ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:メモ( 13 )

三星堆―古蜀国―イ族 



三星堆―古蜀国―イ族 




秘境中国謎の民「天頂に生きる」(NHK)の再放送があった。初回も見たのだが、これが驚いたことに、三星堆(さんせいたい)の遺跡を生んだ人々が追われて山の上に住むようになった話だった。

あの「三星堆」をタイトルに何故入れなかったのか、不思議で仕方がない。今日見ていても、惜しいと思われてならなかった。「三星堆」なら、誰でも見たいと思うのに。







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「三星堆」の巨大な青銅の像は数年前に九博にも来ていたので、その裏もじっくりと観察したことがある。これほどの技術を持った人たちはいったいどうなったのか。テレビではその答えが見事に説明されていた。








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三星堆は古蜀国にあった。
繁栄していたため、紀元前316年にその富を狙った秦に攻められて移動し、次には諸葛孔明に攻められて移動、と何世紀もの間、幾度となく攻められて逃げていった人々が「イ族」だった。
今は登山に6時間はかかる山の上に住んでいる。








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紀元前4世紀ごろの文字を今も伝えているイ族に三星堆の出土物の文字を読んでもらうと、読めるのだ。

人が亡くなると、その魂は三つに分かれるという。

一つは天に。一つは守護霊となって村に。そしてもう一つは元々住んでいた国に。

神の声を聴くピモが死者にそこへの道筋を教えるのだが、それを辿ると三星堆がある古蜀国につくという。









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祭りの時の娘の頭にはあの「かふり」がある。
そう、埴輪女子が被っている例の「かふり」だ。
上着も無地なら埴輪と同じ打ち合わせ方。

顔も日本人そっくりだね。



蛇足だが、熊本にイ(井)さんが集中する町があるという話を思い出した。






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by lunabura | 2017-12-10 20:46 | メモ | Trackback | Comments(0)

ウェールズの音楽は二進法



ウェールズの音楽は二進法




先日、関口知宏がイギリスの汽車の旅をする番組の再放送があっていた。

途中、ウェールズに立ち寄ってハープ奏者と出会う。
ハープ奏者は男性だった。

原始的なハープが出されたが、
忌宮神社で弾かれる琴と同じような大きさだった。
ノートパソコンより少し長いもの。

古代日本でも琴は男性が弾くものだったことを思い出した。


それから現代のハープが奏でられたが、その音色を聞くと、
妖精が飛び出してくるのではないか。
ハープとは妖精を呼び出す楽器ではないかと思われた。

その男性いわく、
ウェールズの音楽は二進法だという。

0と1。

それが意味する物は
「宇宙」と「地球のうつろう一瞬」
そのような意味だったという。

永遠と刹那(せつな)ということだろうか。
地球のすべてのものは一瞬たりともとどまらない。

ウェールズの音楽は、だから、
宇宙への呼びかけということになるのだろう。



真鍋大覚は、神籠石(こうごいし)は「0」と「1」で出来ているという。
ウェールズと同じ思想だ。

神籠石(正しくは「八葉の石畳」)の謎のヒントがここにあるのかもしれない。


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by lunabura | 2017-08-18 21:38 | メモ | Trackback | Comments(0)

古代の銅と鉄の話を聞きに



今日は古代の銅と鉄の話を聞きに行ってきました。

面白かったし、全体の流れとか、遺跡の名前とか、
沢山のことを知りました。

工学的な話と考古学そして私の伝承学(?)がどう繋がるのか、
が課題なんだなと、これからの目標も明らかになりました。

面白かった点、また疑問に思った点など、メモしておこう。

メモ
紀元前9世紀、ライン川やドナウ川上流域でケルト人がリモナイトを製錬していた。
(ケルト人はリモナイトで鉄を作ってた!)

阿蘇山のリモナイトと「火」を使った痕跡は
鉄のためでなく、ベンガラ生産のためである。
(ベンガラの需要がそれほど高かったのだろうか)

長登遺跡の銅精錬遺跡の「長登」という地名は
「奈良登り」と言って、奈良の大仏に銅が運ばれたことからついた
という伝承があったが、それが鉛同位体の調査やヒ素含有量、
木簡出土で証明された。
(奈良の大仏の銅は香春岳のものが一番多いと文献で見たが、
その話は出なかった)

弥生時代の銅の原産地は鉛同位体の比較の結果、
中国大陸か朝鮮半島のもので、日本では生産されなかった。

鉄の歴史は隕鉄から。ニッケルの含有量で判別できる。

組織的な金属生産は倭国ではなく日本国の時代から。

倭人はリモナイトではなく、磁鉄鉱(砂鉄)を製錬した。
世界的にも珍しいケース。

鉄が先か銅が先かは古来から論争があった。


などなど。







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by lunabura | 2017-07-08 23:26 | メモ | Trackback | Comments(0)

「弓削」(ゆげ)の話と「中西」の話



「弓削」(ゆげ)の話

「中西」の話

 


弓削の道鏡が建立した由義寺(弓削寺)跡が発見されたという
2017年2月13日の新聞記事をテーブルに置いたのですが、
先日歴史カフェでいただいた久留米市の文化財マップを
整理しようと手に取ってビックリ。


「弓削・北野地区」のタイトル\(◎o◎)/!

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「弓削」と「弓削の道鏡」!

これはいったいどういうシンクロ?

実は高良山に仏教が入り込んだ白鳳二年(673)。

この時、高良山の支配は安曇から物部に変わるのですが、
この物部氏が何故か、のちに武内姓を名乗るようになるのです。

武内宿禰は智将として人気があるとしても、
姓が変わるのはよほどのことと考え、

物部氏の社会的な事件が関わった可能性を想定したのですが、
この二つの資料が並んだ時、弓削氏から考えるようにと
示唆された思いがしました。

白鳳二年に出家したのが隆慶ですが、その母が弓削氏なのです。
つまり、物部氏と弓削氏はここで通婚しています。

この弓削氏だった母も白鳳7年に出家します。
正覚寺を営むとあるので、その寺は久留米で探さないといけないのですが。
(誰か教えて…)

弓削の道鏡が孝謙上皇の病を完治させたのが761年。
隆慶の母が出家した白鳳7年は678年。

弓削氏においては仏教は、道鏡より筑後の方が百年も早いことになります。

百年後の弓削道鏡事件がきっかけとなった可能性、ありますね。

少し時間を掛けて精査したいと思います。
今日はアイデアを忘れないために φ(..)メモメモです。





さて、明日は飯塚での古代史講座です。
神功皇后の話もいよいよ渡海準備の段階になります。
いわゆる三韓征伐ですが、簡単には行けないのですね。

住吉族と安曇族との交渉、
軍事訓練、
決意のパフォーマンス、男装の美豆良結い、
複数の出港地説、寄港地説などを整理します。

神功皇后が渡海の時、「この風は何か」と尋ねると、
「中西」と答えたことから、その水手(かこ)に
「中西」と名乗るようにと告げた話があります。

これがよく分からなかたのですが、
赤間の喫茶店で筥崎宮の氏子さんが突然教えてくれたのです。

「志賀島から朝鮮半島に一気に渡ることが出来る風が吹く季節があり、
その風を中西というんですよ」と。

つまり、魏志倭人伝に出てくる、楽浪郡から糸島に至る航路の
抱える問題が解決したのです。

朝鮮半島から倭国に渡るのは簡単なのですが、
逆のルートは潮流が邪魔をするので、倭国から半島に行くのは難しいのです。

しかし、一年に数日だけ吹く「中西」を捉えたら簡単に行ける!
こうして、不思議な廻り合わせで謎が一つ解けました。

それは学説では出てこない生きた歴史ですね。
伝承とは私たちに伝えてくれる知恵でもあります。

明日は、スポット参加も出来ます。
興味のある方お待ちしています。





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by lunabura | 2017-02-15 21:23 | メモ | Trackback | Comments(26)

白鳳元年と白鳳二年



白鳳元年と白鳳二年




「白鳳年号」は正史には登場しない。
九州年号と言われている。

現在、『高良玉垂宮神秘書』の抜粋版を推敲している最中だが、
白鳳年号がいくつも出てくる。

白鳳二年に高良山では大事件が起こっていた。

それまで大祝として祭祀を務めていた物部氏の美濃理麿保続に
高良大明神が垂迹し、
「我は発心して高良大菩薩となる。俗体は保続に譲る」
と告げたというのだ。

そして、保続は訪れた修行僧の教訓を受けて出家してしまう。

それまで、仏教を受け入れなかった高良山に、ついに
仏教が入って来たという大事件が起こった年が白鳳二年だ。

この年は癸酉(みずのととり)とも書かれていることから、
西暦673年の事と特定できた。

この673年の事件について、「白鳳二年」と記す条のほか、
「白鳳十三年」と記す条が出てくる。
後者は「二中暦」で書かれていることが分かった。

また、同年を「天武天皇即位二年」と記述する条もあり、
あれこれと調べた結果、どれもが正解で、
673年を寺社暦では「白鳳二年」、二中暦では「白鳳十三年」と計算していた。

高良山では、混乱を避けるために、この年を
天武天皇即位二年「癸酉」とも書き、
表記に工夫をしていることが分かった。



さんざん「白鳳年間」のことを調べた結果、頭に焼き付いていたので、
今日、朝倉の恵蘇八幡宮を読みなおして、
ここにも「白鳳」の年号が出ていたことに驚いた。


その概略は、中大兄皇子がここに天降八幡社を創建したが、
天武天皇白鳳元年に社名を恵蘇八幡宮と変えたという。

ここでも「白鳳元年」という寺社暦が使われていたのだ。



恵蘇というのは恵蘇星といって、シリウスを指すが、
これはベツレヘムの星でもあり、
エソ、ヤソという連想を古代でも持っていたことが真鍋から読み取れる。


当時でもバタ臭い名前に変更したのは誰か。

それが天武天皇の勅命だという。



その翌年、高良山に仏僧が入って、大祝が出家してしまったのだが、
天武天皇の差し金ではないかと、漠然と思うようになった。


つまり、高良山への刺客だ。

神道の山に寺院が建てられるようになった。
この時、安曇と物部の高良山での棲み分けは終了し、
高良山は物部一色となる。

白村江の戦いでの敗戦が大きなきっかけに違いない。

天武天皇はあの竈門山(かまど)に宝満山と名を変えさせてもいる。

戦後処理という言葉ではニュアンスが多少違っているが、
天武天皇が筑紫の古い形態を書き換えようとした
痕跡が見られる「白鳳年間」である。




827の歴史カフェは「高良玉垂宮神秘書」ですが、
主にこの白鳳二年より以前の内容になります。

白鳳二年に関しては、少々触れる程度になります。





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by lunabura | 2016-08-20 22:56 | メモ | Trackback | Comments(0)

二人の玉依姫の違い


二人の玉依姫の違い



玉依姫は歴史上、複数いるようですが、
当ブログによく登場するのは海神豊玉彦の姫神である玉依姫です。

豊玉姫の妹に当たります。
夫はウガヤフキアエズ。

神武天皇を生んだことから、国母とされている女神で、
発音はタマヨリヒメ、タマヨリビメと複数見られます。
残念ながら、具体的な伝承の地にまだ出会っていません。



もう一人、玉依姫がいますが、それは賀茂建角身の姫神です。
この玉依姫の夫は「丹塗り矢の化身」で、「火雷神」です。

この賀茂氏の建角身八咫烏となって神武天皇を導いたということから、
二人の玉依姫の時代が意外にも近いことが分かりました。


この話はかつて浮羽市の賀茂神社で学んだのですが、
あまり呑み込めていなくて、
唐津市七山の賀茂神社の縁起を見て、ようやく理解できるようになりました。





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玉依毘媛(正しくは毘売)と書かれているのを見ていると、
多分、昔から、「海神」と「八咫烏」、どちらの玉依姫なのか混同するので、
「毘売」ビメの字を当てられているのではないかと思いました。









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「海神・豊玉彦」の娘は玉依姫。
「八咫烏・賀茂建角身」の娘は玉依毘売。
こんな書き分けが便利でよさそう。


神武天皇と建角身は同時代。
建角身が自分の娘に、神武天皇の母の名前を付けたのかもしれない、
と考えたけど、どうかな~。






それにしても、パソコンを変えてから、
系図を描いていたソフトが二つも使えなくなって困っています。
上の画像はワードで描いているので、「→」がついています (^^;

誰か、いいソフトご存知ないですか?







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by lunabura | 2016-07-10 22:12 | メモ | Trackback | Comments(0)

フツ餅とフツの御魂



フツ餅とフツの御魂



剣の話は魅力的だ。

本来、武器として進化したものが、神剣となって、
その霊力を崇められるのだから。
これは日本独特の文化だろうか。

ヨモギ(蓬)を「フツ」というそうだ。

「鞍手ではそう言った」とコメントが入り、
佐賀、あるいは長崎、大分、熊本、鹿児島、沖縄と
その単語圏が広いことが分かった。

その言葉は「フツ餅」「フツ団子」という形で残っていた。

薬草としてのヨモギの力は、現代でも人々を癒す。


この「フツ」という言葉を武門の雄たる香月氏の拠点で聞いたのだから、
私に限らず、誰しもが「フツの御魂」を思い浮かべたことだろう。


奈良の石上神宮では「フツ」の神剣の霊力をこのように伝えている。

フツの御魂(みたま) 武甕雷神の持つ神剣「フツの御霊」の霊威
フツシ御魂     素戔嗚尊がヤマタノオロチを退治した時の「十握剣」の霊威


物部氏は「二柱の神」の持つ神剣の霊威を崇めた。
武甕雷神や素戔嗚尊と物部氏はどう結びつくのだろうか。

物部氏の関連の宮のなかに、
素戔嗚尊を祭る所を何か所かで見かけて不思議に思ったことと繋がった。

賀茂氏と物部氏の縁。
出雲と物部氏の縁。

剣を追えば、また何かが見えてくるかもしれない。

これまでは剣を造る工人と素材に目が行っていたが、
武器としては使えない七支刀の謎を追っているうちに、
「ヨモギ」や「ヒカゲノカズラ」など、
植物に込められた倭人の精神世界に足を踏み込む自分がいた。

これも多分、長い旅になるのだろう。





コメントを下さった皆さん、ありがとうございました^^




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by lunabura | 2016-05-15 20:46 | メモ | Trackback | Comments(2)

神功皇后、卑弥呼、アマテラス・スピリチュアルの弱点



神功皇后、卑弥呼、アマテラス

スピリチュアルの弱点


見えない世界、スピリチュアル。
この精神世界は、私たちが生きていく側面の一つです。

その世界に気づくと、
人生が不可思議に満ちていて、
精霊や神々から、あるいは見えない縁から導かれていることを
深く感応するときがあります。

例えば、
ずっと内に響く名が、日本神話に書かれていたことに気付いたり、
あるいは、どこかの神社に祀られているのに気付いたり。

そういう体験をすると、神社を巡って、
神話を学ぼうとすることがあります。

ネットでなら、キーワードを入れて、ネットサーフィンをします。

ところが、誰かが書いた事のコピペが繰り返されていくうちに、
だんだん実態から離れていったものが、ネットで広まっているのではないかと
懸念されるケースがいくつかありました。

今回はタイトルに挙げた三人(神)のケースを取り上げましょう。
次は、誤解されている例です。

〇神功皇后と卑弥呼は同じ人
〇卑弥呼とアマテラスは同じ人
〇卑弥呼には三代目がいる

間違った情報が心に最初に入ると、覆すのが大変です。

歴史は厳然としているので、
原典(出典)を押さえておくと、正しい推理をすることができます。
この問題に気付いたので、私自身も腰を据えて
古代史を歴史観点から学び始めた訳です。

このブログの読者は、多分、この問題に気付いた方々だと思います。

そして、
真実が知りたい
ってね。


今日は、この三人(神)について、簡単に整理しましょう。

1、神功皇后(息長足姫)
 『日本書紀』や『古事記』に出てくる女性で、仲哀天皇の皇后。
仲哀天皇の崩御後に、摂政となる。
中国正史には、神功天皇と書かれている。

子供がいる。崩御した夫の代わりに三韓攻撃の旗頭に持ち上げられる。

『日本書紀』は神功皇后を倭の女王・卑弥呼として描きたいために、
西暦248年に100歳で亡くなったように書いている。

神功皇后の年代について、綾杉の考えは今の所、
物部系の真鍋大覚の口伝を採って、
神功皇后摂政元年を西暦200年としている。


2、卑弥呼
中国の正史『後漢書 倭』や『三国志 倭人』に出てくる女性。
倭国の女王。鬼道に仕えるシャーマン。生涯独身。
弟以外には、誰とも会わなかった。

中国との交渉があり、狗奴国と対立していた。
西暦248年自死。
子供がいないため、二代目に一族のトヨ(イヨ)が跡を継ぐ。

正史には三代目の記述はないため、三代目の存在を語る場合は、
個人的な想像として、語らねばならない。
 

3、アマテラス
『日本書紀』や『古事記』に出てくる神。
天照大神、天照皇大神、など表現が違えばやはり違うものを指す。
男性神と女性神があるので、注意すること。

女性神の場合、岩戸籠りをしたり、機織りをしたり、武装したりしている。
一応、五人の男子の母。孫にもアドバイスをしたりしている。
のちには、高木の神と一緒に高天原を経営する。

男性神とする氏族もあり。

こんな感じかな。

神功皇后と卑弥呼を同一人物とするのは、『日本書紀』に謀られた人。
私も危うく騙される所だった。(^^;

卑弥呼とアマテラスと同一人物にすると、困ったことになりますね。
アマテラスが3世紀の人物となり、
子孫である天皇家より後に生まれたことになってしまいます。

アマテラスを男性神として信仰する氏族にとっては、
卑弥呼(女)=アマテラス(男)となって、無理な話になります。

以上、三人(神)は人生も属性もキャラクターも別ですから、
分離して捉えましょうね。





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by lunabura | 2016-04-10 17:21 | メモ | Trackback | Comments(5)

斉明天皇行宮の磐瀬宮あと 中間市編



斉明天皇行宮の磐瀬宮あと 

中間市編


斉明天皇の磐瀬宮は福岡の何処だろうか。

数年前から、ミキさんの情報で中間市にその伝承があると聞いていて、
ようやく『中間市史』で確認できた。

地名が分かるようにと道路地図をコピーしてみると、なんと
「斉明天皇行宮の御館山」と赤字で記してあった。\(◎o◎)/!

その場所はJR中間駅の西。たぶんプラットホームから見えているはず。
鉄道工事のために山の側面を削り取られたという。

以下、『中間市史』中間地名考より
御館
斉明天皇行幸の地と伝える御館山は、中間と岩瀬の両区に跨っており、そこに接して行幸ノ尾(みこのお)という名の字がある。

この御館の地は岩瀬と近接し、以前は岩瀬村に属し、斉明天皇行幸の史跡として伝承が残されている。

明治24年筑豊鉄道の布設工事によって、山の側面を削りとられ、その崖下に中間駅が設置され今は周辺200メートルほどの小山である。

この御館山頂には約40平方メートルの平地があり、そこに斉明天皇を祭る御館社があったが、長い間の風雪に取りこわれたままになり、今は石祠のみが岩瀬の正覚寺観音堂の境内に祭られてある。

古くはここに大歳社、猿田彦を祭る石祠もあったが、鉄道布設のときに取除かれてしまった。そのときの工事中に官服を着た埴輪。また古く山麓から石棺とともに石剣が発掘されている。

この御館山のことを通称、月見山と呼び、その麓から岩瀬に通ずる大道があった。今に行幸縄手と称している。



念のため、中間市のHPで岩瀬宮の記述がないか閲覧したが、全く記述はなかった。

歴史民俗資料館にかつて行った時にも展示は無かったと思う。

まさか、地元で忘れ去られているのだろうか。
忘れられていなかったら、鉄道をほんの数メートル移動して
削らずに済んだはずだ。



ここは遠賀川流域の氾濫原の中にある丘だ。
対岸には仲哀天皇と神功皇后が停泊した埴生神社がある。

百済応援の軍勢を出した所と想定している地域で、
装飾古墳には馬の背に立って弩を射る武人が描かれていた所だ。

古代の交通の要衝で、強大な豪族がいたと思われる。


ここには斉明天皇だけでなく、中大兄皇子の伝承も伝わっている。
資料が見つかったら続きを書くことにしよう。

中間市とはどこか。
高倉健の出身地といえばお分かりだろうか。


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             ー遺跡の破壊は許さんー



御館山か?





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by lunabura | 2015-11-04 21:50 | メモ | Trackback | Comments(6)

ニギハヤヒと市杵島姫の関係


饒速日尊と市杵島姫の関係



先日、メールで
「饒速日尊と市杵島姫の関係を教えてください」
とお尋ねがありました。
これに関しては「鞍手町誌上巻」に書かれている内容しか知らないので
それを読んでくださるように答えました。

実は、そのメールの数時間前、書類整理をしていて、
お尋ねの系図を解読してメモ書きしたものを見つけたばかりだったので
ヒヤっとしました。



町誌に書かれた文は「香月文書」を解釈してまとめて書かれたものなので、
主語が分からないという難点があります。


取りあえず、町誌を解釈して、本物と出会った時の準備をしておきましょう。
以下、該当部分を書き写します。


香月文書と小狭田彦

さて小狭田彦(長田彦)伝説については香月文書に次のようにある。
小狭田彦は本名が常磐津彦命といい、饒速日尊の御子の天ノ照日ノ尊の十五世の末裔という。しかも天照日尊が宗像の中津宮の市杵島姫命との間にできた御子神の後というから、宗像神話とも関連がある。


まず
「小狭田彦は本名が常磐津彦命といい、饒速日尊の御子の天ノ照日ノ尊の十五世の末裔という。」
から次のような系図が書けます。

c0222861_23564273.png




次に
「しかも天照日尊が宗像の中津宮の市杵島姫命との間にできた御子神の後」
からは次のような図となります。

c0222861_23572174.png


これを合体するとこうなります。




c0222861_23575336.png


ニギハヤヒと市杵島姫の関係は上図のようになります。
でも、香月文書で確認しないと何とも言えません。
また、大穴貴との関係も確認しないといけませんね。

いかがでしょうか。
答えになりましたでしょうか。









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by lunabura | 2015-11-04 00:00 | メモ | Trackback | Comments(1)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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