御座、 高志大明神
・日本武命 (ヤマトタケルノミコト)

佐賀神埼にクシナダヒメが祀られているのは思いがけないことですが、なんと、当地ではヤマタノオロチの伝承をも伝えていました。




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拝殿の左手から裏に回ると、「神崎発祥の地」の石碑があります。ここを櫛山(くしざん)と言うそうです。



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その左手に石の甕がありました。HPによると、
神社裏一帯を櫛山と称して、古代神祭の旧跡と伝える。かたわらに石造の酒甕と伝えられるものもあり、祭神がヤマタノオロチの災厄をのがれ給うた神話の証として、生児のヒハレ(初宮)詣りの際、その生毛を納めて生育を祈る風習がある。

  1年おきの春祭り(みゆき大祭)は、800人近い大行列で賑わうが、その先払いの尾崎太神楽(佐賀県重民無文指定)を保持する尾崎地区周辺には大蛇にちなむ地名伝説がある。

 大昔大蛇が住民を苦しめた。鼻は花手に尾は尾崎までおよぶ長さ六丁の大蛇。人々は野寄に集まりて協議して、柏原から柏の木を伐ってきて伏部からふすべ(クスベ)た。大蛇は苦しみ蛇貫土居をのがれ、蛇取で退治された。今も蛇取に蛇塚がある。

 なお尾崎太神楽の獅子は他所の獅子舞とは異なり大蛇を表現したものであり、蛇は櫛田神の使い(眷属)で、その伝説は霊験記(室町時代)にまとめられている。
(櫛田宮HPより)
とあります。

ヤマタノオロチは600mほどの大きさ。酒甕はクシナダヒメがその難を逃れた話を伝えるものでした。

ここにはあの出雲神話があったということになります。
ヤマタノオロチは何の象徴なのでしょうか。そのキーワードは剣、鉄、洪水、戦い。

そして、景行天皇はここに伊勢の神を祀った。大正時代にはクシナダヒメの両親もまた祀られていたというのも看過できません。

出雲VS伊勢?

櫛田宮の祭神の変遷は、ここが古代から重要な土地で、争奪戦があった名残を伝えているのかもしれません。

現在、ヤマトタケルもまた併せて祀られているのは、彼もまた近くにやって来たからだと思われます。それは熊襲タケルとの戦いとも繋がるのでしょうが、このそばの城原川の上流の宮にもその足跡が伝わっています。白角折(おしとり)神社と言います。

(熊襲タケルとの戦いは過去記事「真手山」に書いています)



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さて、境内には印鑰(いんにゃく)神社と稲荷社が二つあります。印鑰とは役所の印鑑と鍵のこと。当社地が神埼の中心だったことを裏付けています。





櫛田宮と櫛田神社




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神紋は剣が二本。




櫛田宮と博多の櫛田神社との深い関わりがHPに書かれていました。

元寇の時に、当社の神剣が博多の櫛田神社に送られて合戦の時に、数千万のヘビが海上に浮かんで戦いを勝利に導いたのだそうです。

元寇の際、博多へ神剣を移して祈願した記録が「櫛田大明神縁起」にある。
就中(なかんづく) 弘安年中に蒙古勢襲来の時 櫛田の御託宣に曰く「われ異国征罰の為に博多の津に向かう。

我が剣を博多の櫛田に送り奉るべし」と云々。仍てこれを送り奉る。ここに博多の鍛冶岩次良霊夢あるによりて、三日精進して御剣をとぎ奉る。これを箱におさめ白革を以て三所ゆい封をなして神殿に納め奉り畢ぬ。

即ち蒙古合戦の最中筑前国志摩郡岐志の海上に、数千万の蛇体浮かび給う。万人の見知其の隠れなし。また、三ヶ月の後、末社櫛田の社壇に疵を蒙る蛇体多く現じ給う。即ち御託宣に曰く「各疵を蒙ると言えども、蒙古既に降伏して帰り来る」と云々。

仍て神埼本社の神仁等数百人、かの岐志の浦に発向して迎え奉り畢ぬ。

その後更に十三年を経て、かの御剣を本社に遷入れ奉らん為、神埼の神仁いむ田太良以下数百人、博多の櫛田に参向して件の箱の封を解きし処に、蛇体御剣を巻つめて頭をつばの本に打ちかけて、殆ど倶利伽藍明王の如し。見聞の諸人渇仰肝に銘じ、随喜の涙袂をしぼると云々。


蛇は当社の眷族となって大活躍をしています。身代わりになって傷だらけになったというのは痛々しいですね。




吉野ヶ里
さて、当初の目的、景行天皇と吉野ヶ里の関係については分かりませんでしたが、当社に出雲神話が伝わっていることから連想して思い出したことがあります。

それは吉野ヶ里では銅鐸が造られていて、同じ鋳型で造られたものが吉野ヶ里と出雲から出土したということです。吉野ヶ里が出雲系かどうかは分からないのですが、無関係では無いといえます。

一方、先述したように櫛田宮では「スサノヲ・クシナダヒメ・足ナヅチ手ナヅチ」という出雲の神々が祀られる時代もありました。

櫛田宮と吉野ヶ里間の間はわずか徒歩15分。




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吉野ヶ里はどうしてこれほどの厳重な守りをしなくてはならなかったのでしょうか。それは戦いが常にあったからです。敵は遠くはない。

これらから考えたことをまとめると、当宮は古代には重要な所で争奪戦があっていた。弥生の末期に景行天皇やヤマトタケルがやって来て、当地を占拠した。あるいは奪還した。

何故ここが重要だったのか。

それは西を流れる城原川(じょうばる)にヒントがあると思います。有明海から入ってきた外洋船が停泊できる良港があったのではないか、そしてその湊の争奪戦があったのではないか、そんなストーリーを思いつきました。

風土記では櫛田宮の北西に湊があったと伝えています。




さて、このシリーズは風土記の流れに沿いながら書いていますが、ここからさらに西に行くと、佐賀、杵島となります。風土記は松浦も紹介しています。気が付くとこれらは既にブログにUPしていました。

風土記の半分以上を逍遥したことになります。 (@_@)





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by lunabura | 2015-06-21 21:15 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(7)

佐賀(27) 櫛田宮・景行天皇が祀ったのは伊勢の神だったのか

佐賀東部神社と古墳(27)

櫛田宮

景行天皇が祀ったのは伊勢の神だったのか


 ここは神崎の櫛田宮。吉野ヶ里遺跡から西南へわずか一キロの所に鎮座しています。

ここは景行天皇がやって来たところ。当時、吉野ヶ里は最盛期で、北内郭も活動している時期に当たります。

両者がどう関わったのか、縁起から見えてくるでしょうか。




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参道の二の鳥居です。堂々たる肥前鳥居。お好きな方いらっしゃいましたね!



その左奥に見えているのが「琴の楠」です。
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「景行天皇が琴を埋められたら☐☐て楠になった。清浄なる人がい息を止めて七回半巡☐と楠の音が聞こえると伝えられている。推定樹齢七百☐☐。」と柱に書かれています。

これがくじらさんが教えて下さった「琴の楠」ですね。


風土記には
「琴木の岡 高さ二丈、周囲五十丈。郡役所の南方にある。

この地は平原で元来岡はなかった。大足彦(おおたらしひこ)天皇(景行天皇)が勅して「この土地の地形では必ず岡があるべきである」と仰せられ、すぐさま群下(ひとびと)に命令してこの丘を造らせた。

造りおわった時、岡に登って宴をし、興が尽きて後、その御琴を立てると、琴は樟(高さ五丈、周囲三丈)と化してしまった。そういうわけで琴木の岡という。」
とあります。

「琴木の岡」というのは人造の岡で、一丈が3mとすると、約高さ6m、周囲150mとなります。

「この土地の地形では岡があるべきだ」という、現代人にとっては不思議な論理で造営されるのですが、平地なので祭祀するため、あるいは見張り台として必要だったのでしょうか。

岡はもう消滅したのでしょう、この櫛田宮は平地に鎮座しています。




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参道の右手には「琴の池」がありました。







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神門をくぐります。武家屋敷を思い起こさせる造りです。





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拝殿です。
御祭神は須佐之男命・櫛稲田姫命・日本武命です。

「大昔、当地方に荒神があって人を害したが、景行天皇が櫛田宮を創建されてから人民は幸福になったので神幸郡と名付けた。今から千九百年前のことである。(櫛田宮略記)」

かみさち→かんざき となりました。

日本武命(やまとたけるのみこと)は景行天皇の皇子なので、天皇が祀ったのは須佐之男命でしょうか?

大正時代に書かれた「佐賀県神社誌要」では祭神は
「素盞鳴尊、櫛名田比売命、足名椎手名椎尊」
となっています。
あしなづち・てなづちですから、出雲の八岐大蛇退治を思い起こさせますが、実際に当社にはそのオロチ退治の話が伝わっていました。これは次回紹介します。

この場合、景行天皇はどの神を祀ったのでしょうか。

ここは祭神の変遷があったもようで、境内の宝庫にあった古文書には
「櫛田大明神と申し奉るは伊勢大神宮の大娘(ひめ)豊次(とよつぐ)比売命、是なり」と書かれています。
概要は
「天照大神の代に草創されたのが、一時期途絶え、櫛田荒神となってしまったのを、景行天王が祀ってやわらぎ、櫛田大明神として神埼の庄を敷地として祀られた」ということです。

大娘豊次比売命とは伊勢神宮のどなたの事でしょうか。豊受姫でしょうか。


さて、福岡の人はきっと最初、博多の「櫛田神社」を思い起こされたと思います。あの博多山笠で有名な「お櫛田さん」はこちらから勧請されたものなのです。
そこで、博多は「櫛田神社」、神埼は「櫛田宮」とします。

櫛田神社(博多区上川端町)の御祭神を調べると
大幡大神(櫛田大神)天照皇大神 素盞嗚大神(祇園大神)
となっています。

確か「大畑主命は天照大御神の手を引いて川を渡った」という伝承があるのです。しかし、出典が分からなくなってしまいました。どなたか教えてください。



さて、これはこれとして、櫛田宮と櫛田神社の祭神を比較すると、共通するのはスサノヲだけです。

しかし、古文書にみえる伊勢大神宮の「大娘豊次比売命」からは天照大神か豊受大神が祀られていたと考えられます。

結果、本来の祭神がよく分からないのですが、景行天皇は荒神となった櫛田大明神を祀ったというのが最初のようです。

社伝を重んじるのが基本なので、当社には伊勢の「大娘豊次比売命」が祀られていたのが、祭祀が途絶えて荒神となったため、景行天皇が岡を造らせて祭祀をしたと解釈します。

(つづく)





佐賀県神埼市 櫛田宮と吉野ヶ里遺跡







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by lunabura | 2015-06-18 21:30 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(2)

佐賀(26)吉野ヶ里・北内郭の天体観測

佐賀東部神社と古墳(26)

吉野ヶ里

北内郭の天体観測


 これまでの流れをまとめてみましょう。

 北内郭全体の主軸は夏至日出と冬至日没を採っているので、太陽祭祀がメインですが、墳丘墓と祭殿の主軸の延長上に普賢岳と南十字星を見ていることから、北内郭は高度な天体観測所(隈本)兼祭祀所だったと考えられます。
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 北にはもちろん北斗七星があるのですが、北極星に関しては北内郭の建設時代には目ぼしい星が存在しないので、彼らはツバーンとポラリスを必死で観測していたと思われます。

 神崎には南の星の観測が得意な物部氏が居たと真鍋は伝えているのですが、吉野ヶ里人と接触したかどうかはこれからの課題です。

脊振山の北を中臣氏、南を物部氏が観測していたという話に関して、こんばんわんさんが、興味深いコメントを入れてくれました。

古代エジプトでは、北天と南天の意味は明確に分けられており、地平線に沈まない北天の星(座)を神として祀り、地平線から次々と現れる南天の星(座)を観測し暦を定めるなど(クレオパトラの天体図など)、背振山系の北と南で中臣氏と物部氏が業務分担していたのは、氏族の特徴としても良く理解できます(古代エジプトも夏至を節目にしていたと思います)。


 物部氏が近東の出だとすると、「吉野ヶ里と同じ緯度」から観測できる星を詳しく知っている可能性は高いです。

 エジプトとの関連が証明されれば、「北」に歴代王の墳丘墓を造ったのも、「王が死後に神となる」という思想を反映したものともなります。

シリウスに関して真鍋の残した文の一部を紹介しましょう。

●エジプト人は夏至の東天に上がるシリウスをソティスあるいはコプトと崇めた。

●エジプトでは夏至の正午をもって一年の中日とした。

●秦の始皇帝(前259~210)は咸陽に阿房(あぼう)宮、漢の高祖(前255~159)は洛陽の都に未央(びおう)宮なる世界一の殿堂を建設しました。

昼は日、夜は月と光を競うソプト(シリウス)を無上の憧憬を以て仰ぎ見た英雄の心が阿房未央の名に秘められています。

●シリウスが節分(きわけの)星(ほし)(きわけのほし)として立秋の朝に東に見え、立春の夕べに西に見え、立夏の日中に南に輝き、立冬の夜中に南にまた輝く時代は、歳差約20日、即ち欽明帝元(540)年の頃になります。

明(めい)を欽(うやま)う諡(おくりな)の由来が分かる所でありまして、それぞれ春夏秋冬の兆候を知らせる星になっておりました。

このほか、シリウスによる天気予報、夜渡七十、地震津浪の予測などについても書かれています。

シリウスが東に西に、そして南に、と季節によって方角を変えるので、吉野ヶ里では、その観測も欠かせなかったことでしょう。




突出部

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 吉野ヶ里の北内郭を拡大して見ると突起(突出部)の部分に物見櫓が配置されていますが、よく見ると、主軸がてんでバラバラです。

物見櫓の主軸は「星を見ている」と推測します。

「北内閣の建設時期」に関して、教育委員会の出した本には
●弥生後期中頃~後半に南内郭・北内郭が設けられ、後期後半と、後期後半~終末期の二時期に環濠を掘りなおして営まれている。
●新段階のものはいずれも後期終末いっぱいで埋没している。
と、一般人にはいつの話か分からないように書かれています。

弥生時代は、学者によって年代が違うのかも知れませんが、吉野ヶ里遺跡の立場として堂々と「何年頃」と表記していただきたいものです。

ステラ・ナビゲータなどで北内郭に関して調べる時には「建設時期」で調べればいいので、「弥生後期中頃~後半」を入力すればOKです。(といっても、入力できないですよね
(+_+))

仕方ないから年表を見ると、2世紀の終わり辺りに建設の記事が書かれています。西暦190年頃で調べるといいのかなあ。(佐賀県教育委員会に確認した方が無駄がなさそうです)

突出部の設計に関しては中国の影響が示唆されています。

以上が、今回までの流れです。

るな的には「暦は天子が配る」ということなので、この北内郭はクニの威信をかけたものだと思いました。

Tatsuさんからのコメントです。

記事の内容を勝手解釈した思いつきアイデアです。

黄道によって北天と南天に分けて観測していたということは、紀元前から西暦へ移り変わる前後の数百年間、黄道に寄り添うように夜空に擬似黄道を描いていた乙女座のα星スピカの軌道観測は必要不可欠だったはずです。

バビロニアで春分を司る女神だったスピカ(儺の国の星P36)は営々と観測され続け、出自を近東とされる物部には詳細かつ膨大なデータの蓄積があったでしょう。であれば、星読みとして物部の右に出るものはいなかったと思われます。

しかし、西暦200年以降に、吉野ヶ里にも革新的な観測方法が導入され、北内郭が星見台として整備されようとしたときに必要とされたのは、知識のみならず、海外からの、当時は国家機密扱いであったはずの観測機材の輸入であったかもしれません。それには相手国の信頼厚く、交渉から納入・運用まで行う総合貿易商社的な性格を持つ組織が必要ですから、西暦200~250年頃に、中国との安定した太いパイプを持っていた氏族が関わったと思われます。

物部が観測以外も全てを自前で行えたというのでなければ、複数の氏族によるいわば共同企業体によって、北内郭の施設は完成したことになります。

現在、北内郭の案内図には太陽の日出日入線が祭祀関係として一本引いてあるだけですが、遺跡管理者にはもっと大胆な仮説を期待しています。太陽だけではなく星の動きも関連付けてみると、あの環濠の不思議な形の理由も解ってくるのではないでしょうか。


新たな弥生像、大胆で面白いです。







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by lunabura | 2015-06-16 23:50 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(2)

佐賀(25)神埼の物部氏と吉野ヶ里は?

佐賀東部神社と古墳(25)

神埼の物部氏と吉野ヶ里は?



曽我氏と平群氏は福岡市早良郡に入植していました。和名抄にその地名が記録されています。中臣氏は那珂川町だそうです。

これらは脊振山から見ると北側にあります。那珂川の中臣氏と紛争があったのが物部氏で、神崎にいたことが以下の文に書かれています。

筑前に早良なる郡が置かれたのは曽我稲目(467~570)の世からであった。「ささのはら」の略の名であった。「ささ」とは紫微の倭名であった。

稲目星は立冬の暁方に見られる獅子座流星群の古名であり、一説には含水炭化物の宇宙塵を隕石と共に降らせる彗星の別名でもあった。

稲目は伊儺面(いなめ)と書き、怡土郡と那珂郡の間に新開の土地を開いた業績を讃えられたのであって、継体帝21(527)年に出る筑紫国造磐井と共に雄略帝17(473)年の洪水を修めたのであるが、神埼の物部氏と那珂中臣氏の間に水利の紛争が昂じて欽明帝13(552)年の仏像を巡っての対立に及んだのである。『儺の国の星拾遺』p134


「神埼」(かんざき)とは吉野ヶ里遺跡のある地名です。脊振(せぶり)山の南にあります。
有名な、蘇我氏と物部・中臣両氏の対立は、脊振山を挟んだ水利の紛争が遠因だったと真鍋は伝えています。

これはまだよく理解できていない部分なのですが、今テーマにしている吉野ヶ里遺跡が神埼にあるので、物部氏はこことどう関わったのか、気になっていました。

引用文には5~6世紀の話が書かれていますが、ちょうど吉野ヶ里遺跡が空っぽになった時代に当たります。

吉野ヶ里の高度な金属加工技術や天体観測の文化の来歴を考える時、それらが物部氏のキーワードと重なっていることも気になります。


物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、脊振の北と南を領有していたのである。

恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。

物部氏は星見(ものみ)の家系であった。


物部氏と中臣氏はいつの間にか和睦して脊振山の北と南を領有していたとあります。それぞれの地から見える方位の天体観測をしていたというのです。

天体観測に勝れていたのは両氏族以外にもいます。

葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。


葛生は国栖とも書きます。この人たちもまた天皇に講義するほどの知識があったのです。吉野の国栖。ここは吉野ヶ里。また近くのダムに沈んだ吉野の離宮。ここまでやって来た天智天皇。

これらのキーワードを並べた時、佐賀の古代は最先端の文化が花咲く土地で、歴史的な研究が必要な所だということがよく分かります。

有明海がもたらすものは豊富な海の幸だけでなく、ダイレクトに繋がる中国大陸の文化なんですね。そうすると、大船の入るような湊の研究が大切だということも分かってきます。

「八」の民である物部氏も九州に流れ着いて孤立してしまったというのではなく、佐賀や高良下宮社を拠点として、大陸との連絡を頻繁に行っていたのかも知れません。

吉野ヶ里の北内郭の精密な設計を見ていると、物部氏や国栖との接触があったのではないか、という思いが芽生えてきました。

吉野ヶ里遺跡の年表を見ると、「北内郭の成立時期」は「卑弥呼の共立時代」と「魏への遣使(239)」の間に書かれています。
換算すると、230年頃でしょうか。確実な所は分かりませんが、卑弥呼が現役で活躍した時代なのでしょう。

吉野ヶ里が発展していく中、弥生時代の後期、すなわち卑弥呼と重なる時代に天文観測の知識が導入されて北内郭が成立した、と推測できます。

天文知識をもたらしたのが、徐福の秦氏か、あるいは物部氏か国栖か。具体的な氏族名で考える時期に来ているようです。
それは星の祭祀、元旦の基準などから特定できるかもしれません。


物部氏は鳥栖には痕跡がありましたが、鳥栖は神埼ではないですよね。この辺り、地元の方、教えてください。

チーム・アンドロメダ!
どなたでも、思いついたアイデアを交しましょう!





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北内郭を環濠の外からみる。





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館内掲示物より。






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迫力の「祭殿」。北内郭内の最大の建物。








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物見櫓(やぐら)








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物見櫓から見た脊振山系。(あいにく雲が残ってますね)









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by lunabura | 2015-06-15 21:15 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(4)

佐賀(24)吉野ヶ里にて・「天祝」と「ひふり・かふり」と「神の宮居」

佐賀東部神社と古墳(24)

吉野ヶ里にて

「天祝」と「ひふり・かふり」と「神の宮居」





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西暦300年3月22日00:20
前回の南十字星を拡大しました。斜めになっているのが良く分かります。

南十字星がちょうど普賢岳に掛かっています。

Tatsuさんから、この南十字星の動き方についての説明が入りました。

風早星・・・和名の表現は素晴らしいです。西暦300年頃、夜8時半頃に南南東に現れた風早星は水平線近くを滑るように西へ進み、深夜2時半頃に南南西に消えます。

風を帆に一杯に受けて漆黒の海を船が行く、吉野ヶ里の人々もそんなイメージで星を見ていた、何か皆でお祭りということもあっただろうと思います。しかしまた自分たちの運命を、やがて見えなくなる星に重ねていたかも知れないですね。

斜めの柱を帆かけ船に見立てると、画面の左から右へ(東から西へ)と水平線近くを進むというのです。

言われる通り、春分の日には太陽と南十字星のお祭りをしたかもしれませんね。

そして南十字星が完全な形で見えなくなる頃、吉野ヶ里から人々が消えたのでしょう。

遺跡の本によると、古墳時代に入ると前方後方墳が造られるようになりますが、集落はその後空っぽになり、200年後に再び人が住むようになったそうです。


さて、南十字星の下の普賢岳。当時は噴火していたかもしれません。近年噴火したことは記憶に新しいのですが、噴火の光景を「天祝」(てんのはふり)と言ったそうです。真鍋は次のように書いています。

噴火の熱雲が上昇する光景を天祝(てんのはふり)と言う。那珂川にはこの五十年ほど前までは、雪の日に頭から被り、衿元を締め、肩から膝下まで掛けた冬の頭巾つきの外套を「おふり」と言った。

南十字星の名に「かふりのほし」或は「ほふりのほし」があったことを思い出せば、古人は何かありし日の筑紫の偉大なる火山群の噴煙を南の空の下に望み見て、南十字星の上の三角形と並べていたのかもしれない。
 拾遺113


「筑紫の偉大なる火山群」というのがこれまでピンと来なかったのですが、今回のtatsuさんの発見で、火山群に普賢岳が含まれていることに気付きました。古代にはもっと多くの山が噴火していたのでしょう。

引用文には女性の外套の描写があります。那珂川町では昭和の始め頃までは雪が深かったのでしょうか、その外套はまるで雪国を思わせます。それを「おふり」と言ったのは頭巾が三角形に見えたからだといいます。

「三角形」からついたという「おふり」は、南十字星の上の三つの星を連想させたようです。南十字星が三角形に見えた時代の名残だということが分かります。

この三角形の南十字星を「火振」と書いて「かふり・ほふり」と読みました。それは火山の名でもありました。




c0222861_23221269.jpg

これは十字架が刺さった状態。これを十字架とは見なさず、三角形の星座と捉えたわけです。

その下に火山。
神名備山と星が相似形になる、格別な瞬間の画像でした。



さて、このような円錐形の火山に重なって太陽が出入りするのが見える所を、古代には「神の宮居」(みやい)と定めたそうです。

昔の人は遠方に上がる円錐型火山が旭日落日と重なるところを神の宮居と定めた。火振(かふり)島(しま)がこれで、今は伊豫火振(ひふり)島(じま)にその名が残り、(略)又出雲簸川日御碕((日崎)、紀伊日高日御碕、肥前彼岐肥御崎にその面影を伝える。拾遺113 


吉野ヶ里の場合は「太陽」でなく「南十字星」だったので、これには該当しませんが、円錐形の山と神社が組み合わさっている所は沢山あるので、新たな観察視点を得ました。







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by lunabura | 2015-06-14 23:24 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(0)

佐賀(23)吉野ヶ里から南十字星が見えた

佐賀東部神社と古墳(23)

吉野ヶ里から南十字星が見えた

吉野ヶ里遺跡の展示館に行って知ったのは
①北内閣が夏至の日没と冬至の日の出を主軸にしているということ。
②墳丘墓と北内閣の建物などを結ぶ南北のラインがあるということ。
でした。

①に関しては宗像のプラネタリウムに出掛けて確認してもらいました。


そして、②のラインは図のように南北からは少しずれています。この不思議なズレに関して、tatsuさんからコメントをいただきました。

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墳丘墓と北内郭を結ぶ線は約8度、北から東側へ傾いています。ガイドさんは東脊振山から線を引いたと言われたようですが、東脊振の山塊に特に印象的な地点は地図では判りませんでした。

そこで南に目を転じると、その線の先には有明海きってのランドマーク、雲仙の普賢岳(平成新山)があります。さらに吉野ヶ里の時代の始まりとされる紀元前300年頃の春の真夜中には、普賢岳の頂上に南十字星が堂々と輝いていました。

時代が下り、吉野ヶ里終末の紀元300年頃でも、まだ山頂には十字星が架かっていたようです。

南方からやって来ていたかもしれない吉野ヶ里の住人にとって、南十字星は特別なもので、それが山頂に架かる姿は遠い祖先につながるものだったかもしれず、この方位線は王墓の祭祀線としてふさわしく思えます。

北内郭の枠取りは夏至・冬至に関係するとしても、中にある大きな建物はこの方位線に直角に交わっています。この建物に上って眺める南十字星はそれは美しかったことだろうと想像します。


この東北東8度ラインの南の延長上に、何と、普賢岳があるというのです。
そして、春の真夜中には南十字星が普賢岳の上にかかるそうです。Tatsuさんにお願いして画像を作ってもらいました。



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西暦300年3月22日00:20

春分の日(あるいは翌日)が採ってあります。南十字星はかつても書きましたが、日本付近では斜めになるんですね。それで船の帆に例えて波浮(はぶ)の星などとも言いました。



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これは白黒反転した図です。


時代が下がるにつれて南十字星は高度が下がり、日本からは見えなくなっていきますが、近代でも、脊振山からは一番上の星が見えていたと真鍋は言います。

南十字星は沢山の和名を持っています。今日はその一部を紹介します。


風早星(かざはやほし)
上の写真のように、主軸が傾いて見える事から、船の帆が貿易風をいっぱいにはらんで、柱が斜めになった印象と重ねて風早星と呼んだ。風早の地名は筑前那珂隈本、太宰府など、南風が強く吹く所にある。



ほぶれ星・群(ぶれ)の星・鋒立ち星・葉室星(はむろのほし)
今でも奄美では上の三つ星を群星(ぶれのほし)と略称する。平安貴族はほぶれをはむろと呼び変えた。葉室とは竹の壁にヤシやシュロの葉を葺いて、床にゴザを敷いた南方の家屋の大和言葉。



八幡星(やんばるほし)・ヤハギの星
鎌倉時代には泉州の堺から中国南部の仙頭に向けて、南蛮通いの八幡船(やんばるふね)が往来していた。八幡船は洋風で、船が傾いて帆が片持ちになっていた。帆柱の最上の横桁を「ヤ」と呼んでいて、これがブレルことから、ヤハギの星とも言った。



波浮星(はぶのほし)
帆を羽布とも言った事から付いた名前で、南十字星の上の三ツ星を見立てたもの。
伊豆大島波浮、長門厚狭埴生、丹波船井埴生、筑前遠賀埴生、下総印旛埴生の地名に残る。


真鍋大覚の本を整理してまとめたものです。







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by lunabura | 2015-06-13 23:46 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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