ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:「ひめちゃご」( 111 )

検見谷遺跡3 谷を愛でる民



ひめちゃご番外

検見谷遺跡3 

谷を愛でる民
 


さて、佐賀県三養基郡(みやきぐん)の検見谷遺跡から
12本の銅矛が出土したが、その場所が分からなかった。

ありがたいことに地元の方からも連絡があった。

ところが、記事を書いた日、資料を保管するために整理していると、
北茂安町の史跡巡りマップが出てきた。

すっかり忘れていた。
見ると、そこに検見谷遺跡が書かれているではないか。

ゴルフ場内の左端に番号がふってあるだけだが。

目安は、
白石神社から南南西約500m。
北茂安中学校から東北より少し下がったところ約500mほどの地点。
通瀬川の谷の支流(支谷)に当たる。

これまた、アバウトな説明だが、これを元にチェリーが調べてくれた。





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なんと面白い地図だろう。

あとは、調査報告書と照らし合わせれば良いだけになった。

メールでは、他に北茂安中の西400mの大塚古墳の連絡があった。
時代は違うが同じ台地にあるようなので、
いろいろと考察すると面白そうだ。

地元の方こそ、時代順に史跡を並べたりして、
基礎資料を作れば大きく進展する。

縁があれば、私もまた探訪することになるだろう。



さて、話を戻すが、私が出土地にこだわるのは、
これが出雲と同様の急斜面であることだ。

実は、女山(ぞやま)にも谷に埋納した銅矛が出土している。

土蜘蛛・田油津姫が逃げ込んで殺された場所が女山。
そこには神籠石があり、谷に埋納した銅矛二本が出土している。

谷に祈る人たち。
その存在が神籠石や銅矛から透けてみえてくる。


阿志岐、鹿毛馬、杷木の神籠石は谷を囲む構造になっている。
神籠石と銅矛の埋納に共通するのは「谷」への崇敬なのだ。

土蜘蛛たちが何故、渡来してきて山に住んだのか。
その答えは鉱山にある。

だから、私は出土地に強く関心をもっている。


さて、次回の歴史カフェは福岡での渡来人たち(古代氏族)の分布を
簡単に確認する。

そして、少しずつ、個々の渡来人たちに取り組みたいというのが
私の願いなのだ。



<2017年11月5日>   <ひめちゃご>番外編






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by lunabura | 2017-11-05 19:41 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご104 始まりの宮へ



ひめちゃご104

始まりの宮へ
 

物部神社から姫方若宮八幡宮へ向かった。

「ひめちゃご」の始まりの宮だ。







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真直ぐの古代道が綾部八幡宮まで続くという。
その途中に姫方若宮八幡宮がある。

狭い車道を北上した。

この日、ウメとタケと私は現地でミノリ一家と合流した。

ミノリこそ「ひめちゃご」という言葉を生み出した人だった。






民家の前を通って
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狭い参道を上っていくと、









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見慣れた姫方若宮八幡宮に出た。
銀杏が輝く季節だった。


ここもまた古代の岬の先端に建っていた。
ここから見える山々は古代の天文観測の名残を教えてくれた。



この宮の祭神は『中原町史』によると、
住吉大神、仁徳大神、武内大臣となっている。

八幡三神でも、次世代の三神ということか、
応神天皇の名が見られない。










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その拝殿にはめずらしい葡萄が彫られていた。
江戸時代の建造なのか、明治に入っての建造かは不明だが、
葡萄とはこれまた瀟洒な西洋的モチーフだ。











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神殿の方には龍と桐。天皇を祀るにふさわしい。










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ところが、他はどうだ。










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波と花に埋め尽くされていた。

いかにも女神の装いなのだ。

ミノリが参拝する時に現れるのは女神だという。


この姫神が誰なのか、それを探す旅でもあったのだろうが、
市杵島姫命が最有力候補だった。


町史も
「原始八幡信仰の神籬から、宗像女神に、宇佐八幡系が入りこみ、
若宮八幡の占有する姿を漂わせている気がする。」
と書いている。

この「中原宿は姫方村の枝村であった」ので、
そこと同じ神を祀っていた可能性があると考えているようだ。

この点は氏子からも「同じ神を祀っている」と聞いている。

町史はさらに、次のように鳥栖の「姫古曽神社」を引き合いに出していた。

<鳥栖市旧基里邑に「姫古曽神社」があって、集落を姫方とよぶ。
祭神は「市杵島姫命、住吉大神、八幡大神」である>

総合すると、この「姫方若宮八幡宮」は鳥栖の姫方の飛び地なので、
「市杵島姫命」を祀っていたと考えられるのだ。

時代は違うが、ここには「中原宿」があり、伊能忠敬が宿泊していた。

<肥前国三根郡なる堤村、寒水村字中島姫方村内中原町駅場止宿>
と書いていることから、当地は「姫方村」と称していたことが分かる。


明治になって、鳥栖の方の祭神は元の形に復元されて
市杵島姫命が再び祀られるようになったが、
この枝村には及ばなかったのだろう。

市杵島姫命の名は公には出ないままとなった、と考える。



神殿に彫られた「波と花」。
それらは市杵島姫命が「水」を司ることを象徴していると思われた。

恵みをもたらす側面と災害をもたらす側面の
二つの顔を持つ「水の女神」
それが市杵島姫命だったのではないか。







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さて、私たちは参拝を済ませると、
中原中学校の校庭にある前方後円墳に向かった。

『中原町史』は以下のように、被葬者を女首長と考えていた。


<中学校前提の前方後円墳に収めた墳主は、
この地の部族の女の首長ではなかったかと考えられる>
さらに、
<この神社のある姫方原一帯は広い範囲に、世代を異にする弥生住居跡が、
多数出土する遺跡である>
とも記す。

これは6世紀の古墳だそうだ。
グラウンドには弥生の墓地もたくさんあったのだろう。



このあと、私たちはさらに、北浦天神社と雌塚に行った。
日が沈む時間が近づいていた。

晩秋の姫方郷をそぞろ歩きして戻ってくるとき、ミノリが
「あの綺麗な女神は市杵島姫」
と言った。
やはり、そうだったのか。

ミノリは鞍手に行って星読とも会っている。

星読が、
イチキシマ姫は佐賀に逃げた、と言ったことを思い出す。
不思議な附合があったことになる。
こうして、ヒメコソ神の三社参りは五社参りとなった。


この「ひめちゃご」は2016年8月から書き始めていて、
いつのまにか一年以上も経っていた。

この始まりの宮で筆を置こうと思う。

すでに、次の巻物が開かれている。

何が書かれているのか、先はわからないが、
これからも日々の記録を残していこうと思う。





        終




                      <2017年11月3日>




メールやコメントの返事が遅れています。
少々お待ちくださいね。




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by lunabura | 2017-11-03 21:11 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご103 検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を



ひめちゃご103

検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を
 


前回、検見谷遺跡の場所が分からないと書いたが、
チェリーが出土したという佐賀カントリー倶楽部の地図を作製してくれた。








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以下はそのコメント。

<いろんな地図を合成して、マウスでなぞったという荒い地図ですけど…
黒い線が佐賀カントリー倶楽部の範囲です。

赤い線が標高20mの等高線、暗い赤の線が標高30mの等高線です。

佐賀カントリーの左上の端あたりに、西から入って南に登る谷がありますが
(白石神社・白石焼窯元への道を登り詰めて、
クラブハウスへの道に合流して、南に進むのですが)、
佐賀カントリーに達する前に標高30mを超えてしまいます!
該当する場所が見つかりません!!>

赤い標高線のラインより4m高い所に遺跡があるという。
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。

この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、南へ入り込む小支谷の斜面上で、
標高約24メートルの場所である。>

これを追求するのも面白そうだが、これは是非とも地元の方にお願いしたい。


今、12本の銅矛は文化庁にあるという。
文化庁や他県の大学に行ったものは地元から忘れさられる可能性がある。

そうやって、九州の歴史は失われていく。

背振山系の南麓にはずらりと古代の最高レベルの文化が花開いている。

奇跡的に保存された吉野ケ里遺跡レベルのものが
台地ごとに存在して、古代人の営みがあったのだ。
その古代人の心の支えが神社だった。

佐賀の奇跡はもう一つ「肥前風土記」が伝わっていることだ。

景行天皇の時代を軸にして、古代道を今でも感じることができる。

誰か、チェリーの描いた地図に赤い点を打ってほしい。

画竜点睛。

方法は、検見谷遺跡の発掘報告書を手に入れるか、
佐賀カントリー倶楽部に問い合わせる。

そうして、その人には、新たな旅が始まるのだ。
古代の歴史がアイデンティティとなり、
次世代の子供たちのチカラとなっていくのだ。



<ひめちゃご>
<2017年11月1日>






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by lunabura | 2017-11-01 23:24 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご102 検見谷遺跡 12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった



ひめちゃご102

検見谷遺跡 

12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった
 


さあ、弥生時代に遡ろう。

やけに遺跡が多い北茂安町だが、出土は22号線以北に集中するという。
そこまでは海が上がってこなかったのだ。

丘という丘は甕棺や住居跡だったのではないか、と想像したくなるほど多い。

そして、あの麗しき12本の中広型銅矛がこの地域から出土していた。








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この12本の銅矛が出たのは旧北茂安町だったが、場所が特定できない。

町史にその記述を見つけたが、
住所は「大字白壁字一の幡」としか書かれていない。

HPでも場所が示されていないという異常事態だ。

この場所について、町史では
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。
この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、
南へ入り込む小支谷の斜面上で、標高約24メートルの場所である。>
と書かれている。

これではいったいどこから出土したのか、全くわからない( ;∀;)

手掛かりは
<銅矛の発見は、(略)その土地を所有するゴルフ場の職員による
樹木移植作業中のことであった。>
とあり、そのゴルフ場が佐賀カントリー倶楽部だ
ということだけが分かった。

地図をいくつも照らし合わせるが、わからない。









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チェリーの地図だと、画面右下の丘陵地帯がゴルフ場らしい。

物部神社の東に谷がいくつもあるが、そのいずれかだろう。
さすがの、るな探偵もお手上げだ。

出土状況は12本を刃先と袋部を互い違いにして埋納していたという。
このような埋納法は
春日市岡本辻遺跡や那珂川町安徳遺跡と同じだそうだ。

銅矛の長さは82・2~83・8センチ。
綾杉状の文様が研ぎだされている。

これと共通点が多いのが島根県斐川町の荒神谷遺跡だという。
銅剣が358本出土したが、そのほかに16本の銅矛が出土している。

互い違いに置かれ、刃を立てた状態は検見谷遺跡と同じで、
丘陵斜面の中腹であり、
等高線とほぼ並行した状態で埋納されたという点でも一致しているそうだ。

荒神谷遺跡の16本の銅矛のうち、中広型は14本で、
綾杉文様があるのは7本だというので、検見谷遺跡の方が多い。

鋳型は北部九州や四国の西部に限られるということだが、
たしか、出雲の銅矛の鋳型は春日だと聞いたことがある。

出雲の銅鐸と「吉野ケ里遺跡から出土した銅鐸の鋳型」が一致した話もあり、
この佐賀東部と出雲との関連は検見谷の銅矛の出土から、
さらに深いものになった。

それにしても、どうしたことか。
荒神谷遺跡の出土地は簡単に見学できた。
それなのに、検見谷遺跡は出土地の確認さえ、一般人には出来ない。

さらに、六の幡遺跡の29号甕棺は弥生後期初頭で、
完形の連弧文昭明鏡という中国製の鏡が出ている。

なんだか、すごい出土品の数々なのだ。
こんな情報が今どき、ネットでも見られないのは問題だと思う。


さて、ここは風土記にも登場している。
どうやら、佐賀カントリー倶楽部は『肥前国風土記』では
三根郡に当たるようだ。

町史によると、
「三根郡は、『肥前風土記』によれば、海部直鳥が望んで、
神崎郷の一部をさいてつくったとされる。
郷は千栗・物部・米多・財部・葛木・漢部の六郷があるが、
風土記では物部・漢部・米多の三郷しか説明されていない。>
とある、

葛木郷は物部神社の南にあった。

葛城氏について、町史は「大和の大氏族」と書いているが、
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔の宮で、
葛城氏はもともと九州の氏族だったと思う。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻96番篠崎八幡神社)

そして、巨大な銅矛が制作できたのは加茂氏ではないかと
最近は考えるようになったが、
この地域の南西にはなぜか「加茂」という信号があったのを思い出した。


佐賀カントリー倶楽部



<ひめちゃご>
<2017年10月31日>





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by lunabura | 2017-10-31 21:03 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご101 物部神社2 板部城と中津隈城



ひめちゃご101

物部神社2 

板部城と中津隈城
 


さて、物部神社の西から聞こえてきた
「私たちはここにいます」という森について、
密かに筑後国造の調査を期待していたが、やはり調べてくれた♪

以下はそのコメントだ。

<物部神社の西の森は、板部城という中世の城跡で、古墳は無いようです。
しかし物部神社の西500mの宝満神社
(祭神は玉依姫命であり、息長足姫命、市杵島姫命、大山咋命も合祀されています)
の境内には、前方後円墳である中津隈宝満宮古墳や
他の古墳の石室の石材が露出しています。
また、三階松紋もあります。>

このように、西の森には板部城があることが分かった。

また、さらに西にある中津隈宝満神社にも三階松紋があるという。
「宝満神社と三階松」は珍しい組み合わせになる。

実は、これと前後して、地元に詳しい方が
その宝満神社の画像と掲示板の説明文を寄せてくれた。








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幡の上部に赤い三階松紋が見える。
この石垣が古墳の形状を残しているのだろうか。
ほかの古墳の石材もあるということで、
もともと複数の古墳が築造されていたようだ。

この宝満神社自体は732年に松本というところに勧請されたのが、
812年に現地に遷されたということだ。

すでに古墳があったので、神社を建てる時に一部の古墳が壊されたのだろう。

「城」の話を手掛かりに『北茂安町史』を調べてみた。
すると、ここにも中津隈城があったという。
そして、この中津隈宝満神社が城の核とされていた。

つまり、中津隈城の丘の歴史は、もともと古墳があり、
神社が建ち、城が建てられたことになる。

これと同様の歴史を辿ったのが物部神社と板部城のようだ。



町史によると、板部城の敷地に関しては、
西の森説と、物部神社を含んだ敷地説の二つに分かれるという。











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物部神社の境内には上のように古墳の奥壁が並んでいる。
城を建造するときに、奥壁だけ残されて祀られたような趣だ。

この古墳は物部神社敷地にあったものか、
あるいは西の森から移されたのではないか。














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この場所について、チェリーが新たに作成してくれていた
現地周囲の地図があるので、見てみよう。

物部神社の西に島が見える。(「スーパー地形」の「形」の右側)
これが「中津隈西」といい、中津隈宝満神社が鎮座する所と思われる。

そして、物部神社の南に涙の形をした島(岬)が見える。
そこを「中津隈東」と呼ぶようだ。

「隈」は天文観測所の可能性がある。

「西」と「東」があるということは、中央があるということだ。
「西」と「東」に挟まれた岬には重要な施設があったのではないか。

地名と地形からそんなことを考えた。

なお、『風土記』には物部神社の北、綾部八幡宮の南の地点に
「郡役所」があったことが書かれている。
その場所が神社の形で残っていたら素晴らしいが。

そして、綾部~物部の舌状台地の東を流れる川が寒水川だ。
寒水川といえば、先日の朝倉の水害で氾濫した川と同じ名だ。

綾部~物部の東の寒水川も土砂崩れが起こって、僧が祈っている。
(九千部山の語源由来)
周囲は花崗岩質の風化土からなる丘陵地帯で、
綾部の民が故郷に戻らず居ついたのも納得できる。

さらに古くは阿蘇Ⅳの火砕流が及んだ所でもあるという。
これは9万年前の話だ。

三人の情報のおかげで、漠然としたまま素通りするところが、
地形と由緒をしっかりとみることができた。
三人に感謝。

<2017年10月30日>





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by lunabura | 2017-10-30 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(7)

ひめちゃご100 物部神社 三階松紋は白村江戦後を象徴するか ここにも市杵島姫が



ひめちゃご100

物部神社

三階松紋は白村江戦後を象徴するか
ここにも市杵島姫が
 



「ひめちゃご」もついに100回となった。

壊れたパソコンは復元されて戻ってきたが、
画面が点灯しないという肝心の故障が治っていなかった。

再び修理に出した。
壊れてからもう一月近くになる。

新パソコンにバックアップデータを取り込みながら
「ひめちゃご」を完成させることにした。

幸い、昨年の秋の撮影だったので画像は残っていた。
ファイルを恐る恐る覗くと、イチョウの落ち葉を撮っていた。
丸一年が過ぎようとしていた。



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ここは佐賀県三養基郡。









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物部神社。

忘れもしない。
境内に入ってゲートボール場を過ぎるあたりで声が聞こえた。
「よく来られましたね」
女性の声だった。

思わず辺りを見回したが、当然ながら人はいない。
見えない世界からの歓迎の声に胸が熱くなった。



祭が行われたばかりのようだった。









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この物部神社、神紋がなんと三階松なのだ。






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宮地嶽神社と同じ神紋だ。
九州王朝すなわち倭王朝紋とされる三階松紋を物部神社が挙げている。
その意味が不明だった。
しかし、この難問は「高良玉垂宮神秘書」の解読によって解決した。

倭王朝は安曇族の阿部氏が主体だったが、
白村江の敗戦後、流浪の王家となった安曇族に代わって
高良山に仏教を受け入れて生き延びたのが物部氏だったのだ。

だから高良下宮社には物部氏の社殿に三階松紋がある。
阿倍磐井も皇別とあるので、古いところでは系図が交錯している。

この三養基郡の物部神社も、その背景の上にあるのだろう。
これを知るために、一年の学びをしてきたようだ。



ここはかつて「北茂安町」だった。
「北茂安町史」にこの物部神社が載っていた。

鎮座地は 大字中津隈(板部)とある。

「創建・沿革」に次のようにあった。
<推古天皇は602年2月に来目皇子を撃新羅将軍に任ずる。
皇子は国造・伴造らの軍勢。2万5000人を率いて筑紫に到着する。

その時、物部若宮部をして今の板部の地に「神の社」を建てさせた。
戦勝祈願のためと考えられる。

「肥前国風土記」に
「此の郷の中に社あり、名を物部の経津主之神という」
とあるのが今の板部の「物部神社」であろう。
なお、来目皇子は602年6月病気にかかり、翌603年2月に亡くなっている。
新羅攻撃は中止になったという。
とすれば、物部神社の創建は602年で、北茂安町にある神社の中では
最も古いということになりそうである。>

こここそ、風土記にも書かれた物部神社だった。
しかし当時、社殿が建てられたわけではないだろう。

社殿を造営したのは、正平年中(1346~1370)、当時この地を治めていた地頭・
板部越前守成尚であり、
再建したのは延享5年(1748)、国主・鍋島宗教によっている。

これからすると、後世になって三階松紋になったと思われた。

当社は今は物部神社だが、明治34年までは「板部神社」と称したという。

さて、祭神は物部経津主神とあるが、
町史によると市杵島姫命も祀られていた。

ここにも、まさかの市杵島姫だった。
饒速日の妃として、市杵島姫信仰は
この佐賀東部にずらりと見られたことになる。

さて、この日、参拝を済ませて戻る時、

「私たちはここにいます」

という声が聞こえた。








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声の方を見ると、森があった。


この社を守った一族が奥津城としているのだろうか。
いかにも古代の営みがありそうな丘だ。

この物部神社の創始が風土記にあるように推古天皇の時代だとすると、
あの磐井の乱の時代、朝日山宮地嶽神社に対して、
物部神社は物部氏の拠点となったのではないかと考えたことは
誤りとなる。

しかし、この森から6世紀より前の墳墓が見つかれば、
もともとここには市杵島姫を祀る物部氏がいて、
新たに武神を迎えて祀ったとという仮説もあり得よう。
が、それは発掘を待たねばならない。









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                   (カシミール3D)

チェリーがすごい画像を作ってくれた。
千栗八幡宮や物部神社が岬上に建っていることが良く分かる。
クジラが岬の話をよくしていたね。

一年前に、この画像を東から西へと夕陽に向かって参拝していった。

さあ、次回はいよいよ始まりの宮、若宮八幡神社だ。

<ひめちゃご>
<2017年10月29日>

本日天皇皇后両陛下、宗像大社へ。











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by lunabura | 2017-10-29 19:45 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(8)

ひめちゃご99 明星山  磐井君が見た展望



ひめちゃご99

明星山 

磐井君が見た展望
 


さて、チェリーが明星山からの展望を三方向作成してくれた。

代々の筑紫君が山城を作ったという明星山。

山城そのものは少し下がった所だろうと推測したが、
山頂からの展望は筑後国造のいうように豪快だ。

昔、ここには物部の天津赤星の居城があり、
武内宿祢も長らくこの山中から西海を監察したという。

磐井は東北のカマ石谷から石を切り、「今の社地」に
岩構えをして住んだことから、「岩井」と呼ぶようになったという。

その「社地」がわかれば、磐井の山城が特定できる。
手がかりは「岩構え」だ。

城壁があった。

たぶん、現地に入れば容易に見つかりそうに思われる。
なぜなら、山道が残っているはずだからだ。


『高良山雑記』(わかりやすく改変)
によると、<明星山は別名、般若方谷山といい、
高良内の主人公とみるべき山である>という。

明星山は「高良内の主人公」ということは、
久留米側から見た描写となる。

高良山の西の磐井城と明星山の山城という構えが見えてくる。


<山形勢は雄偉で、頂上は東西80歩、南北170歩。>
細長い平地があったようだ。
頂上から見て、東、北、西の三方面に深い谷がある。












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これは南西の方角の展望。

<南面に山脈を延べ、上妻の諸山となる。
その一線西南に長く引きて、飯盛(いいもり)、膳盛(けもり)、
鳶岳、藤山の諸山と分かる>

八女方面が見えているが、地元の人なら、この描写が分かるだろう。

鳶岳は飛岳か。
また、藤山とは、八女津媛(日本書紀)に出てくる景行天皇のルートか。










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北西~北の展望。
高良山が右端に見えている。
味水御井神社まで道がありそうだ。

<北方に高良の諸峰、毘沙門岳、また名城平杉城、共に湟(ほり)の跡あり。
鷲尾、愛宕、その右翼を張れり。(中略)
絶頂の下に大道ありて小椎尾、逆瀬谷に通じ上妻の諸村に往来すべし>












c0222861_20235325.jpg

西側の展望。
有明海から大善寺に船が入るのが見えたのではないか。
武内宿祢がこの方向を観護していたという。

まさに<筑前、豊前、豊後の諸峰を見る>天然の<城塁>である。

この『高良山雑記』はクジラが提供してくれたものだ。
まさか、チェリーの作画で「明星岳」の項目を目の当たりにできるとは。

両人に感謝。




赤は明星山






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by lunabura | 2017-10-14 20:26 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

ひめちゃご98 祈りと幾何学



ひめちゃご98

祈りと幾何学
 

今朝の目覚めは、
磐井の山城は結界の中心点ではなく、
自衛隊の射撃場付近ではないか、
というものだった。

自衛隊の訓練地を選定するとき、
ある程度の平地があったのではないか。
そここそ、籠城のための山城ではなかったか。
そういう思いで目覚めた。

軍備に適する地というのは、今も古代も地形上、
重なり合うのは当然のことだ。

今でこそ、遺跡の出土品は市町村に伝えるが、
かつては鏡が出ても近くの神社などに預けるしかなかった。

早く開拓された地域の出土物の多くは離散したことだろう。

ただ、今回の結界のようなものは痕跡を残す。



さて、「ひめちゃご」の始まりのきっかけとなった
ウメとタケそしてミユと先日久しぶりに顔を合わせた。

ウメとタケは地図上で住んだ土地を結び、
「正三角形」を描く頂点に行くと
縁がある人に出会えるという。
60度だ。



同じ三角形でも三橋一夫が発見した「聖三角形」といえば、
30度、60度、45度、90度を利用した図形で、
古代人が天から気を降ろして、この角度を使った三角形で
気を広げていく手法を見つけ出した。

三角定規の直角三角形や二等辺三角形の形だ。

これを三点法というが、日本全国に聖三角形が描かれている。

これを描いた古代人は時代の変化で仕事を失うと、
前方後円墳の設計をしたと推定している。

現代では前方後円墳は左右対称のように描かれるが、
それは現代人が勝手に変えたもので、左右不対称が本質だ。
現代人の合理的思考が古代の祈りのカタチを見えなくしている。

チェリーの利用する角度が聖三角形に近い。

何故、有意の三角形は縁を結ぶのか。
そんな話をしていたとき、
伊勢神宮の斎宮の「折り紙」の話を思い出した。

祈りの手法の一つに「折り紙」がある。
一定の形に紙を折ることで祈りを成就させるというものだ。

この技術がのちに多種多様の折り紙となっていく。

私の関心は「紙を折ること」が
何故、願望成就になるかという点にあった。

そこで、思いついたのが、
祈りが成就する高次元とは幾何学の世界だということだ。

真言密教の両界曼荼羅も、
胎蔵界なら円の八等分(45度)、
金剛界なら正方形の三分割。(90度)
そこに擬人化された現象界が仏の姿を採って並んでいる。

曼荼羅とは宇宙の仕組み。
そこは幾何学の世界でもあるのだ。

成就した世界が存在する高次元が幾何学の世界だとすると、
言霊(ことだま)より、向こうの言語である幾何学の方が伝わりやすい。
それを古代に知り得た人がいたのだろう。
だから、大変貴重な紙を折り畳んで聖なる角度を作って祈る。

聖なる角度は天と通じるチカラがあると考えられたのだろう。
聖なる図形と人間の願望をつなぐのが巫女だ。

その聖なる角度を大地に描く人たちが古代にはいた。
そのポイント一つ一つに祈りの祠が置かれた。
だから、神社を繋ぐと聖なる三角形が出来るのだ。

祈りと幾何学は密接に繋がっている。




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by lunabura | 2017-09-19 20:32 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(12)

ひめちゃご97「鷹取山結界」と脊振山と代々の筑紫君



ひめちゃご97

「鷹取山結界」と脊振山

代々の筑紫君
 


「鷹取山結界」についてブログに挙げると、
それに関する電話が複数あった。

糸島~脊振山に形作る龍を教えられていた人の話とか。
また、酔っぱらうと物部が出る人が「鷹取は三つある」と言った話とか。
いったい何が始まったのやら。

チェリーが、結界の中心を作図してくれた。









c0222861_21485085.jpg

明星山の頂上から南西に下がった所にある。
陸上自衛隊の正面から国分寺跡を結ぶ道路にも赤い垂線が重なっていた。
かなり古い道だったのだろう。

南への垂線にも道が重なる部分があるようだ。

さらに、中心部を拡大してくれた。







c0222861_2150720.jpg

中心点は明星山からの尾根の﨑に当たり、視界が良さそうだ。
東~南は急峻で守り易い。

飛岳も視界が効くということで、物見の砦でも置きたいところだ。
代々の筑紫君の山城を探すにはこの中心点からが目安になるだろう。

江戸末期の記録には山中に「社地」があったという。

磐井君はカマ谷から石を採って強固にしたので、
磐井の名がついたとも言われている。
「社地」には何らかの石垣が残っているはずだ。

三つの鷹取山によって結界を築いたと考えてよいだろう。


【脊振山】(せふりさん)
その龍を思わせる脊振山系について、昨日、真鍋を読んでいると、
脊振山は金龍山(からやま)とも言ったと伝えていた。
徐福関連の地名の金立(きんりゅう)はそこから付いたという。

神功皇后が登頂して神々を祀り、航路の説明を受けた。
また、
<行基、最澄、空海、栄西に至るまで唐土で修業した名僧智識は
韓泊(からどまり)で船から上がるとまず
脊振山頂に詣でて四方を拝し、
それから大宰府に下りて帰朝の手続きを済ませたのである。>
(『儺の国の星』)
と記す。

今は自衛隊のレーダーがあるが、
駐車場の近くの池は「龍ケ池」というそうだ。

鉱物の金も採れ、薬草が多彩だという脊振山系は
私たちが思う以上に神の山として崇敬されていたようだ。

八女の飛形山から見ると、脊振山を中心に両翼が控える形に見えた。


やはり脊振の龍脈と鷹取山結界と代々の筑紫君は深い関わりがあるようだ。






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by lunabura | 2017-09-18 21:52 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご96「鷹取山結界」の中心に筑紫君の城か(磐井の山城)



ひめちゃご96

「鷹取山結界」の中心に筑紫君の城か

(磐井の山城)
 




「鷹取山(たかとりやま)結界」の中央部をチェリーが拡大してくれた。
国土地理院の地図を使用するには大きさの制限があるのだが、
なんということだ。
分割という手段を見出している(;’∀’)
制限ハードルを見事にクリア!







c0222861_223052.jpg

これをつらつら見ていると、明星山の中腹あたりが中央にに見える。
くじらも指摘したが、ここは「代々の筑紫君が居た」山城があった。
名前が筑紫城かどうかは不明だ。
そここそ、磐井の山城でもあった。
その前は物部の天津赤星が居た所だ。


この明星山と高良山の間の扇状地を「高良内」(こうらうち)という。
こここそ、万葉集の第3番、4番の「内の大野」ではないかと推定した場所だ。


天皇 宇智の野に 遊猟(みかり)したまふ時
、  
天皇が内の野で狩をされるとき、

中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして 
中皇命が間人連老に、献上するように

献(たてまつ)らしめたまふ歌 

(長歌はリンク先へ)

反歌
たまきはる 内の大野に 馬なめて 
朝踏ますらむ その草深野






思いがけず、過去記事の万葉集の「内の大野」が出て来た。
この全体は「内考」というタイトルでサイドバーに置いている。



そこには今、自衛隊の駐屯地などがあるが、
かつては古墳がずらりと並んでいたという。

福山裕夫(久留米大)は、そこに古代の星の観測の痕跡を見出している。



そこから斜め上に道を拾うと、国分寺跡が出てくる。
この斜め道がどうも綾部神社裏の鷹取山へのラインに重なって見える。

なんとなく、古月のドラゴンカーブも思い出させるような斜めの道だ。




一方、南の鷹取山から北の岩戸山古墳を通り、
さらに北上するとツインの磐井城の前を通る。

途中に宮地嶽神社もある。








c0222861_2233765.jpg

これは歴史カフェなどで使用した付近図。
次著でも詳述する。

この付近が中央部になるような気がするが、どうだろうか。
くわしくはチェリーのコメントを待とう。



歴史はラセン階段をぐるぐると昇ったり降りたりするようなものだが、
まさか、ここに及ぶとは思いもしなかった。


水沼君に関しては赤司八幡神社も大善寺玉垂宮も結界の外となった。
チェリーの言うように、それもまた意味があるのかもしれない。





ここまで書いたら、リラから電話があった。
「鷹取山」と「高取山」を調べていたそうだ。

日本全体ではこの二つの山名を持つ山がそれぞれ16、17山あるらしい。
福岡ではそれぞれ四つずつあるという。
その目印となる山や地名を書こう。

「鷹取山」は御牧山、三養基町、耳納山系、福知山。

「高取山」は矢部(八女津媛神社そば)大牟田、天山~川上峡、山鹿との境界付近

山城がある山が多いという。

また、脊振山頂上付近の池は「龍ケ池」といいい、
竜宮城に繋がっているという話があるそうだ。

脊振神社下宮には風穴がある。
沖ノ島の南には芥屋の大戸がある。

このメモは聞き間違いがあったら訂正をする予定だ。



情報が必要な人の所に届くよう、お互いに出し合おうと言って話を終えた。





※歴史カフェと台風の件


歴史カフェの当日、台風が通過しそうです。
現在の予報では9月17日の朝には抜けるようになっています。
台風の情報によっては、変更をしなくてはならないでしょうから、
ご参加の皆さん、前日にブログを確認してくださいね。







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by lunabura | 2017-09-14 22:36 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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