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カテゴリ:朝倉橘広庭宮( 3 )

斉明天皇の筑紫三行宮 長津宮推定地の龍頭遺跡群はゴミ処理場に



斉明天皇の筑紫三行宮
 
磐瀬・長津・橘広庭宮

長津宮推定地の龍頭遺跡群はゴミ処理場に


『日本書紀』の斉明天皇の巻に書かれている磐瀬行宮と長津宮について、
ずっとその場所を探していました。以下はその部分。

斉明7年1月14日。御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
3月25日に御船、環りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居す。天皇、これを改めて名を長津とのたまう。(略…ここに東朝が出てくる)
5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮に遷って居す。

このように、文面では娜大津に磐瀬行宮があり、その名を長津と変えた
としていますが、その理由は書かれていません。


磐瀬宮
先週、書いたように、「磐瀬宮」は遠賀川流域の中間市磐瀬に伝承がありました。
これに関しては近くの水巻町の本、あるいは自動車地図などにも書かれていて、
当地では当たり前のこととして伝わっていることが分かりました。
ただし、現地では史跡としての認識がなく、
JRの線路のために削られたことが判明しました。

遠賀水軍といえば熊鰐を思い出します、天皇家との関係は神功皇后以降
ずっと良好だったことが次の縁起で分かります。

「推古天皇の御代、新羅国が任那に侵入したため、(略)神功皇后の故事に倣って
洞(くき)の海より入港し軍団を整えていたが(略)」
(拙著『神功皇后伝承を歩く 下巻 93豊山八幡神社』より)

豊山八幡神社と中宿神社の宮司は兄弟で、熊鰐の末裔と聞きました。
斉明天皇の少し前、推古天皇の時代にも、新羅と戦うための軍団を
洞海湾で整えていたのです。



長津宮
一方、長津宮に関しての記述は真鍋大覚の本にあります。
昭和57年2月吉日の日付で那珂川町長の大久保福義氏が「発刊にあたって」で
「那珂川には上古は神功皇后、下って皇極・斉明天皇、並びに
後の天武天皇、持統天皇、そして安徳天皇の行宮がありました。」
と書いています。

文中の「皇極・斉明天皇、並びに後の天武天皇、持統天皇」の行宮が
長津宮を指しています。
著者の真鍋大覚自身もそれは那珂川町の「梶原」にあったと記述しています。



三つの宮

『日本書紀』に書かれている行宮名の変更の理由が不明である事、
中間市の「磐瀬」(磐瀬宮)と那珂川町の「梶原」(長津宮)が、
それぞれに行宮の伝承が持つ事から、書紀の編者が福岡の土地勘がないため、
二つを混同して書いたのではないかと考えるようになりました。

これに加えて「朝倉」という、戦いには不向きな立地に
「橘広庭宮」を建てた理由も明らかにはなっていないのですが、
各地をフィールドワークし、伝承や神社縁起を紐解いた結果、
次のような状況を推理しました。


筑紫入りした斉明天皇一行は神功皇后の故事に倣い、
遠賀川流域で熊鰐の末裔、岡の県主の率いる遠賀水軍の軍備の謁見と祭祀をした。
その時の行宮が中間市磐瀬である。

それから那珂川町に遷ろうとしたが、
地震で建造物が倒壊したために中間市で足止めを食らう。

那珂川町の長津宮の代わりに、急きょ、朝倉にあった安曇族の聖地が
行宮に仕立てられた。

朝倉で安曇族は倭王朝の副都的な施設があったのを再編し、
東朝の百官百僚の受け入れ態勢を整えるために、
マテラ山の木を切って天皇の住居建設が行った。
(東朝とは『日本書紀』によると、斉明天皇の朝廷を指す。)

建設が終わると斉明天皇は朝倉入りをする。
そして、天皇は唐・新羅軍と戦うために神功皇后の旧跡を回って戦勝祈願をするが、
そのうちに病になってしまった。

中大兄皇子が母の病気平癒の祈願を朝倉や佐賀市吉野でするも、空しく天皇は崩御。
皇子は木の丸殿で12日間のモガリをした。

そうするうちに、那珂川町の行宮が完成し、中大兄皇子は本格的に長津宮入りをする。

ありなれ川に関しては通行が不便だったため、水城に閘門をつけて運河にして、
潮の満ち干に関係なく往来できるように工事をさせた。

以上が三つの行宮をつなぐ推理です。




龍頭遺跡群
あとは那珂川町に行って、梶原の「龍頭遺跡群」の地形を確認すれば良いだけでした。
「龍頭」という地名は天皇と関わりのあることを示唆しています。

現地入りに当たって地元の方に案内をお願いしましたが、
この「龍頭遺跡群」については資料館でもすぐには分からなかったと言われました。

しかし、那珂川町の出した資料によると、
次のような巨大な柱跡を発掘しているのです。

c0222861_219295.jpg

弥生時代と奈良・平安の複合遺跡で、写真の建物跡は奈良・平安のものです。
3間×3間で、一辺が8メートル。正方形なので、お堂でしょうか。
中大兄皇子が母の菩提を弔ったとも推測できます。

それにしても柱が巨大です。瓦は出土していないのでしょうか。


これはかなり重要な遺跡です。
どのように保存されているのか、楽しみだったのですが、
案内されたのは次のような建物でした。


c0222861_2192970.jpg

遺跡はゴミ処理場になっていた。(´・ω・`)

敷地のどこにあったのかも分かりませんでした。


せめて、このコンクリートの上に柱跡をペイントして遺跡の案内板を出してほしい。
建築物の想像イラストを描いてほしい。
そう思いながら周囲の写真を撮りました。



c0222861_2194935.jpg

眼下に安徳南小学校と那珂川南中学校。正面の向こうは博多湾。
これからの戦いに相応しい陣地です。

たぶん学校の敷地に長津宮の本体があり、
龍頭遺跡群は祭祀や仏事のための聖地だったのではないかと思われました。


せめて、この遺跡を忘れないでいてほしい。

この遺跡は博多の海から出港する船団を見届けたのです。
中大兄皇子もここに立って見送ったのかもしれない。

そして多くの船は二度と帰りませんでした。




龍頭遺跡群





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by lunabura | 2015-11-12 21:17 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(2)

宮野神社(3)三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」


宮野神社(3)
朝倉市宮野
三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」


前回、朝倉市の宮地嶽神社と宮地嶽古墳を紹介しました。

この神社と古墳を抱く宮地嶽(120m)の南に開けた小平野があり「宮野」と言います。
その一角に宮野神社と別所神社があり、過去記事で紹介しました。

宮野神社(1)斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮
http://lunabura.exblog.jp/22100319/

別所神社(1)中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った
     http://lunabura.exblog.jp/22119354/

別所神社(2)「皇居の辺」なる清浄の地
 http://lunabura.exblog.jp/22126791/


宮野神社では鎌足に大己貴神を祀らせて、勝利祈願をしています。
これは神功皇后の先例に見倣ったものと思われます。

神功皇后は大己貴神社(上巻42)と大神神社(下巻68)でそれぞれ大己貴神を祀って神助を得ています。

ところが、別所神社の祭祀の主体者は中大兄皇子となり、祈願内容は病気平癒です。
切迫した状況が伺えます。

別所神社が「皇居の辺」にあったという言葉から、橘広庭宮はすぐ近くにあったことが分かりました。
中大兄皇子は、自分自身で祈願するために皇居から近いところを選んだということです。




そして、この別所神社を含む900m×900mの都を想定して、以下の図を描きました。

c0222861_2154446.jpg


この記事を書いた段階では、結論を持っていなかったのですが、風水上から、宮地嶽神社を北に抱くのを最良として、「宮野説」を結論づけました。

これを昨年(2014年)の久留米大学生涯講座で発表したのですが、それに関しては全く反応がありませんでした (^_^;)


ま、タイトルは「古代筑紫を貫流した ありなれ川」で、眞鍋大覺の伝承を紹介したものでしたし…。一時間半の中、最後の30分で、宮野説を話したので、サラリと成りすぎたかな?


この「橘広庭宮」の所在地に関しては福岡でもあまり興味を抱かれていないのも、肌で感じます。歴史が奈良や京都の事だと刷りこまれている洗脳がなかなか解けないのも一因だと思います。



でも、神功皇后と同じく、斉明天皇と中大兄皇子の足跡を伝える宮があるのも事実です。ただ、神功皇后は130社ほど採取したのに対し、斉明天皇親子は十数社です。



それでも、『日本書紀』を裏付け、そして補う歴史が展開したのを、神社縁起で推し量る事が出来ます。
以下は過去記事に田手神社を追加したものです。

「朝倉橘広庭宮を探せ」
http://lunabura.exblog.jp/22149931/

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)(下巻53)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊
○月○日 田手神社で祭祀。(向津媛
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


赤字は祟り神として位置づけ、斉明天皇の病気後に祀ったと仮定しました。


さて、広庭宮の場所の話に戻りましょう。

るなは「宮野説」です。「宮野」という地名もまた宮があったことを示唆しています。

 朝闇神社説を確認するために現地に行くと、高木神が祀られていたので、大変驚きました。この神は祟りです。新羅戦を前にして仲哀天皇にも祟った怖ろしい神です。

これを北に奉じることは有り得ないと思いました。また、発掘調査でも寺院あとしか見つからないようです。

これに対して、新羅と戦って勝利を得た女神が宮地嶽神社に祀られているのです。それが神功皇后。
その神威を受けたイヤシロチこそ風水上、ふさわしい土地です。それが宮野です。

そう気付いてから、現地を確認して、その正中線に立ってみたい。そう思ったのですが、思いを遂げる日が、宮地嶽神社の三か月後に訪れました。



「宮野神社に三階松があるんですよ」
と、驚きの情報をくるま座さんが言ったのです。

宮野神社は上記のように、一度参拝して、ブログでも紹介したのですが、「三階松」には気付きませんでした。
これこそ、福津の宮地嶽神社の神紋であり、九州王朝の紋。

宮野神社には筑紫舞の絵馬もあるらしいです。天子の森にはそのオブジェがあります。(ルソン足をしている)

それまで、朝倉と福津との繋がりが分かりませんでした。でも、「三階松」があれば、すべては繋がります。





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宮野神社から宮地嶽を撮りました。いつも、神功皇后を仰ぎ見ることになります。




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そして、正面に見える所まで移動しました。


ここに橘広庭宮が建っていると考えると、ゆったりとした平野がひろがって、神名備山を抱く、ふさわしい立地条件です。

この土地を提供したのは、前記事では鎌足の一族かと思いましたが、今では安曇族だろうと思っています。



その証しが三階松紋ですが、それだけでは弱いなと思って、地元の歴史マップを見ていたら、近くに「志賀様の大楠」という巨樹が描かれていました。

これは斉明天皇が志賀大神を祀った跡だそうです。
志賀大神とはもちろん綿津見三神のことです。
安曇族が桂川を遡って船を着ける舟着き場に祀ったのでしょう。

これで、安曇族がここまで上がって来た裏付けが取れました。

ちなみに、安座上姓は、朝倉で天皇から授かった安曇族だそうです。
上座の安曇族という意味でしょうか。(上座とは朝倉の一部)

時代も、どの天皇かも、聞いていませんが、この「宮野」を提供して建造に関わった功績を称えられたのではないかと、ひそかに思っています。



橘広庭宮推定地






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by lunabura | 2015-10-10 20:15 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(4)

宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)・斉明天皇は神功皇后に祈った・卑弥呼と神功皇后は?


宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)

朝倉市宮野
斉明天皇は神功皇后に祈った
卑弥呼と神功皇后は?

前回は宮地嶽(120m)の中腹にある湯の隈装飾古墳を紹介しました。

宮地嶽神社はその頂上にあります。道は農道で、最後は切り返しながら急斜面を上がりました。案内人がいなかったら、分からずにグルグルと回ったかもしれません。


車は宮地嶽神社の裏側に到着しました。




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正面です。








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朝倉市は神社の説明板が何処も充実しています♪説明板を見て大変驚きました。




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御祭神が神功皇后・勝村神・勝依神なのです。
前回も書いたように、総本山の福津市の宮地嶽神社と全く同じ祭神なのです。
(勝依は福津では勝頼)






神功皇后は西暦200年頃の人。(まだ、他の時代の証拠が見つかっていない)

勝村・勝頼筑紫君・葛子の子ですから、西暦500年代の後半以降に活躍したと思われます。福津の宮地嶽古墳に埋葬されました。その古墳は7世紀前半~中頃と言われています。円墳です。



ここ、朝倉の中腹にあった湯の隈古墳の古墳は6世紀後半築造。円墳です。
被葬者が500年代前半から後半にかけて活躍したとすると、磐井の乱を子供のころに見て、葛子や勝村・勝頼の活躍を見届けたのかも知れませんね。

中腹という位置関係から、この被葬者は頂上の宮地嶽神社を守る役目があったのではないかと推測しました。宮地嶽神社は安曇族ですから、ここは安曇族の聖地とも考えた訳です。






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そして、頂上からほんの少し下がった所に宮地嶽古墳がありました。



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これは前方後円墳。




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朝倉の平野を見渡す絶景ポイントを押さえています。


未発掘ですが、埴輪などが見つかっているもよう。時代は4世紀後半とされています。
この時代は、謎の4世紀と言われ、どうなっているのかよく分かりません。



この4世紀に神功皇后を持ってくる研究者は多いですが、国乳別皇子や高良玉垂命の廟の付近から出土するのは弥生時代のもの。(下巻57弓頭神社)綱分神社(下巻86)から出土するのも弥生時代のもの。

神功皇后伝承地の出土物には気を付けているのですが、古墳時代の決定版は見つかっていません。


4世紀説の根拠とされていると思われる、石上神社の七支刀は複製品だということが分かったので、決め手にはなりません。肝心の年号の部分が削られているのも紹介しましたね。



卑弥呼と神功皇后は どう違う?

ちなみに、200年説を採って、卑弥呼=神功皇后という説をメールで送って来られた方があります。忙しい時で、直接返事が出来ませんでした。ここで解答しようと思います。

二人はキャラクターが全く違います。

卑弥呼は一生独身で、人にも会わなかったのですが、神功皇后は天皇の后として、どんどん人前に出て行動しています。

化粧している姿が目撃されたり、馬に乗っている姿も目撃されています。出産もしているし、香椎潟では海に入って禊をしていて、男のヘアースタイルに変えるというパフォーマンスも見せています。(下巻67番御島神社)

卑弥呼は中国の後ろ盾が必要で、狗奴国と戦っていました。
神功皇后は夫に代わって新羅と戦い、侵略を防いだという点も全く違います。

卑弥呼は最期は「自死」と書かれていて、これは自害するという意味だと言う方もあります。非常に孤独な人生でした。




話が逸れました。朝倉の宮地嶽古墳の話に戻りましょう。

この前方後円墳の被葬者がどんな氏族だったのかは、分かりません。

安曇族がこの時代にこの山を掌握していたのか、分からないということです。4世紀なら、水沼水軍の訓練地が近いことから、まだ水沼族の支配下だった可能性もあります。あるいは他の氏族の可能性も。


斉明天皇

そして、ここに参拝に来たのが斉明天皇です。橘広庭宮に到着した翌日に、この神社に参拝して戦勝を祈願したと言われています。

『日本書紀』からは、661年5月10日という事になるので、緑豊かな初夏でした。もちろん、天皇が祈った女神は神功皇后です。

そして、斉明天皇は三日目には福成神社(下巻53)で参拝しています。祭神は三女神ですが、神功皇后の足跡を辿って神功皇后にあやかろうとしているのがよく分かります。

斉明天皇もまた新羅と戦わなくてはならない状況に追い込まれました。この時は唐軍との連合軍となります。神功皇后の神助を心から願ったことでしょう。

そして、この時は、斉明天皇もまだまだ元気だったのでしょうが、このあとわずか二か月後、7月24日に崩御となります。







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by lunabura | 2015-10-08 23:31 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(12)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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