ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:「ひめちゃご」( 85 )

ひめちゃご81 タギツ 石占い




ひめちゃご81 
タギツ  石占い
 


2016年12月5日 結願3

シンロンの次に現れたのも女性だった。

崋山の顔を見て、菊如がクスっと笑った。
「オタフクさんですね」と。美人ではなかったようだ。

菊如が改めて尋ねた。
「地の人ですね。お名前は?」
「タギツ。浜の名前、タギシの浜から付いた名」

タギツの言語は柔らかい外国語だった。
言語変換がされて、日本語となった。

「出雲に多芸志(たぎし)の浜があるけど」
「こちらにもタギシの浜があります」

出雲と鞍手周辺に似ている地名がいくつかある。

特に鞍手のキヅキ(木月)は出雲のキヅキ(杵築)を連想させる。
この話になった。

「木月は杵築だったのでは?」
「その字は使えなくなりました。隠さねばならないものがあるのです」

「何を隠すの?」
「『築』が使えないのです」

それ以上のことは分からない。


「木月に大己貴は住んでいたの?」
「よく分かりません。
あそこの地は沢山の小さなお屋敷がありました。
一つの集落になっていました。
不思議なことに、他とは違っていました」

お屋敷について尋ねると、
「一人住まいのような」と言って高床式らしき家のようすを手で表した。
「他の人は地面に住んでました」
これは竪穴式住居のことらしい。


「他の人たちってどんな人?」
「他の人とは会ったことはありません」

「六ケ岳はどんな感じの山?」
「とても高い山で、上が雲にかかる高さ。
とうてい登れるような山ではありません」

いったいいつの時代か、また疑問が生じる。

菊如が私に質問を促した。
私は驚いてばかりで、思考停止中だった。

この女性がタギツ姫なら大己貴と結婚していたはず、と思い当たって尋ねた。

「誰かと結婚していましたか?」
「していません」

三女神の一人ではなかった。予測が外れた。

菊所が尋ねた。
「お仕事は?」
「石で占いをしておりました」

タギツは50センチ×60センチほどの平らな石を手で描いた。
右手で複数の小石を石台に投げる動作を繰り返した。

私はルーン文字を描いた小石で占う姿を連想した。


「どこにいたの?」と菊如が尋ねると
「亀甲(かめのこう)」と答えた。

亀甲はヤマトタケルが熊襲討伐から戻ってきて、
戦勝のお礼の祈りをした所ではないか。

熱田神社の宮司が心身清めて祭祀をしていたという。
それは剣岳の麓にある。


「誰か来た?」
「二人で占いに来られた方があります」

二人と聞くと、例の二人すなわちヤマトタケルと武内宿禰を連想した。

「目の色は?」
「一人は黒、一人は悟られぬように伏せて、違う色の目でした」

やはりヤマトタケルと武内宿禰だ。
私の夢に出て来た二人。タケルの目は青。

「何を聞かれた?」
「今いる場所からどの道を通って西に抜けると良いかと。
三つのルートを示されました」

「どう答えたの?」
「その一番真ん中。川と海から離れた場所。陸路です」

西。
これはヤマトタケルと武内宿禰が佐賀の熊襲タケルを襲う時の話に違いない。
遠征ルートを占ったのだ。

熊襲タケルが逃げ込んだのは佐賀だ。
その話はすでにブログで紹介していた。

それと組み合わせると、鞍手からヤマトタケルたちは
陸路を通って当時「ありなれ川」という筑後川に出て、
有明海の波が洗う佐賀に出たことになる。

「白山には誰か他の姫がいた?」
「私には分かりません」

白山とは鞍手にある山のことだ。

ここで、話は終わり、タギツは抜けていった。
崋山の自意識が戻って来たとき、
「出雲はヤマトタケルを快く思っていなかった」
と言った。

                            <2017年5月28日>



以下は佐賀の記録


ヨド姫三社めぐり(6)大願寺廃寺~健福寺
日本武尊が熊襲タケルを討伐した所だった









ヨド姫三社めぐり(7)真手(まて)山
熊襲タケル対ヤマトタケル



木月剣神社 『神功皇后伝承を歩く』上巻17 神功皇后が日本武尊の旧跡で祈った






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by lunabura | 2017-05-28 16:59 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご80 シンロンの長はオージー


ひめちゃご80

 シンロンの長はオージー
 

2016年12月5日 結願2

ひめちゃご59 「ジンヨウとパオタン」の続きを書こう。

59回の概要は、
ジンヨウは長のパオタンの命令で沖ノ島の関所を守っていた。
ジンヨウは船乗りからカネを受け取った。
カネが無い者からは宝物を受け取った。
それをパオタンに渡していた。

ジンヨウにとって海に住む神といえば大亀か龍神だ。
月巫女を見たことがあるという。
月巫女は岬の上で金と銀の扇を持って舞っていた。
ジンヨウの部族にも姫がいた。シンロンという名だった。

崋山にシンロンが懸かった。

菊如は船乗りのふりをしてシンロンに尋ねた。
「はじめまして。関所の方から聞きました」
「わらわのことか」

「お名前は?」
「われ。シンロン。日本語で田心と書く人と同じ。われ心田(シンロン)」

「タゴリ姫と呼ばれていたのですか?」
「我はあの者の仲間ではない。そこに居たことはありますが。
その人は大切にされていた。
宗像の田島に住んでいる「心」の字が付く女性で通訳をしていました。
田島に住むシンロンさん。「田心」さん」

「その人はどういうことをなさっていたの?」
「雨が降らなければ降らしたり、祈りを捧げたり。
神ではない。雨が降り過ぎて波が高くならぬように祈りを捧げただけ。
神ではない」

「いっぱい素晴らしいものが届きよったんですね」
「そう。光る石も採れるし」

「それは金ですか?そこでも精製していたのですか?」
私が訪ねると首を横に振った。
「ほら見たことあるでしょ」
とシンロンに言われたがその時は思いつかなかった。

今思えば、鞍手の大塚古墳の
ラメをまぶしたようにキラキラと輝く石のことだろうか。
よく分からない。違っていたら、訂正が入るだろう。

「農耕をしていました。畑だけでは暮らしていけなかった」
とシンロンが答えたが、菊如は話題を変えた。

「タギツさんは御存じ?」
「知らない」

「イチキシマヒメは?」
「知らない」

「他の女の人は知らない?」
「山の上に女性が一人住んでいると聞いたことがあります」
シンロンは四つの山の連なりを手振りで示し、海から三つ目の山を指した。
「四塚ですね。海から三つ目の山」
と、私が確認した。

四塚(よつづか)とは宗像の四連山のことで、
釣川を挟んで宗像大社の対岸にある。

海から湯川山、孔大寺山、金山、城山。
金山(かねやま)!!
そこに女性が一人で住んでいたという。

孔大寺山は金が採れていた。
そこで、金を採っていたのか、と私は尋ねた。
「いいえ」
「金細工は?」
「それもしていません。関所から宝は来ていました」

菊如が尋ねた。
「長の名前は?」
「長はオージー様」

「姓は?」
「ウエクサ ジン・・(不明)」

「どこに住んでいるの?」
「釣川の上流に行きついた所」

菊女が、時代が知りたいけど、どうしたらいいか、私に振って来た。
私も困ったが、北極星と北斗七星の名前を尋ねた。

「星には名前は付けません。ぐるぐるまわる・・あれ。
名前でなく、形で伝えます。絵を見るように。
人に知らせる時は絵に描いて知らせます。名前を付ける感覚はないんです」

西暦や年号の無い時代、何を以って時代を確認したらいいのだろうか。
今でも分からない。

シンロンの声が良く聞こえない。
以下はその断片。

「今は六ケ岳にいます。姫が集まるから。
それぞれの姫が集まっています。
それぞれの名前でこの国を表しています。
一つは田畑・・・田心(たごり)
一つは鉱山・・・市杵島(いちきしま)
一つは魚や水産・・狭依(さよりひめ) 海はさよりひめ
この三つで表しています」

シンロンの語りはここまで。次の存在が待っていた。

       <2017年5月22日>









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by lunabura | 2017-05-22 22:55 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

ひめちゃご79 神武天皇の足跡の話まで来たが



ひめちゃご79

神武天皇の足跡の話まで来たが
 

日少(日若)神社の縁起で気になっていたのは馬の話だ。

神武天皇が中州(なかつくに)に行こうとして日向国から豊国に向かい、
田河の吾勝野に出て、兄弟山に天祖を祀った時、
馬見物部の末裔の駒主命が駿馬を連れて天皇を迎えにいったという話だ。

筑紫に行って、その家に行き、馬見山上で皇祖を祀った。
そこから北麓を巡って日尾山に向かう途中の谷で難渋して、
日若の水で祓って霧が晴れた。

簡単にはこのような話だが、調べていくと、
日王山(日尾)で比売神を祀って嵐が収まった話もあった。


前回の話と合わせると、神武天皇は
日王山から馬見山に向かう途中、鹿毛馬に立ち寄っていることになる。
そこで新たな馬に出会う。

しかし、馬はこれくらいにしておこう。

これらを読みながら、日王山が格別な山だったことを改めて認識した。

ネットでは神武天皇の足跡を
北九州と筑豊を中心に念入りに探査したサイトもあった。
福岡の東部は網羅されているといえよう。

これに加えて福岡の西部での
糸島での兄妹婚、太宰府の王城神社での政を組み合わせると
壮大なストーリが描きだせると思う。

東部での足跡は地元の人が一番分かりやすいし、
地元のために掘り起こさねばならない歴史だと思った。

誰か立ち上がって、本を書いてくれることを願うばかりだ。


「ひめちゃご」は次々に入れ子を造り遠くまで来てしまった。

ここらへんで、帰り道を辿ろう。
開いた入れ子を完結させながら戻る時に来た。





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『神功皇后伝承を歩く』下巻87日若(日少)神社











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by lunabura | 2017-05-19 20:40 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご78 綱分―日若―無名山―飯土井神社 レイライン



ひめちゃご78

綱分―日若―無名山―飯土井神社 レイライン

まさかの、続きがあった
 


前回の厳島神社の投稿のあと、チェリーから新たなライン図が届いた。

「最早、言葉はありません」と。
それを見て私も驚いた。

確かに!
それを見ると、あのラインの続きが赤色で描かれていた。
私も、驚いて、何を返事したらいいのか言葉が無かった。


それは飯土井神社へのラインだった。
(福智町神崎)

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厳島神社の縁起では、
日王山で祀られていた天照大神が勧請されたのが飯土井神社とある。
それは14世紀の半ばのことだった。

飯土井神社を調べると、もともと仁徳天皇一柱を祀る宮だ。
かつては若宮神社と号したそうだ。
そこに天照大神が合祀されたことになる。

チェリーが驚いたのは、
「綱分八幡宮―日若神社―無名山(189.3m)」のレイラインの
「延長のポイント」が見つかったことなのだ。

まさか、こうして迂回してポイントが見つかるとは私も思いもしなかった。

例の調子で私の勘違いで始まった
ひめちゃご71からの一まとまりのシリーズだ。
無名山をバスの中から撮って、載せたことが始まりだった。

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この山が無名山と分かり、
「綱分八幡宮―日若神社―無名山(189.3m)」のラインが
日王山を通らないのが残念だったのだが、どっこい、
それは飯土井神社(いどい)に達した。

チェリーによると、
<189.3mのピークから綱分八幡宮を見て、その反対側に
ラインを延ばしていったと考えられます。(飯土井神社は見えません)>
ということだ。

これで、無名山の隠れた価値が見えて来た。
その姿の美しさからも、聖山だったことは間違いない

この発見に何らかの見えない世界の意図を感じずにはいられない。

あとは、誰か、現地踏査する人が出てくるだけだ。(*´з`)
(^^;

あるいは、誰か祈る人が出てくることだろう。

何せこのシリーズは集団幻想による小説なのだ。
それぞれの得意分野を持ち寄って何かが分かればいい。


さて、私が驚いたのは、
日若神社には神武天皇の馬の話が出ていて、
前回の鹿毛馬神籠石の話に連なるようなので、

もう一度、あの漢字だけの縁起を読み直そうと思った矢先だったことなのだ。
中国語と日本語が全部漢字で書かれているため、

文法がぶっ飛んでいる和製中国語( ゚Д゚)

がんばるべ。






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by lunabura | 2017-05-17 21:40 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご77 厳島神社 日王山から遷された三女神





ひめちゃご77

厳島神社 

日王山から遷された三女神
 


英彦山からの三女神と大己貴のレイライン。

それはどれもが日王山を経由する。
そこで景行天皇が三女神を祀ったという。

その日王山の祭祀は麓に下りていった。
後光厳天皇の御代、延文年間(1356~1360)のことだ。

アマテラスは福智町神崎の飯土井神社へ。
三女神は飯塚市鹿毛馬へと下った。







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それを厳島神社という。









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鹿毛馬川から上がって南西の丘に向かう位置が選ばれた。












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祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命。
三女神が一所に祀られている。


『福岡県神社誌』では
豊前国の宇佐島から宗像の沖津島に鎮座するとき、
当村、日尾山を越えられたという古実から
景行天皇の御宇に三女神を祀ったとある。








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「日王山」の表記は「日思山」だったともいう。

それは三女神が山頂の「方丈の瑞石」に神をって
天照大御神を祀ってからの名だそうだ。

烏尾峠の地名由来も、
三女神が道に迷った時、烏に導かれたことからついたという。


地図を見ると、烏尾、船尾、日尾と、「尾」がついた山名が集中している。

これらを「八咫烏」「天鳥舟」「太陽の尾=彗星」と、
なんとなく変換してみた。



近くの田の中には三女神が休憩したといわれる「神休所」という磐座がある。

英彦山からの帰り道、車で走りながら左手に見えたが、写真は撮っていない。
またの機会に撮ろう。

その斜め上に向いた姿は御許山を指す磐座を思い起こさせた。

厳密に測量された三女神レイラインはいったい何を現すのか。
この磐座との組み合わせがヒントになるかもしれない。

が、何かあるという事自体が幻想なのかもしれない。









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参拝を済ませて戻る参道の向こうに鹿毛馬神籠石がある。
この史蹟は鉄の生産施設だと確信している。

山城ではない。

列石は二重三重に誤解されてきた。

「神籠石」という名の発祥である『高良玉垂宮神秘書』では結界となっている。

高良山の神籠石は巨大な磐座だ。
そう、磐座信仰が神籠石なのだ。




この「鹿毛馬」という地名は神武天皇にちなむ名だそうだ。

『福岡県神社誌』によると、
神武天皇がまだ狭野命という時に、筑紫をまわるために
豊前国からこの村に来られた。

馬牧から足毛の馬を献上されてその馬に乗って馬見村に向かった。
その姿を老翁が見送ったという。

これからこの村を駈馬村というようになった。

その牧の跡を大石で区域を残したという。

鉄生産施設が後に牧として利用されたと考えているが、
その形状が鉄を生産する熊本の一目神社と全く同じものだという記事は
ずっと前に書いた。


神籠石はひとくくりで論じる前に、個々について精査する必要がある。

山城として論じる人は、どこに主を住まわせて守るのか
一つ一つ説明する必要があると、最近よく思う。




福岡県飯塚市鹿毛馬1088







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by lunabura | 2017-05-15 22:34 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

ひめちゃご76 高良山―英彦山 香春岳を巡る争い



ひめちゃご76

高良山vs英彦山 香春岳を巡る争い

 「高良玉垂宮神秘書」より
 



前回まで英彦山の話だったが、
今回は高良山に伝わる謎の本「高良玉垂宮神秘書」に
出てくる英彦山の話を紹介しよう。

142条 彦権現、異国人ニテマシマスノ間、彦権現ハカリコトヲ ナシ玉フ、
(略)高良ノ、彦権現ハ、モツハラノテキ神ナリ


高良にとって彦権現は異国人で「もっぱらの敵神なり」
という、珍しい話が書かれている。

こうなった理由は彦権現がはかり事をしたからだが、
その事情はずっと後の212条に出てくる。


それは豊前国の香春岳を巡る争いだった。
意訳をしよう。

212条

香春岳に異国から異国人が攻めてきたら、
三の岳に高良三所大菩薩が降臨して異類を退治しようと誓いを立てた。

異国征伐の時、高良大菩薩が三の岳に登って
異国のようすを視察したことから、
(香春岳)を高良峰と名付けた。

彦権現がはかりごとをして、高良峰を洗い崩そうと、
横に並んでいた山から樋を掛けて水を流したのを、
高良大菩薩が神通力で知って、樋を蹴ってのけたため大洪水になった。

また、仲哀天皇の崩御のあと、薫香が香春岳に垂迹して留まったので、
香春岳ともいう。

というものだ。

これは三韓征伐の直後、神功皇后や安曇磯良、武内宿禰の時代にあたる。

田川の若八幡神社の縁起によると、ここは神夏磯姫が開発した所だ。

その子か孫の夏羽の時代に仲哀天皇、神功皇后たちがやってきた。

そのあと、田油津姫と夏羽の兄妹は朝廷側に滅ぼされた。

その結果、香春岳は朝廷を支える安曇族の支配下になったことが
この二つの条から伺える。

高良大菩薩とはこの時代は安曇磯良を指している。

この香春岳を彦権現が奪おうとしたとき、
大洪水があったことが神話的に描かれているのが面白い。

二つの条から、かわら岳(香春)の地名由来として、
1 こうら(かうら)が支配したので「高良(かわら)峰」といった。

2 仲哀天皇が亡くなったあと椎の木に立てかけた棺から
良い香りがした(香椎・かしひ)という故事があり、
その香りが垂迹したから「香春」となった。

という、二つの話を述べている。
この本の成立は秀吉や家康の時代の頃なので、
それを考慮にして読まねばならない。

そんな中で、分かるのは
香春岳の銅山が古代から争奪の的になったということだ。
とれるのは銅だけではない。多くの種類の鉱物が採れていた。
金ももちろん。

九州に渡来人が各地からやって来て、この宝の山を発見して、
渡来人同士、争いながらも棲み分けをしていく過程が見えるような条文だ。

人間はロケットを飛ばしてまでも新しいミネラル(鉱物)に好奇心を持つ。

古代から、どんだけ鉱物好きなのか、と時々思う。
この話もそんなことを思わせる話だった。



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一の岳は山が削られてしまって、土台だけになっている中央部分。
三の岳は削られた山の左二つ目。




『神功皇后伝承を歩く』下巻60 若八幡神社 皇后軍は夏羽を滅ぼした



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by lunabura | 2017-05-09 20:36 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご75 英彦山神宮 奉幣殿



ひめちゃご75

 英彦山神宮 

奉幣殿
 


英彦山には福岡県の男子が成人するとみんな登っていた。
父がそう話していたことを思い出した。

母に聞くと、母の故郷でもそうだったという。
福岡県の南部からも英彦山に登ったというのだ。

同じ話が真鍋大覚の本にも出ていたので、一般的な話だと分かった。







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福岡県中から成人した若者が英彦山に登っていたとは。

何のイニシエーションだろうか。

いったい何を求めて青年は登らねばならなかったのか。

英彦山神宮の主祭神は天忍穂耳命だ。
天忍穂耳に何故、祈らねばならなかったのか。


あるいは修験道にちなむ風習だったのか。

今は聞かない。
戦争でその風習は消えたのだろうか。

思えば、神武天皇も北九州の一宮神社の磐境神籬から
祈ったのは天忍穂耳だった。

日子、すなわちアマテラスの子と呼ばれる天忍穂耳。

この山は日子山から彦山となり、英彦山となった。

農耕の神、鉱山従事者の神の性格を持つ。当初は後者だろう。

筑紫の曙の頃の記憶を伝える神でもある。



友人から聞いたエピソードも思い出された。

友人が熊野に参拝したとき、社務所で、どこから来たのか尋ねられた。
福岡から来た、と答えると、
「お疲れさま、英彦山が元宮ですよ」
と言われたそうな。











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奉幣殿に着いた。








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昔と何も変わっていなかった。










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シャクナゲが咲く水場で水をいただく。
そうそう、高住神社も英彦山神宮も水がおいしい。
というか、神水だ。
ペットボトルを持っていこう。
リュックがあれば帰りも重くない。










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スロープカーで登って来た人たちがどっと訪れる。
憧れても登れない人たちがいた時代が千年以上もあったことからすると、
なんと良い時代になったことか。











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こちらは遥拝所で、頂上への登山口だ。
中宮に市杵島姫が姉姫たちと共に祀られている。

スロープカーで奉幣殿まで来て、ここから登れば
時短で市杵島姫に参拝できる。それも一手か。


二女神のラインが日王山を通って六ケ岳グランドクロスに届く。

地のラインだが、天空のラインとも呼びたい神々の世界だ。


奉幣殿から先は登山靴が必要だ。寒い季節はアイゼンも。

かつて春でも石段が凍って滑り台になっていたために断念したことがある。



雷鳴の間隔が短く近くなってきたが、不思議にあわてる気にならない。

なるようになるさ。








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長い石段を下りていく。

車に乗ると、ついに雨が降り出した。
ヒョウも降る。



途中、高木神社の祭に遭遇した。
ここだけは雨が降っていない。

そして、その町を抜けると土砂降りだった。

神輿を担ぐ人たちは周囲が雨とは知らなかっただろう。

神懸かった不思議な光景を見せられた。


『神功皇后伝承を歩く』上巻2 神功皇后は神武天皇の旧跡で祈った


<2017年5月7日>



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by lunabura | 2017-05-07 20:31 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(12)

ひめちゃご74 英彦山神宮 参道にて



ひめちゃご74


英彦山神宮 参道にて
 

高住神社から車で数分、英彦山神宮にも足を延ばした。


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別所の駐車場から英彦山が見えた。









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ここから歩いて行ったが、道が広くなって崖の上の道だと気付く。
記憶に無い舗装道路だった。



スロープカーが出来てから様変わりしていて、土産物店も二つほどに減り、
参道のそばまで駐車場が出来ていた。


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石段は途中から登りづらくなった。
こんなに大変だったのか、石段の記憶も景色も何もかも違って見えた。

視点が変わると世界が変わる。





参道の両脇には大きな僧坊の跡が左右に残っている。
高良山にも300以上の坊があったが、草木に埋もれて姿を留めない。
英彦山はそれよりもスケールが大きい。




「ここは都だったね」と夫が言う。

この僧坊群の大きさからいうと、かなり大きな消費生活があったはずで、
それを支える町は当時の日本でも大きかったことだろう。

「熊野より大きかったかもね」と正直思った。





数年前の新聞記事に
航空写真から壮大な僧坊群があった地形が読み取られたことが載っていた。

地形だけ残る宗教施設の山はマチュピチュを思い起こさせた。


「まるでマチュピチュ」
天空の宗教施設という意味で同じ営みを感じた。









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「都」という言葉から、
久山の伊野神社(天照皇大神宮)の豊丹生(ぶにゅう)氏の話を思い出した。

大和国丹生で丹生氏に改姓し、皇大神に仕えていた小山田氏の曾孫が
公の場で席順の争い事を起こし、英彦山に流されることになった。

その時、アマテラスが「自分を連れていくように」と夢に出て来たので、
この英彦山に神体を持って来た。
さらにその子供に神託があって、
神体を久山の天照皇大神宮に移したことから豊丹生氏となった。

そんな話だった。

古文献を見ていると時々英彦山が出てくるので、
よほどの都会だったのだろうと思ったので「都」ということばに
いやに納得した。

こうして、左右の僧坊群を見ながら登ると、
食いっぱぐれても、ここに駆け込めば生きていける。

仏教にはそんな懐の深さがあって、
今より食べ物のない時代でも、誰でもが生きていけたんだろうなと思った。

コンクリートの中の暮らしでは想像もつかない豊かさが山の中にあった。



遠雷が時々響く。
雨に遭わなければいいが。

後で知ったが、博多どんたくを中止に追い込んだ雷雲がここまで及んでいた。







『神功皇后伝承を歩く』
上巻38 天照皇大神宮 神功皇后は天照大神を祀った





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by lunabura | 2017-05-05 23:00 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご73 英彦山・高住神社に参拝してきた



ひめちゃご73 

英彦山・高住神社に参拝してきた
 


という訳で(どういう訳?笑)、
今日は高住(たかすみ)神社に参拝してきた。

連休を利用して5月3日に参拝する予定にしていたので、
ちょうどブログ記事にリンクした。












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遠賀川中流域から英彦山(右)と鷹ノ巣山(左)がずっと姿を見せる。
特に鷹ノ巣山の二つのピークは人の心を捉える。

添田町に入って、二つの山が撮れる所に出たので車を止めて撮影。
目的地は英彦山山塊の中の北(左)ピークの麓にある高住神社だ。











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急なカーブの連続の途中、一瞬鷹ノ巣山が見えた。

あれを見て登りたいと思う人もいるのだろう。
「いかにも修験の山らしい」と夫が言う。

途中の道の駅で弁当を買っておいて良かった。
食事が出来る所は無い。









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高住神社の一の鳥居。銅製だろうか、緑青色が美しい。











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参道に差し込む光が幽玄の世界を醸し出す。別次元のような参道だ。











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新緑の美しさに何度も立ち止まる。








「磐座信仰だ」と夫が言った。


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まさに、そう。
磐座に向かって祈るようになっていた。











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ご祭神の組み合わせが不思議だ。

豊日別大神、
天照大神、
天火明命、
火須勢理命、
少名毘古那命

木花咲耶姫が生んだ天火明命、火須勢理命がここに。
糸島の細石神社の近くでコノハナサクヤが出産した伝承があったことを思い出す。

この二神は志式神社では豊玉姫と共に荒ぶる神になっている。
この謎は全く解けていない。
ここで、遭遇するとは思ってもいなかった。

二神の母と父である木花咲耶姫とニニギ尊は
もう一つの霊峰・馬見山に祀られている。
どうやら、英彦山と馬見山は一セットでアプローチしなくてはならないようだ。

また、天照大神が祀られているのも意外だ。

少名毘古那命も何故に?

「鎮西彦山縁起」や「彦山流記」で想像していた
神々の世界とはかなり違っている。



第一神の豊日別大神は豊の国の国魂だ。


この北嶽に住んでいたという大己貴と二女神の名は消えていた。
やはり、遠く海を目指して遷っていったのだろうか。
もともと大己貴と少名毘古那の組み合わせも存在した可能性も出てくる。

ここは祭神が幾層にも祀られた歴史を留めているようだった。





『神功皇后伝承を歩く』
下巻72志式神社 神功皇后は荒ぶる神々に神楽を奏した




                     <2017年5月3日>


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by lunabura | 2017-05-03 20:20 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご72 英彦山は宗像に転写されたのか



ひめちゃご 72

英彦山は宗像に転写されたのか
 

前回は
「英彦山―六ケ岳」の間には
「三女神ライン」と名付けた一直線のラインが存在し、

それと重なりつつ、角度を変えて存在する
「日子ライン(日子―日王―日子)」が存在すること、
また、六ケ岳グランドクロスの持つ意味の考察などを記した。


が、
これらのラインが実際にどうやって測量されたのか、
という疑問が当然ながら出てくる。


それに簡単に答える画像をチェリーは添付してくれていた。

なんてことはない。
英彦山から見れば日王山と六ケ岳は目視できるのだ。
それが次の画像だ。










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まるで神々の視点を得たように美しく見えている。
英彦山からは日王山、六ケ岳がよく見えていた。
その奥には孔大寺山が雄大な姿を見せている。
この山の向こうは玄界灘だ。















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これは六ケ岳の上宮からの英彦山。逆からも当然ながら見えている。
こうしてみると、「英彦山北嶽ー中岳」は不思議な形だ。

この「英彦山北嶽」にいた「二女神」は「市杵島姫と合わせて三女神」となって、
「日王山」を経てこの「六ケ岳」に降臨した。

このように完璧な一本ラインが存在することは、
三女神の降臨神話は何らかの「寓話」として、あるいは「暗号」として
伝えられたのではないかという、新たな思いを生じさせた。

これまでは、「氏族は氏神を持って移動する」という考えで考察してきたが、
天空のこのラインはそれでは上手く説明できない。

何らかの別の意図があったのではないかと思うと、
かえって謎が深まってしまった。




つぎに「大己貴ライン」について考えた。

一枚目の画像に見える孔大寺山についてだが、

この山には宗像大社の摂社である孔大寺神社(こだいじ)がある。

その祭神が大己貴少彦名だ。

その麓に指来(さしたり)神社があり、

祭神は気長足姫命、阿蘇津彦命、大己貴命、高龗神、

少彦名命、水波能売命、豊日別命。



この指来神社の位置は綿密に目視しながら測量して決められたことを

チェリーはブログですでに証明していた。







二女神と暮らしていた「大己貴」は「英彦山北嶽」から宮若市の
「若宮八幡宮」を通り、「指来神社」に到達する。
そのラインは宗像大社辺津宮を通り、中津宮(大島)に延伸する。

大己貴と二女神が宗像でそれぞれの宮に鎮座しながらも、
英彦山への繋がりを伝えようとしているかのように見える。

大己貴は宗像の「許斐山(このみやま)」にも鎮座する。

まるで「英彦山」が宗像に転送、あるいは転写されたように見えてきた。
チェリーが「豊前坊」(高住神社)が孔大寺にあることを述べているが、
これも「英彦山」の拡大写し絵である印象を強くしている。


この、きっちりと測量されたラインが何の意味をするのか、
別次元の暗号があるのどうかも分からない。

今は、このラインを知ったことで十分だろう。

思えば、ここに挙げた山のうち、
許斐山、孔大寺山、六ケ岳、英彦山は全部二回(以上)は登っている。

チェリーの画像を持って、もう一度すべてを登り直したい気分になった。





                          <2017年5月1日>

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by lunabura | 2017-05-01 14:47 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)
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