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カテゴリ:日若神社・ひわか・飯塚市( 6 )

日若神社(6)ひわか

宇佐・安心院トレッキング(3)

日若神社(6)
ひわか


宇佐に向かう途中、峠越えの手前にある日若神社に寄りました。
今日は道中、夏越し祭の白い幡が案内してくれましたよ。

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氏子さんたちが大勢で祭の準備をしている所でした。


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境内の木々が力強く緑の葉を広げています。
前回はまだ桜のある頃なので、境内の趣がずいぶん違います。


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氏子さんに、神功皇后の禊の場所が伝わっているのか、尋ねると、神殿の裏手に案内されました。


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真砂土のすぐ手前が皇后が三本の御幣を立てられて禊をされた所だそうです。
真砂土は明日の祭の為に準備されたもので、お潮井としてテボに入れて持ち帰るものですね。

由緒からは、神武天皇がここで霧に阻まれて困った時に、
この水を供えて祈り、枝に付けて払ったところ、霧が晴れたとか。
その前にはイザナギ神もこの水を愛でたということですから、2000年以上も大事にされた聖水です。
旅人たちは峠越えの前にここで祈って水を頂き、難路を越えたのでしょうね。


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神社の前の道は行き止まりになっているのですが、以前は山道があったと確認できました。
今はとても入れないそうです。



由緒書きなどは過去記事の方に詳しく書いています。
当時は神武天皇と物部氏についての考察がメインでした。

http://lunabura.exblog.jp/i23/
日若神社 (1)神功皇后が帰り道に禊をした所だった
      (2)古事記の空白を埋める記事が現れた
      (3)ここは古代の交通の要衝だった。
      (4)神武天皇を馬見神社へ連れて行ったのは物部氏だった
      (5)姫の名前には古代鉄の暗号が。



地図 日若神社



今回からの分類について、あれこれと考えたのですが、
神社は名前で探せるようにサイドバーの「カテゴリ」欄の<神社(ア)>などに
アイウエオで分類しながら入れて行きます。

「宇佐・安心院トレッキング」のシリーズとして見る時には<タグ>の方をご覧ください。
サイドバーからでも、すぐ下の<#宇佐・安心院トレッキング>でもOKです。

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by lunabura | 2013-07-30 22:01 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(0)

日若神社 (1) 神功皇后が帰り道に禊をした所だった

日若神社(1) (日少神社)
ひわかじんじゃ
福岡県飯塚市多田(旧庄内町多田)
山里に抱かれる古き神社   
神功皇后が帰り道に禊をした所だった


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 多賀神社の古名と同じ名前の神社を発見。

 馬見神社を投稿した後、地方の古い神社誌を眺めていたら、
日少(ひわか)神社という名前が出て来ました。
あれ?この字は見た事がある。
そう、直方(のおがた)市の多賀神社(古くは日若神社)と同じ名前です。
しかも、祭神が同じイザナギの命。

縁起を読み込んで行くと、神武天皇や神功皇后の名前が出て来ました。
そして、馬見の字が…。
「こりゃあ、馬見神社と関係あるかも。」という事で出かけて行きました。

遠賀川の上流に向かった。

今日のルートは遠賀川の河口から川に沿ってさかのぼるルート。
左側の土手を通って行きました。
大きな川で、河川敷は緑が多くて、多くの市民がイベントをしています。
ドッグ・サーキットやら、何十万本ものチューリップ畑やら。
たくさんの鯉のぼりまである!
市民の人たちは色んな川遊びを楽しんでいました。
道の左側には古い神社が次々と現れて来ます。

この日は雨が上がったばかりで、遠くがかすんでいたのですが、
対岸の向こうには、美しい山容が次々に現れては霧の中に消えて行き来ます。
なるほど、遠い昔、この堤防が無かったら、この辺りは全部海の中。

海峡を遡る時にそれらの山は目当ての山になったはずです。
すると、その山を、神あるいは神が降臨する所と思うのも当然です。
この日は山々が霧の中から立ち現れるので、尚一層幽玄な表情を見せてくれました。

この山沿いに縄文や弥生の人々が上陸して暮らし始める気持ちがよく分かります。
資料を見ると、古代の遺跡がずらりと並んでいました。

英彦山方面の支流に向かう。
川が二手に分かれました。
左を採って、さらに遡ります。県道415号線の仁保で左折。
すると、突然きれいな台形をした山が視界に広がりました。
道は山に向かって上って行きます。
そして、こんもりとした森を探していくと、すぐに日若神社が分かりました。
神社のそばには池があり、ヤマザクラがちらほらと咲き始めていました。

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神社は道路と同じ高さにあり、小高い山に寄り添うように建っていました。
鳥居に導かれて、正面の拝殿に向かいます。
境内には巨木がいくつも立っていて、古さを感じさせられます。
上の写真の正面、狛犬の奥が本殿です。
左右にある拝殿やお堂なども、とても古い様式です。

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赤い本殿を右から見た所です。

神社の入口にあった由緒書きを、一部分かりやすく書き換えて紹介します。
日若神社
祭神 伊邪那伎命 須佐之雄命 闇雄神
例祭 10月13日
創立年月日 西暦1287年
由緒
神功皇后が御征討の帰途に、ここを通られて、霊泉の立派なることに感激されて、皇子と共に息災延命を祈願し、禊(みそぎ)された霊場である。

又、付近の神池・神森と共に、この所は誠に「ただならぬところ」であると申されて、この地を多田山と称し、現在の多田の名称の起源と言われている。

それより、筑前・豊前両国民の崇敬の中心となり、藩政時代は、藩主においても特別の取り扱いで、見世物興行を免許して、その利益で修繕維持の資金に当てられた。

また、祇園神社をこの社のかたわらに勧請して祀っている起源は、明暦2年(1659年)に多田村のあたりに疫病が流行して、人民が苦しんだ。その年、10月に宮司の有光時安が17日間身を清めて、神道で、妙見大明神にその事を伺ったところ、「祇園三社を勧請して祈祷すべし。」との霊告を受けて、那珂郡博多の津の祇園の神を祀ると、疫病はたちどころに退いて、村々は喜んだ。

この由緒は天明8年(1788年) 加藤一純の古文書による。

この由緒から分かる事。

神功皇后大分宮で連合軍を解散したのを覚えていますか?
彼女はその後、ここを通って帰って行ったのがこれで分かりました。
そして、この霊泉に感激して、禊をしています。
この時にはすでに生れた皇子と一緒でした。
そして、「ただならぬ所」と言ったのが、多田という地名の由来となりました。

御祭神の三神のうち、須佐之雄命の由来については、
江戸時代に疫病をなくすために、ここの神に祈った所、神のお告げがあって、
その通りにすると、疫病はすぐにおさまったという事です。

ここの神、妙見大明神とは、北斗七星であり、イザナギの命となります。
(直方の日若神社(多賀神社)と同じ)

この御祭神は古くはイザナギの命だけだった
福岡県神社誌によると、明治時代に、闇雄神と須佐之雄命は合祀したと書いてあります。
こうして合祀されたものを引き算して行くと、
この「日若神社」は本来、イザナギの命だけが御祭神だったという事になります。
そこで、ここではイザナギの命に絞って話を進めます。

そして、古い伝承を読み込んで行くうちに、ここは確かに「ただならぬ所だ」と言うのが見えて来ました。
(つづく)
地図   日若神社 日王山 峠







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by lunabura | 2010-05-08 21:54 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(0)

日若神社(2)古事記の空白を埋める記事が現れた

日若神社(2) (日少神社)

神社史を訳すと、古事記の空白を埋める記事が現れた
霊泉をめぐる神と天皇と皇后の話


神社には霊泉(汐井川)が残っていたよ
本殿の裏手に廻ると小川があって、しめ縄が張ってありました。
上の写真の右端にちょっと階段状のものが見えています。
これが禊の場で、霊泉の跡だと思われます。
護岸がされているので、今でもお祭が盛んで、多くの人がここで禊をしているのが分かります。

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古文書によるとさらに上流に滝があるとか。今日の話はこの小川が舞台です。

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飯塚市のHPを見ると、次のように紹介されていました。
妙見さん」と親しまれている多田の日若神社では、毎年7月28日にお祭りが行われ「お汐井取り」で有名です。「お汐井取り」とは、汐井川の荒砂を「お汐井つと」と呼ばれる乾燥させたコモ草を編んで鍵方に縛り、川砂を入れて持ち帰り玄関に提げると無病息災、田圃に撒くと病害虫を追い払うと云われています。
開催時期    7月下旬
住所       飯塚市多田26-1 日若神社境内

妙見さんとは北極星の事ですが、ここではやはり北斗七星の事でしょう。
多賀神社で詳しく書いています)
お祭の日には、(お汐井)を持ち帰るんですね。
が、調べて行くと、もともと、この川のそのものが霊泉としてその霊験を讃えられていたのが、分かってきました。

「福岡県神社誌」を読みましょう。(訳しています)
当社は神祖の遺蹟で、神社の近くの汐井川は神功皇后が禊祓いをした霊場である。
同じ庄内町の綱分八幡宮の社殿によると、「神託によって、この霊泉を汲んで社殿を清めてから神璽を遷した。」と。それ以来この例に倣っている。
こうして、幽契神異の霊泉だという事で、災いを祓い、諸病を除くということで、博多や豊前から人々がお参りする数は日に数百人に上った。

神祖というのはイザナギの命の事でしょう。ここの御祭神です。
ここに書いてあるのは、
1.神功皇后が写真の汐井川で禊をしたという事。
2.近くの綱分(つなわき)神社で、「日若神社の霊泉を汲んで、清めよ。」
と神託が降りたので、その水で社殿を清めるようになった。
3.この霊水の霊験が噂を呼び、大ブームになったという事です。

誰も訳さなかった神社史
この神社誌にはさらに古い由来が書かれていました。
漢文で書かれていて、句読点が全くありません。これを読むのは一苦労です。
そこには、この神社の忘れ去られた歴史が隠れていました。チャレンジして、訳します。

筑前の国の嘉麻郡、多田の神泉は神祖の遺跡で、いにしえからの霊場である。旧記にこう書いてある。

「初めてイザナギの命がここに現れたのは、実に人間の天皇第一代、神武天皇の時である。
天皇は中州に向かおうとして日向の国から豊の国に行幸された。珍彦(うづひこ)を得て、案内人とした。

天皇は宇佐島から陸路で田河の吾勝野にお出ましになり、兄弟山の中峯で天祖を祀った。時に、馬見の物部の末裔の駒主の命に出会った。天皇の行幸を聞いて、遠くよりお迎えに出掛けて来たのである。

天皇は大変喜んで、駒主の命が献上した駿馬にまたがって、筑紫に行幸された。その家に行って皇祖を馬見山の上に祀られた。

その北麓を廻ってまさに日尾山にやって来た時に、この道は谷が広く深遠で、進路は険しく、ひどく悩まされていた時に、神の出現があった。
「天皇よ。憂うるなかれ。ここに霊泉がある。太古、イザナギの命が国土万物を生成して、天に昇り帰ろうとする時に、ここに来て、この水を見て言われた。
『思いしや わが産めりし内に この母の ごとき味の 清水有りなむ
(思っただろうか。私が産んだ万物の中に、この母のような味のする清水が有ろうとは。)
水の力は、天の真名井より、優っているなあ。』
とこのように言われてその水を久比著(人名?くいざ?)に持たせて天に参り登られた。」

それを聞いて、神武天皇もまた言われた。
「この水で天祖の御前を祀り、その後、生えている笹を取って束にして水に浸して打ち振りながら進むと
たちまちに、雲や霧が晴れて道はまた歩きやすくなるだろう。」と。

言い終えて、(実行すると、災難が除かれたので)、感じ入ったふうで、神武天皇は思った。
「神祖の御心か。神の教えのままに払って行った所、雲や霧がたちまち晴れて道が自然と通じた。
この持っている水で神を祀ったので、災難が払われたんだ。」と。

又、こんな言い伝えもある。

神功皇后もまた三韓征討の後、皇子を連れて戻る時に、大分(だいぶ)行宮(あんぐう)から、御輿(みこし)でこの地に来られた時、皇子が元気で長生きできるように祈って言われた。
「いやしくもこの神水で諸災を祓いたいと思う者は、ひたすらその身を清めるのがよい。まず、心の垢を除いて、この水のように清らかになって、自ら振り返って邪念がないように、糺(ただ)すべきである。」

このことから、当時の人がこの霊泉を「糺(ただす)の神池」また、その森を「糺の森」と名付けた。
今、多田山、多田川というのは、なまったものである。

これより霊泉の三名はますます遠近にとどろいて筑豊の人々は日々参集してこの霊験に預かろうとした。

延元  上野孫次郎入道覚念 啓白

この記事の霊水について、まとめてみましょう。

神武天皇を助けた霊泉

神武天皇がここに来て山越えしようとしたのですが、この日尾山の霧が深くて困っていた時、神が出現しました。
そして、神は言いました。
「ここの霊泉はイザナギの命が、自分が産み出したものの中でも、一番おいしくてパワーがあると、
自ら感激されて汲んで天に持ち帰った水である。」と。

その神の教えを聞いた神武天皇は
「この水でイザナギの命をお祀りして、笹を水に浸して、振りながら進めば霧は晴れるだろう。」と悟って、
その通りにすると、霧が晴れて歩けるようになりました。
そして、「この水で神を祀ると災難が払われる。」と言われました。

イザナギの命はイザナギの命と日本の国や神や大自然を産んだ神です。
その本人がここの水が一番いい水だと言ったのですね。
天の真名井よりチカラが優っているというのですから、すごい水と言う訳です。

神功皇后もここで禊をした。

それから数百年経って、神功皇后もここを通りました。
その水の由来を知って(いた?)皇后はみずから禊をして、皇子の将来を祈られました。
その時に「祈る為には心身を正さなくてはならない」と言われたので、
人々は「糺(ただす)の神池」「糺の森」と呼んで、多田の地名の由来となったという訳です。

江戸時代にも霊験があった。

続きを読むと、この文章を書いた覚念さん自身が
「ここに長く住んでいても、別に霊験などあった事がない、と思っていたら、
不測の事があって、真剣に祈ったらすぐに霊験があったので、神恩に大変感謝した。」
と書いています。         
 (つづく)

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境内の摂社です。





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by lunabura | 2010-05-07 21:19 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(6)

日若神社(3)ここは古代の交通の要衝だった。

日若神社(3) (日少神社)
ひわかじんじゃ

豪華な顔ぶれがここに来た理由。
ここは古代の交通の要衝だった。


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前回までに分かった事をまとめました。

●イザナギの命が「ここの水は自分が産んだ水の中で最高だ」と喜んだ。
●神武天皇がここを通る時、霧で困っていたら、神が現れて、
「イザナギの命が最高の水だと言われた」と教えてくれた。
天皇はそこでイザナギの命を祀って、笹に水を付けて振りながら進むと、
霧が晴れて進む事が出来た。
●神功皇后もここを通る時に、この霊泉で禊をして、皇子の無事を祈った。
●江戸時代に疫病がはやって、この神に祈ったら、「博多から祇園を勧請せよ」と
神託が降りたので、その通りにしたら疫病がすぐにやんだ。
●近くの綱分神社に「ここの水を汲んで来て、その水で清めよ」という神示があった。
●仏僧の覚念さんが困った時に、神道で祈ったら霊験があった。
●これらの事から、時の権力者も、民衆もこぞって参拝した。

江戸時代には参拝者が多かったのでしょうが、
現在は人家もなく、道もこの先で途絶えています。
しかし、2000年以上も前の伝承と聖地と霊水は守られました。

さて、イザナギの命も、神武天皇も、神功皇后もやって来たという、この場所。
なんでだろうという疑問が湧きます。
「庄内町誌」で歴史を調べると分かりましたよ。

ここは古代の交通の要衝だった。
庄内町で人の生活が本格的に始まるのは弥生時代からであり、当時から本町内は豊前地方と筑前地方を結ぶ重要な交通の要衝であったことがうかがわれる。

ここは古代の人の幹線道路だったのです。
しかし、大きな鳥尾山塊の山越えを避けられませんでした。
現代でも、この山越えルートは大切な道です。

古代の旅ってどんな風?

古代の人の交通手段って何だったろうとずっと考えて来ました。
これまで分かった事をまとめると、

陸路は、徒歩か古代馬に乗って移動した。
貴人はお神輿タイプの輿に乗って移動した。
川は小船で行き来した。
海は新羅までいけるような大きな船があった。
となりました。

ところが、本州と九州を行き来する旅となると、いくつかの難所があります。

水路の場合、船で玄界灘を通る時には、関門海峡鐘崎の危険水域を通らねばなりません。
ここでは実際に船がたくさん沈んでいて、その漂着物を拾ったら、誰が貰うかというルールまで、出来ていました。
それほど沈没は多かったのです。それに、船そのものが手に入りません。

陸路を考えた時、
海岸沿いのルートは湿地帯、沼地で歩けなかったでしょう。
特にここ古遠賀湾一帯は葦原の広がるクニです。
リアス式のような岬を回りながらのルートになります。
途中の川も進路を遮ります。

こう考えると、一番確実なのは山を越えて行くルートでした。
自分が古代に「海か山か選べ」と言われたら、山の方がいくらか安全だと思いました。

地図 しょうけ越え 鳥尾山越え 仲哀トンネル 周防灘


このアイコンを左から右に辿ると周防灘に抜けます。これが神功皇后の移動ルートの一部です。
(まだ、この先追加する予定があります。)

神功皇后の祈り

神功皇后もこの峠を越えて、周防灘に抜けて行きます。
皇子もずいぶん大きくなったことでしょう。
(皇子が初めて立ったという神社もあるんですよ。)

彼女の当面の目的地は山口の豊浦宮です。
そこに、夫の仲哀天皇の亡骸が安置されています。
葬儀もまだ済ませていません。

天皇の死が公になったとたんに、皇子は世継ぎ争いに巻き込まれます。
先の后には二人の成人した皇子がいるのですから。
自分の皇子を無事に天皇にするためにはどうしたらいいか、
ありとあらゆるケースを考えているはずです。

彼女が禊をしてまで祈ったのには、そんな背景がありました。

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上の写真は神社のすぐ横の池です。その向こうに日王山と鳥尾山が見えます。
古代も現代も、豊前に行くにはこの峠を越えなくてはなりません。

次回は神武天皇のケースです。






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by lunabura | 2010-05-06 14:20 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(0)

日若神社(4)神武天皇を馬見神社へ連れて行ったのは物部氏だった

日若神社(4)

三つの神社の伝承がつながった
神武天皇を馬見神社へ連れて行ったのは物部氏だった


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神社の境内から入口を写しました。
左の方は道路と池です。

今日は神武天皇のケースを見て行きましょう。

さて、日若神社(2)の神社史の訳によって、神武天皇と馬見の物部末裔の駒主の命の出会いが
書いてある事が分かりました。その部分をもう一度掲載します。
初めてイザナギの命がここに現れたのは、実に人皇第一代、神武天皇の時である。天皇は中州に向かおうとして日向の国から豊の国に行幸された。珍彦(うづひこ)を得て、案内人とした。

天皇は宇佐島から陸路で田河の吾勝野にお出ましになり、兄弟山の中峯で天祖を祀った。時に、馬見の物部の末裔の駒主の命に出会った。天皇の行幸を聞いて、遠くよりお迎えに出掛けて来たのである。

天皇は大変喜んで、駒主の命が献上した駿馬にまたがって、筑紫に行幸された。その家に行って皇祖を馬見山の上に祀られた。

その北麓を廻ってまさに日尾山にやって来た時に、この道は谷が広く深遠で、進路は険しく、ひどく悩まされていた時に、神の出現があった。

日尾山は現在の日王山だったよ。

この神社史を訳すとき、まずは古代の日尾山がどこかを捜さねばなりませんでした。
現代の地図を見ると、この神社の裏には日王山鳥尾山があります。
「日尾山」が「日王山で」はないかと予測して、地元の歴史資料館まで出かけましたが、
あいにく閉鎖されたばかりでした。図書館でも分かりませんでした。

それから、なにげなく『福岡県神社誌』を広げると、
すぐ隣の町の嘉穂(かほ)郡・頴田(かいた)村鹿毛馬字宮の
厳島神社の記事が目に入りました。
おっ。ここにヒントがある!

その由緒書きを訳します。祭神は宗像三女神です。
豊前の国、宇佐島より筑前の国・宗像郡・沖津島に鎮座の時、当村日尾山を越えられたという故事によって、景行天皇の御代に三女神を祀った。

宗像三女神もこの日尾山を越えて行ったという話です。

地図を見ると、この神社が日王山のすぐ近くにありました。
それで、日王山を昔は日尾山と書いていた事が分かりました。

そして、さらにそこの神社史を読むと、やったね!
神武天皇の記事が載っていましたよ。
神武天皇が幼名の狭野(さの)命と言われる時、筑紫を廻ってみるという事で豊前の国からこの村にやって来られた。
馬牧が葦毛の馬を献上し、その馬で嘉穂郡の馬見村へ出掛けられたのを老翁が見送り申し上げた事からこの村を駈馬(かけうま)と言う。鹿毛馬という村の名前の起源がこれである。

「葦毛の馬」とは白色に黒の斑が入った毛色の馬だそうです。
「老翁」とは馬見の物部の末裔の駒主の命の事かも知れません。
そして、はっきりと馬見村へ出かけたとあります。
例の馬見神社の所です。
これで、三つの神社の伝承が補い合えるのが分かりました。

その馬見神社の由緒をもう一度書いてみます。
福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

『筑前名所図会』では
白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。この神、葦毛の馬を忌むという。
この里に飼うを忌むのみならず、他の所から来ても、村の方で留めて置くという。

どうやら、神武天皇の馬がここで逃げたのは、馬が葦毛だったせいで、
きっとニニギノ命が嫌ったからだろうと人々は畏れた訳です。
理由はニニギノ命は白馬がシンボルだったからです。
ストーリーがだんだん見えて来ました。

この三つの神社の伝承をまとめてみましょう。
神武天皇は周防灘に面した豊前の国に行幸しました。
ここで、珍彦という道案内人を得ます。(この人は、後に活躍します。)
次に田川のアガノ(上野?)に行きました。それから山越えをして遠賀川流域にやって来ます。
そこは筑紫です。

その時、馬見の物部氏の末裔の駒主の命が葦毛の馬を連れて来て神武天皇を迎えに来ました。
大喜びした神武天皇は早速馬に乗りました。そして、駒主の命が天祖を祀ってくれている馬見神社まで出かけました。(そこで、馬が逃げてしまって、葦毛の馬がタブーになった。)

それから、廻ってこの日若神社の所までやって来ました。
そして、霧で困っていたのを、神のお告げで、イザナギの命を祀って霊水を振ると、霧が晴れました。


馬見神社(5)
で、そこに誰がイザナギやニニギノ命を祀ったのか、
ヒントを見つけたように書きましたが、
実はそれが、この日若神社の由緒書きだったのです。
答えは物部氏です。
深い縁があって、神武天皇が東征の準備を始めたのを聞いて
はるばると迎えに来たというのが見えて来ました。

物部氏を辞書で調べました。
古代の大豪族。軍事、警察、裁判、刑罰にたずさわった。ニギハヤヒの命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率いた。6世紀半ば、仏教受容に反対。

なるほど、物部氏は、大和政権で重要な位置を占めているのですが、そのルーツがここにあったのですね。
東征を成功させた功績があったから大豪族になった訳です。
のちに仏教が入って来た時は、物部氏はそれまで古来のやり方で天孫を祭祀していたので、
「とんでもない」と反対した訳です。

日子は暦を持つ人ですが、実際に太陽や星を観測して、暦を作っていたのが物部氏です。
(これについては別項で。)

この流域は物部氏の本拠地だと聞きます。
ニギハヤヒの降臨したという山が下流域の鞍手郡にあります。
いずれそちらも逍遥しましょう。

以上、これらの伝承から、物部氏は馬を飼育していた事が分かりました。
そして、天孫を祀る家系で、神武の東征に参加していたと。

さて、古代の馬の写真が欲しいなと思っていたら、
ちょうど西日本新聞に在来種の木曽馬の記事が掲載されました。

日本の馬は小型だったよ。

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木曽馬(長野県)はドサンコ(北海道)、御崎馬(宮崎)と並ぶ三大在来種。
穏やかな性格は人に懐きやすく、険しい山間部で農耕馬として人々の生活に欠かせない存在だったという。
大正時代以降に雑種化が進み、絶滅の危機にひんした。(略)現在全国で約150頭が飼育されている。

サラブレットに比べると、やはり、ずいぶん背が低いですね。
この「さっちゃん」は北九州市小倉南区の市立総合農事センターで飼育されているそうです。

駒主の命が連れて来た馬もこのくらいのサイズだったんでしょうか。


地図 日若神社 鹿毛馬 馬見神社 田川 犀川

次回は神武天皇の結婚についてです。
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by lunabura | 2010-05-05 14:26 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(6)

日若神社(5)姫の名前には古代鉄の暗号が。

日若神社(5)

イスケヨリ姫との結婚の背景
姫の名前には古代鉄の暗号が。


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さて、神武天皇には、アヒラ姫という后がいました。
が、そののち大后を求めて、イスケヨリ姫とも結婚しました。
今日はそのイスケヨリ姫の実家の事情を見て行きたいと思います。

古事記に書いてある彼女の実家。
イスケヨリ姫の家は狭韋(さいがわ)のほとりにありました。
イワレビコノ命はイスケヨリ姫の元にお出ましになって、一夜、共寝をなさいました。
その川を狭韋河と言う訳は、その川辺に山百合の花がたくさん咲いていたからです。
サイとは山百合の花の事です。

のちに、イスケヨリ姫が入内された時に、イワレビコノ命が歌を詠まれました。
「葦がいっぱい生えている所の、粗末な小屋で、
菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、私とそなたと一緒に寝たなあ。」


古事記の岩波体系本の注釈では、
この「サイ河」の場所が分からないと書いてあります。

神武天皇が東征したのが45歳と言われています。
大和を制圧した年齢を単純計算しても60歳を過ぎています。
ですから、サイ河を大和でなく、
東征前の九州で探してもいいと思いました。

面白い事に、この日若神社の山を越えた15キロ位の所に
犀川(さいがわ)」があります。
京都(みやこ)郡・犀川町として地名が残っています。

そこは豊前の国です。地図は日若神社(4)で出しています。
(ピンクのアイコンです。)

さて、古事記では、その続きで
大久米の命が彼女の実家の説明をしています。
「この近くに良い娘がいます。この娘を神の子と言います。
何故かと言うと、三島のミゾクイの娘でセヤダタラ姫という人がとても美しい方で、
三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見染めたそうです。
その姫が川の上に作った厠(かわや)に行って、用を足していると、
大物主神は、赤く塗った丹塗りの矢になって、川から流れて来て、
その人のホト(女陰)を突きました。その姫は驚いて、逃げて狼狽しました。

その矢を床の所に置くと、たちまちに麗しい男になって、
セヤダタラ姫を妻にしました。
こうして生まれたた子供の名前はホトタタライススキヒメの命と言い、
また、ヒメタタライスケヨリ姫とも言います。
これはホトという言葉を嫌って後に名前を改めました。
こう言う事で神の御子と言うのです。」

イスケヨリ姫の名前って何?

彼女の本名はホトタタライススキ姫。
この中に製鉄の言葉が入っています。
ホトは女陰の事ですが、坩堝(るつぼ)の事でもあります。
タタラはフイゴや製鉄炉の事です。
ですから、彼女の名は鉄造りの坩堝のイススキ姫という意味になります。
イススキは狼狽するという意味ですが、
五十鈴の字が当てられています。

彼女の母の名前も坩堝!

彼女のお母さんはセヤダタラ姫です。
これにもタタラが入っています。
『儺の国の星 拾遺』にこう説明がありました。(訳)
泥石といった風化石でなく、金石といった結晶石でもなく、
蝋石(なまりいし)を広く底を浅く彫り出してつくった平皿の、
セヤ(中心をはずした所)に穴を開けた坩堝がセヤダタラである。

蝋石(ろうせき)は、印鑑や灰皿に加工される石です。
セヤとは不安定な状態を指す言葉だそうです。
で、セヤダタラとは、「不安定な部位に穴を開けた坩堝」となります。
御母さんの名前も坩堝姫でした。

三島族の名はオリオン

         その父の名が「三島のミゾクイ」です。                                     
この「三島」も、「ミゾクイ」も、真鍋大覚氏によると、
オリオンの星の事だそうです。
オリオンを三島星、あるいは三諸星と呼んだ、はるかな昔があった。
「しま」あるいは「すま」とは船人の渇きを癒す湧水・井泉のあるところを指した。
「し」は元来は透明な無色の水を表現する胡語(西域民族の言葉)であったが、
倭人は「し」+「みず」で、清水という言葉を造り出した。

ミゾクイ(みそくひ)もオリオンの古称だった。
「そくひ」は栄井(さくい)、すなわち「砂漠の中のオアシス」の事だった。
砂漠の民族には泉が無限の生命の発祥であるという信仰を
天上の星に託して、オリオン座にも同じ名前を付けた。
それを初代の天皇(神武天皇)の后の出身の民族の名にあてた。(意訳)

平たく言うと、
「シルクロードを辿って日本に来た民族にとって、
オリオンの三ツ星は道しるべであり、心の支えでもあった。
オアシスの水もまた心の支えだった。
そこで彼らは、オリオン座にもオアシスの名をつけた。」
それが三島であり、ミゾクイであったという事です。

すると、三島のミゾクイとは、渡来人であり、
オリオンの三ツ星をシンボルとする民族だったと言う事になります。
シルクロードの向こうから来たなら、
ウィグル自治区や、もっと向こうの人たちとなります。

眞鍋氏はオリオンの別の呼び方も覚えていました。
このオリオン座には天秤星(かさみのほし)という名もありました。
その形が昔の工人が仕事の成就を祈って
薪炭と砂鉄の分量を正確に計測していた頃の術語でありまして、
量検星(かさみのほし)とでも書いていたものかとも思われます。
これを約して「かさほし」の名が生まれました。

これは
オリオンの三ツ星を「三笠の星」とも呼んでいた理由を説明したものです。
その「みかさ」は「製鉄の材料のカサを量った事」から来る名前でした。
やはり、製鉄とオリオンは深い関係を持っています。
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オリオン座

こうして、
イスケヨリ姫はオリオンの三ツ星族のるつぼ姫という事になりました。

彼女の実家はシルクロードの彼方から、
製鉄の技術を持って日本に移住してきた民族だという事になります。

神武天皇の一族がこの鉄の技術をもつ一族と手を結ぶには、
その姫と結婚するのが一番穏やかな方法でした。

でもそうすると、鉄の歴史はどうなる?

もし、日本書紀の通りに神武天皇が2600年前の人だとすると、
それより前に製鉄が存在したという事になります。

鉄については稿を改めましょう。
そう、今日は神武天皇の結婚の話なんです。

で、この結婚によって、神武天皇は鉄の武器を手に入れました。
これは政略結婚であり、異民族の融合でもありました。

姫を紹介した大久米の命

イスケヨリ姫はこの男の目を見てびっくりします。
目の周りに入れ墨をしていたのです。
イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして鋭い目に見えるのを見て、
変わってるなあと思って、歌にして、返事をしました。
   「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
   どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」


眞鍋氏はミイラのアイラインと同じだと書いています。
そうすると、クレオパトラやツタンカーメン王のアイシャドウのようなデザインです。
かれは海人族の長でした。
まぶしい海の照り返しを避けるためのデザインかなとも思いましたが、
これも、彼の故郷の中東の風習を残したものと言います。

神武天皇の軍備

こうして、神武天皇は海兵を手にいれました。
東征するのに必要な軍備を周到に準備していたのが見えて来ました。
イスケヨリ姫との結婚もその為のものだったのですね。
でも二人は結婚してからも、仲良さそうですよ。

(『古事記の神々』で、「神武天皇」を訳しました。
天皇の崩御後、彼女は義理の息子と結婚することになります。
それについては「イスケヨリ姫」で見て下さい。)

さてさて、
この神武天皇の足跡は、まだまだこの近くに残っています。
そのうち、神武日記も書けそうですね。

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左が神社入り口。奥の山が日尾山と鳥尾山です。


      ブログでお散歩   さあ、里山を逍遥しましょう。

妻を亡くした後のイザナギの命の伝承を辿るコース
     志賀海神社 ⇒ 多賀神社 ⇒ 日若神社 
神武天皇の足跡をたどるコース
     馬見神社  ⇒ 日若神社 ⇒ 八所宮
神功皇后の帰り路をたどるコース
     大分宮 ⇒ 日若神社 ⇒ 綱分神社 
     (だいぶ)  (ひわか)  (つなわき)


                          (次回は綱分神社に行ってみましょう。)
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by lunabura | 2010-05-04 23:34 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(8)
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