ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:「ひめちゃご」( 104 )

ひめちゃご98 祈りと幾何学



ひめちゃご98

祈りと幾何学
 

今朝の目覚めは、
磐井の山城は結界の中心点ではなく、
自衛隊の射撃場付近ではないか、
というものだった。

自衛隊の訓練地を選定するとき、
ある程度の平地があったのではないか。
そここそ、籠城のための山城ではなかったか。
そういう思いで目覚めた。

軍備に適する地というのは、今も古代も地形上、
重なり合うのは当然のことだ。

今でこそ、遺跡の出土品は市町村に伝えるが、
かつては鏡が出ても近くの神社などに預けるしかなかった。

早く開拓された地域の出土物の多くは離散したことだろう。

ただ、今回の結界のようなものは痕跡を残す。



さて、「ひめちゃご」の始まりのきっかけとなった
ウメとタケそしてミユと先日久しぶりに顔を合わせた。

ウメとタケは地図上で住んだ土地を結び、
「正三角形」を描く頂点に行くと
縁がある人に出会えるという。
60度だ。



同じ三角形でも三橋一夫が発見した「聖三角形」といえば、
30度、60度、45度、90度を利用した図形で、
古代人が天から気を降ろして、この角度を使った三角形で
気を広げていく手法を見つけ出した。

三角定規の直角三角形や二等辺三角形の形だ。

これを三点法というが、日本全国に聖三角形が描かれている。

これを描いた古代人は時代の変化で仕事を失うと、
前方後円墳の設計をしたと推定している。

現代では前方後円墳は左右対称のように描かれるが、
それは現代人が勝手に変えたもので、左右不対称が本質だ。
現代人の合理的思考が古代の祈りのカタチを見えなくしている。

チェリーの利用する角度が聖三角形に近い。

何故、有意の三角形は縁を結ぶのか。
そんな話をしていたとき、
伊勢神宮の斎宮の「折り紙」の話を思い出した。

祈りの手法の一つに「折り紙」がある。
一定の形に紙を折ることで祈りを成就させるというものだ。

この技術がのちに多種多様の折り紙となっていく。

私の関心は「紙を折ること」が
何故、願望成就になるかという点にあった。

そこで、思いついたのが、
祈りが成就する高次元とは幾何学の世界だということだ。

真言密教の両界曼荼羅も、
胎蔵界なら円の八等分(45度)、
金剛界なら正方形の三分割。(90度)
そこに擬人化された現象界が仏の姿を採って並んでいる。

曼荼羅とは宇宙の仕組み。
そこは幾何学の世界でもあるのだ。

成就した世界が存在する高次元が幾何学の世界だとすると、
言霊(ことだま)より、向こうの言語である幾何学の方が伝わりやすい。
それを古代に知り得た人がいたのだろう。
だから、大変貴重な紙を折り畳んで聖なる角度を作って祈る。

聖なる角度は天と通じるチカラがあると考えられたのだろう。
聖なる図形と人間の願望をつなぐのが巫女だ。

その聖なる角度を大地に描く人たちが古代にはいた。
そのポイント一つ一つに祈りの祠が置かれた。
だから、神社を繋ぐと聖なる三角形が出来るのだ。

祈りと幾何学は密接に繋がっている。




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by lunabura | 2017-09-19 20:32 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(8)

ひめちゃご97「鷹取山結界」と脊振山と代々の筑紫君



ひめちゃご97

「鷹取山結界」と脊振山

代々の筑紫君
 


「鷹取山結界」についてブログに挙げると、
それに関する電話が複数あった。

糸島~脊振山に形作る龍を教えられていた人の話とか。
また、酔っぱらうと物部が出る人が「鷹取は三つある」と言った話とか。
いったい何が始まったのやら。

チェリーが、結界の中心を作図してくれた。









c0222861_21485085.jpg

明星山の頂上から南西に下がった所にある。
陸上自衛隊の正面から国分寺跡を結ぶ道路にも赤い垂線が重なっていた。
かなり古い道だったのだろう。

南への垂線にも道が重なる部分があるようだ。

さらに、中心部を拡大してくれた。







c0222861_2150720.jpg

中心点は明星山からの尾根の﨑に当たり、視界が良さそうだ。
東~南は急峻で守り易い。

飛岳も視界が効くということで、物見の砦でも置きたいところだ。
代々の筑紫君の山城を探すにはこの中心点からが目安になるだろう。

江戸末期の記録には山中に「社地」があったという。

磐井君はカマ谷から石を採って強固にしたので、
磐井の名がついたとも言われている。
「社地」には何らかの石垣が残っているはずだ。

三つの鷹取山によって結界を築いたと考えてよいだろう。


【脊振山】(せふりさん)
その龍を思わせる脊振山系について、昨日、真鍋を読んでいると、
脊振山は金龍山(からやま)とも言ったと伝えていた。
徐福関連の地名の金立(きんりゅう)はそこから付いたという。

神功皇后が登頂して神々を祀り、航路の説明を受けた。
また、
<行基、最澄、空海、栄西に至るまで唐土で修業した名僧智識は
韓泊(からどまり)で船から上がるとまず
脊振山頂に詣でて四方を拝し、
それから大宰府に下りて帰朝の手続きを済ませたのである。>
(『儺の国の星』)
と記す。

今は自衛隊のレーダーがあるが、
駐車場の近くの池は「龍ケ池」というそうだ。

鉱物の金も採れ、薬草が多彩だという脊振山系は
私たちが思う以上に神の山として崇敬されていたようだ。

八女の飛形山から見ると、脊振山を中心に両翼が控える形に見えた。


やはり脊振の龍脈と鷹取山結界と代々の筑紫君は深い関わりがあるようだ。






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by lunabura | 2017-09-18 21:52 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご96「鷹取山結界」の中心に筑紫君の城か(磐井の山城)



ひめちゃご96

「鷹取山結界」の中心に筑紫君の城か

(磐井の山城)
 




「鷹取山(たかとりやま)結界」の中央部をチェリーが拡大してくれた。
国土地理院の地図を使用するには大きさの制限があるのだが、
なんということだ。
分割という手段を見出している(;’∀’)
制限ハードルを見事にクリア!







c0222861_223052.jpg

これをつらつら見ていると、明星山の中腹あたりが中央にに見える。
くじらも指摘したが、ここは「代々の筑紫君が居た」山城があった。
名前が筑紫城かどうかは不明だ。
そここそ、磐井の山城でもあった。
その前は物部の天津赤星が居た所だ。


この明星山と高良山の間の扇状地を「高良内」(こうらうち)という。
こここそ、万葉集の第3番、4番の「内の大野」ではないかと推定した場所だ。


天皇 宇智の野に 遊猟(みかり)したまふ時
、  
天皇が内の野で狩をされるとき、

中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして 
中皇命が間人連老に、献上するように

献(たてまつ)らしめたまふ歌 

(長歌はリンク先へ)

反歌
たまきはる 内の大野に 馬なめて 
朝踏ますらむ その草深野






思いがけず、過去記事の万葉集の「内の大野」が出て来た。
この全体は「内考」というタイトルでサイドバーに置いている。



そこには今、自衛隊の駐屯地などがあるが、
かつては古墳がずらりと並んでいたという。

福山裕夫(久留米大)は、そこに古代の星の観測の痕跡を見出している。



そこから斜め上に道を拾うと、国分寺跡が出てくる。
この斜め道がどうも綾部神社裏の鷹取山へのラインに重なって見える。

なんとなく、古月のドラゴンカーブも思い出させるような斜めの道だ。




一方、南の鷹取山から北の岩戸山古墳を通り、
さらに北上するとツインの磐井城の前を通る。

途中に宮地嶽神社もある。








c0222861_2233765.jpg

これは歴史カフェなどで使用した付近図。
次著でも詳述する。

この付近が中央部になるような気がするが、どうだろうか。
くわしくはチェリーのコメントを待とう。



歴史はラセン階段をぐるぐると昇ったり降りたりするようなものだが、
まさか、ここに及ぶとは思いもしなかった。


水沼君に関しては赤司八幡神社も大善寺玉垂宮も結界の外となった。
チェリーの言うように、それもまた意味があるのかもしれない。





ここまで書いたら、リラから電話があった。
「鷹取山」と「高取山」を調べていたそうだ。

日本全体ではこの二つの山名を持つ山がそれぞれ16、17山あるらしい。
福岡ではそれぞれ四つずつあるという。
その目印となる山や地名を書こう。

「鷹取山」は御牧山、三養基町、耳納山系、福知山。

「高取山」は矢部(八女津媛神社そば)大牟田、天山~川上峡、山鹿との境界付近

山城がある山が多いという。

また、脊振山頂上付近の池は「龍ケ池」といいい、
竜宮城に繋がっているという話があるそうだ。

脊振神社下宮には風穴がある。
沖ノ島の南には芥屋の大戸がある。

このメモは聞き間違いがあったら訂正をする予定だ。



情報が必要な人の所に届くよう、お互いに出し合おうと言って話を終えた。





※歴史カフェと台風の件


歴史カフェの当日、台風が通過しそうです。
現在の予報では9月17日の朝には抜けるようになっています。
台風の情報によっては、変更をしなくてはならないでしょうから、
ご参加の皆さん、前日にブログを確認してくださいね。







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by lunabura | 2017-09-14 22:36 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

ひめちゃご95 ついに出現した双龍と鷹取結界 



ひめちゃご95 

ついに出現した双龍と鷹取結界 
 




三つの「鷹取山」(たかとりやま)による三角形の結界。
それをチェリーが作図してくれた。








c0222861_22132617.jpg

二つの「ヒメコソ」神社の中央にある「福童神社」から見ると、
冬至の朝、鷹取山から日が昇る。青いラインだ。

そして、今ブログでは赤いラインを辿っている。
夏至の朝、馬見山から日が昇るラインだ。

この途中で三つの鷹取山の結界の話が出たのだが、
左上の鷹取山は綾部神社の北にあり、見事な三角錐を描く神奈備山だ。

この続きはチェリーのブログで見てほしい。
なんと二つの龍が現れたのだ。


脊振(せぶり)山系と耳納(みのう)山系だ。

龍脈の先には龍穴がある。

チェリーは耳納山系の龍は味水御井神社の水を飲むとにらんだ。

脊振山系の龍はどこの水を飲むのか。
地元の方、探してほしい。


久留米の北部からは耳納の龍がよく見える。
また脊振の龍が姿を見せるのは久留米~八女方面だ。


双龍の龍穴があるイヤシロチを発見した人は
三つの鷹取で結界を張った。


いやあ、これは集団幻想小説なのだから、妄想は大歓迎だ。

自分も妄想してみよう。

倭国の創世記、龍穴を求め、結界を張る人がいた。

鷹取結界の中には水を祀る君がいた。それが水沼君だ。
水沼君の斎き祀るは三女神。


驚いたことに、この結界の垂線は岩戸山古墳の松尾宮を通る。
その垂線は沖ノ島からスタートするとチェリーは考えた。



私は思う。

岩戸山古墳の築造者はこの結界を知っていた。
鷹取結界に倭国の秘密がある。

中大兄皇子は瀬高太神(おおが)で、その秘密を知ったのではないか。
しかし中大兄皇子が天智天皇に即位したあと、倭国は滅びる。

わずか9年で崩御した天智天皇。
その後、戦って天皇の地位を得た天武天皇もまた
筑紫に滞在していた時、その秘密を聞いていた。

天武天皇は即位すると倭国の結界を封じた。

どんな手段で?
それは、神社を寺院に変える手法だ。

天武天皇の即位元年、大善寺玉垂宮は大善寺となり、
翌年、高良玉垂宮もまた高良大明神が発心した話を創り出し、
高隆寺を造らせた。

こうして倭国の神々は封じ込められていった。

今、その封印が解けようとしている。

ついつい、そんな妄想をしながらチェリーの作図を眺めた。

前畑遺跡関連の土手は、
相島の墓域で見つけた龍の積石と同思想のものかもしれない。
それは熊本の久米八幡宮の龍と同じだ。

ところで、チェリーに。
鷹取結界の中央部分を拡大して作図してほしい。
持っている地図では鷹取結界が描けない。


以下はチェリーの作図。
「ひめちゃご」がつなぐライン群 ふたつの龍と1本のライン



皆さんにも、集団幻想に思いのまま参加してほしい。



コメントの返事は明日にしますね。







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by lunabura | 2017-09-12 22:16 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(10)

ひめちゃご94 千栗八幡宮3 縁起絵巻は磯良と神功皇后だった



ひめちゃご94

千栗八幡宮3 

縁起絵巻は磯良と神功皇后だった
いわゆる三韓征伐
 





『北茂安町史』を見ていて目が釘付けになった。






c0222861_21435274.jpg

なんと、千栗八幡宮の縁起絵巻は三韓征伐の絵図だったのだ。

そう、安曇磯良が亀に乗って舞い、
八乙女が磯良を迎えようと舞っている。


同様の物が志賀海神社、高良玉垂宮、大善寺玉垂宮の三社に伝わる

一見して、構図は大善寺玉垂宮タイプと分かった。
しかも、千栗の方が明らかに古い。

何故なら、大善寺ではあやふやになった磯良像、タッチの弱い八乙女たちが
きちんと描かれているからだ。

全体の時系列もしっかりとしている。
大善寺玉垂宮の絵巻は千栗八幡宮の絵巻を模写したのではないかと考えられた。

そうすると、ここは安曇の宮だったことになる。

宇佐の八幡信仰が入っても、
志賀海神社や高良玉垂宮は「八幡宮」の名を受け入れなかった。
風浪宮もそうだ。

この千栗八幡宮は「八幡宮」の名を冠した。

壬生春成が来る前は安曇族の宮だった可能性が出て来た。

いや、絵巻の中央が武内宿禰になっているので、
そうとも言えないかもしれない。




『高良玉垂宮神秘書』を歴史カフェや久留米大学で話したが、
覚えておいでだろうか。

高良玉垂宮は本来、安曇磯良を祀っていて、
祭祀上、物部氏は重要な位置にはいなかった。

ところが白村江の敗戦後、高良山は生き延びるために
天武天皇即位2年に仏教を受け入れた。

その方便として、高良明神が物部に託宣した形を取った。
「高良明神は菩薩になるので、物部に地位を譲る」というものだ。
菩薩を抱き参った物部はすなわち生き仏になるという形になった。

この時、高良明神は安曇磯良から武内宿禰に変わった。


しかし、物部氏が突然、最高官になっても周囲は納得しないはずで、
言い別けのように縁起を次々と創り出した結果、支離滅裂になり、
自己矛盾を生じた。

そんな話をした。

その続きがこの町史に書かれていた。

〈この高良玉垂神が仏教に帰依し、神宮寺高隆寺が建立されたのは九世紀初頭とされている。

「高隆寺縁起」によれば御井郡司草部君(日下部君)は高良神の祭祀を独占していた神部物部氏の男子に高良神の仏教帰依の託宣があったと聞くと、

これを利用して、再度高良神が草壁氏一族の弓削郷長に託宣したと国史に申し出て、
高隆寺を短期間で建立したとある。〉p191



こうして、草壁氏が九州王朝の長、と名乗る話につながった。

三階松紋を阿倍氏と物部氏の両方が使っているという問題がある。

宮地嶽神社が三階松紋なら、次に行った物部神社もまた三階松紋なのは、
白村江戦で安曇族が凋落し、かわりに物部氏が台頭したからで、
この時、九州王朝の紋でもある三階松紋を物部氏が受け継いだと考えていた。

大体これで筋が通りそうだ。


大体、この町史は佐賀なのに、
久留米、特に三潴の話がふんだんに書かれている。
文化圏が同一の感覚なのだろうか。






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by lunabura | 2017-09-11 21:44 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご93 千栗八幡宮2 祀られた武雄心 鳥栖は白鳥座から



ひめちゃご93

千栗八幡宮2 

祀られた武雄心 鳥栖は白鳥座から

 




千栗八幡宮の鎮座地の地形は丘陵だった。

本殿の右手に武雄神社がある。








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ご祭神は武雄心命(たけおごころのみこと)だ。
境内掲示板には
<孝元天皇(第八代)の皇子彦太忍信命の子。祭祀・占(卜)を司る任に当たり、景行天皇(第十二代)にお仕えした臣下で、高良大社のご祭神武内宿禰は御子である。>
とある。

武内宿禰の父が祀られていた。
祭祀と卜占で景行天皇に仕えていたという。

高良大社の祭神を武内宿禰としていることから、
白村江戦(663)以降の記事だとわかる。





由緒には
<創建は詳らかではないが、室町時代に描かれたといわれている「千栗八幡宮縁起絵」の境内図の中に「武雄社」が見られるところから、それ以前から信仰されていたと考えられる。>
とある。
勝手な考えだが、武雄社が先にあって、
のちに壬生春成が八幡宮を創建したのではないかと思われて仕方がない。




というのも、さらに右手に稲荷社があったからだ。









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鳩森稲荷神社という。ご祭神は保食(うけもちの)神。

由緒に
<当千栗八幡宮のご祭神は八幡大神で、稲荷神社御創建の由緒紀によると、養父(やぶ)の郡司壬生春成が此の地に狩猟の折、弓の上に鳩がとまった故事によるもので、鳩は八幡さまのお使いであるとその夜の夢枕に八幡宮境内に千本の栗の木が植えてあるのが表れ、一夜にして栗林が現れたと云う。故に鳩森稲荷神社と云う。>

相殿の神として
<天之忍穂耳命、菅原道真、伊弉諾尊(イザナギ)、高木神(高御産霊日神)>
が祀られている。


ここは千栗郷だ。

隣の養父郷の郡司が狩猟に来て、それをきっかけに八幡の縁を得たようにかかれている。

しかし、本殿の掲示板には、<聖武天皇の勅を奉じて>とある。
八幡縁起にありがちな夢のお告げ譚になっていると思われた。



この急勾配の丘に武器製造集団がいたのではないか。
それは武雄組と関わったのではないか。

武雄の武雄組は何氏か書かれていないが、物部氏だと思う。
武内宿禰も物部氏だ。

武雄心の祖父の孝元天皇は高良下宮社の祭神だ。
(幸神社の祭神名が孝元天皇だと分かった。
先月書いた幸夫人が祀られている宮が孝元天皇を祀っていた)

この千栗の丘は栄枯盛衰の流れのなか、祭神が変遷していったのではないか。
難波皇子の子の栗隈王の「栗」の字も気になるところだ。



千栗郷は1965年に「北茂安町」となり、
2005年、中原町、三根町と新設合併し、みやき町となっている。

ここまで考察して、ようやく借りていた『北茂安町史』を開くことになった。

町史には、この千栗社についての記述があり、
やはり創建が新しい点と、隣の養父郡司が創建した点に問題を感じ、
それを解決するために、なんと筑後の神々を調べている。

高良玉垂宮、大善寺玉垂宮、山門郡太神(おおが)などだ。
歴史カフェで話題にした所ばかりで面食らった。
特に太神は来週、再びやる所なのだから。



そして、結論はよく理解できなかった。土地勘が必要だった。
ただ、その中で大宰府との関わりが述べられ、
また古くは海部氏がいたことが書かれている点が印象的だった。





そして、るな的シンクロとしては
真鍋の描く大宰府をまとめている最中なのだが、
その中に長門石が二か所出て来た。


長門石(ながといし)
<千歳川の中州に「長門石」が存在する。
神代の昔から宇佐島と天原島を結ぶところであった。>







c0222861_2252720.jpg

ここから見えている手前の所が長門石なのだ。

前回の画像をもう一度出すが、この奥に高良山~耳納山脈が見えている。
神代にはこれが全部海だったという。

こちらが天原島(あまのはる・左佐島)で、向こうが宇佐島(右佐島)だ。
目の前は「ありなれ川」が流れていた。

もう一ヵ所引用しよう。

<千歳川(筑後川)を中にして、南の筑後に田主丸(たぬしまる)、北の肥前に鳥栖(とす)があり、その中間に北野の長門石があります。昔、有明海が水城を通って玄界灘まで潮を差していた頃、これらは船の始点と終点であり、中継ぎの寄せ場でありました。
白鳥座を鳥巣(とのず)星と呼びました。(『儺の国の星』p140)>

この千栗の丘の麓には湊があったことになる。
そうなれば、武雄と千栗をつなぐ重要な湊でもあったのかもしれない。

そして、すぐ北の鳥栖の地名の起こりは白鳥座だったという。
ありなれ川にかかる白鳥座に例えられた。
そうすると、この千栗の丘陵は星の一つか。

真鍋の話は現地に立って、ようやく理解できる。



PS
9月10日17:10:09にドコモのメールで申し込まれたKさま。
返信が戻ってきます。
申し込み受け付けております。





千栗神社
佐賀県三養基郡みやき町大字白壁2403




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by lunabura | 2017-09-10 22:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご92 千栗八幡宮1難波皇子、宇治皇子が祀られている



ひめちゃご92

千栗八幡宮1

難波皇子、宇治皇子が祀られている
 


朝日山頂上の宮地嶽神社から3キロ程南へ。




c0222861_20521021.jpg

千栗(ちりく)八幡宮に行った。







c0222861_20522777.jpg

思いがけず高い所にある。
地図では想像つかない岬?丘?の上に鎮座していた。

岬か丘といっても今は平地にある。
だが、古代は有明海の波が届いていただろう。

筑後川が東から流れてぶつかり、南へと流れを変える所で、
蛇行がひどい。
江戸時代に直線に工事をしたという。








c0222861_20525312.jpg

だから境内からは久留米の市役所などがよく見えた。

こんな岬は前回の朝日山同様に戦いの争奪の対象になったのではないか。
そんなことも思われる地形だった。









c0222861_20532275.jpg

ご祭神は
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。
さらに難波皇子、宇治皇子、住吉明神、武内宿禰
となっている。



難波皇子は初めてだ。
<難波皇子>
ウィキペディアによると、

<難波皇子(なにわ の みこ、欽明天皇21年(560年)前後? - 用明天皇2年(587年)?)は、古墳時代の皇族。敏達天皇と妃・春日老女子の第一皇子。
587年8月、丁未の乱で朝廷軍に味方するが、これ以降史書に登場しないことから、丁未の乱で戦死したと考えられる。>

とある。
何故、敏達天皇の第一皇子がここに?

その子は栗隈王だ。

昨日、今日と私の別件の調査に出て来たので、ウィキペディアで確認した。

<栗隈王(くりくまのおおきみ、生年不明 - 天武天皇5年(676年)6月)は、日本の飛鳥時代の皇族。栗前王とも書く。旧仮名遣いでの読みは共に「くりくまのおほきみ」。敏達天皇の孫(曾孫か)、難波皇子の子(孫か)、美努王の父で橘諸兄の祖父にあたる。橘氏の祖である。筑紫率(筑紫大宰)として唐と新羅の使者を送迎し、672年の壬申の乱では外国への備えを理由に中立を保った。675年に兵政官長。贈従二位。>


白村江の後始末をした人物?
福童神社も広嗣を通して大宰府関連だった。

大宰府の問題は大宰府周辺だけで解くのではなく、
この肥前の支えを視野に入れる必要があるように思えてきた。


<宇治皇子>

次の宇治皇子は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のことだ。
応神天皇の子。
変な経緯で異母弟の仁徳天皇の方が即位した。

宇治皇子は志賀島の山中に祀られていた。
宇佐神宮の春宮にも。

佐賀には仁徳天皇を祀る所も多い。
「ひめちゃご」の始まりの「若宮八幡」もそうだったではないか。

神功皇后の孫世代の問題が佐賀には存在するのか。
これ以上は探求したくないのだが。
ちょっと、ため息が出る。

次の祭神、住吉神は八幡、宇佐関係だから当然のこととなる。

そして、最後の武内宿禰。
宿禰は「紀」の武内宿禰と呼ばれる。
紀は和歌山より、こちらの基肄(きい)郡が該当すると思っている。
橘氏と関連あり?
(知ってる人、請う、ヘルプ)


さて、由緒は
<神亀元年(724)聖武天皇の勅を奉じて養父(やぶ)郡司 壬生春成
この地に社殿を造営し創建したと伝えている。
以来、本宮は宇佐神宮の五所別宮の一と称せられ、
朝廷からも厚く尊崇を受けた。>
とある。

夢のお告げが壬生春成にあったらしい。

ここはそれよりも遥か昔から祭られていたはずだ。

横に武雄神社があった。(つづく)




<今回のコース>
1 媛社神社 小郡市
2 福童神社 小郡市
3 大中臣神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
5 朝日山宮地嶽神社 鳥栖市
 千栗八幡宮 三養基郡 
7 物部神社 三養基郡
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原
9 北浦天神 三養基郡
10 雌塚 三養基郡 姫方




PS
本日申し込まれたA・Nさま、受け付けております。
返信が戻ってきたので、こちらに書いております。






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by lunabura | 2017-09-08 20:57 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご91 朝日山宮地嶽神社 葛子は守り抜いたのだろう



ひめちゃご91

朝日山宮地嶽神社 

葛子は守り抜いたのだろう
 




c0222861_2153316.jpg

私たちは姫古曽神社からさらに南西に向かった。
四キロほどの所に朝日山があり、頂上に宮地嶽神社が鎮座している。


鳥栖市の朝日山頂上には宮地嶽神社があるが、
すでに「ひめちゃご38」に訪問のようすを記録している。



ここはチェリーの測量で、総本社の福津市宮地嶽神社がこの真北にあり、
筑紫国造が調べた十連寺古墳上の宮地嶽神社が真南にあることが分かった。

古代筑紫と肥前の南北をつらぬく宮地嶽信仰ラインが存在したのだ。

宮地嶽神社は安曇族の一族である阿部氏だ。
これこそが磐井の姓でもあった。
阿倍磐井という。

その子が葛子。






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さて、この朝日山には葛子の伝承があった。
磐井が火君と通婚して葛子が生まれたという。


地図を見ると、ここは物部の福童神社とみやき町の物部神社の中間点にある。
ここで物部たちと戦ったのか。

もともと磐井と物部麁鹿火(あらかひ)が戦う必要はなかった。
大伴金村の差し金で、両者が戦わざるを得なくなった。
結果、磐井は殺されたが、葛子はこの砦を守り抜いたのだろう。

物部麁鹿火は磐井の亡き後数年で没した。

このあと、筑紫はどうなったか。
再び磐井の一族に政権は戻った。

すなわち葛子へ。そして勝村・勝頼へ。

だから、葛子のもう一人の子の鞍橋(くらじ)は百済に派遣され、
百済王子を助けた。
そして、『日本書紀』は鞍橋の本名を抹消した。

だが、真実は蘇るのだ。




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<今回のコース>
1 媛社神社 小郡市
2 福童神社 小郡市
3 大中臣神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
5 朝日山宮地嶽神社 鳥栖市
6 千栗神社 三養基郡 
7 物部神社 三養基郡
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原
9 北浦天神 三養基郡
10 雌塚 三養基郡 姫方










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by lunabura | 2017-09-06 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご90 姫古曽神社 蘇る社殿



ひめちゃご90

姫古曽神社 

蘇る社殿
 




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多くの思いがあって、かえって書けなくなっていたのかもしれない。





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社殿が焼失したこともその一つだ。



ウメがサイバーダイブして、焼失した状況を語った。

しかし、それは書かない事に決めた。
ネットでは思いがけない方に変形していくからだ。


今ふたたび蘇ろうとしている。




歴史的な暗号が謎解きを求めてくる。



小郡の媛社神社に降りた幡はここから放たれた。

この宮は石段を上った所にある。
そう、ここは佐賀の山塊の東部の岬状の所にあった。

幡はこの岬から媛社神社のある岬へ。
そして、再び戻って来た。


この世界にアクセスしようとすると、モヤがかかる。

それは私の遠い記憶と関わるからか。
あるいは関係ないことだからか。



舞い踊りながら降りてくるクツビキとタタリ。

タタリから思い出すククリ。
白山ククリ。

天河弁財天。黄金の光の柱が立った。

再び天山。

広島 厳島神社。創造と崩壊の山。


私の思考はグルグルまわる。

それはそれでいいのだろう。







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「神のミソギ」そんな言葉が浮かんだ。


それから「変容」が始まる。




<2017年9月1日>






姫古曽神社の過去記事五つ。
   
(6)肥前国風土記的ガイド 媛社(ひめこそ)の鄕 「荒ぶる神」とは?





(7)肥前風土記的ガイド 珂是古(かぜこ)





姫古曾神社1 祭神は何故、市杵島姫なのか





姫古曽神社2 市杵島姫とニギハヤヒ





姫古曽神社3 彗星の化身・市杵島姫










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by lunabura | 2017-09-01 20:46 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご89 大中臣神社 藤原広嗣が創建した



ひめちゃご89

大中臣神社

藤原広嗣が創建した
 



前回の福童神社から600mほど南下した平地に大中臣神社がある。
将軍藤で有名だが、今は初冬。








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神社のランドマークともいえる銀杏が遠くからでも見えている。






c0222861_2010339.jpg

楼門は小郡市の文化財指定となっている。

案内板によると、
<平安時代の斉衡3年(856)作成の筑後国神明帳(高良下宮社神明帳)
に『西福童大中臣神』の神名が記載されており、
今から1100年以上昔、既に神社が存在したことを証するもので>
とある。







c0222861_2011169.jpg

楼門を潜るとさらに奥に社殿が鎮座していた。








c0222861_20111564.jpg


祭神は大中臣大明神、春日大明神、住吉大明神とあるが、
『福岡県神社誌』には「天児屋根命」とのみ記載されている。

地元の「小郡市の歴史を守る会」HPに、次のように記載されていた。

<【大中臣神社】
 大中臣神社は天平12年(740年)に藤原広嗣により創建され、
嘉禄2年(1226年)現地へ遷宮されました。

天保6年(1835年)、現在の社殿が再建されたと言われています。

祭神は天児屋根命(主祭神)、武甕槌命(脇祭神)、経津主命(ふつぬしのみこと)、
三筒男命(脇祭神)。>

この宮は藤原広嗣の創建だそうだ。




広嗣について、ウィキペディアによると、
<天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が
天然痘の流行によって相次いで死去した。

代って政治を担ったのが橘諸兄であり、
また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、
藤原氏の勢力は大きく後退した。



天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は
大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。

広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。

天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、
吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。
9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。>

とある。


740年の上表文が挙兵と誤解されたのか?

大宰府で挙兵するとなると、何らかの勝算もあったはず。
ウィキペディアの説明では見えない構造的な問題があったのだろう。


この740年に大中臣神社を広嗣が創建したということは、
当社に並々ならぬ祈願があったということだろう。

この宮は1226年に現在地に遷宮したとあるので、
当初はどこで創建されたのかは分からない。


広嗣の古戦場は板櫃川(いたびつ)川だという。


到津(いとうづ)八幡神社(下巻91)はそのそばに鎮座する。

こちらは大将軍大野東人が戦勝祈願していた所だ。







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さて、次の宮に行こう。






大中臣神社








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by lunabura | 2017-08-31 20:17 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)
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