ひもろぎ逍遥

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カテゴリ:古物神社・ふるもの・鞍手郡( 4 )

古物神社(1)宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった


古物神社(1)
ふるものじんじゃ
福岡県鞍手郡古月村大字古門字西山(旧名)
原初の神気を今なお残す宮
宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった


国道三号線、富地原から猿田峠を通って鞍手に入ったら最初の信号、新延(にのぶ)で左折します。
伊藤常足翁旧宅」の案内板を目印に左へ左へと曲がって行きましょう。
古物神社への案内板はないのですが、
伊藤常足が古物神社の神主さんだったのでそれを目指せばOKです。

この人は国学者で、『太宰管内志』という本を書いた事で有名なのです。
途中の道は人家もほとんどありません。山脈の中腹を横ざまに走って行きます。
なにせ山の中です。いつものように、こんもりとした杜を目指しても、駄目です。
案内板のおかげで、そこが古物神社と分かりました。
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桜の青葉とアジサイの青い花に迎えられて、参道を歩きます。
古木の作り出す、しっとりとした空気に心が躍ります。
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ここは山であり、里である。人々と神社の始まりを思わせる趣が残っています。
いくつかの石段を登りつめると、古き宮の前に出ました。
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形容しがたい重厚さです。
神霊と土地の融合したエネルギーが古代からそのまま残っているような聖地でした。

参拝を済ませて、境内をぐるりと回ると、古い祠がたくさんあって、それぞれに立札が掲げてありました。
とても分かりやすく、どうやってここに勧請されて来たのか、歴史が偲ばれます。

特に境内の右側は一段高くなっていて、そこにもずらりと祠があります。
祠の中の御神体は大体、楕円の石でした。
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では、早速、『福岡県神社誌』を見てみましょう。
祭神
天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、
神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神

ずいぶん沢山の祭神ですねえ。
でも、よく見ると神功皇后の八幡グループと、八剣神社のグループがありますよ。
まずは、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇
    香椎宮からずっとお馴染みの「夫と妻と子」の組み合わせです。
続けて日本武尊、スサノオの命、ミヤズ姫の神
    これは八剣神社の三柱と同じ組み合わせです。「草薙の剣の継承者たち」でした。
残りは天照大御神布留御魂神です。
どうやら三つの神社が合体しているようです。
では続きを読みましょう。
由緒は不詳。
祭神・布留御魂神は大正時代に布留神社から合祀している。
社説に曰く、当社は、もと剣神社、八幡宮、二つの産土神だったのが、文政11年に九州一帯の暴風で剣岳の剣神社の神殿などがことごとく倒壊した。よってこの西山に鎮座の八幡宮に合祀した。
明治4年に神祇官の依命が村の名前の旧号を取って、古物神社と改めた。

これを年代順に置き換えると、もともと剣神社、八幡宮だったのが、
江戸時代に台風で剣山の上の神社が倒壊したために、ここに合祀し、
大正時代に布留神社からも合祀したとなります。そして、明治時代に古物神社と改めました。

だから、こんなに沢山の御祭神となった訳ですね。
八幡宮の縁起に曰く、
古門村は神代の昔、スサノオの命が高天原より出雲国に行く時の旧跡である。
十握(とつか)の剣スサオノの命を昔から祀る神社で、剣神社と号す。

これは?なんと!
スサノオの命が出雲の国に行く途中、ここを通ったって?
高天原から出雲に行くルートにこの神社があるというのです。
たった二行の文になんと沢山の情報が織り込まれている事でしょう。

ここと関わる『古事記』のあらすじはこうです。
スサノオの命は父親から追放されて、姉のいる「天」に行って、ウケイをします。
その時、十握剣を持っていました。それをアマテラスが三つに折って、そこから、宗像三女神が生れました。
ウケイに勝ったスサノオの命は、暴れまくって、ここも追放されます。そして、出雲へと向かいました。

この宮はこの十握剣と、その持ち主のスサノオの命を最初に祀っていました。
この祭神の組み合わせのポイントは、三女神がこの十握剣から生まれているという事です。

これに気づいてドキドキです。
何故かと言うと、この三女神は、この鞍手町の六ケ岳(むつがたけ)に降臨しているからです。
そして、移動しながら、現在の宗像大社に鎮座していきます。
「スサノオの命が高天原から出雲に行く途中」という事は、三女神は生まれたばかりになります。

ですから、縁起を言い換えると、この宮は宗像三女神の父親とその十握剣が祀られていて、
今、父親はここを通過して出雲に向かう途中の宮だという事になります。
勧請して来たのではないのですね。しかも宗像三女神のお膝元の話です。

ここは大変古い縁起を持つ宮でした。それだからでしょう。
この神社には幾世代にも渡って、剣に関わる歴史が刻まれて行きました。

次回は、さらにその後の由緒を追って行きましょう。

この話を理解するために、スサノオの命
『古事記の神々』に訳を始めたので、そちらも見て下さいね。
(つづく)

地図 古物神社 六ケ岳 宗像大社 八剣神社


右上の飛行機のアイコンを押せば、
灰色の所が昔の海だと分かりますよ。



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by lunabura | 2010-07-04 11:38 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(5)

古物神社(2)草薙の剣が降って来た・筑紫の天智天皇


古物神社(2)
草薙の剣がこの近くに降って来たという。
天智天皇は前年まで筑紫にいて何をしていた?

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神社誌を続けて読んで行きましょう。

剣神社の縁起に曰く、「天智天皇の御世に、僧・道行熱田神宮の神剣を盗んで、新羅に行こうとした時、剣がにわかにその袋を突き破って空に飛び去り、筑前の古門に落ちた。

その時、光が放たれて、数里四方まで輝いて見え、土地の人が驚いて見ると、剣だった。
みんなこれは神のものだと思って、穢れのないようにと、相談して小さな祠を作ってこれをおさめた。

朝廷がこれを聞いて草薙の剣だと分かり、使いの官吏を派遣して熱田に戻した。これよりその剣が落ちた所を「降物」と言った。剣が自ら降りて来たという意味で、今「古門」と言うのはなまりである。

剣は熱田神宮に戻ったとはいえ、神霊はなお古門に留まっていて、魔を払い、災いを消すということで、万民が崇敬した。」
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。

さて、この剣神社には、道行が盗んだ剣が落ちて来たという縁起が伝わっていました。
さすがに神剣らしく、空を飛んで来ています。
(草薙の剣の歴史と盗難事件の詳細は八剣神社の方に書いています。)

この由緒によると落ちた所を「降るもの」と呼び、「古物」の字が当てられて、
それがなまって「ふるもん」「古門」という地名になっていったようです。

この縁起には見逃せない背景がいくつかあります。
1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
2)「ふる」とは隕石を指す古語である。
3)奈良の石上神宮の地名も布留であり、どちらも物部氏の祭祀する所である。
という事です。一つずつ見て行きましょう。

1)天智天皇はこの前年まで筑紫にいた。
天智天皇(中大江皇子)の母は斉明天皇です。
斉明天皇は新羅と闘うために筑紫に来ていました。その流れを追ってみましょう。

        661年 母君の斉明天皇が福岡県朝倉で突然崩御される。
        662年 36歳の中大江の皇子は天智天皇となり、
              筑紫の那の津長洲の宮に遷都する。
                         (現在の博多港周辺) 
        663年 白村江で大敗する。
        667年 大津へ遷都する。
        668年 草薙の剣が盗まれる。

この時代の筑紫では日本と百済の連合軍vs新羅と唐の連合軍の戦いがあり、
日本が敗北した上に、百済からの難民があふれて、大変慌ただしい時代でした。
しかも、その間に天皇の突然の死と天智天皇の即位がありました。
WIKIでは、その当時の事は謎だと書いてあるのですが、筑紫の方では話が伝わっていました。

眞鍋大覚氏によると、
天智天皇は即位後、磐井氏が作った水城(みずき)に手を加えて、
筑紫の南北を通す運河にするために、大工事をしていたそうです。
このブログに何度も登場する針摺の瀬戸(はりずりのせと)の事です。

さらに、時計磁針づくりに取り組んでいました。
磁針とは細い磁石の事で、細戈(くわしほこ)と言います。
これで羅針盤が出来る訳です。
また、背振(せぶり)の葵祭を京にもたらしたのも、天智天皇だそうです。

こうして、天智天皇は敗戦後に、新たな文明を取り入れて、強固な国造りに取り掛かっていたのが伺えます。
新羅に対する防衛の基盤を整えてから、大津に遷都しました。草薙の剣が盗まれたのはその翌年です。

新羅へ逃走するにはここを通らずにはいられない?
さて、剣を盗み出した道行の話に戻りますが、彼は新羅へ逃走するのですが、どこを通ったのでしょうか。
船路にしろ、陸路にしろ、九州に上陸して博多方面に行かねばなりません。

さて、昔の遠賀川のイラストを見て下さい。
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(鞍手町「古月横穴」の資料を一部改変)
これを見ると現在の平地はほとんど海没しているのが分かります。
左下に古物神社があります。その北の虫生津がありますが、
神功皇后たちはここから上陸して、この古門神社に移動します。
昔はこのルートがあった訳です。この古門は、交通の要衝です。
道行もここを通らずにはおかれなかったはずです。

ところが、この地は天皇の軍隊であり、警察でもある物部氏の本貫地です。
敗戦した後ですから、まだ警備は厳しかったでしょう。

だから、道行がここで捕まった可能性は高いなと思いました。
そして、取り返された剣の保管地に剣神社が選ばれた訳です。
それを神剣らしく、光って降って来たと色付けされて伝えられました。

蛇足です。
奈良時代をあなどるなかれ!

この当時は平城京から全国へのまっすぐの道が作られていて駅家(うまや)が16キロごとに整備され、太宰府から都まで、「4日」で情報は伝わった。
(2009年11月24日放送 NHK『謎の古代の道』より)

奈良時代に、驚きの道路網がありました!

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境内の左奥にある「旧剣神社拝殿跡」です。

(つづく)



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by lunabura | 2010-07-03 11:34 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(2)

古物神社(3)「ふる」は「隕石」の古語。石上神宮の元宮か?


古物神社(3)

「ふる」は「隕石」の古語。
ここは石上神宮の元宮かもしれない

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それにしても、剣が空中から落ちて来て光ったとはねえ。ちょっと無理があるなあ。
その謎を解くヒントは「ふる」にありました。

2)「ふる」とは隕石のこと。

眞鍋氏によると、
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、
布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。
昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。
1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。
という事です。
この辺りの地名を「門、月、物」と並べると、
光が数里四方にまで見えたというのは、「ふる」すなわち隕石の落下を描写していると推測しました。

御神体が隕石だという神社は近くにもあります。
合祀する前には久保にあった剣神社も、もともと隕石が落下した場所だった可能性があります。
その隕石と、草薙の剣の事件が融合して、「剣が落ちた時、光が放たれた」という話になったんじゃないかな…。

3)奈良の石上神宮の地名も「布留」であり、
どちらも「物部氏」の祭祀する所だよ。


さて、最後の一文に注目!
石上布留魂大神の座所のゆえ、布留毛能(ふるもの)村と名付けた。
これがその一文です。
布留魂大神の上に石上(いそのかみ)が付きましたよ。石上布留魂大神…ここの神の名です。
石上って、奈良にあるのと同じだ!

石上神宮を辞書で引きました。
石上神宮
祭神は布都(布留)の御霊の剣。
この剣は神武天皇の大和平定に先立ち、天照大神が天皇に授け、物部氏がこれをまつって氏神としたと伝える。かつて本殿はなく、拝殿の奥の禁足地が神聖な霊域とされていた。社蔵に七支刀がある。
物部氏が代々祭祀に当たっている。後に石上と改姓した。

御祭神の名前については「布留と布都」と両方ありました。

「ふる」と「ふつ」が材料の違いなら、その違いは一般の人には分かりません。
だんだん混乱して行って、「ふるの御魂」とも「ふつの御魂」とも、なって行ったと考えられます。

注目するのは御祭神が鞍手も奈良も「布留御魂」であり、
物部氏が祭祀し、地名が布留だと言う点です。
明らかにこの鞍手郡の古物神社と奈良の石上神宮は深くつながっています。
ルーツはこの古物神社の方と思われます。

物部氏は石上に改姓しましたが、眞鍋氏によると、
「石上(いそのかみ)とは坩堝(るつぼ)の達人」を指すそうです。

神社誌はさらに、仲哀天皇と神功皇后の事も書いていました。
「宗像記」に、古物村にある西山八幡宮は仲哀天皇神功皇后、共に熊襲及び三韓征伐の時の行在所(あんざいしょ)である。

天皇、皇后が筑紫の岡湊から香椎宮に行かれた時、遠賀郡芦屋から船に乗って、同郡虫生津に御上陸、鞍手郡古門村にみ輿(こし)を留められた。
そこから白山嶺を越え、省木村三坂峠を過ぎて、宗像郡に移動された旧跡という事で、村民はここに祠を建てて奉斎している。

大変具体的に二人の辿ったルートが書かれています。
前回の地図に岡湊と虫生津と古物神社を書いているので見て下さい。
当時はこれが一番安全で確実なルートだったのでしょうね。
ここは筑紫と本州を結ぶ重要な邑だったのが分かります。

この神社は旅の貴人たちを泊める所でもあったのかもしれません。
その中から祭神として祀られる人も出て来ました。
後に、ここの神主になった伊藤常足が、この人里離れた宮に、
天皇たちが訪れた伝承があるのを不思議に思って、日本書紀の研究をし始めたのではないかと思いました。

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拝殿前の狛犬。

(つづく)



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by lunabura | 2010-07-02 13:42 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(8)

古物神社・物部氏は中東から来た星見の氏族


古物神社(4)

物部氏は中東から来た星見(ものみ)の氏族
物部氏を勉強しなきゃ…。(でも、ちょこっとだけね)

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物部氏と言う名はよく歴史の本に出てくるのですが、ルナはよく分かっていません。
そこで、この『ひもろぎ逍遥』で伺える姿だけ時代順にまとめてみることにしました。

馬見神社日若神社で分かった事は、
馬見物部氏が天皇家の祖先を祀り続けていて、
神武天皇が古遠賀地方にやって来た時に迎えに行って、
馬を提供して家に連れて行って、馬見神社まで案内したという事です。
神武天皇は東征の準備のためにやって来たと推測しました。

八剣神社ではヤマトタケルに行宮(あんぐう)を建てて援助しています。
この古物神社では、仲哀天皇と神功皇后を留めています。

これらはすべて戦争がらみなので、天皇家は物部氏に対して、
船、馬、武器、武人などの軍備を要請したと思っています。

物部氏と天皇家には深い関わりがあり、
祭祀、軍事力、水準の高い連絡網などがあるのが見えて来ました。
物部氏の天皇家を支える信念は半端じゃありません。

しかし、辞書を見ると、そんな深いつながりは見えて来ません。

広辞苑
物部
古代の大豪族。姓(かばね)は連(むらじ)。ニギハヤヒの命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴の連氏と共に最有力となって、族長は代々大連(おおむらじ)に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍とたたかって敗死。
律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。

同じ物部氏でも、大和地方と、この本貫地ではずいぶん違う顔に見えます。
忘れてならないのは彼らが祭祀をしていたという事です。
物部氏の流れである真鍋大覚氏が、本来の姿を書いています。

物部とは星見の氏族
物部氏と鞍手族について、一部現代語に変えています。
唐戸(からと)の星(ケフェウス座 アルデラミン)
肥前では韓比(からこ)と言い、肥後では倉戸(くらど)という。また、筑前で唐門(からと)と言い、豊前では鞍手(くらて)と言う。

水門・井堰の管理をして、昼夜をおかず水神に仕え、また舟運・灌漑の利をもって、その余沢に薪炭魚藻を納める氏族である。これを記紀では国栖(くず)、あるいは葛生(くず)と書いている。

曽我稲目
(そがのいなめ)は伊都郡と那珂郡の間に新開の土地を開き、筑紫の国造磐井と共に473年の洪水を修めたのであるが、神崎の物部氏那珂の中臣氏の間に水利の紛争が昂じて、552年の仏像を巡っての対立に及んだ。

葛生(くず)の氏族を「つづらみびと」と言った。星占の達人の家系であった。一般に「つづら」とは黄道から南天の星を見定める氏族であり、「かづら」とは黄道から北天の星を見取る氏族であった。

吉野は国栖(くず)の故郷であった。国栖は倭人に星占の方策を口授した氏族であった。歴代の天皇が吉野に行幸するときには、必ず国栖の長老が伺候して、講義をした。

物部氏は元来は星辰を祭る家系で、その先祖は近東にあった。いつのころか中臣の氏族と和睦して、背振の北と南を領有していたのである。

恒星に対して遊星、彗星は振れ動き、又、揺れ偏って、その位置が定まることがない。それを「ふれ」と言い、そのわずかな方向の差別を物部・中臣の両氏は「つづら」と「かづら」にわけて、その観測記録を撮り続けた。
物部氏は星見(ものみ)の家系であった。

あちこちに散らばっている文章を集めたので、理解しにくいのですが、びっくりする事ばかりです。

「くらて」「からと」とはケフェウス座・アルデラミンの和名で、
その星を信仰する氏族たちは、水利を管理する技術があった集団で、
それぞれの地でこのアルデラミンの和名を名乗り、それが地名となったという意味です。

「物部氏」については、福岡県と佐賀県の県境にある背振山の南、
佐賀県側にいて、南天の星座を観測していたと書いています。
福岡県の那珂(なか)の中臣(なかとみ)氏と和睦したり争ったりしています。
彼らは中東がルーツで、倭人に星占を教えています。

これらから、思うに、物部氏は背振山の南から、山沿いに馬見山の方に向かい、
遠賀川が奥深い入江であった時代に、馬見神社あたりに下りて来て
入江が陸地化するにつれて、下流に広がって行ったと思われます。
(馬見の縄文遺跡は彼らの遺跡かも知れません。)

何のために?
それはスズ鉄という古代鉄を生みだす葦の宝庫だったからです。
(これについては、また別項で検証しましょう。)

物部氏とは、本来は星を観測して、暦を作ることで天皇家をサポートする氏族で、
古代鉄の製造の技術もあることから、軍事的な力も持っていたと考えました。

物部氏が石上神宮で祭祀をするのも、それが本来の姿であるからなのですね。
物部氏が「軍事や刑罰を司る」という見方だけでは正しく理解していない事が分かります。

Wikiで物部氏を引くと「鞍手」の文字がありません。
これが物部氏論が迷路にはまっている理由だと思います。

物部氏の真の姿を研究をするには、この鞍手地から始めるべきであるし、
天文の研究と古代鉄と、縄文馬背振山の伝承。
これらを追求する事で実像に迫る事が出来ると思いました。
(古代馬は馬見神社・日若神社に少し書いてます。)

物部二十五部人と出身地 

『日本の神々 神社と聖地 九州』の奥野正男氏の文章にも
鞍手郡を中心とした地名と物部氏の関わりが書いてあったので、
ちょっと抜き書きしておきます。

          若宮町の芹田(せりた)    芹田物部
                都地(とち)      十市(とおち)物部
          小竹町の小竹(こたけ)    狭竹物部
          鞍手町の新北(にぎた)    贄田(にえた)物部
          飯塚市の新多(にいだ)    二田物部
          遠賀町の島門(しまど)    嶋戸物部
          宗像市の赤間          赤間物部
          北九州市の旧企救(きく)郡  物部
など物部二十五部人の居住地と見られる地名が残されている。

彼らの名前が出身地にちなんで付けられて、古里を離れて、日本の歴史の深い所で活躍したのが伺えます。

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次回は古代鉄にチャレンジするかな…。


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by lunabura | 2010-07-01 12:52 | 古物神社・ふるもの・鞍手郡 | Trackback | Comments(42)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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