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カテゴリ:八剣神社・やつるぎ・鞍手郡( 3 )

八剣神社(1)ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった


八剣神社(1)
やつるぎじんじゃ
福岡県鞍手郡鞍手町中山
豊かな里山の神名備山に
ヤマトタケルをもてなした一族の神社があった


宗像の国道三号線沿いの富地原信号から、鞍手町への案内板に従って行きます。
峠道に入るとすでに里山の風情。
名前もゆかしい猿田峠を出ると、そこは別世界。
山々に囲まれた、古代の香がそのまま残るような鞍手町に入ります。

町の中を走っていると、とにかく目に入るのが、剣岳。
里山の人を見守るような独立した低山は125メートル。
如何にも古代からの信仰の対象となるような神名備山です。
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ここの中腹に八剣神社があります。

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駐車場に車を止めると、すぐそばに鳥居があります。
巨木が生い茂っていて、いかにも古代からの聖地の趣きです。
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参道の両脇はお祭の時に提灯を灯すのでしょうか。
ずらりと瓦屋根の付いた、棚が続きます。
夜祭りにこの石段を上って行く、晴れやかな気持ちの人々の息遣いが聞こえて来そうです。
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拝殿に出ました。

境内には灯篭や狛犬、記念碑などが沢山あります。
いにしえから、崇敬の篤いようすが伝わって来ます。

さあ、今回は『福岡県神社誌』から、ここの歴史を紐解きますよ。
祭神 
日本武尊(ヤマトタケル) スサノオの命 ミヤズ姫の命

由緒
当社は人皇二十七代、安閑天皇の御代に田部人麿という者の神託によって、
この山の上に斎き祀っています。

昔は近郷に比べるものがないほどの御社で、ご神徳はあまねく知られていました。
又、足利尊氏がこの国に没落の時、
左兵衛督直義が当社で武運を祈ったのち、正殿を再建しました。

ここのご祭神は、あの有名なヤマトタケルの命と后のミヤズ姫
スサノオの命でした。
いったい、どのような事情でこの三柱が祀られているのでしょうか。
由緒では田部人麿という人に神託が降りて、祀るようになったと書いてあります。
また、足利尊氏がここで武運を祈っています。

これだけではよく事情が分からないのですが、神社誌を読み進めると詳しい話が載っていました。
祭神の日本武尊豊日別神社に祭祀してあったのを
明治時代に合併しています。その社説にこう書いてありました。

日本武尊が熊襲ご征伐の時、当国を経歴されました。
酋長の今朝麿(けさまろ)は皇子が来られたのを聞き伝えて、手厚くお迎えしました。

日本武尊は広野の石に腰かけて、この国の風俗や地理などをお尋ねになりました。
今朝麿はつぶさにお答えしたので、尊(みこと)は大変喜ばれました。

程なく熊襲を平定して、都に帰る時、再びこの地に留まられたので、
今朝麿は仮宮を建てて守護し奉りました。

尊は剣岳に登って、よくよく四方の風景をご覧になって、言いました。
「この山は他の山より勝れている。
私が今熊襲を平定して国民が帰服して、おのずから静かになった世の中山かな。」
(世の中・中山…掛けことば)
と。ここから中山の名が起こりました。

いよいよ都に戻ろうとして、この山を降りた時に、雷雨が激しかったので、
尊は御供の人たちと木の陰に休み、八つの雷の神を祀ると、雷雨がたちまちに止みました。
(この場所を八雷社と言います。)

雷雨が晴れたので尊は神前原を通って、しばらく(滞在して)休息したしるしを残そうと、
今の日吉神社のある所から三町ほどの所に、弟彦公に松の木を植えさせたので、
ここを植木の森と言って、その邑(むら)を植木の里と言うと伝え聞いています。

それから月日が経って、安閑天皇の御代に,今朝麿の遠孫の人麿に神託が降りて、
この剣山上に創立して奉斎しています。

豊日別神社の方に詳しい話が伝わっていたのですね。ずいぶん具体的です。

伝承のあらすじは
ヤマトタケルがこの里に来たのを、長の今朝麿が手厚くもてなし、
帰路に立ち寄った時には仮宮まで建てた。
剣山の上で、ヤマトタケルはその山を称えて、中山の地名が起こった。
記念に松の木を植えた所は植木の里と言うようになった。
それからずっと後、
今朝麿の子孫の人麿に神託が降りて、剣山の上にも祭祀するようになった。
という事です。地名の中山も植木も今に伝わっています。


この由緒書によって、ヤマトタケルが熊襲征伐に行った時の、ルートが見えて来ました。
遠賀川からここで上陸して、さらに南下して行ったと見えます。
この鞍手町は物部氏の本貫地という話ですから、
ヤマトタケルがここに来るのも軍事的な援助を得る為の可能性があります。

さあ、神社誌の続きを読んで行きたいのですが、この神社の御祭神を理解するために、
『古事記の神々』でヤマトタケルの命について現代語訳しておきましたよ。もう、びっくりする事ばかりでした。

高校生ぐらいの年齢のヤマトタケルがどうして、この八剣神社の里までやって来たのか、
そして、后のミヤズ姫との関係について、是非読んでおいて下さいね。

(つづく)






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by lunabura | 2010-06-20 14:14 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

八剣神社(2)三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ


八剣神社(2)
三柱の神々に受け継がれたのは草薙の剣だったよ

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それでは、『福岡神社誌』の続きを読んで行きましょう。
また、天智天皇七年十一月、新羅の沙門・道行が草薙の剣を盗んで帰る途中、筑紫まで着いた時に風雨に遭って、その剣は日本の境を出る事はなく、この山にしばらく安置していました。
昔は近郷に並び無い御社で、神徳はあまねく知られて、植木の庄・本社と称えられました。

おお、有名な草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)の話が出て来ました。

草薙の剣って盗難事件があったんですね。
取り返された後、しばらくこの神社に安置されたという事です。

この背景を調べてみました。

熱田神宮の御神体である草薙の剣を新羅の僧侶が盗み出すという事件が起こっています。
その僧の名前は道行で、途中で捕まって、草薙の剣は無事に戻って来ました。

この道行がどうなったのか、ネットで調べると、
大阪で剣を手放した。
牢屋に入れられたが、許されて、近くで寺を創建した。
博多で死刑になった。
新羅で死刑になった。

といろいろありました。 
この鞍手町の古物神社の由緒には「草薙の剣が古門に落ちて来た」
というのがありましたよ。

もし、道行が北部九州で捕まったとしたら、その剣の保管場所が必要です。
その時には、ここに届けられた可能性は十分にあります。
この鞍手町は物部氏の本貫地だったのですね。
物部氏は、代々、天皇家を補佐する役職についていたので、連絡網があったのは間違いないです。
(古物神社で少し調べてみましょう。)

祭神のミヤズ姫にこめられた暗号
ヤマトタケルには6人の后がいました。
ヤマトタケルの配偶神を選ぶとしたらオトタチバナ姫かなと思いましたよ。
だって、彼の為に命を投げ出したんだし、この人しか知りませんでしたし…。

ところが意外にも、この八剣神社ではミヤズ姫が選ばれていました。
なぜ、ミヤズ姫なんだろうと、理由を探しました。

そこで、ミヤズ姫とヤマトタケルの関係を思い出して、あっと驚きました。
ヤマトタケルはあの草薙の剣を彼女に預けたまま、亡くなっているんですね。

草薙の剣の歴史ってどうなってるの?
太刀っていろいろあるから、どれがどれか区別がつかなくなりました。
そこで草薙の剣に絞ってその運命をたどってみたいと思います。

草薙の剣を中心にストーリーを書き変えます。
ヤマトタケルの命は伊勢神宮で斎宮をしていた叔母のヤマト姫から草薙の剣を授けられました。
それから、東国を廻るのですが、相模の国で、国造の罠にはまって、野原で火を点けられます。
その時、太刀で草を刈り取って火打ち石で火をつけて、助かりました。
これでこの太刀を草薙の剣と言うようになりました。

そののち、尾張の国に行って、ミヤズ姫と結婚します。
それから、草薙の剣を彼女に預けたまま、伊吹山の神を討ち取りに行って失敗し、
だんだん病気がちになって、死んでしまいます。

最期に「乙女の 床の所に 私が置いた つるぎの太刀。その太刀はどうなっただろう。」
と、草薙の剣を詠んでいます。

古事記ではここまでしか書いてありませんでした。
この後、どうなったんでしょうか。
ミヤズ姫はこの剣の謂われ を知る事になります。
この草薙の剣はもともとスサノオの命が出雲でヤマタノオロチの腹の中から発見したものであり、天照大御神からニニギノ命に降ろされて、歴代天皇が所持していた由緒のものだったのです。
それを知って、ミヤズ姫は剣を熱田神宮に納めました。こうして草薙の剣は御神体になりました。
その後、それを新羅の僧・道行が盗みましたが、無事取り返されました。
ここまでが共通のお話です。
その後の事は、先ほど書いた通りです。
その草薙の剣がこの山に一時期保管されたという話が神社に伝えられていた訳です。

八剣神社の御祭神を思い出しましょう。
日本武尊(ヤマトタケル) スサノオの命 ミヤズ姫の命 です。
この神社の御祭神たちに共通のもの、それは草薙の剣でした。
昔の人はこの三柱の神を見ると、草薙の剣が、
スサノオの命 ⇒ 日本武尊 ⇒ ミヤズ姫
と渡っていった事を容易に思い起こしていたのでしょうね。(ですから、暗号でなくて常識でした…。)

この鞍手町には剣の字のつく神社が沢山あります。
調べて行くと、記紀に書かれていなかった歴史がいっぱい残されているようです。

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神殿の写真です。光が虹色に写りました。しかもカーブしているように見える?
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同じ神殿です。なんだか、ヤマトタケルの白鳥の翼のように見えました。

では、次回は、この上宮に行ってみましょう。


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by lunabura | 2010-06-19 13:07 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

八剣神社(3)上宮・ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ


八剣神社(3)上宮(剣岳城)
ヤマトタケルの行宮跡は眺めが抜群だよ

舗装された一本道を登っていくと、広い駐車場があります。
そこからいくつもの道が頂上に向かっています。どれをとっても大丈夫です。
廻りの木々は桜がいっぱい。ここは桜の名所なんだ。

ゆるやかな遊歩道に導かれれば、ほどなく頂上に出ます。
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眺めが抜群です。なるほど、ヤマトタケルの命が褒め称えたはずです。
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六ケ岳方面を撮りました。
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頂上には見晴らし台があり、剣岳城の説明板がありました。
ここには山城があったんですね。
なるほど、これまでも360度の展望の地なら山城がありました。

だれのお城なのか、ちょっと読んでみましょう。
剣岳城
剣岳城の歴史は、言い伝えによると応仁年間(1467~1468年)、梅野土佐が築城したことに始まります。その後、文明年間(1469~1486年)宗像氏の下城となり、野中勘解由が城代として、宗像氏の防衛にあたりました。

1500年代、秋月氏の支配下におかれ、跡部安芸守が城代となりますが、戦乱の世となり、度重なる合戦ののち、天正年間(1573年~1592年)豊臣秀吉が九州を平定したころに落城したと伝えられています。

発掘調査の結果、この城の本丸に、建物跡、井戸の跡が確認されました。そのほか、防衛設備として、本丸の四方に石垣、北東側を除く三方に竪堀(たてほり)南東側に土塁、北東側に二重の土塁、空掘が築かれています。

また、敵が一勢に攻め込まれないように、出入口がコの字状(虎口)に造られています。このように、剣岳城はその歴史や城の構造から、居城ではなく、防衛設備が整った戦略的な城だったと考えられます。

頂上にはもちろん八剣神社の祠もありました。
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ヤマトタケルの命田部今朝麿が建てた行宮(あんぐう)でしばらく休息しました。
この地を去る時に雷雨に遭い、その時祀った雷神も八雷神社として残っていますが、
新幹線が通るために、この八剣神社に合祀されています。

地図 八剣神社 



では、次回は同じ鞍手町の古物神社に行ってみましょう。



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by lunabura | 2010-06-18 11:25 | 八剣神社・やつるぎ・鞍手郡 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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